カラカウア(Kalākaua )
デイビッド・ラーアメア・カマナカプウ・マヒヌラニ・ナライア・エフオカラニ・ルミアラニ・カラカウア(David Laʻamea Kamanakapuʻu Māhinulani Nālaʻiaʻehuokalani Lumialani Kalākaua)
1836年11月16日 - 1891年1月20日
1874年2月12日から1891年に亡くなるまで在位した、ハワイ王国最後の国王
ルナリロの戦いに成功したことで、彼はハワイ王国の国王カメハメハ4世の妻
エマ女王
に対抗してハワイの空位となった王位に選出された。
カラカウアは陽気な性格から「メリー・モナーク(陽気な君主)」と呼ばれた。
歌とウクレレの演奏で客を楽しませることを好んだ。
戴冠式と生誕記念式典では、それまで王国で公の場で禁止されていたフラが、ハワイ文化の祭典となった。
カラカウアの治世下、1875年の
相互主義条約
がハワイ王国に大きな繁栄をもたらした。
なお、この条約の更新により繁栄は続いたものの、
植民地主義
を強めるアメリカ合衆国が思惑通りに軍事覇権を強め、
真珠湾
を独占的に使用できるようになった。
1881年、カラカウアは
契約サトウキビ農園労働者の移民
を奨励するために世界一周旅行を行った。
彼はハワイの人々が国外でも教育を受けられるように願っていた。
彼は、資格のある学生を海外に派遣して教育をさらに深めるための
政府資金援助プログラム
を設立した。
彼の事業のうち、
カメハメハ1世の像の建立
イオラニ宮殿の再建
という2つの事業は、莫大な費用を要し王国の財政基盤を破壊した。
ただ、今日では人気の観光名所となっている。
この莫大な支出とカラカウアによる
ポリネシア連邦構想
は、既にハワイのアメリカ合衆国による併合を目指していた併合論者たちの思惑を巧みに利用した。
1887年、カラカウアは王権を名ばかりの地位に押し上げる新憲法に署名するよう米国政府に寄る圧力を受けた。
1877年に兄の
ウィリアム・ピット・レレイオホク2世
が亡くなると、カラカウアは妹の
リリウオカラニ
を王位継承者に任命した。
彼女はカラカウアが国外にいる間、摂政を務めた。
カラカウアの死後、彼女はハワイ最後の君主となった。
カラカウアは、1836年11月16日午前2時、オアフ島ホノルルのパンチボウル・クレーターの麓にある母方の祖父アイカナカの草葺き小屋で
シーザー・カルアイク・カパアケア
アナレア・ケオホカロレ
の子として生まれた。
ハワイの貴族階級アリイに属し、カラカウア一族は当時カメハメハ家の傍系とみなされていた。
18世紀のアリイ・ヌイ・ケアウェイイケカヒアリイオカモクを共通の祖としていた。
カラカウアの実の両親は、ハワイ王国を征服したカメハメハ1世の5人の王室顧問のうち2人
ケアウェアヘウル
カメエイアモク
の子孫でもある。
カメエイアモクは彼の両親の祖父であり、ハワイの紋章にカマナワと並んで描かれている双子の王族の一人であった。
しかし、カラカウアとその兄弟姉妹は母方の血統に由来する高い地位をたどり、「ケアウェ・ア・ヘウル家」の一員と自称していた。
ただ、後の歴史家たちはその家をカラカウア家と呼ぶようになった。
大家族の2番目に生き残った子供であり、彼の実の兄弟姉妹には兄の
ジェームズ・カリオカラニ
弟妹のリディア・カマカエハ(後にリリウオカラニと改名)
アンナ・カイウラニ
カイミナアウアオ
ミリアム・リケリケ
ウィリアム・ピット・レレイオホク2世
がいた。
なお、「戦いの日」を意味するカラカウアという名を与えられた彼の誕生日は、イギリスのアクタイオン大佐
