2025年09月20日

リチャード・カンタレッラ(Richard Cantarella)ボナンノ一家のボス

リチャード・カンタレッラ(Richard Cantarella)
   1944年12月19日生まれ
 シェラックヘッドとしても知られる米国カのギャングで、ニューヨーク市を拠点とする
のボスとなり、後に政府の証人となった。
 カンタレッラは、マンハッタンのローワー・イースト・サイドでイタリア人の両親のもとに生まれた。
 ボナンノ一家の多くが住んでいた公営住宅団地、
   ニッカーボッカー・ビレッジ
で育った。
 真っ黒な髪をした痩せ型の少年だったカンタレッラは、ヘアポマードにちなんで「シェラックヘッド」と呼ばれた。
 カンタレッラは
   ラウレッタ・カステッリ
と結婚し、息子
   ポール・カンタレッラ
をもうけた。
 カンタレッラは若い頃、叔父でギャングの
の力添えでボナンノ家に紹介された。
 エンバラートは地元の新聞労働者組合を通じて
   ニューヨーク・ポスト紙
の配送センターを支配していた。
 1963年、エンバラートはカンタレッラのためにポスト紙で
   配送トラックの運転手
の仕事を見つけたが、カンタレッラと彼のいとこでボナンノ・ギャング
は、実際には新聞社の
   荷降ろし場の取り締まり係
として働いており、彼らは30年以上もその仕事を続けた。
 1988年から1991年まで、カンタレッラは配送トラックの荷台に乗って新聞の束を降ろす作業員、いわゆる「テールマン」として働いていた。
 ただ、カンタレッラは決して仕事現場には現れず、労働者に1晩20ドルを支払って仕事をさせ、週700ドルの賃金を受け取っていた。
 1970年代後半、カンタレッラはニューヨーク市職員で海洋航空局不動産部長の
   エンリコ・P・「リック」・マッツェオ
と犯罪行為に手を染めた。
 マッツェオは、ロウアー・マンハッタンの
   スタテンアイランド・フェリー・ホワイトホール・ターミナル
とスタテンアイランドのセントジョージにある
   セントジョージ・ターミナル・スタテンアイランド
の新聞売店と駐車場のリースを扱っていた。
 特定の個人にリースを付与する見返りに、マッツェオは
   多額のキックバック
を受け取っていた。
 カンタレッラは、ロウアー・マンハッタンのターミナルの新聞販売店が
   違法なスポーツ賭博
を運営しているとマッツェオに伝えた。
 この情報により、マッツェオは販売店とのリース契約を破棄し、立ち退きを命じることができた。
 この見返りとして、マッツェオはカンタレッラを販売店の代わりとして据えた。
 1980年代までには、カンタレッラは両ターミナルの新聞売店を支配した。
 二人の男は賃貸詐欺で数十万ドルを儲けた。
 1983年、マッツェオは取締役の職を失い、
   脱税の罪
で有罪判決を受け、6ヶ月間投獄された。
 マッツェオはストレス等により
   違法薬物
を使用するようになり、カンタレッラはマッツェオが
   政府の証人
になるのではないかと懸念し始めた。
 ボナンノの他のメンバーと相談した後、カンタレッラはマッツェオの殺害を決意した。
 1983年11月14日の夜、
   カンタレッラ
   ダミコ
   パトリック・ロマネロ
は、ブルックリンのブッシュウィックにある清掃工場でマッツェオと会った。
 マッツェオは2階の清掃工場事務所で、仕事の可能性について彼らと会っていた。
 3人が階段を降りる際、カンタレッラはマッツェオの頭部を銃で撃った。
 彼らは遺体を数発発砲したうえ止めを確認するため更にナイフで刺した後、黒いビニール袋に入れて運び出し遺棄した。
 マッツェオの遺体は5日後に発見された。
 1981年、ボナンノ一家は、仲間の一人である
   ドニー・ブラスコ
が、実は連邦捜査局(FBI)の潜入捜査官
だったという衝撃的な事実に衝撃を受けた。
 カンタレッラの従兄弟アンソニー・ミラは、ブラスコボナンノ一家に紹介した張本人の一人だった。
 一家がブラスコのもう一人の友人であるボスの
を規律を乱した責任を取らせて処刑した後、ミラは恐怖に駆られ、身を潜めた。
 ジョセフ・マッシーノは、ミラのいとこ二人、
   カンタレッラ
 そして彼らの叔父
に、ミラの殺害を命じた。
 1982年2月18日、ダミコは彼をロウアー・マンハッタンの駐車場に誘い込んだ。
 エンバラートとカンタレッラは逃走車で待機していた。
 二人は駐車場に行き、ミラの車に乗り込み、施錠されたセキュリティゲートまで車を走らせた。
 ダミコは後に証言で、「彼は鍵を取り出し、箱に入れたが、箱を回す暇がなかった…私は至近距離から彼の頭の側面を数回撃った」と述べている。
 1991年以降、カンタレッラは息子を多くの犯罪行為に関与させて共犯者にするようになった。
 1994年、カンタレッラと他のギャングたちは裕福なビジネスマンをオフィスで誘拐し、自宅まで連れて帰りった。
 そして、防犯警報装置を解除するよう強要し、現金、宝石、その他の貴重品を奪った。
 さらに、被害者はカンタレッラに
   みかじめ料
を支払うよう強要された。
 カンタレッラはまた、別のビジネスマンから25万ドルをゆすり取り、その一部をラウレッタのためにポンティアックのコンバーチブル車を購入するために使った。
 1992年、ニューヨーク州はニューヨーク・ポスト紙における組織犯罪と詐欺の疑惑について捜査を開始した。
 捜査対象はボナンノ家とその新聞支配であった。
 捜査中、ボナンノ家は、同紙の配達責任者である
が検察に協力するのではないかと懸念を抱いた。
 ペリーノはポスト紙で数々の犯罪詐欺を働き、同僚と会社の両方を犠牲にしていた。
 ペリーノボナンノ家の主な連絡係は
が担当していた。
 ヴィターレはカンタレッラに近づき、ペリーノを殺害するかどうかを尋ねた。
 ヴィターレはカンタレッラに、ポスト紙でペリーノの職を奪うことを提案した。
 ペリーノの生涯の友人であったカンタレッラはこの提案に対して異議を唱えず了解した。
 その後、ヴィターレボナンノの顧問である
   アンソニー・スペロ
に、カンタレッラがペリーノを排除したいと望んでいることを伝えた。
 スペロはカンタレッラに許可を与えた。
 1992年5月5日、ペリーノはベンソンハーストにある
   ボナンノ・クラブ
に誘い出され、そこで殺害された。
 2003年12月、スタテン島の建設会社の床からペリーノの遺骨が発掘された。
 検死の結果、ペリーノは頭部を複数回撃たれていた。
 2001年にヴィターレが有罪判決を受けた後、カンタレッラは
の腹心となり、マッシーノと他の幹部たちとの連絡役となった。
 なお、カンタレッラは知らなかったが、彼はFBIの異例の捜査の標的になっていた。
 FBIボナンノ班長の
   ジャック・ステュビング
は、マッシーノを倒す方法を見つけられずに途方に暮れていた。
 最終的にステュビングは上司を説得し、通常は詐欺事件で活躍する法廷​​会計士の
   ジェフ・サレット
   キム・マカフリー
を捜査班に借用することに成功した。
 彼らはマッシーノ一家の
   マネーロンダリング計画
の参加者を特定できると考えていた。
 また、彼は、長期の懲役刑を恐れる共謀者たちが十分に協力してくれるだろうと考えた。
 2年後、駐車場王
   バリー・ワインバーグ
が所有する複数の駐車場の共同経営者として
   カンタレッラ
の3人がいることを発見し、マカフリーとサレットの努力が報われた。
 カンタレッラの株式は、妻のラウレッタの名義で保有されていた。
 ボナンノ部隊はワインバーグを監視下に置き、ワインバーグと友人の1人であるレストラン経営者
   アウグスティノ・スコッツァリ
が、カンタレッラとその仲間と頻繁に会っていたことを突き止めた。
 このことが行われている間、マカフリーとサレットは、ワインバーグが10年以上も
   納税申告を行っていなかった証拠
を見つけ、その過程で100万ドル以上の脱税を行っていた。
 2001年1月に彼らはワインバーグを逮捕し、証人としてボナンノの仲間に対する証拠を手に入れなければ、刑務所行きになると告げた。
 事情聴取中、ワインバーグはカンタレッラが彼から総額125万ドルの恐喝金を搾り取っていたことを明かした。
 その多くはスコッツァリのレストランを通じて資金洗浄されていた。
 FBIに問い詰められたスコッツァリも、情報提供者になることに同意した。
 その後数ヶ月にわたり、ワインバーグとスコッツァリはカンタレッラとその仲間による100本以上の証言テープを録音した。
 カンタレッラは2001年秋にワインバーグとの接触を断った。
 ただ、スコッツァリとは2002年夏までずっと自由に会話を続けていた。
 これはおそらくスコッツァリがイタリア人だったためと考えられている。
 スコッツァリとの会話の中で、カンタレッラはマッシーノについて複数の証言を行った。
 2002年10月2日、ワインバーグとスコッツァーリの録音テープを主な根拠として、カンタレッラは24件のRICO法に基づき逮捕、起訴された。
 具体的な罪状には、ペリーノ殺害、放火、誘拐、高利貸し、恐喝、違法賭博、マネーロンダリングが含まれていた。
 また、ラウレッタとポール・カンタレッラも恐喝罪で起訴された。
 獄中でカンタレッラは、10月の摘発で同じく罪状認否を受けたボスの
が、ボナンノ・ファミリーで初めて情報提供者になったことを知った。
 コッパは捜査官に対し、カンタレッラがペリーノ殺害計画の企てと、ミラ殺害事件の逃走ドライバーを務めたことを自慢していたと語った。
 コッパの証言はカンタレッラの獄中死をほぼ確実にすると判断したカンタレッラは、2002年12月に司法取引に応じ、政府の証人となった。
 ラウレッタとポールも司法取引に応じた。
 2003年初頭、マッシーノはカンタレッラが密告者になっていることに気づいた。
 2004年6月、カンタレッラはマッシーノの恐喝罪裁判で証言台に立った。
 それ以前に、彼は捜査官に対し、マッシーノはヴィターレに不満を抱いており、ヴィターレを殺害したいと考えていたと証言していた。
 証言台で、彼は1983年のマッツェオ殺害事件における自身の関与を認めた。また2004年には、当時サンジェナーロ祭協会の会長だった
   ペリー・クリシテッリ
ボナンノ一家の入会式に出席したことを証言した。
 2007年7月、カンタレッラはボナンノ一家のボス、
の殺人罪と恐喝罪の裁判で証言台に立った。
 2017年4月、オキシジェン・チャンネルは、証人保護制度からの離脱後、人生をやり直そうとするカンタレッラ一家を主役にしたリアリティ番組「アンプロテクテッド」を開始した。
    
  
posted by manekineco at 18:37| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック