2025年02月28日

トランプ氏が英首相と会談、ウクライナ平和維持軍巡る議論は「尚早」と発言をとぼけた言い回しで修正

 トランプ米大統領は、ウクライナ停戦合意後に
   欧州平和維持軍
が同国に駐留する場合の米国による「後ろ盾」提供について
   その協議は時期尚早
だとし、まずは戦争終結に焦点を当てるべきだと述べ、世論を扇動してきた大風呂敷ともいえる発言を修正した。

 トランプ氏は27日、ホワイトハウスでのスターマー英首相との会談を前に「ディールが成立するまでは平和維持について話したくない」と発言し、会談で指摘される前に修正し「現時点でわれわれはディールを結んでいない。われわれにはロシアがあり、ウクライナがある」と続けた。

 トランプ氏はウクライナに
   安全保障の確約
を与える代わりに、資源取引が結ばれれば米企業がウクライナで事業を行うことでロシアからの攻撃を回避できると示唆したが、単なる検疫の確保でしかなく具体的なものは何もなく、空手形の状態だ。
 ウクライナのゼレンスキー大統領は28日にホワイトハウスを訪れ、同国の天然資源収入に米国のアクセスを認める合意草案に署名するとみられる。

 今回のトランプ氏の発言は、英国や他の欧州同盟国が直面する課題を浮き彫りにした。
 停戦に向けてトランプ氏がロシアとの話し合いに前向きな姿勢を示す中、欧州側は
   安全保障
が脅かされるとの危機感を強めている。

 欧州連合(EU)は3月6日に開く首脳会議で、ロシアによるウクライナ侵攻の終結に向けた交渉に臨む、EU代表特使の任命について話し合う。
 こうした事情に詳しい関係者が匿名を条件にメディアの取材で明かした。

 プーチン大統領との会談を急ぐトランプ氏は今月に入り、ゼレンスキー氏を「独裁者」と非難氏罵倒する発言が繰り返された。
 同発言は当然のことながら、一部議員や同盟諸国から批判を浴びた。
 この日にはトランプ氏は「そんなことを言っただろうか。そんなことを言ったなんて信じられない」と軌道修正し、トラップを繰り返し交渉を有利に運ぶトランプ政治の幼稚な思考で混乱を作り出す底の浅い政治手法を知らしめた。
  
    
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カンザスシティー地区連銀総裁がインフレと成長鈍化の両方を憂慮

   シュミッド総裁
は27日、バージニア州アーリントンで講演し、「インフレリスクは上向きのように見えるが、私の連銀地区で聞いた話や最近のデータは、高まった不確実性が成長の重荷になる可能性が示唆されている」と述べた。
 また、「これは、金融当局がインフレリスクと成長懸念の間でバランスを取らなければならない可能性を示唆している」と続けた。

 インフレ期待の高まりと経済成長への懸念について警鐘を鳴らし、米金融当局が近くその両方に直面する可能性があると警告した。

 米国経済市場では、インフレ率が高止まりする中で成長が鈍化する、
   スタグフレーション
と呼ばれるシナリオに当局が直面するのではないかとの懸念が高まっている。
 ここ数日、トランプ政権の関税政策が経済に悪影響を及ぼすとの懸念から、米国債利回りは低下傾向にある。

 シュミッド氏はインフレ率が低下を続けると楽観していたと述べたが、調査ベースのインフレ期待が消費者の間で高まっていることから、物価状況の進展について懸念を強めるようになったと語った。

 「確かに、インフレ期待に関する調査に基づく指標は不完全であり、ノイズの影響を受けやすい。しかし、インフレ率が40年ぶりの高水準となったばかりである今、警戒を緩めるべき時ではない」と話した。

 さらに、インフレ率は望ましい水準よりも高く、「粘り強い」と指摘。労働市場は堅調で、失業率は多くの均衡推定値に近いと述べた。

 シュミッド氏は現在の食品価格変動が過去と比べてはるかに小さいことを踏まえ、食品とエネルギー価格の両方を除くコア指数を、エネルギー価格のみを除外する指標に置き換えるのが適切かもしれないとの認識を示した。

 米金融当局のバランスシートについては、金融市場における当局の存在感をできるだけ弱めるため、バランスシートを縮小し続けることが望ましいとの見解をあらためて示した。
 なお、多くの市場参加者はこの縮小が間もなく停止あるいは完全に終了する必要があるかもしれないと主張している。

 同氏はバランスシート縮小の取り組みについて、流動性逼迫(に直面する銀行向けの融資制度である割引窓口の活用が有益かもしれないと述べた。
 銀行間取引の環境が「相対的に弱く」なった時、市場にとって重要な流動性供給源となり得ると続けた。

 また、「割引窓口をより積極的に活用すれば、流動性ひっ迫の発生を防ぎ、最終的にはバランスシートの一段の縮小を支援できる可能性がある」続けた。
 
     
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ロシアが政治的成果を焦るトランプ氏に甘い経済を提案し米国に揺さぶりをかけ手のひらの上で踊る醜態にもなるカードが元ゴールドマンが先兵役で誘導?

 ロシアの新たな特使が、さっそく作戦に着手したトランプ米大統領とその側近のイーロン・マスク氏に、ロシアと魅力的な事業取引を結べる可能性をちらつかせて、政治的成果を焦る姿はバカ踊りする姿を露呈させて、泥沼にはまりつつあるようだ。

 「グローバルサウス」諸国および米国含む西側との「投資・経済協力」開発を担当するロシア特使に最近就任した
   キリル・ドミトリエフ氏
は今週、およそ10年ぶりに、マスク氏が保有するX(旧ツイッター)に投稿した。
 米ロの協力は「世界の課題に対処する鍵」になるとの考えを示した。
 続く投稿では米国およびサウジアラビアとの火星探査の構想を打ち出し、マスク氏のスペースXのようなロケットを登場させ、支持者として媚びた投稿が見られた。

 火星に対するマスク氏の壮大な夢に焦点が当てられたのは、偶然ではない。
 そもそも、ドミトリエフ氏に課せられた重要な任務は、ロシアとの大型経済取引の見通しを餌にトランプ氏およびマスク氏ら最高顧問を釣り、
   ウクライナでの戦争
を巡りロシアに有利な条件を引き出すことが背景にある情報操作の一環だ。

 こうした事情を知る関係者によると、米ゴールドマン・サックス・グループの投資銀バンカーだった経歴もあるドミトリエフ氏は、事業の可能性を軸にトランプ氏との関係を発展させるようプーチン大統領を説得している。
 トランプ政権が前倒しになっている貿易問題の解決のため、中国からのレアアースが政治道具化せようとする習近平政権の目論見の打破という視点もあり、中国政府との交渉を有利に運ぶため、トランプ氏がウクライナに
   鉱物資源へのアクセスを要求
し始めたのを見て、ロシアはそのような交渉に活路を見いだしたと、
   内部の議論
だとして匿名を要請した関係者はメディアの取材で明らかにした。
  
 プーチン氏は今週、ロシアの
   レアアース採掘
で「米国のパートナー」との協力をテレビ演説で提案し、この戦略を推進している。
 ロシアは「ウクライナよりもこの種の資源を桁違いに多く持つ」と主張した。
  
 プーチン氏はまた、トランプ政権が輸入制限を解除すれば米国に200万トンのアルミニウムを売ると提案し、ロシア企業と米国企業との合弁でシベリアで
   アルミニウム生産
を行う可能性にも含みを持たせた。
  
 インタファクス通信の報道によると、ドミトリエフ氏はリヤドで記者団に対し、米国とロシアは北極圏やその他地域での合同プロジェクトに目を向けていると発言した。
 「合同プロジェクトで、われわれはもっと成功できる」と述べた。
  
 
ひとこと
 北極圏における資源開発を加速させ、利権を確保する動きのひとつであり、防衛を持ち出しグリーンランドやカナダを取り込む国際資本の開発権確保という共同事業化といった流れを側面支援するトランプ政治の胡散臭さを感じさせる。
 トランプがモスクワ等で建設する事業もあり、トランプの不動産事業における強欲さを見透かしたプーチンの罠にはまる可能性もある。

 
 カーネギー・ロシア・ユーラシア・センターの政治学者、エカテリーナ・シュルマン氏は、ロシアは「トランプ氏の『実利主義』と見られるものに付け入る方法や、同氏チームの実業家に商業的なアプローチが機能するかを探っている」と指摘。「トランプ氏側近の集団を長らく知る投資家、仲介役として(ドミトリエフ氏は)この戦略に適任」だと分析した。

  

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ECBの議事要旨で「金融政策はなお景気抑制的との評価が妥当」との判断

 欧州中央銀行(ECB)が27日に公表された1月29−30日の政策委員会会合の議事要旨から、ECB政策当局者は、現状の金融政策設定を景気に「抑制的」と形容し続けることに対し、自信を示していることが分かった。

 議事要旨では「現在の中銀預金金利でも、金融政策は依然として景気抑制的であるとの評価が比較的妥当との認識が広くあった」としている。

 ECBは3月6日の次回政策委員会会合で、前回会合に続き、政策金利を2.75%から2.5%に引き下げる見通しだ。
 これが実現すれば、昨年6月以降の利下げ幅は計150ベーシスポイント(bp、1bp=0.01%)に達する。
 ただ、その後の展開については、より意見が分かれている。

 政策委員会の一部は引き続き、サービス価格の高止まり、エネルギー価格の上昇、米国による関税を懸念している。
 ただ、経済成長の低迷と2%のインフレ目標を達成できないリスクをより重視する委員もいた。
 現時点での金融政策の景気抑制度合いについても、委員会内の認識は分かれる。
  
   
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虚言で言い訳するも、マスク氏の支出削減策は迷走し、「エボラ予防復活」も嘘が露呈

 南アフリカからの移民である米国実業家
   イーロン・マスク氏
が進める連邦政府の予算削減策が迷走している。
 26日の閣議で、対外援助事業を担う
   国際開発局(USAID)
のエボラ出血熱予防策を中止した後「復活させた」と述べた。
 しかし、ワシントン・ポスト紙は予防策が停止したままだと現職職員が証言したと報じ、虚偽の発言であることが明らかになった。

 マスク氏が事実上率いる組織「政府効率化省」は
   強引な手法
で大幅な支出削減を進め、米国内で大きな物議を醸している。
 連邦政府の縮小を図るトランプ大統領は擁護するが、政権が必要だとみなす業務も滞っていることが浮き彫りになり、政策が大混乱化する可能性が強まっている。

