2024年10月04日

イスラエル軍がシリア・レバノンの国境検問所を攻撃 主権侵害の暴挙

 レバノン当局の情報筋がスロシアの通信会社プートニクに対して、シリアとレバノンの国境にある
   マスナ検問所
の付近で4日にかけての夜、イスラエル軍によるとみられる3度の空爆があったと明かした。
 イスラエル軍の攻撃があったのはレバノン側の検問所建物から約100メートル離れた場所だった。
 この影響で両国を結ぶ幹線道路「ダマスカス=ベイルート街道」の一部が上下線で通行止めとなった。
 「ダマスカス=ベイルート街道」はレバノン南部などを拠点とする民兵組織
   ヒズボラ
にとって重要な輸送ルートで、イランからの物資や人員をこの検問所経由で入手しているとされている。
 情報筋からは、今回の攻撃の目的はヒズボラの高官暗殺などではなく、街道の寸断だったと分析が出ている。
 一方、4日にかけての深夜には、ベイルート国際空港周辺のほぼ同じ地点に、20回を超える空爆が行われた。
 イスラエルメディアによると、殺害されたヒズボラ指導者ナスララ師の後継者と目される
   サフィディン師
を標的とした暗殺作戦の可能性もあるとの見方が出ている。

  
ひとこと
 内政干渉というか、国家の主権に対する挑戦であり、両国の戦闘が始まる可能性もある。
  
       
posted by manekineco at 22:04| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夫のトランプ大統領候補と異なる見解!!メラニア氏が中絶権支持を表明、大統領選におけるトランプ陣営に強い逆風

 ドナルド・トランプ前大統領の妻
   メラニア・トランプ氏
が3日、人工妊娠中絶の権利を支持する共和党の元ファースト・レディーたちの長い列に加わったことを公開した。
 中絶の規制を進めている夫たちの公の意見と対立する動きが始まった。

 メラニア氏は近く発売になる回顧録を宣伝する短い動画の中で、女性の「個人の自由」を支持する姿勢を示した。
 それを「すべての女性が生まれながらにして持つ不可欠な権利」だと説明した。
 前日には、この回顧録の一部が新聞報道で公開され、メラニア氏はさらに明確に、「プロ・チョイス(選択支持=中絶権支持)」の立場を取っているという内容だ。
 この問題に対するメラニア氏の姿勢は、女性の中絶権を合憲としてきた「ロー対ウェイド」判決を覆すのに尽力したとされる夫トランプ候補の立場とは対照的だ。
 なお、トランプ氏が選んだ判事が多くを占める米連邦最高裁は2022年この判決を覆した。

 メラニア氏の態度は、1973年に「ロー対ウェイド」判決が出て以来、合法的な中絶へのアクセスは保護されるべきだと発言してきた共和党のファースト・レディーたちの、数十年にわたる伝統に従うものでもある。
 ジェラルド・フォード元大統領の妻ベティー・フォード氏は1975年、まだホワイトハウスにいる頃に、「ロー対ウェイド」判決を「素晴らしい、素晴らしい判決」だと称賛した。
 また、ナンシー・レーガン氏は、夫のロナルド・レーガン元大統領が退任するまで、「女性の選択を信じる」と公に発言することはなかったが、この問題に関するナンシー氏の立場は、ホワイトハウス内でよく知られていたという。

 ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領の妻バーバラ・ブッシュ氏と、ジョージ・W・ブッシュ元大統領の妻ローラ・ブッシュ氏も同様で、夫たちがホワイトハウスを去った後に、この問題に対する姿勢を明らかにした。
 ローラ・ブッシュ氏は2010年、自伝の宣伝のインタビューで、「中絶が合法であることが重要だと思う。医療上の理由やその他の理由から、人々にとって重要だと思うからだ」と語った。
 ただ、メラニア氏のアプローチは異なっており、メラニア氏は3日、X(旧ツイッター)に投稿したモノクロの動画の中で、「女性が生まれながらに持つこの重要な権利、すなわち個人の自由に関しては、妥協の余地はない」と述べた。
 メラニア氏は「『私の体、私の選択』とは、本当はどういう意味を持つのか?」と続けた。

 英紙ガーディアンではこの前日、8日に発売予定のメラニア氏の新著「メラニア」からの抜粋を掲載した。
 ガーディアンが引用した抜粋部分で、メラニア氏は「女性が、政府からの介入や圧力を受けずに、自身の信念に基づいて、子どもを持つかどうかを決定する自主性を保証することが不可欠だ」と書いていることを伝えた。
 メラニア氏は、夫が再選を目指して積極的に活動している最中に、中絶に対する自身の立場を明らかにした唯一のファースト・レディーとなった。

 メラニア氏の発言のタイミングには、政治的な意図がある可能性を示唆しており、「選挙の直前に意図的にこのようなことが行われた可能性は否定できない。なぜなら、『ロー対ウェイド』判決が覆されたことに怒っている激戦州の有権者たちにアピールできるからだ。
 有権者はおそらく、トランプ氏が中絶に対して軟化している兆候だと捉える可能性もある。

 来月の大統領選では、中絶へのアクセスが重要な争点となる。共和党にとってこの問題は弱点であり、中絶に反対する保守派の支持基盤と、中絶へのアクセスを支持する幅広い有権者層の両方にアピールすることが難しいとされている。
 今年の選挙期間中、トランプ候補のこの問題に対する立場は揺れ動いてきた。
 トランプ候補は今週初め、可能性は低いものの、もし連邦議会で中絶禁止法が可決された場合には、拒否権を行使するつもりだと初めて述べた。

 民主党の候補者である
   カマラ・ハリス副大統領
は、有権者の関心を高めるために、トランプ氏のこうした姿勢を利用しようとしている。
 トランプ候補が大統領時代に判事3人を指名し、連邦最高裁判事の圧倒的多数が保守派となったことで、「ロー対ウェイド」判決が覆された。
 こうしたことからハリス氏は、トランプ候補を女性の自立に対する脅威として定期的に非難している。
 ハリス=ウォルズ陣営のサラフィナ・チティカ報道官はBBCに対し、「アメリカ中の女性にとっては残念なことだが、トランプ夫人の夫は妻の意見に強く反対しており、それが理由で、3人に1人以上のアメリカ人女性が、健康、自由、そして命を脅かすトランプの中絶禁止令のもとで暮らしている」と語った。

   
posted by manekineco at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中国がレバノン・イスラエル情勢の沈静化呼びかけ?

