ジョン・ジェイ・マクロイ(John Jay McCloy)
1895年3月31日 - 1989年3月11日
米国の弁護士、外交官、銀行家、大統領顧問
第二次世界大戦中は、ヘンリー・スティムソンの下で陸軍次官補を務めた。
ドイツの妨害工作、北アフリカ戦線における政治的緊張、日本への原子爆弾投下への反対などの問題で冷徹に対処した。
戦後は、世界銀行総裁、対ドイツ高等弁務官、チェース・マンハッタン銀行会長、外交問題評議会議長、ウォーレン委員会委員、フランクリン・ルーズベルトからロナルド・レーガンまでの歴代大統領の顧問を務めた。
マクロイは「ザ・ワイズ・メン」と呼ばれる外交政策確立のための長老グループの一員として記憶されている。
このグループは、超党派性、現実的な国際主義、非イデオロギー的傾向を特徴とする政治家のグループで影の米国の支配勢力である。
ジョン・J・マクロイ(1862-1901)とアンナ・マクロイ(旧姓スネーダー)(1866-1959)の息子として、ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれた。
父は保険業を営んでいたが、マクロイが5歳のときに亡くなった。
母はフィラデルフィアで美容師をしており、上流階級の顧客が多かった。
早く父親が死んだためマクロイの家庭は貧しかった。
マクロイは後に自分のことを「線路の悪い方の側で育った」と、エスタブリッシュメントの中でもアウトサイダーであると表現している。
出生時の名前はジョン・スネーダー・マクロイ(John Snader McCloy)だったが、後に貴族的な響きを出すためにジョン・ジェイ・マクロイ(John Jay McCloy)に改名した。
ニュージャージー州のペディー・スクールで教育を受け、アマースト大学を1916年に卒業し、同年にハーバード・ロー・スクールに入学したした。
平凡な学生で、テニスを得意とし、全米のエリートの子息たちの中で順調に成長していった。
大きな影響を受けたのが、1917年にアメリカが第一次世界大戦に参戦に突入すると、マクロイは5月に陸軍に入隊し、ニューヨーク州プラッツバーグで訓練を受けたことだという。
1917年8月15日に砲兵隊少尉に任命された。同年12月29日には中尉に昇進した。
1918年5月、第85歩兵師団第160野戦砲兵旅団司令官である
G・H・プレストン准将
の補佐官に任命された。
1918年7月29日、アメリカ外征軍(AEF)としてフランスに向けて出航した。
戦争末期には、ムーズ・アルゴンヌ攻勢で砲兵隊の指揮官として戦闘に参加した。
1918年11月の休戦後、1919年3月1日にフランス・オート=マルヌ県ショーモンの
AEF総司令部に
転属した。
その後、ドイツ・トリーアの前進総司令部に派遣され、6月29日に大尉に昇進した。
マクロイは7月20日に米国に帰国し、1919年8月15日に陸軍を退役した。
その後、ハーバード大学に戻り、1921年にLL.B.の学位を取得した。
連合国への武器供給を阻止するため、ドイツの秘密工作員が軍需工場を破壊した。
これは、ブラック・トム爆発事件の余波であり、ジョン・マクロイが摘発に協力した。
マクロイはニューヨークに渡り、当時全米でも有数の法律事務所
カドワラダー・ウィッカーシャム・アンド・タフト法律事務所
のアソシエイトとなった。
1924年にはクラバス・ヘンダーソン・アンド・デ・ガーズドーフ法律事務所に移籍した。
ここで、セントポール鉄道など多くの富裕層のクライアントを担当した。
1930年、マクロイはエレン・ジンザー(Ellen Zinsser)と結婚した。
エレンはニューヨーク州ヘイスティングス=オン=ハドソン出身で、スミス大学を1918年に卒業した。
エレンとの間には、ジョン・J・マクロイ2世(John J. McCloy II)とエレン・Z・マクロイ(Ellen Z. McCloy)の2人の子供がいた。
