2018年09月09日

「危険なサービス」の実態


  
 韓国大手メディアの東亜日報は、韓国で先月
   「私の男のひそかな私生活をすべて明らかにする」
との売り文句を掲げたインターネットサイトが開設され、有料で恋人や夫の
   風俗店の利用記録を調査するサービス
を提供しており、すでに600件以上の依頼が寄せられるなど、韓国で流行中の
   「危険なサービス」の実態
を報じた。

 このサービスでは調査してほしい人の
   携帯電話番号
さえあれば、その人の風俗店利用歴が分かるという振れこみ。


 これを受け、警察は同サイトの運営者が風俗事業主らがひそかに共有している
   顧客の携帯電話番号データベース(DB)
に接続し
   不法に取得した個人情報
を活用して資金を受け取ったとみて捜査を拡大している。

 当該サイトは、電話番号を送り
   3万ウォン(約3000円)
を振り込めば、風俗店名と利用日を教えてくれるシステムになっている。

 なお、メディアの取材に対して警察関係者は、当該サイトで提供する情報の真偽は確認されていないが、依頼人から料金を受け取って虚偽の情報を提供する可能性も排除できないと語ったとのこと。

 現在警察はサイト運営者の行方を追っているものの、サーバーが海外に設置されているため身元が確認できていないという。


 一方で、インターネット掲示板などには、当該サイトの利用に関する相談の書き込みが殺到しているという。
   



 

   
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文大統領の支持率が低下している主な原因は「経済」


 
 韓国ギャラップによる調査で
   文在寅(ムン・ジェイン)大統領
の支持率が就任後はじめて50パーセントを割り込んだ。
 
 ギャラップでは「最低賃金、雇用、所得主導成長、不動産市場の不安など、経済の悪化が最も大きな原因だ」と指摘。
 
 
 韓国大統領府の
   金宜謙(キム・ウィギョム)報道官
は記者会見で「現状を重く受け止めている。国民の声にもっと耳を傾けていきたい」とコメントした。
 
 北朝鮮を支援する文大統領の政治姿勢が遅々として進まない核兵器の廃棄問題が逆風となるなど、経済策より優先している北朝鮮への対応を批判する動きが広がっており、相次ぐ支持率低下に大統領府と与党・共に民主党ではいずれも超緊張状態にある。
 ギャラップが7日に発表した世論調査によると、文大統領を「支持する」との回答は先週の53パーセントから4ポイント低い49パーセントだった。
 
 これに対して「支持しない」は先週の38パーセントから4ポイント上がって42パーセントとなった。
 
 文大統領を支持しないとする回答が40パーセントを上回ったのも今回がはじめて。
 
 この結果、文大統領の支持率と不支持率の差も就任から1年4カ月ではじめて10ポイント以内に縮まった。
 文大統領の支持率は1回目の
   南北首脳会談
の直後の5月第1週の調査では83パーセントと今年の最高を記録した。
 
 前のめりで杜撰な交渉が影響し、4カ月で49パーセントへと34ポイントも下落したともいえる。
 
 文大統領の支持率下落は職業別では自営業者、所得階層別では最下層で最も目立った。
 なお、自営業者は不支持率が59パーセントで、32パーセントだった支持率の2倍近くに達した。
 
 また先週の調査と比較すると、支持率は42パーセントから32パーセントへと10ポイント下落した。
 
 
 所得最下層でも支持率は39パーセントで他の所得層に比べると最も低かった。今の政権が保護を掲げる
   社会的弱者
の間で支持率が大きく低下した。
 
 文大統領の支持率が低下している主な原因は「経済」だった。
 「大統領を支持しない理由」は「経済・国民生活問題の未解決」が41パーセントで最も多く、さらに「最低賃金」7パーセント、「不動産」6パーセント、「雇用」6パーセント、「過度な福祉」4パーセントなど、主に経済問題が上位を占めた。
    
   

 
   
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隗 囂


隗 囂(かい ごう)

    ? - 33年

 中国の新代から後漢時代初期の武将で政治家

 中国涼州天水郡成紀県(甘粛省静寧県)の出身
 叔父は隗崔、兄は隗義。子は隗恂、隗純。

 隴右に割拠した新末後漢初の群雄のひとり。
 蜀の公孫述と共に後漢を建国した
   光武帝(劉秀)
の統一事業に立ちはだかった人物でもある。
 
 若年時代は州郡で官吏を務めていた。

 新を建国した王莽の下で国師を務めた
   劉歆
に登用され、その属官となった。

 地皇4年(23年)、南陽郡で劉縯が宛を包囲した時に、王莽が赦令を下す使者72人の一人として長安を出発した。
 劉歆が叛乱の露呈によって自殺したため、その後、隗囂は郷里に帰った。