 中国の傅聡(ふ・そう)国連常駐代表(国連大使)は2日、中東情勢を巡る
   国連安全保障理事会
の緊急会合で、ガザでの即時停戦、レバノン・イスラエル情勢の即時沈静化、暴力循環の停止、戦事のまん延防止、関係各方面の政治的・外交的解決軌道への回帰を求め、安保理が緊急に行動を起こし、一致団結して明確かつ正確な要求を掲げる必要があると表明した。

  
ひとこと
 ロシアや中国、北朝鮮が何を言っても、国際社会の信頼性がなく、なにも効果はない。

   
posted by manekineco at 19:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・話題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

中国地方政府が金儲けで建設した高速鉄道で 「かなり前に完成したけど、なぜか列車は駅に停まらない」という“幽霊駅”が続々誕生

 中国の高速鉄道で今、利用されずに放置されたままの“幽霊駅”が続々と誕生し、少なくとも26か所に上り、問題となっている。
 事業の収益を無視し広大な国土を隅々までカバーする、中国の高速鉄道だが、その総延長は4万5000キロに達し、世界一を誇るものの、利用客は限定的なままだ。
 南部・雲南省昆明市にある駅。数年前に工事が終わったにもかかわらず、開業する気配がまったくないという。
 6年前、2018年に開業したものの利用者が少なかったことから、たった半年で閉鎖された。
 中国メディアは、このような“幽霊駅”は少なくとも26か所に上ると明らかにしている。
 こうした「幽霊駅」が続出している背景について、地方政府が“駅を作れば周辺の開発も進む”という甘い考えをもっていたためと批判する報道がある。
 また、高速鉄道の運営を担う国有の鉄道会社が採算を度外視した建設計画を立てたためという指摘もある。
 実際、鉄道会社は日本円にして120兆円を超える負債を抱えたままで手抜き工事などで施設の劣化も起きており、無用の長物となるのは時間の問題でもある。
 一人子政策の影響もあり中国も人口減少が加速してしまっており、以前のような高度経済成長が見込めなくなった。
 中国経済の消費拡大のメリットよりも、あらゆる分野で経済環境の劣化で不満が爆発して、各地の治安が公安部門等の力では押さえつけられなくなり悪化し、暴動等もこれまででも繰り返し起きいるが、さらに大規模化しかねない。
 この先、天候不順で食料が確保できなくなれば、中国史で繰り返された王朝の興亡と同じく大きく人口崩壊が発生する事態に突入して、三国志の事態と同じ様になれば13億人が1億人まで減少する可能性も考えられる。
   
    
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宣伝効果抜群

 人材サービスとDXサービスを提供する「労働力の総合商社」として、顧客企業の成長を支援している
   ディップ
は大谷選手を起用する企業で今シーズン株価が堅調に動いている。
 大谷選手を起用したコマーシャルは、動画配信サイトのユーチューブで570万回以上再生されるなど会社の知名度向上に寄与した。
 また、業績にも効果が表れており、今期(25年2月期)第1四半期の営業利益は前年同期比20%増の40億円と第1四半期として創業以来最高を記録した。

 冨田英揮社長は決算説明会で、宣伝効果はすでに大谷選手との契約金よりも大きいと明らかにしている。
 
    
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イスラエルがイランの輸出能力に対して大規模な攻撃を加えた場合、原油供給は日量150万バレル減少する可能性

 シティグループのアナリスト
   フランチェスコ・マルトチャ氏
らは、イスラエルがイランの輸出能力に対して大規模な攻撃を加えた場合、原油供給は日量150万バレル減少する可能性があるとの予測を示した。

   
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問題は連邦公開市場委員会(FOMC)が市場が50ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)の利下げを予想する方向に再びシフトした場合にどう反応するか

 ピール・ハントのチーフエコノミスト
   カラム・ピッカリング氏
はブルームバーグテレビジョンで、「雇用統計の発表をあすに控えており、当然のことながら私は神経質になっている」と述べ、「失業率が上昇した場合、市場が50ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)の利下げを予想する方向に再びシフトしても驚きはない。問題は連邦公開市場委員会(FOMC)がどう反応するかだ」と続けた。

  
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日銀正常化路線に政治の逆風?石破首相発言で年内利上げ観測が後退というマスコミだが、米国政府による為替管理国の指定を避けただけの話で、異次元の金融政策の転換時期に遅れた失政とも言える醜態の日銀が自主的に対応すべきものだ。

 3日の円相場は一時1ドル=147円24銭と、1カ月半ぶりの円安水準を付けた。
 
 石破首相の追加利上げに慎重な発言や、予想以上に強い米雇用指標を受けて安価に利用できる円資金を要求している国際資本が円買いの手を緩めて、利益確保の円売り・ドル買いを強めたようだ。
 
 ブルームバーグが9月上旬に実施した調査では、エコノミストの9割近くが来年1月までに追加利上げを行うと予想していた。

 加藤財務相は市場動向に関し「株価や為替についてはコメントしない」と米国政府による為替管理国の指定回避を念頭にしつつ、「投機的な動向も含め、為替市場の動向を緊張感を持って注視したい」と話した。
 赤沢再生相も為替の水準についてのコメントを控えた。

 日本政府と日銀の共同声明は、2013年1月に当時の安倍晋三政権と白川方明総裁の日銀との間で、デフレ脱却と持続的な経済成長の実現を目的に結ばれたが、問題が多く、国債資本への安価な資金の提供とも、日本株を叩き売ったとも揶揄され為替管理国指定による米国の圧力が強まるリスクがあったが、日本国民の資産を吐き出させたことで長期政権が実現するなどといった問題の解決には未だ至っていない。
 
 表向きはデフレからの早期脱却に向けて、日銀は2%の物価安定目標を「できるだけ早期に実現することを目指す」としているが、そもそも経済統計に用いる数値が人為的になっており、モノの価値が品質の劣化や数量の減少など、個数あたりの価格比較では表に出ないインフレ傾向が隠れてしまっており、実際のインフレは30%から50%の上昇となっている。 
 
 一方、政府は機動的なマクロ経済政策運営や成長戦略、持続可能な財政構造の確立に取り組むことを明記しているが、これも真綿で国民の首を絞め続けているものでしかく、軌道を元に戻すことは長期政権から距離を置くなかでは時間がより掛かる事になりかねない。

 21年10月に発足した岸田文雄政権でも、当時の鈴木俊一財務相、黒田東彦日銀総裁らが11月に面会し、政府・日銀の共同声明の考え方に従って連携することを確認したが、国際資本の言いなりである日銀の思考の変化はなく、いうがままに動くあやつり人形と化し、言葉遊びでの言い訳を繰り返すばかりだ。
 
 
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ジュニウス・スペンサー・モルガン(Junius Spencer Morgan) 米国の銀行家、金融家でJP・モルガンの父親

ジュニウス・スペンサー・モルガン
          (Junius Spencer Morgan)
   1813年4月14日 - 1890年4月8日
 米国の銀行家、金融家であり、ジョン・ピアポント・「JP」・モルガンの父親で、モルガン銀行家の家長でもあった。

 ジュニウスは1864年、ロンドンにJSモルガン社を設立した。
 これは、自身が共同経営者だった
   ジョージ・ピーボディ社
を継承する会社である。
 息子の援助を得て、モルガンは銀行業を大西洋をまたぐ金融帝国にまで成長させ、ロンドン、ニューヨーク、フィラデルフィア、パリに支店を構えた。
 1890年にモーガンが死去するまでに、モルガン銀行は
   政府および鉄道金融で支配的な勢力
となり、彼の銀行は米国で傑出した銀行となった。

 ジュニウスは1813年4月14日、米国マサチューセッツ州ホリヨークで
   ジョセフ・モルガン
   サラ・モルガン
の息子として生まれた。
 13歳のとき、彼は母親の実家近くのコネチカット州ミドルタウンにあるアメリカ文学科学軍事アカデミー(現在のノーウィッチ大学)に入学した。
 1年後、彼はコネチカット州イーストウィンザーの私立アカデミーに転校した。
 夏は父親の農場で働いたり、ハートフォードにある父親の事務所を手伝ったりして過ごした

 当時のビジネスマンの典型であったように、ジュニウスは大学に入学せず、1829年にボストンの商業銀行家
   アルフレッド・ウェルズ
に弟子入りした。
 彼は5年間事務員として働き、銀行業界やボストンとニューヨークのいくつかの商業取引について学んだ。

 モーガンという名前はウェールズのカーマーゼンに由来し、その最古の先祖はウェールズの
   ブレドリ・アプ・シディフォー
の三男である
   ハイファイド・アプ・ブレドリ
である。アメリカのモルガン家の先祖である
   マイルズ・モルガン
は、 1636年にイギリスのブリストルからボストンに移住した。

 ジュニウスの父ジョセフは独立軍の兵士で、マサチューセッツ州ウェストスプリングフィールドの農家だった。
 彼はコネチカットで酒場、コーヒーハウス、駅馬車の路線を経営する事業を始めた。
 1819年には
   エトナ火災保険会社
の設立パートナーとなった。
 1835年、エトナがニューヨーク大火で破壊されたウォール街の企業を補償したとき、彼はエトナで財を成した。
 ジョセフは保険料の支払いをためらっていたエトナの投資家の株式を個人的に購入した。
 火災で破壊された銀行への迅速な支払いにより、エトナはウォール街で評判を確立し、後年、保険料を3倍に増やすことができた。
 
 1833年4月、アルフレッド・ウェルズはジュニウスに彼の会社の共同経営者になるよう申し出たが、ジュニウスは父の意に反してそれを受け入れた。
 ただ、1年も経たないうちに事業は苦戦し、ジョセフ・モルガンは息子を救済し共同経営者を解消しなければならなくなった。

 その後すぐに、モルガンの父親はウォール街のモリス・ケッチャムのプライベートバンクで彼の新たなパートナーを確保し、その名前を
   モルガン・ケッチャム・アンド・カンパニー
と改名した。
 この会社は一般的な銀行業務と証券業務を行っており、数人の外国人顧客を抱えていた。
 
 1836年1月、モルガンの父はハートフォード最大の卸売乾物商
   ハウ・マザー・アンド・カンパニー
の共同経営者を彼に買い取った。
 彼は1847年に父が亡くなるまでその会社に留まった。

 1837年恐慌の間、モルガンは会社の負債を回収するために南部を旅した。
 可能であれば現金で、しかし多くの場合は綿花での支払いであった。
 彼は1840年代まで不況が続いていた間も負債の回収と綿花の購入のために旅を続け、ハートフォードでのビジネスマンとしての評判を高め続けた。
 1845年、彼の父親はジュニウスに代わって会社にさらに2万5千ドルを投資した。

 1847年に父の遺産を相続した直後、モルガンは改名された
   マザー・モルガン・アンド・カンパニー
のシニアパートナーに任命された。
 1850年に彼はロンドンを訪れ、その都市の有力な商業銀行家たちと会い、自分の会社を外国貿易と銀行業務に拡大することを期待した。

 1850年秋、モルガンはボストンの
   ジェームズ・M・ビーブ
という、成長中の輸入ビジネスを営む若い商人とビジネスを始めることにした。
 会社の2人のジュニアパートナーのうちの1人は、後にニューヨーク州知事となり、アメリカ副大統領となる
   レヴィ・P・モートン
であった。