1934年、1916年のブラック・トム爆発事件についてマクロイは新たな証拠を見つけ、ドイツへの損害賠償請求訴訟を再開した。
マクロイはナチスドイツの企業のために多くの仕事をした。
その後、「ツィクロンB」を製造したことで知られるドイツの大手化学産業トラスト
IG・ファルベン
に助言を与えた。
1940年に政府の仕事に就いた時点で、マクロイの年収は約4万5千ドル(2020年の価値換算で83万5千ドル)、貯金は10万6千ドル(2020年の価値換算で200万ドル)に達していた。
第一次世界大戦中の破壊工作事件の訴訟に関わったことで、諜報問題やドイツ事情に強い関心を持つようになった。
米国陸軍長官ヘンリー・スティムソンは、1940年9月にコンサルタントとしてマクロイを雇った。
マクロイは共和党支持者で、同年11月に予定されている大統領選挙で民主党の
フランクリン・ルーズベルト
のことを支持していなかった。
ただ、戦争計画に没頭した。
スティムソンはマクロイが
ブラック・トム事件
でドイツの破壊工作に精通していたため、マクロイに特に関心を持っており、スティムソンは、対米戦争が勃発すれば、ドイツは再びアメリカのインフラを破壊しようとするだろうと考えていたためだ。
1941年4月22日、マクロイは陸軍次官補となった。
特に陸軍の軍需物資の購入、レンドリース、徴兵制、諜報や破壊工作の問題など、文民的な役割しか担っていなかった。
戦争が始まると、マクロイはアメリカ軍の優先順位を決める上で重要な発言力を持った。
いくつかの重要な決定に重要な役割を果たした。
戦時中のマクロイは、ペンタゴンの建設や、後に中央情報局(CIA)となる戦略情報局(OSS)の設立など、政府のタスクフォースに参加した。
国際連合や戦争犯罪法廷の提案も行った。また、国家安全保障会議(NSC)の前身組織の議長も務めた。
1942年2月、マクロイが妨害工作対策に関わっていたことが関連し、アメリカ西海岸の日系人の強制収容の決定に大きく関わった。
カイ・バードは、マクロイの伝記の中で、米国大統領がスティムソン陸軍長官を通じてマクロイに委任したのだから、この日系人の強制収容の決定には、誰よりもマクロイに責任があると指摘した。
現場の将軍たちは、妨害行為を防ぐために日系人の集団移転を主張しており、陸軍のG-2(情報部門)もそれが必要だと結論づけていた。
陸海軍の合同暗号解読プロジェクト「マジック」が解読したロサンゼルスの日本外交官の通信に、「我々は情報収集のために飛行機工場で働いている二世たちともつながっている」というものがあったのも決め手となった。
海軍情報局(ONI)は陸軍と意見が違っていた。
ケネス・リングル司令官が作成した同時報告書で、ONIは、スパイや破壊工作の疑いのある日系人のほとんどが、すでに監視下に置かれていたり、FBIに拘束されていたりすることを理由に、大量強制収容に反対すると主張していた。
マクロイは、収容所への強制収容を監督する責任があったが、収容所は民間機関が運営していた。
これらの行為はアメリカ合衆国最高裁判所で満場一致で支持された。
1945年になると、司法のコンセンサスはかなり失われていた。
歴史学者のロジャー・ダニエルズによると、マクロイは強制収容の合憲性に関する司法判断の再開に強く反対していたと指摘した。
この反対意見は、1943年の最高裁の審議でONIのリングル報告書を意図的に隠蔽したことなど、政府の不正行為を理由に、ヒラバヤシ事件、コレマツ事件などの刑事裁判の判決を覆すことにつながった。
かつてのマクロイの同僚で、ヒラバヤシ事件で最高裁に提出する政府の準備書面の作成を担当した司法省の弁護士
エドワード・アニス
は、1985年にシアトル連邦裁判所で行われた自己誤審審査会での証言で、マクロイの個人的な欺瞞を直接告発した。
その結果、1987年、第9巡回区控訴裁判所において、戦時中の日系人に対する
外出禁止令や強制移住
について、3人の判事が満場一致で「軍事的必要性よりも人種差別に基づくもの」と判断し、それらと戦ってきたゴードン・ヒラバヤシをはじめとする日系人は完全に無罪となった。
陸軍省は、1944年末からずっと、アウシュヴィッツに通じる鉄道路線や収容所内のガス室の爆撃を行って、ナチスに捕らえられた囚人たちを救ってほしいという請願を受けていた。
マクロイは、1944年7月4日付で戦争難民委員会のジョン・W・ペールに宛てた手紙で、「陸軍省としては、提案されている空爆作戦は実行不可能であると考えている。それは、現在決定的な作戦に従事している我が軍の成功に不可欠なかなりの航空支援を転用することによってのみ実行可能であり、いずれにしてもその効果は疑わしいものであり、実用的なプロジェクトにはならないだろう」と述べた。
マクロイは陸軍航空軍に対する直接的な権限を持っていなかったため、陸軍航空軍の目標設定を覆すことはできなかった。
ハップ・アーノルド将軍率いる陸軍航空軍は、外部の民間団体が目標を設定することに断固として反対していた。
ルーズベルト自身もそのような提案を拒否していた。
1945年3月、ローテンブルク・オプ・デア・タウバーはドイツ兵によって守られていた。マクロイは、ローテンブルクの歴史的重要性と美しさを知っていたため、陸軍のジェイコブ・L・デヴァース将軍に、ローテンブルク攻略に大砲を使わないように命じた。
後に名誉勲章を受賞する
フランク・バーク大隊長
は、第4師団第12歩兵連隊の兵士6名に、3時間でローテンブルクへ行き、降伏を交渉するよう命じた。
ドイツ語に堪能なライシー二等兵が、白旗を掲げてローテンブルクのドイツ兵に接近し、交渉を開始した。
ドイツ軍守備隊長のThommes少佐は、ヒトラーの「全ての町は最後まで戦え」という命令を無視して降伏を受け入れ、それによって砲撃による全壊から町を救った。
1945年4月17日、アメリカ軍第4師団第12歩兵連隊がこの町を占領した。
マクロイはトルーマン大統領に、日本本土への侵攻は賢明ではないと説得した。
1945年半ばになると、日本は戦争を終わらせる方法を模索し始め、日米和平の仲介をソ連に依頼するまでになっていた。
マクロイは、解読した日本の通信によって、天皇による統治(国体護持)の保証があれば、日本に降伏する用意があることを知っていた。
そこで、マクロイはトルーマンに、日本への
原子爆弾投下
という暗黙の脅しと、国体護持の保証をセットにした降伏条件を提示するよう助言した。
そうすれば、ソ連の日本本土への侵攻を阻止するために原爆投下が必要になったとき、米国が
道徳的に優位に立てると主張
したが、マンハッタン計画の責任者の一人だった
ジェームズ・F・バーンズ国務長官
は、ポツダム会談に向かう船の中で、マクロイの助言を無視するようトルーマンを説得した。
最終的にトルーマンは、準備ができ次第、日本に原爆を投下するように命じた。
1945年、マクロイとスティムソンはトルーマン大統領を説得し
モーゲンソー・プラン
を却下して、ドイツの産業力を奪うことを避けさせた。
マクロイは、ロックフェラー系のニューヨークの著名な法律事務所
ミルバンク・ツイード・ハドリー・マクロイ法律事務所
のネームパートナーとなった。
1945年から1947年までここで働き、ウォーレン委員会に参加した後、1989年に亡くなるまでの27年間、ゼネラルパートナーを務めた。
その中で、エクソンをはじめとする主要な国際石油資本「セブン・シスターズ」のために、リビアの油田国有化運動との初期の対立や、サウジアラビアやOPECとの交渉を担当した。
1947年3月から1949年6月まで、マクロイは世界銀行の第2代総裁を務めた。
1948年にマーシャル・プランによる連合国への莫大な経済支援が始まり、世銀が提供できる投資額を超えてしまった。
このため、マクロイは世銀を去ることになった。
1949年9月2日、マクロイは、それまでの5人の軍政府司令官に代わって、新設された対占領ドイツ高等弁務官に就任した。
