2024年09月25日

米国株式市場 S&Pは最高値、エヌビディアが急伸

 米国株式相場は24日、消費者信頼感指数が弱い内容となったものの、エヌビディアの大幅高に支えられプラス圏にとどまるなど小幅高で引けた。

 S&P500種株価指数は今年41回目の最高値を更新した。
 また、ダウ工業株30種平均も記録を更新した。
 ハイテク株の比重が高いナスダック100指数は0.5%上昇した。
 また、中国政府の景気刺激措置発表を受け、同国との経済的つながりが強い銘柄も買われた。

 消費者信頼感指数は2021年8月以来の大幅な落ち込みとなり、主要株価指数は朝方にいったん下落した。
 その後、エヌビディアのフアン最高経営責任者(CEO)が保有株の売却を終えたとの報道で約4%上昇し、指数を押し上げ反転した。

 個別銘柄では米司法省はデビットカードをビザが独占しているとして、反トラスト(独占禁止)法違反の疑いで民事提訴したことからビザが5.5%安となった。
 中国の景気刺激措置を受けて、エスティローダーなどの株価が上昇した。
 同社は売り上げの3分の1近くをアジアに依存している。

 米消費者信頼感指数は労働市場に関する警告のメッセージと受け止められた。
 リッチモンド地区連銀の製造業データも予想より弱い数字となった。

   
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米国債は上昇

 米国債相場は消費者信頼感指数の発表後に上昇し、利回り曲線は強気の傾斜を描いた。
 金利スワップ市場では11月連邦公開市場委員会(FOMC)の予測織り込み具合がハト派にシフトし、50ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)利下げの確率は50%と織り込まれた。

 利回りはこの日の最低水準付近。2年債入札が堅調だった後、短期債が長期債より好調を維持した。
 25日の5年債、26日の7年債に対する期待が高まった。

 将来の利下げを予測する材料として、27日に発表される8月の個人消費支出(PCE)と同コア価格指数に投資家の注目が集まっている。
  

 
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ビザ(Visa Inc.) 米国の多国籍 決済カードサービス企業

ビザ(Visa Inc.) 
 カリフォルニア州サンフランシスコに本社を置く米国の多国籍 決済カードサービス企業
 Visaブランドのクレジットカード、デビットカード、プリペイドカードを通じて、世界中で電子送金を行っている。

 収益 327億米ドル(2023年)
 営業利益 210億米ドル(2023年)
 純利益 173億米ドル(2023年)
 総資産 905億米ドル(2023年)
 総資本 387億米ドル(2023年)
 従業員数 約 28,800人(2023年)
  
 Visaは1958年に
   バンク・オブ・アメリカ(BofA)
によってBankAmericardクレジットカードプログラムとして設立された。
 競合相手のMaster Charge(現在のMastercard )に対抗するため、BofAは1966年に
   BankAmericardプログラム
を他の金融機関にライセンス供与し始めた。
 1970年までにBofAはBankAmericardプログラムの直接管理を放棄し、他のさまざまなBankAmericard発行銀行と協同組合を形成してその管理を引き継いだ。
 その後、1976年にVisaに改名された。

 世界中のほぼすべてのVisa取引は、バージニア州アッシュバーン、コロラド州ハイランズランチ、イギリスのロンドン、シンガポールにある4つの安全なデータセンターのいずれかで、同社が直接運営するVisaNetを通じて処理されている。
 これらの施設は、自然災害、犯罪、テロから厳重に保護されており、必要に応じて互いに独立して、外部のユーティリティから独立して運用でき、最大30,000件の同時取引と毎秒最大1000億回の計算を処理できる。

 Visaは、カード決済の年間取引額と発行カード数で、2015年に
   中国銀聯
に抜かれて以来、世界第2位のカード決済組織(デビットカードとクレジットカードを合わせた)となっている。
 ただ、銀聯の規模は主に中国国内市場の規模に基づいているため、Visaは依然として世界の他の地域では
   支配的な銀行カード会社
とみなされており、カード決済全体の50%の市場シェアを占めている。
  
   
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清仏戦争(中法战争 中法戰爭 Chiến tranh Pháp-Thanh  Guerre franco-chinoise)

清仏戦争(中法战争 中法戰爭 Chiến tranh Pháp-Thanh  Guerre franco-chinoise)
 1884年8月と1885年4月にかけて起きた
   ベトナム(越南)
の領有を巡るフランスと清との間の戦争のこと。
 フランスがベトナムの領土領有を達成し植民地としたためフランスの勝利と考えられている。
 ただ、士気旺盛なチワン族中心の軍閥「黒旗軍」との戦いでは軽視できない損害を被った。

 ベトナム(阮朝)に対するフランスの領土的野心は1840年代から始まった。
 コーチシナ戦争1858年-1862年)で、フランスは阮朝が南部に設置していた幾つかの行政区を武力併合した。
 それらを統合して仏領コーチシナを形成、東南アジア進出の拠点としていた。
 その後、フランス政府の探検団は雲南からベトナム北部を結ぶ紅河沿いの陸路を開拓して
   コーチシナ(仏)−トンキン(阮朝)−清国南部
の間の通商路整備を計画したが、北ベトナムと清国南部の国境地帯には清帝国と対立する
   劉永福
の軍閥・黒旗軍が法外な通行料を要求、フランス政府の計画は頓挫した。

 フランスが北ベトナム侵略に突入したのは、1881年末、現地のフランス商人に対するベトナムの反発を調査するように命じられた海軍士官
   アンリ・リビエール
は、小規模の軍勢を連れてハノイ(河内)に進み、そこで上官命令を無視して独断で阮朝軍のハノイ砦を占領したことに始まる。
 ハノイ砦は程無く阮朝軍に返還されたが、リビエールの占領行為は阮朝とその庇護者である清朝に警戒感を与えた。
 しかし、阮朝は弱体であり、フランス軍を押しのける力はなかった。

 崩壊しつつあった阮朝軍に代わってフランスに黒旗軍が対峙した。
 1873年、黒旗軍はコーチシナ駐屯軍の士官
   フランシス・ガルニエ
はリビエールと同じ様に上官命令を無視して北ベトナムに兵を向け、ハノイ砦で黒旗軍の部隊に襲撃され壊滅した。
 この戦いでガルニエも戦死し、フランスはベトナムでの敗北を隠蔽しよう情報工作した。

 阮朝は宗主国である清朝に支援を要請しため、庇護国に進出するフランスに不快感を抱いていた清朝は表面上敵対していた黒旗軍に武器や資金を援助した。
 黒旗軍によるトンキン(東京)での反フランスの戦いを後援し、フランスのベトナム進出に対して警告した。
 1882年、雲南省など南部で主に動員された清帝国の遠征軍がベトナムに入り、ランソン(諒山)などトンキンの重要拠点に次々と駐屯を開始した。

 フランス政府の代表として清国に滞在していた駐在公使
   フレデリック・ブレー
は、1882年11月と12月に阮朝には無断で
   李鴻章
と交渉してトンキンを仏清で二分する協定を結ぼうと奔走した。
 一方のリビエールはブレーの交渉を弱腰と考え、1883年に黒旗軍・清軍・阮朝軍との決戦を行うべく520人の兵士を連れて進撃を再開した。
 3月、「ナムディン砦の戦い」で200人の敵兵を倒して勝利したことで、リビエールは装備差によるフランス軍の戦力優位を確信した。
 この勝利に続いて敵軍の攻勢によってハノイ砦近郊で発生した
   Gia Cucの戦い
にも勝利した。
 リビエールの行動のタイミングは完璧で、ナムディン(南定)砦占領という懲罰を覚悟した行為を行った直後、フランス本国で
   植民地拡大を新たな外交政策
に据える
   ジュール・フェリー政権
が成立した。
 フェリー政権はブレーの講和案を強く批判、ブレーを公使から解任した。
 また、リビエールの軍事的独断を英雄的行為として賞賛した。

 1883年4月、清朝軍の
   唐景ッ将軍
は士気の低い阮朝軍では不利と主張して、劉永福を説得して黒旗軍による攻勢を計画した。
 1883年5月10日、3,000名の黒旗軍がフランス軍を攻撃した。
 5月19日に両軍はハノイ近郊のコウザイ地区で衝突(コウザイの戦い)した。
 550人のフランス兵はコウザイ地区に掛かる橋に陣地を築いていた黒旗軍に反撃を受け、指揮官リビエールが戦死して敗走した。
 リビエールの独断的な軍事行動はジュール・フェリー政権の支持を得ていたため、直ちにフランス軍の大規模増派が開始された。
 その後、直接清帝国を巻き込む全面戦争に発展した。
 
 1883年8月20日、フランス軍の遠征隊指揮官となった
   アメデ・クールベ提督
の遠征軍がベトナムに上陸したうえ、戦火を交えて阮朝軍に多大な損害を与えた。
 フランス軍の本格侵攻を前に、嗣徳帝の死で混乱していた阮朝は
   癸未条約
の締結を了承、事実上フランスに降伏した(トゥアンエンの戦い)。

 軍事的勝利の勢いに乗ったフランス軍はダイ川に展開する劉永福の黒旗軍に攻勢を仕掛けて
   フーホアイの戦い
   パランの戦い
であ一定の損害を与えたが、激しい抵抗を受けていた。
 二度の大攻勢でもダイ川から黒旗軍を後退させることができなかった。
 欧州諸国では「フランス軍苦戦」との悪評が広がった。

 こうした醜聞の広がりに焦ったフランス政府は1883年9月に攻勢失敗を理由に陸戦司令官を解任した。
 結局、黒旗軍も天候の悪化でダイ川が氾濫したため、ソンタイ(山西)川付近の陣地へ後退した。

 フランスは年末に黒旗軍を壊滅させるべく大攻勢を計画し、黒旗軍の後ろ盾である清国に対して
   単独講和
を打診し始めた。
 その一方で他の欧州主要国にもイギリスが工作したアヘン戦争時と同様に参戦を促して回った。
 しかし、清朝政府は駐仏公使の
   曾紀澤
から「フランスは全面戦争に踏み切る勇気がない」との報告を受けた。
 直後、フランスの駐清公使と李鴻章が行っていた交渉を打ち切った。
 フランス政府は打開策を構築するべくパリの曾紀澤公使と
   ポール=アルマン・シャルメル=ラクール外務大臣
の会談を行わせたものの外交的進展はなかった。
 
 フランス政府が戦況悪化に焦る中、清朝は前線から撤兵を拒否した。
 清では攘夷運動が各地で発生した。
 アヘン戦争時に焦土化が著しかっった広東省では特に攘夷運が激しくなり広州などでフランスのみならず
   欧州商人全体への襲撃
が発生したこともあり、各国が自国住民保護という名目で将兵と軍艦を派遣した。