 更始帝(劉玄)が即位して、王莽が敗北したと聞き、叔父の隗崔、兄の隗義が、上邽の
   楊廣
や冀県の
   周宗
と共謀してこれに呼応し、兵を起こそうとした。

 こうした動きに対して、隗囂は「兵は凶事」として諫止したものの叔父の隗崔らは聞き入れず、平襄を攻撃して鎮戎の大尹(天水郡の太守)を討ち取った。

 その後、隗囂の声望が高く、また経書を良く読むことから、隗崔と楊廣はこれを
   上将軍
として推戴したものの、隗囂は辞退を繰り返した。
 その後、隗囂も要請に折れ、これを受諾している。


 頭領となった隗囂は、平陵(右扶風)出身の
   方望
を軍師として招聘した。
 方望は、人望を集めるため、漢室復興の大義を示すため
   「神道設教」
を行うことを進言した。

 隗囂もこれを容れて邑に東面して廟を建て、高祖(劉邦)、太宗(文帝)、世宗(武帝)を祀るなどした。
 これに伴い、隗囂は元号を漢復に改め、漢復1年(23年)7月付で漢室復興の檄を各郡国に発した。

 隗囂の下に兵士が参集し10万の大軍をもって周辺地域へ出撃した。
 雍州牧陳慶、安定大尹王向(王莽の従弟王譚の子)を攻め滅ぼした。

 同年9月に王莽が滅亡した頃には、隴西、武都、金城、武威、張掖、酒泉、敦煌の各郡が、隗囂の支配地域になった。
 

 漢復2年(24年)、長安の更始帝から隗囂、隗崔、隗義を招聘する使者が派遣された。
 方望の諫止を聞かずに、隗囂らは長安へ向かった。

 方望は、手紙を残して隗囂から去った。


 長安入りした隗囂は、更始帝から右将軍に任命された。
 同年冬、農民反乱軍
   赤眉軍
が関中に入ると隗崔と隗義が反逆して故郷に戻ろうとした。

 このため、隗囂は自ら更始帝にこのことを告げ、隗崔と隗義は誅殺された。

 一方、隗囂は更始帝からその忠義を賞賛され、御史大夫に任命されている。


 更始3年(25年)、赤眉軍が西へ向けて進軍し
   光武帝
が即位したと聞いた隗囂は、政事を劉氏の元老格である国三老
   劉良
に委ねるよう更始帝に進言したが、聞き入れられなかった。

 まもなく、衛尉大将軍張卬らが、更始帝を脅かして荊州に戻ろうと画策。
 隗囂もこの謀議に加わった。

 謀議が露見し更始帝の命を受けた執金吾
   ケ曄
に隗囂の屋敷が囲まれたものの、辛うじて長安を脱出した。

 天水へ帰還すると、隗囂は西州上将軍を自称した。
 同年9月に更始政権が滅亡すると、三輔の多くの士大夫は隗囂を頼って来た。

 隗囂の下には、谷恭、范逡、王元、王遵などの多くの名士が参集した。
 隗囂は、河西に割拠していた竇融らにも将軍印を授与し、これを傘下に加えた。
  

 建武2年(26年)、漢の大司徒ケ禹の部将
   馮愔
がケ禹に反逆し、天水へ向ったため、隗囂はこれを高平(安定郡)で撃破した。

 これによりケ禹は、隗囂に符節を与え、西州大将軍に任命したうえ、涼州、朔方郡の事務について専権を授与した。長安を占領していた赤眉軍が西進してくると、隗囂は部将の楊廣を派遣してこれを撃破した。