なお、「戦いの日」を意味するカラカウアという名を与えられた彼の誕生日は、イギリスのアクタイオン大佐
エドワード・ラッセル卿
が軍事力を背景としてカメハメハ3世に課した
不平等条約
の調印日と重なっていた。
彼と兄弟姉妹は、ハワイ先住民の伝統に従い、他の親族にハナイ(非公式の養子)として引き取られた。
彼の誕生前、両親は高位の女酋長であり、高位のボキ酋長の未亡人である
クイニ・リリハ
にハナイで子供を預けると約束していた。
しかし、彼が生まれると、高位の女酋長
ハアヘオ・カニウ
が王の居城の一つであるホヌアカハにある自宅に赤ん坊を連れて行った。
リリハを嫌っていたクヒナ・ヌイ(摂政)
エリザベス・キナウ
は、熟考の末、両親に彼をハアヘオとその夫
ケアウェアマヒ・キニマカ
に引き渡すよう命じた。
1843年にハアヘオが亡くなると、彼女はすべての財産を彼に遺贈した。
ハアヘオの死後、彼の後見は、より低い地位の酋長であった父ハナイに委ねられた。
彼はカラカウアをマウイ島のラハイナに引き取った。
キニマカは後に、従属的なタヒチの酋長であるパイと結婚した。
パイは息子が生まれるまでカラカウアを自分の子のように扱った。
カラカウアは4歳でオアフ島に戻り、酋長の子供学校(後にロイヤルスクールと改名)で教育を受けた。
彼とクラスメートたちは、カメハメハ3世によってハワイ王国の王位継承資格を正式に宣言されていた。
彼のクラスメイトには、兄弟のジェームズ・カリオカラニとリディア・カマカエハ、そして将来の国王カメハメハ4世、カメハメハ5世、ルナリロを含む13人の従兄弟がいた。
彼らはアメリカ人宣教師
エイモス・スター・クック
とその妻
ジュリエット・モンタギュー・クック
に教えられた。
学校でカラカウアは英語とハワイ語を流暢に話し、学力よりも陽気さとユーモアで有名になった。
意志の強い少年は、学校では体格に劣る兄
カリオカラニ
を年上の男子生徒から守った。
1840年10月、父方の祖父カマナワ2世は、妻カモクイキ殺害の罪で処刑される前夜、孫たちに面会を依頼した。
翌朝、クック家は王族の子供たちの後見人である
ジョン・パパ・イイ
に、カリオカラニとカラカウアをカマナワに最後に会わせる許可を与えた。
二人の妹も連れて行かれたかどうかは不明である。
カラカウアの伝記によると、少年たちは祖父が絞首台で公開処刑されるのを目撃したとされている。
歴史家ヘレナ・G・アレンは、クック家がこの要請に無関心だったこと、そしてそれが少年たちにとってどれほどトラウマ的な経験であったかを指摘している。
1850年にクック家が引退し、学校を閉鎖した。
その後、カラカウアはカワイアハオにあるジョセフ・ワットの先住民児童向けの英語学校で短期間学んだ。
その後、エドワード・G・ベックウィズ牧師が運営する移転したデイスクール(ロイヤルスクールとも呼ばれた)に入学した。
ただ、病気のため学業を終えることができず、ラハイナに送り返され、母親のもとで暮らすことになった。
正式な学校教育を終えた後、1853年に
チャールズ・コフィン・ハリス
のもとで法律を学んだ。
カラカウアは1877年にハリスをハワイ最高裁判所長官に任命した。
カラカウアは軍、政府、そして宮廷での様々な役職に就いた。
カラカウアは軍、政府、そして宮廷での様々な役職に就いた。
このため、法学の訓練を完全に修了することができなかった。
彼はプロイセン軍将校フランシス・フンク少佐の下で最初の軍事訓練を受け、フンク少佐からプロイセン軍の制度への敬意を植え付けられた。
1852年、後にカメハメハ4世として君臨することになる
リホリホ王子
は、カラカウアを軍の副官に任命した。
