2018年09月09日

隗 囂


隗 囂(かい ごう)

    ? - 33年

 中国の新代から後漢時代初期の武将で政治家

 中国涼州天水郡成紀県(甘粛省静寧県)の出身
 叔父は隗崔、兄は隗義。子は隗恂、隗純。

 隴右に割拠した新末後漢初の群雄のひとり。
 蜀の公孫述と共に後漢を建国した
   光武帝(劉秀)
の統一事業に立ちはだかった人物でもある。
 
 若年時代は州郡で官吏を務めていた。

 新を建国した王莽の下で国師を務めた
   劉歆
に登用され、その属官となった。

 地皇4年(23年)、南陽郡で劉縯が宛を包囲した時に、王莽が赦令を下す使者72人の一人として長安を出発した。
 劉歆が叛乱の露呈によって自殺したため、その後、隗囂は郷里に帰った。


 更始帝(劉玄)が即位して、王莽が敗北したと聞き、叔父の隗崔、兄の隗義が、上邽の
   楊廣
や冀県の
   周宗
と共謀してこれに呼応し、兵を起こそうとした。

 こうした動きに対して、隗囂は「兵は凶事」として諫止したものの叔父の隗崔らは聞き入れず、平襄を攻撃して鎮戎の大尹(天水郡の太守)を討ち取った。

 その後、隗囂の声望が高く、また経書を良く読むことから、隗崔と楊廣はこれを
   上将軍
として推戴したものの、隗囂は辞退を繰り返した。
 その後、隗囂も要請に折れ、これを受諾している。


 頭領となった隗囂は、平陵(右扶風)出身の
   方望
を軍師として招聘した。
 方望は、人望を集めるため、漢室復興の大義を示すため
   「神道設教」
を行うことを進言した。

 隗囂もこれを容れて邑に東面して廟を建て、高祖(劉邦)、太宗(文帝)、世宗(武帝)を祀るなどした。
 これに伴い、隗囂は元号を漢復に改め、漢復1年(23年)7月付で漢室復興の檄を各郡国に発した。

 隗囂の下に兵士が参集し10万の大軍をもって周辺地域へ出撃した。
 雍州牧陳慶、安定大尹王向(王莽の従弟王譚の子)を攻め滅ぼした。

 同年9月に王莽が滅亡した頃には、隴西、武都、金城、武威、張掖、酒泉、敦煌の各郡が、隗囂の支配地域になった。
 

 漢復2年(24年)、長安の更始帝から隗囂、隗崔、隗義を招聘する使者が派遣された。
 方望の諫止を聞かずに、隗囂らは長安へ向かった。

 方望は、手紙を残して隗囂から去った。


 長安入りした隗囂は、更始帝から右将軍に任命された。
 同年冬、農民反乱軍
   赤眉軍
が関中に入ると隗崔と隗義が反逆して故郷に戻ろうとした。

 このため、隗囂は自ら更始帝にこのことを告げ、隗崔と隗義は誅殺された。

 一方、隗囂は更始帝からその忠義を賞賛され、御史大夫に任命されている。


 更始3年(25年)、赤眉軍が西へ向けて進軍し
   光武帝
が即位したと聞いた隗囂は、政事を劉氏の元老格である国三老
   劉良
に委ねるよう更始帝に進言したが、聞き入れられなかった。

 まもなく、衛尉大将軍張卬らが、更始帝を脅かして荊州に戻ろうと画策。
 隗囂もこの謀議に加わった。

 謀議が露見し更始帝の命を受けた執金吾
   ケ曄
に隗囂の屋敷が囲まれたものの、辛うじて長安を脱出した。

 天水へ帰還すると、隗囂は西州上将軍を自称した。
 同年9月に更始政権が滅亡すると、三輔の多くの士大夫は隗囂を頼って来た。

 隗囂の下には、谷恭、范逡、王元、王遵などの多くの名士が参集した。
 隗囂は、河西に割拠していた竇融らにも将軍印を授与し、これを傘下に加えた。
  

 建武2年(26年)、漢の大司徒ケ禹の部将
   馮愔
がケ禹に反逆し、天水へ向ったため、隗囂はこれを高平(安定郡)で撃破した。

 これによりケ禹は、隗囂に符節を与え、西州大将軍に任命したうえ、涼州、朔方郡の事務について専権を授与した。長安を占領していた赤眉軍が西進してくると、隗囂は部将の楊廣を派遣してこれを撃破した。


 建武3年(27年)、隗囂が光武帝に書簡を奉呈した。

 光武帝は、隗囂を字で呼び、対等の国君に対する儀礼をもって応じるという破格の厚遇で、これに報いた。


 同年、蜀の
   公孫述
の支援を受けた呂鮪が三輔へ進攻してきた。

 隗囂は征西大将軍馮異と協力して呂鮪を撃破し、光武帝から更なる礼遇が加えられた。

 公孫述は隗囂に大司空扶安王の印綬を授けてこれを取り込もうとした。
 隗囂はその使者を斬り、公孫述の軍を度々撃破した。


 光武帝が蜀攻略を隗囂に持ちかけると、隗囂の態度は消極的であった。

 本心では隗囂は天下統一を望まず、光武帝と公孫述の両雄を並存させたうえ
   漁夫の利
を得ることを願っていた。

 光武帝もその意図を見抜いたため、次第に隗囂を冷遇し、対等の国君の礼から、通常の君臣の礼へと格下げした。


 隗囂と仲が良かった来歙、馬援から来朝の呼びかけもあり、子の
   隗恂
を人質として光武帝の下に送った。

 隗囂は腹心である王元などの勧めもあり、次第に自立の動きを模索するようになった。
  

 建武6年(30年)、公孫述が荊州南郡へ進攻したため、光武帝は隗囂に蜀進攻を命じた。

 この命令に対して、隗囂は様々な理由をあげてこれを受け容れなかった。


 光武帝は隗囂に
   示威行動
で臨み、自ら長安に移り、建威大将軍
   耿弇
ら7人の将軍に隴西経由による蜀侵攻を行わせた。

 こうした戦略への参加に対しても、隗囂は光武帝からの蜀征伐参加の要請を拒絶した。
 光武帝に叛旗を翻して、緒戦は隗囂が耿弇らを撃退したが、続く部将の
   王元、行巡
による三輔攻撃は失敗に終わった。


 隗囂と光武帝の最後の和平交渉が決裂したのちに、隗囂は公孫述に服従の使者を送った。

 翌建武7年(31年)、朔寧王に封じられている。

 一方で、光武帝への傾斜を強めていた河西の
   竇融
らは、隗囂から授与されていた将軍印を破棄して、隗囂陣営から離脱した。
 

 馬援・来歙が、隗囂軍を次々と切り崩した。
 政略によって隗囂の腹心
   王遵
や第一城(安定郡高平県)を守備する
   高峻
らを引き抜いた。

 また、建武8年(32年)春に略陽(天水郡)を奇襲攻撃して占領した。

 そして、光武帝が親征すると、河西の竇融、梁統らが軍を率いてこれに合流した。
 王遵が元の同僚の
   牛邯
を投降させたのちには、隗囂配下の13人の大将、16県、10数万人の兵士が尽く投降した。


 隗囂は光武帝の降伏勧告を拒否したため、故に人質となっていた隗恂を光武帝が処刑したため、徹底抗戦した。

 その後は、呉漢、岑彭、耿弇ら漢軍に攻められ、隗囂は西城(隴西郡)に追い込まれ、包囲された。

 3ヶ月籠城戦に耐え、王元が引き連れてきた公孫述の救援軍の製円を受け、隗囂は包囲を脱し冀県へ退却した。

 さらに、漢軍が兵糧不足から退却したことで、安定、北地、天水、隴西の各郡も一応、再び隗囂に帰順した。


 建武9年(33年)春、隗囂は病の上に飢えて、城外で乾燥食糧を食すると、憤怒の余り死去したとされる。

 その後も、王元らが隗囂の遺児
   隗純
を擁立して抗戦したが、翌建武10年(34年)、落門聚(天水郡冀県)で来歙らに破れ、隗純らは漢に降伏した。
 なお、王元は蜀の公孫述の下へ逃亡した。

 建武18年(42年)、隗純は賓客と漢を逃亡し、胡族と結び、武威郡に至ったが、追撃兵に捕縛され処刑されている。
  
  
 
    
    
posted by manekineco at 05:55| Comment(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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