2024年07月10日

トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover) 武器商人

トーマス・ブレーク・グラバー
       (Thomas Blake Glover)
   1838年6月6日 - 1911年12月16日
 スコットランド出身の商人、トマス・ブレイク・グローバーとも表記される。
 武器商人として幕末の日本で活躍した。
 日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行った。
 長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。

 明治維新後も日本に留まり
   高島炭鉱
の経営を行った。
 造船・採炭・製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献し、国産ビールの育てた。

 スコットランド・アバディーンシャーで沿岸警備隊の1等航海士
   トーマス・ベリー・グラバー
とメアリーの間に8人兄弟姉妹の5人目として生まれた。
 ギムナジウムを卒業した後、1859年に上海へ渡り、当時、中国へのアヘンを扱うなどで莫大な利益をあげた東アジア最大の商社
   ジャーディン・マセソン商会
に入社した。
 同年9月19日(安政6年8月23日)、開港後まもない長崎に来日し、同郷のスコットランド人
   K・R・マッケンジー
の経営する貿易支社に勤務した。
 2年後にマッケンジーが長崎を去ると、彼の事業を引き継いで、 六甲山の観光開発と景観保護に力を注ぎ、神戸倶楽部を創設するなどの功績により
   「六甲山の開祖」
と呼ばれるアーサー・ヘスケス・グルームの兄
   フランシス・グルーム
と共に「グラバー商会」を設立した。
 貿易業を営み、「ジャーディン・マセソン商会」の長崎代理店となった。

 当初は生糸や茶の輸出を中心として扱ったが、三条実美ら急進的な尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除した
   クーデター「八月十八日の政変」
の後の政治的混乱に着目して
   武器商人
として、討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を売りまくった。
 坂本龍馬が組織した海援隊の前身である「亀山社中」とも取引を行った。

 また、1863年(文久3年)の長州五傑のイギリス渡航や、1865年(元治2年)の薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長澤鼎らによる薩摩藩遣英使節団の海外留学の手引きを行い日本政治に食い込んでいった。

 グラバーは、英国聖公会の信徒で、1859年(安政6年)に来日した米国聖公会の
   ジョン・リギンズ
   チャニング・ウィリアムズ(立教大学創設者)
の両宣教師などによって私邸や英国領事館(当時、大浦の妙行寺内)を使って始められた長崎在住の外国人のための礼拝にも参加した。
 1862年(文久2年)に東山手11番に完成した、日本初のプロテスタント教会である
   英国聖公会会堂
でも教会の管理人の一人を務めた。

 1865年4月12日(元治2年3月17日)には、大浦海岸において
   蒸気機関車(アイアン・デューク号)
を走らせた。
 1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を建設した。
 1868年(明治元年)には肥前藩(=佐賀藩との合弁)と契約して
   高島炭鉱開発
に着手したうえ、さらに、長崎の小菅に船工場(史跡)を造った。
 明治維新後も造幣寮の機械輸入に関わるなど明治政府との関係を深めた。
 しかし、武器が売れなくなったことや諸藩からの資金回収が滞ったことなどで1870年(明治3年)、グラバー商会は破産した。
 グラバー自身は高島炭鉱(のち官営になる)の実質的経営者として日本に留まった。
 1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の
   岩崎弥太郎
が高島炭鉱を買収してからも所長として経営に当たった。
 1885年(明治18年)以後は三菱財閥の相談役としても活躍し、経営危機に陥った
   スプリング・バレー・ブルワリー
の再建参画を岩崎に勧めた。
 その後、麒麟麦酒(現在のキリンホールディングス)の基礎を築いた。

 私生活では五代友厚の紹介で、ツルと結婚した。
 薩長が倒幕で使用した武器・弾薬、艦船などの7割近くをグラバーが調達した。
 伊藤博文は、明治政府の高官となってからもグラバーと接触を保ち、私的にグラバーに意見を求めることもあったという。
    
   
posted by manekineco at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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