ジョン・ピアポント・モルガン
(John Pierpont Morgan)
1837年4月17日 - 1913年3月31日
米国のモルガン財閥の創始者で金融王と称えられた。
モルガンの経済界における権力は、連邦政府より大きいと認識され、1881年の戯画では小さなアンクル・サム(アメリカを擬人化した人物)と大きなモルガン、即ちアメリカ全体より大きなモルガンとして描かれている。
ゲッティンゲン大学を卒業後、ロンドンで父が起こした
J・S・モルガン・アンド・カンパニー
を受け継ぎ、19世紀末には世界最大の銀行家となった。
その豊富な資金力を活かして多くの鉄道を経営・統合し、USスチールも設立した。
19世紀末にアメリカ最大の財閥の1つとなり、金融から海運・電力・通信事業にも進出した。
ジョン・ピアポント・モルガンはコネチカット州ハートフォードでマサチューセッツ州ホールヨーク出身の銀行家ジューニアス・スペンサー・モルガン、母は教会の牧師の娘だったジュリエット・ピアポントの間に生まれた。
ピアポントは、父・ジューニアスにより種々の教育を授けられ、1848年秋、ハートフォード・パブリック・スクールに転科した後、チェシャの英国国教会アカデミーに首席で進学した。
1851年9月には、キャリアとなるために有効な数学に秀でているイングリッシュ・ハイスクールへ入学した。
1852年9月、リウマチ熱に罹患し、歩けないほど悪化したため、ジューニアスはすぐに船を手配し、モルガンをポルトガル北部のアゾレス諸島に転移療養させた。
約1年後には回復し、投資信託のメッカであるボストンに戻った。
ジューニアスの指示でハイスクール卒業後、スイスのヴェヴェイ近くにある学校に進学した。
流暢なフランス語を取得後、今度はドイツ語取得のためにゲッティンゲン大学に進学した。
6ヶ月である程度のレベルに達し、芸術の歴史もかじったあとロンドンに戻り、学業を修了した。
モルガンは父の経営する銀行のロンドン支店に1857年入社した。
翌年、ニューヨークに移り、ジョージ・ピーボディ・アンド・カンパニーの米国代理店である
ダンカン・シェアマン・アンド・カンパニー
に就職した。
1860年、J・P・モルガン・アンド・カンパニーを設立し、父の会社のニューヨーク代理店のエージェントの役割を果たした。
南北戦争時の翌年、モルガンは旧式のライフルを1挺3.50ドルで購入し、
改良したのちに22ドルで北軍に売却してスキャンダル「ホール・カービン事件」になった。
ハートフォード・パブリック・スクールの教師を人脈にもっていたモルガンは、教師の親戚
サイモン・スチーブンス
を代理人に立ててライフル購入資金を貸し付けた。
なお、モルガン自身は他の富裕層同様、1000ドルを代理人に支払うことで兵役を免れていた。
1864年、ダブニー・モルガン・アンド・カンパニーをつくった。
1871年、フィラデルフィアの銀行家
アンソニー・J・ドレクセル(Anthony Joseph Drexel I)
と提携し、ドレクセル・モルガン・アンド・カンパニーを設立した。
ドレクセルが1893年に死去した後、1895年に
J・P・モルガン・アンド・カンパニー(現JPモルガン・チェース)
となった。
1869年、ジェイ・グールドとジム・フィスクから
アルバニー・アンド・サスケハナ鉄道
の経営を奪取した。
また、モルガンは株を引き受けるシンジケートを率いて
ジェイ・クック
が独占していた政府の資金調達の役割を奪取し、鉄道開発への投資に深く関わるようになった。
1885年、モルガンはニューヨーク・ウェスト・ショア・アンド・バッファロー鉄道を再建した。
また、ニューヨーク・セントラル鉄道(NYC)に資金を貸し付けた。
1886年にはフィラデルフィア・アンド・レディング鉄道、1888年にはチェサピーク・アンド・オハイオ鉄道(C&O)を再建した。
そして、ジェームズ・ジェローム・ヒルとともにグレート・ノーザン鉄道(GN)の経営に深く関わっていった。
1887年に州際通商法が成立した後、モルガンは1889年と1890年に鉄道会社の首脳を集めた会議を開催した。
会議では、各鉄道会社が新法に合わせた営業活動を行うことと、「公共的で、安価で、一定で、安定した運賃」を維持するための協定を結んだ。この会議は競合する鉄道会社同士のコミュニティとして機能し、20世紀初頭の鉄道の大再編への道筋となるものであった。
モルガンの行った経営困難に陥っている鉄道を再建させる手法は
モルガニゼーション
と呼ばれた。
モルガンは事業の骨格とマネジメントを再編して鉄道会社に利益が出せるようにした。
