2024年09月19日

米新規失業保険申請 健全な雇用市場を示唆し、4カ月ぶりの低水準

 先週の米新規失業保険申請件数(9月14日終了週)は
   21万9000件
と前週比ー1万2000件の減少で、5月以来の低水準となった。
 また、人員採用の減速にもかかわらず、雇用市場が引き続き健全なことを示唆した。

 事前調査のエコノミスト予想値は23万件だった。
 前週は23万1000件(速報値23万件)に修正した。
  
 失業保険の継続受給者数(9月7日終了週)は183万人に減少した。
 先週は9月雇用統計の調査週でもあった。
  
   
posted by manekineco at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京時間、債券相場は下落

 東京時間、債券相場は下落した。
 利回り曲線は超長期債主導でスティープ(傾斜)化した。
 
 パウエルFRB議長が大幅利下げ決定後に先行きの利下げを急がない姿勢を示し、米金利が上昇した流れを引き継いだ。外国為替市場で円が対ドルで一時1%超下落し、円安による期待インフレ上昇観測も相場の重しとなった。

   
posted by manekineco at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

先行き利下げを急がないとの見方から米長期金利が上昇し、円売り

 海外市場でFRBの大幅利下げを受けて円相場は一時140円台半ばまで上昇したが、パウエル議長の会見により
   利下げは急がない
との見方が広がり、円が売り戻された。
 
 りそなホールディングス市場企画部のシニアストラテジスト
   井口慶一氏
は、先行き利下げを急がないとの見方から米長期金利が上昇しており、国内輸入企業の円売りもあって円相場の下落幅が拡大したと話した。
  
    
posted by manekineco at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京株式市場は円安に伴い、株が買われて急上昇し3万7000円台 米大幅利下げ継続の観測が後退しての円安

 日本市場は19日、株価が米国が大幅な利下げを継続するとの見通しが後退して円が売られ、輸出関連株中心に値上がりするなど買いが強まり大幅高となり、日経平均は3万7000円台を2週間ぶりに回復した。 
 
 上げ幅が一時前日比1000円を超えた日経平均株価は終値で4日以来の3万7000円台に乗せた。
 円安メリットがある電機や自動車中心に買いが先行した。
 
 4年半ぶりの緩和で米連邦公開市場委員会(FOMC)は0.5ポイントの大幅利下げを決定した上で、パウエル連邦準備制度理事会(FRB)議長は会合後に緩和を急がないと述べた。
 これを受けて円が下落、債券相場も安い(金利は上昇)。

 米利下げを受けた米国では株価と債券が下落、円や金も上げを消した。
 
 織り込み済みの形で、今後の大幅利下げ継続の観測も後退、日本市場も影響を受けた。
 米金融当局は物価と雇用の両にらみで政策を進める。
 
 市場の焦点は20日の日本銀行の金融政策決定に移るが政策は維持の公算で、植田和男総裁会見の重要度が増すが、また、決算期末を控えて企業業績の行方もクローズアップされやすい。

  
posted by manekineco at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日銀が今会合でも何かするのではないかという恐怖感はあるが、まやかしの足が見え隠れ

 東海東京インテリジェンス・ラボのチーフ株式マーケットアナリスト
   鈴木誠一氏
はリポートで、日銀が「7月会合で想定外の利上げをしたことで、今会合でも何かするのではないかという恐怖感はある」としながらも、政策変更なしとなれば相場は落ち着き、日本株には割安感から買いが入ると予想する。


  
posted by manekineco at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

英中銀が政策金利を5.00%で据え置き

 イングランド銀行(英中央銀行 BOE)は19日、政策金利を5.00%で据え置くと発表した。

 金融政策委員会(MPC)メンバーは、今回の据え置きを8対1で決定した。
 ベイリー総裁は利下げについて「徐々に時間をかけて」実施する方針を示唆した。
  
  
posted by manekineco at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シタデル・セキュリティーズが、もはや米政府公認ディーラー目指さない?

 米国債取引で支配的な立場を目指す同社の幹部陣は、過去10年近くにわたって、ニューヨーク地区連銀と直接取引するプライマリーディーラーになることを目標達成への一歩と捉えていた。
 
 現在、米シタデル・セキュリティーズはウォール街で名誉あるステータスとされる
   プライマリーディーラー(政府証券公認ディーラー)
の一員になる計画を見合わせているという。

 シタデル・セキュリティーズは米国債の主要なマーケットメーカー(値付け業者)としての地位を既に確立していることから、もはやプライマリーディーラーに認定される必要はないと考えていると、この事情に詳しい複数の関係者がメディアの取材で匿名を条件に明らかにした。

 「シタデル・セキュリティーズは米財務省証券に投資する機関投資家にとって、最大級の流動性プロバイダーだ」と同社は電子メールでコメントしている。
 「中央清算への移行を含め、市場が民主化と進化を続ける中、最良の流動性へのアクセスを求める顧客はプライマリーディーラーの認定をそれほど重視しなくなっている」と続けた。
 

 
posted by manekineco at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シェル(Shell plc 旧称: ロイヤル・ダッチ・シェル Royal Dutch Shell plc〉 ロンドンに本拠を置き、石油・天然ガス等のエネルギー関連事業を展開する多国籍企業 2022年9月15日時点での時価総額は1,990億米ドル

シェル(Shell plc、旧称: ロイヤル・ダッチ・シェル Royal Dutch Shell plc〉
 イギリス・ロンドンに本拠を置き、石油・天然ガス等のエネルギー関連事業を展開する多国籍企業。
 ロンドン証券取引所、ユーロネクスト・アムステルダム、ニューヨーク証券取引所上場企業(LSE: SHEL、Euronext: SHELL 、NYSE: SHEL)。
 第二次世界大戦後から1970年代まで、世界の石油の生産をほぼ独占状態に置いたセブン・シスターズ7社の内の一社であり、売上高でヨーロッパ最大のエネルギーグループである。
 グループ企業は145の国に広がり、世界中に47以上の製油所と、4万店舗以上のガソリンスタンドをグローバルに展開している。

 シェルの事業は、垂直統合で行っており、探鉱・生産・輸送・精製・販売までの事業を一括でしている。
 また、事業の多角化を早くから行っており、シェルは石油事業・ガス事業・石炭事業・化学事業・原子力発電事業・金属事業など様々な事業を保有している。
 2000年代の初めからは代替エネルギーに力を注ぎ、太陽光発電・風力発電・水素プロジェクトなどの新規分野にも積極的に投資をしている。
 同社が出資するロンドンアレイは、 2006年12月に世界最大の海上風力発電所を建設すると発表した。
 
 シェルの歴史は、ロンドンに開店した小さな骨董品店まで遡る。
 最初はカスピ海から輸入した貝殻を加工した工芸品の販売から始まり、やがて貝殻の供給元を求めてアジア方面に進出し取り扱い商品を増やしていった。
 その後、一連の事業は息子の
   マーカス・サミュエル(後の初代バーステッド子爵)
が継ぎ、ボルネオ島の油田開発に成功した。
 本格的に石油事業へ進出して1897年に
   シェル・トランスポート&トレーディング・カンパニー
を設立して、採掘から輸送・精製・販売まで一貫して手掛け
   世界最初の「タンカー王」
となった。

 また、マーカスと弟は横浜で金融業の
   サミュエル商会
を営み、数回にわたり日本の外債を引き受けている。

 シェルの名称は貝殻を販売していたことに因み、トレードマークは当初ムール貝であったが、1904年に現在のマークの原型となるヨーロッパホタテ(Pecten maximus、ホタテガイに近縁なホタテガイ属の1種)に変更した。
 これは出資者の家紋がヨーロッパホタテであったことに由来し、以後今日まで使われているペクテンマークの起源となっている。

 世界各地で米国のジョン・デイヴィソン・ロックフェラーが創業したロックフェラー系の
との競争が熾烈になった。
 このため、シェルはオランダの
   ロイヤル・ダッチ
と石油の利権を確保するため1903年に業務提携を結んだ。

 ロイヤル・ダッチは、オランダ領東インド(現インドネシア)を拠点に活動していた
   ジャン・バティスト・アウグスト・ケスラー(Jean Baptiste August Kessler)
が1890年にオランダ王室からの特許状を得て、オランダ領東インド石油開発会社を設立、石油開発に着手したことに端を発する。

 過酷な気候や風土病に悩まされながらも1892年に操業を開始した。
 その際スタンダード・オイルへの対抗もありシェルに石油運搬を委託していた。
 ロイヤル・ダッチとの提携のきっかけは
   Asiatic Petroleum Company
という合弁事業であった。

 パリ家ロスチャイルドも参加したが、実際の交渉にあたったのはロスチャイルド側の
   Fred Lane
と、シェルおよびロイヤル・ダッチ側の
   Henri Deterding
であった。
 1907年に「ロイヤル・ダッチ/シェルグループ」を形成した。

 2005年まで100年近く続いたこの体制は、オランダの事業親会社
   ロイヤル・ダッチ・ペトロリアム
とイギリスの事業親会社
   シェル・トランスポート&トレーディング
       (The Shell Transport & Trading Company plc)
の2つの法人が60:40の比率でアライアンスを組んだ状態(二元上場会社)であった。
 一般には「ロイヤル・ダッチ/シェル 」というような表示をされ、便宜的に単一の会社であるように理解されていた。
 しかし、あくまでも2社の事業提携(アライアンス)であり、単一の事業法人ではなかった。
 報道紙面での呼称がそのように通例化されていたのはその現れであった。

 1911年にアゼルバイジャンの油田をロスチャイルドから購入した。
 世界恐慌のころから
に油田探査を依頼し、青天井に原油生産量を増やした。

 1960年代以降ナイジェリアでも操業し、政府系企業などと合弁でシェル・ナイジェリアとして活動している。
 この事業提携が事実上の単一企業と看做されて98年続いてきた。
 また、アルジェリアのイナメナスでも世界一のガス田ハッシ・ルメルをめぐり他社と開発を競争した。

 2001年ごろから傘下の油田の埋蔵量を下方修正するなど財務上の問題が明らかになった。
 株主よりコーポレートガバナンス(企業統治)上の透明性向上の要求から単一法人化を求める圧力が急激に高まっていた。
 こうして、2005年5月、98年間続いた2社提携の状態に終止符が打たれ、両社は合併して単一の法人ロイヤル・ダッチ・シェルとなった(登記上の拠点はオランダ・ハーグに置かれた)。

 2012年2月10日、国家戦略としてエネルギー資源の獲得に意欲を見せる
   中華人民共和国の中国石油天然気勘探開発公司(中国石油天然気集団の子会社)
が、ロイヤル・ダッチ・シェルが保有する、カナダブリティッシュコロンビア州グラウンドバーチの権益の20%を買収した。
 同地域の天然ガス液化工場での共同プロジェクトに参画することとなった。

 2015年、イギリスの同業大手BGグループの買収を発表、2016年2月に完了した。
 2017年10月、電気自動車の充電サービスを提供するオランダのNewMotionを買収した。
 2021年11月15日、税務上の拠点をイギリスに移し社名をシェルに変更することを発表した。
 2022年1月21日に拠点移転および社名変更が実施された。
 2022年11月1日、 フィリピン唯一の天然ガス田であるマランパヤガス田の開発から撤退した。

 日本法人昭和シェル石油株式会社は2016年12月まで傘下にあったが、2018年7月に出光興産に事業を、2020年2月に雇用契約を承継した。
 同年7月にRSエナジー株式会社に改称した。
 2021年4月以降出光興産が新ブランド「アポロステーション」を使用開始し順次「出光」・「シェル」ブランドから転換することに伴い2023年までに日本国内でのシェルブランドのガソリンスタンドは消滅する予定としていた。
 最終的に同年12月をもって消滅した。
 
    
posted by manekineco at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

AIで仕事一変?為替ディーラーの役割は「アルゴのDJ」に

 ヘッジファンドや資産運用会社、中央銀行がより安価な取引と高い匿名性に引き付けられる中、1日当たり7兆5000億ドル(約1064兆円)規模に上る世界の為替取引では機械による処理がますます増えつつある。
  
 アムステルダムで今週開催された会議
   トレードテックFX
で人工知能(AI)が
   人間による監視の必要性
を完全に排除するという点については懐疑的な声が出ている。
 
 ノルウェーの政府系ファンド(SWF)
   ノリゲス・バンク・インベストメント・マネジメント
の為替トレーダー
   アラン・マーティン・ルセロ氏
は「正直に言おう。少なくともバイサイドの資産運用者に関しては、われわれは今や単なるアルゴリズムのディスクジョッキー(DJ)に成り下がってしまった」と指摘した。
 また、「当社が現在持つテクノロジーの活用により、取引プロセスの約85%を自動化することも可能な状況だ」と続けた。

 アルゴリズム取引は既に、スポット為替取引の75%超を処理しており、ルセロ氏はこれについて、トレーディングデスクを担当する人材の必要性が今後ますます低下し、残った人材は他のスキルを身に付けなければならなくなると指摘した。

