2024年01月24日

ゴールドマン・サックス・グループ 米国有数の金融グループ 日本のGPIF年金運用委託先の一つ

  (The Goldman Sachs Group, Inc.)
 米国企業で金融グループとして、株式・債券・通貨・不動産取引のブローカー業務、貸付・保険・投資銀行業務にくわえ、プライベート・バンキング等も行う日本のGPIF年金運用委託先の一つ。

 ゴールドマン・サックスとは創業者
と、後に参加した義理の息子
からと言われている。

 普仏戦争勃発の前年、バイエルン王国のユダヤ人
   マーカス・ゴールドマン(Marcus Goldman)
が信用手形引受を営みはじめたところを起源とし1885年
   ルートヴィヒ・ドレフュス
が参加し、2年後にクラインワート商会(Kleinwort, 現在二つの法人ソシエテ・ジェネラルコメルツ銀行と提携した。

 1896年、ニューヨーク証券取引所へ参入し1906年、百貨店シアーズを買収し株式公開した。
 1920年代末という世界恐慌直前期に、ゴールドマン・サックスは典型となる
   投信ピラミッド(シャドー・バンキング・システム)
の構築に大きな役割を果した。

 セントラル(Central States Electric Corporation)と共同出資で子会社
   GSTC(Goldman Sachs Trading Corporation)
を設立した。

 セントラルは1912年、アメリカ投信を草分け
   ハリソン・ウィリアムズ(Harrison Williams)
が仕掛け人となって設立された。

 ウィリアムズはギャランティ(Guaranty Trust, 現JPモルガン)から貸付を受けて、オハイオ州で活動する
   クリーブランド電灯会社
の発行する普通株残高の6割ほどを572万4000ドルで買った。
 ウィリアムズはクリーブランド電灯会社株を全てセントラルに引渡し、代わりにセントラル証券を受け取った。

 1922年、セントラルは社債償還のためにクリーブランド電灯会社株を現金化し、これに銀行借入金をあわせて
   ノース・アメリカン(North American Edison Company)
の普通株を買った。

 GSTCを核に膨れたウィリアムズの投信ピラミッドが別途資金を調達しながら、購入は1929年まで継続した。

 ノース・アメリカンの収益と株価がセントラルの経営を左右するほどの資産構成となった。
 資本充実の原則などなく堂々と系列内の投信間で株式の持ち合いをした。

 巨大な公共事業を実態の伴わない資金で掌握したうえ、株価操作用の資金プールを使わずして株価を上昇させた。

 ノース・アメリカンは1923年から定期的に10%の普通株式配当を行った。
 この株式配当額は、ノース・アメリカン傘下の公益事業子会社が現実に生んだ収益を凌駕した。
 このファンダメンタルを無視したピラミッドは、エジソン系のインサル帝国やエバスコと連結していた。

 
 1931年、マニュファクチャーズ・トラスト(Manufacturers Trust Company, 現JPモルガン)が破綻した。
 そのため、同社へ多額の投資をしていたGSTCが
   アトラスグループ(Atlas Corporation)
に吸収された。
 1933年、アトラスはGTSCとウィリアムズのセントラル・ピラミッドを吸収合併した。

 また、ウォレス・グローヴス(Wallace Groves)の経営していた
   エクイティ・コーポレーション
はユナイテッド・ファウンダーズを中心に吸収合併を進め、21の投信を傘下に収めた。

 ユナイテッドは、主にハリス・フォーブズ(Harris, Forbes & Co., 現JPモルガン)をスポンサーとし、セントラル・ピラミッド内部で会計上の循環により創出された利益を収束させる事業体であった。

 ユナイテッドは証券取引委員会の精査を受け、1940年投資会社法まで一連の規制をつくらせた立法事実として歴史に刻まれた。

 これらの法により、ゴールドマン・サックスの投信ピラミッドを断罪された。

 ただ、1927年から共同経営者となった
   シドニー・ワインバーグ(Sidney Weinberg)
がその社会的地位を戦後にわたり保証した。

 排日政策などた日米開戦を工作した白人至上主義者
   フランクリン・ルーズベルト大統領
とワインバーグは強い親交のあり、1933年にはワインバーグにアメリカ商務省経済顧問計画会議(Business Advisory and Planning Council)を設立させている。
 この機関はニューディール政策をめぐり政府と民間の交渉を担当した。

 サウスカロライナ州カムデン出身のユダヤ系米国人で
   戦争を一種の公共事業
と認識している
の肝いりで設立された1942年、
   ウォー・プロダクション・ボード(WPB)
の議長補佐官にワイバーグが推された。
 バルークは、第一次世界大戦ではウッドロウ・ウィルソン大統領の側近となり、戦時産業局長官を務めた。
 第一次世界大戦において戦場とならなかった米国は当時世界最大の工業国家となり、軍産複合体の実権を握った。
  
 ワインバーグは戦後フォード・モーターやゼネラル・エレクトリックなどな数々の大企業に経営顧問として招かれた。
 この間に米国投信が力を取り戻していった。
 
 1950年代に敏腕トレーダーのガス・レヴィが店頭ブロック取引を開拓した。
 1956年11月、フォードが株式公開したときにゴールドマンは共同幹事として活躍した。
 また、1967年10月、アルキャン株のブロック取引も取り仕切った。

 店頭市場での私募証券取引は特定の目的があった。
 1940年投資会社法は、投資会社が他の投資会社の既発行議決権付株式の3%以上を取得してはならないと定めていた。

 そのため、もはや投信ピラミッドは組めないため、メロン財閥やゴールドマンをふくむ共通のスポンサーや引受人が
   複数の投信会社
を統括するファンド複合体がつくられていった。

 1960年代には海外に投信ピラミッドをつくるようになった。
 それがファンド・オブ・ファンズとなる。

 合衆国のカストディアンがオフショア・ファンドに保有するアメリカ企業株は、1968-69年のちょうど二年間でおよそ9億ドルから23.5億へ急増した。

 店頭市場から起こった全米証券取引所の機関化現象が、民主性を担保されないまま一方的に展開した。
 そのため、1970年にペン・セントラル鉄道会社が倒産した。
 同社の発行した8千万ドル超のコマーシャルペーパーはゴールドマンにより発行されていたため、証券取引委員会などから起訴された。
 これにより、今日のCP 利率に落ち着いた。

 1981年に南米とイスラエルに顔の利く大規模な輸入業者で、コーヒーと金の国際市場で活躍していた
   アーロン商会(J. Aron & Company)
を買収した。
 外為取引までも手がけるアーロン商会を吸収し、ゴールドマンはCEOまで送って企業支配を行った。

 1986年にゴールドマン・サックス・アセット・マネジメントを立ち上げた。
 ミューチュアルファンドやヘッジファンドの運用サービスをスタートさせた。

 1989年8月17日、ゴールドマン・サックスの
   ロバート・フリーマン
は、ドレクセル・バーナム・ランバートのマーティン・シーゲルと共謀した不法取引の容疑を認めた。
 その後に提出されたフリーマンの辞表に謝罪の言葉はなかったという。

 ジョン・コーザイン時代の1998年にはLTCMの救済融資に参加し、グリーンスパンによる救済策が行われ、後にサブプライムローンの拡大からリーマン・ショックが引き起こされる元凶とも言われている。

 世界金融危機では連邦準備制度からベイルアウトを受けた。
 外為取引担当のトレーダーらは2008年から13年初めにかけてチャットルームを通じ、他の金融機関と顧客情報を不正に共有するなどしていた(外国為替スキャンダル)。

 2010年にはゴールドマン・ショックの震源となった。
 翌年、Paulson & Co. との関係が追及された。

 2016年1月、世界金融危機につながった
   住宅ローン担保証券(いわゆるサブプライムローン)
の不正販売を巡り
   制裁金等33億ドルと借り手救済金18億ドル
で和解したことが明らかになった。
 同年9月、ゴールドマン出身者のヘッジファンド
   Och-Ziff Capital Management
が連邦海外腐敗行為防止法違反で4億1300万ドルを支払うことになった。

 2017年11月、ドナルド・トランプ米大統領のの訪中にあわせ、中国投資と米国の製造業などに投資する
   50億ドル規模の共同ファンド「米中産業協力パートナーシップLP」
の設立合意に調印した。

 2022年10月24日には 中国の物流・インフラ不動産資産への投資を促進するため、同国物流企業の森瑶と合弁会社を立ち上げた。

  
posted by manekineco at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック