ニックネームのヤポンチク(Япончик、「日本人の坊や」の意味)は、顔立ちがいささか日本人を思わせたということから付いた。
ソビエト連邦のグルジア共和国でロシア人の両親のもとに生まれ、モスクワで育った。
青年期はアマチュア・レスラーであった。
本人いわく「ある女性の名誉を守るため」としている、バーでの喧嘩によって初めての服役を経験した。
刑期を終えて釈放後は犯罪活動に手を染めるようになり、闇市で物品を売りさばいていた。
その後、組織犯罪に加わるようになり、警察の書類を偽造して家屋に侵入する強盗を行っていた。
1974年、ブトィルカ刑務所(Butyrka prison)にて犯罪者仲間から
「ボール・フ・ザコーネ」(vor v zakone、規律ある泥棒)
の称号を与えられたという。
1982年には小火器や偽物、麻薬の密売の容疑で逮捕された。
懲役14年を宣告されたが、1991年には釈放されている。
これについては有力政治家の関与やロシア連邦最高裁判所の裁判官への賄賂により刑期が短縮されたという。
1992年3月、10年近くの服役経験や、ロシアで最も凶暴で残虐な犯罪者との評価を受けたが、米国への移住が認められた。
イタリア系犯罪組織などのように最高指導者が命令を下すコーザ・ノストラ等の暴力団とは異なり、イヴァニコーフは自ら出向いて強奪を行った。
なお、米国には映画産業で働くという名目で、通常の就労ビザで渡米した。
渡米の理由ははじめは明らかではなかったがロシア内務省は米国の連邦捜査局(FBI)に対して、イヴァニコフは米国におけるロシアン・マフィアの活動をまとめ、支配するために渡米したと情報を提供した。
しかし、ノヴォイェ・ルスコイェ・スロヴォ(ru:Новое русское слово)紙の記者アレクサンドル・グラントが1994年に語ったところによると、ロシアでは「イヴァニコフの嗜好を尊重しない新しい犯罪組織」があるためにロシア国内では彼自身にとって危険すぎること、他方で米国では犯罪活動の実績がないことが渡米の理由としているとした。
しかし、イヴァニコーフはアメリカ合衆国で犯罪活動を始めたことから、こうした見方は正しくないことがやがて明らかになった。
その具体的な活動については諸説ある。
ブライトン・ビーチ(Brighton Beach)を拠点とするイヴァニコーフの組織は100人程度の構成員をかかえ、ブルックリン随一のロシア系犯罪組織となっていた。
ただ、系統的に暴力や買収を行ったり、裏社会を牛耳ったり、組織犯罪機構を作り上げようとした証拠は把握されていない。
1995年6月、2人のロシア人実業家が運営する
投資顧問業者
から数百万円の依頼を受けて
暗殺を実行
したとしてFBIに逮捕され、1996年6月には2人の協力者と共に有罪判決を受けた。
この取調べの中でイヴァニコフは、FBIがロシア部門の重要性を主張するために、ロシアン・マフィアについての虚構を作り上げているとして非難した。
更に、「ロシアは休みなき犯罪の温床」であり、その中核を担う犯罪者は
クレムリン
ロシア連邦保安庁
であり、イヴァニコーフがロシアン・マフィアと称されるものの指導者であるとする考え方をばかげていると否定した。
2004年7月13日、1992年にモスクワのレストランで2人のトルコ人が殺害され後に騒動に発展した。
この件に関して、殺人の容疑をかけられたため、ロシアに強制送還された。
2005年7月18日に裁判官は容疑を認めず、同日に釈放された。
なお、警察官を含む証人たちは、被告を見た覚えはないと証言した。
タブロイド紙ソヴェルシェンノ・セクレトノ(Совершенно Секретно)の主力犯罪記者
ラリサ・キスリンスカヤ(Лариса Кислинская)
は、イヴァニコフが有力者とみなされるのは刑務所内だけのことであり、自由の身では敬意を得ることはないだろうとの見方を示した。
2009年7月28日、モスクワの時間で19時20分ごろ、イヴァニコフはモスクワのホロシェフスコエ通り(Хорошевское)のレストランを去る際に銃撃を受けた。近くの駐車場から狙撃銃が捨てられているのが見つかった。
これによって2009年10月9日に死去した。