紀尾井坂の変(きおいざかのへん)
1878年(明治11年)5月14日に、内務卿
大久保利通
が東京府麹町区麹町紀尾井町清水谷(現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷)で
斬奸状
をたずさえた士族6名によって暗殺された事件のこと。
襲撃現場は正確には紀尾井坂ではなく坂下付近(現在の清水谷公園前)に位置するとされている。
「紀尾井町事件」「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」とも呼ばれる。
暗殺実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名。
(脇田は暗殺にあたり罪が家におよぶのを恐れて士族を辞めて平民になっている)
特に中心的存在が
島田一郎
で島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいた。
西郷隆盛らの征韓論に共鳴しており、明治六年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走していた。
杉村文一の兄杉村寛正らも征韓論にあたり従軍願いを出している。
さらに、台湾出兵にあたっては杉村・長らは再び従軍願いを出したものの
台湾出兵中止の噂
に対する反対の建白書や
佐賀の乱
の処理を批判する建白書には杉村(寛)・島田・後に斬奸状を起草する陸義猶(陸九皐)が名を連ねていた。
しかし、これらの建白書は期待した効果がなく、島田らは実力行使路線を採ることに変わった。
1874年(明治7年)に島田と長は東京で会い、意気投合した。
長は1874年(明治7年)6月に台湾出兵について西郷、桐野利秋の見解を聞きに杉村(寛)、陸と鹿児島入りした。
半年ほど鹿児島に滞在し、私学校に留学している。
1876年(明治9年)にも鹿児島入りして桐野らと旧交を温めた。
長が帰県した10月には新政府の対応に不満が爆発し、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族反乱が相次ぎ、島田も金沢で挙兵計画に奔走するが失敗している。
さらに、翌1877年(明治10年)の西南戦争では、島田と長が協力して挙兵計画に奔走した。
しかし、周囲の説得に苦慮している間に、4月に政府軍が熊本城に入城したとの情報を得て、勝敗は決したと計画を中止した。
後、島田らは高官暗殺に方針を変更した。
杉本・脇田・杉村らもこの時期に島田の計画に加わっている。
脇田は10月、長は11月、杉村は12月、島田、杉本は翌年4月に上京している。
唯一の島根県人である浅井は西南戦争当時警視庁の巡査であり警視隊に属して従軍した。
1877年(明治10年)8月に東京に凱旋していたが、禁令を犯して1878年(明治11年)2月に免職となった。
3月に島田らの暗殺計画を知って計画に加わった。
暗殺計画は複数のルートを経て、当時の警察のトップで
大警視川路利良
の耳にも入っていた。
ただ、川路は「石川県人に何ができるか」と相手にしなかったと伝わっている。
また高島鞆之助が同様のことを話しているが、その証拠として事件直後に「川路は現場に飛んで来て、手帳を出して人名を指差し、この6人の仕業に違いない、と手帳を叩いて涙をこぼしていた」と証言がある。
なお、川路は大久保の葬儀の翌日「大久保参議事変ニ付進退伺」を出し、却下されている。
島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状(ざんかんじょう)は、1878年4月下旬に島田から依頼されて陸が起草したものである。
そこでは、有司専制の罪として、
・国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
・法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
・不要な土木事業・建築により、国費を無駄遣いしている。
・国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
・外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。
の5罪を挙げている。
・法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
・不要な土木事業・建築により、国費を無駄遣いしている。
・国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
・外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。
の5罪を挙げている。
暗殺事件の数日前に
前島密
は、大久保から「西郷と口論して、私は西郷に追われて高い崖から落ちた。自分の脳が砕けてピクピク動いているのがアリアリと見えた」という悪夢を見た、と聞いたという。
5月14日早朝、大久保は福島県令
山吉盛典
の帰県の挨拶を受けたが、その話は2時間近くにおよび、山吉が辞去しようとしたときに大久保は
三十年計画
について述べている。
計画では明治元年から30年までを10年毎に3期に分け、最初の10年を創業の時期として
戊辰戦争や士族反乱 など
の兵事に費やした時期。
次の10年を内治整理・殖産興業の時期、最後の10年を後継者による守成の時期として、自らは第2期まで力を注ぎたいと抱負を述べた。
午前8時ごろ、大久保は明治天皇に謁見するため、麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発し、2頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かった。
同行していたのは御者の中村太郎と従者の芳松であった。
午前8時30分ごろに紀尾井町清水谷(現在の参議院清水谷議員宿舎前)において暗殺犯6名が大久保の乗る馬車を襲撃した。
まず芳松が襲われたが、なんとか逃亡し、近くの北白川宮邸に助けを求めた。
日本刀で馬の足を切った後、馬車から飛び降りて立ち向かった丸腰の中村太郎を刺殺した。
馬車の中で書類に目を通していた大久保は異変に気付き馬車から出ようとした。
島田らは両方の扉を塞ぎ、大久保を馬車から引きずり降ろした。
大久保は島田らに対して「無礼者」と一喝したが、護身のための武装をしていなかったため、何ら抵抗もなく斬殺された(享年47歳)。
介錯として首に突き刺された刀は地面にまで達していた。
島田らは刀を捨て大久保に一礼をして撤収し、同日、大久保の罪五事と他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪を挙げた斬奸状を手に自首した。
事件の翌日の5月15日に大久保に正二位右大臣が追贈され、大久保および御者の中村の慰霊式が行われ、17日に両者の葬儀が行われた。
大久保の葬儀は大久保邸に会する者1,200名近く、費用は4,500円余りという近代日本史上最初の国葬級葬儀となった。
この事件を機に、政府高官の移動の際は、数人の近衛兵らによる護衛が付くけるようになった。
政府は暗殺犯を刑法上規定がない「国事犯」として処理し、大審院に「臨時裁判所」を開設して裁判を行った。
臨時裁判所は形式上は大審院の中に存在するが、実際は、太政官の決裁により開設した。
太政官から司法省に委任された権限に基づいて判決を下す事実上の行政裁判所であった。
司法卿によって任命された玉乃世履判事らは同年7月5日に判決案を作成し司法省に伺いを立て、司法省では、これを受けて7月17日に太政官に伺書を提出した。
太政官は7月25日に決裁し、7月27日に6名は判決を言い渡され、即日、斬罪となった。
暗殺計画に関与した松田秀彦(鳥取県出身の島根県士族)は事件後に連座して服役し、出獄後は大日本武徳会の武道家として有名になった。