 1851年2月までに、モルガンは
   ハウ・アンド・マザー社
の株式を60万ドルで売却し、ボストンのペンバートン・スクエアに移転した。
 彼はすぐに国内の金融エリートの一人となった。この会社はモルガンに世界市場へのアクセスを与え、ボストン港から出荷される綿花やその他の商品の輸出と融資を行った。

 ジョージ・ピーボディはモルガンのシニアパートナーであり
   JSモルガン&カンパニー
の前身となる会社の創設者である。
 1853年5月15日、ジェームズ・ビーブの勧めで、モルガンはロンドンのアメリカ人銀行家
を訪ねた。
 健康状態が悪かったピーボディは、モルガンに彼の銀行にジュニアパートナーとして入社し、10年後にピーボディが退職したらシニアパートナーに昇格するよう提案した。
 ピーボディは銀行が彼の名前を使い続け、必要ならいくらかの資本も提供することを約束した。
 モルガンは躊躇したが、最終的には承諾し、1854年10月にジュニアパートナーとして入社した。

 モルガンの最初の仕事は、1836年にロンドンに移住したピーボディにはなかった、アメリカのビジネスに関する自身の直接的な知識とコネクションを活用して、会社の主要アメリカ顧客を強化し、発展させることだった。

 モルガンは最初の数か月をアメリカのピーボディで働き
   ダンカン・シャーマン・アンド・カンパニー
などのアメリカの顧客とのつながりを築き、新しい潜在的顧客に働きかけ、情報を集めた。
 この時期に、モルガンはフィラデルフィアの大手銀行の1つである
   ドレクセル・アンド・カンパニー
の創設者である
   フランシス・M・ドレクセル
と初めて会った。
 ドレクセルはモルガンを通じて自分の銀行をピーボディの銀行と提携させ、アメリカの歴史上最も強力で重要な銀行同盟の1つを形成した。

 モルガンが1854年にロンドンに到着すると、ピーボディ商会はすぐにロンドンにおけるアメリカ証券の有力ディーラーとして強力な立場に立った。
 クリミア戦争中および戦争後には、アメリカの穀物、綿花、鉄道の価値が急騰したことが背景にある。
 モルガンは、ニューヨークとロンドンの両方で鉄道債券の販売を含む、同社の鉄鋼ポートフォリオの多くを担当することになった。

 鉄鋼ビジネスは、1853年にオハイオ・ミシシッピ鉄道会社に債券を最初に提供したことを含め、アメリカの鉄道建設の資金調達に同社をより深く関与させるものとなった。
 好調なアメリカ鉄道証券を中核として築かれた同社は、ニューヨークの金融市場や政府金融を含むいくつかの他の市場でも地位を確立した。

 1856年までにピーボディはモルガンに十分な信頼を寄せるようになり、自身がアメリカ国内を長期旅行する間、彼に事業を単独で任せるようになった。
 
 1857年に鉄道ブームが終わり、価格が暴落したため、ロンドンではピーボディ商会が倒産寸前だという噂が広まった。
 ピーボディ商会の主要顧客の一部は事業を停止したり完全に倒産したりした。
 ダンカン・シャーマンは援助なしでは送金を返済することができなかった。
 ライバルの
を含むピーボディ商会の債権者の一部は、負債の即時返済を要求した。

 ピーボディは、会社を閉鎖することになるロンドンの大手証券会社からの
   条件付き救済
を断り、代わりにイングランド銀行から80万ポンドの緊急信用枠を受け取った。

 ピーボディ社のパニックと崩壊寸前の後、モルガンはより慎重な投資家となり、すべての取引銀行に、彼らを怒らせるリスクを冒してでも、そして尊敬されていた元同僚にさえも、声明を要求した。

 この時期の財政難にもかかわらず、ピーボディとモーガンは
   サイラス・ウェスト・フィールド
の困難な大西洋横断ケーブル計画の主要支援者だった。
 1856年、モーガンはフィールドのためにワシントンに個人的にロビー活動を行い、ピーボディ商会はフィールドの当初の資本金35万ポンドのうち1万ポンドを引き受け、後にフィールドがアメリカの投資家を見つけるのに苦労したときには、プロジェクト完了のために資金を前払いした。

 1858年10月、フィールドのケーブルが破裂し、プロジェクトの完了はさらに8年遅れて1866年になった。
 その間ずっと、モーガンとピーボディはフィールドのプロジェクトへの信頼を保っていた。
 会社は最終的にこの事業で利益を上げたが、その主な目的は、成長する通信業界における主要な支援者としてモーガンを確立することだった。

 1859年2月、モルガンが会社の代表となり、ピーボディは名目上のシニアパートナーに留まった。
 彼はロンドン社交界で重要な役割を担い、ハイドパークやローハンプトンの自宅で多くの社交会を主催した。

 ピーボディ商会は大西洋横断綿花貿易に多額の投資を行っていた。
 その主な取引先は依然として米国東部の取引銀行や鉄道会社であった。
 そのため、ロンドンの他の銀行ほどアメリカの奴隷制度に直接依存しておらず、南北戦争の際には北軍に味方することで有利に働いた。

 南北戦争が勃発すると、モルガンは
   北軍の戦時国債
を売買して莫大な利益を上げた。
 ニューヨークで息子のジョン・ピアポントと協力し、モルガンはロンドンで一般に知られる前に電信で
   ビックスバーグ陥落
の知らせを受け取り、値上がりする前に北軍国債を買い集めた。
 それでも、北軍の戦時国債を買うことは、南部連合の綿花プランテーションと密接に結びついていたイギリスの繊維産業を疎外する危険があり、銀行のロンドンでの地位がさらなる利益を妨げた。

 フィラデルフィアの銀行家
やドイツとつながりのあるウォール街の銀行が戦争中に大儲けしたのに対し、ピーボディ商会の利益はそれに比べれば控えめなものだった。

 1864年、モルガンとピーボディとの10年契約が期限切れとなった。
 ピーボディは約束通り引退したが、モルガンに名前と資本の使用を拒否した。

 モルガンの孫は後にこれを「当時、人生で最も苦い失望だった」と回想している。
 ピーボディはまた、モルガンのオールド・ブロード・ストリートにある22の支店の賃貸契約に不利な条件を押し付けた。
 モルガンはピーボディの後を継いで会社のトップとなり、しぶしぶ社名を
   JSモルガン&カンパニー
に変更した。
 なお、モルガンの失望にもかかわらず、JSモルガンはロンドン最大の米国銀行であり、過去10年間で44万4000ポンドの利益を上げており、モルガンに将来の投資のための強力なプラットフォームを残した。

 普仏戦争 の敗戦期にフランスに資金援助するというモルガンの決断は、彼に150万ポンドの利益をもたらした。
 それでも、モルガンは自分の銀行を
   ロスチャイルド銀行
と同等にしようと野心を抱いていた。

 1870年、スダンの戦いとトゥールでのフランス第三共和政暫定政権の樹立後、ベアリングス銀行とロスチャイルド銀行は新政府への信用枠の設定に消極的だった。
 モルガンは1000万ポンドのシンジケート債の発行を主導し、シンジケート団は額面より15ポイント低い価格でこれを売却した。
 1月にパリが陥落し
   パリ・コミューン
が樹立されると、債券は80ポイントから55ポイントに下落し、JSモルガン商会は破産寸前まで追い込まれた。

 モルガンはできるだけ多くの債券を購入して価格をつり上げようとした。
 フランス人は戦争後の1873年に債券を前払いしたため、債券の価値は額面まで上がり、モルガンは150万ポンドの利益を得た。
 これによりJSモルガン商会は国際金融の上位に躍り出た。

 同じ年、フィラデルフィアの
   アンソニー・ドレクセル
がJSモルガン社との提携を提案し、モルガンにまたもや思わぬ幸運が舞い込んだ。
 当時、ドレクセルはジェイ・クックに次ぐフィラデルフィアの政府金融界の第2の勢力であった。

 この提案は受け入れられ、ドレクセル・モルガン社はロンドン銀行の新たなニューヨーク支社となり、ピアポントがドレクセルのジュニアパートナーとなった。
 ピアポントはドレクセルのフィラデルフィア事務所とパリ事務所にも加わり、モルガン家は4都市に拠点を持つことになった。

 モルガンはロンドンで最も裕福なアメリカ人銀行家となり、ハイドパークの南側に面したナイツブリッジの邸宅に引っ越した。
 また、ローハンプトンのドーバーハウスも購入した。

 1873年にジェイ・クックの銀行帝国が破綻した後、モルガンのアメリカにおける存在感は劇的に高まった。
 普仏戦争の終結後、アメリカの穀物(そして鉄道)価格が劇的に下落すると、クックの
   ノーザン・パシフィック鉄道
への多額の投資はもはや負債を返済するのに十分ではなかった。
 鉄道証券はクレディ・モビリエのスキャンダルによってさらに弱体化した。

 クックの会社は9月18日に破綻し、 1873年恐慌の一環として銀行破綻の波を引き起こした。
 このような状況にもかかわらず、ピアポントは会社に100万ドル以上の利益をもたらし、ドレクセル・モルガンをアメリカ政府金融の頂点に立たせた。
 
 1877年、モルガンは半引退生活を始め、スケジュールを減らし、息子に大きな権限を譲った。
 11月8日、デルモニコで彼を称える晩餐会が開かれ、サミュエル・ティルデン、ジョン・ジェイコブ・アスター、セオドア・ルーズベルト・シニアらが出席した 
 ジュニウスの役割が縮小し、ピアポントが莫大な利益を上げ続けると、モルガン帝国内の勢力バランスはロンドンからニューヨークへと移っていった。
 1880年代になると、ジュニウスの健康状態が悪化し始め、彼は日々の業務から退いた。
 1884年に妻ジュリエットが亡くなった後、彼はさらに業務から身を引いた。
 彼は冬をモンテカルロのヴィラ・アンリエットで過ごした。
 
 モルガンは「背が高く、なで肩」で、腹部が厚く、顔が広く、目は明るく、鼻は高く、口は引き締まっていた。
 モルガンは息子同様、極めて内向的な人物であった。
 彼は「辛口なユーモアと温厚な態度を持ち、鉄の規律を重んじた」人物であった。
 彼は概して感情を表に出さず、友人の
   ジョージ・スモーリー
は彼の「厳粛で力強い美貌」と「光に満ちた目」を称賛したが、顔は「動かない顎」で終わっていた。 

 1836年、モーガンは詩人、弁護士、商人、ユニテリアン派の牧師であったジョン・ピアポント(1785-1866)の娘
   ジュリエット・ピアポント(1816-1884)
と結婚した。

 家族
 ・ジョン・ピアポント・モーガン(1837–1913)
   アメリア・スタージス(1835–1862)と結婚した。
   後にフランシス・ルイーズ・トレイシー(1842–1924)と結婚した。
 ・サラ・スペンサー・モーガン(1839–1896)
   ジョージ・ヘイル・モーガン(1840–1911)と結婚した。
 ・メアリー・ライマン・モーガン(1844–1919)
   ウォルター・ヘイズ・バーンズ(1838–1897)と結婚した。
   彼らの娘メアリー・エセル・バーンズ(1961年没)は1899年に
     ルイス・ハーコート初代ハーコート子爵(1863–1922)
   と結婚した。
 
 モーガンは息子で後継者のJ・ピアポントに多大な労力を注いだ。
 ジュニウスがロンドンに移った後、ピアポントは父にとってアメリカの状況に関する主な情報源となった。
 海を隔て、性格も大きく異なっていたにもかかわらず、二人の関係は親密だった。
 毎年秋、ジュニウスは3か月間アメリカに旅行し、ピアポントは毎年春にロンドンに旅行した。
 二人は31年間、週に2回手紙のやり取りを続けていたが、ピアポントは1911年にそれを燃やした。

