2017年04月29日

マシュー・バンカー・リッジウェイ 


マシュー・バンカー・リッジウェイ
    (Matthew Bunker Ridgway)

          1895年3月3日−
                 1993年7月26日


 米国陸軍の軍人で
   ダグラス・マッカーサー元帥
の後任として1951年4月より1952年4月まで第2代連合国軍最高司令官 として日本の占領統治に当たった。

 また、朝鮮戦争で窮地に陥った国連軍を救い出したことで有名。
 
 バージニア州フォート・モンローで生まれ、1917年に米陸軍士官学校(ウェストポイント)を卒業し、少尉に任官した。

 卒業後、スペイン語教官として陸軍士官学校に戻った。
 その後、ジョージア州フォート・ベニングの歩兵学校で士官養成課程を修了し、第15歩兵連隊の指揮官となりてニカラグアへ配属された。
 ニカラグアでは1927年の自由選挙の監督を支援した。

 1930年にはフィリピン総督の軍事技術顧問となった。
 その数年後、カンザス州フォート・レヴンワースの指揮幕僚大学に学び、同時期(1930年代中頃)に第6軍団の副参謀長となった。

 その後、第2軍の副参謀長、第4軍の副参謀長を歴任した。

 ジョージ・マーシャル参謀総長はその功績を認め、第二次世界大戦が勃発するとリッジウェイを戦争計画局に配属した。
 

 1942年8月に准将に昇任したのち
   オマー・ブラッドレー
が第28歩兵師団長へ転任したのをうけ、第82空挺師団の師団長となった。

 同師団は軍の二つの空挺師団構想の内の一つとして選ばれた。
 当時空挺師団構想はアメリカ陸軍にとって実験的試みであった。

 リッジウェイは1943年のハスキー作戦を支援した。
 2ヶ月後のジャイアント作戦計画時には副官のマクスウェル・D・テイラーにスパイ活動を行わせ、イタリア軍の無力とドイツ軍が降下地点に展開している事を暴き作戦中止を決断した。

 この情報分析力に基づく判断で師団壊滅の危機を救ったことが、後の出世に繋がったといわれる。

 
 1944年にはオーバーロード作戦での空挺降下計画を支援した。

 ドイツ軍の防衛ラインを突破するノルマンディー上陸作戦時、部下と共にドイツ軍の後方へパラシュート降下し、サン=ソーヴァー=ル=ヴィコントへの進出を目指して33日間の戦闘を経験した。


 1944年9月には上級の第18空挺軍団の指揮を任され、ドイツへの侵攻を指揮した。
 この、一年後彼は中将に昇進している。

 1945年、暫くの間ルソン島で指揮を行い、続いて地中海での連合軍副最高司令官に就任した。
 1940年代末にはカリブ海での米軍の指揮を行い、後に陸軍参謀総長
   J・ロートン・コリンズ
の下で副参謀長に就任した。

 朝鮮戦争中の1950年12月、中華人民共和国の参戦で国連軍が敗走する中、第8軍である米軍の司令官ウォルトン・ウォーカー中将が交通事故死した。

 ウォーカーの後任として第8軍司令官に就任した。

 国連軍総司令官であった
   ダグラス・マッカーサー元帥
は、リッジウェイに、ウォーカーには与えなかった第10軍団(司令官 アーモンド陸軍少将)の指揮権を与えた。

 リッジウェイは第8軍を立て直し、中国人民志願軍の攻勢を押し止め、1951年春から反転攻撃に出た。

 圧倒的多数の中国人民志願軍が南侵を停止し、韓国から38度線の向こうに撃退することができたのはリッジウェイが第8軍を立て直すことができたからだとする意見が多い。

 この期間に、リッジウェイ個人のリーダーシップの例は、基本的な軍事活動における原則について、米陸軍史上でほとんど一致することができなかったリーダーシップの標準として定められることとなった。

 韓国軍には米軍から最新鋭の兵器が供与されていたが、韓国軍がそれらの
   高価な装備品
を中国軍の攻撃において、安易に放棄して後方に逃亡してしまうことがたびたび見られた。

 こうした韓国軍の腰抜けぶりに対しては、リッジウェイが立案する戦略をことごとく潰し続けるものとなり、相当悩ませたようで繰り返し著書「THE KOREAN WAR」においても言及されている。

 韓国軍の信頼性のなさに対して米国軍の占領下にあった日本の領土である竹島を一方的に占領した韓国軍の
   李承晩
は、韓国人兵士を米軍の装備で武装させることが効率的だと繰り返し主張した。

 高性能の武装を与えても敵前逃亡を繰り返した韓国軍はリッジウェイを不快にした。

 なお、リッジウェイは、第一線から全ての韓国師団を引き上げ、訓練する時間が必要であると著書で結論付けている。

 1951年4月にマッカーサー元帥は朝鮮戦争の終結のために原爆を使用すべきだと主張した。
 この作戦がトルーマン大統領と対立したため、最高司令官を解任された。

 リッジウェイがマッカーサーの後任となり、大将に昇進し、朝鮮半島での国連軍の指揮をとった。
 また、連合国軍最高司令官として占領下日本で占領行政を行った。


 重要な任務のひとつとしては、連合国軍最高司令官として、連合国の占領下にあった日本を独立させて西側陣営の一員に加えることであった。

 吉田茂首相との協調によってこの課題を達成し、1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効して日本の占領が解除された。
 
 
 リッジウェイは1952年5月に、
   ドワイト・D・アイゼンハワー
の後任としてNATO軍最高司令官に就任したが、周りのスタッフを自らの部下で固めようとしたため他ヨーロッパ諸国の軍指揮官の反発を受けた。

 そのためコリンズ将軍の後任としてアメリカ陸軍参謀総長に就任するため、1953年に米国に戻った。



 リッジウェイは2年間、陸軍参謀総長の職にあった事で、ベトナム戦争への米軍の介入を遅らせた。

 なお、当時のアイゼンハワー大統領は米軍がフランス軍と合同で介入することに関して(賛成するような)判断を求めたところリッジウェイは介入を行わないよう大統領に述べた。

 リッジウェイがアイゼンハワーと異なっため、第二次世界大戦中に保った良好な関係が壊れる事となり1955年に陸軍を退役した。

 リッジウェイは軍を退いた後はペンシルベニア州ピッツバーグのメロン産業調査研究所の取締役会長を1960年まで務めた。


 
 

   
posted by manekineco at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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