応天府を占領した
朱元璋
の名声は大いに高まり各地から劉基、宋濂ら名望家がやって来るようになり、長江下流の一大勢力と変貌していった。
その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がって勢力を増してきた
至正27年(1367年)、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。
その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がって勢力を増してきた
陳友諒
が大漢国をうち立て、湖北から江西の一帯を支配するようになっていた。
また、非紅巾勢力の
張士誠
は蘇州を本拠に大勢力を築いていた。
朱元璋を含めたこの3勢力で当時、中国で最も豊かであるといわれた江南の覇権を争うことになった。
至正20年(1360年)、陳友諒は大軍を率いて応天府の目と鼻の先まで進軍し陣を敷いた。
その上で張士誠に使者を送り、共に朱元璋を挟み撃ちにするよう促した。
応天府においてはこうした情勢から投降、首都放棄を主張する者まで現れるほど混乱した。
劉基が陳友諒との決戦あるのみとの主張をしたため、部下の
偽りの降伏
によって陳友諒の軍を竜湾に引きずり出し勝利することができた。
至正23年(1363年)3月、陳友諒は前回の敗北を挽回すべく60万を号する大水軍を率いて南昌を攻撃した。
7月、朱元璋も水軍を率いて救援に向かって矛を交わす鄱陽湖の戦いが行われた。
3日にわたる激戦の後、劉基の献策した火薬を用いた火計で、漢の水軍の殲滅に成功し陳友諒自身も戦死した。
翌年に陳友諒の後を継いだ陳理が降伏し大漢国を滅ぼした。
至正24年(1364年)、朱元璋は呉王を名乗った。
張士誠も呉王を名乗っていたため、両者は江南の覇権をかけて激突した。
朱元璋は張士誠側の要地を一つ一つ確実に落としていった。
至正26年(1366年)に朱元璋は韓林児を応天府に呼び寄せたが、その途中で韓林児が水死した。
これを機会に朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった。
至正27年(1367年)、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。