 妹のルーシー・モーガン(1890年没)は、コネチカット生命保険会社の創設者の一人で長年社長を務めた
   ジェームズ・グッドウィン少佐
と結婚した。
 ルーシーはジェームズ・J・グッドウィンとハートフォード公園委員会の委員長であるフランシス・グッドウィン牧師の母親である。
 彼は、同時代のハートフォードとニューヨークの著名な銀行家であり商人で、ニューヨーク州知事となった
   エドウィン・D・モルガン
とは血縁関係がなかった。

 彼はハートフォード無料図書館]、彼の教会、そしてハートフォードのトリニティ・カレッジに寄付をした。
 
 モルガンは父親同様、ホイッグ党の強力な支持者であった。
 モルガンはホイッグ党の政治家で外交官のアボット・ローレンスの親しい友人であった。
 1842年2月、義父のジョン・ピアポントがマサチューセッツ州知事選の自由党の有力候補として挙げられた。
 モルガンはピアポントに候補者から撤退するよう促し、ピアポントはそれに従った。

 モルガンは義父のユニテリアン教会で結婚していたが、ハートフォードにある父親の聖公会教会に通っていた。
 
 1890年4月3日、モルガンは午後にモンテカルロで馬車に乗った。
 馬が列車に向かって突進してきたので、モルガンは馬を落ち着かせるために立ち上がった。
 馬車は石の山にぶつかり、モルガンは壁に投げ出された。彼は手首を骨折し、脳震盪を起こした。
 1890年4月8日に亡くなるまで5日間意識不明だった。 
   
     
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米国株式市場は下落、バイデン大統領の失言や指標堅調も中東巡り懸念が強まった。

 米国株は3日、米経済指標で明るいデータが示された一方、市場では中東での対立激化を巡る懸念が強まり下落した。
 なお、この日は。リスクを背景に原油とドルは上昇した。

 S&P500種株価指数とナスダック100指数は小幅安となった。
 午前中は大半で上げ下げを繰り返す展開で、バイデン米大統領はこの日、イスラエルによるイラン石油施設への攻撃を支持するかどうかという記者からの問いに対し
   混乱を招くような発言
を行ったため、市場のムードは悪化した。

 米国株は一時上げに転じる場面があった。
 午前中に米供給管理協会(ISM)が発表した9月の非製造業総合景況指数は、2023年2月以来の高水準となった。
 また、先週の米新規失業保険申請件数は小幅な増加となった。
 レイオフ件数が限定的である状況に整合する水準となった。

 地政学的な不透明感が強まる中、市場は米経済の健全性に関するさらなる兆候を求めている。
 4日には9月の雇用統計が発表される。
 市場では失業率が4.2%で横ばい、非農業部門雇用者数は前月比15万人増が見込まれている。
 

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イスラエルによるイランへの報復が、同国石油インフラへの攻撃を含む可能性が意識された。

 ニューヨーク原油先物相場は大幅高となった。
 イスラエルによるイランへの報復が、同国石油インフラへの攻撃を含む可能性が意識された。

 バイデン米大統領はイラン石油施設への攻撃を米国は支持するかと記者団に問われ、「それをわれわれは協議中だ」と述べたことからも影響が広がった。

 ウェスト・テキサス・インターミディエート(WTI)は一時5.7%上昇し、
   1バレル=74ドル
を超えた。
 WTI、北海ブレントともに終値で約1カ月ぶりの高値を付けた。
 
 ニューヨーク商業取引所(NYMEX)のWTI先物11月限は
   1バレル=73.71ドル
と前日比+3.61ドル(5.1%)高で終了した。
 ロンドンICEの北海ブレント12月限は3.72ドル(5%)高の77.62ドルで引けた。
    
 
ひとこと
 地政学的なリスクを意識した買いが入ったようだが、為替と取引価格から言えばガソリン価格の下落は弱い。
 
   
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英中銀総裁発言受けポンドが22年以来の大幅安 対ユーロで1%下落

 イングランド銀行(BOE 英中央銀行)の
   ベイリー総裁
が、利下げについて
   より積極的なアプローチ
を示唆したことに反応しポンドが暴落した。

 ユーロの対ポンド相場はニューヨーク時間3日の終盤、0.96%高の1ユーロ=0.8405ポンドで取引された。
  
  
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アリーマンタシオン・ クシュタール(Alimentation Couche-Tard Inc Couche-Tard) 

        (Alimentation Couche-Tard Inc Couche-Tard) 
 カナダの多国籍コンビニエンスストア運営会社
 カナダ、米国、メキシコ、アイルランド、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、日本、中国、インドネシアに約16,700店舗を展開している。
 同社は主にCouche-TardサークルK、On the Runのブランドで直営店を運営している。
 関連ブランドのMac's Convenience Stores、go! (Go Store)、7-jours、Dairy/Daisy Mart、Becker's 、Winksでも運営している。
 ロシアでの事業(38店舗)はロシア軍のウクライナ侵攻への対応で、2022年に停止した。 

 拠点数 16,700(2024年)
 
 収益 718.6億ドル(2023年)
 営業利益 120.5億ドル(2023年)
 純利益 42.3億ドル(2023年)
 従業員数 約149,000人(2024年)
 
 部門
 ・クシュタード
 ・サークルK
 ・オンザラン
ホリデーステーションストア
 
 アラン・ブシャールが設立したアリーマンタシオン クシュタールは、カナダのケベック州モントリオール郊外のラヴァルに拠点を置いている。
 旗艦店のクシュタールとマックスの店舗、およびいくつかの古いウィンクスの店舗では
   特徴的な擬人化された赤いウインクするフクロウ
が目立つように配置されている。
 このマスコットは、1990年代後半に
   プロヴィソワール/ウィンクスチェーン
が吸収されたときに引き継がれた。
 社名の「couche-tard」はフランス語で「(遅く寝るタイプの人)」を意味し、英語の「night owl」と非常によく似た意味合いを持つ。
 