 マスク氏は閣議で「私たちは間違いを犯す。完璧ではない」ことを認め、一例として
   エボラ出血熱予防策
をいったん中止してしまったが、すぐに再開させたとして「中断はなかった」と主張した。
 また、「出血熱の予防策は誰もが望んでいることだ」とも語った。
 ただ、ワシントン・ポストによると、USAIDの現職職員や元高官は出血熱対策は全面的に停止していると証言し虚言発言で世論からの批判回避を試みたようだが、嘘を垂れ流す傲慢さを見せつけただけで批判は更に広がる気配だ。
 また、流行対策で関連組織に支払いがされていない状況もあると指摘した。
    
  
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とぼけた発言を繰り返す厚顔トランプが「独裁者なんて言った?」 とゼレンスキー氏への批判を封印

 米国のトランプ大統領は27日、トランプ自身が「独裁者」と呼んだウクライナの
   ゼレンスキー大統領
について今も独裁者だと思うかと記者に問われ
   「そんなことを言ったかな」
ととぼけてみせ政治家としての発言の軽薄さを露呈した。
 両国の鉱物資源に関する交渉がまとまらず「選挙をしない独裁者」とやゆしていた。
 ただ、28日にウクライナと合意することが決まり、こうした発言を批判を封印した。
 ホワイトハウスでのスターマー英首相との会談冒頭で報道陣の質問に答えた。
 トランプ氏は24日、ウクライナに侵攻したロシアのプーチン大統領を独裁者だと思うかと記者に問われた際「そういう言葉は軽々しく使わない」と主張した。

     
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米国のGDP(10−12月)は堅調な伸びが見られ、価格指数は速報値から上方修正された。

 米経済は昨年10−12月(第4四半期)の実質国内総生産(GDP)改定値は
   前期比年率+2.3
の増加と健全なペースで拡大した。
 市場予想と一致し、速報値から変わらずであった。
 実質国内総生産(GDP)改定値で示された。
 インフレ率は速報値から上方修正された。
 
 個人消費は4.2%増加(市場予想4.1%増)
 また、速報値も4.2%増した
 食品とエネルギーを除く個人消費支出(PCE)コア価格指数は2.7%上昇した。
 速報値は2.5%上昇だった。サービスコストの上昇が大きく影響した。

 28日に発表される1月のPCEコア価格指数は
   前年同月比+2.6%
の上昇が見込まれている。
 実質個人消費は好調だったホリデーシーズンの後で、1年ぶりに減少すると予想されている。

 米経済は底堅い個人消費に支えられて、
   引き続き堅調に拡大
していることが今回のGDP統計で示された。
 高金利と生活費上昇が低所得層に打撃を与えているものの、多くの消費者は健全な賃金上昇と雇用の伸びによる恩恵を受けている。
  
 政府支出が速報値から上方修正された。
 こうした一方で、設備投資は下方修正された。
 特に機器への投資は前期比年率で9%減少となった。

 2024年通年では2.8%成長となったが、エコノミスト予想によると、今年は2.3%成長に減速する見通しとなっている。
 背景には雇用拡大ペースが緩やかになり、個人消費を鈍らせるとみている。

 この日別に発表された1月の米製造業耐久財受注は増加した。
 ボーイングでのスト終結に伴い、民間航空機の受注が急増したことが背景にある。
 これは1−3月(第1四半期)の経済成長に寄与し、住宅建設や貿易で見込まれる悪影響を一部相殺する可能性がある。  
  
    
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クリーブランド地区連銀総裁、「金利は有意に抑制的ではない」と述べ、据え置きを支持

 米国クリーブランド地区連銀の
   ハマック総裁
は27日、ニューヨークでの会議で講演し「今後の道筋を精査する中、金融政策には辛抱強くなる余裕があると考えられる。これは、フェデラルファンド(FF)金利を当面、据え置くことを意味するだろう」と発言した。
 また、「辛抱強いアプローチにより、労働市場とインフレの軌道を注視し、現在の金利環境下で経済全般がどう推移しているかを見極める時間が得られる」と続けた。


 政策金利は「有意に景気抑制的」ではないと指摘し、インフレ率が目標の2%に戻りつつあることを示す証拠を待つ中で、当面は金利を据え置くべきだとの考えを示した。

 また総裁は、インフレ期待などの指標を注視し、金融情勢が物価の伸び抑制という当局の取り組みと整合しているか評価することが重要だと指摘した。

 昨年の利下げが経済にもたらす効果を見極めるには時間がかかる可能性があるとし、「経済活動の加速がディスインフレのプロセスを遅らせたり、停滞させたりすることもあり得る」と続けた。
 また、金利は既に「中立水準に近い」可能性があるとも話した。
 中立金利とは、経済成長を抑制も刺激もしない政策スタンスのこと。


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トランプ大統領、カナダ・メキシコ関税を3月4日発動すると述べ、中国にも10%追加

 トランプ米大統領は27日、ソーシャルメディアプラットフォーム「トゥルース・ソーシャル」に「カナダとメキシコに対する関税に関して3月4日に発動すると述べた。
 また、中国に対しても、同日に追加で10%の関税を課すとした。」記事を投稿した。

 隣国であるカナダとメキシコから「容認できない、非常に高い水準」で違法薬物がなお流入していると指摘した。

 「米国に引き続き打撃を与えるこの災厄を容認するわけにはいかない。これを止めるか、著しく制限しない限り、関税は予定通り3月4日に実際に発動されるだろう」と述べた。
 その上で「中国も同様に、その日に追加で10%の関税が課される見通しだ」とした。
  
 トランプ氏は今月3日、カナダとメキシコが新たな国境警備対策を発表したことを受けて、両国に対する関税の発動を1カ月先延ばししていた。
 両国に対する25%の関税は、カナダからの
   エネルギー製品(10%の関税対象)
を除き、輸入品すべてに適用される。
  
 トランプ政権高官が匿名を条件にメディアの取材で語ったところによると、トランプ大統領はこれまでのところ、カナダとメキシコの
   国境警備対策の結果
に失望しており、進展のほとんどは米国側の措置によるものだとみていると述べた。
 また、トランプ政権は現在、カナダとメキシコの取り組みの有効性を測る重要な指標として、米国内の
   薬物過剰摂取
による死者数を調査している段階にあるという。
 トランプ大統領は関税導入に関して
   強硬な姿勢
を維持して高圧的な言動が継続しているが、同高官は3月4日までに
   合意が成立する可能性
を排除しなかったという。
 大統領執務室で進展に満足しているかと問われたトランプ氏は、「全くしていない」と答えたことも背景にあるようだ。
  
 中国に対しては、対カナダ・メキシコ関税の延期を決めたのと同じタイミングで10%の関税を予定通り発動した。
 ただ、今回はこれに10%がさらに上乗せされ強い対応が見られる。
  
 トランプ氏は「10プラス10、つまり2度目の10だ」と大統領執務室で発言したうえ「実際、麻薬の流入が止まるだろう。なぜなら、各国は麻薬が米国に入ってくることを許すべきではないからだ。我々はそれを容認しないつもりだ」と述べた。
  
 中国商務省が公表した声明によると、
   王文濤商務相
は米通商代表部(USTR)の
   グリア代表
に宛てて書簡を送り、米国の「対中関税に懸念」を表明した。
  
 王氏は中国から
   合成麻薬フェンタニル
の原料をカナダとメキシコに密輸していることを口実に米国が課した10%の関税措置に反対する中国の立場を改めて表明した。
 中国は自国の利益を守るため報復措置を講じたと述べた上で、対話と交渉を通じて貿易摩擦を解決するよう米国に促した。
  
 書簡の正確な時期は不明だが、商務省の声明によれば、トランプ氏が3月4日に対中関税を10%上乗せすると明らかにしたのとほぼ同じタイミングで公表された。
  
 トランプ氏は2期目就任後、中国に対しては総じて
   慎重な対応
を取っていたが、今回の関税上乗せで、両国の緊張が高まる可能性がある。
  
 トランプ氏の発言を受けて、金融市場も即座に反応した。
 ブルームバーグ・ドル・スポット指数が大幅高となる一方、カナダ・ドル、メキシコ・ペソはいずれも下落した。
  
 トランプ氏は前日の閣議で、関税のタイミングと範囲について混乱を招くような発言を行い、
   違法薬物
   不法移民
の流入を理由とするカナダとメキシコへの関税と、トランプ政権がこれとは別に世界各国に課す予定の相互関税とを混同している発言が繰り返され拡散している。
 トランプ氏はまた27日の投稿で「4月2日の相互関税の期日は、今も完全に有効だ」と続け、成果を模索し焦りが見られる。
  
    
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ポール・リッカ(Paul Ricca)40年間シカゴ・アウトフィットの事実上のリーダーとして君臨したギャング

ポール・デ・ルシア
      (Paul De Lucia)
 本名フェリーチェ・デ・ルシア(Felice De Lucia)
   1897年11月14日 - 1972年10月11日
 ポール・リッカ(Paul Ricca)として知られる、
 名目上はイタリア系米国人のギャングで、40年間シカゴ・アウトフィットの事実上のリーダーである。
 1958年、彼は上院犯罪調査小委員会によって「この国の最も重要な犯罪者」に指名された。 
 リッカは 1972年10月11日に亡くなった。
 リッカは1897年11月14日、カンパニア州ナポリで
   アントニオ・リッカ
   マリア・アヌンツィアータ・デ・ルチア
の子として
   フェリーチェ・デ・ルチア
として生まれた。
 リッカには
    エミリア・ベアトリーチェ
    アンナ・クレメンティーナ
    クレメンティーナ・エレオノーラ
    ルイーザ・マリア
の4人の妹がいた。
 17歳までに、彼はナポリの犯罪組織カモッラのために働いていた。
 1915年、彼はマフィアの命令でエミリオ・パリリョを刺殺した。
 リッカは後に、パリリョが妹との婚約を破棄したために殺したと主張した。1917年、リッカは殺人罪で有罪となり、2年間服役した。
 釈放されると、リッカはパリリョ裁判で彼に不利な証言をした
   ヴィンチェンツォ・カパッソ
の喉を切り裂いて殺害した。
 カパッソを殺害した後、リッカは
   ポール・マグリオ
という名前を名乗り、キューバを経由して米国に逃亡した。
 1920年8月10日、リッカはニューヨーク市に到着した。
 彼は1928年にアメリカ国籍を取得し、法的に名前を
   ポール・デ・ルシア
に変更した。
 