翌年、リホリホ王子はカラカウアを歩兵隊の名誉大尉に任命した。
軍では、カラカウアは父カパアケアの民兵240名で中尉を務め、後に陸軍副官
ジョン・ウィリアム・エリオット・マイカイ少佐
の軍事秘書を務めた。
1855年にカメハメハ4世が即位すると、彼は少佐に昇進し、その側近に任命された。1858年には大佐に昇進した。
彼は後にカメハメハ5世となるロット王子の個人的な側近であり友人となり、ロット王子は若きカラカウアに「ハワイアンのためのハワイ」という使命を植え付けた。
1860年秋、カラカウアは王国内務省の主任書記官を務めていた際、ロット王子、高位酋長レヴィ・ハアレレア、そしてハワイのペルー領事ジョサイア・C・スポルディングに同行し、ブリティッシュコロンビア州とカリフォルニア州を2ヶ月間巡回した。
一行は8月29日、ヨット「エマ・ルーク」号でホノルルを出航した。
9月18日にブリティッシュコロンビア州ビクトリアに到着した。
ビクトリアでは、地元の要人から歓迎を受けたた。
カリフォルニア州では、サンフランシスコ、サクラメント、フォルサムなどの地方都市を訪れ、そこでも丁重な歓迎を受けた。
1856年、カラカウアはカメハメハ4世によって枢密院議員に任命された。
また、1858年にはハワイ王国の議会の上院である貴族院議員に任命され、1873年までその職を務めた。
1859年には、1863年に国王となるまで内務大臣を務めていたロット王子の下で、第3代内務省書記官を務めた。
1863年までその職を務めた。
1863年6月30日、カラカウアは郵政長官に任命された。
1865年3月18日に辞任するまでその職を務めた。
1865年には国王侍従に任命された。
1869年に法律学を修了するために辞職するまでその職を務めた。
1870年にはハワイの弁護士資格を取得し、土地局の事務員として採用された。彼は即位するまでその職を務めた。
1867年にはカメハメハ1世王室勲章ナイト・コンパニオンを授与された。
アメリカの作家
マーク・トウェイン
は、サクラメント・デイリー・ユニオン紙の巡回記者として働いていた。
カメハメハ5世の治世中の1866年にハワイを訪れ、若きカラカウアと他の議会議員と会見した。
カラカウアは、カメハメハ4世とカメハメハ5世の妹である
ビクトリア・カママル王女
と短期間婚約していた。
しかし、王女が従弟のルナリロとの断続的な婚約を更新しようと決めた。
このため、この婚約は破棄された。カラカウアは後に、カメハメハ4世の妻エマ王妃の叔父であるベネット・ナマケハの若い未亡人、カピオラニと恋に落ちた。
カウアイ島のカウムアリイ王の子孫であるカピオラニは、エマ王妃の侍女であった。
また、アルバート・エドワード・カメハメハ王子の乳母兼世話役であった。
二人は1863年12月19日、ハワイ聖公会の牧師によって執り行われた静かな式で結婚した。
カメハメハ4世の公式の喪に服す期間と重なったため、結婚式の時期は激しく批判された。
即位前、夫妻はホヌアカハに住んでいた。
ホヌアカハは、カメハメハ4世が父キニマカから相続したホノルルの邸宅で、パンチボウル通りとクイーン通りの角に位置し、カワイアハオ教会のすぐそば(海側)にあった。
結婚後も子供は生まれなかった。
カメハメハ5世は1872年12月12日に崩御したが、王位継承者を指名することはなかった。
1864年のハワイ王国憲法では、国王が後継者を指名しない場合、議会によって
新たな国王
が任命され、新たな王位継承が始まることになっていた。
ハワイの王位継承候補者は複数名おり、その中にはカメハメハ5世から臨終の際に王位継承を打診されたものの辞退していた
