アントワーヌ・ゲリーニ(Antoine Guérini)
1902月3月2日ー1967年6月23日(65歳)
1902年にコルシカ島のカレンザナで生まれ、1967年6月23日にマルセイユで暗殺された。
ゲリーニは売春業を専門とする
ゲリーニ一族( le clan Guérin)
に所属したフランスのギャングでレジスタンス戦士。
1940年代から1960年代半ばまで活動した。
主に通称「メメ」と呼ばれた弟のバルテルミー(Barthélemy Guérini)と交流があった。
ガストン・デフェール(Gaston Defferre)や一部の芸能人と長年密接な関係を築いてきた。
ただ、1960年代、アントワーヌが賭博界への投資を企み、そしてとりわけ
ロベール・ブレマン(Robert Blémant)の暗殺事件
がきっかけで衰退の道を辿った。
8人兄弟(男6人、女2人)の長男として生まれたアントワーヌ・ゲリーニは1923年、兵役を終えるため本土へ渡り、翌年ニースへ移住した。
そこでジャック・コスタ(Jacques Costa)という男に裏社会のバーでウェイターの仕事を紹介された。
間もなく弟の「メメ」・ゲリーニも加わった。
メメの師である
ティティ・コロンナ(Titi Colonna)
の助言を受け、アントワーヌはマルセイユで仕えていた少女を売春させるようになった。
並行して、彼はパニエ地区でSFIO(労働者インターナショナル・フランス支部)の執行官として活動した。
寡黙で冷淡な性格でマルセイユのギャングとは一線を画し、高潔な人物として知られていた。
ただ、予測不能な暴力性もあり恐れられる存在であった。
姪のマリー=クリスティーヌによると、彼は友人と共に競合したアラブ人のポン引き一味を倒したことで、その名声を確固たるものにした。
1928年までに、この若きコルシカ人は既に10人ほどの売春婦を雇っていた。
同年、彼はコロニー酒場を買収し、弟のメメと共同経営を始めた。
この共同経営は40年間続いた。
1930年以降、兄弟は社会党の選挙運動を円滑に進めるため、党員を派遣し始めた。
一方、右派はマルセイユで最も有力なギャングコンビ、
カルボーネ(Paul Carbone)
スピリト(François Spirito)
に頼っていたものの、直接的な衝突は稀だったが、全くなかったわけではなかった。
1935年には、選挙集会の後、ポール・カルボーネの部下がアントワーヌとその友人たちに発砲した。
1936年春、兄弟は
バー・ド・レトワール
を買収し、豪華な店へと変貌させた。
グランドオープンには、警察、政界、そして財界のエリートたちが集まった。
こうした一方で、他の兄弟姉妹(フランソワ、パスカル、ピエール、ルシアン、トゥーサント、レスティテュード)は、長男と次男の事業を管理するためにマルセイユにやって来た。
1937年には、トゥールーズ、アルジェ、マルセイユにある複数の売春宿が一家の所有となった。
その後、南フランスで複数の売春宿を所有していた友人からいくつかを相続した。
アントワーヌ・ゲリーニは、マルセイユの有力者であるカルボーネとスピリトとの会談を経て、影響力を増し、マルセイユにおける「ポン引き業界のリーダー」としての地位を固めた。
開戦前夜、カランザナ兄弟は小規模な売春帝国の指導者であった。
ナチスドイツによるフランス占領下、ゲリーニ兄弟は
ガストン・デフェール(Gaston Defferre)
ロベール・ブレマン(Robert Blémant)
と連絡を取り合っていた。
ナチスに協力したライバルのカルボーネとスピリトとは対照的だった。
パスカル・ゲリーニはコルシカ島と北アフリカへの逃亡ルートを手配し、メメ(バルテルミー・ゲリーニ)は戦闘に積極的に参加した。
一方、アントワーヌは時折、レジスタンス活動家や逃亡中のユダヤ人を助け、自分の店の地下室に匿っていた。
ただ、コルシカ出身のギャングであるアントワーヌは抜け目のない商人であり続けた。
ナチス占領軍との取引をためらうことはなく、特にガソリン券の取引でかなりの取引を行った。
バルテルミーの娘、
マリー=クリスティーヌ・ゲリーニ
が明かした情報によれば、1942年春、ゲリーニ兄弟はマルセイユの犯罪組織のボスやレジスタンス運動の指導者を集め、ナチス占領軍が迷惑を及ぼしていた特定の地域から彼らを追い出す方法を探ったと伝えられている。 合計で約300人の強硬派がレジスタンス運動に加わった。
1942年5月8日から7月末までの間に、占領軍を狙った48回の攻撃があった。
占領軍は当初は屈服したが、1943年2月に強く反撃に出た。
1日から17日にかけて、旧港地区全体が無差別に破壊され、巨大な瓦礫の山と化した。
