ジョン・ハレ・グートフロイント
(John Halle Gutfreund)
1929年9月14日 - 2016年3月9日
米国の銀行家、実業家、投資家
1980年代に名声を博した投資銀行ソロモン ブラザーズ社のCEOとしてソロモン・ブラザーズを
私的パートナーシップ
から上場企業に転換し株式を公開し、これにより投資会社が上場するというウォール街のトレンドが始まった。
1985年、ビジネスウィーク誌は彼に「ウォール街の王」という渾名を与えた。
ニューヨーク市郊外のスカーズデールのユダヤ系米国人家庭で育った。
父親、マヌエル・グートフロイントは、トラック運送会社の経営者であった。
彼はローレンスビル学校に通い、1951年、グートフロイントはオハイオ州のオーバリン大学を英語の学位を取得して卒業し陸軍に入隊した。
1953年に除隊した。
父親は、当時、ドイツ系ユダヤ人組織の中心地であったニューヨーク州パーチェスのセンチュリー・カントリー・クラブ(
に所属し、そこで創立者3兄弟の一人である
パーシー・サロモン
の息子であるソロモンブラザーズの
ウィリアム(ビリー)・サロモン
とよくゴルフをしていた仲間である。
ビリー・サロモンの導きによりグートフロイントは統計部門の研修生としてソロモン・ブラザーズに入社した。
数カ月後、グートフロイントは地方債部門の事務員となり、最終的にはトレーダーになった。
グートフロイントは会社で急速に出世し、34 歳でフルパートナーになった。
1978年、ビリー・サロモンはグートフロイントを後任の社長に指名した。
当時ウォール街で最も高給取りの幹部となった。
グートフロイントは、 1 ニューヨーク プラザの 43 階にある役員オフィスのほかに、「ザ ルーム」として知られる巨大な 2 階建ての 41 階の債券トレーディング フロアにある 2 人用のデスクを個人トレーダーにアドバイスを与えるため頻繁に占有していた。
1991年初め、グートフロイントがソロモン ブラザーズの CEO だったとき、ソロモンによる国債取引の方法に関して重大なスキャンダルが起こった。
ソロモン・ブラザーズの国債デスク責任者
ポール・モーザー氏
が、財務省規則で認められている額を超える入札を行っていたことが発覚してグートフロイント氏の注意を引いたが、すぐにはモーザー氏を停職処分にしなかったことが、モーザー氏の度重なる米国債入札規則違反の暴露は重大なスキャンダルとなった。
米国規制当局や一部の政治家は同社に対しプライマリーディーラーの地位を剥奪するよう求めた。
この行為は、当時米国政府およびモーゲージ債取引市場の最大の参加者であった同社の存続を脅かすものであった。
を通じてサロモン社の
7億ドルの優先株式ポジション
を最近取得したが、同社の活動に警戒を強めた。
バフェットは、短期間ソロモン・ブラザーズのCEOを務めるなど、自身の投資を保護するためにソロモンに対して積極的な措置を講じた。
このスキャンダルの結果、グートフロイントとサロモンの他の上級管理職は 1991 年に辞任を余儀なくされた。
2002年1月から、グートフロイントは投資銀行
の専務取締役兼執行委員を務めた。
なお、グートフロイントは、米国、ヨーロッパ、アジアの企業や金融機関へのアドバイスを専門とする、ニューヨークに本拠を置く金融コンサルティング会社 Gutfreund & Company の社長でもあった。
ニューヨークの UJA 連盟は彼の慈善活動と貢献を表彰した。
グートフロイントは1958年に、彼はベアー・スターンズのパートナーである
テディ・ロウ
の娘であるジョイス・ロウと結婚した。
その後、1981年に、ハンガリー系米国人、アメリカ空軍パイロットの父とスペイン系米国人の母の娘で客室乗務員のスーザン・ペン(旧姓カポスタ)(1946年生まれ)と結婚した。
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