1952年8月1日までその職を務めた。
マクロイは、1949年5月23日に成立したドイツ連邦共和国(西ドイツ)の発足を監督した。
ドイツ政府からの強い要請を受けて、著名な実業家のフリードリヒ・フリックやアルフリート・クルップ、アインザッツグルッペン指揮官マルティン・ザントベルガーなどのナチス犯罪者の恩赦や減刑の勧告を承認した。
マクロイは、クルップとフリックの全財産の返還を認めた。
また、マルメディ虐殺事件で大量殺人の罪に問われたヨーゼフ・ディートリヒとヨアヒム・パイパー、ハンガリー王国、クロアチア独立国、セルビア救国政府でのパルチザンとユダヤ人の迫害・殺害に重要な役割を果たしたエトムント・フェーゼンマイヤーも恩赦を与えられた。
一方、親衛隊(SS)の名誉隊員でありながら反ナチのスタンスを取っていた元外務次官
エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー
も恩赦を受けた。
ニュルンベルク裁判判事の
ウィリアム・J・ウィルキンス
は1951年2月のある日、駐ドイツ高等弁務官ジョン・J・マクロイが、没収を命じられていたクルップの資産を全て復帰させたというニュースを新聞で読んだときの、私の驚きを想像してほしいと後に述べている。
マクロイは、ドイツでの任務を終えた後、1953年から1960年までチェース・マンハッタン銀行(1955年まではチェース・ナショナル銀行)の会長、1958年から1965年まではフォード財団の会長を務めた。
また、1946年から1949年までと1953年から1958年まで、ロックフェラー財団の評議員を務めた。
1953年に最高裁判所長官フレデリック・ヴィンソンが亡くなった後、アイゼンハワー大統領は後任としてマクロイの起用を検討した。
しかし、マクロイは大企業に有利な立場にあるとみなされ、却下した。
1954年から1970年までは、外交問題評議会議長を務めた。
その後任には、チェース銀行で密接に関わっていたデイヴィッド・ロックフェラーが任命された。
マクロイはロックフェラー家との付き合いが長く、ハーバード時代にはロックフェラー兄弟にヨットの乗り方を教えていた。
1958年にアイゼンハワーが結成したドレイパー委員会の委員でもあった。
その後、ジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン、リチャード・ニクソン、ジミー・カーター、ロナルド・レーガンといった歴代大統領の顧問を務め、大統領軍縮委員会では主要な交渉者として活躍した。
マクロイは、1963年11月下旬にジョンソン大統領から、ケネディ大統領暗殺事件を調査するウォーレン委員会の委員に選ばれた。
マクロイは当初、オズワルド単独犯説に懐疑的だった。
同じく委員会に参加していた旧友のCIAのベテラン、アレン・ウェルシュ・ダレスとダラスを訪れた際に、これはオズワルドにとって不利な事件であることを確信したという。
少数派の反対意見を避けるために、マクロイは最終的な合意形成を仲介し、最終報告書の主要結論の重要な文言を決めた。
マクロイは、陰謀の証拠となりうるものは、FBIやCIAをはじめとするアメリカの全ての捜査機関や委員会の「手の届かないところ」(beyond the reach)にあると述べた。
1975年、CBSのエリック・セヴァライドとのインタビューで、マクロイは「この暗殺事件ほど完全に証明されたと思った事件はない」と語っている。
また、この暗殺事件の陰謀説を広めた書物を「ただのナンセンス」と評している。
マクロイは、法曹界での地位、ロックフェラー家との長い付き合い、大統領顧問としての経験などから、「アメリカのエスタブリッシュメントの会長」と呼ばれることもあった。
マクロイは1989年3月11日午後12時15分、グリニッジの自宅で肺水腫のために亡くなった。
妻はその数年前にパーキンソン病により87歳で亡くなっていた。