2017年07月06日

李 如松(り じょしょう) 明代の武将


李 如松(り じょしょう)
    1549年(嘉靖28年) - 1598年(万暦26年)

 明代の武将で遼東鉄嶺衛の出身で朝鮮からの帰化人。

 明の武将として遼東安定に多大な功のあった李成梁の長子にあたる。
 
 万暦2年(1574年)に鉄嶺衛都指揮同知を父より世襲した。
 万暦8年(1580年)には寧遠伯を一ヶ月遅れで世襲した。
 万暦12年(1584年)に山西総兵、翌万暦13年(1575年)に京城巡捕都督僉事、万暦16年(1578年)に宣府総兵を歴任した。

 万暦20年(1592年)寧夏で起きた、副総兵の
   ボハイ(哱拜)による反乱
の鎮圧でも戦功を認められた。

 その直後に始まった文禄・慶長の役では防海禦倭総兵官として、朝鮮への援軍を率いた。

 朝鮮に入ると、万暦21年(1593年、文禄2年)1月に平壌城に拠る
   小西行長
の軍勢を急襲して落城寸前まで追い込み、包囲を一部解いて自主撤退を勧告して平壌の支配権を回復した。

 更に李如松は撤退する小西軍を約束を破って追撃したものの漢城へ進撃する途上での
   碧蹄館の戦い
で小早川隆景、立花宗茂らの軍勢に迎撃されて大敗し、平壌に撤退した。

 その後は、軍事的な劣勢を悟ったのか積極的な攻勢に出ることはなく、和議による事態収拾を図った。

 9月には朝鮮軍務経略の宋応昌と共に李如松も帰国した。
 後の「慶長の役」には参戦していない。

 万暦25年(1597年)に東西虜10万により
   遼東静遠堡
などが一週間に渡って侵略を受けた。

 鎮守遼東総兵官として王保の後任として着任し、太子太保を加えられた。

 ただ、翌万暦26年(1598年)4月に李如松は城外で伏兵に遭って戦死した。

 
 李氏朝鮮時代の支配層は、李如松の功績に対して頌徳碑を建て、生祠堂を作ろうとまでした。
 このほかに、平壌に武列祠を作り、肖像画を掲げて春秋には祭祀を執り行い、1599年には宣武祠を建て、宣祖は「再造之恩」という額を掲げて、滅んだ国を蘇らせた恩人として崇めた。

 李如松を救国の恩人と美化しているのは官製の記録に限られ、大衆の説話ではあくどい面が浮き彫りにされている。

 大衆の説話では李如松のあくどい面が浮き彫りにされている。
 李如松は平壌城の戦闘で李如松が指揮した明軍の戦果とする日本軍将兵として切り落とされた頭の半数は、朝鮮の民衆であった。
 李如松が平壌城を攻撃した際に、日本軍に協力した朝鮮の民衆の頭を切り落とし処刑した後、前髪を刈り取り日本軍の頭に偽装して戦果をごまかした。

 この行為は明軍でも問題視され、山東都御使周維翰は、調査官を送り、網目の帯状頭巾の跡がある朝鮮人の頭と前髪を刈り取った日本軍の頭を識別する作業を行い、責任を追及した。

 ただ、当時の李氏朝鮮は高麗王朝を亡ぼした女真族の将軍李成形の王朝では
   両班(ヤンパン)
を最上位とする強固な身分制社会で、全人口の五割は奴婢身分だったと言われている。

 「宣祖実録」によると、日本軍が侵攻してきたのを好機と捉え、朝鮮の民衆は抑圧し搾取する李氏朝鮮王朝を見限り、日本軍に協力する者が続出した。

 「宣祖実録」は宣祖帝の時代の出来事の李氏朝鮮国の公式記録だ。
 このなかで、宣祖帝が漢城を脱出するところの記述で日本軍が漢城に進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかった。
 また、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたという。

 女真族の王朝である李氏朝鮮の支配階級を追撃する日本軍は解放軍であり、支援する高麗王朝ゆかりのものも多く含まれ、朝鮮の民衆が半分近くの勢力があったという。

 韓国の教科書にこの時の日本軍侵略の為に文化財の被害も大きかったとの記述がある。
 景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した」と書かれているが、史実は朝鮮の民が景福宮等に火をつけたものであり、秀吉の軍隊が漢城に入る前には既にそれらの建物は焼け落ちていた。

 多くの朝鮮の民衆が国王に対し、国民のことを顧みずもっぱら後宮を富ませたと罵声をとばし、石を投げたという記録もある。

 日本軍は、朝鮮軍からの抵抗を全く受けることなく北進を続け、6月15日には平壌が陥落した。

 日本軍より先に漢城から平壌に逃亡した宣祖王は、平壌に日本軍が迫ると再び逃亡した。
 生口を朝貢して支援を受ける下地を作ってきた冊封に基づいて明国に救援を要請。

 小西行長らの一番隊は進撃速度が計画より大幅に早く、兵站線が維持できない状況にあったことから、和平交渉を模索して平壌で北進を停止した。  

 李如の平壌城攻撃では日本軍に協力的な朝鮮人1万人を焼死・水死させ虐殺したという記録が『宣祖実録』に出ており、1950年7月に起きた駐留米軍による韓国民間人500人の虐殺事件「老斤里事件」を大きく凌ぐ虐殺を李如松は行った。

 歴史を歪曲して真実を伝えない国の体制は問題だろう。



posted by manekineco at 21:52| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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