 ルセロ氏は「そうした技術の進展により新しい類いの役割、何でも屋のような役割が生じることになる」とし、「われわれは法律や決済、取引コスト分析、執行などこのビジネスにおける多くの領域で専門家となることが期待される」と述べた。

  
posted by manekineco at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

キャピタルグループ(Capital Group Companies) 。世界で最も古く、最も大規模な投資管理組織の一つ 運用資産 2.6兆ドル(2023年)

キャピタルグループ(Capital Group Companies)
 米国の金融サービス会社です。世界で最も古く、最も大規模な投資管理組織の一つ。
 1931年にカリフォルニア州ロサンゼルスで設立された非公開企業で、南北アメリカ、アジア、オーストラリア、ヨーロッパなど世界中にオフィスを構えている。

 収益 76億ドル(2020年)
 運用資産 2.6兆ドル(2023年) 
 従業員数 7,500人(2020年)

 ・キャピタル・リサーチ・アンド・マネジメント・カンパニー
 ・キャピタル・バンク・アンド・トラスト・カンパニー
 ・FSB
 
 キャピタルは、子会社のアメリカン・ファンズ・ディストリビューターズを通じて40以上の投資信託を取り扱っている。
 このほか、個別管理口座(または集合投資信託)、プライベート・エクイティ、米国の富裕層投資家向け投資サービス、世界中の機関投資家や個人投資家向けのさまざまな商品など、アクティブ運用に重点を置いた幅広い商品を提供している。
 
 1931年、ジョナサン・ベル・ラヴレースは
   投資会社ラヴレス・デニス・アンド・レンフルー
を設立した。
 この会社は後にキャピタル・グループとなる。
 ラヴレスは以前、株式 仲買会社
   E.E.マクロン
で共同経営者を務めており、そこでオープンエンド型投資信託の開発構想を模索していた。
 結局、 1929年のウォール街大暴落の直前に、その会社の株式を売却し損失を免れた。

 1933年、ラヴレースの会社は、彼が1927年にEEマクロンで立ち上げた
   アメリカ投資会社(The Investment Company of America)
の経営を引き継ぎ、その後20年間、彼の会社はそこそこの成功を収めた。
 1950年代に投資信託の人気が高まるにつれ、キャピタルの投資信託のラインナップも拡大した。

 1954年に設立された国際資源ファンドは、キャピタルが国際投資に進出した最初の例である。
 その1年前、ラブレスは息子の
   ジョン・ラブレス・ジュニア
の勧めで国際投資スタッフを設立していた。
 1962年には、ジュネーブに同社初の海外調査事務所が設立された。

 1958年、ジョン・ラヴレス・ジュニアは、同社の投資信託と口座を管理する新しいシステムを導入した。
 ポートフォリオを1人のマネージャーに割り当てるのではなく、各ポートフォリオを複数のマネージャーに分割した。
 各マネージャーは同僚とアイデアを共有しながらも、ポートフォリオの一部については完全な裁量権を持つ。

 今日ではキャピタル・システムとして知られるこのシステムでは、1人のマネージャーに「スター」が誕生する現象を回避している。
 そのスターが辞めればファンドの業績に影響が出る可能性があるためだ。
 1960年代半ば、キャピタルはポートフォリオの管理にリサーチアナリストを参加させ、各ポートフォリオの一部をアナリストが最も確信のある投資アイデアを追求できるように留保した。

 キャピタル・グループの長期的なアプローチは、他の企業を悩ませてきたいくつかの落とし穴を回避するのに役立っている。
 1990年代後半、同社は当時人気のあったテクノロジーファンドを提供していないとして批判された。
 しかし、テクノロジーバブルが崩壊したとき、キャピタルは時流に乗らなかったとして賞賛された。

 元英国首相テリーザ・メイの夫
   フィリップ・メイ
はキャピタル・グループのリレーションシップ・マネージャーとして働いていた。
 
 2019年現在、キャピタル・グループはBAEシステムズの5% 、ブリティッシュ・アメリカン・タバコの9%、ASMLホールディングスの15.28%を保有している。

 最高経営責任者はティム・アーマー氏であり 、ジェームズ・ローゼンバーグ氏の死後2015年に引き継いだ。
 
 ファンドには通常3人から13人のマネージャーがおり、各マネージャーはポートフォリオの一部を独立して運用することでキーパーソンのリスクを軽減し、思考の多様性を確保している。
 マネージャーは財務調査に加え、現地でのデューデリジェンスを行うこともあり、2018年には工場などの施設を12,400回訪問した。
 同社には株式に特化した3つの独立した部門、キャピタル・ワールド・インベスターズ、キャピタル・リサーチ・グローバル・インベスターズ、キャピタル・インターナショナル・インベスターズがあり、債券に特化した部門、キャピタル・フィクスト・インカム・インベスターズがある。
 
 2019年現在、キャピタル・グループはアメリカン・ファンドの名の下に36の投資信託を運営しており、運用資産は約1.9兆ドルに上る。
 1973年に設立されたグロース・ファンド・オブ・アメリカは、2020年時点で約1500億ドルのアクティブ運用ファンドとして最大規模であった。
 2022年にキャピタル・グループは、株式に重点を置いた5本と債券やその他の固定収入に重点を置いた1本の計6本のETFを導入した。
 2019年現在、同社は450人のパートナーによって所有されている。
 
 キャピタル・グループは世界中で7,500人以上の従業員を雇用している。
 北米の拠点には、アトランタ、ロサンゼルス、サンアントニオ、インディアナポリス、ニューヨーク、サンフランシスコ、トロント、ワシントンDCがある。
 ヨーロッパでの拡大計画の一環として、キャピタル・グループはジュネーブ、ロンドン、ルクセンブルクのオフィスに加え、フランクフルト、マドリード、ミラノ、チューリッヒにも拠点を設立した。
 アジアのオフィスには、北京、香港、ムンバイ、シンガポール、東京がある。キャピタル・グループはシドニーでも存在感を高めている。

  
posted by manekineco at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マーク・スターン(Marc Stern) TCWグループの会長

マーク・スターン(Marc Stern) 
 米国の弁護士、企業経営者、慈善家
 カリフォルニア州ロサンゼルスに拠点を置く資産運用金融機関
の会長を務めている。
 また、メジャーリーグのミルウォーキー・ブルワーズとNBA のミルウォーキー・バックスの少数株も所有している。
 スターンはロサンゼルス・オペラの会長も務めている。
 