 キューバにいる間、リッカはシカゴの酒類密造者でレストラン経営者の
   ジョセフ・「ダイアモンド・ジョー」・エスポジート
と出会った。
 リッカがニューヨークに到着すると、エスポジートは彼をシカゴに連れて行き、キューバのウィスキーとケンタッキーの密造酒をシカゴに密輸する仕事をさせた。
 リッカの才能を感じたエスポジートは、シカゴにあるエスポジートのレストラン、ベラ・ナポリの
   メートル・ドテル
に彼を任命し、「ウェイター」というあだ名をつけた。
 ベラ・ナポリは、シカゴのギャングスターの間で人気があり、その中には
   サウスサイド・ギャング(シカゴ・アウトフィットの前身)
のリーダー
もいた。
 イタリアに帰国したナポリのギャングスターたちと共通の友人が何人かいたため、リッカはすぐにレストランの仕事を辞め、サウスサイド・ギャングに加わった。
 
 リッカはギャングの中で急速に出世した。
 彼の出世につながる初期の出来事は、1926年9月20日、イリノイ州シセロのホーソーン ホテルにあるカポネの本部の外で起きた。
 カポネがホテルの隣にあるレストランで食事をしているとき、リッカが彼に会うために同じレストランに入ろうとしたとき、カポネのライバルであるノース サイドのギャングが運転する数台の車が、空とホテルに向けてトンプソン サブマシン ガンの弾丸を数発発砲し始めた。
 危険が迫っていることを察したリッカは、カポネが座っている場所に素早く走り、カポネが地面に伏せる直前に警告し、撃たれるのを防いだ。
 この襲撃でリッカは左肩に銃弾を受け、警察に名前を尋ねられたとき、
   ルイス バルコ
という偽名を名乗った。
 カポネはリッカを称賛して応えた。
 二人はすぐに親友となり、1927年にカポネはリッカの結婚式で花婿介添人を務めた。
 1929年、カポネとリッカは、ニュージャージー州アトランティックシティで開催された、米国の主要な犯罪組織が初めて一堂に会する
   アトランティックシティ会議
に出席した。
 1930年、カポネはリッカニューヨークのイタリア系米国人ギャング間の
   カステルランマレーゼ戦争
を終わらせるための和平交渉の使者としてをニューヨーク市に派遣した。
 1931年に全国犯罪シンジケートが設立されると、リッカの名声と知名度はさらに高まり続けた。
 1931年、カポネは脱税で有罪となり、懲役11年の刑を宣告された。
 カポネの名目上の後継者は
   フランク・「執行官」・ニッティ
で、リッカはその下っ端だった。
 ただ、犯罪史家カール・シファキスによると、リッカが組織内ではすでに実権を握っていたと述べている。
 リッカはニッティの命令を頻繁に無視し、「こうする。もうこれ以上聞くのはやめよう!」と言っていた。
 さらに、ラッキー・ルチアーノを含む新興シンジケートのリーダーたちは、ニッティではなくリッカとだけ取引していた。
 1932年4月、ルチアーノと犯罪シンジケートのもう一人のリーダーである
は、シカゴのコングレスホテルの外で警察に逮捕された。
 このとき、リッカや他のシカゴとニューヨークのギャングたちと一緒にいた。
 警察には彼らを拘留する理由がなかったため、逮捕された男たちはすぐに全員釈放された。
 その前にギャングたちの整列した写真を撮影したことで、東海岸のリーダーたちがシカゴでリッカと個人的に会ったという事実は、シカゴのギャングのリーダーとしてのリッカに対するニューヨークのギャングの信頼を示した。

 リッカは比較的物腰柔らかだったが、犯罪組織のボスと同じくらい冷酷だった。
 誰かを殺したいときはいつでも、「あいつを消し去れ」と言うだけで、実行された。
 犯罪史家のジョー・シファキスは、リッカをシカゴ・アウトフィットが生み出した最も典型的なギャングの一人だと評した。
 しかし、かつての上司であるエスポジトやカポネとは異なり、リッカはエスポジトやカポネの失脚を招いた
   派手な行動
   マスコミの注目を集める行動
を注意深く避け、マスコミや警察の注目を避けるために目立たないようにしていた。
 彼はマフィアにいた初期の頃に何度か逮捕されている。
 その中には1927年1月24日の武器の隠し所持で逮捕されたことがあり、この時に顔写真が撮られた。
 ただ、1940年代まで重大な罪で有罪判決を受けたことはなく、マフィアの仲間たちは彼の警察記録の少なさに羨望の念を抱いたとも言わ」れている。
 
 1940年代初頭、ニッティはリッカと他のギャング団幹部を説得し、カリフォルニア州ロサンゼルスの
   映画スタジオ
を狙った
   労働組合の恐喝
と恐喝計画に参加させた。
 シカゴのギャング
は映写組合を掌握し、ストライキやその他の労働問題でスタジオを脅迫した。
 労働争議を避けるため、
   RKO
   パラマウント
   MGM
   20世紀フォックス
は数十万ドルをギャング団に支払った。
 しかし、ギャング団の2人の男、
   ウィリー・ビオフ
   ジョージ・ブラウン
が恐喝の疑いで逮捕され、彼らはギャング団幹部に裁判で「不利な証言」をすることに同意した。
 1943年3月、リッカ、ニッティ、その他のギャング団幹部は恐喝の疑いで起訴された。
 1943年3月18日、リッカとアウトフィットのリーダーたちはニティと会談した。
 映画スタジオの詐欺はニティの発案だったため、リッカとアウトフィットのリーダーたちは、刑務所行きを免れるためにニティに恐喝罪を認めるよう要求した。
 重度の閉所恐怖症のため刑務所行きを恐れたニティは、翌日に自殺した。
 リッカはアウトフィットの正式なボスとなり、執行部長の
が副ボスとなった。
 リッカとアッカードはその後 30 年間、アウトフィットを運営した。
 
 1943年12月30日、リッカとその仲間は恐喝罪で有罪となった。
 連邦刑務所でそれぞれ10年の刑を宣告された。
 リッカはアトランタの連邦刑務所で刑期を開始したが、すぐにカンザス州のレブンワース刑務所への移送を求めて
   ロビー活動
を行った。
 伝えられるところによると、イタリア人に対して偏見を持っていたアトランタの所長は、アウトフィットのマフィア
   フィル・ダンドレア
をひどく殴打しており、リッカと他の人々は命の危険を感じていた。
 一連の接触の後、ミズーリ州セントルイスの弁護士
   ポール・ディロン
は、アウトフィットのマフィアをレブンワースに移送することを承認する見返りに
   連邦仮釈放委員会の委員長
に報酬を提示したとされている。
 1945年5月、両刑務所長の勧告に反して、リッカと他のギャングはリーブンワースに移送された。
 この間、米国国税庁(IRS) は、リッカから
   滞納税の現金和解金
を受け取った。
 1947年8月13日、1 週間の審議の後、仮釈放委員会はリッカと共犯者を仮釈放した。
 しかし、仮釈放の条件として、リッカはギャングと接触することができなかった。
 そのため、リッカに代わって
がボスになった。
 しかし、アッカードは裏方に徹したリッカと権力を共有していたことは広く認められていた。
 リッカの知らないところで、
   重要な取引や暗殺
は行われなかった。
 これは、組織犯罪における権力共有の取り決めの、数少ない例の一つである。
 
 1950年代に入ると、リッカは組織の日常的な運営の責任をアッカードに委ねるようになった。
 しかし、1957年にリッカは突然、リッカの弟子である
アッカードの地位を継がせたいとアッカードに告げた。
 アッカードは脱税の容疑に直面しており、リッカは
   公の場から姿を消すこと
を望んでいたとされている。

 アッカードは降格に不満だったが、それを受け入れ、リッカとともに半引退生活に入った。
 しかし、重要な取引、特に暗殺については、ジアンカーナアッカードとリッカの承認を得なければならないと理解されていた。
 リッカとアッカードは、裏方に徹することで、カポネよりもずっと長い期間、さらなる投獄を免れた。
 リッカが年をとるにつれて、アッカードはより高度な決定を下すようになり、最終的には1966年に
を追い出して、シカゴアウトフィットのボスとして
   サム・バッタリア
を起用した。
 
 1957年、連邦政府はリッカを偽名
   ポール・マグリオ
で米国に不法入国したとして告発した。
 その3年前、政府は本物のポール・マグリオをシカゴで発見し、リッカに不利な証言をさせるために彼を呼んだ。
 このため、リッカの市民権は剥奪された。
 政府は国外追放命令を勝ち取ったが、後に覆された。
 1959 年、リッカは脱税で有罪となり、連邦刑務所で 9 年間の刑を宣告された。
 27 か月の刑期を終えて、リッカは釈放された。
 1965 年、リッカは再び脱税で起訴された。
 法廷で、リッカは 1963 年の総収入 80,159 ドルは競馬場で得たものだと主張した。
 リッカは最終的に無罪となった。

 1927年1月、リッカは同じくナポリ出身の
   ナンシー・エミリー・ジガンテ
と結婚し、
   メアリー・アンナ
   アンソニー・ポール
   ポール・リチャード
の3人の子供をもうけた。 
  リッカは1972年10月11日、シカゴのセント・ルーク病院で心臓発作のため亡くなった。
 彼はイリノイ州ヒルサイドのクイーン・オブ・ヘブン墓地に埋葬されている。

   
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2025年02月27日

ノースサイドギャング( North Side Gang  North Side Mob)

ノースサイドギャング( North Side Gang  North Side Mob)
 1920年代初頭から1930年代半ばの禁酒法時代にシカゴで活動した、主にアイルランド系米国人による犯罪組織である。
 ノースサイドギャングは、イタリア系米国人の
らの犯罪シンジケートである
としても知られるサウスサイドギャングの主なライバルであった。
 
 シカゴを拠点とする他の禁酒法時代のギャングと同様に、ノースサイド ギャングは、20 世紀初頭のシカゴに数多く存在したストリート ギャングの 1 つである
   マーケット ストリート ギャング
から派生したものとされている。
 マーケット ストリート ギャングは、 42 区と 43 区で活動していたスリ、空き巣、労働組合の怠け者で構成されていた。
 このギャングは、1910 年代初頭のシカゴ エグザミナーとシカゴ トリビューンの間で起こった新聞の「発行部数戦争」で特に目立っていた。

