2025年07月12日

九一式魚雷

九一式魚雷(きゅういちしきぎょらい)
 大日本帝国海軍が航空機からの投下用に開発・使用した航空魚雷のこと。
 第二次世界大戦における艦船攻撃に使用され、九一式航空魚雷とも呼ばれる。
 1923年ころ、
   成瀬正二技術大尉(当時、終戦時は少将)
は英国の工廠を見学して報告し、日本の航空魚雷開発を最初から担当することになった。
 1930年には、九一式航空魚雷は
   成瀬少佐(当時)
が開発を開始し、1931年に兵器として制式採用された。
 ただし、九一式航空魚雷の初期型には、本体構造に脆弱性があった。
 愛甲文雄大尉(当時、終戦時は大佐)は1931年以降、兵科将校として九一式航空魚雷の開発チームを推進する責任者に指名された。
 愛甲大尉は航空魚雷を開発するための人的資源を集め、主にハード面の実験を指揮し、原因は解明するように命令し、安定器(ロール安定制御システム)が必要と判明した時には是非なく開発するよう命令した。
 彼は、九一式航空魚雷を自分が開発した偉大な業績として誇っていた。
 また、成瀬少佐からの兵科将校の追加をという強い要望をうけて、愛甲少佐は同期の片岡政市少佐(当時、のち大佐)を招き、制御機構面の指揮担当として追加した。
 成瀬正二少将の指揮下で、かつて海軍空技廠で一連の九一式航空魚雷を開発した人々は、後に「九一会」として親交を保った。
 広田晴男 元少佐、小平(松縄)信 元少佐、家田 元工長、野間 元技師、前田盛敏 元技師、市川英彦 元大尉、川田輝幸 元海軍技術学生などである。
九一式魚雷は1932年(皇紀2592年)12月1日付内令兵第七十二号により兵器採用された。
 ただ、この時から真に実用可能な航空魚雷にたどり着くまでの試行錯誤が続いた。
 改2型以前の九一式航空魚雷は
    脱落式の空中姿勢安定木製尾翼「框板」
を備えてはいたものの、
   射出速度 130 ノット (240 km/h) 以下
   高度 30 m 以下
という制限があり、実際に飛行速度が遅ければ遅いほど、魚雷の走行結果は良くなるなどの特徴から発射に慎重さを要する魚雷だった。
 複葉機や固定脚(三菱九七式艦上攻撃機)の飛行機でも雷撃実用性がある、と見なされたこともあった。
 機動部隊の第一航空戦隊に所属する九七艦攻隊は、その当時世界各国の海軍航空部隊(実質的にはアメリカ海軍航空隊および大英帝国海軍航空隊)が行っていた伝統的雷撃法で訓練していた。
 航空廠の開発チームは、航空魚雷の最大射程は 2,000 m (1.8 海里) 以内なら可能と結論付けた。
 雷速が 40 ノットで、目標艦船が速度 30 ノットで急激な回避行動を行うとすると、命中させるためには
   目標にできるだけ接近
しなければならないという弱点もあった。
 「第2射法」と呼ばれた方法は、浅い軍港において、予想される猛烈な対空砲火の中を、速度 100 ノット (185 km/h)、高度 10 m で行う雷撃だった。
 当時最新型の中島九七式艦上攻撃機(通称ゼロ戦)では、この速度で飛行するのは難しく、脚とフラップを下ろして空気抵抗を増やして飛行しなければならなかった。
 1936年ごろ、空中姿勢安定用の脱落式木製尾翼(框板)が開発された。
 空技廠雷撃科嘱託、村上少将により、複葉機の一〇式艦上雷撃機を使って直径 45 cm の旧型四四式二号魚雷で雷撃成功を確認し、九一式航空魚雷では 120 ノットでも安定して雷撃が成功することを確認した。
 航空魚雷開発チーム・メンバーたちは1936年に九一式航空魚雷を改めて改1とし、「框板」に対応させた。
 九一式魚雷(改2)には
 ・水中突入時に飛散する木製の空中姿勢安定板を尾部に装着した(1936年)。
 ・ローリングを安定制御する角加速度制御システム(PID制御)を備えた(1941年)
という二つの特徴があった。
 これは「航空魚雷」にとって最大のブレークスルーだった。
 これらによって九一式航空魚雷は、高度 20 m、速度 180 ノット (333 km/h) で、しかも真珠湾など
   浅い軍港
においても発射できるようになった。
 さらに、九七式艦上攻撃機の水平最高速度 204 ノット (378 km/h) を超える加速降下雷撃で、荒れた海でも発射できるようになった。
 直径は、450 mm (17-3/4 in) であった。
 兵器として制式採用された九一式魚雷に実際に使用されたのは、本体設計が5形式、頭部が5形式ある。
 頭部重量 213.5〜526.0 kg、搭載炸薬量 149.5〜420.0 kg、水中走行速度 42 ノット (77.8 km/h) で、射程は 2,000〜1,500 m だった。
 九一式魚雷は大日本帝国におけるほぼ唯一の航空魚雷だった。