 マーク・アーウィン・スターンは
   シルヴィア(旧姓グッドマン)
   アルバート・B・スターン
の息子としてニュージャージー州ヴァインランドのユダヤ人家庭に生まれた。
 ペンシルバニア州カーライルのディキンソン大学を卒業し、政治学と歴史学の学士号を取得した。
 その後、ニューヨーク市のコロンビア大学で政治学の修士号と法学博士号を取得した。
 
 スターンは1970年から1974年までニューヨーク市に拠点を置く法律事務所
で弁護士として活動した。
 その後、 1974年から1986年まで航空宇宙、自動車、エンジニアリング会社
   アライド・シグナル
に勤務した。
 その後、ヘンリー・グループのマネージング・ディレクター兼最高管理責任者を務めた後、
の子会社となったサンアメリカの社長を務めている。

 スターンは1990年から2005年までTCWグループの社長を務めた。
 その後、2005年から2013年まで取締役会副会長、2009年から2012年まで最高経営責任者を務めた。
 また、2007年から2013年まで
の経営委員会およびグローバル投資管理サービス(GIMS)に所属していた。

 TCWグループソシエテジェネラルの所有だったが、現在はカーライル・グループが所有している。
 2009年、スターンは資産運用会社の
を解雇した。
 ガンドラックはその後自身の会社ダブルライン・キャピタルを設立した。

 ガンドラック氏がTCWを相手取って5億ドルの訴訟を起こした後、スターンはガンドラック氏が
   TCWの顧客リスト
を盗んで自分の会社を立ち上げるのではないかと恐れていたと証言した。
 スターンは2013年にTCWグループの会長に就任した。
 彼は1994年2月からクアルコムの取締役を務めている。

 スターンはスポーツへの関心から、プロ野球チームの
とプロバスケットボールチームの
の少数株主となっている。

 スターンは、 2028年夏季オリンピックのロサンゼルス開催を成功させたオリンピック招致委員会のメンバーだった。
 第34回オリンピック競技大会は、ロサンゼルスとその周辺都市圏にとって3度目の開催となり、前回は1932年の第10回夏季オリンピック、1984年の第23回夏季オリンピックであった。
 
 スターンはロサンゼルス・オペラの評議員会会長を務めている。
 また、ロサンゼルス・フィルハーモニックへの大口寄付者でもある。

 ロサンゼルス郡舞台芸術センター、ジョン・F・ケネディ舞台芸術センター、カリフォルニア工科大学、ニューヨーク市メトロポリタン歌劇場、ロサンゼルス連合の評議員を務めている。
 フランス共和国から国家功労勲章コマンドールを授与された。
 彼と妻は、芸術と文化、病気と症状、教育、ユダヤ教、博物館、非営利団体、舞台芸術、ユダヤ系施設、公的慈善事業に焦点を当てたマーク・アンド・エヴァ・スターン財団(旧スターン・ファミリー財団)を運営している。

 ロサンゼルスにあるマーク・アンド・エヴァ・スターン数学・科学学校は彼と彼の妻にちなんで名付けられた。
 
 スターンは妻とともに、2011年にカリフォルニア州ビバリーヒルズのビバリーヒルトンホテルで共和党大統領候補の
   ミット・ロムニー
の資金集めイベントの共同議長を務めた。
 彼はアメリカンエンタープライズ研究所の全国評議会の委員を務めている。
 
 スターンは、臨床ソーシャルワーカーであり慈善家でもあるエヴァ・スターンと結婚している。
   
    
posted by manekineco at 07:39| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米住宅着工件数は予想以上に増加、4月以来の高水準へと持ち直す

 米住宅着工件数は8月に前月比9.6%増加の年率135万6000戸とエコノミストの131万8000戸という予想以上に増加した。
 減少していた前月から盛り返した。
 在庫水準が懸念される一方で、借り入れコスト低下に伴う需要拡大が期待されている。
 住宅建設の動向は不安定な状況が続いている。


 住宅建設許可件数は4.9%増えて年率147万5000戸
 一戸建て住宅の建設許可件数は4カ月ぶりの高水準となった。

 着工件数のうち、一戸建て住宅は16%近く増加し年率99万2000戸と、2月より後で初めて増えた。集合住宅は5月より後で初めて減少した。

 需要が持続的に上向けば、高止まりする在庫が解消に向かうと業界では期待されている。
 米金融緩和への期待から、住宅ローン金利は2022年以来の水準に下がった。
 これが販売を下支えし、住宅在庫の減少に貢献するとみられる。

 ただし、住宅建設が持続的に増加するまでには時間がかかる。
 住宅建設は昨年下期と今年1−3月(第1四半期)の経済成長に寄与した。
 しかし、アトランタ地区連銀が17日に発表した「GDPナウ」の予測では7−9月(第3四半期)の国内総生産(GDP)を0.3ポイント押し下げるとみられている。
 
 地域別では南部で着工件数が15.5%増加した。
 前月はハリケーン「ベリル」の影響で、同地域としては20年半ば以来の低水準だった。
 8月は中西部と西部でも増加した。

 一戸建て住宅の完成物件数は5.6%減少し、3月以来の低水準となった。
 集合住宅の完成物件数は大きく増加した。


posted by manekineco at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

フォルクスワーゲン(Volkswagen VW) ドイツ・ニーダーザクセン州ヴォルフスブルクに本社を置く自動車メーカー 収益 2,792億ユーロ(2022年)

     (Volkswagen VW)
 ドイツ・ニーダーザクセン州ヴォルフスブルクに本社を置く自動車メーカー。
 社名はドイツ語でフォルクスは国民、大衆、ワーゲンは車を意味する。
 1937年にナチ党傘下のドイツ労働戦線によって設立され、第二次世界大戦イギリス陸軍将校の
   イヴァン・ハースト
が現在のような世界的なブランドに再活性化した。
 同社は象徴的な主力ブランド
   ビートル
を所有し、2016年と2017年に世界販売台数で世界最大の自動車メーカーとなった 

 収益 2,792億ユーロ(2022年)
 営業利益 221億0ユーロ(2022年)
 純利益 158億ユーロ(2022年)
 
 グループ最大の市場は中国(香港とマカオを含む)であり、売上高と利益の40%を占めている。
 「フォルクスワーゲン」という名前は、ドイツ語の「フォルク」と「ワーゲン」に由来し、「国民車」を意味する。

 フェルディナント・ポルシェが1934年12月1日に アドルフ・ヒトラーに「フォルクスワーゲン」のコンセプトを発表した。
  フォルクスワーゲンは、1937年にドイツ労働戦線(Deutsche Arbeitsfront )によってベルリンで「喜びによる力」プログラムの一環として設立された。
 1930年代初頭、ドイツにおいて自動車は贅沢品であり、第1次世界対戦の敗戦で誕生したワイマール共和国時代にはスーパーインフレに襲われていたため、ほとんどのドイツ人はオートバイよりも高価なものを買う余裕がなく、自動車を所有しているのは50人に1人だけあった。
 潜在的な新しい市場を求めて、いくつかの自動車メーカーは独立した「国民車」プロジェクトを開始した。
 その中には、メルセデス170H、BMW3/15、アドラーアウトバーン、シュタイアー55、ハノマーグ1.3Lなどがある。

 自動車技術者の先駆者である
   ベーラ・バレニ
は、1920年代半ばにすでに基本設計を考案していたとされている。
 ヨーゼフ・ガンツはスタンダード・スーペリア(「ドイツのフォルクスワーゲン」と宣伝するまでになった)を開発した。
 ドイツでは、ハノマーグ社が1925年から1928年にかけて、小型で安価なリアエンジン車である2/10 PS 「コミスブロート」を大量生産した。
 また、チェコスロバキアでは
   ハンス・レドヴィンカ
が設計のタトラT77がドイツのエリートの間で非常に人気のある車で、改訂されるたびに小型化と低価格化が進んでいった。

 高級車やレーシングカーの設計でよく知られたフェルディナント・ポルシェは、家族向けの小型車にメーカーの関心を引こうと何年も努力していた。
 彼は1933年に「フォルクスオート」と名付けられた車をゼロから作り、多くの一般的なアイデアといくつかの独自のアイデアを組み合わせて、空冷式リアエンジン、トーションバーサスペンション、そして「ビートル」形状、より良い空気力学のために丸みを帯びたフロントボンネット(小型エンジンを搭載していたため必要)を備えた車を組み立た。
 1934年、上記のプロジェクトの多くがまだ開発中または生産の初期段階にあった。

 アドルフ・ヒトラーはドイツのすべての家庭が購入できるような車を望んでおり、大人2人と子供3人を時速100キロ(62マイル)で輸送できる基本的な車両の生産を命じた。
 「国民車」は貯蓄プランを通じて990 ライヒスマルク(1938年当時のUS$396)で購入可能だった 。
 これは小型バイク1台分の価格(当時の平均所得は週32 ライヒスマルク程度)だった。

 民間産業がわずか 990 ライヒスマルクで自動車を生産できないことはすぐに明らかになった。
 そのため、ヒトラーはフェルディナント ポルシェの設計 (凍らないように空冷エンジンなど、ヒトラーの設計提案もいくつか含まれている) を使用したまったく新しい国営工場の資金援助を選択した。
 その目的は、ドイツの家族が貯蓄制度 ( 「自分の車に乗りたいなら、週に 5 マルクを貯めなければならない」 ) を通じて自動車を購入できるようにすることであった。
 この制度には最終的に約 336,000 人が加入したが、このプロジェクトは商業的に実行可能ではなく、政府の支援によってのみ存続することができた。
 1939 年の戦争勃発により、貯蓄制度の参加者は誰も自動車を受け取ることはできなかった。
 1950年に訴訟が提起され、12年間の裁判の末、最終的に新しいVWベースモデルの定価の12%割引、または貯蓄制度に支払われた金額の5分の1以下の金額のクレジットが付与された。

 KdF-Wagen (Kraft durch Freudeに由来、"喜びによる強さ"の意味)と呼ばれる車のプロトタイプは、 1938年以降に登場した。
 最初の車はシュトゥットガルトで生産され、独特の丸い形と、空冷式、水平対向4気筒、後部エンジンを備えていた。
 VW車は、ツアーや遠出などを含む多くのKdFプログラムの1つにすぎず、接頭辞Volks ("人民の") は、車だけでなく、ドイツの他の製品、たとえばフォルクスエンフェンガーのラジオ受信機にも使用された。
 1937 年 5 月 28 日、Gesellschaft zur Vorbereitung des Deutschen Volkswagens mbH (「ドイツ フォルクスワーゲン株式会社準備会社」)、または略してGezuvor が、ナチス党の国労組織であるドイツ労働戦線によってベルリンに設立された。
 1 年以上後の 1938 年 9 月 16 日、社名はVolkswagenwerk GmbHに変更された。

 アウトウニオンの長年のチーフデザイナーであり、フェルディナント・ポルシェが厳選したチームの一員
   エルヴィン・コメンダ
は、今日知られているビートルの原型となったプロトタイプの車体を開発した。
 これは、1920年代初頭からドイツの航空機設計に使用されてきた風洞を利用して設計された最初の車の一つであった。
 車の設計は厳しいテストを受け、完成とみなされる前に記録破りの100万マイルのテストを達成した。

 新しい工場の建設は、1938年5月に新市街「シュタット・デス・KdF・ヴァーゲンス」(戦後ヴォルフスブルクに改名)で始まり、工場労働者専用に建設された。
 この工場は、1939年に戦争が始まった時点ではほんの数台の自動車を生産しただけだった。
 実際に完成した貯金切手帳の所有者に届けられた車は1台もなかった。
 1944年4月20日(ヒトラーの55歳の誕生日)にタイプ1カブリオレ1台がヒトラーに贈呈された。
 
 戦争により生産は軍用車両へと変わり、タイプ82キューベルワーゲン(「バケットカー」)多目的車(フォルクスワーゲンの最も一般的な戦時モデル)と水陸両用 シュビムワーゲンがドイツ軍向けに製造された。
 フォルクスワーゲンを運転した最初の外国人の1人は、アメリカの従軍記者
   アーニー・パイル
で、1943年5月のチュニジアでの連合軍の勝利後、彼は鹵獲したフォルクスワーゲンを数日間使用していた。

 戦時中のナチスドイツの生産の多くで一般的だった。
 フォルクスワーゲン工場では、例えば
   アルバイトドルフ強制収容所
からのユダヤ人の奴隷労働者が利用された。
 同社は1998年に、戦争中に15,000人の奴隷を使用したことを認めた。
 ドイツの歴史家は、フォルクスワーゲンの戦時労働力の80%が奴隷労働者であったと推定している。
 1998年に生存者らが強制労働に対する賠償を求めて訴訟を起こした。
 フォルクスワーゲンは自主的な賠償基金を設立した。

