2025年03月23日

ウィリアム・スタンリー(William Stanley Jr.)生涯で電気装置全般にわたる129の特許を取得した物理学者

ウィリアム・スタンリー(William Stanley Jr.)
   1858年11月28日 - 1916年5月14日
 アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン出身の物理学者で、生涯で電気装置全般にわたる129の特許を取得した。
 スタンリーは、初期のメーカーで電鍵や自動火災報知設備の工事をする電気技術者であった。
 ニューヨークで、彼は初期の電気設備の設計を行った。
 そのすぐ後、
がピッツバーグ工場の主任技術者として彼を雇った。
 1885年に
   ルシアン・ゴーラール
   ジョン・ディクソン・ギブス
の考えに基づく初めての実用的な交流の装置を開発した。
 この装置はインダクションコイル (Induction coil) と呼ばれた。
 現代の変圧器の元になるものである。
 このスタンリーの仕事により、ジョージ・ウェスティングハウスがピッツバーグで主任技術者として雇うことになった。
 1886年3月20日、発電機と変圧器と高圧送電線からなる、初めての高圧交流送電の完全なシステムをデモンストレーションした。
 このシステムにより、広範囲に電力を供給することができるようになった。
 彼は、自宅のあるマサチューセッツ州グレート・バーリントン (Great Barrington) の目抜き通りで、オフィスや商店に電灯を点けるためにこのシステムを設置した。
 スタンリーの変圧器の設計がこの後の全ての変圧器の原形となった。
 また、彼の交流送電システムが現代の電力伝送システムの基礎となった。
 彼が変圧器を実際に製造した最初の人物である。
 1890年に、マサチューセッツ州ピッツフィールドに
   スタンリー電気製造会社 (Stanley Electric Manufacturing Company)
を設立した。
 1903年にゼネラル・エレクトリックがこの会社を買収した。
 会社が立っていた土地は、今ではピッツフィールドのバークシャーにある
   ウィリアム・スタンリー・ビジネスパーク
となっている。
 スタンリーは広い範囲の製品や電気装置に関して129の特許を取得した。
   
   
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フレデリック・ジョリオ=キュリー(Frédéric Joliot-Curie)フランスの原子物理学者 ノーベル化学賞の受賞者

ジャン・フレデリック・ジョリオ=キュリー(Jean Frédéric Joliot-Curie)
   1900年3月19日 - 1958年8月14日
 フランスの原子物理学者でジャン・フレデリック・ジョリオ(Jean Frédéric Joliot)として生まれた。
 妻はイレーヌ・ジョリオ=キュリーである。
 また、義母はキュリー婦人として知られる
   マリ・キュリー
義父はピエール・キュリー、義妹はエーヴ・キュリーである。。
 1925年、ラジウム研究所でマリ・キュリーの助手となり、そこで彼女の娘であるイレーヌと知り合った。
 2人は翌1926年に結婚したが、その際、姓を2人の旧姓を組み合わせた「ジョリオ=キュリー」とした。
 1934年に妻イレーヌと共に、
   アルミニウムへアルファ線
を照射することによって世界初の人工放射性同位元素である30Pの合成に成功した。
 それにより1935年に夫婦でノーベル化学賞を受賞した。
 1936年9月、のちにフランス柔道、最初の柔道有段者となるイギリス国籍の物理学者
   モーシェ・フェルデンクライス
が設立したフランス柔術クラブの名誉会長に就任した。
 他に名誉会長には柔道創始者の
   嘉納治五郎
も就いていた。
 第二次世界大戦時はレジスタンス運動に参加し、戦後はフランス国立科学研究センター総裁に就任すると共にフランス原子力庁長官となった。
 また、コレージュ・ド・フランスの教授も務めた。
 1947年には、フランス初の
   原子炉「ゾエ」
の開発に成功した。
 1956年にイレーヌが亡くなると、彼女のパリ大学教授の職も兼任した。
 パグウォッシュ会議の設立にも尽力し、創設メンバーの一人でもある。
 1951年から1958年にかけて世界平和評議会の初代議長を務めたうえ、フランス共産党の党員でもあった。
 日本初の女性物理学者
   湯浅年子
が、師事していたことがある。
 長女のエレーヌ(1927年生まれ)は物理学者に、長男のピエール(1932年生まれ)は生物学者になった。
 1958年に白血病で死去した。

  
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アンリ・ピゴッツィ(Henri Pigozzi) フランスの自動車商人、実業家

アンリ・テオドール・ピゴッツィ
  (Henri Théodore Pigozzi  本名エンリコ・テオドロ・ピゴッツィ Enrico Teodoro Pigozzi)
   1898年6月26日ー1964年11月18日
 自動車商人、実業家であり、
   自動車産業協会( Simca )
を設立したことで最もよく知られている。
 1912年に父親が失踪し、当時14歳だったピゴッツィは母親と妹、そして小さな運送業を背負うことになった。
 1918年、第一次世界大戦後、彼はピエモンテ地方でイギリスとアメリカのオートバイの販売権を確保した。
 連合軍の軍用在庫から余剰マシンを販売した。
 1920年から1922年にかけて、彼はドイツのザールラントから石炭を輸入する会社で働いた。
 1924年に彼は自分の会社を立ち上げ、ピエモンテの製鉄所が必要とする鉄くずをフランスから輸入した。
 この地域の鉄鋼の主な顧客は
   フィアット
であり、1922年にピゴッツィはフィアットの所有者である
を紹介された。
 アニェッリは当時フランスで一般的な商務代理店を探していた。
 このため、ピゴッツィに特に興味を持った。
 ピゴッツィはすでにフランスの産業界に精通しており、1926年に28歳にしてフィアットのフランスにおける一般的な代理店に任命された。

 同年、彼はシュレーヌ(パリ近郊)に
   SAFAF(Société Anonyme Français des Automobiles FIAT)
という新しい販売会社を設立し、イタリアのフィアット車の輸入と、後には組み立てを開始した。
 1928年から1934年にかけて、彼はSAFAFの理事長として約3万台のフィアット車を組み立て、販売した。

 ピゴッツィは、廃業した
   ドネ・ゼデル自動車製造会社
のナンテールの建物を購入し、1934年11月2日にそこに
   シムカ
として知られる機械・自動車工業会社を設立した。
 彼は1935年から1954年まで総裁として、1954年から1963年まで社長兼総裁として、ほぼ30年間シムカを経営した。
 このとき、 1958年にフォードから15%を購入して以来少数株主であった
   クライスラー
が、事業の株式保有を64%に増やして経営権を握った。
 1963年5月31日、クライスラーが経営権を握ったため、彼はシムカの社長を辞任せざるを得なくなった。
 息子のジャンによると、アンリの3人の子供は愛人によって産まれたが、妻のロワゼットが自分の子供として育てたという。
 彼は18ヵ月後の1964年11月18日、パリ郊外のヌイイ=シュル=セーヌで心臓発作により66歳で急死した。 
   
    
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