2019年02月19日

鄭 夢周(チョン・モンジュ) 「東方理学之祖」と称えられた儒学者


 
鄭 夢周(チョン・モンジュ)

 至元3年12月22日(1338年1月13日) - 洪武25年4月4日(1392年4月26日)

 高麗王朝末の儒学者
 慶尚道永川で生まれ。朱子学を学び、科挙に首席で及第したという。

 高麗末の内憂外患の中、女真族出身の将軍で後に王権を簒奪し理氏朝鮮を建国した
   李成桂
らとともに女真や倭寇(前期倭寇)の征伐に参加し、功績を立てた。

 1377年には日本に赴き、室町幕府の九州探題の職にあった
   今川貞世(了俊)
と折衝にあたった。

 1388年、李成桂が対民政策で軍事クーデターを起こし政権を掌握した。
 李成桂が擁立した新王の恭譲王を支えたが、禅譲を受けて李氏朝鮮王朝を開こうとする李成桂と対立したため、李成桂の子・李芳遠の手に掛かり開京の善竹橋で暗殺された。

 なお、鄭夢周は教育にも力を注いで多くの弟子を育成しており「東方理学之祖」と称えられるようになる。
 

    
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趙 光祖 「己卯士禍」で失脚


趙 光祖(ちょう こうそ 조광조、1482年 - 1519年)

 李氏朝鮮時代の16世紀前半の儒学者で高麗王朝の
   鄭夢周
以来の儒学の伝統を受け継ぎ、朝鮮性理学の学問としての端緒を確立した。
 自ら提唱した「道学政治」を実践した改革派の政治家でもある。

 鄭夢周は対明政策における対立から、李氏朝鮮の建国者となる女真族出身の将軍
   李成桂
が1388年に高麗王朝でクーデター(威化島回軍)を行い、第32代高麗国王である禑王の子の昌王(辛昌)を即位させ、1389年には昌王は正当な王位継承者ではない偽王と主張して殺害し、第34代恭譲王を擁立した際、彼とともに新王の恭譲王を支えた。

 鄭夢周は策謀を巡らして恭譲王から禅譲を受けて李氏朝鮮を開こうと目論んだ李成桂と対立した。
 そのため、李成桂の子・李芳遠の手により開京の善竹橋で暗殺されている。

 1482年(成宗13年)、下級官吏であった趙元綱の子として、漢陽(現在のソウル)に生まれ、李氏朝鮮建国時の功臣趙温の5代孫に当たる。

 16歳の時(1498年頃)、父の任地平安道の魚川に同行し
   戊午士禍
で煕川に流刑となっていた金光弼に出会い、弟子となった。

 1510年(中宗5年)数え29歳の時初めて、科挙の司馬試(進士試)を受験し、状元(首席)で合格して成均館に入学した。 

 官職としては典籍・監察・礼曹佐郎を歴任し、弘文館副提学を経て、ついには大司憲にまで昇進した。

 李氏朝鮮第11代国王・中宗の信任のもとで1515年から1519年までの4年間
   急進的な改革政治
を提言し、勲旧勢力(反正功臣派)に対する本格的な改革を断行した。
 1518年(中宗13年)には司憲府の大司憲と王世子の輔養官を兼任し、改革政治を実践している。

 1519年(中宗14年)、秋、勲旧勢力に対して、「偽勲削除」の問題を提起した。
 ただ、南袞・沈貞らの勲旧派の誣告により、「己卯士禍」で失脚、急進的士林派の首領として投獄され、綾州に配流後、賜死(享年38)となった。 
  

    
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2018年09月09日

隗 囂


隗 囂(かい ごう)

    ? - 33年

 中国の新代から後漢時代初期の武将で政治家

 中国涼州天水郡成紀県(甘粛省静寧県)の出身
 叔父は隗崔、兄は隗義。子は隗恂、隗純。

 隴右に割拠した新末後漢初の群雄のひとり。
 蜀の公孫述と共に後漢を建国した
   光武帝(劉秀)
の統一事業に立ちはだかった人物でもある。
 
 若年時代は州郡で官吏を務めていた。

 新を建国した王莽の下で国師を務めた
   劉歆
に登用され、その属官となった。

 地皇4年(23年)、南陽郡で劉縯が宛を包囲した時に、王莽が赦令を下す使者72人の一人として長安を出発した。
 劉歆が叛乱の露呈によって自殺したため、その後、隗囂は郷里に帰った。