 サーキュレーション戦争の期間中、当時は少年サテライト組織
   リトル・ヘリオンズ
のメンバーだった、将来のノースサイドのリーダー
は、政治家やジャーナリストとの貴重な人脈を築くことになる。
 オバニオンとノースサイドの他のメンバーは、金庫破りの
   チャーリー・「ザ・オックス」・ライザー
の指導を受けることになる。
 オバニオンは、密造酒製造者となったマーケット・ストリートの多くのメンバーの一人である。

 禁酒法の施行とともに、ノースサイド・ギャングのメンバーはシカゴのノースサイドにあった
   既存のビール醸造所や蒸留所
をすぐ​​に掌握した。
 これにより、彼らは本物のビールと高品質のウイスキーの地元供給をほぼ独占した。
 ライバルたちは安酒と密造酒しか供給していなかった。
 ノース・クラーク・ストリートのレストラン
   マクガバンズ・サルーン・アンド・カフェ
を拠点とするノースサイド・ギャングは、数か月以内に労働者階級が住む第42区と第43区を掌握することになる。
 彼らは、マディソン通りからシカゴ川、東はミシガン湖に至るダウンタウンの一角を支配していた。密造酒の販売に加え、ギャングは地元の店や倉庫を襲撃し、違法賭博を続けた。
 しかし、ライバルのシカゴ・アウトフィットとは異なり、彼らは売春行為を拒否した。
 オバニオンは、政治家仲間の選挙不正を手助けすることで、政治的保護を強化した。
 また、ノースサイドで宣伝活動を展開し、孤児院や慈善団体に多額の寄付を行ったほか、貧困者や失業者への食糧や融資も行った。

 アイルランド系とイタリア系のギャング団の古くからの敵意と、オバニオンがノースサイドの蒸留所の一部をサウスサイドの住民に売却することを拒否したことが相まって、ノースサイドとサウスサイドの住民の間に緊張が高まった。
 トーリオが手配した数回の会合で、オバニオンはしばしばイタリア人を侮辱した。
 オバニオンはまた、サウスサイドのビールの積荷を密かにハイジャックし、所有者に売り戻した。
 しかし、ノースサイドのギャング団は他の民族ギャング団ともトラブルを起こした。
 1921年、オバニオンは、地元のオペラでノースサイドの住民を侮辱した
   レイゲンズ・コルツ
のメンバー
   デイビー・「イドルズ」・ミラー
を射殺した。

 オバニオンは1922年に窃盗罪で逮捕され起訴されたが、ノースサイドギャングは政治家や警官の抱き込みにより
   シカゴ警察
からかなりの保護を受けていた。
 ある時、オバニオンはシカゴの政治家や警察関係者のために豪華な宴会を開いた。
 出席者には、アイルランド系の
   マイケル・ヒューズ主任刑事
   チャールズ・エバンス警察中尉
   ロバート・スワイツァー郡書記官
公共事業委員の
   アルバート・A・スプレイグ大佐
そして民主党と共和党の政治家が多数含まれていた。
 マスコミによって「バルシャザールの饗宴」と呼ばれたこの宴会は、後に改革派の市長
   ウィリアム・E・デヴァー
によって調査された。

 1924 年、シカゴ警察は、禁酒法の始まり以来連邦の警備下にあったシブリー蒸留所を襲撃するノースサイド ギャングを支援した。
 マイケル グレイディ警部補と 4 人の刑事巡査部長に護衛されたノースサイドのギャングは、白昼堂々と蒸留所を襲撃した。
 この襲撃で保税ウイスキー 1,750 樽 (約 10 万ドル相当) を奪った。
 グレイディ警部補と他の警察官は後にこの罪で起訴されたものの、すぐに解雇された。

 ノースサイドとサウスサイドのギャングの関係は悪化し続けた。
 1924年初頭、オバニオン
   マイク・メルロ
の仲介でトーリオカポネとの同盟に同意した。
 しかし、オバニオンアンジェロ・ジェンナに、共同所有の
   ギャンブルカジノ「ザ・シップ」
での負けによるギャンブルの借金3万ドルの支払いを要求したため、同盟は行き詰まり始めた。
 この要求は、アンジェロと他のギャングメンバーがそこで
   借金を負うことを許可する合意
に違反していた。
 調和を保つために、トーリオジェンナ
   ギャンブルの借金
を支払うよう説得した。
 しかし、オバニオンが価値ある
   ジーベン醸造所
を売却すると申し出ると、トーリオ自身も我慢できなくなった。

 1924年5月19日、トーリオが土地を調べている間に、オバニオンは警察にその場所を捜索させ、トーリオを逮捕するよう手配した。
 トーリオは拘留から解放された後、シカゴ・アウトフィットの同盟者であるジェナ犯罪一家の要求に応じ、オバニオンを殺害した。
 11月10日、メルロの死後間もなく、
   フランキー・エール
オバニオンの経営するスコフィールド花屋に押し入り、彼を射殺したと伝えられている。
 これがノースサイド・ギャングと
のシカゴ・アウトフィットの間で5年間続くギャング抗争の始まりとなり、1929年の聖バレンタインデーの虐殺で最高潮に達した。
  
 オバニオンの死後、
がノースサイド・ギャングのリーダーとなり、すぐにライバルたちに反撃した。
 1925年1月12日、
   ワイス
   ヴィンセント・ドルッチ
はシカゴ・サウスサイドのレストランでトーリオの副官アル・カポネを殺そうとした。
 カポネの車に発砲したが、運転手のシルベスター・バートンを負傷させたものの、標的であったカポネは完全に外れた。
 この発砲に動揺したカポネは、後に有名となる装甲車を作るよう命じた。 
 モランはその後、カポネの信頼するボディガードの一人を誘拐し、拷問して情報を得た後、処刑して死体を捨てることを決意した。

 1月24日、カポネ暗殺未遂事件の直後、ワイスモラン、ドルッチは、妻と買い物から帰る途中のトーリオを待ち伏せした。
 トーリオと運転手の
   ロバート・バートン
はこの銃撃で数カ所負傷した。
 モラントーリオを殺そうとしたとき、襲撃が不発に終わり、警察が到着するとギャングのメンバーは現場から逃げざるを得なかった。
 この襲撃を辛うじて生き延びたトーリオは、脱退を決意した。
 密造酒製造の罪で服役した後、トーリオはイタリアに引退し、シカゴ・アウトフィットの指揮権をカポネに譲った。

 ワイスとノース サイダーズは、その後、ジェナ犯罪一家のリーダーであるジェナ兄弟を追った。
 まず、「ブラッディ」アンジェロ ジェナが、カー チェイスの後にモランに射殺された。
 次に、「悪魔」マイク ジェナが、ノース サイダーズとの銃撃戦の後に警察に銃を向けたところ、景観に射殺された。

 その後、ドルッチがジェナ一家の支援者である
   サムッゾ「サムーツ」アマトゥナ
を殺害した。
 最後に、 「紳士」と呼ばれたアントニオ ジェナが殺害された。
 ただし、ワイスではなくカポネがこれを命じたという噂が当時からあった。
 この時点で、残りのジェナ兄弟はシカゴから逃亡した。
 ノース サイダーズとカポネが戦利品を奪った。
  
 ディーン・オバニオンの死後すぐに、ノースサイドの連中は「統治評議会」を結成し、
   ハイミー・ワイス
がリーダーに就任した。
 オバニオンの死は連中にとって衝撃だったものの、ギャング団は絶頂期にあった。
 ジェンナ一家は去り、トーリオは脅されてギャングをやめ、カポネは守勢に立たされていた。
 ノースサイドの連中は事業を拡大し、勢力を拡大し、カポネへの新たな攻撃を企てた。

 ノースサイドによるカポネへの第 2 次攻撃では、モランが先頭車両に乗ったノースサイドの車隊が、シセロにあるカポネのホテルに向かった。
 カポネとボディガードが階下で飲んでいる間に、カポネに気づいたノースサイドの住人たちはロビーを通り過ぎていなくなった。
 その直後、カポネらに向けトンプソン サブマシン ガンで発砲した。
 カポネとボディガードは襲撃に対して床に身を隠さざるを得なかった。
 この攻撃が終わると、カポネは「休戦を望む」とノースサイドの住人たちに伝えた。
 休戦は成立したが、必然的に崩れ始めた。
 その後しばらくして、カポネ
   ハイミー・ワイス
とその仲間数人を射殺し、ノースサイドのギャングに反撃した。
 ドルッチとモランはノースサイドギャングの共同リーダーとなった。
 2つのギャングは和平会議が開かれるまでの数か月間、殺人と醸造施設等の爆破を繰り返した。

 モランカポネは、他の多くのギャングのボスとともに会議に出席した。
 会議中、カポネは「彼らは素晴らしいビジネスを射撃場にしている」と不満を漏らした。
 また、「シカゴはパイとみなされるべきであり、各ギャングはパイの一部を得る」とも述べた。
 2 つのギャングは和平を結ぶことに同意した。

 この和平はしばらく続き、その間ギャング抗争による殺人は発生しなかった。
 この間にドルッチが殺されたが、それは警察との間で起きた乱闘の結果であった。
 モランは今やノース サイド ギャングの唯一のボスとなった。
 しかし、モランカポネのビールの積荷を頻繁に奪い、カポネを怒らせていたことから、結局また争いが始まった。

 カポネは報復としてモランの犬ぞり競技場を焼き払った。
 数日後、カポネ自身の犬ぞり競技場も焼け落ちた。
 モランが第一容疑者となった。
 2 つのギャングの間で再び激しい戦闘が始まった。
 モランは、カポネの強力な同盟者であり個人的な友人でもあった組合リーダー 2 人の処刑を命じた。
 この行動がきっかけで、カポネ聖バレンタインデーの虐殺を命じた。

 1929 年 2 月 14 日、身元不明の男 4 人 (うち 2 人はシカゴ警察官に扮装) がノース サイド ストリートのガレージに侵入した。
 ノース サイド ギャングのメンバー 6 人とギャングのメンバーの友人 1 人に壁に向かって立つよう命じた。
 その後、銃撃者はマシン ガンを取り出し、全員を射殺した。
 唯一の生存者である
   フランク "タイト リップス" グーゼンバーグ
は、襲撃者の名前を明かさず、数時間後にシカゴ近郊の病院で死亡した。
 しかし、銃撃者の主な標的であるノース サイド ギャングのリーダー、バッグス・モランはガレージにいなかったため、被害を免れた。
 銃撃者の 1 人として 12 人近くの人物が関与したという有力な状況証拠が提示されてはいる。
 ただ、今日に至るまで、その 4 人の銃撃者が誰であったかは不明生まで事件は迷宮入りしている。

 聖バレンタインデーの虐殺として知られるこの攻撃により、アル・カポネバッグス・モランの5年間に及ぶギャング抗争は事実上膠着状態に陥った。
 この犯罪の大胆さから、シカゴにおけるすべてのギャング活動に対する
   連邦政府の取り締まり
が強化された。
 最終的にはモランカポネの両者の失脚につながった。
 
 バッグス・モラン聖バレンタインデーの虐殺を生き延びたものの、ノースサイドの熟練ガンマン数名が命を落とした。
 その後もノースサイドギャングは第42区と第43区を支配し続け、 1930年に
   フランク・マッカーレイン
による乗っ取りの試みを阻止した。
 10年が経つにつれ、ノースサイドギャングの勢力は徐々に衰えていった。

 1936年、虐殺の首謀者とされる
が殺害され、モランはサウスサイドギャングの
   フランク・ニッティ
とともに捜査機関から第一容疑者の一人と見なされた。
 マガーンはサウスサイドギャングにとって守る価値がないほど厄介者になって仲間割れの殺害とも見られていた。
 モランとノースサイドギャングは、最終的に
   ギャンブル事業の支配権
を新しい全国犯罪シンジケートに奪われた。
 禁酒法の廃止以来、ギャンブルはノースサイドの主な収入源であったため、利権を失うことになった。
 バグズ・モランは最終的に1935年にギャングを離れ、その後ギャングは急速に解散した。

    
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2025年02月26日

カタリスト・ブランド(Catalyst Brands LLC)米国の6つの小売ブランドを持り、小売業を行う持株会社

 2025年にSPARC GroupとJCPenneyの合併により設立された親会社である。
 SPARCグループのブランドには、
   アエロポステール(Aéropostale)
   ブルックス ブラザーズ(Brooks Brothers)
   エディー バウアー(Eddie Bauer)
   フォーエバー 21(Forever 21)
   ラッキーブランド ジーンズ(Lucky Brand Jeans)
   ノーティカ( Nautica)
などがある。
 JCPenney
   マーク ローゼンCEO
がCatalyst Brandsを率いている。

  
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トニー・アッカード(Tony Accardo)シカゴ・アウトフィットの元ギャングスターでジョー・バターズやビッグ・ツナとしても知られる。

アンソニー・ジョセフ・アッカード(Anthony Joseph Accardo)
   1906年4月28日 - 1992年5月22日
   本名 アントニーノ・レオナルド・アッカルド
 米国のシカゴ・アウトフィットの元ギャングスターで
   ジョー・バターズ
   ビッグ・ツナ
といった渾名でも知られる。
 80年にわたる犯罪歴の中で、彼は1947年にシカゴ・アウトフィットの日常業務を担当するボスの地位にまで上り詰めた。
 1972年までに最終的にはアウトフィットの影の実力者となった。
 アッカルドは、ボス在任中にアウトフィットを新たな活動領域や縄張りへと移行させ、その権力と富を大幅に増大させた。
 
 アッカルドは1906年4月28日、シカゴのニア・ウエスト・サイドで、靴職人の
   フランチェスコ・アッカルド
   マリア・ティロッタ・アッカルド
の6人兄弟の2番目として生まれた。
 アッカルド一家は彼が生まれる1年前に、イタリアのシチリア島トラーパニ県カステルヴェトラーノから米国に移住していた。
 14歳でアッカルドは学校を中退し、近所のビリヤード場をうろつき始めた。
 彼はすぐに、シカゴの貧困地区に数多く存在するストリートギャング
   クロード・マドックス
   トニー・カペジオ
が運営するサーカス・カフェ・ギャングに加わった。
 これらのギャングは、シカゴの成人犯罪組織のタレントプール(ファームチームの概念に似ている)としての役割を果たしていた。
 シカゴ・アウトフィットのボス
の最も手強い殺し屋の一人
は、長年の仲間であるインディアナ州ゲーリーの
   トニー・マズラック
とともにアッカルドを自分のチームに引き入れた。
 
 禁酒法時代、アッカルドは、バットを使ってギャング団を裏切った3人のギャングを撲殺したことから、 「ジョー・バッターズ」というあだ名がついた。
 なお、カポネは「おい、この子供は本物のジョー・バッターズだ」と言ったと伝えられている。
 1939年、シカゴの新聞は、カナダのノバスコシア州ウェッジポートへの釣り旅行でアッカルドが400ポンドの巨大なマグロを釣り、その獲物と一緒に有名な写真が撮られたことにちなんで、アッカルドを「ビッグ・ツナ」と呼んだ。
 後年、アッカルドは、連邦政府の盗聴器で、悪名高い1929年の
に関与したと自慢した。
 この虐殺では、カポネが差し向けた殺し屋たちがライバルのアイルランド系ギャング
のノースサイド・ギャングのメンバー7人を殺害したとされている。
 アッカルドはまた、ブルックリンのギャングのボスである
を殺害した犯人の一人であると主張したが、これもまたカポネの命令で争いを解決するために実行したものであった。
 しかし、ほとんどの専門家は、アッカルドはバレンタインデーの虐殺とは関係がなかったか、あったとしても周辺的な関係しかなく、イェール大学殺人事件とは全く関係がなかったと考えられえている。
 イェール大学殺人事件は、
   ガス・ウィンクラー
   フレッド・バーク
の3人によって実行された可能性が高い。
 ただ、1926年10月11日、アッカルドはシカゴのホーリーネーム大聖堂近くでノースサイド・ギャングのリーダーである
の暗殺に参加した可能性はある。
  
 1932年、カポネは脱税で有罪となり、11年の刑期で刑務所に送られ、
   フランク「執行官」ニッティ
が脱税で18ヶ月の刑期を務めた後、新しいアウトフィットのボスになった。
 この頃までに、アッカルドは組織のために金を稼ぐ確固たる実績を築いていた。
 ニッティはアッカルドに自分のチームを設立することを許可した。
 アッカルドはまた、アウトフィットの執行責任者に任命され、すぐに、ギャンブル、高利貸し、賭博、恐喝、非課税の酒類とタバコの流通など、さまざまな儲かる詐欺を開発した。
 すべてのカポレジム(通称 カポ)と同様に、アッカルドはいわゆる「街税」としてチームの収入の5%を受け取った。
 アッカルドは、代わりにハイミー・ワイスのボスに税金を支払っていた。
 チームのメンバーが街税の支払いを拒否した場合(または支払うべき金額の半分以下を支払った場合)、そのメンバーは殺された。
 アッカルドのクルーには、将来アウトフィットの重鎮となる
   ガス・「ガッシー」・アレックス
が含まれていた。
 
 1940年代、アッカードは組織内で権力を強め続けた。
 10年が経つにつれ、組織幹部が捜査を受け、彼らが支配する労働組合による
   ストライキの脅し
を利用してハリウッドのスタジオから数百万ドルをゆすった罪で告発された。
 閉所恐怖症で2度目の懲役刑を恐れたニッティは1943年に自殺した。
 カポネの投獄以来事実上のボスであった
が正式にボスとなり、アッカードを副ボスに任命した。
 リッカとアッカルドはリッカが1972年に亡くなるまで30年間組織を仕切った。
 その後、リッカが
   ハリウッドスキャンダル
への関与で懲役10年の刑を受けると、アッカードがボス代行となった。
 3年後、リッカが仮釈放の条件としてギャングとの接触を禁じられると、アッカードが組織ボスとなった。
 実際には、彼は上級コンサルタントとして裏方に徹していたリッカと権力を共有していた。

 1940年代後半、アッカードの指揮の下、ギャング団はスロットマシンや自動販売機に進出した。
 また、タバコや酒類の税印紙を偽造し、麻薬密輸を拡大した。
 アッカードは、ギャング団の管轄区域全体のガソリンスタンド、レストラン、バーにスロットマシンを設置した。
 ギャング団はシカゴの外にも進出し、ニューヨーク市の
   五大ファミリー
から賭博に対する影響力を奪った。
 アッカードは、ラスベガスの合法的なカジノではすべて自分のスロットマシンを使用するようにした。
 カンザス州とオクラホマ州では、アルコール販売の公式禁止を利用して、密造酒を持ち込んだ。
 ギャング団は最終的に、米国西部のほとんどの地域で組織犯罪を支配するようになった。

 アッカードは、ギャング団が法的訴追を受けるリスクを減らすため、労働組合の組織的活動や恐喝などの一部の伝統的な活動を段階的に廃止した。
 また、ギャング団の売春宿事業を
   コールガールサービス
に転換した。
 これらの変化により、ギャング団は収益性と影響力の黄金時代を迎えた。
 アッカードとリッカは目立たないようにすることを重視した。
 代わりに
のような派手な人物に世間の耳目が集まるようにした。
 例えば、プロレスラーの
   ルー・アルバーノ
   トニー・アルトマーレ
がマフィア風のタッグチーム「ザ・シシリアンズ」として1961年にシカゴに来たとき、アッカードはマフィア関連の宣伝を避けるためにそのギミックをやめるように2人を説得した。
 このような戦術を使うことで、アッカードとリッカはカポネよりもずっと長く組織を運営することができた。
 リッカはかつて「アッカルドはカポネの生涯よりも多くの脳を持っていた」と明かしている。
 
 1957年以降、アッカルドは内国歳入庁(IRS)からの「圧力」により、ボスとしての正式な地位を
に譲った。
 アッカードはその後、組織の顧問となり、組織の日常的な運営からは離れた。
 ただ、依然としてかなりの権力を保持し、最大限の尊敬を求めた。
 ジアンカーナは、殺人を含む主要な仕事について、依然としてアッカードとリッカの承認を得なければならなかった。
 しかし、この仕事上の関係は最終的には決裂した。

 アッカードと違って、ジアンカーナは派手な生活を送り、高級ナイトクラブに通い、有名歌手の
   フィリス・マグワイア
とデートしていた。
 ジアンカーナはまた、イランや中央アメリカに設置していたアウトフィットのカジノからの莫大な利益の一部を一般メンバーに分配することを拒否し独占した。

 アウトフィットのメンバーの多くは、ジアンカーナがFBIの注目を集めすぎていると感じていた。
 FBIはシカゴ都市圏で彼の車を常に尾行していた。
 1966年頃、ジアンカーナが連邦法廷侮辱罪で1年間投獄されると、アッカルドとリッカ
   アイウッパ
を彼に代わって採用した。
 1975年6月、メキシコでアウトフィット亡命生活の大半を過ごし、無礼にもその国から追放された。
 その後、ジアンカーナはイリノイ州オークパークの自宅地下室でイタリアンソーセージとエスカロールを調理中に殺害された。
リッカは1972年に亡くなり、アッカルドが組織の最高権力者となった。
 
 1978年、アッカルドがカリフォルニアで休暇を過ごしていたとき、リバーフォレストにある彼の家に強盗が侵入した。
 その後まもなく、窃盗容疑者3人と関係者4人が絞殺され、喉を切り裂かれた状態で発見された。
 法執行機関は、アッカルドが強盗への報復として殺人を命じたと信じていた。
 2002年、この説は、すべての殺人に関与していたアウトフィットのギャングから情報提供者に転身した
   ニコラス・カラブレゼ
の証言台で確認された。
 生き残った暗殺者たちは全員、ファミリー・シークレット裁判で有罪判決を受け、長期の懲役刑を宣告された。
 
 1934年、アッカルドはポーランド系米国人のコーラスガール
   クラリス・ポルジャニ
と出会った。
 二人は後に結婚し、二人の娘をもうけ、二人の息子を養子に迎えた。

 アッカードの家族にはNFLで活躍した者が数人いる。娘のマリーは、
   ボルチモア・コルツ
   ミネソタ・バイキングス
   オークランド・レイダーズ
でガードとして活躍した
   パーマー・パイル
と結婚した。
 息子のエリック・クメロウはマイアミ・ドルフィンズでラインバッカーとして活躍した。
 エリックの息子ジェイクは5チームでワイドレシーバーとして活躍したが、その中でも特にバッファロー・ビルズが有名である。

 エリックの妹シェリルはドルフィンズでディフェンシブエンドとして活躍した
   ジョン・ボサ
と結婚した。
 2人の間にはジョーイとニックという2人の息子がおり、ジョーイはロサンゼルス・チャージャーズでラインバッカーとして、ニックはサンフランシスコ・フォーティナイナーズでディフェンシブエンドとして活躍している。

 アッカードは結婚生活の大半をイリノイ州リバーフォレストで過ごした。
 リバーフォレストのフランクリン・アベニューに所有していた6寝室6浴室の家に、ボウリング場2つ、屋内プール、パイプオルガンがあった。
 贅沢三昧の生活を国税庁から指摘され始めると、リバーフォレストのノース・アッシュランド・アベニュー1400番地に平屋を購入した。
 そこに、金庫を設置した。
 隣人で友人の医師
   ジム・カート
は、アッシュランド・アベニューの向かいのマーズ・キャンディ・マンションに住んでおり、医療行為を手伝っていたと噂されていた。
 姓が似ているため、カートはアッカードとよく間違われ、アッカード家の一員として尊敬されるようになった。

 カートと妻のローズ(旧姓コランコ)は看護師で、ローズの兄弟
   レオン・コランコ
はアッカードの主治医で、非公式に医療行為を手伝っていたと噂されていた。
 なお、アッカルドの正式な仕事はシカゴのビール醸造所のビール販売員であった。
 
 1970年代後半、アッカルドはカリフォルニア州パームスプリングスに家を購入した。
 シカゴに飛んでアウトフィットの「座り込み」を主宰し、紛争を調停した。
 この時までに、彼の個人資産には、商業オフィスビル、小売センター、木材農場、製紙工場、ホテル、自動車販売店、トラック会社、新聞社、レストラン、旅行代理店への法的投資が含まれていた。
 アッカルドは晩年をイリノイ州バリントンヒルズで娘と婿とともに過ごした。

 1992年5月22日、アンソニー・アッカルドは呼吸器系と心臓系の疾患により86歳で亡くなった。
 アッカルドはイリノイ州ヒルサイドにあるクイーン・オブ・ヘブン墓地の霊廟の地下室に埋葬されている。
 逮捕記録は1922年に遡るが、アッカルドが刑務所で過ごしたのはせいぜい一晩だけだったと伝わっている。

   
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ソフトバンク・ビジョン・ファンド(SoftBank Vision Fund)2017年に設立されたベンチャーキャピタルファンド

 ソフトバンク・ビジョン・ファンドは、2017年に設立されたベンチャーキャピタルファンドである。
 ソフトバンクグループの子会社であるソフトバンク・インベストメント・アドバイザーズが運営している。
 資本金は1000億ドルを超え、テクノロジーに特化した投資ファンドとしては世界最大規模です。
 2019年にはソフトバンク・ビジョン・ファンド2が設立されました。

 運用資産 1,340億ドル(2023年6月)
 
 親会社 ソフトバンクグループ
 
 ソフトバンク・ビジョン・ファンドは、ソフトバンクグループとサウジアラビア政府系投資会社
によって2017年5月に設立された。
 1,000億ドルが調達され、PIFが450億ドル、ソフトバンクが280億ドル
とアラブ首長国系の投資会社
が150億ドル、残りは
   アップル
を含む他の投資家から出資されました。

 孫正義氏はソフトバンク・ビジョン・ファンドを通じて、金融や運輸などさまざまな分野を含む、世界的な
   人工知能
のトレンドに沿った技術を開発しているすべての企業に投資する意向を表明した。
 2019年2月初旬の時点で、ビジョン・ファンドは
   Nvidia株
の4.9%のポジションを構築していた。
 ただ、Nvidiaの株価の長期にわたる急落がファンドの全体的なパフォーマンスを危険にさらす恐れがあったため、それらの株式をすべて売却せざるを得なかった。
 6か月間、ファンドはNvidia株を中心にカラー戦略を立て、それによって2018年10月に始まった大幅な価格下落から身を守っていたが、Nvidiaの株価の上昇から利益を得る能力も制限していた。
 当時、ビジョン・ファンドはNvidiaへの投資で33億ドルの利益を記録した。
 残念なことに、ファンドが2019年2月にNvidiaのポジションを解消したのは、 AIブームとNvidiaが世界で最も価値のある企業の1つに急速に変貌する前のことだった。
 2024年6月までにこれらの株式の時価総額は1500億ドルを超え、孫氏は「逃した魚は大きかった」と公に発言した。
 2020年1月、ソフトバンクが出資している複数のスタートアップ企業
   Getaround
   Oyo
   Rappi
   Katerra
   Zumeな
どで人員削減を開始した。
 2020年2月、アクティビストヘッジファンドのエリオット・マネジメントはソフトバンクの株式を25億ドルで購入し、特にビジョン・ファンドに関して再編と透明性の向上を求めた。
 最初のファンドのポートフォリオ企業の多くが業績不振であり、新規株式公開の失敗後にWeWorkを買収するなど注目を集めた大失態があったため、ビジョン・ファンドへの投資家の信頼は低下した。
 2020年5月、ソフトバンクはビジョン・ファンドが180億ドルの損失を出し、ファンドの500人のスタッフのうち15%が解雇されたと発表した。
 その結果、ビジョンファンド2は1080億ドルの目標額の半分以下しか調達できず、外部投資家からのコミットメントを確保できなかったため、その全額をソフトバンク自身が資金提供した。

 ソフトバンクは2021年5月、 2021年3月31日時点の両ファンドの公正価値の合計が1540億ドルで、ビジョン・ファンドが
   クーパン
への投資成功により過去最高の369億9000万ドルの利益を上げたと発表した。
 ソフトバンクは成功を発表した後、ビジョン・ファンド2の規模を300億ドルに引き上げ、外部投資家からの資金調達を再度検討する可能性はあるものの、第2ファンドへの自己資金提供を継続する予定であると述べた。
 また、2021年5月、ブルームバーグはビジョン・ファンドが2021年に3億ドルのSPACを通じてアムステルダムに上場する可能性があると報じた。

 2022年、ソフトバンク・ビジョン・ファンドは、保有株式の評価額が急落したため、2022年3月31日終了の会計年度で過去最高の3.5兆円(274億ドル)の損失を計上した。
 ファンドの損失投資は巨額であり、破壊的 起業家精神の未来を見通す特別な能力があると主張していた孫氏とソフトバンクは、失敗の大きさから、株主、同業者、ビジネス・金融メディア全体から多くの批判を受けた。
カテラ、ワイヤーカード、ズィマーゲンなどの高額な失敗は、ソフトバンクの無謀な投資行動と投資持株会社の無能さ、怠慢、デューデリジェンスの怠慢のほんの一例に過ぎません。
 2022年7月、ラジーブ・ミスラCEOは、ソフトバンク・ビジョン・ファンド2の運営を含む主要な役職の一部から退くと発表した。
 同年、他の幹部数名も役職を退いた。
 2022年8月、ビジョン・ファンドは4〜6月期の損失が231億ドルに達し、人員削減を計画していると発表した。
 バロンズのテクノロジー担当副編集長
   エリック・J・サヴィッツ氏
は、ソフトバンク・ビジョン・ファンドを失敗した実験と評した。

 孫正義氏は当時、ソフトバンク・ビジョン・ファンドの惨めな業績を目の当たりにして「恥ずかしい」と「恥じた」と述べ、
   ウォール・ストリート・ジャーナル
はソフトバンクを「大敗者」と呼び、
   ブルームバーグ
は「孫正義氏の破綻したビジネスモデル」について詳しく述べた。
 2017年と2019年に設立された第1弾、第2弾のソフトバンク・ビジョン・ファンドにおける孫氏の投資戦略は、「より大きな愚か者理論」に依存したものと評され、投資のパフォーマンスの低迷やそれに対する孫正義氏のプレゼンテーションは専門メディアから揶揄されてきた。

 2023年初頭までに、深刻な収益性の問題により熱狂は失われ、投資収益率の見通しの低下や記録的な損失に直面し、かつては世界最大のスタートアップ投資家であった同社は、直近10〜12月期にスタートアップに投資した金額はわずか3億ドルで、前年比90%以上減少した。
 2023年5月、ソフトバンクグループは、ビジョン・ファンドが2023年3月期に過去最高の320億ドルの損失を出したと明らかにした。
 2024年11月、ミスラ氏はビジョン・ファンドの運営から正式に退任し、アレックス・クラベル氏が後任となる予定である。
  