 建武3年(27年)、隗囂が光武帝に書簡を奉呈した。

 光武帝は、隗囂を字で呼び、対等の国君に対する儀礼をもって応じるという破格の厚遇で、これに報いた。


 同年、蜀の
   公孫述
の支援を受けた呂鮪が三輔へ進攻してきた。

 隗囂は征西大将軍馮異と協力して呂鮪を撃破し、光武帝から更なる礼遇が加えられた。

 公孫述は隗囂に大司空扶安王の印綬を授けてこれを取り込もうとした。
 隗囂はその使者を斬り、公孫述の軍を度々撃破した。


 光武帝が蜀攻略を隗囂に持ちかけると、隗囂の態度は消極的であった。

 本心では隗囂は天下統一を望まず、光武帝と公孫述の両雄を並存させたうえ
   漁夫の利
を得ることを願っていた。

 光武帝もその意図を見抜いたため、次第に隗囂を冷遇し、対等の国君の礼から、通常の君臣の礼へと格下げした。


 隗囂と仲が良かった来歙、馬援から来朝の呼びかけもあり、子の
   隗恂
を人質として光武帝の下に送った。

 隗囂は腹心である王元などの勧めもあり、次第に自立の動きを模索するようになった。
  

 建武6年(30年)、公孫述が荊州南郡へ進攻したため、光武帝は隗囂に蜀進攻を命じた。

 この命令に対して、隗囂は様々な理由をあげてこれを受け容れなかった。


 光武帝は隗囂に
   示威行動
で臨み、自ら長安に移り、建威大将軍
   耿弇
ら7人の将軍に隴西経由による蜀侵攻を行わせた。

 こうした戦略への参加に対しても、隗囂は光武帝からの蜀征伐参加の要請を拒絶した。
 光武帝に叛旗を翻して、緒戦は隗囂が耿弇らを撃退したが、続く部将の
   王元、行巡
による三輔攻撃は失敗に終わった。


 隗囂と光武帝の最後の和平交渉が決裂したのちに、隗囂は公孫述に服従の使者を送った。

 翌建武7年(31年)、朔寧王に封じられている。

 一方で、光武帝への傾斜を強めていた河西の
   竇融
らは、隗囂から授与されていた将軍印を破棄して、隗囂陣営から離脱した。
 

 馬援・来歙が、隗囂軍を次々と切り崩した。
 政略によって隗囂の腹心
   王遵
や第一城(安定郡高平県)を守備する
   高峻
らを引き抜いた。

 また、建武8年(32年)春に略陽(天水郡)を奇襲攻撃して占領した。

 そして、光武帝が親征すると、河西の竇融、梁統らが軍を率いてこれに合流した。
 王遵が元の同僚の
   牛邯
を投降させたのちには、隗囂配下の13人の大将、16県、10数万人の兵士が尽く投降した。


 隗囂は光武帝の降伏勧告を拒否したため、故に人質となっていた隗恂を光武帝が処刑したため、徹底抗戦した。

 その後は、呉漢、岑彭、耿弇ら漢軍に攻められ、隗囂は西城(隴西郡)に追い込まれ、包囲された。

 3ヶ月籠城戦に耐え、王元が引き連れてきた公孫述の救援軍の製円を受け、隗囂は包囲を脱し冀県へ退却した。

 さらに、漢軍が兵糧不足から退却したことで、安定、北地、天水、隴西の各郡も一応、再び隗囂に帰順した。


 建武9年(33年)春、隗囂は病の上に飢えて、城外で乾燥食糧を食すると、憤怒の余り死去したとされる。

 その後も、王元らが隗囂の遺児
   隗純
を擁立して抗戦したが、翌建武10年(34年)、落門聚(天水郡冀県)で来歙らに破れ、隗純らは漢に降伏した。
 なお、王元は蜀の公孫述の下へ逃亡した。

 建武18年(42年)、隗純は賓客と漢を逃亡し、胡族と結び、武威郡に至ったが、追撃兵に捕縛され処刑されている。
  
  
 
    
    
posted by manekineco at 05:55| Comment(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

支援金狙いの南北会談に意味はない。

 
 
 韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領
の特使として平壌を訪問した青瓦台(大統領府)の
   鄭義溶(チョン・ウィヨン)国家安保室長
は訪朝から一夜明けた6日、文大統領と北朝鮮の
   金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長
の首脳会談が18〜20日、平壌で開催されると発表した。
 
 両首脳が会談するのは4月27日、5月26日に続いて3回目となる。
 
 また、韓国大統領の平壌訪問は2007年10月の盧武鉉大統領以来となる。
 
 
 北朝鮮の非核化措置や朝鮮戦争(1950〜53年)
   終戦宣言
をめぐり行き詰まる米朝関係の進展につなげられるかが焦点。
 
 
 鄭室長の記者会見によると、特使団は5日、金委員長と会談し、文大統領の親書を手渡した。
 金委員長はその際
   完全な非核化
に向けた確固たる意思を再確認し、南北間はもちろん米国とも
   緊密に協力
していく意思を表明したという。
 
 また、金委員長はトランプ米大統領の1期目の任期が終わるまでに非核化を実現したいとの考えも明らかにした。
 
 
 特使団は、5日午前9時に韓国空軍の特別機で平壌の空港に到着した。
 なお、同日午後9時40分にはソウルに戻った。
 
 南北は首脳会談準備のため、来週初めに板門店で警備などに関する準備会談を開催する。
 
 
 北朝鮮国営の朝鮮中央通信は6日、金委員長が韓国特使団と会見し、南北首脳会談の日程と議題について幅広く意見交換して、満足な合意を見たと報じた。
 
 
ひとこと
 
 2000年6月13日から15日まで韓国の
   金大中大統領
と北朝鮮の
   金正日国防委員長
が朝鮮民主主義人民共和国の首都平壌で第1回南北首脳会を行い
   6.15南北共同宣言
が発表された。
 
 これは、金大中による対北宥和政策、太陽政策による成果と言えるものだが、金正日国防委員長は直前の2000年5月に最高指導者就任後の初外遊で中国を訪れ中国共産党総書記の
   江沢民
と南北首脳会談の事前協議を行っている。
 
 その後、離散家族の再会事業、大韓民国主催のスポーツ行事へ北朝鮮が参加するなど、民間レベルでの交流事業が本格化した。
 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件、米国のジョージ・W・ブッシュ大統領が反米的な活動を繰り返す組織や国家に対して
   「悪の枢軸発言」
をして以降、米国による
   北朝鮮敵視政策
が明らかになると、南北首脳会談で生まれた協調ムードは再び緊張し、北朝鮮の目論見は霧散しかけた。
 
 このような圧力政策に押された北朝鮮は日本との関係改善に活路を見出そうと、2002年9月に
   日朝首脳会談 (2002年)
を実現させた。
 
 なお、2003年2月には、南北首脳会談の直前に現代グループの手によって
   5億ドルや4億ドル
とも言われる
   違法な巨額の送金
が北朝鮮に対してなされていた事実が判明した。
 
 この資金は中国の北京・マカオ・香港を経由して
   金正日国防委員長
とその長男の
   金正男
や側近の
   張成沢
に渡ったとされている。
 
 これは送金の時期的に
   南北首脳会談の対価
として北朝鮮側に渡された可能性が高い。
 
 韓国の特別検察官による捜査が開始されたが、捜査期限延長を
   盧武鉉大統領
が許可しなかったことにより真相解明は中途半端なものとなった。
 なお、北朝鮮に提供された裏金の行方が金正恩政権での張成沢の処刑や金正男の暗殺の背景ともいわれている。
 
 また、現代グループの現代建設の社長
   李明博(日本名 月山明博)
は第17代韓国大統領となったが、任期があと1年になる頃から日本の歴史認識について、意図的に大きく問題視し出して対日態度を硬化させ、これに大統領の意向で韓国側が故意に竹島問題を絡ませた上に韓国による天皇謝罪要求するなどエスカレートさせ、大統領として初めて竹島に上陸するなどのパフォーマンスで、大統領任期後の逮捕を免れようとした。
 
 李明博の大統領在任中に国家情報院より上納金を受け取り、事実上のオーナーを務める会社の訴訟費をサムスングループに肩代わりさせるなど
   合計 110億ウォン
にも及ぶ収賄疑惑が持たれた。
 
 2018年3月14日の検察による取り調べにおいて国家情報院からの裏金を受け取るなど一部の容疑を認めた。
 同3月22日深夜に逮捕され]、4月9日に起訴された。
 
 なお、韓国の大統領経験者が逮捕されるのは4人目となる。
 こうした素行の怪しい大統領が韓国では選ばれ、日本への敵視政策が繰り返されている。
 外交的な合意も過去の状況を見れば無意味となり、無駄な努力が行われているに過ぎない。
 
 朝鮮有事においても信頼性は乏しく、避難民に対して受け入れる必要はさらさらない。
 そもそも、日韓併合もロシア帝国が南下する動きに対して大韓帝国の開明派が仕組んだものであり、日本が李氏朝鮮の韓国を併合して、産業振興や義務教育、衛生水準の向上などを日本国内と同様に進めてやる必要などなかった。
 
 大英帝国や米国、フランスなど欧米諸国同様の植民地政策をすれば経費を掛けることもなく、植民地からの利益を得ることが出来ただろう。
   
   
 
 


    
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