2016年09月26日

ジョセフ・レイモンド“ジョー”・マッカーシー 「マッカーシズム」を主導した政治家


ジョセフ・レイモンド“ジョー”・マッカーシー
    (Joseph Raymond "Joe" McCarthy)
            1908年11月15日 - 1957年5月2日
  
 米国ウィスコンシン州選出の共和党上院議員(任期:1947年 - 1957年)。

 
 マッカーシーとそのスタッフは
   「マッカーシズム」
と呼ばれたアメリカ合衆国政府と娯楽産業における共産党員と共産党員と疑われた者への攻撃的非難行動で知られる。
 
 ウィスコンシン州のグランド・シュートで農場を経営していたアイルランド系の家庭(父方の祖父と母がアイルランド出身)に生まれた。


 1930年から1935年までミルウォーキーのマーケット大学で法律を学び、弁護士の資格を取った。

 シャワノの町の法律事務所で働きながら、1936年に民主党員として治安判事になるための運動に乗り出した。
 力及ばずに落選、1939年に巡回裁判官には当選した。
 

 1941年12月に米軍が欧州でのドイツとの戦闘に参加するため画策し、大統領の思惑通りに日本軍が隙を作った真珠湾への攻撃を行った。
 米国が攻撃されたことを契機に、第二次世界大戦に参戦した。

 マッカーシーは兵役免除を受けられる立場だった。
 しかし、海兵隊の大尉として軍務に就いた。

 マッカーシーは南太平洋の爆撃任務に観測手および後部銃座手として戦闘に参加した。
 このことから「テールガンナー・ジョー」という渾名がつき彼自身も選挙運動などで好んで使ったという。

 軍務に就いていたマッカーシーは1944年に共和党に鞍替えすると共にウィスコンシン州の共和党上院議員候補者指名のための予備選挙に立候補した。

 現職のアレクサンダー・ワイリーに惨敗した。
 

 1945年4月には軍隊を除隊したのち巡回裁判官の地位を反対なく再選出された。

 1946年の上院議員選挙のためにより組織的な運動を始め、ウィスコンシン州現役上院議員の
   ロバート・M・ラフォレット・ジュニア
に挑み、激しい選挙運動の末僅差で候補者への指名を勝ち取り、本選挙でも民主党の対立候補に大差をつけて初当選した。

 大衆とメディアの注意を惹くことに長けていたマッカーシーは、たくさんの異なった組織に対し非常に多くの演説を行った。

 1950年2月9日、ウェストバージニア州のホイーリングにおける共和党女性クラブでの演説でひとつの文書を示し「国務省で働いている著名な共産主義者のリストを持っている」と主張した点が注目され全国的に知られるようになった。
 
 演説で使用したリストについては単に国家への忠誠心についてだけでなく、酒の飲み過ぎとか無能力とかなど、色々な問題点を持っている職員をリストしている国務省の文書が存在していたのは事実と言われている。

 ただ、マッカーシーの演説は、ヨーロッパにおけるソ連の侵略の可能性と、マッカーシーの演説と同時に進行しているアルジャー・ヒスの裁判に注目している国家にとっては衝撃となった。

 マッカーシー自身も演説へのメディアの大きな反応に驚き、有名となる心地よさに陶酔したのか、そして絶え間なくその後告発、共産党員数の両方をコロコロと修正した。

 数日後ソルトレイクシティにおいて57人の数字を示し、そして2月20日の上院では81人と主張したが、その根拠は希薄か、存在しないものだった。

 虚偽の数字を弄んだ演説の衝撃は大きかった。

 上院は告発を調査するためミラード・タイディングスを長とする委員会を招集し、これらは事実無根であることが明らかになった。

 しかし、メディアを引き寄せたことで情報を操れるようになり米国民を見方につけたマッカーシーは有力な議員にのし上がった。

 1950年から1953年の間マッカーシーは、国民的なヒーローとかなりの収入を得た。

 マッカーシーの収入は上院の委員団によりその後調査された結果、マッカーシーのキャンペーンにおける
   問題ある行動
   財政的な不正行為
が明らかとなった。

 1952年における共和党の選挙勝利にマッカーシーの攻撃が助けとなった。

 選挙勝利後、党の指導者はマッカーシーの人気の大きさをリベラルな民主党員を攻撃するための武器と認めた。
 彼を上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長に任命した。


 マッカーシーの委員会は、下院非米活動委員会と上院内部安全小委員会とは異なって、政府機関に焦点を合わせたエスカレートしていった。
 それは最初「アメリカの声」の官僚組織への調査を行った。

 国務省の海外情報図書館から
   親共産主義的文献
と考えられるものを強制排除させた。

 また、政府与党に属しているにも関わらず、政府内部における共産主義者が影響力を及ぼしていると非難を始めるなど自己陶酔して制御が木かなくなり増長していき、アイゼンハワーの怒りを買うことになった。



 
 


    
posted by manekineco at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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