2024年03月18日

シティグループ(Citigroup Inc.) 金融関連事業の持株会社

   (Citigroup Inc.)
 マンハッタンに本社を置く、金融関連事業の持株会社
 ユーロ債市場の第一人者として君臨し、四大銀行やバルジ・ブラケットの一つである。
 ニューヨーク証券取引所上場企業(NYSE: C)。
 
 1998年10月8日、シティコープとトラベラーズ・グループの合併によって誕生した(時価総額1,400億ドル規模)
 サンフォード・ワイルが社長・会長となり、2000年1月にシュローダーの投資銀行部門を22億ドルで買収した。
 4月に台湾の富邦グループ(Fubon Financial)へ15%資本参加し、7月にABNアムロ銀行から欧米銀行(EAB)を16億ドルの現金払いで買収した。

 2003年4月、ワイルが
   ジャック・グラッブマン(Jack Grubman)
にAT&Tの株価を引き上げるよう働きかけた問題等をめぐり、ウォール街の10金融機関も雁首を並べて当局および証券取引委員会に和解金を支払うことで決着を図った。
 しかし、9月にミューチュアル・ファンド不正事件(2003 mutual fund scandal)に発展してしまった。

 シティグループは世界金融危機で
   不良資産救済プログラム(Troubled Asset Relief Program)
の対象となり、さらに連邦準備制度から手厚いベイルアウトを受けた。

 2014年、新興国へリソースを振り分ける戦略の一環として
   日本の個人向け事業
を売却し撤退することを発表した。
 2015年6月、メキシコの子会社の
   バナメックス
は資金洗浄に対する内部統制の甘さをめぐり米司法省に捜査されていた。
 捜査の過程で銀行秘密法にふれる重大な違反行為のあった可能性が指摘された。
 このバナメックスの不祥事は30年以上つづいている。
 さらに、当局は調査を進めて、バナメックスがアメリカからメキシコへの送金業を独占しようとしていたときにおいても
   麻薬マネー など
の不正ファンドが犯そうとする
   資金洗浄
に対し、同行は適切な防止措置を送金システムに採り入れなかったものと判断した。

 2017年5月22日シティグループは9740万ドルの和解金を支払って不起訴処分となった。
 それでも2018年1月、シティグループは
   資金洗浄コンプライアンスの欠陥
をとがめられて7000万ドルの制裁金を課された。
 シティグループはオイルマネーとも長く持ちつもたれつの関係にあった。

 1980年代からシティグループはユーロ債発行業務で国際金融市場に君臨してきた。
 ユーロ債は元が短資なので、主に変動金利で起債する。変動金利
   LIBOR・TIBOR
について、これらの不正操作を企てた容疑でシティグループは2016年5月に
   4億2500万ドルの罰金
を課された。

 このときCFTCはデリバティブ取引を有利に運ぶことが目的だったものと分析した。
 結局、それは一面的な見方で、国際的な金利指標の不正操作は世界金融危機のときから行われており、特にLIBORはモーゲージ、すなわち不動産担保証券(MBS)の原債務とリンクしていた。

 2018年6月、シティグループは約42カ国で
   国際金利指標を不正操作
したとされ、1億ドルの制裁金を課された。
 こうした国際流動性を無理に延命する行為は、ドイツ銀行、UBS、JPモルガンにも指摘され、各行とも制裁金を支払った。

 シティグループは国際流動性の一つであるMBSを延命するため、不動産賃借人の逃避を暗に妨げていた。
 しかし、当局に摘発されて2880万ドルの罰金を支払うことになった。

 2021年、シティーグループは従業員の雇用条件に
   新型コロナワクチン接種
の条件を加えた。
 これはバイデン政権が連邦政府の契約業者にワクチン接種を義務付けたことに対応する措置だ。
 
 シティグループは商業銀行が母体でだが、現在では機関化されてユニバーサル・バンクとなっている。
 1984年にCEOに選出された
   ジョン・リード(John S. Reed)
の下、シティバンクはその後14年間米国最大の銀行、世界最大のクレジットカード発行体となった。
 国際拠点網は90ヶ国に広がった。

 その親会社であるシティコープは100ヶ国近くで銀行業務を展開する多国籍企業であった。
 トラベラーズはクレジットカード、消費者金融、証券、保険などに跨がる金融サービスを提供する企業で前身企業の歴史は、シティバンク・オブ・ニューヨーク(後のシティバンク)が設立された1812年に遡る。
 なお、1890年代までには米国最大の銀行となっている。

シティコープ(1962年まで)は主に1812年設立のシティバンク・オブ・ニューヨークと1863年設立のファースト・ナショナル・バンク・オブ・ザ・シティ・オブ・ニューヨークがシティコープの母体となる(1955年両社は合併)。

 サミュエル・オスグッドが第一合衆国銀行のニューヨーク支店を再生した。
 ここからシティコープの歴史が始まった。
 1812年6月14日、シティバンク・オブ・ニューヨーク (City Bank of New York) が200万ドルの資本金を元にニューヨーク州から免許を受けた。
 オスグッドが初代社長に就任したが、16日に
   米英戦争
が勃発してしまったので9月14日に開店、ニューヨークの商業資本家らにサービスを提供した。

 1837年恐慌のときすでに
   モーゼス・テイラー(Moses Taylor)
が経営権を握っており1856年に社長となった。
 さらには、大西洋横断電信ケーブルを敷設した会社の管財人も務めた。

 1865年、国法銀行制度の成立とともに商号を
   ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク
と変更し、1895年までには米国で最大の銀行となった。

 1897年、ニューヨーク第三合衆国銀行(Third National Bank of New York)を買収した。
 1913年末にジキル島の秘密会議から連邦準備制度が発足すると、ニューヨーク地区連邦準備銀行の創設に関わった。
 翌年には米銀として初となる海外支店をブエノスアイレスに開設した。

 1918年のインターナショナル・バンキング・コーポレーションの買収により、米銀として初めて総資産10億ドルを突破した。
 1929年には世界最大の商業銀行となった。
 その成長とともに、シティはまた金融サービスにおける先駆者ともなり、複利預金(1921年)、個人向け無担保ローン(1928年)、当座預金(1936年)、譲渡性預金(1961年)などを世界で初めて開発した。
 譲渡性預金の開発を主導したのは会長(James Stillman Rockefeller)や社長(George S. Moore)でもなく、当時の副社長ウォルター・リッスン(Walter Wriston)であったという。

 グラス・スティーガル法が施行された1933年に投資銀行業務を清算
   ジェームズ・パーキンス(James H. Perkins)
が社長職についたが1940年、死亡してゴードン(Gordon S. Rentschler)に交代した。

 このゴードンも1948年に死亡してウィリアム・ブレイディ(William Gage Brady Jr.)が引き継いだ。
 そしてホールセールを積極的に行った。

 1955年に商号をファーストナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨークに変更したうえ、さらに創業150周年の1962年にはこれを短縮しファーストナショナル・シティバンクとなった。

 シティはリースやクレジット業務に進出し、後年マスターカードに発展するクレジットカード「ファーストナショナル・シティ・チャージ・サービス」(一般に「エブリシング・カード」と呼ばれた)を1967年に提供した。
 この1967年エッジ法の改正がなされ、各州の法制も呼応した。
 シティはモーゲージとクレジットカードの州際業務を拡大していった。

 オイルショックのときはユーロ債を世界中で発行した。
 1973年にアルゼンチン事業が国有化された。
 1970年代半ば、ウォルター・リッスンCEOのもと、ファーストナショナル・シティバンク及び持株会社のファーストナショナル・シティ・コーポレーションは、シティバンク、エヌ・エイ (Citibank, N.A.) 及びシティコープ (Citicorp) とそれぞれ商号を変更した。

 間もなく、シティバンクは「シティカード」を発行し、24時間営業ATMを世界で初めて運用開始した。
 1979年、イラン革命とポーランドのゼネストで両国の減債を強いられている。

 1980年、11%利付き米国債を30億ドルも購入した。
 レーガノミクスによる高金利で機会費用は高くついた。
 しかし、米国債を担保にレポ市場から資金を調達して、ユーロ債発行を主導したろ、シャドー・バンキング・システムを拡充するとか、翌1981年にクレジットカード会社のダイナースクラブを買収するといった積極的な経営を展開した。

 イギリスのビッグバンには前段階から積極的に参入した。
 1984年ウォルター・リッスン会長が引退して
   ジョン・リード
が社長兼会長となった。
 1987年5月、シティバンクは第三世界に対して30億ドルに上る一般貸倒引当金を積み増した。
 国内では
   ドナルド・トランプ
をふくむデベロッパーに対して野放図に貸し付けたことが投資家の批判を浴びた。

 金融自体も失敗していた。
 マーケットメイクのために1986年クオトロン(Quotron)の気配サービスを購入していた。
 しかし、オートマチック社(Automatic Data Processing)との競争に敗れてしまった。

 1991-2年シティコープは26億ドルも増資をしたが1992年、クオトロンがリストラされた。
 そのうちおよそ4億ドルは
   アル=ワリード・ビン・タラール
が出資した。
 1993年、シティコープはそれまで保有していた不動産の6割を損切りした。

 翌年NAFTA発効。1996年、カルロス・サリナス・デ・ゴルタリの兄弟(Raúl Salinas de Gortari)が
   資金洗浄
するのをシティコープ従業員が(プライベート・バンキングで)補助したとして立件された。

 トラベラーズ・グループは、シティコープとの合併当時では、CEOの
   サンフォード・ワイル(通称サンディ・ワイル)
の指導下で金融複合企業体を形成していた。

 そのルーツはコントロール・データ・コーポレーションの金融子会社
   コマーシャル・クレジット
であり、業績不調だった同社をワイルは自己資金700万ドルで買い取り、コストカットと経営改革の後に株式公開に成功した。
 その2年後、既に
   生命保険会社ALウィリアムズ
   証券会社スミス・バーニー
の買収を通じてコングロマリットとなっていた
   プライメリカ
が、ワイルにより買収された。
 新会社は商号に「プライメリカ」ブランドを引き継ぎ、傘下企業の種々の金融サービスを関連させて販売する
   「クロスセリング」戦略
をとったうえ、非金融部門はスピンオフされた。

 1992年9月、不動産投資の損失に追い込まれていた保険会社
   トラベラーズ・インシュアランス
は、プライメリカと戦略的提携を締結し、1993年12月に経営統合する運びとなった
 この。統合により、商号はトラベラーズ・インク (Travelers Inc.) となり、損害保険・生命保険・年金業務までカバーするようになった。
 また、トラベラーズの象徴だった赤い傘のロゴマークがすべての事業に冠されるようになった。

 トラベラーズはワイルが1985年まで代表を務めていたリテール証券・資産運用会社
   シェアソン・リーマン
を買収すたうえ、既に傘下に収めていた証券部門のスミス・バーニーと合併させた。
 さらに1997年11月、トラベラーズ・グループ(1995年4月に再改称)はソロモン・ブラザーズを90億ドルで買収した。

 シティコープとトラベラーズの合併は1998年に行われたが、グラス・スティーガル法(世界恐慌時に金融混乱を受けて制定された法律)で、銀行が保険会社と一体化することは禁じられていたため、合併は非合法なものだった。
 そのため、シティ/トラベラーズ顧問弁護団はグラス・スティーガル法を研究し、「(合併の許認可権を持つ)連邦準備制度理事会は、2年間の猶予期間に保険部門を売却することを条件に銀・保合併を認めることができる」という条項を発見し、CEOらはこの2年後の期限までに法律を「変える」ことができると考えた。

 結局1999年に法律は改正され、グラム・リーチ・ブライリー法の成立によりグラス・スティーガル法は無効となった。
  
 シティコープとトラベラーズの合併当時、ワイルがトラベラーズ会長を務めた。
 なお、ジョン・リードがシティコープ会長を務めていた。 

 前米国財務長官のロバート・ルービンが2社の仲介のため役員に招請されたが、社内の衝突の結果、リードが経営から追われた。
 同様に、3人の共同CEOがコーポレート&インベストメントバンク担当、2人の共同CEOがコンシューマ・グループ担当となっていた。

 2000年11月と2001年8月シティグループは、消費者金融最大手
   アソシエイツ・ファースト・キャピタル
と、メキシコ最大の銀行
   バナメックス(Banamex)
をそれぞれ買収した。
 西海岸では2002年11月にゴールデン・ステート・バンコープ(Golden State Bancorp)を58億ドルで買収した。
 シティグループは傘下の損害保険部門トラベラーズをスピンオフして、その代金の一部をゴールデンの買収に使った。

 トラベラーズ損保は2004年にセントポール・カンパニーズと合併し、セントポール・トラベラーズとなった。
 シティグループはその後も生命保険・年金業務を続けていた。

 2005年にはこの部門もメットライフに売却することを決定した。
 2007年4月11日には、経費の削減と、低迷が続いている株価の回復のため、シティグループは全従業員の5%にあたる1万7000人の雇用を削減すると発表した。
 その後表面化したサブプライムローン問題では、メリルリンチやUBSなどをはるかに超える、世界の金融機関の中でも最大規模となる莫大な損失を被ったことから株価が大幅に下落した。
 チャールズ・プリンス会長兼最高経営責任者 (CEO) が辞任を表明した。
 なお、退職金は約250億円であった。
 チャールズ・プリンスは11月4日に、損失が10月中旬に発表していた20億ドルをはるかに越え、およそ80-110億ドルになる可能性があると発表した。
 11月26日にアブダビ投資庁が75億ドル融資すると発表した。
 12月にヴィクラム(Vikram Pandit)社長が就任した。

 2008年秋のリーマン・ブラザーズ破綻に端を発した金融危機の拡大は、シティグループの業績にも大きな悪影響を及ぼした。
 10月にはアメリカ政府から250億ドルの公的資金注入を受けた。
 さらに、11月下旬には200億ドルに上る追加の資本注入および3060億ドルもの不良資産の損失の一部肩代わり(290億ドルまでは自己負担でそれ以上は1割の損失負担)の支援を受けた。

 これと同時に、政府により当面の間は普通株について四半期に1セント以上の配当が禁止された。

 サブプライム危機により一時受け入れた政府出資は、2009年末までに優先株200億ドルを返済、残りも普通株転換後、2010年中に政府が売却を完了する計画で、金融危機後の業績低迷から復活した。

 2007年12月から2010年6月の間に連邦準備制度が15の金融機関に総額16兆ドルもベイルアウトした。
 その中でもシティ・グループは最も高額な2.5兆を受けた。

 これを使いドッド・フランク法の及ばない国外でシャドー・バンキング・システムの拡充を試みた。
 2011年には、プライベート・バンキングの業界誌プライベート・バンカー・インターナショナルにおいて、アジア・太平洋地域におけるプライベート・バンキング顧客預かり資産で、シティグループがUBSやHSBC等を抜きトップとなった。
    
   
posted by manekineco at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | よもやまばなし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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