モルガンの銀行家としての名声は投資家たちの興味を誘い、モルガンが手がける事業に目を向けさせた。
トラスト形成の過程で、1901年に
エドワード・ヘンリー・ハリマン
との間でシカゴ・バーリントン・アンド・クインシー鉄道(CB&Q)の争奪戦が起こった。
争奪戦はノーザン・パシフィック・コーナーと呼ばれる株式の異常高騰を誘発したが、これは1901年恐慌へ発展していった。
て
シャーマン銀購入法により、米国が事実上の金銀複本位制をとったために、ヨーロッパにおいて米国の有価証券に対する信用が落ち、ヨーロッパの資本家が金に換えてしまったため、1895年、1893年恐慌の影響で米国財務省が保有していた金の海外流出が続き、底を突きかけた。
シャーマン銀購入法により、米国が事実上の金銀複本位制をとったために、ヨーロッパにおいて米国の有価証券に対する信用が落ち、ヨーロッパの資本家が金に換えてしまったため、1895年、1893年恐慌の影響で米国財務省が保有していた金の海外流出が続き、底を突きかけた。
当時の民主党のグロバー・クリーブランド米国大統領は、モルガンにウォール街のシンジケート(債権を引き受ける銀行団)を組織し、財務省に6,500万ドルの金を調達するよう要請した。
その半分はヨーロッパから調達し、財務省の1億ドルの債権の信用回復に使用された。
このエピソードが、ヨーロッパ資本の引き上げ傾向に歯止めをかけて財務省を救済した。
ただ、クリーブランドにはダメージを与え、1896年の大統領選挙において同じ民主党の
ウィリアム・ジェニングス・ブライアン
により激しい非難を浴びた。
モルガンとウォール街の銀行家たちは共和党の
ウィリアム・マッキンリー
に多額の寄付を行った。
マッキンリーは同年と、金本位制をうたった1900年の大統領選で勝利した。
なお、マッキンリーは反トラスト法を発動させない、経済界にとっては都合のいい大統領であった。
セオドア・ルーズベルト大統領は
不当なトラスト
に対して、それまで使われることのなかったシャーマン反トラスト法を発動し、企業の集中化を牽制した。
ルーズベルトの考えは「良いトラスト」を援助しつつも「悪いトラスト」は壊すべきというもので、そうしないと過激化する「悪い労働組合」がはびこり、社会主義の勃興を許してしまうという考えから導き出されていた。
ルーズベルトは大統領職8年の間に44のトラストを告発した。
1902年にはモルガンの支配する鉄道トラスト、北方証券会社を起訴し、同社は解散を余儀なくされた。
他方、モルガン系で資本金10億ドルの鉄鋼トラスト、USスチールが「1907年恐慌」の際、南部のテネシー石炭・鉄会社を買収することは容認し、モルガン側に妥協した。
モルガンは鉄鋼トラストを形成してから、1907年恐慌の処理では主導的役割を演じた。
1910年11月、モルガンが所有するジキル島クラブで連邦準備制度の設立に向けた秘密会議を主催した。
この会議にはジョン・ロックフェラー、ウィリアム・キッサム・ヴァンダービルト、そしてバンカーズ・トラスト(現ドイツ銀行)のベンジャミン・ストロングなどが出席した。
1912年12月、モルガンは
プジョー委員会
で証言した。
委員会は、金融機関の首脳たちが密かに結託し、自らの公的信用を利用して複数の産業を支配下においていると考えていた。
ファースト・ナショナル銀行とナショナル・シティ銀行の取締役として、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは222.45億ドルの資金があった。のちに最高裁判所の裁判官となった
ルイス・ブランダイス
はこの資産はミシシッピ川以西の22州の規模に匹敵するとした。
プジョー委員会はインサイダー取引や取引所ぐるみの株価操作が日常化しているウォール街の改革案として、有価証券リテールの連邦政府監視や株式公募のインベスター・リレーションズを主張したが、第一次世界大戦が勃発して改革は立ち消えとなった。
モルガンはフェデラル・スチールの創立に融資したのち、 カーネギー・スチール(Carnegie Steel Company)及びその他数社の製鉄企業を合併して USスチールを設立した。
な、カーネギー・スチールの買収額は4億8700万ドルであった。
1900年までに、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは世界でもっとも力のある金融会社となった。
再編・再建と統合を手がけることで知られ、ジョージ・パーキンスをパートナーとしていた。
J・P・モルガン・アンド・カンパニーは、フィラデルフィアの
ドレクセル・アンド・カンパニー
をはじめ、パリのモルガン・ハージェス・アンド・カンパニー、ロンドンのJ・S・モルガン・アンド・カンパニーと密接な関係を持ち続けた。
モルガン・ハージェス・アンド・カンパニーは、元々がドレクセルとジョン・ハージェスの事業であった。
パナマ運河をめぐり、合衆国が利権を買うためにフランスへ5000万ドル支払ったが、この金を二人が工面した。
しかしドレクセルが死んで、事業はモルガンの名を冠している。
J・S・モルガン・アンド・カンパニーへは、1904年に
エドワード・グレンフェル
が共同経営者として参加した。
5年後、グレンフェルの地位を反映させるためモルガン・グレンフェル・アンド・カンパニーに改名した。
このモルガン・グレンフェル銀行はドイツ銀行に買収されて、ドイチェ・モルガン・グレンフェル銀行となった。
モルガンは東部・西部ともに鉄道網に深く関わっていた。
その頃、米国西部の貨物は鉄道で東海岸に運ばれ、イギリスの海運会社などによりヨーロッパに運ばれていた。
大西洋の航路は、モルガニゼーション以前の鉄道業界と同じく、運賃の値下げ競争が激しく、業界が疲弊していた。
陸上輸送(鉄道)を支配していたモルガンは、海上輸送を他人の手に委ねておく手はないと考え、海運業界の統合・支配を画策した。
これにより、アメリカ西部の貨物をモルガンが支配した運送会社のみを経由してヨーロッパに届けることができるようになった。
1902年、J・P・モルガン・アンド・カンパニーは大西洋の海運の統合をめざして
モンテズン・ライン
やイギリスの海運会社を買収し
国際海運商事(International Mercantile Marine Co.、IMM)
を設立した。
このIMMはホワイト・スター・ライン(White Star Line、1845年創業)の親会社であり、タイタニックを建造・就航させたことで知られる。
ハパックロイドと協力してキュナード・ラインと激しい競争を展開した。
1934年、キュナード・ラインは長らくライバルであったホワイト・スター・ラインを合併し、その主要港路キュナード・ホワイト・スター・ラインに、クイーン・メリー号、クイーン・エリザベス号など豪華客船を就航させている。
1878年12月31日、ドレクセル・アンド・カンパニーはトーマス・エジソンと契約した。
モルガン肝いりのエジスト・ファブリと企業弁護士のグローヴナー・ラウリーも同日に受託者として署名した。
この契約によりドレクセル・アンド・カンパニーは5年間エジソンの特許を保護することになった。
その見返りに特許権のあらゆる処分を受託者へ指示できることになった。
この期間内であった1882年7月、Campagnie continentale Edison, Société électrique Edison, Société industrielle et commerciale Edison フランスのエジソン系列3社から、ほどなくAEGを設立する
ラーテナウ
がエジソンの特許を買った。
ドレクセル・アンド・カンパニーはエジソンの電気照明会社EEIC へ巨額を投じた。
EEICは1882年当初電気料金を徴収せず、翌年の四半期2回続けて12000ドル以上の損失を出して、通年でも赤字を計上した。
EEIC は資金難に直面、発行株式が投資家に敬遠されたのを受けて、保証シンジケート団をつくり、引受参加者にEEIC 株式の相当割合を無償で発行することにした。
ドレクセル・アンド・カンパニーはシ団の中心となった。
1892年、モルガンはエジソン・ゼネラル・エレクトリックとトムソン・ヒューストン・エレクトリックを合併させ
ゼネラル・エレクトリック
を誕生させた。
こうしてモルガンの自邸は個人の家として初めて電灯が灯ったという。
1900年ニコラ・テスラのすすめで
グリエルモ・マルコーニ
の無線通信実験にウォーデンクリフ・タワーの建設費を含めた15万ドルを融資した。
条件は特許利益の半分を引き渡すことであった。
実験は大西洋をまたにかけて行われた。
マルコーニの無線はやがて世界を席巻したため、テスラは契約してすぐに欲を出した。
事業を無線送電に拡大したいと主張した。
この要求に対してモルガンは契約違反と解釈したため、融資が途絶えて1906年にタワーが廃業となった。
また、この頃にモルガンはAT&T と人的・資本的関係を深めた。
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