 ソフトバンク・ビジョン・ファンドは
   ソフトバンク・インベストメント・アドバイザーズ
が運営し、ソフトバンク・ビジョン・ファンド2は
   ソフトバンク・グローバル・アドバイザーズ
が運営している。
 両社ともソフトバンクグループの子会社である。
 同社には投資チームがあり、ファンドが投資する企業を評価・選定する。
 投資のほとんどはベンチャーキャピタルかプライベートエクイティ型である。
 シリコンバレーの企業への投資のほとんどは1億ドル以上である。
ソフトバンク・インベストメント・アドバイザーズはロンドンに本社を置き、シリコンバレーと東京にも主要オフィスを構えている。
 このほか、アブダビ、香港、ムンバイ、リヤド、上海、シンガポールにもオフィスを構えている。

 主な投資先
 ・10x Genomics
 ・Arm Ltd.
 ・Automation Anywhere
 ・ByteDance
 ・C2FO
 ・Chime (company)
 ・Cohesity
 ・Compass
 ・Coupang
 ・Cruise
 ・DiDi
 ・DoorDash
 ・eToro
 ・Fanatics
 ・Flipkart
 ・Flexport
 ・FTX
 ・Fungible Inc.
 ・Getaround
 ・Grab
 ・Improbable
 ・Kabbage
 ・Katerra
 ・Klarna
 ・Lenskart
 ・Mapbox
 ・Nuro
 ・Nvidia
 ・OneWeb
 ・Opendoor
 ・OurCrowd
 ・Oyo Rooms
 ・Ping An Good Doctor
 ・PolicyBazaar
 ・Rappi
 ・Revolut
 ・Roivant Sciences
 ・Slack
 ・SprintRay Inc
 ・Swiggy
 ・The Hut Group
 ・Tractable (company)
 ・Uber
 ・Unacademy
 ・View, Inc.
 ・Wag
 ・WeWork
 ・ZhongAn
 ・Zume
 ・Zymergen

   
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ロッキード・マーティン(Lockheed Martin)航空宇宙、軍事支援、セキュリティ、テクノロジー業界で最大手の企業

ロッキード・マーティン
      (Lockheed Martin)
 世界規模で事業を展開する米国の防衛・航空宇宙メーカーで航空宇宙、軍事支援、セキュリティ、テクノロジー業界で最大手の企業の一つである。
 1995年3月にロッキード・コーポレーションとマーティン・マリエッタが合併して設立された。
 本社はメリーランド州ノースベセスダにある。

 2022年1月現在、ロッキード・マーティンは世界中で約115,000人の従業員を雇用し、そのうち約60,000人はエンジニアと科学者である。
 2024年のレポートでは、ロッキード・マーティン・コーポレーション(LMT)の時価総額は約1,397億ドルと推定されている。
 ロッキード・マーティンは、2014年度の収益では世界最大の防衛関連請負業者であった。
 2013年、ロッキード・マーティンの収益の78%は軍事関連販売によるものであった。
 同社は米国連邦政府の請負業者リストでトップとなり、国防総省から支払われる資金の約10%を受け取った。
 2009年、米国政府契約は384億ドル(85%)、外国政府契約は58億ドル(13%)、民間およびその他の契約は9億ドル(2%)であった。
 同社の年間売上の半分は米国国防総省向けである。
 ロッキード・マーティンは、米国エネルギー省やアメリカ航空宇宙局(NASA )の請負業者でもある。

 ロッキード・マーティンは、
   航空
   ミサイルおよび火器管制(MFC)
   回転翼およびミッションシステム(RMS)
   宇宙
という4つの事業セグメントで事業を展開している。
 同社はコリアートロフィーを6回受賞しており、2001年にはX-35 / F-35B リフトファン推進システムの開発に携わったことで受賞した
 最近では、2018年に自動地上衝突回避システム(Auto-GCAS)で受賞した。

 ロッキード・マーティンは現在、F-35ライトニングIIを開発しており、国際サプライチェーンを主導し、新しいUSAF スペースフェンス(AFSSSの代替)の技術ソリューションの開発と実装のチームを率いている。
 また、オリオンコマンドモジュールの開発の主要請負業者でもある。
 同社はまた、ヘルスケアシステム、再生可能エネルギーシステム、インテリジェントエネルギー分配、小型核融合にも投資している。
   
 収益 710.4億米ドル(2024年)
 営業利益 70億1,300万米ドル(2024年)
 純利益 53億3,600万米ドル(2024年)
 総資産 556.2億米ドル(2024年)
 総資本 63億3,300万米ドル(2024年)
 従業員数 121,000(2024年)
 
 部門
 ・Aeronautics
 ・Missiles and Fire Control
 ・Rotary and Mission Systems
 ・Space

 事業別売上高(2023年)
 ・航空学 40.7%
 ・ロータリーとミッションシステム 24.0%
 ・空間 18.7%
 ・ミサイルと射撃管制 16.7%
  
 ロッキード・マーティンとマーティン・マリエッタの合併交渉は1994年3月に始まり、両社は1994年8月30日に100億ドルの合併計画を発表した。
 合併後の本社はメリーランド州ノースベセスダのマーティン・マリエッタ本社に置かれる。
 取引は1995年3月15日に両社の株主が合併を承認した時点で完了した。
 新会社に残されなかった2社のセグメントは、独立した中規模防衛請負業者である
   L-3コミュニケーションズ
の基礎を形成した。
 ロッキード・マーティンは後に資材会社
   マーティン・マリエッタ・マテリアルズ
もスピンオフさせた。
 合併の結果、同社の幹部は政府から直接多額のボーナスを受け取った。
 当時マーティン・マリエッタのCEOだった
   ノーマン・R・オーガスティン
は820万ドルのボーナスを受け取った。
 両社は、新しいポートフォリオに重要な製品を提供した。

 ロッキード社の製品には
   トライデントミサイル
   P-3オリオン 海上哨戒機
   U-2およびSR-71ブラックバード 偵察機
   F-117ナイトホーク
   F-16ファイティングファルコン
   F-22ラプター
   C-130ハーキュリーズ
   A-4ARファイティングホーク
   DSCS-3衛星
が含まれている。
 マーティンマリエッタ社の製品には、
   タイタンロケット
   サンディア国立研究所(1993年に管理契約を取得)
   スペースシャトル外部燃料タンク
   バイキング1号およびバイキング2号着陸船
オービタルサイエンシズコーポレーションへの下請けである
   トランスファーオービットステージ
およびさまざまな衛星モデルが含まれている。

 1996年4月22日、ロッキード・マーティンは1月に発表されていた
   ロラル・コーポレーション
の防衛電子機器およびシステム統合事業の買収を91億ドルで完了した。
 ロラルの残りの部分は
   ロラル・スペース・アンド・コミュニケーションズ
となった。
 ロッキード・マーティンは、政府が新グループの潜在的強さを懸念したため、1998年7月16日に
   ノースロップ・グラマン
との83億ドルの合併計画を断念した。
 ロッキード/ノースロップは国防総省の調達予算の25%を管理することになるはずだった。

 火星探査機については、ロッキード・マーティン社がメートル法の単位が想定されていたのに、誤って米国慣用単位の計測値を使用したソフトウェアをNASAに提供したため、探査機は失われ、1億2500万ドルの損害を被った。
 探査機の開発には1億9300万ドルの費用がかかった。
 軍事製品に加えて、ロッキード・マーティンは1990年代にセガモデル2アーケードシステムボード用のテクスチャマッピングチップとセガモデル3用のグラフィックシステム全体を開発し、当時最も人気のあるアーケードゲームのいくつかを動かすために使用されました。
  
 ロッキード・マーティンの以前のリーダーシップ・エクセレンス・センター(CLE)ビルは、本社の近くにあった。
 2001年5月、ロッキード・マーティンはロッキード・マーティン・コントロール・システムズをBAEシステムズに売却した。
 2000年11月27日、ロッキードは2000年7月に発表された取引に基づき、航空宇宙電子システム事業をBAEシステムズに16億7000万ドルで売却した。
 このグループには、
   サンダース・アソシエイツ
   フェアチャイルド・システムズ
   ロッキード・マーティン・スペース・エレクトロニクス&コミュニケーションズ
が含まれていた。
 2001年、ロッキード・マーティンは
   F-35ライトニングII
の製造契約を獲得した。
 これはF-16以来最大の戦闘機調達プロジェクトであり、当初の発注は3,000機であった。 
 2001年、ロッキード・マーティンは国防契約監査局の支援を受けてNASAの監察総監室が実施した9年にわたる調査を解決した。
 同社は、前身である
   ロッキード・エンジニアリング・サイエンス社
がNASAに虚偽のリース費用請求を提出したとの申し立てに基づき、米国政府に710万ドルを支払った。

 2006年5月12日、ワシントンポスト紙は、ロバート・スティーブンスが2004年にロッキード・マーティンの経営を引き継いだとき、10年以内にロッキード・マーティンの従業員約13万人のうち10万人、つまり4分の3以上が退職するというジレンマに直面していたと報じた。
 2006年8月31日、ロッキード・マーティンはNASAから39億ドルの契約を獲得し、CEVカプセルの設計と製造を行った。このカプセルは後にコンステレーション計画のアレスIロケットにちなんでオリオンと名付けられた。
 2009年、NASAは国際宇宙ステーションへの輸送のためにカプセルの乗組員要件を当初の6席から4席に削減した。

 2007年8月、ロッキード・マーティンは、ノースカロライナ州ケアリーに拠点を置き、軍や企業の顧客向けにシミュレーションやトレーニングモジュールを制作していた3Dsolveを買収した。
 ロッキード・マーティン3Dラーニングシステムズに社名を変更した同社は、3Dの創設者
   リチャード・ボイド
が取締役としてケアリーに残った。
 最終的に社名はロッキード・マーティン3Dソリューションズに短縮された。
 2008年8月13日、ロッキード・マーティンは、次世代電子機器にカーボンナノチューブを組み込む方法とプロセスを開発した企業であるナンテロ社の政府事業部門を買収した。
 2009年、ロッキード・マーティンは
   ユニテック
を買収した。
   
