2018年02月12日

屈原(くつげん) 戦国時代に存在した楚の政治家


屈原(くつげん)
   紀元前343年1月21日頃 -
             紀元前278年5月5日頃

 中国古代、戦国時代に存在した楚の政治家であり詩人。
 姓は羋、氏は屈、諱は平または正則という。
 字が原。

 秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする
   懐王
を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。
  
 蘇秦と共に縦横家の代表的人物とされる秦の宰相
   張儀
は蘇秦が唱える合従策を連衡策で打ち破り、秦の統一に貢献した。  


 春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。
 
 屈原は楚の武王の
   公子瑕(屈瑕)
を祖とする公族の1人で。

 父は屈伯庸、弟は屈遙、子の名は不詳。

 屈氏は景氏・昭氏と共に楚の公族系でも最高の名門の1つであった。
 家柄に加えて博聞強記で詩文にも非常に優れていた。

 このために懐王の信任が厚く、賓客を応接する左徒となった。

 当時の楚は、西の秦といかに向き合っていくかが主要な外交問題であった。楚

 の外交方針について、臣下は二分しており、一つは、西にある秦と同盟することで安泰を得ようとする親秦派(楚における連衡説)であり、もう一つは、東の斉と同盟することで秦に対抗しようとする親斉派(楚における合従説)であった。

 屈原は親斉派の筆頭であった。


 当時の楚では屈原の政治能力は群を抜いていたが非常に剛直な性格のために同僚からは嫉妬されていた。

 讒言を受けたため、王の傍から遠ざけられると同時に国内世論は親秦派に傾いた。

 屈原は秦は信用ならないと必死で王に説いたが、受け入れられない。


 屈原の心配どおり秦の謀略家張儀の罠に懐王が引っかかり、楚軍は大敗した。

 丹陽、藍田の大敗後、一層疎んぜられて公族子弟の教育役である三閭大夫へ左遷され、政権から遠ざけられた。
 
   
 秦は懐王に婚姻を結ぼうと持ちかけて秦に来るように申し入れた。

 屈原は秦は信用がならない、先年騙されたことを忘れたのかと諫めた。
 懐王は聞く耳を持たずに親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、秦に監禁されてしまった。

 王を捕らえられた楚では頃襄王を立てた。

 頃襄王の令尹(丞相)として屈原が嫌っていた子蘭が着任した。

 このため、更に追われて江南へ左遷された。

 その後、秦により楚の首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望して、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。

 後に屈原の無念を鎮めるため、また亡骸を魚が食らわないよう魚のえさとしても人々が笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったと言われtえいる。
 これがちまきの由来とされる。

 また、伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)は入水した屈原を救出しようと民衆が、先を争って船を出したという故事が由来であると伝えられている。


 

    
posted by manekineco at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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