バーニス・パウアヒ・ビショップ
も含まれていた。
なお、争いの中心は2人の高位の男性アリイ(酋長)である
ルナリロ
カラカウア
の二人であった。
ルナリロはカラカウアよりも高位の酋長であり、カメハメハ5世の従兄弟であったため、より人気があった。
また、ルナリロは2人の中でよりリベラルで、憲法を改正して政府における民衆の発言権を高めると約束していた。
歴史家ラルフ・S・カイケンダルによると、ルナリロの支持者の間では、選挙を行わずに彼を国王に即位させたいという熱意があったという。これに対し、ルナリロは、自身は正当な王位継承者であると信じているものの、王国の利益のために選挙に応じる旨の布告を発した。
1873年1月1日、ハワイ国王の地位をめぐる民選が行われた。
ルナリロは圧倒的多数で勝利したが、カラカウアは11,000票以上のうち12票しか獲得できず、非常に不振であった。
翌日、議会は民選の結果を確認し、ルナリロを全会一致で選出した。カラカウアは敗北を認めた。
ルナリロの即位後、カラカウアは国王の軍事参謀である大佐に任命された。
ルナリロの治世中、カラカウアは政治活動を続け、ヤング・ハワイアンズとして知られる政治組織の指導者として活躍した。
このグループのモットーは「ハワイはハワイアンのもの」であった。
彼はハワイ諸島のいかなる部分も外国の利権に譲渡することに断固として反対することで政治的影響力を獲得していた。
1873年9月に
ハワイ王室衛兵隊
がイオラニ兵舎で反乱を起こした。
カラカウアは先住民衛兵隊を扇動して白人将校への反乱を起こさせたと疑われた。
ルナリロはこの反乱に対し、軍隊を解散させることで対応した。
彼の治世の残りの期間、ハワイは常備軍のない状態となった。
特にルナリロは当時未婚で子供もいなかったため、継承問題は大きな懸念事項であった。
カメハメハ4世の未亡人であるエマ王太后は、ルナリロにとって推定継承者として有力視されていた。
一方、カラカウアとその政治的側近たちは、王の崩御の際にカラカウアが後継者に指名されるよう積極的に運動を展開した。
ルナリロの後継者として有力視されていた他の候補者の中には、
バーニス・パウアヒ・ビショップ
がいた。
彼女は裕福なアメリカ人実業家チャールズ・リード・ビショップと結婚しており、ビショップはルナリロの閣僚の一人を務めた人物である。
また、アメリカ合衆国との強いつながりを持っていた。
ルナリロが選出から数ヶ月後に病に倒れた際、ハワイ先住民たちは再選挙を避けるため後継者を任命するよう彼に助言した。
彼がエマに対してどのような個人的な感情を抱いていたとしても、それを文書に残すことはなかった。
彼は後継者問題に行動を起こさず、1874年2月3日に死去した。
これが激しい選挙の始まりとなった。
ルナリロは自らをカメハメハ一族とは考えていなかったものの、彼の選出はカメハメハ王朝の血統をある程度継承するものとなり、カメハメハ王朝最後の君主となった。
パウアヒは立候補を断念した。
パウアヒは立候補を断念した。
カラカウアの政治綱領は、王国の憲法に厳密に従って統治することだった。
エマは、ルナリロが自身に後継者になってほしいと直接伝えてきたと断言して選挙運動を展開した。
ルナリロの意向を直接知っていると主張する複数の人物が公に彼女を支持した。
なお、ルナリロの枢密院がこの主張を公に否定したことで、王国はこの問題をめぐって分裂した。
イギリスのジェームズ・ヘイ・ウッドハウス議員は、ホノルルに停泊中の英米軍に対し、暴動の可能性に備えて警戒態勢を敷いた。
選挙は2月12日に行われ、カラカウアは立法議会で39対6の差で選出された。
彼の選出はホノルル裁判所での暴動を引き起こし、エマ女王支持者たちはカラカウア支持議員を標的にし、13人の議員が負傷した。
前年の反乱以来、王国は軍隊を持たず、暴動鎮圧のために派遣された多くの警察官も暴徒に加わるか、何もしなかった。
暴徒を制圧することができなかったカラカウアとルナリロの元大臣たちは、港に停泊していたアメリカ軍とイギリス軍に支援を要請せざるを得ず、反乱鎮圧を余儀なくされた。
暴動後の不利な政治情勢を踏まえ、カラカウアは翌日、政府関係者、家族、外国代表、そして一部の傍聴人が見守る中、急遽就任宣誓を行った。この就任式は、慣例通りカワイアハオ教会ではなく、王室侍従官の邸宅であるキナウ・ハレで行われた。
暴動後の不利な政治情勢を踏まえ、カラカウアは翌日、政府関係者、家族、外国代表、そして一部の傍聴人が見守る中、急遽就任宣誓を行った。この就任式は、慣例通りカワイアハオ教会ではなく、王室侍従官の邸宅であるキナウ・ハレで行われた。
この急ぎの出来事が、カラカウアが1883年に戴冠式を行うきっかけとなった。
カラカウアは王位に就くと、弟のウィリアム・ピット・レレイオホク(レレイオホク2世)を後継者に指名した。
レレイオホク2世が1877年に崩御すると、カラカウアは妹のリディア・ドミニスの名前をリリウオカラニに改め、後継者に指名した。
1874年3月から5月にかけて、カラカウアはハワイ諸島の主要島であるカウアイ島、マウイ島、ハワイ島、モロカイ島、オアフ島を巡視し、カラウパパ・ハンセン病療養所を訪問した。
カラカウアは選出から1年も経たないうちに、1875年の相互主義条約の交渉に尽力しました。アメリカ合衆国とハワイの間のこの自由貿易協定により、砂糖をはじめとする製品がアメリカ合衆国に無税で輸出されるようになりました。彼は、C・ブリューワー社の砂糖農園主ヘンリー・A・P・カーター、ハワイ最高裁判所長官エリシャ・ハント・アレン、外務大臣ウィリアム・ローシアン・グリーンからなる相互主義委員会を率いました。カラカウアはアメリカを訪問した初の現君主となりました。ユリシーズ・S・グラント大統領が主催したカラカウアの公式晩餐会は、ホワイトハウスで初めて開かれた公式晩餐会となった。
カラカウアは選出から1年も経たないうちに、1875年の相互主義条約の交渉に尽力しました。アメリカ合衆国とハワイの間のこの自由貿易協定により、砂糖をはじめとする製品がアメリカ合衆国に無税で輸出されるようになりました。彼は、C・ブリューワー社の砂糖農園主ヘンリー・A・P・カーター、ハワイ最高裁判所長官エリシャ・ハント・アレン、外務大臣ウィリアム・ローシアン・グリーンからなる相互主義委員会を率いました。カラカウアはアメリカを訪問した初の現君主となりました。ユリシーズ・S・グラント大統領が主催したカラカウアの公式晩餐会は、ホワイトハウスで初めて開かれた公式晩餐会となった。
ハワイのビジネス界では、条約と引き換えに真珠湾をアメリカ合衆国に譲渡することに同意する者が多くいた。
ただ、カラカウアはこれに反対した。
1875年1月30日、7年間の条約が調印されたものの、ハワイの領土は一切譲渡されまなかった。
サンフランシスコの砂糖精製業者
クラウス・スプレッケルズ
は、ハワイの砂糖産業への主要投資家となった。
当初、彼は初年度の生産量の半分を購入し、最終的にはプランテーションの主要株主となった。
スプレッケルズはカラカウアの側近の一人となった。
条約の失効に伴い、真珠湾の独占使用権をアメリカ合衆国に与える延長交渉が行われた。
双方による批准には2年11ヶ月を要し、1887年12月9日に条約が交換され、協定はさらに7年間延長された。
カラカウアの治世中、この条約は王国の収入に大きな影響を与えた。
1874年、ハワイは1,839,620.27ドル相当の製品を輸出した。
カラカウア統治の最後の年である1890年の輸出額は13,282,729.48ドルで、722%増加した。
この期間の砂糖輸出額は、24,566,611ポンドから330,822,879ポンドに増加した。
イオラニ宮殿はアメリカ合衆国領土にある唯一の王宮である。
最初の宮殿は珊瑚と木材で造られ、1845年のカメハメハ3世以降、王国の君主たちの執務室として主に使用された。
カラカウアが王位に就く頃には建物は老朽化しており、カラカウアはそれを破壊して新しい建物に建て替えるよう命じた。
1878年の議会会期中、カラカウアの政治的支持者であった財政委員長
ウォルター・マレー・ギブソン
は、新宮殿建設のために5万ドルの予算を承認した。
建設は1879年に始まり、後に家具の設置と完成のために8万ドルが追加で計上された。
設計にはトーマス・J・ベイカー、チャールズ・J・ウォール、アイザック・ムーアの3人の建築家が携わった。
1879年12月31日、カピオラニ女王の45歳の誕生日を、カラカウアは礎石据え付けの儀式を行う日に選んだ。
外務大臣ジョン・マキニ・カペナがハワイ語で式典の公式演説を行った。
フリーメイソン・ロッジ「ル・プログレ・ド・ロセアニー」のマスターであった
カラカウア
は、フリーメイソンに式典の運営を任せた。
礎石据え付けに先立つパレードには、ハワイのあらゆる民間および軍事組織が参加した。
写真、文書、紙幣、ハワイの国勢調査記録が入った銅製のタイムカプセルが礎石の中に封入された。
演説の後、フリーメイソンは国王に「石工の道具」である下げ振り、水平器、直角器、こてを贈呈した。
礎石の設置から新宮殿の完成までの間、カラカウアは他の君主たちの暮らしぶりを目の当たりにしていた。
イオラニ宮殿が世界の水準に見合うものとなることを願っていた。
新宮殿の建設と家具の調達に要した総費用は34万3595ドルであった。
カラカウア王とカピオラニ王は、1874年の選挙後の内乱のため、戴冠式を行うことが禁じられていた。
1880年の議会は、財政委員長ギブソンの下、戴冠式のために1万ドルを計上した。
戴冠式と関連する祝賀行事は2週間にわたって行われた。
1886年10月1日、1886年軍事法が可決され、外務大臣の下に陸軍省と海軍省が設立された。
外務大臣は陸軍長官および海軍長官を兼務することになった。
ドミニスは中将兼総司令官に任命され、他の将校も任命された。
一方、国王はハワイ軍の最高司令官兼大元帥となった。
この頃、政府はハワイ王立海軍の最初で唯一の艦艇であるハワイ国王陛下の艦(HHMS)カイミロア号を購入し、就役させた。
この艦はジョージ・E・グレズリー・ジャクソン大佐の指揮下に置かれた。
1887年以降、ドミニスとその参謀を任命した軍事委員会は経済的な理由から解任された。
また、1886年軍事法は後に違憲と宣言された。
1888年軍事法が可決され、陸軍の規模は65名を上限とする常設部隊である
キングス・ガード
と、ホノルル・ライフル隊、キングス・オウン隊、クイーンズ・オウン隊、プリンス・オウン隊、そしてレレイオホク・ガード隊の5つの志願兵中隊に縮小された。
1890年には、新たな軍事法により、軍隊は国王直属近衛兵のみに限定された。
また、最大徴兵数は36人から100人に制限された。
ハワイがポリネシア諸国の内政に介入するという考えは、1853年にオーストラリア人の
