ジョハル・ドゥダエフ(Dzhokhar Musayevich Dudaev ДудагӀеран Мусан ЖовхӀар)
1944年2月15日 - 1996年4月21日
チェチェン共和国ならびに国際的に未承認の独立派の
チェチェン・イチケリア共和国
双方の初代大統領でチェチェン独立派の最高指導者のひとり。
ドゥダエフは、チェチェン・イングーシ自治共和国のペルヴォマイスコエ村で生まれた。
一家は第二次大戦中のスターリンによる民族隔離政策として行われた強制移住でカザフスタンに追放される(1957年に故郷に帰還)。
彼は、M.ラスコヴァヤ名称タンボフ高等軍事航空学校を卒業し、ソ連空軍に勤務した。
1968年、ソ連共産党に入党(公式には脱党していない)した。
1977年、ガガーリン名称空軍アカデミーを卒業し、チェチェン人としては初の師団長、空軍少将まで昇進した。
最後の任地は、エストニアのタルトゥであった。
エストニア語を学び、エストニア人のナショナリズムに寛大で、エストニアのテレビ局と議会の封鎖命令を拒否した。
このことから、エストニア人からは「反乱将軍」と評された。
1990年5月、タルトゥに来たチェチェン人の要請を受けて退役し、野党チェチェン人民全民族会議執行委員会を率いた。
ソ連8月クーデター時、いち早く
ボリス・エリツィン
を支持し、自由広場は彼の支持者で満たされ、「国家親衛隊」が組織された。
その後、共和国最高会議は解散され、ドゥダエフが権力を掌握した。
1990年11月にチェチェン・イングーシ自治共和国がソ連邦からの独立を宣言した。
1991年5月にチェチェン・イングーシ共和国に改名し、10月に共和国と連邦政府との間で共和国が
チェチェン共和国
イングーシ共和国
とに分立することに同意すると、同月30日に得票率85%でチェチェン共和国初代大統領に当選したばかりの
ジョハル・ドゥダエフ
が、翌11月に一方的に
ソ連からの独立
チェチェン・イチケリア共和国の建国
を宣言した。
ドゥダエフはグルジアとアルメニアの地震はロシアによる人工地震による攻撃であると主張した。
1994年12月にロシア大統領ボリス・エリツィンはチェチェンの独立を防ぐために連邦軍をチェチェン共和国に投入した。
第一次チェチェン紛争が勃発し、ドゥダエフは紛争中の1996年4月にロシア軍のロケット弾攻撃で死亡した。
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