2015年10月17日

朱 元璋(しゅ げんしょう)  郭子興の軍に参加


 東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた郭子興の軍に参加した時、最初は
   朱重八
が元の派遣した間諜と間違われ、殺されそうになった。

 尋問時の面構えが
   郭子興
に気に入られて、幕下に入ったという逸話もある。

 朱重八は他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、先のことを考えた行動をとったとも言われている。

 自分の出自を逆に活かして
   貧民の味方
という立場を打ち出した。

 元軍の中の徴兵された農民達を郭子興の兵隊の中に取り込んで勢力を増していった。

 
 この時期、のちに功臣第一となる徐達や勇猛で知られる
   常遇春
や後の謀臣
   李善長
と戦火の中で出会ったといわれている。

 朱元璋は李善長から統率力を買われ乱れた天下を治めるのは貴方であると告げられた。
 そのためには同じ農民出身で漢王朝を作った劉邦の真似をすれば良いと言われという。

 これ以降皇帝になる野望を抱き始めた朱元璋の行動は劉邦を意識したものが多くなった。
 

 至正15年(1355年)に郭子興が病死すると彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして娘婿の朱元璋の3人に受け継がれた。

 しかし郭天叙と張天祐の2人は、元軍との戦いで戦死してしまった。

 朱元璋はそれらの軍を自軍に吸収し勢力を拡大し至正16年(1356年)、集慶路(現在 南京)を占領し、応天府と改めた。




 
  


       






   
posted by manekineco at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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