 1945 年 4 月、KdF シュタットとその工場は激しい爆撃を受けたのち、施設は米軍に占領され、その後イギリスに引き渡された。
 この町と工場はイギリスの占領地域に含まれていたためだ。
 この工場は、占領軍の民間軍事総督であるイギリス陸軍将校の
   イヴァン・ハースト少佐(REME)
の管理下に置かれていた。
 当初の計画の 1 つは、軍用車両の整備に使用し、解体してイギリスに輸送することだった。

 この工場は軍事生産に使用されていた (KdF ワーゲンのものではないが) ことと、ハーストの言葉を借りれば、商業企業というよりは「政治的動物」であったこと。
 技術的にはポツダム協定の条項により破壊の対象となるため、この設備は戦争賠償として回収できたはずだった。
 連合軍の解体方針は 1946 年後半から 1947 年半ばにかけて変更されたものの重工業はドイツの国力を削ぐため1951年まで解体され続けた。

 工場の戦時中の「KdF-ワーゲン」車のうち1台が修理のために工場に運ばれ、そこに放置されていた。
 ハーストはそれを緑色に塗り直し、英国軍本部に披露した。
 英国軍では軽量輸送手段が不足していたため、1945年9月、英国軍は2万台の重要な注文を出すよう説得された。
 しかし、生産施設は大幅に混乱し、工場内外では難民危機があったため、一部の部品(キャブレターなど)は入手不可能だった。

 ハーストと1949年の軍事政権の終焉後、ヴォルフスブルク工場の経営を引き継いだ彼のドイツ人助手
   ハインリッヒ・ノルトホフ
は、深刻な社会情勢の安定化に貢献し、同時に生産を再建した。
 ハーストは自身のエンジニアとしての経験を生かしてキャブレターの製造を手配した。
 元の生産者はソ連占領地域で事実上「行方不明」になっていたための措置だ。
 最初の数百台の車は占領軍の人員と郵便局に渡された。

 一部のイギリス軍人は復員時にビートルをイギリスに持ち帰ることを許可された。
 1986年、ハーストは、工場労働者は長年のナチスの慣習により、当初は彼の命令に従うことを嫌がった。
 これに対抗するため、英国から軍服を持ち帰り、工場で着用して指示・監督したところ、当時はもはや兵士ではなく軍事政権の民間人であったにもかかわらず、何の問題もなかったと報告した。

 戦後のドイツの産業計画では、ドイツがどの産業を維持できるかを規定する規則が定められた。
 これらの規則では、ドイツの自動車生産は1936年の自動車生産の最大10%とされていた。

 1946年までに、工場は荒廃したままであったにもかかわらず、月に1,000台の自動車を生産した。
 屋根と窓が損傷したため、雨が降ると生産を停止しなければならず、会社は生産のために新しい車両と鋼材を交換する必要があった。

 車とその町は、第二次世界大戦時代の名称をそれぞれ「フォルクスワーゲン」と「ヴォルフスブルク」に変更し、生産量が増加した。
 工場がどうなるかはまだ不明であった。

 アメリカ、オーストラリア、イギリス、フランスの自動車産業の代表に提案されたが、すべて拒否された。
 工場を視察した後、イギリスの
   ルーツ・グループ
のトップであるウィリアム・ルーツ卿はハーストに、プロジェクトは2年以内に失敗するだろうと告げ、車は「平均的な自動車購入者にとってはまったく魅力がなく、あまりにも醜く、うるさい。この場所で車を作ると思っているのなら、あなたはまったくの愚か者だ」と語った。
 公式報告書には、「この車を商業的に製造することは、まったく不経済な事業となるだろう」と記されていた。

 フォードの代表者も同様に批判的だった。
 1948年3月、英国はフォルクスワーゲン社をフォードに無償で提供することを申し出た。

 この申し出に対して、エドセル・フォードの息子
   ヘンリー・フォード2世
は話し合いのために西ドイツを訪れた。
 ハインツ・ノルドホフも同席し、フォードの取締役会長アーネスト・ブリーチも同席していた。
 ヘンリー・フォード2世はブリーチに意見を求めたが、ブリーチは「フォードさん、ここで我々に提示されている条件にはまったく価値がないと思います」と言った。
 フォードは申し出を断り、フォルクスワーゲンはノルドホフのリーダーシップの下で再建することになった。

 1960 年代後半、ビートルの世界的な需要がようやく減少し始めると、さまざまな後継車のデザインが提案された。
 しかし、ほとんどの場合、経営陣によって却下された。

 1948年以降、フォルクスワーゲンは象徴的にも経済的にも西ドイツ再興の重要な要素となった。
 1930年代から1940年代にかけて民間および軍用車両の生産を監督していた オペルの元上級管理職
   ハインリッヒ・ノルドホフ(1899–1968)
が、 1948年に工場の運営に採用された。
 1949年、ハースト少佐が同社を去り、西ドイツ政府とニーダーザクセン州政府が管理するトラストとして再編された。

 フォルクスワーゲンの「ビートル」セダン、または「国民車」はタイプ1である。フォルクスワーゲン タイプ2商用車(バン、ピックアップ、キャンピングカー) とVWカルマンギアスポーツカーの導入を除けば、ノルドホフは1968年に亡くなる直前までワンモデル政策を追求した。

 フォルクスワーゲンは 1949 年に初めて米国で展示され販売された。
 しかし、その最初の年に米国で販売されたのはわずか 2 台であった。

 米国市場に参入した際、VW は短期間Victory Wagonとして販売された。
 米国での販売とサービスを標準化するために、1955 年 4 月にフォルクスワーゲン オブ アメリカが設立された。
 タイプ 1 フォルクスワーゲン ビートルの生産は年々劇的に増加し、1955 年には合計 100 万台に達した。

 英国初のフォルクスワーゲン公式輸入業者であるサリー州リプリーのコルボーン・ガレージは、ドイツから帰還した兵士が持ち帰ったモデルの部品を輸入することから事業を開始した。

 カナディアン・モーターズ社は、1952年7月10日にカナダで最初のフォルクスワーゲンを輸入した。
 注文内容は12台の車両で、黒、緑、砂色のモデル11Cが3台、栗色1台と紺碧2台の11GSが3台、赤の24A-M51が2台、青の21Aが1台、青の23Aが1台、ベージュ色の22Aが1台、救急車が1台であった。

