2015年04月28日

ヨシフ・スターリン(Иосиф Виссарионович Сталин) 恐るべき独裁者

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Иосиф Виссарионович Сталин)
   1878年12月18日 – 1953年3月5日
 ソビエト連邦の政治家、軍人 
 第2代最高指導者
 スターリンという姓は「鋼鉄の人」を意味する筆名 
 本姓 ジュガシヴィリ
 ヨロシア帝国領グルジアのゴリ市でシフ・ベサリオニス・ジュガシヴィリ(ヨシフ・スターリン)は、グルジア系ロシア人の靴職人
   ヴィッサリオン・ジュガシヴィリ
を父親として、農奴出身の母親
   ケテワン・ゲラーゼ
という貧しい家系で生まれた。
 両親の第3子であったが二人の兄は幼児で死没している為、実質的には長男として育てられた。
 ヴィサリオンは地元でも評判の職人だったがアルコール摂取が慢性化して依存症を患い、精神的に不安定となり抑制が効かなくなるため、しばしば妻や子供に暴力を振るったという。
 酒に溺れる家長では仕事が約束通りにこなせず信頼性を低下させるため、家計は火の車となり、次第に傾いていき、幼少期だけで9回も転居を繰り返した。
 7歳の時には天然痘に罹患する不幸にも遭い、助かったものの皮膚に目立つ痘痕を残した。 
 12歳の時までに2度に亘って馬車に撥ねられて大怪我を負い]、後遺症で左腕の機能に障害を抱える事になった。 
 10歳の時、グルジア正教会が運営する初等学校に進んで、怪我を乗り越えつつ勉学に励み、信仰心も篤く、やがて優等生として認められる存在になっていった。
 神学校の優等生だった経歴から、後に「聖書を隅から隅まで読んだ唯一の独裁者」ともいう。
 信心深かった母は大いに喜んだが、父は息子に靴職人を継がせる望みが絶たれるのを恐れて学業に反対した。
 父ヴィッサリオンは母に「俺は靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と言っていたという。
 結局、父は別居という形で一家から離れていったものの、後に息子を無理やり連れ去って自分と一緒に働く道を選ばせようとしたり、養育費を打ち切るなど抵抗を続けていたという。 
 ヨシフは度重なる父の反対を押し切って教育を続け、グルジア正教会からの推薦を受け、神学校で聖職者として育てられた。
 神学校でもグルジア系ロシア人は差別を受け、ロシア語の使用を強制されていた。
 ただ、神学校でも優秀な生徒であったが、マルクス主義に傾倒した事で神学に対する疑問を抱き始めていったとされている。
 神学校の記録では、1896年、禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書の所持、1898年には、朝の祈祷の欠席や規律違反、反抗的態度などで、度々注意や処罰を受けており問題行動が目立っていた。 
 1899年、司祭叙任を目前にしながら授業料不足を理由に神学校を退校している。
 その後、棄教し無神論に転向してマルクス主義に基いた革命運動に参加していくこととなる。
 ウラジーミル・レーニンによるロシア社会民主労働党ボリシェビキ派(ロシア共産党)による十月革命に加わり、ソヴィエト連邦政府及びソヴィエト連邦共産党の成立に深く関与し権力と地位を確立していった。
 1924年、レーニン死後に起きた
   レフ・トロツキー
との後継者争いを制すると、自身が務めていたソビエト連邦共産党中央委員会の書記長に権限を集中させる事で後継者としての地位を確立した。
 党内ではトロツキー派の世界革命論(永久革命)を否定した。
 一国社会主義論による国内体制の維持を優先する路線を示してトロツキー派粛清の大義名分として用いた。 権力を手にして以降、人民委員会議議長及び同職を改組した閣僚会議議長 を1941年から1953年に死没するまで務めた。
 その他、前述のソビエト連邦共産党中央委員会書記長などの要職を兼任、国家指導者としての立場を維持した。
 1928年、干渉戦争に対応して行われた戦時共産主義体制による経済疲弊から一時的に導入されていた新経済政策(ネップ)を切り上げさせ、第一次五ヶ年計画を実行に移した。

 同計画では政府主導の農業事業の集団化(コルホーズ)を進めて合理化と統制を進めた。
 また、脆弱な工業力を強化すべく工業重点化政策を推進した。
 この結果として帝政時代からの課題であった農業国から工業国への転身を果たし、第二次世界大戦後にソヴィエト連邦政府が世界第2位の経済を有する基盤を作り出した。
 なお、急速な経済構造の改革は農業政策を混乱させたことで深刻な食糧不足が発生し、1932年から1933年の飢饉へと繋がった。
 また、反対派に対する厳しい弾圧も合わさって多数の犠牲者を出す事になった
 グラーグ(収容所)に収監された者だけで100万名以上、これを免れた数百万人もシベリアなどの僻地に追放処分を受けた。
 強権支配は大粛清と呼ばれる大規模な反対派摘発で頂点に達し、軍内の将官を含めて数十万名が処刑或いは追放されたことで軍幹部がいなくなり軍事作戦が遂行できなくなり軍事力が大きく低下した。
 1939年、ナチス・ドイツの台頭などによって国際情勢が不安定化する中、予定していた仏英ソ同盟の締結が不調に終った。
 反共主義・反スラブ主義を掲げていたナチス党率いるドイツと独ソ不可侵条約を締結し、秘密議定書に基づくポーランド侵攻は第二次世界大戦を起こすことになる。
 世界を驚嘆させたこの協定は政治的イデオロギーを別とすれば、ソ連政府によって有利に働いた。
 ポーランド分割、バルト三国併合、東カレリア併合などの軍事行動における背景になった。
 第一次世界大戦における再三の鞍替え行為の末、ロシア革命後の混乱に乗じてベッサラビアを領有していたルーマニアに対し、ドイツと共同で外交圧力を掛けてベッサラビアと北ブコビナを返還させている。
 1941年、第二次世界大戦においても中立を維持していたソヴィエト政府はイギリス本土上陸の失敗で手詰まりとなったドイツによる侵略を受け、独ソ戦が始まった。 
 イギリスを中心とする連合国陣営にも参加、アメリカの連合国参戦後はレンドリースによる援助対象とされている。
 スターリンの大粛清による影響もあって大きな苦戦を強いられ、多数の犠牲者や反乱に苦しんだが従来通りの強権支配を維持して軍と政府の統制を維持し続けた。 
 ドイツ都の戦争が長期化する中で態勢を建て直し、最後には反攻に転じて他の連合国とともにベルリンを攻め落とした。 
 連合国陣営内でソ連が果たした役割は非常に大きく、アメリカと並ぶ超大国として戦後秩序に影響を与えた。
 ヤルタ会談とポツダム会議では大戦後の欧州情勢についての協議を行い、ファシズム打倒後の共産主義と資本主義の対立においては西欧諸国と北大西洋条約機構を結成したアメリカに対し、東欧諸国とワルシャワ条約機構を設立して対峙する冷戦を始める。
 また、アジア情勢を巡っては中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国を軸とした共産圏に影響力を行使した。 
 1953年の死没まで国家指導者としての立場は続いた。
 死後から程なくしてスターリン後の権力闘争が行われた。
 ニキータ・フルシチョフらによるスターリン派に対する批判が展開された。
 1956年、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフは有名なスターリン批判を行い、一転してスターリンは偉大な国家指導者という評価から、恐るべき独裁者という評価へと変化した。
posted by manekineco at 06:42| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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