ヘルベルト・クヴァント(Herbert Quandt)
1910年6月22日 - 1982年6月2日
1910年6月22日 - 1982年6月2日
実業家ギュンター・クヴァントの次男としてドイツに生まれた。
倒産の危機に瀕していたドイツの自動車会社
を救済したことで知られる。
クヴァント家は現在も同社のオーナー一族として経営にあたっている。
クヴァント家は現在も同社のオーナー一族として経営にあたっている。
異母兄弟として、ナチスの宣伝大臣
ヨーゼフ・ゲッベルス
の養子となったハラルトがいる。
網膜の疾患による瘢痕のためにほとんど盲目であった。
そのため、学校に通う代わりに家庭内での教育を受けた。
1940年、父ギュンターが経営する電池会社
AFA(ファルタ 前身)
の幹部に就任した。
AFA(ファルタ 前身)
の幹部に就任した。
ドイツ敗戦の1945年以降は、受け継いだ諸企業の再建に携わった。
父親のギュンターが死亡した1954年の時点までには、クヴァント家の所有する企業群は製薬会社
アルタナ
を含む200社余りに拡大し、ダイムラー・ベンツの株式の10%、BMWの株式の30%も所有していた。
1959年、経営不振に陥っていた自動車会社BMWでは最初ダイムラー・ベンツへの身売りが計画されていた。
1959年、経営不振に陥っていた自動車会社BMWでは最初ダイムラー・ベンツへの身売りが計画されていた。
ドイツで最も弱小な自動車会社のひとつであったBMWは、両社の大株主であるヘルベルトも吸収合併の計画には賛成であった。
ただ、労働者と労働組合からの反対が強固であり、計画は実行直前に断念した。
代わりにヘルベルトがBMW株を50%まで買い増すこととなった。
倒産寸前である同社株の買い増しは危険な投資であったが、ダイムラー・ベンツによる吸収を免れた同社の経営は1962年に発売された小型セダンBMW・1500の成功により改善した。
異母兄弟であったハラルトが1967年航空事故で死亡した。
ヘルベルトは更なるBMWなど各社の株式を相続した。
1974年、ハラルトの未亡人とヘルベルトは、所有していたダイムラー・ベンツの株式を
クウェート政府
に売却した。
1933年、1度目の結婚で一女をもうけたのちに離婚した。
1950年、2度目の結婚で3子をもうけたのち1959年に離婚した。
1960年、3度目の妻として永くヘルベルトの秘書をつとめていたヨハンナと結婚した。
ヨハンナとの間に生まれた、娘スザンネ・クラッテンと息子シュテファン・クヴァントは何れも現在BMWの大株主となっており、同社の役員会のメンバーでもある。
ヘルベルトは1982年にドイツ北部の都市キールで死亡した。
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