ダニエル・ウェブスター( Daniel Webster)
1782年1月18日 - 1852年10月24日
アメリカ合衆国の政治家、法律家。
連邦下院議員(1813年 - 1816年、1823年 - 1828年)、連邦上院議員(マサチューセッツ州選出、1827年 - 1841年、1845年 - 1850年)、国務長官(1841年 - 1843年、1850年 - 1852年)を歴任。フェデラリスト党、ホイッグ党に所属した。
19世紀前半のアメリカを代表する政治家の一人で、上院におけるいわゆる「フェイマス・ファイヴ」の一人。
ニューハンプシャー州ソールズベリーで、
エベネゼル・ウェブスター
アビガイル(またはイーストマン)
夫妻の息子として生まれた。
両親は父親のエベネゼルが
フレンチ・インディアン戦争
の功績で得た小さな農場を経営し、彼はそこで成長した。
一家は貧しかったが、教育には熱心で息子のために家庭教師を雇い、ウェブスターはニューハンプシャー州エクセターのフィリップス・エクセター・アカデミーに入学した。
ウェブスターはエクセター・アカデミーを9ヶ月で去った。
子供の頃彼は人前で話すことを非常に恐れ、学校の授業で必要な「朗読」に対する恐怖を十分に克服することができなかった。
後に弁論家として成功したにもかかわらず、彼は学校で石の様に押し黙り、恥ずかしさで涙を浮かべて部屋にこもったと記録されている。
アカデミーを短期間で去った理由は不明だが、おそらくは彼の恐怖心に対して両親が無力であったことが考えられる。
エクセターを辞めた後、彼は
ダートマス大学
に入学し、ファイ・ベータ・カッパクラブを1801年に卒業した。
ここで彼は演説に対する恐怖を克服するため、驚異的な記憶力とスピーチ原稿作成能力を活用した。
彼は「United Fraternity」文学協会に加わり、演説の訓練を行った。
彼が成功した後、ハノーヴァーの町は独立記念日の演説を彼に依頼した。
ダートマスを1805年に卒業すると、彼は初めにトマス・W・トムプソン次に
クリストファー・ゴア
の元で働き、続いてニューハンプシャー州ボスコーエンで法律業を開始した。
1807年にはポーツマスに新しい事務所を開業した。
1808年に彼はグレース・フレッチャー(1828年没)と結婚し、息子のチャールズをもうけた。
弁護士としてウェブスターの評判はたちまちに高くなり、さらに彼は連邦党の指導者に就任した。
1812年に彼は下院議員に選出され、
米英戦争
への反対を強く主張した。
彼は2期を務めた後1816年に議会を去り、マサチューセッツ州マーシュフィールド(ボストンの65km南、プリマスの近く)に転居した。
1837年発生した、キャロライン事件を解決するために英国公使
ヘンリー・ステファン・フォックス
に対して書簡を送り、翌年臨時公使アッシュバートン卿と会談を行い米英関係を改善させた。
この際、書簡においてウェブスターが示した攻撃の正当性に関する条件は「ウェブスター見解」と呼ばれ
国際慣習法
における自衛権の成立要件の先例とされた。
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