2024年04月29日

メロン・フィナンシャル・コーポレーション (Mellon Financial Corporation) メロン財閥の金融持株会社

メロン・フィナンシャル・コーポレーション
        (Mellon Financial Corporation)
 メロン財閥の金融持株会社。1869年ピッツバーグを本拠に「メロン銀行」として創業した。
 商業銀行業務を伝統としてきたが、1972年に持株会社となった。
 メロン・フィナンシャルは2007年7月にバンク・オブ・ニューヨークと合併して
となった。
 
 1946年からの社名がメロン・ナショナル・バンク・アンド・トラスト・カンパニーだった。
 トラストを冠するメロンは信託業務も行っており、すでに1960年代は企業年金の受託実績で上位を占めていた。
 一つの運用法として、メロンが窓販を請け負っていた
があった。
 また、企業年金だけでなく大衆にも同ファンドは大ヒットした。
 ただ、ノーロードのミューチュアル・ファンドだったから、というのは表面的な説明でしかない。

 メロンは戦前ライト・パットマンの挑戦をうけたときから証券のプロとして対応し、戦後フィンテックを先駆けてコンピュータを導入している。
 60年代からウイングの広い経営を展開するなど
   シャドー・バンキング・システム
を拡大してきた。

 ジャンク債の帝王とも称されるマイケル・ミルケンが逮捕されてから作戦を練り直し、90年代から経営の主軸を据えた。
 この主軸が信託であり、アセット・マネジメントであり、コーポレート・ファイナンスとしては証券化であった。

 OTD金融へは、商業銀行としてではなく、シャドー・バンキング・システムとして参加したうえ、システムの上位、すなわちカストディ業務やプライベート・バンキングを担った。

 メロン・グローバル・インベストメンツ・ジャパン新生銀行立ち上げなど投資銀行業務などの金融業務を行った。
 
 1813年、アイルランドのジャガイモ農場に
が生まれ、5歳のときペンシルベニア州へ移住した。
 メロンは1839年に弁護士となったが、不動産投資、建設投資、モーゲージ貸付の方でより多くの財産を築いた。
 南北戦争後の1869年、判事となっていたトーマス・メロンは公務を引退して
   トーマス・メロン商会
をピッツバーグに構えた。
 それが栄える一方で、息子も自分の銀行を開いた。
 なお、1873年恐慌のとき、メロンは他行のように廃業することはなかった。

 この恐慌では大不況の国際貨幣会議にまで発展し、1882年にトーマスは経営を
   アンドリュー・メロン
に任せたうえ、息子のジョージをともない、アイルランド、スコットランド、イングランドを訪れ、各国の親類を訪問した。

 トーマス・メロン商会は1902年に国法銀行となった。
 ニッカーボッカー信託会社(現バンク・オブ・ニューヨーク・メロン)の営業停止で1907年恐慌が表面化した。
 1908年トーマスが死亡した。
 海外事務所を設置した息子のアンドリューとリチャード(Richard B. Mellon)は
   ガルフ・オイル
   アルコア
を支配し、トーマスの遺産をメロン財閥へ育て上げた。
 
 1921年、長男のアンドリューは財務長官として指名された。
 家業についてはリチャードが取り仕切った。

 メロン財閥は、メロン国法銀行と、信託業務を営む州法銀行(Union Trust and Union Saving)の両方をもっているという強みがあった。
 事実上、連邦内のどの事業にも資金を供給できる位置を堅持するまでになっていた。

 1929年リチャードはメルバンク証券(Mellbank Security)を設立した。
 これは世界恐慌で西ペンシルベニアの数え切れない小規模銀行を救済した銀行持株会社である。

 1933年リチャードが死ぬと、息子の
   リチャード・キング(Richard King Mellon)
が社長となった。
 20世紀なかごろまでに、メロンはキャッシュ・マネジメント技術における信頼を獲得するまでになった。
 なお、キャッシュ・マネジメント技術開発の原動力となったのは、第二次世界大戦中に制度化された合同運用信託だった。

 メロンは1955年に初めてコンピュータを導入した。
 また、1958年、メルバンク地域手形交換所を設立し、ここでコルレスバンクの取引を夜間処理した。

 アルコア社長であったアーサー・デイビス(Arthur Vining Davis)は1956年まで最大株主であった。
 在職中からフロリダの不動産を買い占めつづけたことで、1960年代の初めに5億ドルの個人資産を築いた。

 メロン家遠縁のエバンス(Thomas Mellon Evans)は、メロングループから貸付を得て企業買収を何件も達成した。
 この中でも1959年のクレーン社(Crane Co.)をテークオーバーしたことは一般的にベンダーの製造で知られる同社が、実は紙幣を製造していたこともあり特筆に値する出来事と見られている。

 メロン・ナショナル銀行は1967年ペンシルベニア州の信託財産の1/3を支配していた。
 同年同行の社長兼会長に
   ジョン・メイヤー(John A. Mayer)
が就任した。
 同1976年にはライト・パットマン(Wright Patman)が商業銀行の支配関係について報告書を提出した。

 メロン・ナショナル銀行がピッツバーグ都市圏預金の52.1%を占めていたことや(1966年6月)、同行がナショナル・ユニオン保険(National Union Fire Insurance Company of Pittsburgh, now American International Group)と5件以上の役員結合関係にあることを記述し、かたや都市圏預金の21%を占めたピッツバーグ・ナショナル銀行(旧第二合衆国銀行)は、
   ケミカル(現JPモルガン・チェース)
   バンカーズ・トラスト(現ドイツ銀行)
を相手に取締役を交換しているということを明らかにした。
 時代はセカンダリー・バンキング市場を加熱させた。