 清帝国との直接戦争を予期したフランスはドイツ政府に清帝国から依頼されていた軍艦
   鎮遠・定遠
の建造を遅らせるように要請した。
 また、前線ではトンキンデルタで幾つかの新たな拠点を確保して勢力を拡大させた。
 黒旗軍との戦闘がいずれ清朝とも戦うことになると予想した。
 また、早期にトンキン全土を併合すれば既成事実的に相手方が領有を認めるだろうと判断した。

 トンキンでの新たな攻勢では
   クールベ提督
を総司令官に据えた。
 1883年12月に1万を越す大軍を揃えて、ソンタイ(山西)川に向かって攻撃を開始した。
 ソンタイ川の戦いはそれまでの戦いで最大の激戦となった。
 清軍やベトナム人兵士は余り戦いの趨勢に関与することはなく、黒旗軍の3,000人が主力として戦った。

 12月14日にフランス軍の攻勢を一旦は撃退したものの黒旗軍がクールベ軍の追撃して壊滅させるのに失敗した。
 途中踏みとどまり、配送軍の体勢を立て直したクールベは、大砲による援護を行いながら12月16日にソンタイ川へ二度目の突撃を敢行した。
 同日午後5時、フランス軍外人部隊と海兵部隊の一部がソンタイ川の防衛線を突破して市内に突入した。
 黒旗軍を率いる劉永福は残存軍を収容しながらソンタイ川後方へと撤退した。

 フランス軍が数百人の死傷者を出したが、一方の黒旗軍は半数近い兵士を失った。
 清軍とベトナム軍が加わればフランス軍を上回る数であったが戦いに加わらなかった事から劉永福は
   両国の捨駒
にされたと憤慨し、以降の戦いには距離をおいて積極的に関わらなくなった。

 1884年3月、フランス軍は総戦力を2個旅団に増強し
   シャルル・テオドール・ミロー将軍
をアメデ・クールベに代わる新たな総司令官にして事態の好転を図った。
 第1旅団はセネガル総督の
   ルイ・ブリエール・ド・リール少将
第2旅団はアルジェリアのイスラム教徒の反乱を鎮圧した
   オスカル・ド・ネグリエ少将
が旅団長を務めた。
 フランス軍は作戦目標を清国広西軍が守備するバクニン(北寧)に定めて攻撃を再開した(バクニンの戦い)。
 今回の攻撃目標は清軍が主体だったが、士気の低い広西軍(黒旗軍が主体)は形だけの抵抗で撤退した。
 両軍合わせて3万人(フランス軍1万、清軍2万)の大会戦であったが、両者の被害は僅かに100人程度に終わった。
 黒旗軍が積極的に参加せず、戦力を温存していたためフランス軍のバクニン占領を容易にした。
 ミロー将軍はバクニンに残された幾つかのドイツ・クルップ製の大砲を接収した。

 清軍がフランス軍との戦闘で成果を出さなかったため対外強硬派の
   張之洞
らの力が落ちた。
 フランス軍によってフンホア(興化)とタイグエン(太原)が攻め落とされ、李鴻章ら和平派が力を持ち始めた。
 清の西太后は天津で李鴻章に
   司令官代理フルニエ
との交渉を再開する様に命じた。
 1884年5月11日、清軍の撤退・トンキン分割・貿易路の確定などを取り決めた
   天津停戦協定(李・フルニエ協定)
が結ばれた。
 清国はフランスによるコーチシナ・トンキンの植民地化も追認したうえ、各地にフランス軍が駐屯することを黙認した。
 しかし、この停戦協定には不備があり、清軍の撤退時期が明確には記載されていなかった。

 フランスは植民地化を加速すべく、清軍の即時撤退を要求したものの、清は条約の履行次第であると拒絶した。
 撤兵問題で両国が対立、清朝では戦争再開を主張する強硬派政治家達だけでなく、安徽巡撫であった長兄の翁同書が曽国藩・李鴻章ららに弾劾された私怨を持つ
   翁同龢
らが加わって李鴻章の解任を要求し、更に密かに軍勢を前線に移動させた。
 6月6日、フランス公使ユール・パトノートルが阮朝ベトナム代表グエン・ヴァン・トゥオン(阮文祥)と甲申条約(英語版)(パトノートル条約、Patenôtre Treaty)を新たに締結した。

 同時期の6月、フランス軍は清軍がランソンから撤退すると考え、駐屯部隊を差し向けた。
 6月23日、バクレ地方を通過していたフランス軍は通行を妨害する広西軍の分遣部隊と遭遇した。
 フランス軍は清国軍側に最後通牒を突きつけて攻撃を開始した(バクレの戦い、バクレ伏兵事件)。
 反撃を受けてフランス軍は敗走した。
 この事件後、フランス本国では開戦論が高まった。

 フィリー政権は清国に謝罪と賠償金を要求した。
 清国は交渉には同意したものの賠償や謝罪は拒否した。
 両国の対立は深まり交渉は決裂したいため、フランス軍は
   クールベ提督
の艦隊を福州に移動させて、清国海軍の福州船政局への攻撃に備える様に命令した。
 1884年8月5日、フランス海軍は台湾の基隆湾にある石浦湾へ砲撃を行い
   3台の沿岸砲台を破壊
して基隆に海兵部隊を上陸させた。
 その後、劉銘傳指揮の清国軍が来援したために撤退した。
 これにより両国は事実上の戦争状態に突入して清仏戦争が勃発した。

 フランス軍の宣戦布告がないまま武力行使が行われたことで、8月中旬、両国間で続けられていた和平交渉は決裂した。
 22日にフランス軍は
   アメデ・クールベ提督の極東艦隊
に対して福州に集結していた
   清国福建艦隊(張佩綸提督)
との決戦を命令した。
 1884年8月23日、馬江海戦が起きた。
 福建艦隊22隻の内、旗艦の一等巡洋艦「揚武」を含む11隻は西洋式の最新艦艇であった。
 しかし、操船や砲撃術が未熟な清国福建艦隊はフランス海軍13隻の砲撃に晒され約1時間でほとんどが撃沈か大破し、水兵死者数も3,000人を越した。
 一方のフランス側は軽微な損害しか受けなかった。
 戦いの一部始終は中立を宣言していたアメリカ・イギリス両国海軍によって見届けられていた。

 勝ったクールベは福州の海軍工廠に大被害を与えた。
 なお、海軍工廠はフランス海軍人プロスペ・ジケルの技術協力で建設されたもの。
 幾つかの沿岸砲台を破壊した後、戦域を離脱した。
 福建艦隊敗北に対して清朝内では反仏感情が広がった。

 イギリス・ドイツ・アメリカは、対フランスの観点から
   軍事顧問団
を清朝に派遣した。
 
 反仏感情はアヘン戦争で手に入れたイギリス領香港に飛び火した。
 1884年9月、馬江海戦で損傷を受けたフランス艦艇の修理を拒絶する大ストライキが発生した。
 修理工達のストライキは月末には解散させられたが、湾内労働を補助するさまざまな業種がストライキを継続した。
 そのため、正常に修理を行える状況にはなかった。

 英政府が武力鎮圧を行う中、労働者が警官に射殺された。
 このため。10月3日に深刻な大暴動へと発展した。
 英政府は広東省の役人達が背後で暴動を指揮したのではないかと疑った。
 
 馬江海戦の後、勝利の勢いがあったフランス軍は8月5日に清軍に撃退されて失敗した台湾北部の要衝・基隆市占領を再び計画した。
 フランス軍は馬江海戦の勝利と合わせて北部台湾を占領する事で早期に講和を実現しようと考えていた。
 10月1日にフランス海軍の海兵隊1,800名が上陸したため、現地守備隊は基隆市から後方の防衛拠点に撤退した。

 上陸したフランス軍の戦力では住民の反発を抑える軍民統制が弱く、基隆市より先に進むには不安があり、補給面でも兵站線を維持することが出来なかった。
 10月2日、フランス海軍の
   レスペス提督
は戦略的には意味もない沿岸砲撃を経て、水兵600名を基隆市後方の淡水へと差し向けた(淡水の戦い)。
 孫開華将軍の清軍約1,000名が待ち構える中で反撃を受け、戦闘は膠着した。

 1884年末、フランス海軍は、高雄・台南など幾つかの重要な港からの物資陸揚げを阻止すべく海上封鎖した。
 加えて1885年1月に陸上戦力を4,000名に増強させた。
 ただ清国側も兵力を2万5,000名に増強しており、数の優位性を確保した。
 1885年1月から始まったフランス軍の攻勢は基隆市周辺の幾つかの小村を占領したのみに終わった。
 大雨の影響で2月には攻勢は中止された(基隆の戦い)。
 
 台湾戦線が膠着する中、クールベ艦隊は強化を続け、1884年10月時点よりも強大な戦力となっていた。
 1885年2月11日、クールベ艦隊の分隊が台湾封鎖に対抗する清国海軍の
   南洋水師
と交戦(石浦湾海戦)した。
 2月14日の夜にフランス海軍の小型艦艇の奇襲でフリゲート艦「馭遠」1隻を撃沈した。
 この戦果に続いてクールベ艦隊本隊も清国海軍を捕捉したうえ、寧波に近い鎮海港へ逃げ込んだ清国海軍の封鎖を行った。
 後に装甲艦2隻を基幹とした部隊で鎮海港への砲撃を行った(鎮海海戦)が、双方とも損失は僅かで戦果はなかった。

 1885年2月、清の要請を受け、英政府は極東でのフランス海軍入港の拒否を決定した。
 補給港を失ったクールベ艦隊は報復として、地域的な食糧難から社会的混乱を発生させ、飢餓を誘発させるべく揚子江で行われる米輸送を妨害した。
 食糧難を引き起こして講和を促そうとの戦術的な試みたが、米輸送を手数のかかる陸路のみに限らせただけで、効果は薄かった。

 海戦が続く中、フランス陸軍がトンキン戦線で清国軍と黒旗軍への攻撃を繰り返していた。
 トンキン遠征部隊の総司令官
   シャルル・テオドール・ミロー将軍
が病に倒れたため、1884年9月に副官の
   ブリエール・ド・リール将軍
に交代した。
 紅河デルタ付近への大規模な清国軍の攻撃に対処した。

 1884年9月、広西軍の遠征隊がランソンを越えフランス軍の砲艦2隻を奇襲した。
 フランス軍は敵が本格的に集合する前に3,000人の兵士を集め反撃した(ケップ攻勢)。
 白兵戦を含む激しい戦いの末、三派に分けられたフランス軍は各所で広西軍を撃破した。
 敗れた広西軍は、後方のドンソン(東山)に撤退した。