ナチスはマルセイユを含む「自由地帯」を1942年11月まで占領していいなかった。
パニエ地区での一斉検挙は、1943年1月22日、23日、24日に行われ、その後、地区は爆破された。
1943年12月16日、ポール・カルボーンはレジスタンスによる列車の破壊工作で死亡した。
解放後、ドイツ占領軍に協力したフランソワ・スピリトはレジスタンスからの粛清を逃れて国外に逃亡した。
これとは対象的にゲリーニ兄弟は自由に行動することができた。
解放後、アントワーヌとその兄弟たちは、かつてのドイツ占領軍の協力者で、死亡または逃亡中の犯罪者たちの事業を買い取り始めた。
彼らの財力とレジスタンスとの関係から保有した「軍事力」のおかげで、彼らはほとんど抵抗に遭うことはなかった。
パリとマルセイユのバー、ナイトクラブ、ホテル、キャバレーなどが彼らの手に渡った。
合計約15軒の華やかな店が軒を連ねていたと言われている。
1953年、レジスタンス運動中にメメと親しくなった兄弟の弟子であり友人
ガストン・デフェール
がマルセイユ市長に選出された。
ゲリーニ一族は絶頂期を迎え、強力な政治的支援と非常に有利な免責特権を享受した。
また、その恩恵に報いることも忘れていなかった。
1947年11月12日、アントワーヌと弟のメメは、
アントワーヌ・シニバルディ(Antoine Sinibaldi)
の支援を受け、オペラ地区で略奪を開始した共産主義過激派に発砲したとされる。
その結果、暴徒1名が殺害され、ギャングたちは無罪放免となった。
1950年代初頭、ゲリーニ一族はヨーロッパで最も有力な一族の一つとなり、フランスの裏社会においておそらく最も重要な一族となった。
アントワーヌはメメ、マルセイユのギャング
ジョー・ルヌッチ(Jo Renucci)
そして特にラッキー・ルチアーノと共にタバコの密輸に手を染めた。
CIAは港湾における共産主義者の活動を阻止するため、彼らに協力を要請した。
スティーブ・リヴェレによると、ゲリーニは1963年11月の
スティーブ・リヴェレによると、ゲリーニは1963年11月の
に関与したとされている。
アントワーヌは、アメリカン・マフィアの依頼でマルセイユでケネディ暗殺を行うために殺し屋を雇ったと言われている。
その殺し屋の一人は、「ハンサム・セルジュ」として知られる
クリスチャン・ダヴィッド( Christian David)
だった可能性がある。
1950年代後半、アントワーヌ・ゲリーニはパリの賭博業界への参入を決意した。
1960年、一大スキャンダルで彼と仲間は巨額の損失を被った。
この事件は後に
マルセル・フランシス
ジャン=バティスト・アンドレアーニ
の間の「賭博戦争」の引き金となった。
1965年、一族内で激しい議論が交わされた後、アントワーヌ・ゲリーニはロベール・ブレマンを殺害することを決意した。
彼がこの財政破綻を企てたと非難した。
これが一族の終焉の始まりとなった。
裏社会全体がこの行動を非難し、兄弟への政治的支持は徐々に薄れていった。
ゲリーニ兄弟は完全に追放され、やがて暴力の連鎖が彼らを飲み込むことになった。
ブレマンの2人の暗殺者、メメの非嫡出子
ルネ=アントワーヌ・モンドローニ(René-Antoine Mondoloni)
を含む2人は、1966年と1969年に、殺害当時車を運転していた共犯者と共に殺害された。
1967年6月23日、アントワーヌ・ゲリーニは息子の
フェリックス・ゲリーニ
と共に、マルセイユのサン・ジュリアン地区でメルセデスにガソリンを入れようとしていた。
すると突然、大きな赤いバイクに乗ったヘルメットをかぶった二人の男が近づき、一人が車から飛び降り、助手席側のフロントガラスに4発の銃弾を発射した。
さらに一人は下げた窓から手を伸ばし、再び発砲した。
11発の.45口径の銃弾が、この暗殺組織のボスの体を掃射し暗殺した。
この襲撃の実行犯たちは、必ずしもブレマンの復讐者というわけではなかった。
噂によると、マルセイユの暗黒街で台頭する
タニー・ザンパ(Tany Zampa)
が首謀者でジャッキー・ル・マット(Jacky le Mat)が処刑人だったという。
同年、アントワーヌの葬儀中にバルテルミー・ゲリーニ(メメ)、フランソワ・ゲリーニ、パスカル・ゲリーニは、別荘に侵入した強盗殺人容疑で逮捕された。
フランソワはその後まもなく獄死した。
メメは無実を主張していたにもかかわらず懲役20年だった。
パスカルは懲役15年の判決を受けた。
メメは1982年、モンペリエの診療所で直腸癌のため亡くなった。
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