2024年06月05日

ポール・ディミトリエヴィッチ・ロマノフスキー=イリンスキー(Paul Dimitrievitch Romanovsky-Ilynsky) 、ロシア皇帝アレクサンドル2世の曾孫

ポール・ディミトリエヴィッチ・ロマノフスキー=イリンスキー
            (Paul Dimitrievitch Romanovsky-Ilynsky)
   1928年1月27日 - 2004年2月10日
 米国の政治家で、ロシア皇帝アレクサンドル2世の曾孫である。
 ロシア語名はパーヴェル・ドミトリエヴィチ・ロマノフ=イリンスキー
               (Павел Дмитриевич Романов-Ильинский)。

 ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世の従弟
   ドミトリー・パヴロヴィチ大公
の息子としてロンドンのアメリカ大使館で生まれた。
 母は米国人のオードリー・エメリー。
 ドミトリー大公の従兄のロシア帝位請求者キリル大公により、新たに
   オードリーとパーヴェル
には、ドミトリー大公のかつての所領イリインスコエに由来する
   ロマノフ=イリンスキー姓
を与えられた。
 ロシア帝室からすれば、ドミトリー大公とオードリーの結婚は本来なら貴賤結婚であった。
 キリル大公はパーヴェルの誕生を記念し、母子にクニャージ(князь)の身分に相当する地位を授けて祝福を与えた。
 しかし、その後ドミトリー大公夫妻の間には亀裂が生じ、1938年に離婚した。

 パーヴェルはオードリーに引き取られ、母とともにフランスで過ごした。
 健康を害したドミトリー大公は1930年代には慢性結核にかかり、1942年、パーヴェルが13歳の時に逝去した。

 1939年、オードリーはグルジア貴族のドミトリー・ゲオルガゼ(ジョルジャーゼ)公爵と再婚した。
 
 母を通じてアメリカ市民権を取得していたパーヴェルは、ヴァージニア州のウッドベリー・フォレスト校、イギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校を経て、アメリカ海兵隊に入隊した。
 朝鮮戦争では優秀な戦場カメラマンとして活躍し、大佐で退役した。
 その後1953年にヴァージニア大学を卒業した。

 イリンスキーは20年間シンシナティで暮らし、その間母の親族が設立した
の取締役を務めたうえ、写真家としても活躍した。
 1980年にフロリダ州パームビーチに移った。

 パームビーチ市議会議員を10年務めた後、同市の市長を3期務めた。
 1999年、健康を理由に市長職を辞職した。

 イリンスキーは、パームビーチ郡のボーイスカウトに対する顕著な貢献が認められ、パームビーチ初の優秀市民(Distinguished Citizen)号を贈られた。
 また、シンシナティにおける活動も顕彰され、ボーイスカウトで最も名誉とされるシルバー・ビーバー賞を授与されている。

 1991年にソビエト連邦が崩壊すると、サンクトペテルブルク市から代表団がイリンスキーの元を訪問した。
 この代表団は当時パームビーチ市会議員であったイリンスキーに対して、ロシアに帰国し帝位継承権を主張するように求めた。
 イリンスキーはこの要請を丁重に固辞した。
 2004年2月10日、パームビーチの自宅で75歳にして死去した。
 イリンスキーはホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家の出自によりシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン=ゴットルプ家の継承権を有し、ノルウェー王、オルデンブルク伯などの継承権を請求することもできた。

 また、1992年のウラジーミル・キリロヴィチ大公(キリル大公の長男)の逝去に伴い、イリンスキーはホルシュタイン=ゴットルプ家最長兄の男系男子としてホルシュタイン=ゴットルプ公の地位にあるとみなされ、加えてスウェーデンの王位継承権も主張できる立場にあった。
 イリンスキーはこれらの称号を用いることも継承権を請求することもなかった。

    
posted by manekineco at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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