 したがって、単に航空魚雷といえば九一式魚雷のことを指した。
 他の型式の魚雷である九三式魚雷と九五式魚雷は水上艦艇および潜水艦で使用され、九七式魚雷は甲標的で使用された。
 チームは翌1937年に、高度 500 m と 1,000 m で「緩衝器」付きの航空魚雷の投下テストをデモンストレーションした。
 航空魚雷開発チームは、中止されていた九一式航空魚雷の開発を再開した。
 1938年には、九一式航空魚雷は脆弱な本体を強化対応した改2になった。
 1940年秋には、雷撃隊は海軍大演習に参加して戦技を示し、海軍首脳に深い印象を与えた。
 雷撃隊の搭乗員たちは、水深 10 m という浅い鹿児島湾で1941年8月終盤まで、この射法の訓練をした。
 ただ訓練を繰り返して、この射法では雷撃成功には確信がもてなかったという。
 「第1射法」と呼ばれた方法は、1941年8月に、安定器を備えた九一式魚雷改2の最初の10本のプロトタイプが航空母艦「赤城」の雷撃隊に供与され、極めて良好な結果を示したので、直ちに全雷撃隊は「第1射法」に切り替えた。
 脚とフラップを収納した状態で、より高速である 160 ノット (約 300 km/h)、高度 20 m で雷撃するようになった。
 目標艦船の 800 m 手前で、速度 300 km/h, 高度 60 m で発射された魚雷は、3.5 秒後に速度 324 km/h で 290 m 先の水面に角度 22° で突入する。
 その後、水中を 500 m 駛走して、21秒後に目標に命中する。
 目標艦船の 620 m 手前で、速度 300 km/h, 高度 10 m で発射された魚雷は、1.4 秒後に速度 304 km/h で 120 m 先の水面に角度 9.5° で突入する。
 その後、水中を 500 m 駛走して、21秒後に目標に命中する。
 1942年5月8日朝の珊瑚海海戦において、第五航空戦隊の九七式艦上攻撃機隊は、アメリカ軍の防御陣を突破して、
   USS「レキシントン」(CV-2) 
   USS「ヨークタウン」(CV-5)
に全速降下した。
 なお、小型のヨークタウンには、飛行隊長の
   島崎少佐
が率いる4機1隊が雷撃したが、4本の魚雷がすべて回避された。
 巨大なレキシントンには、航空母艦「瑞鶴」から1隊、「翔鶴」から2隊の合わせて3隊、14機の九七式艦上攻撃機が集中攻撃し、最後の2本が左舷に命中した。
 これらの九七式艦上攻撃機は、従来の雷撃機ではできなかった最高速度 204 ノット (378 km/h) を超える全速で接近してきた。
 レキシントンの艦橋にいた
   F. C. シャーマン艦長
は、魚雷を抱いたまま船の近くに撃墜された九七式艦上攻撃機を観察し、その尾部がなにか箱型のもので覆われているのを見た。
 彼はこれが高速度で雷撃できる理由だと報告した。
 速度 300 ノット (556 km/h) の高速度での雷撃では、投下高度は最高 300〜350 m に制限された。
 この高度制限は、水面入射時の二重反転スクリューの
   プロペラ翼の強度限界
による制限だった。
 これは横須賀空でテスト中に、陸上爆撃機「銀河」(P1Y1) から高速かつ高度 100 m で射出された魚雷が、
   スクリュー翼のひび割れ
によって進路を曲げて駛走したことによる。
 高速度雷撃では、最低高度制限も設定され、40 m に設定された。
 高度 30 m 未満で投下されると、水面上を飛び跳ねる可能性があった。
 1944年3月に横須賀海軍基地において、高機動性を陸軍操縦士搭乗のキ-67(四式重爆撃機)を用いた 300 回のテストから射出諸元を導出し「高速雷撃射法」を確立した。
 海軍はこれを制式射法として承認した。
 電波高度計 タキ13 を装備した キ-67 は1トン魚雷を抱いて高度 1,500 m から水面レベルまで急降下し、2種類の形式で射出する。
 雷撃隊搭乗員の戦死率は非常に高く、第二次大戦初期で 30〜50 %、太平洋戦争の終盤においては昼間攻撃作戦では 90〜100 % の戦死率に達したので、熟練搭乗員達は生き残りのために戦術を工夫した。
 左右に「横滑り」(機体の進行方向に対して機首の向きを左右に傾けること)して飛行経路を欺瞞し、航空魚雷の射点に到達するまで射弾を回避したのもその一つである。

   
posted by manekineco at 16:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 語彙・語句・ことわざ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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