チャールズ・セント・ジュリアン
がハワイとの政治的連絡役に志願したときにすでに存在していた。
ただ、彼は特に目立った成果はあげなかった。
ウォルター・M・ギブソンとイタリアの傭兵セルソ・シーザー・モレノの両者の影響によりカラカウアが自らを先頭にポリネシア連合を形成することに関心を示した。
1879年、モレノは国王に対し、「…ポリネシア民族全体をあなたの王権の下に統合し、ホノルルを君主制のワシントンとし、すべての島の代表者が議会に集う」ことで、ハワイを帝国の頂点とする王国を創設するよう促した。
オセアニアにおけるドイツとイギリスの活動に対抗し、ギブソンの『パシフィック・コマーシャル・アドバタイザー』は、島嶼国を国際的な侵略から守るためにハワイが関与するよう訴えた。
ギブソンは1882年、カラカウア内閣の外務大臣に任命された。
1883年、彼はハワイがポリネシア諸国の独立を全面的に支持することを外国政府に書面で伝えるための法案を提出した。
ただ、彼が起草した「ハワイの抗議書簡」は、受け取った国々からほとんど無視された。
1885年、ギブソンはハワイのポリネシアに対する意図を伝えるため、駐米公使
ヘンリー・A・P・カーター
をワシントンD.C.とヨーロッパに派遣した。
カーターはギブソンの指示をほとんど実現しなかった。
彼はサモアの政変に直接介入することを主張した。
ドイツ帝国は、マリエトア・ラウペパ国王を倒そうとする反乱軍の指導者
タマセセ
らを支援していた。
ギブソンは権力維持のため、1886年の議会を説得した。
蒸気船ジーランディア号の購入費として10万ドル、その運航費として5万ドル、そして海外宣教活動費として3万5千ドルを割り当てるよう求めた。
サモア駐在アメリカ合衆国特別弁務官
ジョージ・H・ベイツ
はカラカウアに対し、ハワイは自国のことに集中し、サモアの問題に干渉すべきではないと助言した。
ただ、ハワイは、
ジョン・E・ブッシュ
が率いる代表団をサモアに派遣し、1887年2月17日、
サモア国王 マリエトア・ラウペパ
がサモア・ハワイ連合条約に署名した。
ブッシュはまた、カラカウアがポリネシア連合の君主と首長を称えるために創設したオセアニアの星勲章をマリエトアに授与した。
政府は、ブッシュ団長がポリネシアの他の島々の首長を訪問するために、HHMSカイミロア号を派遣した。
アメリカ合衆国とイギリスはドイツと共に条約への反対を表明した。
ドイツはアメリカ合衆国とイギリスに対し、「ハワイがマリエトアに有利な形で干渉しようとした場合、サンドイッチ諸島の国王は我々と交戦状態に入ることになる」と警告した。
ドイツの軍艦がサモア海域に到着すると、マリエトアは降伏し、国外追放された。
カイミロア号とブッシュ大統領の代表団は、ギブソン政権の崩壊後、ホノルルに呼び戻された。
サンフォード・B・ドールは『ハワイ革命回顧録』の中で、銃剣憲法について1章を割いている。
彼は、カラカウア王が閣僚を任命する際、その職務遂行能力ではなく、王の意向に従順に従う能力が重要だったと述べている。
その結果、ドールによれば、予算は「奇抜な事業や王室の私的な権力拡大」のために、ある口座から別の口座へと流用されたという。
ドールはギブソンに多くの責任を負わせ、カラカウアがアキとしても知られる米作農家の
トン・キー
から7万1000ドルの賄賂を受け取り、
アヘン販売許可
を与えたと非難した。
この行為は、王の政治的盟友の一人である
ジュニウス・カアエ
を通じて行われた。
カアエは、トン・キーに、国王に金銭を贈れば、アキがアヘンを入手できるかもしれないと提案した。
アキはその提案を受け入れ、国王に数千ドルを贈与した。
カラカウアは個人的な反対にもかかわらず、1886年に単一のアヘン販売・流通許可証を制定する法案に署名した。
ハワイアン・リーグは「あらゆる手段を尽くして」政府の現状を変えるために結成され
ホノルル・ライフルズ民兵団
と連携していた。
クーデターを予期した国王は、6月28日にギブソンとその閣僚全員を解任することで、自らの身を守る措置をとった。
暗殺の可能性も否定できないカラカウアは、宮殿内に立てこもった。
「13人委員会」としても知られるハワイアン・リーグは6月30日、国王に賄賂の賠償を求める決議案を提出した。
この委員会は、
ポール・アイゼンバーグ
ウィリアム・W・ホール
ジェームズ・A・ケネディ
ウィリアム・ハイド・ライス
ジェームズ・A・キング大尉
E・B・トーマス
H・C・リード
ジョン・マーク・ビバス
W・P・A・ブリューワー
W・B・オルソン牧師
セシル・ブラウン
ジョージ・ロス大尉
ジョセフ・バラード・アサートン
で構成されていた。
新たに任命された閣僚は、首相兼財務大臣にウィリアム・ロウシアン・グリーン、司法長官にクラレンス・W・アシュフォード、内務大臣にロリン・A・サーストン、外務大臣にゴッドフリー・ブラウンであった。
ハワイ委員会は直ちに新憲法を起草し、7月6日にカラカウアに署名のために提出した。
翌日、カラカウアは1864年ハワイ王国憲法の廃止を宣言した。
この新憲法は、署名に至った強要の事実から「銃剣憲法」というあだ名がつけられた。
姉のリリウオカラニは『ハワイ物語』の中で、兄は署名しなければ暗殺されると確信していたと記している。
また、彼女は兄がもはや誰が味方で誰が敵なのか分からなくなっていたと記した。
かつて信頼していた人々に裏切られたと感じ、行く先々で常に監視されていると彼女に告げていたという。
国王が敵によって組織された軍隊から受けた残酷な仕打ちは、実際には
強制力を与えるためのもの
であり、
国王の服従を強めるための主な手段
であった。
カラカウアは1890年11月25日、USSチャールストン号でカリフォルニアに向けて出航した。
同行したのは、信頼する友人の
ジョージ・W・マクファーレン
ロバート・ホアピリ・ベイカー
だった。
なお、国王のこの旅の目的は不明であった。
外務大臣ジョン・アダムズ・カミンズは、この旅は国王の健康のみを目的としたものであり、カリフォルニアを超えることはないと報告した。
フォルニアに到着した一行は12月5日にサンフランシスコに上陸した。カラカウアの健康状態が悪化していた。
南カリフォルニアとメキシコ北部を旅していたカラカウアは、サンタバーバラで軽い脳卒中を起こし、サンフランシスコに緊急搬送された。
彼は米国太平洋艦隊の軍医ジョージ・W・ウッズの治療を受けた。
ウッズ博士の忠告に反して、カラカウアは1月14日に
古代アラビア神秘聖堂貴族修道会(A.A.O.N.M.S.)
で行われる入信式に出席することを主張した。
ヴィン・マリアニの強壮剤を投与された。
彼は、神秘聖堂貴族修道会の護衛に付き添われて儀式に臨んだ。
儀式はすぐに終わり、カラカウアは1時間以内に自分の部屋に戻された。
死の2日前、彼は昏睡状態に陥った。
カラカウアは1891年1月20日火曜日午後2時35分に亡くなった。
カラカウアの死の知らせは、1月29日にチャールストン号が王の遺体を乗せてホノルルに帰還するまでハワイには届いていない。
後継者として指名されたリリウオカラニは、同日、王位に就いた。
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