2019年02月19日

趙 光祖 「己卯士禍」で失脚


趙 光祖(ちょう こうそ 조광조、1482年 - 1519年)

 李氏朝鮮時代の16世紀前半の儒学者で高麗王朝の
   鄭夢周
以来の儒学の伝統を受け継ぎ、朝鮮性理学の学問としての端緒を確立した。
 自ら提唱した「道学政治」を実践した改革派の政治家でもある。

 鄭夢周は対明政策における対立から、李氏朝鮮の建国者となる女真族出身の将軍
   李成桂
が1388年に高麗王朝でクーデター(威化島回軍)を行い、第32代高麗国王である禑王の子の昌王(辛昌)を即位させ、1389年には昌王は正当な王位継承者ではない偽王と主張して殺害し、第34代恭譲王を擁立した際、彼とともに新王の恭譲王を支えた。

 鄭夢周は策謀を巡らして恭譲王から禅譲を受けて李氏朝鮮を開こうと目論んだ李成桂と対立した。
 そのため、李成桂の子・李芳遠の手により開京の善竹橋で暗殺されている。

 1482年(成宗13年)、下級官吏であった趙元綱の子として、漢陽(現在のソウル)に生まれ、李氏朝鮮建国時の功臣趙温の5代孫に当たる。

 16歳の時(1498年頃)、父の任地平安道の魚川に同行し
   戊午士禍
で煕川に流刑となっていた金光弼に出会い、弟子となった。

 1510年(中宗5年)数え29歳の時初めて、科挙の司馬試(進士試)を受験し、状元(首席)で合格して成均館に入学した。 

 官職としては典籍・監察・礼曹佐郎を歴任し、弘文館副提学を経て、ついには大司憲にまで昇進した。

 李氏朝鮮第11代国王・中宗の信任のもとで1515年から1519年までの4年間
   急進的な改革政治
を提言し、勲旧勢力(反正功臣派)に対する本格的な改革を断行した。
 1518年(中宗13年)には司憲府の大司憲と王世子の輔養官を兼任し、改革政治を実践している。

 1519年(中宗14年)、秋、勲旧勢力に対して、「偽勲削除」の問題を提起した。
 ただ、南袞・沈貞らの勲旧派の誣告により、「己卯士禍」で失脚、急進的士林派の首領として投獄され、綾州に配流後、賜死(享年38)となった。 
  

    
posted by manekineco at 00:00| Comment(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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