 2010年11月18日、ロッキード・マーティンは、コストを削減し、全国の拠点の能力を最適化するために、2013年までにミネソタ州イーガンの拠点を閉鎖すると発表した。
 2011年1月、ロッキード・マーティンは、同社が米国政府の契約でその金額について虚偽の請求を行ったという申し立てを解決するために、米国政府に200万ドルを支払うことに同意した。
 この申し立ては、ミシシッピ州の海軍海洋局主要共有資源センターとの契約に関するものであった。

 2011年5月25日、ロッキード・マーティンは
   D-Wave Systems
から最初の量子コンピューティングシステムを購入した。
 ロッキード・マーティンとD-Waveは、ロッキード・マーティンの最も困難な計算問題のいくつかに適用された量子アニーリングプロセッサに基づくコンピューティングプラットフォームの利点を実現するために協力している。
 ロッキード・マーティンは、1つのシステム、メンテナンス、およびサービスを含む複数年契約を締​​結しました。

 2011年5月28日、以前に盗まれたEMCファイルを使用したサイバー攻撃により、請負業者の機密資料が侵害されたと報告された。
 ロッキード事件が、2011年6月1日に米国の新しい軍事戦略でサイバー攻撃が従来の戦争行為の開戦理由 であると明確にされた具体的なきっかけであるかどうかは不明である。
 2012年7月10日、ロッキード・マーティンはコストを削減し、将来の成長に必要な競争力を維持するために、従業員を740人削減すると発表した。
 2012年11月27日、ロッキード・マーティンは、
   マリリン・ヒューソン
が2013年1月1日に同社の最高経営責任者に就任すると発表した。

 2013年1月7日、ロッキード・マーティン・カナダは、カナダのケベック州モントリオールにある
   アベオス・フリート・パフォーマンス
からエンジンのメンテナンス、修理、オーバーホール資産を買収すると発表した。
 2013年7月3日、ロッキード・マーティンは、
   ドリームハンマー
と提携し、同社のソフトウェアを無人航空機の統合指揮統制に使用すると発表した。
 ロッキード・マーティンは
   ベル・ヘリコプター
と提携し、将来垂直離着陸(FVL)プログラム向けにV-280バロール・ティルトローターを提案した。
 2013年9月、ロッキード・マーティンはスコットランドに拠点を置くテクノロジー企業
   アモール・グループ
を買収し、この取引が国際展開と非防衛市場への拡大計画に役立つと述べた。
 2013年11月14日、ロッキードはオハイオ州アクロンの工場を閉鎖し、 500人の従業員を解雇し、残りの従業員を他の場所に異動させると発表した。

 2014年3月、ロッキード・マーティンは、空港向け統合計画および需要予測ツールのプロバイダーである
   Beontra AG
を買収し、商業空港情報技術ソリューションの事業拡大を計画した。
 また、2014年3月、ロッキード・マーティンは
   Industrial Defender Inc.
の買収を発表した。
 2014年6月2日、ロッキード・マーティンは、衛星や宇宙船への損傷を防ぐデブリを追跡する宇宙フェンスを構築する契約を国防総省から受注した。

 2015年7月20日、ロッキード・マーティンはユナイテッド・テクノロジーズ・コーポレーションから
   シコルスキー・エアクラフト社
を71億ドルで買収する計画を発表した。
 国防総省は、この買収が競争の低下を招くと批判している。
 2015年11月、この買収は中国政府から最終承認を受け、総額90億ドルとなった。
 ダン・シュルツがロッキード・マーティンのシコルスキー社の社長に任命された。
 ロッキード・マーティンは、C-5とサイズが似ている双発のブレンデッド・ウィング・ボディ戦略輸送機のスケッチを公開した。
 2015年3月31日、米海軍はロッキード・マーティンに対し、
   フリーダム級艦LCS 21
の建造で3億6200万ドル、LCS 23の先行調達で7900万ドルの契約を交付した。
 フリーダム級艦はウィスコンシン州マリネットのフィンカンティエリ・マリネット・マリンで建造される。
 2015年12月、ロッキードはオーストラリアの次世代軍用パイロットを訓練する7年間の8億6700万ドルの契約を獲得した。
 この契約には、この契約を26年間延長するオプションもあり、契約の価値は大幅に増加すると見られる。

 2016年8月、カナダ海上部隊はロッキード・マーティンが開発した
   統合潜水艦戦闘システム
を試験した。
 この試験は、カナダがMK 48重量級魚雷、派生型7ATを使用した戦闘システムを初めて使用したことを意味した。
 同月、レイドスとロッキード・マーティンの
   情報システム&グローバルソリューション(IS&GS)
の事業全体を合併するという契約が締結された。
2017年5月、ドナルド・トランプ大統領のサウジアラビア訪問中に、サウジアラビアはロッキード・マーティンを含む米国企業と数百億ドル相当のビジネス契約を締結した。
 2018年8月13日、ロッキード・マーティンは、
   極超音速兵器の試作機
を開発するため、米国空軍から4億8000万ドルの契約を獲得したと発表した。
 極超音速ミサイルは秒速1マイルで飛行できる。
 これはマーティンが獲得した2番目の極超音速兵器の契約である。
 最初の契約も空軍からのもので、2018年4月に発表された9億2800万ドルであった。

 2018年11月29日、ロッキード・マーティンはNASAから商業月面ペイロードサービス契約を獲得し、NASAの26億ドル相当の科学技術ペイロードを月へ運ぶ入札資格を得た。
 ロッキード・マーティンは、故宇宙飛行士で元ロッキード・マーティン社員の
   ブルース・マッキャンドレス2世
にちなんで名付けられた
   マッキャンドレス・ルナ・ランダー
と呼ばれる着陸機を正式に提案する予定である。
 マッキャンドレス2世は1984年、同社製のジェットパックを使用し、軌道上のシャトルへの命綱なしで初の自由飛行による宇宙遊泳を行った。
 この着陸機は、フェニックスとインサイトの成功した火星着陸機の設計に基づいている。
 2019年4月11日午後6時35分(東部夏時間)、アラブサット6A衛星が(LC-39A)から打ち上げられた。
 この衛星は、サウジジオサット1/ヘラスサット4と合わせてロッキード・マーティンがこれまでに製造した「最も先進的な商用通信衛星」である2機のうちの1機である。
 2019年9月23日、ロッキード・マーティンとNASAは、宇宙飛行士を月に送るNASAのアルテミス計画のために6機以上のオリオン宇宙船を製造する46億ドルの契約を締結した。
   
 2020年1月、海軍海上システム司令部はロッキード・マーティンに、
   AEGIS戦闘システムエンジニアリングエージェント(CSEA)
に関連する1億3,800万ドルの契約を授与した。
 同社のLMTロータリーおよびミッションシステム(RMS)部門は、AEGIS先進能力構築(ACB)20統合戦闘システムの開発、統合、テスト、提供を行う。マーティンはニュージャージー州でAEGISに取り組む。
 このプロジェクトは2020年12月までに完了する予定である。
 2020年1月、国防総省は年次調査で、米軍が所有する
   ロッキード・マーティン社製F-35戦闘機
に少なくとも800件の
   ソフトウェア欠陥
があることを発見した。
 2018年と2019年のレビューでも多数の欠陥が明らかになった。
 2020年2月、ロッキード・マーティンは、破産裁判所が2月21日の期限までに入札を受けなかったことを受けて、
   ベクター・ローンチ社
の衛星ソフトウェア技術
   ギャラクティックスカイ
を425万ドルで買収した。 

 2020年3月16日、ロッキード・マーティンは、 6月15日付けで
   ジェームズ・D・タイクレット
がマリリン・ヒューソンに代わりCEOに就任すると発表した。
 2021年1月、タイクレットは同社の会長にも就任した。
 ロッキード・マーティンは、台湾への武器販売を理由に、2020年7月、2020年10月、2022年2月、2023年2月に中国政府から制裁を受けた。
 2020年12月20日、ロッキード・マーティンが
   エアロジェット・ロケットダイン・ホールディングス
を44億ドルで買収すると発表された。
 買収は2022年第1四半期に完了する予定だった。
 2022年2月13日、ロッキードは規制当局の不承認を受けて取引を断念した。
 2022年、ロシアがウクライナに侵攻した際、ロッキード・マーティンを含む大手兵器メーカーは中間売上高と利益の急増を報告した。
 2023年5月、ロッキードは顧客向けにカスタム特定用途向け集積回路を設計するために、新しいマイクロエレクトロニクス子会社
   ForwardEdge ASIC
を設立した。
 2023年11月には、 2023年の
   イスラエル・ハマス戦争
において、イスラエルに武器を供給したロッキード・マーティンを含む米国と英国の武器会社に対して直接措置の試みが行われた。
 2024年3月、ロッキード・マーティンは
   テラン・オービタル
の買収提案を提出した。
 2024年6月28日、米陸軍はロッキード・マーティン社に
   パトリオット先進能力3(PAC-3)ミサイル
を供給する45億ドルの契約を授与した。
 契約には870発のPAC-3 MSEミサイルと関連ハードウェアが含まれていた。
 ロッキード社はこれらの迎撃ミサイルの最新バージョンの製造を任された。
 陸軍の予算文書によると、PAC-3 MSEミサイル1発のコストは約400万ドルであった。
2024年10月9日、ロッキード・マーティンは、2024年12月1日付けで、F-35ライトニングIIプログラムの副社長兼ゼネラルマネージャーに
   ショーンシー・マッキントッシュ
を任命すると発表した。
 同氏は、同社に38年間勤務して退職したブリジット・ローダーデール氏の後任となる。
 2024年12月、ロッキード・マーティンは、米国の防衛企業が業務に
   人工知能
を取り入れることを支援する子会社
   アストリスAI
を設立したと発表した。
 
 ロッキード・マーティンは、2020年度の利益が68億3,300万ドル、年間売上高が653億9,800万ドルで、前年度比9.3%増となったと報告した。
 受注残は2019年末時点で1,440億ドルで、2018年末の1,305億ドルから増加した。確定受注は2019年末時点で945億ドルだった。
 同社の株価は1株当たり389ドル以上で取引された。
 同社の時価総額は2019年末時点で1,098億3,000万ドルと評価された。
 ロッキード・マーティンは、2019年のフォーチュン500社リストで、総売上高で米国最大手の企業の60位にランクされた。
   
  
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