(Berenberg Bank)
ドイツ北部のハンブルクに本社を置く投資銀行で世界で二番目に古い銀行。
創業一族(Berenberg family)はフッガー家と並ぶ中世ヨーロッパの大富豪
ヴェルザー家
などと姻戚である。
フランクフルト、デュッセルドルフ、ミュンヘン、シュトゥットガルトなどにも国内事務所を持つ。
経営者の
ザイラー家
はチューリッヒやジュネーブがホームグラウンドであったが戦後米国資本が参加してから世界展開した。
18世紀末にザイラー家(Seyler family)を共同経営者に迎えた。
ザイラー家はスイスバーゼルの隣リースタルを起源とする国際金融家であり、ハンブルクでは政治家も兼ねていた。
ベレンベルク銀行は19世紀後半に
ハパックロイド
の両前身企業とペテルブルク国際銀行の設立に参加した。
1889年に創業一族のヨハンは城をかまえて貴族となった。
第一次世界大戦中は活動拠点がスイスに限られた。
戦間期の1923年11月、年金市場へ参入して積極的に運用し業績を回復した。
ヴァイマル共和政下では
ダナート銀行
と友好関係にあったが、1930年4月1日に見切りをつけた。
翌年ダナート銀行へ委譲した部門(Joh. Berenberg, Gossler & Co.)は、ダナートが倒産しドレスナー銀行へ吸収された。
第二次世界大戦では
カール・ヴォルフ
と交渉し、フリッツ・ウォーバーグを解放した。
戦後は銀行引受手形を使った戦間期の国際貿易を再構築した。
1956年の重役に
カール・ブレッシング(Karl Blessing)
が在籍していた。
カールはライヒスバンクでキャリアを積み、1939年4月ドイツ・ユニリーバ社長となった。
1967年フィラデルフィア国法銀行(現ワコビア)とモントリオール銀行が、それぞれ10%ベレンベルクに参加して
ユーロダラー市場
を活性化させた。
1988年6月末、北ドイツ・ランデスバンク(Norddeutsche Landesbank)が
ARAGコンツェルン(ARAG SE)
を経由して10%資本参加した。
1990年のドイツ再統一により東欧市場へ進出した。
そこで1994年、ドレスナー債券アナリスト
ハンス=ウォルター・ピーターズ(Hans-Walter Peters)
がベレンベルクのマネージング・ディレクターとなり保険業界から
ミューチュアル・ファンド
のような機関投資家を呼び込んだ。
これがリテールへ進出する足がかりとなり、ベレンベルクは幅広い営業網を形成していった。
なお、パナマ文書公表を契機とした捜査を受け、ベレンベルク・スイスが
脱税幇助
により400万ユーロの罰金を課された。
パナマ文書とはパナマの法律事務所
モサック・フォンセカ(Mossack Fonseca)
によって作成された、租税回避行為に関する一連の機密文書のこと。
この文書は、1970年代から作成され、総数は1150万件に上る。