 対するフランス軍もケップ攻勢で得た拠点(ドンソンから2,3マイル)に陣地を築いて広西軍と戦闘を続けた。
 11月19日に黒旗軍2,000名が移動中のフランス軍700名を攻撃した(Yu Ocの戦い)が撃退された。
 更に広東省に拠点を持つ清国の民兵部隊を紅河デルタから追い払うことにも成功し、デルタ東方の掌握を達成した。
 平行してアンナン(安南)のベトナム人民兵部隊の掃討も完了したため、フランス軍は紅河デルタ占領へと駒を進めた。

 1884年12月、フランス議会はトンキンでの陸軍作戦を巡って紛糾した。
 陸相は紅河デルタの確保を主張したが、強硬派はトンキン全土での総攻撃を主張した。
 議論は強硬派の押す陸相が新たに着任したことで決着し、トンキン最大の都市ランソンに向けて総攻撃を開始した。

 前線基地を出撃したフランス軍は1885年1月3日から4日にかけての攻撃でNui Bopの広西軍守備隊を破った。
 また、ランソン攻撃の前哨戦に勝利を収めた(Nui Bopの戦い)。

 ランソンに対する攻撃は1ヶ月の準備を要した。
 1885年2月3日、フランス軍は7,200人の正規軍と4,500人の現地兵を引き連れて攻撃を再開した。
 清国軍20,000人が迎え撃った。
 ただ、フランス軍は装備運搬に難渋、またタイホア(西和)やドンソンでの激しい抵抗をうけた。
 しかし、10日にはランソン周辺部に到達した。
 12日にランソン北部へ進出したため、清国軍はランソンを放棄して撤退した(第一次ランソン攻勢)。
 
 ランソン占領後、フランス軍は、1884年11月に雲南軍と黒旗軍に包囲されたトゥエンクアン(宣光)で苦戦中の守備隊の救援に向かった。
 雲南軍と黒旗軍の包囲攻撃により、守備隊はトンキン人の動員兵と共に防戦した。
 ただ、ランソン占領時点で兵員の3分の1が死傷し戦闘力は大きく低下していた。

 フランス軍第1旅団はトゥエンクアンに進撃を始めた。
 ホアモクに築かれた包囲側の防衛陣地を攻撃した(ホアモクの戦い)。
 1885年3月2日、反撃にあって数百人の死傷者を出したが、やがてトゥエンクアンへの進路を開き、包囲下の友軍を救う戦いを開始した。
 程なくして雲南軍と黒旗軍は包囲を諦めて撤退した(トゥエンクアン包囲戦)。

 苦戦の末に友軍を救ったこの戦いでフランス軍の士気を大いに高めた。
 ブリエール将軍は「フランスを救った」と国内で賞賛された。

 トゥエンクアンに向かう前、ブリエールはランソンから更に北進した。
 ランソン攻勢で致命的な損害を受けていた広西軍に追撃を行う様に前線司令官へ命令した。
 フランス軍第2旅団は食料と弾薬を補給した後に命令に従って進撃を再開した。
 2月23日にドンダンで広西軍を破って遂にトンキンから清国本土へ押し退けた(ドンダンの戦い)。
 加えて清国側の国境拠点の幾つかを攻撃した。
 しかし、火器弾薬類を消耗し、兵站線が維持できていなかったため、これ以上戦果を拡大する力は第2旅団には存在せず、ランソンに帰還した。

 ランソン攻勢以来、戦勝が続いていたフランス軍もここで一旦手詰まりとなった。
 第2旅団はランソンで広西軍の反撃に対処する事に忙殺された。
 同じ時に第1旅団は雲南軍の攻撃にあたっていた。

 広西軍と雲南軍は数週間に亘って攻勢に転じられる状態に無かった。
 しかし、フランス軍の2個旅団も広西軍と雲南軍に決定的な敗北を強いれる可能性をそれぞれ持たなかった。
 戦争の膠着に苛立ったフェリー首相は講和を引き出す為にブリエールに第2旅団を清国南部の国境地帯に再突入させるように厳命した。
 ブリエーレは広西省国境から80キロ辺りにまで軍を突出させる作戦計画について状況から結果を推測した。
 しかし、3月17日にパリへ打電された結論は「戦力不足で不可能」というものだった。

 フェリー政権は更に大規模な増援をトンキンへ送り込む決断を下した。
 これで取りあえず手詰まりの状態からは脱する事ができると見られていた。
 なお、増援の殆どは第1旅団に向けられ、第2旅団がランソンを守備する間に前線に立ちふさがる雲南軍の拠点へ攻撃を敢行した(バンボーの戦い)。
 3月23日にフランス軍はバンボーの幾つかの拠点を占領した。
 しかし、翌日に始まった雲南軍の猛攻に晒され、損害を出したフランス軍はバンボー占領を諦めて退却した。
 フランス軍は戦線が破綻して薄くなった防衛ラインを突破されないため、穴を開けない様に撤退できた。
 後方で再編成を受けたフランス兵達は長引く戦いに怯えつつあった。
 敗北したフランス兵は士気を低下させており、これは後に起こる失態への予兆であった。

 第1旅団が後退したランソンは雲南軍と歩調を合わせた広西軍の包囲攻撃を受けた。
 第2旅団は少ない手勢で攻撃に耐え、広西軍に反撃してランソン奪還を諦めさせた。
 雲南軍の勝利に広西軍が乗じる事を防いだ第2旅団は広西軍を追撃して国境攻撃を再開しようとした。
 しかし、その途中で前線司令官ネグリエが負傷したことで指揮系統が乱れて麻痺してしまった。
 指揮権を引き継いだ副官ポール=ギュスターヴ・エルバンジェ将軍は普仏戦争で名をあげた人物だった。
 しかし、前線司令官としては能力を発揮できなかった。

 第1旅団は追撃を行わず、第2旅団の敗北を埋め合わせて余りある勝利の機会を取り逃した。
 そればかりかバンボーの戦いでの敗北による兵士の士気低下や、広西軍や雲南軍の反撃などで
   平静な判断力
を失ったフランス軍はランソンを自ら捨てて敗走した(第二次ランソン攻勢)。
 エルバンジェも戦死した。
 ただ、実際には広西軍は反撃を行える状態になく、雲南軍もランソンの戦いに参戦する可能性は無かった。

 フランス軍内でも反対意見は存在したが、現実に反映されることはなかった。
 一向に始まる気配のない追撃の恐怖に、フランス軍部隊は最低限の物資しか持ち出さず、我先に逃げ出した。
 その為、体制を立て直した広西軍の
   潘鼎新
が「フランス軍敗走」という思いがけない報告にランソンを再占領した。
 そこにはフランス製の膨大な物資や武器が残されたままであった。
 命からがら後方へ逃げ去ったフランス兵達は恐怖や疲労から極度に士気を落とした。
 広西軍もまた大きな損害を蒙っていたので追撃は行われなかった。

 その代わりに追い討ちを掛けるように黒旗軍と雲南軍が西方でフランス軍の守備隊を撃破して敗走させ(フー・ラム・タオの戦い)、フランス軍の恐慌状態に拍車を掛けた。

 第二次ランソン攻勢でのフランス軍の醜態は戦いの結果ではなく、存在しない追撃に自ら怯えた結果であった。
 従って敗走の後ですら依然としてフランス軍は一定の優位を保っていた。
 ただ、平静さを失った前線からの報告はブリエール将軍ら後方司令部にも恐怖を伝染させた。

 3月28日、フランス軍司令部は本国に敗戦の可能性を通達し、軍の電報にパリのフランス政府は大きな衝撃を受けた。報告を受けたフェリー首相が速やかに反撃に転じる様に命令した。
 ブリエールも「状況が安定化する可能性もある」と報告を修正した。
 しかし前線と同じく厭戦感情が沸き始めたフランス本国で、この電報の内容は余りにも衝撃的だった。

 最初の電報が公に公開されると直ぐに議会で戦争継続の是非を問う議論が紛糾した。
 戦争の泥沼化に対してフェリー政権への不信任案が提出される事態に発展した。
 3月30日にジュール・フェリーは首相を解任された。

 その後、彼は二度と同職に復帰することはなく、政界でも閑職へと回された。
 トンキン騒動と呼ばれるこの政治問題はフェリーの政治家としての前途を完全に終わらせた。
 
 新たに首相となった
   シャルル・ド・フレシネ
は清国との講和を打診し、穏健派が力を取り戻していた清国側も了承した。清
 国側は開戦前に結ばれた天津休戦条約を履行し、フランス側はバクレ伏兵事件の賠償請求を取り下げるなど戦後の関係改善を約束した。

 停戦合意に至る直前、フランスは台湾戦線では優勢だった。
 3月、台湾ではフランス軍の駐屯部隊が基隆の包囲を破り台北に退却させた(基隆の戦い)。
 もう一つは海軍の攻勢で、澎湖諸島を占領下においていた(澎湖諸島海戦)。

 ただ、台湾全土を制圧するには至らなかった。
 戦争は両者手詰まりの状態でなし崩し的に終戦を迎える事になった。

 4月4日に停戦合意が結ばれると速やかに清国軍は条約を履行して軍を撤退させた。
 また、黒旗軍も清国本土へ撤収した。

 フランス軍も台湾島や周辺の島々などベトナム以外の地域から撤退して、海軍を引き上げさせた。
 6月11日、フランス側の総司令官であったクールベ提督は終戦の直後に病死した。

 1885年6月9日に締結された講和条約である
   天津条約(李・パトノール条約)
では、フランスが北ベトナムを獲得、黒旗軍の解散により通商路を確保した。
 終戦から暫くはベトナム系の叛乱鎮圧を要したものの、1887年にはカンボジアやと南北ベトナムを合わせて仏領インドシナが成立。後にラオスなど他の植民地を取り込んでいった(仏泰戦争)。
 清仏戦争でのフランス軍の失態は大いにフランス共和国の帝国主義に水を差し、国民に失望感を蔓延させた。

 「ランソンからの敗走」によって既に政治家としての権威を剥奪されたフェリーだけでなく、側近として彼の後任となったアンリ・ブリッソンも1885年12月に行われた「トンキン論争」で辛辣な批判を浴び、短期間で辞任に追い込まれた。
 「トンキン論争」でクレマンソーら植民地拡大に反対する政治家達はトンキンからの完全撤退すら要求して、議会で行われた撤兵案の議決は反対273票、賛成270票という僅差で退けられた。
 もう数人が賛成票に投じていたら、ベトナムは独立を恢復していた可能性があった。

 清仏戦争の苦戦はフランス国内で植民地拡大を主張する勢力の信用を失わせた。
 マダガスカル島など幾つかの占領計画が先延ばしにされた。フランスが戦争を再開するのは1890年頃に入ってからになる。

 清国では清仏戦争は、旧態依然の君主制を取る清朝の歴史的な役割を終わらせる切っ掛けとなった。
 戦後、西太后と官僚達は海軍の近代化と指揮権の統合を進めたが、清朝内の腐敗によって改革は進まなかった。
 また、日清戦争にも敗れるに至った。
天 
 津条約により清朝はフランスに賠償金を支払わなくても済んだが、戦時に10億両以上を戦費で消耗しており、約2億両の債務を抱えた。
 馬江海戦に際して福建艦隊の敗北は清朝の進めてきた近代化政策(洋務運動)を後退させた。

 清仏戦争の教訓の全てが清帝国の前近代的な指揮系統や装備を示していた。
 主要艦隊の一部は戦いに加わらなかった。
 これを日本に対する備えにしたという帝国上層部の弁明は全く説得力を持たなかった。
 虎の子の海軍部隊を出し惜しんだことが、フランス軍を有利にした。
  
 フランスと清の衝突が高まりつつあった1883年12月に、フランスの台湾進出を看過できない
日本政府はフランス語に堪能な外交官
   原敬
を天津に派遣した。
 原はフランス領事リヒテル・リューベルと連絡を取りつつ事態を探り、『清仏事件略誌』を記して日本政府に基隆攻略やフランスの海上封鎖など事件の動静を報告した。

 1884年10月には駐清公使
   榎本武揚
が天津で総理衙門総裁の慶郡王と会談した。
 日本は調停役として和平介入を試みたが清国側の条件が折り合わず成功しなかった。

 清国軍や黒旗軍の攻撃が深まるにつれ、フランス政府は不平等条約の改定などの条件を出して提携の打診を行った。
 しかし、日本側は参戦には後ろ向きだった。

 戦争後半の1884年12月4日に起こった
   甲申政変
をきっかけに日本国内で対中感情が悪化して参戦論が高まるが、逆にフランスの方はランソン攻勢の辺りになると日本の参戦に興味を失い、立ち消えになった。
 なお、時の外務卿井上馨は参戦に意欲を示したが、伊藤博文や西郷従道らが反対していた。

  
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米国次期大統領選挙で民主党の候補ハリス氏が、2つの最新世論調査で勢い示すものの、激戦州ではなお接戦を予想

 22日に発表された2つの全米世論調査の結果では、いずれもハリス米副大統領がトランプ前大統領にリードしていることを示した。
 一部の州では期日前投票が既に始まっており、世論調査はハリス陣営の勢いを裏付ける内容となった。

 NBCニュースが登録有権者を対象に13日から17日にかけて実施した世論調査では、民主党候補ハリス氏の支持率は49%、共和党トランプ氏は44%となった。
 ただ、これは誤差の範囲内だとしている。

 15日にフロリダ州のゴルフ場で2度目の
   トランプ氏暗殺未遂事件
が起きた後である18−20日に実施されたCBSイプソスの世論調査では、ハリス氏の52%に対し、トランプ氏は48%だった。

 NBCの調査では、ハリス副大統領の好感度は、7月に大統領選出馬を表明する前と比較して16ポイント上昇した。
 当時、同氏を好意的に見ていると答えた有権者はわずか32%だった。
 その後、最新の調査では48%となった。

 NBCによれば、同局の世論調査でこれほど急上昇したのは、2001年9月11日の米同時多発テロ事件後の当時のブッシュ大統領(子)以来という。

 米大統領選の投票日は11月5日だが、バージニア、ミネソタ、サウスダコタの各州では既に期日前投票が始まっている。
 10月中にはさらに数州で始まる予定だ。

 大統領選は、限られた数の激戦州の結果に左右される可能性が高い。
 CBSは7つの主要激戦州の全てについて、同局の世論調査モデルで「五分五分」と評価している。
 このうちハリス氏は2州を除く全ての州で誤差の範囲内で優勢を保っている。
 両陣営は選挙戦の最後の6週間、鍵を握るこれら州の有権者に働き掛けようと努めている。

 激戦州の一つであるミシガン州のウィットマー知事(民主)は22日、CNNの番組「ステート・オブ・ザ・ユニオン」で、「ミシガンやペンシルベニア、ウィスコンシンといった州では接戦になることは明らかだ」と述べた。

 CBS調査で最大の関心事に経済を挙げた有権者の評価で、ハリス氏はトランプ氏との差を縮めた。これら有権者の間では、トランプ氏支持が53%、ハリス氏支持は47%。8月の調査ではトランプ氏56%、ハリス氏43%だった。経済分野はハリス氏の弱点の一つとされる。
   
   
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ナイジェル・ラッド(Nigel Rudd) イギリス複合企業のウィリアムズ・ホールディングスの設立者

ナイジェル・ラッド(Nigel Rudd) 
   1946年12月31日生まれ
 英国公認会計士協会の会員で、1982年にイギリス最大の産業持株会社となる
   ウィリアムズ・ホールディングス
を設立した。
 同社は2000年11月に会社分割され、チャブ社とキッド社が誕生し名前が消えるまで存続した。
 2003年12月までキッド社の社外会長を務めました。
 現在はBBAアビエーション社の会長を務めている。
  
 ナイジェル・ラッド卿はダービーで生まれた。
 父親は計量検査官として公務員として働いていた。

 ラッドはダービーのベムローズ・グラマー・スクールに通った。
 会計士になった兄に続いてラッドは20歳で英国最年少の公認会計士の資格を取得した。

 ラッドは、さまざまな産業に子会社を持つ持株会社
   ロンドン・アンド・ノーザン
のトラブルシューターとしてビジネス・キャリアをスタートした。
 1982年に彼はビジネスパートナーの
   ブライアン・マクゴーワン
と共にウィリアムズエンジニアリング会社を買収した。
 ラッドとマクゴーワンは1980年代を通じて、業績不振の工業会社のポートフォリオを買収し、ブランドを変更した。
 ラッド氏は
   BAAリミテッド
   ブーツカンパニー
   ピルキントンPLC
   ペンドラゴンPLC
の会長を務め、2009年1月まで
   バークレイズPLC
の副会長を務めるなど、いくつかの企業で要職を歴任した。
 
 1996年、ラッド氏は製造業への貢献により
   エリザベス2世女王か
らナイトの称号を授与された。
 ラフバラー大学やダービー大学など複数の高等教育機関から名誉学位を授与されている。
 1995年には英国公認会計士協会から創立100周年記念賞を受賞した。

 ナイジェル・ラッド卿は、
   BAA Aviation PLC(2014年から会長/非常勤取締役)
   Longbow Capital LLP(取締役、2004–2013)
   Pendragon PLC(会長/非常勤取締役、1989–2010)
で取締役を務めていた。
 ラッドはニュー・アントレプレナーズ財団の創設者の一人である。
  
 ラッド卿は1969年に妻レスリーと結婚した。夫婦には3人の子供がいる。
 彼は熱心なゴルファーであり、高級ゴルフクラブである
   ロック・ローモンド・ゴルフクラブ
の取締役会長を務めている。
 また、ダービー・カウンティ・フットボール・クラブのサポーターでもある。
 
 
 ダービーシャー州の副知事であり、ロンドン市の市民でもある。

 ラッド氏は2010年7月から2015年7月までラフバラー大学の総長を務めた。
 また、ダービー・グラマー・スクールのパトロンでもある。

   
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2024年09月24日

ステート・ストリート(State Street Corporation) 現存する銀行としては米国国内で2番目に古い歴史を持つ金融機関 運用資産 4兆1,280億米ドル(2023年)

ステート・ストリート(State Street Corporation)
 大手機関投資家向けグローバルカストディ(保管・管理) (AUC/A 約5,400兆円) および資産運用機関 (AUM約540兆円) としては
と並ぶ世界最大級の米国系金融機関で、現存する銀行としては米国国内で2番目に古い歴史を持つ金融機関。
 名称は本社のあるボストンの国際金融市場であった中心街に由来しており、大手機関投資家および各国政府との取引が主で、グループとして個人向け業務は展開していない。
 配下のステート・ストリート・グローバル・アドバイザーズ(SSGA)社は、上場投資信託(ETF)のSPDR(スパイダー)シリーズを運用しており、S&P500に連動するSPDR S&P 500 Trust ETF (NYSE Arca: SPY)は純資産残高で世界最大のETFである。

 収 益 119.5億米ドル(2023年)
 純利益 19億4,400万米ドル(2023年)
 運用資産 4兆1,280億米ドル(2023年)
 総資産  2,973億米ドル(2023年)
 総資本 238億米ドル(2023年)
 従業員数 約 46,000人(2023年)
 
 前身のユニオンバンクは外国為替業の繁忙するフランス革命戦争の開戦年である1792年に設立された。
 初代頭取はモーゼス・ギルだった。
 両方の意味でのステート・ストリートは、近代を通じてボストンから極東までの
   綿・絹貿易
を主体とする為替業務を担った。
 ユニオン・バンクはボストン旧家と不動産取引を行っていた。
 1865年に免許を得て、ナショナル・ユニオン・バンク・オブ・ボストンとなった。
 1911年にアラン・フォーブス(Allan Forbes)が財務アシスタントから社長に出世した。
 アランは以降56年のキャリアで200万ドル未満だった預金総額を1.8億ドルにした。

 1924年、ステート・ストリート・トラスト・カンパニー(1891年に免許取得[)が米国初のミューチュアル・ファンドのカストディアンに指名された。
 指名元の投信会社は、エドワード・レフラーのいた
   マサチューセッツ・インベスターズ・トラスト(MIT)
である。
 1925年、ユニオン・バンク・オブ・ボストンとステート・ストリート・トラスト・カンパニーが合併した。

 1950年から1955年まで、アラン・フォーブズが会長を務めた。
 ステート・ストリートは他行を吸収合併して規模を拡大、1960年に同一の持株会社が支配するグループ企業となった。
 1970年代から1980年代まで
   ウィリアム・エジャリー(William Edgerly )社長
は会社の投資銀行化とグローバル化を推進した。
 そのころネッド・ジョンソン率いる
   フィデリティ・インベストメンツ
とステート・ストリートは提携しており、メリルリンチやMFS Investment Management(旧MIT)、そしてPutnam Investments がステート・ストリートに口座をもっていた。

 MFS は1982年にケベック州のサン・ライフ・フィナンシャル(アクサ代理人が創設者)に吸収された。
 パトナムは堅実さが売りであったが、おそらく同じころに株式の買収が進み、やはりケベックの
   パワー・コーポレーション・オブ・カナダ(PCC)
へ下った。
 PCC はグループ・ブリュッセル・ランバート三大株主の一つである。ステート・ストリートはケベックのフランス資本と関係する。
 ウィリアム・エジャリーは1992年でリタイアしてから、IBMでの研修を主体としながらOBが新人を鍛えるステート・ストリート協会なる修行場をつくった。