 フォルクスワーゲンは、1952年8月のカナダ博覧会で初めてカナダで公開され、熱狂的に受け入れられた。

 1959年、VWはブラジルのサンパウロ近郊の工場で生産を開始した。
 フォルクスワーゲン・ド・ブラジルは、1970年代の軍事独裁政権時代に労働者をスパイし、反対派の活動を警察に密告したとして告発された。
 1976年には大量逮捕が発生し、一部のVW従業員は拷問を受けた。
 1979年、ブラジルのVW労働者はヴォルフスブルクに出向き、CEOに直接報告した。
 2015年、ブラジルの活動家と元VW従業員は公の場で、労働者の迫害について同社が沈黙していることを非難した。
 2016年秋、VWは2017年末までに状況の専門家による調査を依頼した

 1960年8月22日、フォルクスワーゲンヴェルクGmbHはフォルクスワーゲンヴェルクAGに改名された。
 1960年代を通じて売上は急上昇し、ニューヨークの広告代理店ドイル、デイン・バーンバックによる有名な広告キャンペーンのおかげもあって、60年代末にはピークに達した。
 1960年代から1970年代初めにかけて、アメリカからの輸出、革新的な広告、信頼性に対する評判の高まりにより、生産台数は以前の記録保持者であったフォード モデルTのレベルを上回った。

 フォルクスワーゲンは1973年までに深刻な問題を抱えていた。
 タイプ3とタイプ4モデルの販売数はビートルよりもはるかに少なく、NSUベースのK70も売れなかった。
 ビートルの販売は欧州と北米の市場で急速に減少し始めていた。
 同社はビートルの生産を終了しなければならないことを知っていたものの、それをどのように置き換えるかという難問に直面していた。

 フォルクスワーゲンがアウディ/アウトウニオンを所有していたことは有利に働いた。
 同社の前輪駆動と水冷エンジンに関する専門知識は、フォルクスワーゲンが信頼できるビートルの後継車を製造するのに役立つだろう。
 アウディの影響は、パサート、シロッコ、ゴルフ、ポロという新しい世代のフォルクスワーゲンへの道を開いた。

 2022年9月、フォルクスワーゲンはオフロード電気SUVであるID.XTREME1コンセプトカーを発表した。
 2023年12月、VWは北米市場で販売されているブランド(フォルクスワーゲン、ポルシェ、アウディ、スカウトモーターズ)が、2025年からテスラが開発したNACS充電コネクタを採用すると発表した。
 2024年6月、VWはEV製品ラインの販売が減少する中、内燃機関車の開発に引き続き力を入れていくと発表した。 

 ドイツ国内に12万人の従業員を抱える VWは、世界でもドイツでも最もよく組織化された労働者代表の企業の一つである。
 労働協議会とIGメタルが果たす役割は、ドイツ国内でもユニークであり、VWの労働者は最も強力な団体交渉協定を結んでいる。
 VWは社会的パートナーシップと共同決定の強い伝統と実践を持っている。

 フォルクスワーゲンは2011年12月、同社の労働組合が可決した規則を施行することに同意した。
 この規則は、同社のブラックベリースマートフォンの電子メール機能を勤務時間中と勤務時間の前後30分間に制限することで、ワークライフバランスを改善し、燃え尽き症候群を回避することを目的としている。
 フォルクスワーゲンのドイツ国内の19万人以上の従業員のうち約1,150人が電子メール制限の影響を受けた。

 フォルクスワーゲンは、人体接触アレルギー物質であるIPPD を車両の様々なポリマーに使用していたため、「フォルクスワーゲン皮膚炎」という用語を作り出した
 
 フォルクスワーゲンは、常にポルシェと密接な関係を築いてきた。
 ポルシェは、フォルクスワーゲンのデザイナーであり、フォルクスワーゲン社の共同創設者でもあったフェルディナント・ポルシェが1931年に設立したツッフェンハウゼンを拠点とするスポーツカーメーカーで、アドルフ・ヒトラーにプロジェクトのために雇われた。
 最初のポルシェ車である1938年のポルシェ64には、フォルクスワーゲンビートルの多くの部品が使用されていた。
 1948年のポルシェ356は、チューニングされたエンジン、ギアボックス、サスペンションなど、多くのフォルクスワーゲンの部品を使用し
ていた。
 2005年9月、ポルシェはフォルクスワーゲンの株式5%を30億ユーロで20%に増やすと発表した。
 これは、ポルシェとニーダーザクセン州政府の株式を合わせると、外国投資家による敵対的買収が不可能になることを意図していた動きでもある。
 買収候補として、ダイムラークライスラー、BMW、ルノーなどが挙げられた。
 2006年7月、ポルシェは所有権を再び25.1%に増やした。

 2005年3月4日、欧州委員会は、フォルクスワーゲンの株主が同社の総議決権の20%以上を行使することを禁じるフォルクスワーゲン法が、ヨーロッパにおける資本の流れを違法に制限しているとして、ドイツ連邦共和国を相手取り、欧州司法裁判所に訴訟を起こした。

 2007年2月13日、ダマソ・ルイス=ジャラボ・コロメル法務長官は 、この訴訟を支持する意見を裁判所に提出した。
 これにより、再びフォルクスワーゲンの敵対的買収の可能性が開かれ、同年3月26日、ポルシェはフォルクスワーゲン株の保有比率を30.9%にまで引き上げた。
 ポルシェはプレス声明で、フォルクスワーゲンを買収するつもりはなく、競合他社による大量株式取得を避け、ヘッジファンドによるフォルクスワーゲン解体を阻止するのが目的であると正式に発表した。

 2007年10月22日、欧州司法裁判所はルイス=ジャラボの意見に賛成する判決を下し、同法は廃止された。
 2007年10月、欧州司法裁判所は、保護主義的であるためVW法は違法であるとの判決を下した。
 当時、ポルシェはVW株の31%を保有していたが、フォルクスワーゲン法により議決権の割合は少なかった。

 同法が妨げなければポルシェがVWの買収に関心を持つとの憶測があった。
 裁判所はまた、政府によるフォルクスワーゲンの取締役の任命を禁止した。
 その後、ドイツ政府はフォルクスワーゲン法を書き換えたが、再び訴えられることになった。
 2013年10月、ルクセンブルクのEU司法裁判所は、改正されたフォルクスワーゲン法はEUの規則に「完全に準拠している」との判決を下した。

 2008年10月26日、ポルシェはVWの経営権を握る計画を明らかにした。
 その日の時点で、ポルシェはフォルクスワーゲンの普通株の42.6%を保有し、さらに31.5%のストックオプションを保有していた。
 ニーダーザクセン州の20.1%の株式と合わせると、市場に出回っている株式はわずか5.8%だった。
 なお、そのほとんどは合法的に売却できないインデックスファンドが保有していた。

 ヘッジファンドは空売りポジションを何とか埋めようと必死で、フォルクスワーゲンの株価は1株1000ユーロを超えた。
 2008年10月28日には時価総額で一時世界最大の企業となった。
 2009年1月までにポルシェはフォルクスワーゲンAGの株式の50.76%を保有していたが、「フォルクスワーゲン法」により同社の経営権を握ることができなかった。
 2009年5月6日、両社は合併することを決定した。
 8月13日、フォルクスワーゲン株式会社の監査役会は、フォルクスワーゲンが率いるポルシェとの統合自動車グループを設立する契約に署名した。当初の決定では、フォルクスワーゲンは2009年末までにポルシェAGの株式42.0%を取得し、また一族の株主がポルシェ・ホールディング・ザルツブルクの自動車取引事業をフォルクスワーゲンに売却することになっていた。
 しかし、2009年10月、フォルクスワーゲンはポルシェの株式保有率を49.9%にし、費用は39億ユーロ(42.0%の取引では33億ユーロ)と発表した。
 2011年3月1日、フォルクスワーゲンはオーストリアの大手自動車専門販売会社であるポルシェ・ホールディング・ザルツブルク(PHS)を33億ユーロ(45億5000万ドル)で買収することを最終決定した。
 2020年1月、フォルクスワーゲンはテスラに追い抜かれ、時価総額第2位の自動車メーカーとなった。
 
 2022年2月24日以降、ロシアによるウクライナへの全面侵攻と対ロシア制裁の結果、フォルクスワーゲンはBMWとメルセデスに続いて、ロシアの子会社であるカルーガ工場とニジニ・ノヴゴロド工場での生産を停止した。
 また、ロシアのパートナーとのすべての販売店契約を終了し、すべての株式を売却した。
 子会社のポルシェのモデルのロシアへの輸出を停止した。

 フォルクスワーゲンは、地元のアビロンディーラーの金融パートナーであるアートファイナンスLLCと、すべての地元のVW子会社を新しい投資家に移管する契約を結んでいる。
 2023年3月、ロシアの裁判所は、現地の自動車メーカーGAZの訴訟により、ロシア国内にあるフォルクスワーゲンの資産すべてを凍結した。
   

posted by manekineco at 06:51| Comment(0) | TrackBack(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

FOMCの50bp利下げ決定で、追加利下げの織り込み進む流れ

 米連邦公開市場委員会(FOMC)が50ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)の利下げを決めたことを受けて、金融市場では今後の緩和ペースの織り込みが進んでいる。

 会合後に公表された経済予測では、19人の当局者のうち10人が、年内残り2回の会合で少なくとも0.5ポイントの追加利下げを支持していることが示された。

 金融政策に敏感な2年債利回りは一時7bp近く低下し3.53%となった。
 市場は現時点で年内に123bp相当の緩和を織り込んでおり、声明発表前の112bpから予想利下げ幅が拡大した。

  
posted by manekineco at 06:32| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レバノンでトランシーバー含む通信機器を使ったテロで再び爆発し、多数の負傷者

 レバノンで18日、再びトランシーバーなどの通信機器が相次ぎ爆発した。
 同国では前日、同様の爆発で12人が死亡、数千人が負傷する事件が起きたばかり。
  
 国営通信NNAによると、18日はベカー東部と南部の町、首都ベイルート郊外で爆発が起き、多数の負傷者が出た。
 今回の爆発は、親イラン民兵組織ヒズボラが前日の攻撃で死亡した戦闘員のために行っていた複数の葬儀と同時に発生しており、現場では数百人が葬列に参加していた。
   
 17日には、ヒズボラ戦闘員の多くが使用するポケベル型の通信機器を使った爆発が発生した。
 ヒズボラとレバノン政府はイスラエルが攻撃を仕掛けたとして非難しており、中東での紛争激化が懸念されている。
  
 レバノン軍は医療スタッフのために道を空けるよう周辺の人々に協力を要請。テレビ映像では、複数の地域で人々が地面に横たわっている様子が映し出されている。
  
 ヒズボラはこの攻撃に対する報復を表明している。
  
 攻撃を実行していない場合に限りイスラエルは否定するが、これまで同様に、イスラエル政府は一連の爆発事件に関する自国の関与について、否定も肯定もしていない。 
  
 
ひとこと
 和平交渉を壊したいイスラエルのネタニアフが諜報機関を使って工作したテロ行為の可能性が高いとの見方が強い。
 汚職体質で奇襲攻撃前にはデモ等がイスラエル国内で広がっており、逮捕目前で政治生命が終わり変えていたネタニアフが、奇襲攻撃により政権を維持してきており、国政選挙も先延ばしにされている。
 徴兵制度のあるイスラエル国内でも与党宗教政党への徴兵免除という特権に対する風当たりは強く、問題視されており一般イスラエル人や軍部からの批判もあり、対応が急がれている。
 レバノン国内におけるテロ活動で中東における戦闘地域の拡大をイスラエルのネタニアフが政権維持のため、工作し実行したようだ。
     
   
posted by manekineco at 06:29| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中国経済は中国は新型コロナウイルス禍による「予想以上の傷跡」に苦しんでいると指摘

 中国経済の減速には、投資家はこれまでにも懸念を表明している。
 5%前後の成長目標達成に向け財政・金融政策で刺激策を講じるよう中国当局に圧力をかけている。

 シンガポールで開かれたミルケン研究所アジア・サミット2024に出席した厚朴投資
   方風雷董事長(会長)
は、株価下落や対中直接投資の減少を挙げ、中国は新型コロナウイルス禍による「予想以上の傷跡」に苦しんでいると指摘した。

 その上で、投資家は成長促進を図る強力な刺激策を期待しているが、中国指導部は任期が長く、「市民第一」の方針を掲げていること、中国式の政治経済学などによって「短期的な利益にはあまり注意を払わない」と続けた。
  
  
posted by manekineco at 06:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

米金融当局による今週の行動は長期的には「違いを生み出さない」と指摘、中国には「深刻な問題」がある。

 シンガポールで開かれたミルケン研究所アジア・サミット2024に出席したブリッジウォーター・アソシエーツの創業者
   レイ・ダリオ
は18日、会場でブルームバーグテレビジョンとのインタビューに応じ、米金融当局による今週の行動は長期的には「違いを生み出さない」と指摘した。
 
 山積する債務の返済を可能にするため政策当局は最終的には実質金利を低く抑える必要があると述べた。
 ダリオ氏は同氏のファミリーオフィスの資産ポートフォリオのごく一部を引き続き中国への投資に充てているが、中国には「深刻な問題」があるとの見方を示した。

    
posted by manekineco at 05:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする