皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)で皇子女としてオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子がいる。
アレクサンドル皇太子(ロシア皇帝アレクサンドル2世の次男、後の皇帝アレクサンドル3世)とその妃マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第2王女)の間の長男として、サンクトペテルブルクに生まれた。
17歳(1885年)の時から帝王学を受け、高名な法学者でロシア正教聖務会院
コンスタンチン・ポベドノスツェフ
から民政法、元大蔵大臣ニコライ・ブンゲから政治経済学、メール将軍とドラゴミロフ将軍から軍事学を学んだ。
19歳でプレオブラジェンスキー近衛連隊に入隊、フッサール近衛軽騎兵連隊や軽騎兵砲兵隊にも配属された。
両親の勧めで1890年10月から1891年8月にかけて世界各地を旅行した。
旅行の中心地はイギリスとロシアが勢力圏争いをしている極東だった。
ニコライ皇太子に弟ゲオルギーが同行した。
1891年4月27日にニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦が長崎に寄港して以降5月19日まで日本に滞在した。
日本政府はこの未来のロシア皇帝を国賓待遇で迎え、その接待を念入りに準備した。
各休憩所で出される茶菓子の吟味にまで及んでいたという。
公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった
有栖川宮威仁親王(海軍大佐)
が任命された。
また、岩倉使節団の留学生としてロシアに10年滞在しロシア女性と結婚した万里小路正秀が通訳を務めた。
日本政府は復活祭を配慮して5月4日までニコライの予定を組まなかった。
その間もニコライはお忍びで長崎の町を探索したという。
ニコライは長崎の印象について日記の中で「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を与えてくれる。掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの家の中に入るのは楽しい。日本人は男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正反対だ。」という感想を書いている。
ニコライは5月9日、瀬戸内海を通過して神戸に寄港し、そこから汽車で京都へ向かった。
5月10日に大宮御所、京都御所、二条離宮、東本願寺、西本願寺、賀茂別雷神社などを訪問した。
5月11日、大津に入り、琵琶湖の遊覧や園城寺、唐崎神社を見学したが同日、大津から京都へ戻る際、滋賀県警察部所属の
警察官津田三蔵巡査
が人力車に乗っていたニコライ皇太子にサーベルで斬りかかり、彼の右耳上部を負傷させた。
ただ、切り傷そのものはそれほど深くなかったものの、重いサーベルによる斬撃を受けたため頭蓋骨に裂傷が入った。
これ以降ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになったという。
有栖川宮威仁親王から電報で事件の報告を受けた明治天皇はただちにニコライ皇太子を見舞うために京都へ行幸した。
常盤ホテル(現在の京都ホテルオークラ)でニコライ皇太子と面会し、皇太子への同情と事件への怒りを表明した。
犯人はただちに処罰される旨を確約した。
ニコライ皇太子は父帝アレクサンドル3世の指示に従って東京訪問を中止し、5月19日をもって帰国の途についた。
残念がった天皇はニコライ皇太子を神戸御用邸での晩餐に招待したが、ニコライ皇太子は拝辞し、代わりにロシア軍艦上での晩餐に天皇を招待した。
天皇はこれを快諾したが、閣僚たちが反発した。
1882年に李氏朝鮮で大院君が清に船で拉致された事件を引き合いに出した。
天皇は「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなにゆえに汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか」と反論し、予定通りロシア軍艦の晩餐に出席した。天皇は改めてニコライ皇太子に謝罪し、それに対してニコライ皇太子は「どこの国にも狂人はいる。いずれにしても軽傷であったので陛下が憂慮されるには及ばない」と返答した。
安堵した天皇はニコライ皇太子と談笑に及び、親密な空気の中で別れることができたという。
ロシア宮廷やロシア政府にも伝わったが、日本政府が心配したようなロシア軍の軍事行動は起こらなかった。
ロシア外相ニコライ・ギールスとしては、日本の裁判所が津田に死刑判決を下したところでロシア皇帝が減刑嘆願を行い、そのおかげで減刑されるという解決方法が両国の親善に最も良いと考えていた。
このため、日本裁判所が津田に死刑判決を出さなかったことに不満を抱いたという。
しかしアレクサンドル3世は天皇が直接謝罪したことを高く評価し、日本政府の取った処置にも満足の意を示していたという。
事件以来ロシアの新聞は「皇太子殿下を守ったのはゲオルギオス王子であり、日本人は傍観しているだけだった」といった反日記事を載せ続けたため、ロシアで反日世論が高まった。
天皇がニコライのお見舞いをしたことを知ったロシア政府は報道管制を敷いて、反日報道を止めさせた。
日本では津田と他の日本人全般を区別する発言をしていたニコライだったが、この事件に遭遇して以降、彼は日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになった。
ロシア首相セルゲイ・ウィッテはニコライ皇太子の日本人蔑視が後の日露戦争(とその敗北)を招いたと分析している。