 1998年、ミューチュアル・ファンドが保有する口座のカストディ資産は1兆8620億ドルに迫り、ファンド本数は2807に及んだ。
 2003年、ステート・ストリートは
   ドイツ銀行
の証券部門を15億ドルで買収し取引総額でJPモルガン・チェースを超えた。
 この年、郵便貯金と簡易保険の資産管理を担うようになった。

 2007年、45億ドルで
   インベスターズ・バンク・アンド・トラスト
を買収すると発表した。
 預かり資産は世界2位の14兆1000億ドルとなった。

 2009年10月まで、ステート・ストリートは
   カストディサービス
の顧客に対し、外国為替相場の決定方法につき情報ソースとして誤解を招く説明書を提出していた。
 行為の始まった時期と見られる2006年には、ステート・ストリート銀行東京支店に行政処分が下されている。

 グループ企業
 ・ステート・ストリート本社
   マサチューセッツ州ボストン、ワン・リンカーン・ストリート
 ・ステート・ストリート・バンク・アンド・トラストカンパニー 
 ・ステート・ストリート・グローバル・アドバイザーズ
 ・ステート・ストリート・バンク・ルクセンブルク・エス・エー
 ・ステート・ストリート・グローバル・マーケッツ・エルエルシー
 ・ステート・ストリート・グローバル・アドバイザーズ・インク 
 ・ステート・ストリート信託銀行(信託銀行)
 ・インベスターズ・トラスト・アンド・バンク
 日本
 ・ステート・ストリート・グローバル・アドバイザーズ株式会社
 ・ステート・ストリート・グローバル・マーケッツ証券株式会社
 ・ステート・ストリート銀行東京支店
 ・ステート・ストリート信託銀行株式会社

    
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ユーロ圏経済悪化でECBの10月利下げ見通しが短期金融市場で台頭

 ユーロ圏の景気見通し悪化に、欧州中央銀行(ECB)が来月の利下げで対応するとの見方をトレーダーは強めている。

 23日に発表された9月のユーロ圏HCOB総合購買担当者指数(PMI)速報値が拡大と縮小の境目である50を3月以降で初めて下回ったことを受け
   短期金融市場
で織り込まれる追加緩和の確率が上昇した。
 10月に0.25ポイントの利下げが行われる確率はほぼ50%と、先週の20%前後から大きく引き上げられた。

 ECBは今年に入り、6月と9月の2回に金利をそれぞれ0.25ポイント引き下げた。
 四半期に1回ずつ利下げが続くというのが最近まで市場が見込む基本シナリオだったが、米連邦準備制度が先週0.5ポイントの大幅利下げに踏み切ったことや、ユーロ圏経済の悪化を示すデータが発表されたことで
   緩和ペースの加速
を余儀なくされるとの見方が勢いづいた。

  
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バイデン米政権が「つながる車」で中国製とロシア製の技術排除を提案

 バイデン米政権は、「コネクテッドカー(つながる車)」に使われる中国製およびロシア製のハードウェアとソフトウェアの販売と輸入を禁止する規制を提案している。
 米商務省が 「非常に現実的 」と警戒する
   ハッキングの脅威
に対するセキュリティー強化が狙い。

 同規制は、WiFiやブルートゥース、携帯電話や人工衛星を通じて外部と通信できる自動車を保護することを目的としている。
 当局者らは、これらのシステムは外国からの干渉を受ける危険性があり、妨害や混乱につながる恐れがあるとしている。
  
 レモンド商務長官は「これは貿易や経済的優位性の問題ではない。国家安全保障上の行動だ」と記者団に電話で説明した。
 また、「われわれはコネクテッドカーが米国と国民にもたらす脅威、つまり非常に現実的な脅威に焦点を当てている」と続けた。
 
 
ひとこと
 そもそも、携帯電話に保管されている情報や位置、周辺の形態との連携で中国やロシアなど諜報機関による周辺情報を含めた情報が筒抜けになるリスクは常に有り、日本の国会で代議士が携帯を操作する画面が多々見られるが、外部からのアクセスを遮断する機能が施されていない携帯仕様では、外国勢力の工作員の手足になっている可能性もあり。本人の無知が周辺のリスクとなりえる極めて問題となる。
 自民党総裁選でこうしたセキュリティの問題を意識していないような効率化最優先で脇を相手に晒していては、防衛など安全安心な社会を作ると言っても話にもならない。
 
 
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商品市場における金相場はますます値固めを必要としている

 サクソ・バンクは顧客向けリポートで「商品市場における金相場はますます値固めを必要としているようだが、買い越しが2020年以来の高水準に膨らんでいるヘッジファンドを揺さぶるには、現時点では深い値固めが必要だ」と指摘した。

 金は年初来で27%上昇しており、中央銀行による買いに加え、中東とウクライナの紛争による逃避需要も相場上昇に寄与している。

  
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11月に再度の50bp利下げが実現するハードルはかなり高い

 ブラウン・ブラザーズ・ハリマン(BBH)の通貨戦略グローバル責任者
   ウィン・シン氏
は「先週の大幅利下げ後に明らかになった当局者発言からは、11月に再度の50bp利下げが実現するハードルはかなり高いようだ」と述べ、「だからといって不可能ではない。しかしそれには本当に弱い雇用関連の統計が2本必要になろう」と続けた。

 S&Pグローバルが発表した9月のユーロ圏HCOB総合購買担当者指数(PMI)速報値は48.9(前月の51)に低下した。
 なお、ブルームバーグまとめた予想は50.5だった。
  
   
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ミネアポリス地区連銀総裁は年内さらに0.5ポイントの米利下げを支持

   カシュカリ総裁
は23日、年内残る2回の連邦公開市場委員会(FOMC)では、各会合0.25ポイントずつの利下げを見込んでいると述べた。

 米CNBCで「50ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)の引き下げ後でも依然としてネットでタイトなポジションにあるので、最初の一歩を通常より大きくすることに違和感はなかった」と説明し、「データが大きく変わらない限り、今後は恐らく、より小さなステップになると予想している」と続けた。

 カシュカリ総裁はまた、11月と12月の会合での0.25ポイントずつの引き下げは「妥当な出発点」だと述べた。

 CNBCでの発言は、同日先にミネアポリス連銀のウェブサイトに掲載された自身の論文を詳述した形だ。
 この論文で総裁は、先週のFOMCで0.5ポイントの大幅利下げを自身が支持したと説明し、追加利下げについての見解を記した。

 また、インフレ率は著しく低下しており、米当局が目指す2%に迫っていると指摘し、労働市場では弱さの兆しが見られ始めていると続けた。

 「リスクバランスは、高インフレから労働市場のさらなる軟化の恐れへとシフトしている。これがフェデラルファンド(FF)金利引き下げを正当化する」と論じた。

 同氏は今年のFOMCで議決権を有していないが、金融政策協議には参加している。
  
 先週公表されたFOMC当局者の経済予測の中央値では、年内残り2回の会合でさらに0.5ポイントの利下げが示された。
  
 
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モルガン・スタンレー(Morgan Stanley) 米国の多国籍投資銀行 運用資産 1.46兆米ドル(2023年)

 米国の多国籍投資銀行および金融サービス会社
 41か国にオフィスを構え、75,000人以上の従業員を擁する同社の顧客には、企業、政府、機関、個人が含まれる。
 モルガン・スタンレーは、2023年のフォーチュン500社リストで総収益による米国最大の企業の61位にランクされる。
 同年にフォーブス・グローバル2000で30位にランクされた。
 本社 ニューヨーク市マンハッタンのミッドタウン、ブロードウェイ1585番地

 収益 541億米ドル(2023年)
 営業利益 118億米ドル(2023年)
 純利益 91億米ドル(2023年)
 運用資産 1.46兆米ドル(2023年)
 総資産 1.19兆米ドル(2023年)
 総資本 1,000億米ドル(2023年)
 
 従業員数 80,006人 (2023年)

 子会社
 ・モルガン・スタンレー・ウェルス・マネジメント
         (Morgan Stanley Wealth Management)
 ・E-Trade
 ・イートン・ヴァンス(Eaton Vance)
 ・ソリウム(Solium)
 
 主要株主(2023年12月の最大株主)
 ・三菱UFJフィナンシャル・グループ(23.06%)
 ・ステートストリートコーポレーション(6.97%)
 ・ヴァンガード・グループ(6.67%)
 ・ブラックロック(5.53%)
 ・JPモルガン・チェース(3.67%)

 JPモルガン・スタンレーは、JPモルガンの孫で JPモルガンのパートナーである
   ヘンリー・スタージス・モルガン
   ハロルド・スタンレー
らによって、米国の商業銀行業務と投資銀行業務の分割を義務付けた
   グラス・スティーガル法
に応えて1935年9月16日に設立された。
 設立初年度、同社は株式公開と私募で24%の市場シェア(11億米ドル)を獲得した。
  
 現在のモルガン・スタンレーは、1997年に元のモルガン・スタンレーと
   ディーン・ウィッター・ディスカバー・アンド・カンパニー
が合併して誕生した。
 ディーン・ウィッターの会長兼CEO
   フィリップ・J・パーセル
が、新たに合併した「モルガン・スタンレー・ディーン・ウィッター・ディスカバー・アンド・カンパニー」の会長兼CEOに就任した。

 新会社は2001年に社名を「モルガン・スタンレー」に戻した。
 現在、同社の主な事業分野は、機関投資家向け証券、資産管理、投資運用である。
 この銀行は、金融安定理事会によってシステム上重要な銀行とみなされている。
 
 モルガン・スタンレーは、関連会社や子会社を通じて、機関投資家、政府機関、個人向けに資本のアドバイス、組成、取引、管理、分配を行う金融サービス企業です。
 同社は、機関投資家向け証券、資産管理、投資運用の3つの事業分野で事業を展開している。
 
 モルガン・スタンレーは
   JPモルガン・アンド・カンパニー
を起源とする。
 1933年に米国議会がグラス・スティーガル法を可決した後、企業が単一の持株会社の下で
   投資銀行業務
   商業銀行業務
を持つことは不可能になった。

 JPモルガン・アンド・カンパニーは、投資銀行業務よりも商業銀行業務を選択した。
 その結果、JPモルガン・アンド・カンパニーの従業員の
   ヘンリー・S・モーガン
   ハロルド・スタンレー
など一部はJPモルガン・アンド・カンパニーを離れ、
   ドレクセル
のパートナーの他の従業員と合流してモルガン・スタンレーを設立した。
 同社は1935年9月16日、 JPモルガンからすぐ近くのニューヨーク市ウォール街2番地に正式に開業した。

 同社は1938年に米国鉄鋼会社の1億ドル(2023年に約17億ドル)の社債の発行に主幹事として関わった。
 また、1939年の米国鉄道資金調達の主幹シンジケートとなった。
 同社は1941年に証券業務のさらなる活動を可能にするために組織再編を行った。

