2015年10月01日

ココ・テムル 元・北元の有力将軍のひとり


ココ・テムル
  (Köke-Temür  ? − 1375年)
  

 元・北元の将軍
 漢字表記は擴廓帖木児

 ココ・テムルは元の朝廷から授けられたモンゴル名で、若い頃は「王保保」との中国名を名乗っていた。

 
 河南の出身で、元末の騒乱に河南で軍閥を形成したウイグル部の
   チャガン・テムル
の甥で、養子となった。


 1362年にチャガン・テムルが山東で
   紅巾党との戦い
で命を落とすと、その軍閥と官職を継ぎ、山東の征伐で叔父に劣らない軍才を発揮した。

 その直後、叔父の生前から敵対関係にあった山西の大同を本拠地とする軍閥
   ボロト・テムル将軍
との敵対が深まり、山西南部の太原に入って対峙した。


 元の首都大都では
   オハート・ハーン(トゴン・テムル)
の側近たちと、皇帝の実子で皇太子の
   アユルシリダラ
の間で内紛が起こっていた。

 ボロト・テムルは反皇太子派に荷担しアユルシリダラの側についた。

 この対立では1364年、皇太子派が反皇太子派を脅かしたために反皇太子派のボロト・テムルが大同から兵を大都に進攻させハーンを自らの掌中に置いて政権を奪取した。

 皇太子アユルシリダラは都を逃れて太原のココ・テムルのもとに落ち延びる事態に至った。

 ココ・テムルは皇太子と連合してボロト・テムルとの決戦に臨んだ。


 翌1365年にココ・テムルの軍が大都に迫るとボロト・テムルは軍中の裏切りで暗殺された。


 ココ・テムルは大都に入城して皇太子を中央政界に復帰させた。
 この功によって中書左丞相の地位と河南王の爵位を授けられた。

 この内紛の間に江南では朱元璋が勢力を固めつつあった。

 
 ココ・テムルは皇太子の信任のもとに元軍の総司令官を委ねられた。

 総司令官として「反元運動の討伐」を強化したが、河南軍閥以来の
   漢人将校
を含む配下の将兵らがココ・テムルに反抗を見せ、反乱も起こった。

 また、1367年にはトゴン・テムルから政治と軍事の全権を付与されてほとんどハーン同然の地位と権力を確保したアユルシリダラは次第に権力と軍事力を持つココ・テムルを疎み始め、元軍に間隙が生じた。

 これまで強勢を誇ってきたココ・テムルの軍は軍事的な勢力を殺がれ、朱元璋の立てた新王朝明の軍勢の前に敗れた。
 河南・太原を失い、1368年に元は大都を捨てて北方に移ることを余儀なくされた。

 
 1370年、トゴン・テムルが死にアユルシリダラが皇帝に即位した。

 この頃、太原から甘粛に逃れていたココ・テムルはモンゴル高原のカラコルム方面に入ってアユルシリダラの軍に合流した。

 ハーンを補佐して元を追撃せんとする明軍に対する防衛にあたった。


 1372年には、モンゴル高原に侵攻してきた明の将軍徐達が率いる15万の大軍をわずかな手兵で打ち破った。
 この戦闘では数万人を殺し大勝利を挙げた。

 その後は元の中国回復を目指して元軍を率いて南下し、一時は山西地方まで勢力を盛り返した。
 1375年に病死した。ココ・テムルと、その3年後のアユルシリダラの死を境に北元の勢力は急速に解体に向かった。

 元の中国回復は果たされないまま終焉した。




 
 



  
posted by manekineco at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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