2019年12月14日

勝手な解釈で歴史を捏造する韓国


 
 韓国ソウル市が北朝鮮・ロシアと共同で
   李舜臣(イ・スンシン)将軍
     1545年4月18日明暦: 嘉靖24年3月8日)
          −1598年12月16日(明暦: 万暦26年11月19日)
の北方遺跡発掘を推進することが分かった。

 文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍の補給部隊と戦い活躍したが日本軍本体との激突は避けており、順天城の戦いで激突したが水陸両面で明・朝鮮軍は甚大な被害を出すなど苦戦が続き、厭戦気分が蔓延し、豊臣秀吉がなくなったのちに講和し、明・朝鮮軍は撤退を開始したが、撤退する日本軍を殲滅するため、約束を破り突然追撃したため、反撃され、明軍では副将ケ子龍が戦死、朝鮮軍では主将の李舜臣が島津兵の鉄砲の弾丸を受けて戦死した。


 韓国では李舜臣が救国の英雄として史実とは異なる戦果が強調されている。
 最期は露梁海戦で戦死し、死後に贈られた諡は忠武公。

 史実を捏造して戦果がより強調された現在のロシア沿海州一帯など陸地での戦闘では女真族の支配地域であり加藤清正軍の進軍が早すぎて兵站線が伸びきったことで、攻撃力が弱まり女真族との戦闘が膠着し、撤退したのだが「勝利を収めた」として李舜臣将軍の432年前の足跡をたどろうという計画という。


 ソウル市は来年3月から南北歴史学者協議会を支援し、李舜臣将軍の鹿屯島戦闘遺跡を発掘すると8日、明らかにした。
 「東国輿地勝覧」と「高宗実録」に記録されている鹿屯土城や朝鮮人村の遺跡などを探し出そうというもの。

 豆満江下流にあったとされる鹿屯島は現在、ロシア沿海州ハサン地域にあると推定されている。
 李舜臣将軍は壬辰倭乱直前の1587年、咸鏡道造山(現在の羅先)の万戸(初級将校)兼鹿屯島屯田官(地方軍事土地管員)を務め、女真と戦ったと伝えられている。
 その年、女真の襲撃を受けて敗戦し官吏を罷免された。

 翌年の鹿屯島戦闘に白衣従軍(一兵士として従軍)し大勝して復帰した。
 なお、羅先にはこれをたたえる功績碑「戦勝台碑」がある。

 鹿屯島は朝鮮時代の世宗大王のころは李氏朝鮮の領土だったが、1860年に清とロシアが結んだ北京条約で沿海州と共にロシア領土に編入されていると主張した。
 それ以前は、モンゴルなど多くの民族の往来があり李氏朝鮮の領土ではない。

 その後も朝鮮人たちが村を作って暮らしていたが、1937年以降、中央アジアに強制移住させられた。
 ロシア調査団が昨年、朝鮮人村の跡を発見したことから、本格的に発掘に関する協議が始まったとしている。
   

   
posted by manekineco at 05:28| Comment(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする