2024年04月01日

与党の地方選敗北後にトルコ・リラが下落し終値ベースで最安値の方向

 トルコ・リラは1日の取引で下落した。
 エルドアン大統領の与党が前日の地方選挙で衝撃的な敗北を喫したことが背景にある。
 首都アンカラや最大都市イスタンブールを含む多く都市で市政の主導権を野党が握った。
  
 リラはイスタンブールの午前10時8分(日本時間午後4時8分)現在、0.2%安の1ドル=32.4295リラで、このままいけば終値ベースでの最安値となる。
 多くの欧州市場はイースター(復活祭)の休暇のため薄商いとなっている。
 リラは今年約9%安と、新興国通貨の中でチリ・ペソに次いで2番目に大きな下落率となった。
  
  
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西側諸国が2022年に対ロシア制裁を発動して以来、米国の原油輸出は月間ベースの記録を5回更新

 米国の石油企業は石油輸出国機構(OPEC)と非加盟産油国で構成する「OPECプラス」がかつて支配していた市場にロシアやベネズエラ産原油に対する
   制裁措置の恩恵
を受け食い込んでいる。

 西側諸国が2022年に対ロシア制裁を発動して以来、米国の原油輸出は月間ベースの記録を5回更新した。
 ベネズエラに対する貿易制限が4月に延長される見通しの中、制裁対象国の原油において屈指の輸入国であるインドでは、米国産の原油が取って代わりつつある。

 こうしたシフトは、米国産原油の世界市場シェア獲得に制裁措置が大きく寄与していることを浮き彫りにしている。
 ロシアのウクライナ侵攻を受けてエネルギーの流れが一時混乱し、米国産原油に新たな吸引力が生まれた。
 同侵攻後に欧州とアジアへの出荷が急増し、米国は世界有数の原油輸出国に転身した。

 OPECプラスが供給量を抑制している中で、米国の生産が記録的な水準に上っていることも、米国の産油企業が国外市場で消費先の組み換えが進んで足場を拡大する一助になっている。
 原油現物価格はこれを反映しており、ヒューストンのウェスト・テキサス・インターミディエート(WTI)は昨年10月以来の高値近辺で取引されて莫大な利益が転がり込んでいるほか、別の米原油指標であるマーズの価格もそれほど離れていない。

 第3位の原油輸入国であり、ロシア産原油の買い手としては中国に次ぐ2位のインドで、直近では米国産原油の流入が見られる。
 
 データ分析会社ケプラーによると、インドへの米輸出は3月に急増しほぼ1年ぶりの高水準になる見通しと明らかにした。

  
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中国住宅販売は政府のテコ入れも不発で、3月も前年同月比46%減と好転の兆しなどが見えない

 中国の住宅販売は3月も不振が続き、強く望まれている好転の兆しはまだ見えていない。
 中国房産信息集団(CRIC)の速報データによれば、不動産大手100社による3月の新築住宅販売額は
   3580億元(約7兆5000億円)
と前年同月比ー46%の減少となった。
 なお、2月は60%の減少で減少率は低下するも反転の動きはない。

 中国の習近平政権によるゼロコロナ政策に伴う経済の歪が隠せず、長引く不動産販売不振は、国内大手建設業者の多くを圧迫し、不良債権が膨れ上がるにつれてシャドーバンクを含め大手国有銀行のバランスシートを悪化させている。
 
 中国政府は中国共産党政府の幹部の懐に金を流し込むための仕組みの破綻目前であることから、銀行に対し、国内経済を活性化させるだけでなく、負債を抱えた不動産開発会社を支援するよう命じている。

 かつて中国最大の不動産開発会社
   碧桂園
は3月28日、2023年通期決算を期限内に発表できないと通告した。
 また、一時は上場不動産開発最大手だった万科は2023年通期の純利益が46%減少したと発表し、アナリストの予想以上に落ち込んだ。

 CRICによると、中国では3月は伝統的に住宅販売が急増する時期で、政府のテコ入れの影響もあり、前月比では93%増加したが、それでも昨年第3四半期と第4四半期の月平均を下回ったままだ。

 CRICは住宅市場がすぐに回復する可能性は低く、不動産開発業者の契約販売への圧力が続くと警告した。
 4月の販売額は前月比横ばいか微増にとどまると予測している
  
 もともと、販売後に内装等を行うシステムの中国で物件の引き渡し自体が遅れ、建設途中で中断している物件が多数あることも問題であり、購入者の不満も爆発し抗議活動が広がっている。
 そのため、販売額が増えたとしても物件自体は購入者に引き渡されていないメースが大部分という惨状だ。

  
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自由主義的な思想を持った者を排除する手法のひとつ香港政庁の国家安全条例は人の口を無理やり塞ぐ手段

 香港政府は3月8日、香港基本法(ミニ憲法に相当)23条に基づく
   「国家安全条例(Safeguarding National Security Bill)」
の草案を香港議会に提出し、予想より早く3月19日に法案を可決、23日に施行された。
 もともと、香港議会は親中派が議席のほとんどを占め、共産主義の本質でも有る党の意向に従うという上意下達の選挙であり、立候補もあらゆる手段を駆使して自由主義的な思想を持った者を排除する手法が、中国政府の名ばかり自由選挙が行われた。

 20年6月30日に中国本の全国人民代表大会(全人代)が主導し「香港国家安全維持法(国安法)」が制定され、この条例はそれを補完するものだ。
 なお、法違反の最高刑は終身刑で、域外適用されるため、日本人が日本で行った行為が香港で違法であった場合に香港を訪れた時にも適用される可能性も可能となるリスクが有る。

 この香港基本法23条は、国家への反逆、分裂、反乱の扇動、国家機密の窃取、外国の政治組織や団体の香港での政治活動などを禁じる法令を香港が自ら立法しなければならないとし、その規定に沿って法制化作業が進められてきた。
 ただ、条文が曖昧でレッドライン(越えてはならない一線)が不明瞭だったため18年には香港市民が反発して各地でデモが発生した。
 香港の中国返還記念日である同年7月1日に50万人規模のデモ(主催者発表)が行われるなど同年9月5日に撤回した。
 香港市民にとっては「民意で政治を動かすことができる」という成功体験となり、14年の雨傘運動や19年の約200万人(主催者発表)を動員したデモにつながっていった。
 その後、政治家も官僚もトラウマになったのか法制化への動きは鈍く見えたが、公安部門を中心に反中国的な活動家を根こそぎ情報を収集する工作が続けられてきた。 
 情報収集が完了したことで20年の国安法制定した。
 19年のデモに衝撃を受けた中国政府は23条立法の法制化に腰が引けたように装った(装わせた)香港政府を横目に自分たちで国安法を作り攻勢に出た。
 国安法ではすべてをカバーしきれないが、恣意的な取り扱いが可能なものであり、23条の立法化も中国政府の意のままに作り変えていく事が可能となるため、部分的には依然として重要にも見えるが、元々、憲法の上に中国共産党が座しており、単なる言葉の羅列でしかないのが実態だろう。
   
    

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イスラエル首相が停戦への圧力高まる中、ヘルニア手術で入院?

 イスラエルのネタニヤフ首相は31日夜、ヘルニアの手術を受けるため入院する予定ということが明らかになった。
 イスラム組織ハマスとの停戦や人質解放での合意に達するよう、イスラエル政府への圧力は強まっている状況での出来事だ。
 ネタニヤフ氏は同日夕に記者会見も開く計画だと、同国の首相府は明らかにしたが、それ以上のの詳細は示していない。
 イスラエルとハマスは31日にカイロで新たな一連の協議を開始する予定だと、エジプト国営テレビ局は30日に報じていた。
 
ひとこと
 ネタニヤフ氏に対する汚職問題で司法制度を事故に都合の良い様に変えようと工作し、ハマスの急襲前にはイスラエル国内で大規模なデモが起きており、都合よく病院に入ろうとしたようにも見える。
 また、政権に与党内でも宗教政党に対する徴兵回避の特権的な取り扱いに対する反発などの問題も起きており、政権自体が瓦解しかねない中での出来事だ。
 
   
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ニコライ2世(Николай II ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ) ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝

ニコライ2世(Николай II ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ)
   1868年5月18日(ユリウス暦5月6日)
       ー1918年7月17日(ユリウス暦7月4日)
 ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 - 1917年3月15日)
 皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)で皇子女としてオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子がいる。
 なお、イギリス国王ジョージ5世は従兄にあたる。

 日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧して
   ロシア革命
を招き、1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども銃殺された。
 なお、ロシアにおいて、皇帝は宗教的な指導者としての性格も強いため、正教会の聖人(新致命者)に列せられている。

 アレクサンドル皇太子(ロシア皇帝アレクサンドル2世の次男、後の皇帝アレクサンドル3世)とその妃マリア・フョードロヴナ(デンマーク王クリスチャン9世の第2王女)の間の長男として、サンクトペテルブルクに生まれた。
  
 17歳(1885年)の時から帝王学を受け、高名な法学者でロシア正教聖務会院
   コンスタンチン・ポベドノスツェフ
から民政法、元大蔵大臣ニコライ・ブンゲから政治経済学、メール将軍とドラゴミロフ将軍から軍事学を学んだ。
 19歳でプレオブラジェンスキー近衛連隊に入隊、フッサール近衛軽騎兵連隊や軽騎兵砲兵隊にも配属された。
 
 両親の勧めで1890年10月から1891年8月にかけて世界各地を旅行した。
 旅行の中心地はイギリスとロシアが勢力圏争いをしている極東だった。
 ニコライ皇太子に弟ゲオルギーが同行した。
 1891年4月27日にニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦が長崎に寄港して以降5月19日まで日本に滞在した。
 日本政府はこの未来のロシア皇帝を国賓待遇で迎え、その接待を念入りに準備した。
 各休憩所で出される茶菓子の吟味にまで及んでいたという。

 公式の接待係には、イギリスへの留学経験があり当時の皇族中で随一の外国通であった
   有栖川宮威仁親王(海軍大佐)
が任命された。
 また、岩倉使節団の留学生としてロシアに10年滞在しロシア女性と結婚した万里小路正秀が通訳を務めた。
 日本政府は復活祭を配慮して5月4日までニコライの予定を組まなかった。
 その間もニコライはお忍びで長崎の町を探索したという。
 ニコライは長崎の印象について日記の中で「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を与えてくれる。掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの家の中に入るのは楽しい。日本人は男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正反対だ。」という感想を書いている。
 ニコライは5月9日、瀬戸内海を通過して神戸に寄港し、そこから汽車で京都へ向かった。
 5月10日に大宮御所、京都御所、二条離宮、東本願寺、西本願寺、賀茂別雷神社などを訪問した。 

 5月11日、大津に入り、琵琶湖の遊覧や園城寺、唐崎神社を見学したが同日、大津から京都へ戻る際、滋賀県警察部所属の
   警察官津田三蔵巡査
が人力車に乗っていたニコライ皇太子にサーベルで斬りかかり、彼の右耳上部を負傷させた。
 ただ、切り傷そのものはそれほど深くなかったものの、重いサーベルによる斬撃を受けたため頭蓋骨に裂傷が入った。
 これ以降ニコライは終生、傷の後遺症と頭痛に苦しむようになったという。

 有栖川宮威仁親王から電報で事件の報告を受けた明治天皇はただちにニコライ皇太子を見舞うために京都へ行幸した。
 常盤ホテル(現在の京都ホテルオークラ)でニコライ皇太子と面会し、皇太子への同情と事件への怒りを表明した。
 犯人はただちに処罰される旨を確約した。

 ニコライ皇太子は父帝アレクサンドル3世の指示に従って東京訪問を中止し、5月19日をもって帰国の途についた。
 残念がった天皇はニコライ皇太子を神戸御用邸での晩餐に招待したが、ニコライ皇太子は拝辞し、代わりにロシア軍艦上での晩餐に天皇を招待した。
 天皇はこれを快諾したが、閣僚たちが反発した。
 1882年に李氏朝鮮で大院君が清に船で拉致された事件を引き合いに出した。

 天皇は「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなにゆえに汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか」と反論し、予定通りロシア軍艦の晩餐に出席した。天皇は改めてニコライ皇太子に謝罪し、それに対してニコライ皇太子は「どこの国にも狂人はいる。いずれにしても軽傷であったので陛下が憂慮されるには及ばない」と返答した。
 安堵した天皇はニコライ皇太子と談笑に及び、親密な空気の中で別れることができたという。
   
 ロシア宮廷やロシア政府にも伝わったが、日本政府が心配したようなロシア軍の軍事行動は起こらなかった。
 ロシア外相ニコライ・ギールスとしては、日本の裁判所が津田に死刑判決を下したところでロシア皇帝が減刑嘆願を行い、そのおかげで減刑されるという解決方法が両国の親善に最も良いと考えていた。

 このため、日本裁判所が津田に死刑判決を出さなかったことに不満を抱いたという。
 しかしアレクサンドル3世は天皇が直接謝罪したことを高く評価し、日本政府の取った処置にも満足の意を示していたという。

 事件以来ロシアの新聞は「皇太子殿下を守ったのはゲオルギオス王子であり、日本人は傍観しているだけだった」といった反日記事を載せ続けたため、ロシアで反日世論が高まった。
 天皇がニコライのお見舞いをしたことを知ったロシア政府は報道管制を敷いて、反日報道を止めさせた。

 日本では津田と他の日本人全般を区別する発言をしていたニコライだったが、この事件に遭遇して以降、彼は日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになった。
 ロシア首相セルゲイ・ウィッテはニコライ皇太子の日本人蔑視が後の日露戦争(とその敗北)を招いたと分析している。
 
   
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