2018年09月03日

孺子 嬰(じゅし えい) 前漢最後の皇太子


孺子 嬰(じゅし えい)

   元始5年(5年)−更始3年(25年)

 前漢最後の皇太子で本名は劉嬰

 摂皇帝
   王莽
の傀儡として皇太子の位のままで、帝位には即けなかった。
 ただ、一般には「前漢最後の皇帝」として歴代に名を連ねる。
 

 元始5年(5年)12月に平帝が崩御すると、翌居摂元年(6年)3月に「摂皇帝」となっていた王莽により劉嬰が数え2つで皇太子に立てられ「孺子(意味 こども)」と号し、表向きには成人後に即位することが予定されていた。

  
 ただ、王莽がまだ幼児の皇太子に変わる
   「摂皇帝」
の地位を確保し、朝政の万機を総覧するための方便でもあった。

 居摂3年(8年)、王莽は劉嬰の摂政としての役割である「摂皇帝」の号を「仮皇帝」と改めた。
 同年、王莽は
   高祖(劉邦)の霊
により禅譲を受けたとして皇帝に即位、「新」を建国とすると、劉嬰を新の諸侯として定安侯に封じた。

 ただ、その新も経済政策の失敗や遠征軍の敗退などで国民の不満が爆発しあっけなく反乱が広がり崩壊し、新末後漢初の内乱時代に入った。こ

 の時期、隴右に割拠していた隗囂の軍師である
   方望
は、常日頃から漢朝復興を目指して活動していた。

 更始3年(25年)1月、方望は弓林という人物を同志として誘った上で、定安侯劉嬰を長安から探し出し皇帝の地位につけた。

 劉嬰、方望らは兵卒数千人を率いて安定郡臨(現在の甘粛省鎮原県)に入城した。
 ここで劉嬰は方望を丞相、弓林を大司馬にそれぞれ任命した。

 こうして地方政権ながらも、劉嬰はついに皇帝となった。
  

 王莽を滅ぼして長安を拠点としていた
   更始帝(劉玄)
は、同様に漢の皇帝を称する劉嬰の存在を許さなかった。

 更始帝は配下の将軍である李松・蘇茂・劉祉らに劉嬰討伐を命じ、この戦いに敗れ僅かの期間の内に劉嬰・方望・弓林は戦死した。
 劉嬰、享年21だった。
  



 
  
posted by manekineco at 00:00| Comment(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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