 オイルショック目前の1971年ジョン・メイヤーが、引退までを目途にトップダウン経営に転換すると発表した。
 グループのピッツバーグ銀行では
の社長を父にもつヒギンズが副社長から社長へ昇進した。

 1972年にメロン・ナショナル・コーポレーションという持株会社をつくった。
 この持株会社を使ってメロン・ナショナル・バンク・アンド・トラスト・カンパニーを保有した。

 1973年にエクイティ・ファンディング事件がおこって、1975年REITの新しい会計基準が策定された(Tax Reform Act of 1976)。
 利回りの減ったREITは市場が崩壊して、全米市場システムを整備する動きとなった。

 ただ、政治とずぶずぶの関係にあったとされるメロンがREITを買っているわけがなく損害の発生は回避していた。
 代わりに統計処理用ソフトウェアの開発へ投資をしていた。

 地域最大の都市であるペンシルベニア州ピッツバーグを中心とする米国ペンシルベニア州南西部の 10 郡地域の経済発展と生活の質の問題に特化した非営利の民間部門のリーダーシップ組織
   アレゲーニー会議(Allegheny Conference)
には1977年、メロングループの重役が定員26人中21人が出席していた。
 
 トランス・アラスカ・パイプラインの完工により、メロンなどの大銀行は電力公債を引受けた。
 1982年にメロングループの資産は190億ドルを超えており、その後、1987年までにその資産を2倍近くへ増加させた。

 1983年ギラード銀行(Girard Bank)を買収した。
 パットマン報告書によると、ギラードはフィラデルフィア5大銀行の一つであり、5大銀行同士で役員結合が行われていた。

 ギラードは1951年にコーン・エクスチェンジ・バンク(Corn Exchange Bank)と合併し、1978年にジョージというATMネットワークを導入していた。
 1987年、メロンが第三世界の財政危機で損失を計上、会長が交代してフランク(Frank Cahouet)になった。
 フランクはクロッカー(Crocker National Corporation)元会長であった。
 そのクロッカーがウェルズ・ファーゴに売却されたのでメロンに転職して続投した。

 フランクはマッキンゼーを重用した。
 国家や自治体の財政を調べてビジネスへつなげるのがマッキンゼーのコンサルタントであった。
 そこへメロンの地力が加わったことで
   財政難自治体法(Financially Distressed Municipalities Act)
ができたともいわれる。
 これにもとづいて、メロンは1990年にPSFS(Philadelphia Savings Fund Society)の54支店を買収した。

 1993年、自社株式250万株と13億ドルでサンフォード・ワイルの
   スミス・バーニー・シェアソン
から企業年金の受託者として業界上位の実績をあげていた
   ボストン・カンパニー
を買収した。
 これによってメロンは資産運用やカストディサービスに強くなった。

 1994年にドレフュス商会と合併した。
 ドレフュス商会カール・アイカーンを輩出した企業である。


 メロン・フィナンシャルは1995年、メロンはケミカルと合弁会社CIBC(Chemical Mellon Shareholder Services)をつくった。
 これは管理株主数が当時で全米最大の証券代行受託会社である。

 メロンは安定した手数料収入が期待できた。

 1996年にはCIBCと共同出資で、カナダでの法人向け信託業務とカストディサービスを統合した。
 1998年には
と共同出資でグローバルなカストディサービスを強化した。

 1999年マックギン(Martin G. McGuinn)が社長兼会長となった。
 この後、商業銀行から資産運用へシフトが進んだ。

 2001年ロイヤルバンク・オブ・スコットランドのシチズン(Citizens Financial Group)へ東部3州の支店網を売却した。
 住宅ローン、クレジットカード、企業向けの資金決済サービスなども事業売却している。
 そしてフランク・ラッセル(Frank Russell)と共同出資で、機関投資家向けのグローバルな資産運用評価・分析サービスを提供するようになった。

 2003年9月にミューチュアル・ファンド業界にスキャンダルが起こり、年末から再発を防ぐため投資顧問等の規制が1年がかりで敷かれた。
 2004年にアルコアの特殊化学部門がプライベート・エクイティ・ファンド(Rhône Group)に買収された。

 2006年にメロンとバンク・オブ・ニューヨークの合併が決まった。
 同時期にゴールドマン・サックス・ヴィンテージ・ファンドがメロン・フィナンシャルから14億ドルのプライベート・エクイティ受託資産を買収している。

     
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ムーディーズがボーイングの格付け引き下げ、ジャンク級まで1段階

 米格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービスは、米ボーイングの無担保優先債の格付けを「Baa3」とし、従来の「Baa2」から引き下げた。
 見通しは「ネガティブ(弱含み)」だ。

 ムーディーズは24日の発表文で今回の格下げについて、「ボーイングの民間航空機部門の不十分なパフォーマンス」を反映していると説明。フリーキャッシュフローの創出がムーディーズの当初予想に届いていないと指摘した。
 
 
ひとこと
 型式の問題等で日本の航空機開発を断念した日本企業がボーイングの機体の製造を続けている。
 企業価値に問題が起きているボーイングに肩入れする姿勢が強い愛知県の思惑通りに行くのかどうか注目だ。
 フランスの自動車メーカーに媚びて企業価値を低くしてしまたのと同じく、欧米に都合良く扱われている多くの日本企業の弱腰度がコストカットに明け暮れ日本人の奴隷化を加速させているようでもあり、度がすぎるように見える。
 
   
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