朝鮮戦争は朝鮮半島の武力制圧を目論んだ
金日成
がソ連の支援を受けて開始したもので、兵站線を確保し武器弾薬や戦車などを大量投入したうえで38度線を突破して南侵を始めた、迎え撃つ韓国軍は武装解除された日本軍に所属した朝鮮部隊で構成されていたため、武器は最低限で戦車のなかったため、抵抗できずに釜山近くまで逃げ回った。
ただ、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し
虐殺・粛清
などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起も起きなかった。
こうした恐怖支配は毛沢東の紅軍や蒋介石の国民革命軍も行っており、情報統制により封殺されたため多くの国民は知る術はなかった。
また、ソウル会戦において猛攻を続けていた北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、突如として三日間進軍を停止するなど、謎の行動を取った。
これは軍事計画よりも進行速度が早く、兵站線が伸びてしまい武器弾薬や食料の補給が寸断・遅れ始めたことや、韓国領内の農民たちの蜂起を期待していたためともいわれる。
しかしこの時間を使って、総崩れとなっていた韓国軍は米軍の指揮の下で体制を立て直した。
マッカーサーの仁川上陸作戦の成功から、勢いづいた連合軍が中国国境近くまで押し戻したため、毛沢東が義勇軍を組織させて、チュグオク群を参戦させ、人海戦術で38度線近くまで押し戻した。
北朝鮮では7月27日を戦勝節、つまり戦争に勝った記念日として盛大に祝ってきた。
北朝鮮軍として朝鮮戦争に従軍した「戦争老兵」に対しては、北朝鮮当局は様々な優遇をしていると宣伝している。
現実は全く異なる様相でその実情を米政府系のラジオ・フリー・アジア(RFA)が報じた。
平安南道(ピョンアンナムド)の情報筋によると、今年の戦勝節は65周年で、北朝鮮で重要視される整周年(5や10で割り切れる年)にあたるため、例年より多くの関連行事が開催された。
先月25日には、女盟(朝鮮社会主義女性同盟)の講演会が開かれた。講演者は戦争老兵のことを
「白頭の革命精神」
を受け継ぎ、首領と祖国を守り抜いた思想と信念の強者と持ち上げた。
また、すべての女盟員は戦争老兵の精神を遺産として受け継ぎ、金正恩元帥様に忠誠を尽している、戦争老兵たちは党の懐の中で戦争老兵たちが何の心配もなく暮らしているとも述べられた。
ただ、最後のくだりで
「戦争老兵を実の祖父、父と考えて、彼らへの支援物資を送ろう」
という言葉がついていた。
まやかしの北朝鮮政府の体制において
「党の宣伝」
とは異なり、老兵たちは国からの福祉を全く受けられていないということを知らせたうえ、子どもたちが商売をしているのなら、食事の心配はしなくてもいいが、そうではない老兵たちは苦しい暮らしを強いられているということだ。
続けて、子どもに面倒を見てもらえず寂しく苦しい一人暮らしをする人、他人のトウモロコシ畑の番をしてわずかばかりの手間賃を受け取り掘っ立て小屋で生き長らえている人など、非常に厳しい状況に置かれた老兵の現状があるという情報が聞かれるともいう。
朝鮮人民軍では動員先の建設現場などでの事故が多発しており、障害を抱えたまま退役を余儀なくされる兵士が後を絶たない。
金正恩政権になってから老兵たちは平壌で開かれる戦争老兵大会に呼ばれるなど、金正日時代よりはいくぶん国から関心を持ってもらえるようになったが、それも大会期間中や戦勝節のときに行われる
カンパニア(キャンペーン)
で、市民に供出させたコメや油を分け与える程度に過ぎないものだという。
昨年の戦勝節には、戦争老兵の家庭訪問を行ったのは女盟主導だった。
今年は中央からの指示で市党(労働党の市の委員会)が主導しているという。
地元の党幹部が戦争老兵の家庭を訪問するが形ばかりで、期間が過ぎれば放置されてしまう表面的なものでしかない。
情報筋からは金正恩政権が
戦争老兵大会
を開くと宣伝しているが、そんな行事や勲章より、余生を穏やかに過ごせるような政策を優先させるべきと批判した。
栄誉軍人(傷痍軍人)は国からの厚い福祉のおかげでそれなりの暮らしを営めていたと宣伝されていた。
しかし、1990年代の
大飢饉「苦難の行軍」
を前後して、それらの福祉を停止し再開は放置されたままだという。
彼らは生き残るために、乞食となったり、彼らは障害の残る体を引きずり、町に出て商売をせざるを得なくなったと伝えた。
ひとこと
そもそも、金日成が率いた派閥は抗日パルチザン組織
東北人民革命軍
と呼ばれる軍事組織で小隊長として活動していたというが、日本軍との戦闘などで消耗し続けた。
1940年の秋、金日成は党上部の許可を得ないまま、独自の判断で、生き残っていた直接の上司
魏拯民
を置きざりにして十数名ほどのわずかな部下とともにソビエト連邦領沿海州へと逃れた。
日本が無条件降伏した時点で、金日成は朝鮮共産党内では弱小な派閥を率いており、米国統治下の南部に拠点を置いて
朴憲永
が率いていた朝鮮共産党からの離脱を目指した。
1945年10月10日、平壌に朝鮮共産党北部朝鮮分局が設置され、12月17日の第3回拡大執行委員会において金日成が責任書記に就任した。
金日成はソ連当局の支援を受けて北朝鮮の指導者となったが、金日成派は北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であったため、1970年代に至るまで金日成は権力を握るため、対立する者全てを粛清して権力を私物化しいった。
そのため、金日成個人が信任できる勢力が弱小であったため、初めは絶え間なく党内闘争を引き起こしては勝ち抜いており、朝鮮戦争時の戦闘員の多くが金日成が粛清した共産党幹部を支持していた将兵という構造がある。
そのため、功績を認めるだけで権力を奪われることがないような措置をしているに過ぎない。
こうした権力を奪い取る思考は、スターリンや毛沢東が行った粛清を見れば、革命時に貢献した者の大部分が粛清の対象というものでしかない。