 同社は1951年から1961年まで、モルガン・スタンレーを率いた最後の創業者
   ペリー・ホール
によって率いられた。
 この期間中、同社は1952年の世界銀行のトリプルA格付け債券発行を共同管理した。
 また、ゼネラルモーターズの3億ドルの債務発行、2億3100万ドルのIBM株式発行、およびAT&Tの2億5000万ドルの債務発行を手掛けた。

 モルガン・スタンレーは、1962年に金融分析のための最初の実用的なコンピュータモデルを作成した。
 金融分析の分野で新しいトレンドを開始したと自負している。
 将来の社長兼会長である
   ディック・フィッシャー
は、IBMでFortranとCOBOLプログラミング言語を学び、若い従業員としてコンピュータモデルに貢献した。
 1967年、同社はヨーロッパの証券市場への参入を試み、パリに
   Morgan & Cie, International
を設立した。

 同社は1967年にBrooks, Harvey & Co., Inc.を買収し、不動産ビジネスでの存在感を確立した。
 セールス&トレーディングビジネスはボブ・ボールドウィンの発案によるものと考えられている。
 1996年にモルガン・スタンレーは
   ヴァン・カンペン・アメリカン・キャピタル
を買収した。

 1997年2月5日、同社は
から分離独立した金融サービス部門であるディーン・ウィッター・ディスカバー・アンド・カンパニーと合併した。
 ディーン・ウィッターの会長兼CEOである
   フィリップ・J・パーセル
は、新たに合併した「モルガン・スタンレー・ディーン・ウィッター・ディスカバー・アンド・カンパニー」で同じ役職を継続した。

 モルガン・スタンレーの社長である
   ジョン・J・マック
は、会社の社長兼最高執行責任者に就任した。
 1998年、会社の名称は「モルガン・スタンレー・ディーン・ウィッター・アンド・カンパニー」に変更した。
 当初、この名前は、2つの会社間の緊張を避けるために、2つの前身会社を統合したものとして選ばれた。
 最終的に、2001年に「ディーン・ウィッター」はさらに削除され、名前は明らかにされていない理由で「モルガン・スタンレー」になった。
 合併後の企業は海外事業の拡大を開始し、1999年にマックは現地パートナーのJMファイナンシャルとインドに合弁会社を設立した。

 モルガン・スタンレーは、ワールドトレードセンターの1、2、5号館の35階にオフィスを構え、WTC複合施設最大のテナントだった。
 これらのオフィスのほとんどは、1980年代半ばからこのスペースを占有していたディーン・ウィッターから引き継いだものだった。
 同社は2001年9月11日の攻撃で13人の従業員を失った
 一方で、2,687人はリック・レスコラによって無事に避難した。

 生き残った従業員は付近の仮本社に移転した。
 2005年にモルガン・スタンレーは2,300人の従業員をマンハッタン南部に移転させたが、これは当時としては最大規模の移転であった。

 モルガン・スタンレー・ニューヨーク・プレスビテリアン小児病院は、ニューヨーク市で唯一の独立した小児病院であり、ニューヨーク・プレスビテリアン病院の一部である。
 2003年、ニューヨーク・プレスビテリアン病院は、病院建設の資金の大部分を慈善事業で賄った同社のスポンサーシップを称え、同病院をモルガン・スタンレー小児病院と名付けた。
 この取り組みはCEOのフィリップ・J・パーセルの下で始まり、ジョン・マックの下で完了した。
 同社の従業員は1990年代から病院に関わっており、2003年11月にオープンした現在の子供に優しい建物の建設に個人的に寄付を行った。

 同社は2005年3月から経営危機に陥った結果、スタッフの流出に至った。
 パーセルは2005年6月にモルガン・スタンレーのCEOを辞任した。
 モルガン・スタンレーの元パートナーによる大々的なキャンペーンが同社に損害を与える恐れがあり、積極的なレバレッジの拡大、リスクの増大、サブプライム住宅ローン事業への参入、高額な買収を拒否したパーセルの姿勢に異議を唱えたためである。
 これは、2007年までにサブプライム住宅ローン危機に関連してモルガン・スタンレーに大規模な減損を強いたのと同じ戦略である。

 2006年12月19日、モルガン・スタンレーはディスカバーカード部門のスピンオフを発表した。
 同行は2007年6月30日にディスカバー・ファイナンシャルのスピンオフを完了した。
 2007年2月、モルガン・スタンレーはインドでの合弁事業の終了を発表した。

 同行はインド現地パートナーの機関投資家向け証券業務の株式を取得し、その他の業務における自社の株式を売却した。
 その後、同行は100%出資の子会社を設立し、投資管理部門のインド代表である
   ナラヤン・ラマチャンドラン
が新子会社のCEOに就任した。
 合併・買収グループのマネージング・ディレクターである
   アイシャ・デ・セケイラ
が投資銀行部門の責任者に就任した。

 モルガン・スタンレーは、サブプライム住宅ローン危機による減損に対処するため、2007年12月19日に、2010年に自社株の9.9%に転換可能な証券と引き換えに、中国投資公司から50億ドルの資本注入を受けると発表した。 
 同銀行のプロセスドリブントレーディング部門は、ウォール街のいくつかの部門の1つとしてショートスクイーズに巻き込まれ、1日で3億ドル近くの損失を被ったと報じられている。
 その後のバブル崩壊は、2007年から2008年の金融危機の中心的な要素と考えられている。

 同銀行は2008年8月に米国財務省からファニーメイとフレディマックの救済戦略について政府に助言する契約を結んだ。
 数日のうちにモルガン・スタンレー自体も破綻の危機に瀕し、2008年9月中旬から10月中旬にかけての4週間の間に見通し、規制モデル、所有権が急速に変化した。

 モルガン・スタンレー銀行は、 2007年から2008年の金融危機の間に
   時価総額の80%以上を失った
と報じられた。
 2008年9月17日、英国の夕方のニュース分析番組ニュースナイトは、モルガン・スタンレーが2日間で株価が42%下落し困難に直面していると報じた。
 CEOのジョン・J・マックはスタッフへのメモで「我々は恐怖と噂に支配された市場の真っ只中にあり、空売り筋が当社の株価を押し下げている」と記した。

 2008年9月19日までに、株価は4日間で57%下落し、同社はCITIC、ワコビア、HSBCスタンダード・チャータードサンタンデール銀行、野村との合併の可能性を模索していると言われた。
 ある時点で、ハンク・ポールソンはJPモルガン・チェースにモルガン・スタンレーを無償で買収することを提案したが、JPモルガンのジェイミー・ダイモンはその提案を拒否した。

 米国の最後の2大投資銀行である
   モルガン・スタンレー
は、2008年9月22日に、連邦準備制度理事会の規制を受ける伝統的な銀行持株会社となると発表した。
 連邦準備制度理事会が両社の銀行化を承認したことで、議会が証券会社を預金取扱金融機関から分離してから75年を経て、証券会社の優位性は終わりを告げ
   リーマン・ブラザーズ・ホールディングス
を破産に追い込み
に急いで売却することになった数週間にわたる混乱に終止符が打たれた。 

 日本最大の銀行である三菱UFJ銀行は、2008年9月29日に90億ドルを投じてモルガン・スタンレーの株式21%を直接取得した。
 MUFGからの支払いは電子的に行われるはずだったが、コロンブスデーの米国で銀行が閉まっている日に緊急に行う必要があった。
 このため、MUFGは90億ドルの小切手を切った。
 これは当時、小切手による支払いとしては過去最高額だった。
 小切手は、モルガン・スタンレーのM&A担当グローバル責任者兼副会長である
   ロバート・A・キンドラー氏
によって、ワクテル・リプトンのオフィスで受け取られた。

 2008年10月の株式市場の変動時に三菱商事との取引の完了をめぐる懸念から、モルガン・スタンレーの株価は1994年以来の水準まで急落した。
 2008年10月14日に三菱UFJ銀行がモルガン・スタンレーの株式21%を取得すると株価は回復した。

 ブルームバーグ・ニュース・サービスがまとめ、2011年8月22日に発表したデータによると、モルガン・スタンレーは2008年の危機時にFRBから1073億ドルを借り入れており、これはどの銀行よりも多額の借り入れであった。

 2009年、モルガン・スタンレーはシティグループから
   スミス・バーニー
を買収し、新しい証券会社は世界最大の資産管理会社であるモルガン・スタンレー・スミス・バーニーの名称で運営された。

 2013年11月、モルガン・スタンレーは、経済、社会、環境の持続可能性を支援する取り組みへの投資を促進するための幅広い取り組みの一環として、手頃な価格の住宅の改善を支援するために10億ドル(2023年には約12億9000万ドル)を投資すると発表した。

 2014年7月、モルガン・スタンレーのアジアプライベートエクイティ部門は、同地域で4番目のファンドのために約17億ドル(2023年には約21.6億ドル)を調達したと発表した。
 2015年12月、モルガン・スタンレーは月末までに債券部門の人員を約25%削減すると報じられた。
 2016年1月、同社は43か国以上にオフィスを構えていると報告した。
 同社は2020年10月にE*Tradeの買収を完了した。

 この取引は2020年2月に発表された130億ドルの取引であり、2007〜2008年の金融危機以来、米国の銀行による最大の買収となった。
 2021年3月、モルガン・スタンレーは2020年10月に発表された
   イートン・バンス
の買収を完了した。
 イートン・バンスの買収により、モルガン・スタンレーのウェルスマネジメント部門と投資管理部門の顧客資産は5.4兆ドルとなった。

 同社は2022年12月に人員削減を実施し、ブルームバーグは同社が2023年半ばにさらなる人員削減を予定していると発表した。
 2023年5月2日、事情に詳しい人物が、モルガン・スタンレーが6月末までに約3,000人の人員削減を行う意向を明らかにしたと報じた。
 計画されている削減数は銀行全体の従業員数の約5%に相当し、ファイナンシャルアドバイザーとサポートスタッフは人員削減の対象外となっている。
  
 モルガン・スタンレーの機関投資家向け証券部門は、最も収益性の高い事業部門である。この事業部門は、資本増強などの投資銀行業務と、合併・買収アドバイザリー、リストラ、不動産・プロジェクトファイナンス、企業融資などの財務アドバイザリー業務を機関投資家に提供している。
 この部門には、同社の株式部門と債券部門も含まれており、トレーディングは同社の「エンジンルーム」としての地位を維持すると予想されている。

 モルガン・スタンレーは、米国の大手銀行の中で、債券引受業務からの収益が最も多く、2012年度の総収益の6.0%を占めたと報告されている。
 
 グローバル ウェルス マネジメント グループは、株式仲介および投資顧問サービスを提供している。
 この部門は、主に富裕層である顧客に、財務および資産計画サービスを提供している。

 2009年1月13日、グローバル・ウェルス・マネジメント・グループはシティのスミス・バーニーと合併し、モルガン・スタンレー・スミス・バーニーが設立された。
 モルガン・スタンレーは51%、シティは49%を所有していた。
 2012年5月31日、モルガン・スタンレーはシティから合弁事業の14%を追加購入するオプションを行使した。
 2013年6月、モルガン・スタンレーは、シティグループが保有するスミス・バーニーの残り35%の株式を買収するための規制当局の承認をすべて取得し、取引の最終調整を進めると発表した。

 2019年2月、同社は従業員持株制度の運用会社である
   ソリウム・キャピタル
を9億ドル(2023年には約10億6000万ドル)で買収すると発表した。
 同社は2020年10月にE-Tradeの買収を完了した。
 この取引は2020年2月に発表された130億ドルの取引であり、2007〜2008年の金融危機以来、米国の銀行による最大の買収となった。

 投資管理部門は、第三者の小売販売チャネル、仲介業者、およびモルガン・スタンレーの機関販売チャネルを通じて、機関投資家および個人投資家の顧客に株式、債券、オルタナティブ投資、不動産投資、プライベート・エクイティの資産管理商品およびサービスを提供している。

 モルガン・スタンレーの資産管理業務は、2009 年まで主にモルガン・スタンレーおよび Van Kampen のブランドで行われていた。
 2009年10月19日、モルガン・スタンレーは
   ヴァン・カンペン
をインベスコに15億ドル(2023年には約20億7000万ドル)で売却するが、モルガン・スタンレーのブランドは保持すると発表した。
 同社は、年金基金、企業、私募ファンド、非営利団体、財団、基金、政府機関、保険会社、銀行など、世界中の機関投資家に資産運用商品とサービスを提供している。
 2013年9月29日、モルガン・スタンレーは、UCITSヘッジファンドの流通を専門とするフランスに拠点を置く資産運用会社
   ロンシャン・アセット・マネジメント
と、オルタナティブ投資で10年の実績を持つマルチスペシャリスト資産運用会社
   ラ・フランセーズAM
との提携を発表した。

 2018年3月、モルガン・スタンレーは米国の大手商業用不動産信用プラットフォームである
   メサ・ウェスト
を買収し、実物資産とプライベート・クレジットにわたる既存の投資戦略と商品の提供を強化した。

 2021年3月、モルガン・スタンレーは2020年10月に発表された
   イートン・バンス
の買収を完了した。
 イートン・バンスの買収により、モルガン・スタンレーのウェルスマネジメント部門と投資管理部門の顧客資産は5.4兆ドルとなった。
 
 モルガン・スタンレーは主に機関投資家によって所有されており、株式の約60%を保有しています。
  
 2003年、モルガン・スタンレーは、ニューヨーク州司法長官
   エリオット・スピッツァー
全米証券業協会(現金融取引業規制機構(FINRA)、米国証券取引委員会(SEC)、およびいくつかの州証券規制当局が、対象企業との投資銀行業務を獲得したいという動機から意図的に誤解を招くリサーチを行ったとして起こした訴訟の和解金14億ドルのうち、自社の負担分として1億2500万ドルを支払うことに同意した。

 2004年、モルガン・スタンレーは雇用機会均等委員会が起こした性差別訴訟を5,400万ドル(2023年には約8,350万ドル)で和解した。
 2007年には、同社は8人の女性ブローカーが起こした集団訴訟を和解するために4,600万ドル(2023年には約6,510万ドル)を支払うことに同意した。
 2004年7月、同社はブローカーに関する報告義務のある情報の開示が1,800件以上遅れたとしてNASDに220万ドル(2023年には約340万ドル)の罰金を支払った。

 2004年9月、同社は登録募集における顧客への目論見書の配布の怠り、特定のプログラム取引情報の不正確な報告、空売り違反、新入社員の指紋採取の怠り、取引所フォームの期限内の提出の怠りを理由に、ニューヨーク証券取引所から1,900万ドル(2023年には約2,940万ドル)の罰金を支払った。

 ニューヨーク証券取引所は、2005年1月12日に規制と監督の不備の疑いで1900万ドル(2023年には約2850万ドル)の罰金を科した。
 当時、これはニューヨーク証券取引所が科した罰金としては過去最高額であった。

 2005年5月16日、フロリダ州の陪審は、モルガン・スタンレーがロナルド・ペレルマンにサンビームに関する適切な情報を提供しなかったためにペレルマンを欺き、6億400万ドル(2023年には約9億600万ドル)の損害を与えたと認定した。
 さらに懲罰的損害賠償が加算され、損害額は合計14億5000万ドルとなった。
 この判決は、モルガン・スタンレーの弁護士が書類の提出を怠ったり拒否したり、特定の書類が存在しないと虚偽の報告をしたりして裁判所を激怒させたことを受けて、裁判官がモルガン・スタンレーに対する制裁として下した。
 この判決は2007年3月21日に覆され、モルガン・スタンレーは15億7000万ドル(2023年には約22億2000万ドル)の判決金を支払う必要がなくなった。

 モルガン・スタンレーは2006年3月2日に集団訴訟を解決した。
 この訴訟は、金融アドバイザー研修プログラムの受講者に対して不当労働行為が行われたとして、カリフォルニア州でモルガン・スタンレーの現従業員と元従業員の両方によって提起されていた。
 研修プログラムの従業員は、会社側が研修生に追加の給与なしで残業時間を記録し、期待される職務の結果としてさまざまな管理費を負担することを期待していると主張していた。
 4,250万豪ドルの和解が成立し、モルガン・スタンレーは過失を認めなかった。

 5月に同社は1500万ドルの罰金を支払うことに同意した。
 証券取引委員会は同社が電子メールを削除し、SECの調査に協力しなかったと非難した。
 FINRAは2007年9月27日、モルガン・スタンレーとの1,250万ドル(2023年には約1,770万ドル)の和解を発表した。
 これにより、同社の元関連会社であるモルガン・スタンレーDW社(MSDW)が、仲裁手続きの原告や規制当局に何度も電子メールを提供しなかったという告発が解決した。
 同社は、2001年9月11日のニューヨーク世界貿易センターへのテロ攻撃で同社の電子メールサーバーが破壊され、その日付以前のすべての電子メールが失われたと主張していた。

 実際、同社は、攻撃で破壊されなかった別の場所に保管されていた
   バックアップコピー
から取得された、以前の何百万もの電子メールを保有していた。
 モルガン・スタンレーの不正行為を証明するこれらの電子メールを入手できなかったためにモルガン・スタンレーDW社との仲裁訴訟に敗訴した顧客は、和解の結果、少額の金銭を受け取った。
 2007年7月、モルガン・スタンレーは集団訴訟の和解金として440万ドル(2023年には約623万ドル)を支払うことに同意した。
 同社は貴金属の保管料を顧客に不当に請求したとして告発されていた。

 ニューヨーク州司法長官
   アンドリュー・M・クオモ
との和解により、同社は約45億ドル相当のオークションレート証券を買い戻すことに同意した。
 同社はオークションレート証券の販売とマーケティングにおいて虚偽の説明をしたとして告発された。

 2009年3月、FINRAは、ニューヨーク州ロチェスター地域の退職者90人の口座の取り扱いにおける不正行為に対して、モルガン・スタンレーが700万ドル以上(2023年には約966万ドル)を支払うと発表した。
 金融サービス機構は、同社のトレーディングデスクの1つで不正なトレーダーの行動に関連する管理を適切に行わなかったとして、同社に140万ポンドの罰金を科した。
 モルガン・スタンレーは2008年6月18日に、この結果、同社に1億2000万ドル(2023年には約1億6700万ドル)の損失が発生したことを認めた。

 2010年4月、商品先物取引委員会は、同社が原油先物取引の禁止行為を隠蔽しようとしたとして1,400万ドルの支払いに同意したと発表した。
 モルガン・スタンレーの中国における最高位の不動産幹部の一人である
   ガース・R・ピーターソン
は、4月25日に米国連邦反汚職法違反の罪を認めた。
 彼は、自分と中国政府高官のために数百万ドル相当の不動産投資を秘密裏に取得した罪で起訴された。
 その高官は、モルガン・スタンレーに業務を誘導していた。

 モルガン・スタンレーは、商品先物取引委員会に500万ドルの罰金を、 CMEとシカゴ商品取引所にさらに175万ドルを支払うことに同意した。
 モルガン・スタンレーの従業員は、ユーロドルと米国債先物契約で架空の売却を不適切に実行した。2012年8月7日、モルガン・スタンレーが価 格操作スキャンダルの解決のため480万ドルの罰金を支払うことが発表された。
 このスキャンダルにより、ニューヨーク市民はこれまでに3億ドルの損害を被ったと推定されている。
 モルガン・スタンレーはいかなる不正行為も認めていないが、司法省はこれが「銀行業界へのメッセージとなることを望んでいる」とコメントした。

 モルガン・スタンレー対スコウロン事件、989 F. Supp. 2d 356 (SDNY 2013)では、ニューヨーク州の不誠実使用人原則をモルガン・スタンレーのヘッジファンド子会社に関わる事件に適用し、シラ・シャインドリン連邦地方裁判所判事 は、ヘッジファンドの従業員が、不正行為を報告することも義務付けた会社の行動規範に違反してインサイダー取引を行った場合、不誠実期間中に雇用主が補償として支払った3,100万ドル(2023年には約4,000万ドル)全額を雇用主に返還しなければならないとの判決を下した。
 シャインドリン判事は、インサイダー取引を「ポートフォリオ・マネージャーの立場の究極の乱用」と呼んだ。
 判事はまた、「モルガン・スタンレーを政府の調査と直接的な経済的損失にさらしただけでなく、スコウロンの行動は同社の評判、つまり貴重な企業資産を傷つけた」と記した。

 2014年2月、モルガン・スタンレーは、連邦住宅金融局に住宅ローン証券に関連する全リスクを隠蔽したことに対する罰金として、米国政府に12億5000万ドルを支払うことに同意した。

 2014年9月、モルガン・スタンレーは、ミシシッピ州公務員退職年金制度(MissPERS)とウェストバージニア州投資管理委員会による訴訟を解決するために9,500万ドル(2023年には約1億2,000万ドル)を支払うことに同意した。
 モルガン・スタンレーは、住宅ローン担保証券の投資家を誤解させたとして告発された。

 2015年5月、モルガン・スタンレーは、6年以上にわたる空売り報告と規則違反により、FINRAから200万ドル(2023年には約251万ドル)の罰金を科せられた。
 2016年2月、モルガン・スタンレーは、2007年から2008年の金融危機前にモルガン・スタンレーが住宅ローン担保債券を発行した件で州および連邦当局と和解するため、32億ドル(2023年には約39億8000万ドル)を支払う予定である。

 2016年8月、モルガン・スタンレー香港証券は、香港の証券規制当局である証券先物取引委員会から香港の行動規範違反により1,850万香港ドル(240万米ドル)の罰金を科された。
 これには、モルガン・スタンレーが本人取引と代理取引の間の利益相反を回避できなかったことが含まれていた。
 2016年12月、モルガン・スタンレーの別の部門が顧客保護規則違反の和解金として750万ドル(2023年には約934万ドル)を支払った。

 2017年1月、同社は過剰請求と投資家資産保護保管規則違反により1,300万ドル(2023年には約1,590万ドル)の罰金を科せられた。
 モルガン・スタンレーは容疑についてコメントすることなく罰金を支払うことに同意した。

 ブローカーのダグラス・E・グリーンバーグは、オレゴン州レイク・オスウィーゴの4人の女性が15年間にわたり、嫌がらせ、脅迫、暴行の疑いで警察に保護を求めていたと報じられた後、2018年に解雇された。
 報告書によると、モルガン・スタンレーの幹部は疑惑を認識しており、少なくとも2人の逮捕と連邦召喚状を知っていたが、何の措置も講じなかった。
 この事件は、ポートランドの金融サービス業界における#MeTooの瞬間と呼ばれた。
 彼は数千万ドル(2023年には約1200万ドル)の資産を管理し、2018年のフォーブス誌のオレゴン州のトップ資産アドバイザーのリストに載っていた。

 2018年12月、FINRAは、マネーロンダリング対策の遵守に失敗したとして、モルガン・スタンレーに対して1,000万ドル(2023年には約1,200万ドル)の罰金を科すと発表した。
 モルガン・スタンレーは5年間にわたり銀行秘密法に違反していた。

 2019年4月、モルガン・スタンレーは、カリフォルニア州の2つの大手公的年金基金に住宅ローン担保証券のリスクについて誤解を与えたとして、1億5000万ドル(2023年には約1億7600万ドル)を支払うことに同意した。
 カリフォルニア州司法長官のザビエル・ベセラ氏は、「モルガン・スタンレーは自社の商品のリスクについて嘘をつき、そのアドバイスに頼った教師や公務員よりも利益を優先した」とコメントした。
 モルガン・スタンレーは不正行為を否定した。

 2019年11月、モルガン・スタンレーは証券価格の誤記の疑いでトレーダー4人を解雇または休職とした。
 同社は証券価格の誤記により1億〜1億4千万ドルの損失が隠蔽されたと疑っていた。

 モルガン・スタンレーは、最も安価な選択肢を見つけるためのツールを使用したと顧客に説明していた。
 にもかかわらず、より安価な選択肢があるにもかかわらず、より高価な投資信託の株式クラスに顧客の資金を投入したというSECの申し立てを解決するために150万ドルの罰金を支払った。
 
 2020年5月、モルガン・スタンレーは、同社が
   小売ラップ手数料プログラム
において取引執行サービスと取引コストに関して一部顧客に誤解を招く情報を提供したとのSECの申し立てを解決するために500万ドルの罰金を支払うことに同意した。

 2022年9月、SECは、5年間にわたり約1500万人の顧客の個人情報を保護できなかったとして、モルガン・スタンレーに対する告訴を発表した。
 モルガン・スタンレーは、SECの告訴を解決するために3500万ドルの罰金を支払うことに同意した。

 2023年11月、コネチカット州司法長官ウィリアム・トンは、セキュリティ対策の怠慢により顧客の個人情報が漏洩したとしてモルガン・スタンレーと650万ドルの和解を発表した。

 2024年1月、モルガン・スタンレーは、同行のブロック取引の監督者と別の従業員による投資家へのブロック取引の無許可開示に関する刑事捜査と証券取引委員会の関連調査を解決するために2億4,900万ドルを支払うことに同意した。

 著名な従業員等
 ・ダン・アマン
   元ゼネラルモーターズ社長
   クルーズオートメーション最高経営責任者
 ・バートン・ビッグス
   作家、ヘッジファンドマネージャー
 ・アースキン・ボウルズ
   クリントン大統領首席補佐官
 ・リチャード・A・デブス
   カーネギーホール会長、中東の実力者
 ・ボブ・ダイアモンド
   元バークレイズ最高経営責任者
 
 ・リチャード・B・フィッシャー
   ロックフェラー大学およびバード大学理事長、三極委員会委員
 ・ウィリアム・E・フォード
   ゼネラル・アトランティック会長兼CEO
 ・エリック・グリーチャー
   Gleacher & Co.の創設者
 ・ニーナ・ゴディワラ
   『SUITS/スーツ ウォール街の女』の著者
 ・ロバート F. グリーンヒル
   Greenhill & Co.の創設者
 
 ・デビッド・グリマルディ
   ニューキャッスル郡政府最高行政責任者
 ・ジョン・ヘイブンズ
   シティグループ社元社長
 ・リンゼイ・ゴールドバーグ
   2001年に卒業生のアラン・ゴールドバーグとボブ・リンゼイによって設立された先駆的なバイアウト会社です。
 ・ナイジェル・マキューアン
   クラインオート・ベンソン・ノース・アメリカの元最高経営責任者
   メリルリンチの元社長
 ・ジョン・J・マック
   ニューヨーク・プレスビテリアン病院理事長

 ・レイモンド・J・マクガイア
   ラザード社社長
 ・メアリー・ミーカー
   クライナー・パーキンスのパートナー兼ボンド・キャピタルの創設者
 ・ミッチェル・M・メリン
   財務担当役員
 ・アイリーン・マレー
   ブリッジウォーター・アソシエイツ共同社長
 ・ファハド・アル・ムバラク
   サウジアラビア中央銀行総裁
 
 ・トーマス・R・ナイデス
   イスラエル駐在米国大使
 ・アン・オリヴァリウス博士
   マカリスター・オリヴァリウス会長、大西洋横断雇用および差別弁護士
 ・スティーブン・A・オックスマン
   国務次官補、プリンストン大学理事会議長
 ・ヴィクラム・パンディット
   シティグループ元最高経営責任者
 ・ジョセフ・R・ペレラ
   慈善家。ペレラ・ワインバーグ・パートナーズの創設者
 
 ・チャールズ・E・フィリップス
   オラクル社元社長、インフォア社CEO
 ・ルース・ポラット
   最高財務責任者、アルファベット社
 ・フランク・クアトロネ
   Qatalyst Group 創設者
 ・スティーブン・ラトナー
   プライベートエクイティマネージャー兼コメンテーター
 ・スティーブン・S・ローチ
   イェール大学教授
 
 ・ベンジャミン・M・ローゼン
   コンパック・コンピュータ共同創設者、カリフォルニア工科大学学長
 ・デビッド・E・ショー
   ヘッジファンドマネージャー
 ・チップ・スコウロン
   ヘッジファンドのポートフォリオマネージャー、インサイダー取引で有罪判決
 ・ビャーネ・ストロウストルップ
   C++プログラミング言語の開発者[ 
 ・トーマス・O・スタッグス
   ディズニーCOO兼CFO
 
 ・チャールズ・F・スチュワート
   サザビーズCEO
 ・ジョン・J・スタッドジンスキー
   CBE、アメリカ系イギリス人の投資銀行家、慈善家
 ・デイビッド・ウォーカー卿
   バークレイズPLC会長
 ・ケビン・ウォーシュ
   ジョージ・W・ブッシュ大統領の経済顧問、連邦準備制度理事会理事
 ・バイロン・ウィーン
   伝説の投資ストラテジスト、ブラックストーン社 

   
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米金融政策当局に劇的な見通し変更を迫るものではない

 S&Pグローバルがまとめた9月のユーロ圏の購買担当者景気指数(PMI)はサービス業の鈍化と製造業の一段と落ち込みを受け好不況の分かれ目である50を下回った。
 ドイツで予想以上に悪化し景気後退入りを示唆したほか、フランスも五輪が終わったことで8カ月ぶり低水準に落ち込んだ。
 総合PMI速報値は8月の51.0から48.9に悪化した。
 2月以来初めて50を下回った。ロイターがまとめた市場予想は50.5だった。
 9月のユーロ圏HCOB総合購買担当者指数(PMI)

   アダム・クリサフルリ氏
は「どっちつかずの統計と言える。米金融政策当局に劇的な見通し変更を迫るものではない」と指摘した。
 また「米経済が適度に健全な足取りであることを示唆している。欧州と比べるとそれは顕著だ」と続けた。

   
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ウニクレディトは米英2行が手助けし周到に準備、コメルツ株を追加取得

 イタリアの銀行、ウニクレディトは、英銀バークレイズバンク・オブ・アメリカ(BofA)の手助けを得て、以前から周到に独コメルツ銀行の株式追加取得を準備していた。
 欧州金融界を揺るがした今回の動きに対し、ドイツ政府は強く反発した。 
   
 この事情に詳しい関係者が非公開情報を話しているとして匿名を条件にメディアの取材で明かしたた内容が市場に流れた。
 この情報では、ドイツ政府は今月に入りコメルツ銀の持ち株を一部手放したが、バークレイズはその数週間前にウニクレディト向けにコメルツ銀行株に絡むデリバティブ(金融派生商品)をアレンジしたという。
 また、ウニクレディトはその後、バークレイズとBofAの支援を得て、コメルツ銀の持ち株比率を事実上、現在の約21%程度まで引き上げたという。

 ウニクレディトは約2週間前にドイツ政府が売却したコメルツ銀の4.5%株を全て買い上げた。
 この時既にウニクレディトは、デリバティブを含む公開市場での取引を通じてコメルツ銀行株4.5%を保有していた。
 23日発表した声明でウニクレディトは、コメルツ銀の持ち株を21%に引き上げるために金融取引を活用したことを明らかにした。

 ドイツ政府はこのアプローチに対して、反対の立場を明確にしている。
 シュルツ首相は23日、「これは適切な行動ではない」と批判した。

 ウニクレディトは声明で、「デリバティブ取引の現物決済」が行われれば、コメルツ銀株を正式に追加取得し、同行の筆頭株主となる。
 しかし、「必要な承認が得られない限り、その決済は行われない可能性がある」と説明した。
 ウニクレディトは持ち株比率を最大で29.9%まで引き上げることについて欧州中央銀行(ECB)の承認を求めている。
  
   
ひとこと
 国際資本が協力して、異次元の金融政策で円安で安価になっている莫大な内部留保資金を蓄え、海外にも多くの資産を薄価で算出している日本企業の株式を買い進めており、円高に切り替えさせて吊し上げ、企業資産を吐き出させる動きが強まることだろう。
   

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