シカゴ大火(Great Chicago Fire)
1871年10月8日から10日にかけてアメリカのシカゴ市で発生した大火のこと。
1871年10月8日から10日にかけてアメリカのシカゴ市で発生した大火のこと。
この火事で約300人が死亡し、 17,000以上の建物を含む市内のおよそ3.3平方マイル (9 km 2 )が焼失した。
また、10万人以上の住民が家を失った。
火事は市中心部の南西にある地区で発生し、長期間続いた高温、乾燥、強風と、市内で多くみられた木造建築が大火を引き起こした。
火はシカゴ川の南支流を越えシカゴ中心部の大半を焼失し、その後シカゴ川の本流を越えてニアノースサイドを焼き尽くした。
被害額 2億2,200万ドル(1,871米ドル)
(2022年には約54億ドル)
(2022年には約54億ドル)
この火災は10月8日午後8時30分頃、デコベン通り西137番地の裏の路地に面したオリアリー家の小さな納屋で発生したと言われている。
納屋の隣の小屋が最初に焼け落ちた建物だった。
市当局は火災の原因を特定できなかった。
ただ、その年の夏の長い干ばつ、南西からの強風、水ポンプシステムの急速な破壊により火災が急速に広がったことで、主に木造の市の建物が広範囲に被害を受けたことが説明できる。
火災の出火原因については長年にわたりさまざまな憶測が飛び交っている。
最も有力な説は、オリアリー夫人の牛がランタンを倒したというものだが、納屋の中でギャンブルをしていた男たちがランタンを倒したという説もある。
さらに、その日中西部で発生した他の火災と関連があったとする憶測もある。
この火災の拡大は、バルーンフレームと呼ばれる様式で、シカゴが木材を主な建築材料として使用していたことにより助長された。
火災発生時のシカゴの建物の3分の2以上は完全に木造であり、ほとんどの家屋や建物は燃えやすいタールやシングルの屋根で覆われていた。
また、市内の歩道や道路の多くも木造であった。
この問題をさらに悪化させたのは、7月4日から10月9日までシカゴではわずか1インチ(25 mm)の雨しか降らず、火災前には深刻な干ばつ状態が引き起こされ、強い南西風が市の中心部に向かって燃えカスを運ぶのを助けたことがある。
1871年、シカゴ消防局は185人の消防士とわずか17台の馬に引かせた蒸気ポンプ車で市全体を守っていた。
消防局の初期対応は迅速だったが、当直員のマティアス・シャッファーのミスにより、消防士たちは当初間違った場所に派遣された。
火は制御不能なままに拡大していた。
火災現場付近から発信された警報も、消防当直員がいた裁判所には届かず、消防士たちは前の週に多数の小火災と1件の大規模火災との戦いで疲れきっていた。
これらの要因が重なり、小さな納屋の火事が大火事に発展した。
火事が終わった後も、くすぶっている残骸はまだ熱く、被害の調査が完了するまでに何日もかかった。
最終的に市は、火災が長さ約4マイル(6 km)、平均幅3⁄4マイル(1 km)、2,000エーカー(809 ha)以上の地域を破壊したと判断した。
フィリップ・H・シェリダン 将軍はシカゴを3度救った。
1871年10月の大火の際には爆発物を使って火の広がりを食い止め、大火の後も街を守り、最後に1877年の「共産主義者の暴動」の際には1,000マイル(1,600キロ)離れたところから馬で駆けつけ、秩序を回復した。
シェリダンの部隊は2週間にわたって通りを巡回し、救援物資倉庫を警備し、その他の規則を施行した。
10月24日、部隊は任務から解かれ、志願兵は召集されて退役した。
1871年当時のシカゴの人口は約324,000人だったが、そのうち90,000人(人口の約28%)が家を失った。
120体の遺体が回収されたが、死者数は300人にも上った可能性がある。
郡検死官は、犠牲者の中には溺死したか焼却されて遺体が残っていない者もいるため、正確な数を数えることは不可能だと推測した。
大火から20年以上経った1893年の世界コロンビア博覧会は、新たに発明された電球と電力で明るく照らされたことから「白い街」として知られている。
ガードン・ソルトンストール・ハバードのような事業主や土地投機家は、すぐに街の再建に着手した。
再建のための最初の木材の積み荷は、最後の建物が消火された日に届けられた。
22年後の万国博覧会までに、シカゴは2100万人以上の観光客を迎えた。
パーマー・ハウス・ホテルは、グランドオープンから13日後に火災で全焼した。
開発業者のポッター・パーマーは融資を受け、元の建物の向かい側にホテルをより高い基準で再建し、「世界初の耐火建築物」と称した。