2016年04月11日

ロバート・オッペンハイマー 「原爆の父」として知られる物理学者


ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー
       (Julius Robert Oppenheimer,)
              1904年4月22日 - 1967年2月18日

 ユダヤ系アメリカ人の物理学者

 理論物理学の広範な領域にわたって国際的な業績があり、第二次世界大戦当時ロスアラモス国立研究所の所長としてマンハッタン計画を主導した。

 卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たしたため「原爆の父」として知られた。
  
 父親はドイツで生まれ、17歳で米国に渡った
   ジュリアス・オッペンハイマー
で母親は東欧ユダヤ人の画家
   エラ・フリードマン
としてNYで生まれた。

 非常に早熟で、子供の頃から鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、18世紀の詩や数ヶ国の言語を学んでいたという。

 セーリングと乗馬は得意だったが、運動神経にはあまり優れず、同世代の子供たちと駆け回って遊ぶことはほとんどなかった。

 ハーバード大学に入学して化学を専攻、1925年に最優等の成績を修めてハーバード大学を3年で卒業した。
 英国のケンブリッジ大学に留学し、キャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学んだ。

 オッペンハイマーはキャヴェンディッシュ研究所でニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界に興味を持った。

 オッペンハイマーは実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍し、マックス・ボルンとの共同研究による分子を量子力学的に扱う「ボルン-オッペンハイマー近似」などの業績を残し、博士号を取得した。

 1929年には若くして カリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授に就任し物理学の教鞭を執った。
 1936年には教授となる。生徒などから呼ばれた愛称は「オッピー」だった。
 
 1930年代末には宇宙物理学の領域で、中性子星や今日でいうブラックホールを巡る極めて先駆的な研究を行っていた。

  第二次世界大戦が勃発すると、1942年には原子爆弾開発を目指す
   マンハッタン計画が
開始され、1943年ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命された。

 原爆製造研究チームを主導し世界で最初の原爆を開発した。

 ニューメキシコでの「トリニティ実験」と呼ばれる核実験の後、日本の広島、長崎に落とされることになった。

 戦後、1947年にはアインシュタインらを擁する
   プリンストン高等研究所所長
に任命された。

 核兵器の国際的な管理を呼びかけ、原子力委員会のアドバイザーとなってロビー活動を行った。
 水素爆弾など核兵器に対して反対するようになったため、「水爆の父」ことエドワード・テラーと対立した。

 ソ連との冷戦を背景に、ジョセフ・マッカーシーが赤狩りを強行したことでオッペンハイマーに大きな打撃を与えた。

 なお、妻のキティ、実弟のフランク、フランクの妻のジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン(Jean Tatlock)は、アメリカ共産党員であった。

 また、オッペンハイマー自身も共産党系の集会に参加したことが暴露され、1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分とした。

 なお、オッペンハイマーは私生活も常にFBIの監視下におかれるなど生涯に渡って抑圧され続けた。

 



 



  
posted by manekineco at 06:11| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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