 アラン・ブシャールは 1980 年にラヴァルに最初のコンビニエンス ストアをオープンした。
 1985 年にブシャールはケベック シティ地区の「Couche-Tard」ブランドの店舗 11 店を買収した。
 モントリオール地区の既存店舗と合併して会社名を
   Alimentation Couche-Tard
に変更した。
 1987 年に同社はメトロ リシュリューから7 Joursチェーンを買収し、Couche-Tard は今日までこのチェーンを別個に維持している。

 1992年、チェーンは徐々に新しいディスカウントバナー
   Dépan-Escompte
に転換し、最初は主にケベックシティ地域にある34店舗から始めた。
 1993年、同社は経営難に陥っていたトロントの
   Silcorp Ltd.
からコンビニエンスストア
   Mac's
   La Maisonnée
を54店舗購入した。
 1994年、Couche-Tardは182店舗をDépan-Escompteバナーに転換した。
 これにはMac's/La Maisonnéeの店舗が含まれたものの、7 Joursチェーンは含まれていなかった。

 1994年の夏、クシュタールは、1994年6月に破産申請したペレットチェーンから86のコンビニエンスストアを買収する契約を結んだ。
 デパン・エスコンプト時代には、貯金箱のマスコットが採用され、1980年代後半から1990年代前半にかけて使用されていたクシュタールの夢遊病者のマスコットに取って代わった。
 1997年5月、クシュタール社は、ケベック州のプロヴィ・ソワール、オンタリオ州のウィンクス、アルバータ州のレッド・ルースターといったチェーン店を所有する
   プロヴィゴ
の子会社
   Cコーポレーション
を買収した。
 すでに業界を独占していたクシュタール社は、この取引後、カナダ国内で610店舗を展開するまでに成長した。
 1999年初頭、デパン・エスコント・クシュタール社とプロヴィ・ソワール社は、1つのブランドに統合された。
 クシュタール社の名前から「デパン・エスコント」を削り、プロヴィ・ソワール社のフクロウのマスコットを採用した。
 なお、同社はその後、ケベック州でプロヴィ・ソワール社の名前を復活させ、7 Jours部門のように独自のチェーン店として維持している。

 新しいProvi-Soirは、基本的にはCouche-Tardと7 Joursの店舗をリブランドしたもので、元のチェーンにあったフクロウのマスコットは登場せず、ロゴタイプも前店舗とは全く異なっている。
 同様に、シルコープは、オンタリオ州最大のコンビニエンス ストア チェーン
   マックやベッカーズ
を傘下に収めた後、クーシュ タードに買収された。
 ケベック州と同様に、ベッカーズやマイクス マートなどの他の企業ブランドは徐々に廃止され、マックのブランドが優勢になっている。
 ただ、ウィンクスやデイジー マートのブランドで新しいフランチャイズ ストアが今もオープンしている。

 2001年、クシュ・タードはインディアナ州コロンバスの
からビッグフット・コンビニエンスストア172店舗を買収し、米国市場に参入した。
 2000年代初頭に米国でマックのブランド名で試行錯誤した後、クシュタードは2003年に
   コノコフィリップス
からサークルKチェーンを買収し、すぐに米国内の既存店舗をより知名度があるサークルKの名称に変更した。
 サークルKブランドはアジアやその他の地域でもフランチャイズ展開されている。
 クシュタールは2003年8月からケベック州で
のマスターフランチャイズを保有していたが、2008年8月に12〜18ヶ月以内にこのフランチャイズを終了することに合意した。

 2010 年初頭、クシュタールはケベック州の店舗の統合を開始し、売り上げの伸びた店舗が繁栄できるよう売り上げの伸びない店舗の多くを閉鎖した。
 2010 年から 2012 年にかけて、合計で 300 店舗以上が閉鎖された。
 2014年、クシュタールはメキシコのサークルKの子会社である
   ティエンダスエクストラチェーン
をグルポモデロに売却した。

 2015年、マニュライフ銀行カナダは、クシュタール銀行と契約を結び、830か所にATMを設置した。
 2015年9月23日、クシュタール社はサークルKブランドをリニューアルし、英語圏のカナダ、アメリカ、スカンジナビア諸国の全店舗に展開すると発表した。
 ケベック州の店舗はリブランディングの対象に含まれず、クシュタールブランドのままとなった。
 クシュタール社はその後、2021年にサークルKのブランドアイデンティティに合わせるためにリブランディングを行い、赤と黄色のコーポレートカラーと丸で囲まれたロゴに変更した。

 2016年8月29日、ルイジアナ州にある
   クラッカーバレルコンビニエンスストア 53店
を非公開価格で買収することが発表された。
 他の買収のほとんどと同様に、クラッカーバレルチェーンもサークルKストアに転換した。
 買収したチェーン店はすべてガソリンスタンドを併設しており(1店舗を除く)、12店舗にはクイックサービスレストランがを設置している。
 クラッカーバレルチェーンは、同名のレストランチェーンとは無関係である。

 2017年7月、クシュタードは、米国10州に500以上の店舗を展開していた。
 米国で18番目に大きなコンビニエンスストアチェーンである
   ホリデーステーションストア
を買収する契約を発表した。
 2020年8月、クシュタールは、セブンイレブンによる
からのスピードウェイ3900店舗の210億ドルでの買収で落札された。

 2021年7月、クシュタール社は、ノバスコシア州トルロに本拠を置く
のガソリン小売/コンビニエンスストア226店舗と船舶燃料ターミナルを、競争局の承認を待って非公開の金額で買収する契約を発表した。
 買収は2023年3月1日に完了した。
 競争上の懸念を軽減するため、クシュタール社は52店舗を
   ハルノワ・エネルジー社
に売却した。
  
 2022年12月、Couche-Tardは米国の高速洗車サービス事業者であるTrue Blue Car Wash(それぞれ米国南西部と中西部でClean FreakとRainstormのブランドで運営)を買収する契約を発表した。
 2023年3月、クシュタールはドイツとオランダにある
のサービスステーション1,600か所を非公開の金額で買収すると発表した。

 同時にベルギーとルクセンブルクでは、クシュタールとトタルエナジーが合弁会社を設立した。
 トタルエナジーのサービスステーション619か所を引き継ぐと発表した。
 翌月、同社は米国の
   MAPCOエクスプレス
から112か所のサービスステーションとコンビニエンスストアを買収する契約を締結した。

 2024年8月19日、クシュタードは
   ジャイアントイーグル
からGetGo全270店舗を非公開の金額で買収したと発表した。
 また、GetGo店舗は売却終了後もジャイアントイーグルのMyPerksポイントプログラムを引き続き提供することも発表された。
 同日、クシュタードは、国際チェーンのセブンイレブンを運営する日本企業
   セブン&アイ・ホールディングス
の買収を提案した。

 カナダでは、ケベック州にCouche-Tard、Provi-Soir、Dépanneur 7 joursの直営店が581店、系列店が298店ある。オンタリオ州には直営店が702店、系列店が214店あり、西カナダには直営店が305店、系列店が71店あり、それぞれMac's、Mike's Mart、Becker's (独立経営)、Daisy Mart、Winksの名称で運営されている。
 ケベック州以外の店舗はCircle Kストアとしてブランド名が変更されている(Becker'sは除く)。

 クシュタールが運営するブランド
 ・Circle K: 国際的に使用されているグループの主要ブランド。
 ・ホリデー ステーションストア: ノーザン ティア地域を代表するアメリカのブランド。
 ・クシュタール:ケベックのブランド
 ・インゴ:ヨーロッパのブランド
 ・オン・ザ・ラン:インターナショナル(廃業ブランド)
 ・ベッカーズ:オンタリオ(廃番ブランド)
 ・Mac's: カナダ (廃ブランド)
 ・カンガルーエクスプレス(廃ブランド)
 ・トパーズ:アイルランド(廃番ブランド)
 ・アーヴィングオイルストア
 
 米国では、2009年4月29日に発表されたエクソンモービルとの契約に基づき
   アリメンタシオン・クシュ・タード
が約470のオンザラン店舗を所有またはフランチャイズしている。
 これにはアリゾナ州フェニックスの
   エクソンモービルスタンド43店
も含まれ、すべてサークルKにブランド名を変更している。

 米国内の多くのオンザランスタンドではまだエクソンまたはモービルのガソリンを販売している。
 フランチャイズ店の中にはエクソンモービルとは関係のない他のブランドを販売しているところもある。

 2012年4月18日、クシュタール社がノルウェーの
   スタットイル・フューエル・アンド・リテール社(以前はスタットイル社が所有)
を28億ドルで買収することに合意した。
 クシュタール社はスカンジナビア最大のガソリンスタンドチェーンとなった。
 バルト海地域、ポーランド、ロシア周辺に拠点を置く。
 2012年6月20日、スタットイル・フューエル・アンド・リテール社の株主は買収に賛成票を投じ(+91.56%)、その後、クシュタール社が最終的にスタットイル・フューエル・アンド・リテール社を約28億ドルで100%買収した。
と この買収により、クシュタール社のポートフォリオには2,853以上の店舗が加わり、ヨーロッパで大きな存在感を示すことになった。
 アラン・ブシャールは、この新たに買収したチェーンをヨーロッパ全土に拡大することを計画していた。
 2016年にスタトイルのガソリンスタンドはすべてサークルKに改名された。
 
 2016年3月8日、クシュタールは、オンタリオ州(228か所)とケベック州(50か所)にある
   インペリアル・オイル
のエッソ小売店を28億ドルで買収することに合意したと発表した。
 オンタリオ州では、ガソリンスタンドのコンビニエンスストアはサークルKとしてブランド名が変更され、すべてエッソからの供給が継続される。
 
 2016年8月22日、クシュタードはアメリカの企業
   CSTブランズ
とそのテキサス州と他の南部諸州にある2,000店舗を37億8,000万ドルで買収することに合意した。
 負債を含めると44億ドルとなる。
 この取引は同社史上最大の買収となり、2017年6月28日に正式に締結された。

 クシュタードは、競争法を通過させるために新規店舗の約45%を別の企業に売却すると発表した。
 CSTホールディングスはサンアントニオに拠点を置き、クシュタードが引き継いだ2,000店舗で14,000人以上を雇用していた。
 買収した店舗のほとんどはアメリカ南西部と南東部にあり、ニューヨーク州とカナダ東部にも少数店舗あった。
 コーナー・ストアーズ、フラッシュフーズ、ナイス・アンド・イージー・グローサリー・ショップスのブランドで運営されていた。
 買収後、ほとんどの店舗はサークルKブランドに変更された。

 競争上の懸念から、CSTのカナダにおけるウルトラマー事業のほとんどはこの取引には含まれず
   パークランド・フューエル・コーポレーション
に別途売却された。 

 2023年11月、アリメンタシオン・クシュタール社は
   チリ石油会社(COPEC)
によるMAPCO資産売却の一環として
   COPECからMAPCO Express Inc.
の燃料・コンビニエンスストア112店舗の買収を完了した。
 テネシー州、アラバマ州、ケンタッキー州、ジョージア州にまたがる店舗は、サークルKのアイデンティティにブランド変更された。
 余剰資産と物流車両も含まれるこの取引は、24の国と地域で14,000を超える店舗を展開し、約122,000人の従業員を擁するクシュタールの世界的な存在感を補完するものであった。
 同時に、メジャーズ・マネジメントLLCは192のMAPCOブランドの店舗と追加のMAPCO資産を買収し、サービスを強化し、米国南東部での両社の市場範囲を拡大することを目指した。

 2021年1月、クシュタール社とカルフールSAは買収交渉が断念された後、業務提携を検討していると発表した。

   
posted by manekineco at 05:23| Comment(0) | TrackBack(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする