アルマトーレス(αρματολοί、armatoloi、armatolë、armatoli、armatoli)
単数形はアルマトーレであり、オスマン帝国によって任命されたスルタンの権威を行政区内で執行する非正規の兵士または民兵のこと。
アルマトリキと呼ばれる。
オスマン帝国のギリシャ地域では、彼らはかつてのクレフトか、自分たちの地域を守るためにクレフトに対して武器を取って立ち上がった村の有力者であったギリシャ人で構成されていた。
ギリシャの武装親衛隊はギリシャ半島全土で半独立の地位を占め、武装親衛隊は
盗賊行為(クレフツ)
が頻発する地域や、アクセスが困難な地形のためオスマン帝国の統治が困難な地域(テッサリアのアグラファ山脈など)に設立された。
ギリシャ人がオスマン帝国の支配下を回避するため逃げ込み自衛のため、激しい山賊行為が繰り返されたアグラファ山脈には15世紀に最初の武装親衛隊が設立された。
時が経つにつれ、武装親衛隊とクレフツの役割は曖昧になった。
状況に応じて両者は役割や忠誠心を逆転させることもあった。
その間、継続してオスマン帝国との微妙な現状維持を続けた。
武装親衛隊が存在したオスマン帝国は支配構造が破綻した国家であった。
このため、オスマン帝国の権威は彼らが活動する地域では非常に限られており、彼らは銃(アルマタ)の力で自らの欲望に従って法を執行する武装親衛隊であった。
アルバニアの武装兵はオスマン帝国の当局によって採用された。
特に18世紀後半、オスマン帝国のアルバニア人統治者
アリ・パシャ
の統治下で独立を強めていたヤニナの
パシャリク
はギリシャの武装兵を置き換え、この地域の武装兵はほぼアルバニア人のみとなった。
こうして追放されたギリシャの武装兵は生活のため
クレフト
となり、その後の反武装兵活動は山賊行為にとどまらず、オスマン帝国の支配に対する抵抗の形と変化していった。
ギリシャ独立戦争中、ギリシャのアルマトーレはクレフトとともにギリシャの戦闘部隊の中核を形成した。
戦争中ずっと重要な役割を果たした。
ヤニス・マクリヤニスは、アルマトーレとクレフトを「自由の酵母」(μαγιά της λευτεριάς)と呼んだ。
効果はなかったが、1821年から1827年までの臨時政府にとって、アルマトーレは唯一の実行可能な軍事力となった。
クレフトとアルマトーレの指導者の抵抗もあり、軍事統一は失敗した。
彼らがオスマン帝国と戦った動機は、国家の願望よりも個人的な利益であり、そもそも、彼らは国家計画を認識しておらず、オスマン帝国と同盟を結び、イスラム教徒と同じくらいキリスト教徒からも略奪していた。
地元のイスラム教徒から選ばれたボスニア人の武装部隊や親ブルガリア派のコミタジと協力したアルーマニア人の武装部隊、メグレノ・ルーマニア人の武装部隊も存在した。
「アルマトーレ」という言葉は、15世紀のヴェネツィア時代に初めて記録として登場した。
これは、中世のラテン語arma (「武器」)からの借用語として派生したもの。
ギリシア史のビザンチン時代にアルマトリスモスとして知られるアルマトーレスの軍事・警察組織が起源を持つ。
アルマトリスモスは、土地の所有権と引き換えに警察と軍事の機能を提供した封建制の一種でアルマトーレスは、スルタン・ムラト2世(在位1421-1451)の治世中に、テッサリアのアグラファに初めて組織として登場した。
そこから、ペロポネソス半島を除くギリシアの他の地域に広がった。
アルマトリキとして知られる行政区は、ギリシャでクレフトらによる盗賊行為が多発していた地域、またはアクセスしにくい地形のためオスマン帝国の当局が統治するのが困難な地域に作られた。
アルマトリキは多くの場合、その地域で活動する盗賊団と戦うか、少なくとも抑え込むために統治するオスマン帝国の大宰相に雇われた元クレフトの隊長カペタニオスによって指揮された。
隊長はクレフトとしてある程度の悪名を得て、オスマン帝国に恩赦とアルマトリキに伴う特権を与えさせたであろう。したがって、アルマトーレ部隊がクレフトとほとんど同じように組織された。
隊長がプロトパリカロと呼ばれる中尉(通常は親族)の補佐を受け、残りの部隊がアルマトーレで構成されていた。
多くの隊長は、自分たちのアルマトリキアを自分の私領地のように運営した。
また、地元の農民に強奪と暴力で重い負担を強いていた。