 更始帝(劉玄)が即位して、王莽が敗北したと聞き、叔父の隗崔、兄の隗義が、上邽の
   楊廣
や冀県の
   周宗
と共謀してこれに呼応し、兵を起こそうとした。

 こうした動きに対して、隗囂は「兵は凶事」として諫止したものの叔父の隗崔らは聞き入れず、平襄を攻撃して鎮戎の大尹(天水郡の太守)を討ち取った。

 その後、隗囂の声望が高く、また経書を良く読むことから、隗崔と楊廣はこれを
   上将軍
として推戴したものの、隗囂は辞退を繰り返した。
 その後、隗囂も要請に折れ、これを受諾している。


 頭領となった隗囂は、平陵(右扶風)出身の
   方望
を軍師として招聘した。
 方望は、人望を集めるため、漢室復興の大義を示すため
   「神道設教」
を行うことを進言した。

 隗囂もこれを容れて邑に東面して廟を建て、高祖(劉邦)、太宗(文帝)、世宗(武帝)を祀るなどした。
 これに伴い、隗囂は元号を漢復に改め、漢復1年(23年)7月付で漢室復興の檄を各郡国に発した。

 隗囂の下に兵士が参集し10万の大軍をもって周辺地域へ出撃した。
 雍州牧陳慶、安定大尹王向(王莽の従弟王譚の子)を攻め滅ぼした。

 同年9月に王莽が滅亡した頃には、隴西、武都、金城、武威、張掖、酒泉、敦煌の各郡が、隗囂の支配地域になった。
 

 漢復2年(24年)、長安の更始帝から隗囂、隗崔、隗義を招聘する使者が派遣された。
 方望の諫止を聞かずに、隗囂らは長安へ向かった。

 方望は、手紙を残して隗囂から去った。


 長安入りした隗囂は、更始帝から右将軍に任命された。
 同年冬、農民反乱軍
   赤眉軍
が関中に入ると隗崔と隗義が反逆して故郷に戻ろうとした。

 このため、隗囂は自ら更始帝にこのことを告げ、隗崔と隗義は誅殺された。

 一方、隗囂は更始帝からその忠義を賞賛され、御史大夫に任命されている。


 更始3年(25年)、赤眉軍が西へ向けて進軍し
   光武帝
が即位したと聞いた隗囂は、政事を劉氏の元老格である国三老
   劉良
に委ねるよう更始帝に進言したが、聞き入れられなかった。

 まもなく、衛尉大将軍張卬らが、更始帝を脅かして荊州に戻ろうと画策。
 隗囂もこの謀議に加わった。

 謀議が露見し更始帝の命を受けた執金吾
   ケ曄
に隗囂の屋敷が囲まれたものの、辛うじて長安を脱出した。

 天水へ帰還すると、隗囂は西州上将軍を自称した。
 同年9月に更始政権が滅亡すると、三輔の多くの士大夫は隗囂を頼って来た。

 隗囂の下には、谷恭、范逡、王元、王遵などの多くの名士が参集した。
 隗囂は、河西に割拠していた竇融らにも将軍印を授与し、これを傘下に加えた。
  

 建武2年(26年)、漢の大司徒ケ禹の部将
   馮愔
がケ禹に反逆し、天水へ向ったため、隗囂はこれを高平(安定郡)で撃破した。

 これによりケ禹は、隗囂に符節を与え、西州大将軍に任命したうえ、涼州、朔方郡の事務について専権を授与した。長安を占領していた赤眉軍が西進してくると、隗囂は部将の楊廣を派遣してこれを撃破した。


 建武3年(27年)、隗囂が光武帝に書簡を奉呈した。

 光武帝は、隗囂を字で呼び、対等の国君に対する儀礼をもって応じるという破格の厚遇で、これに報いた。


 同年、蜀の
   公孫述
の支援を受けた呂鮪が三輔へ進攻してきた。

 隗囂は征西大将軍馮異と協力して呂鮪を撃破し、光武帝から更なる礼遇が加えられた。

 公孫述は隗囂に大司空扶安王の印綬を授けてこれを取り込もうとした。
 隗囂はその使者を斬り、公孫述の軍を度々撃破した。


 光武帝が蜀攻略を隗囂に持ちかけると、隗囂の態度は消極的であった。

 本心では隗囂は天下統一を望まず、光武帝と公孫述の両雄を並存させたうえ
   漁夫の利
を得ることを願っていた。

 光武帝もその意図を見抜いたため、次第に隗囂を冷遇し、対等の国君の礼から、通常の君臣の礼へと格下げした。


 隗囂と仲が良かった来歙、馬援から来朝の呼びかけもあり、子の
   隗恂
を人質として光武帝の下に送った。

 隗囂は腹心である王元などの勧めもあり、次第に自立の動きを模索するようになった。
  

 建武6年(30年)、公孫述が荊州南郡へ進攻したため、光武帝は隗囂に蜀進攻を命じた。

 この命令に対して、隗囂は様々な理由をあげてこれを受け容れなかった。


 光武帝は隗囂に
   示威行動
で臨み、自ら長安に移り、建威大将軍
   耿弇
ら7人の将軍に隴西経由による蜀侵攻を行わせた。

 こうした戦略への参加に対しても、隗囂は光武帝からの蜀征伐参加の要請を拒絶した。
 光武帝に叛旗を翻して、緒戦は隗囂が耿弇らを撃退したが、続く部将の
   王元、行巡
による三輔攻撃は失敗に終わった。


 隗囂と光武帝の最後の和平交渉が決裂したのちに、隗囂は公孫述に服従の使者を送った。

 翌建武7年(31年)、朔寧王に封じられている。

 一方で、光武帝への傾斜を強めていた河西の
   竇融
らは、隗囂から授与されていた将軍印を破棄して、隗囂陣営から離脱した。
 

 馬援・来歙が、隗囂軍を次々と切り崩した。
 政略によって隗囂の腹心
   王遵
や第一城(安定郡高平県)を守備する
   高峻
らを引き抜いた。

 また、建武8年(32年)春に略陽(天水郡)を奇襲攻撃して占領した。

 そして、光武帝が親征すると、河西の竇融、梁統らが軍を率いてこれに合流した。
 王遵が元の同僚の
   牛邯
を投降させたのちには、隗囂配下の13人の大将、16県、10数万人の兵士が尽く投降した。


 隗囂は光武帝の降伏勧告を拒否したため、故に人質となっていた隗恂を光武帝が処刑したため、徹底抗戦した。

 その後は、呉漢、岑彭、耿弇ら漢軍に攻められ、隗囂は西城(隴西郡)に追い込まれ、包囲された。

 3ヶ月籠城戦に耐え、王元が引き連れてきた公孫述の救援軍の製円を受け、隗囂は包囲を脱し冀県へ退却した。

 さらに、漢軍が兵糧不足から退却したことで、安定、北地、天水、隴西の各郡も一応、再び隗囂に帰順した。


 建武9年(33年)春、隗囂は病の上に飢えて、城外で乾燥食糧を食すると、憤怒の余り死去したとされる。

 その後も、王元らが隗囂の遺児
   隗純
を擁立して抗戦したが、翌建武10年(34年)、落門聚(天水郡冀県)で来歙らに破れ、隗純らは漢に降伏した。
 なお、王元は蜀の公孫述の下へ逃亡した。

 建武18年(42年)、隗純は賓客と漢を逃亡し、胡族と結び、武威郡に至ったが、追撃兵に捕縛され処刑されている。
  
  
 
    
    
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2018年09月04日

陰 麗華(いん れいか) 中国史上でも優れた皇后の一人


陰 麗華(いん れいか)

     5年 - 64年

 後漢の光武帝(劉秀)の皇后で明帝の母
 光烈皇后とも呼ばれる。

 異母兄に管中の末裔でもある陰識、同母弟に陰興、陰訢、陰就がいる。

 劉秀と同じ南陽郡(今の河南省と湖北省にまたがる)の新野県出身の豪族陰氏の娘。
 近隣でも評判の美女として、挙兵前の光武帝もあこがれていたといわれる。

 更始1年(23年)に劉秀に嫁いだ。

 建武1年(25年)に劉秀が即位すると貴人として洛陽に迎えられた。
 ただ、、光武帝が後に娶った郭昌の娘の
   郭聖通(郭貴人)
が先に男子の劉彊を産んでいた。

 光武帝は陰貴人を皇后に擁立したいと思っていたが、陰麗華は男子を産んでいないことを理由に断った。

 建武2年(26年)に劉彊は皇太子になたうえ、郭貴人が皇后に立てられた。

 建武4年(28年)に陰麗華は劉荘(2代目皇帝明帝)を産んだ。

 建武17年(41年)になると郭皇后がの自分勝手な性格から、光武帝に疎まれ、皇后を廃された。
 その後、陰麗華は皇后に、建武19年(43年)に劉荘は皇太子に立てられた。


 建武中元2年(57年)に光武帝が亡くなると、劉荘が即位したうえ陰麗華は皇太后となる。
 なお、陰麗華の生活は、皇后になってからも質素であった。

 また、親族が権力を握ることでトラブルが広がることがない様に政治に関与させないようにした聡明な女性であった。


 このため、明帝皇后の
   馬皇后
と並んで、中国史上でも優れた皇后の一人として称えられる。
 
  
  

  

   
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2018年09月03日

孺子 嬰(じゅし えい) 前漢最後の皇太子


孺子 嬰(じゅし えい)

   元始5年(5年)−更始3年(25年)

 前漢最後の皇太子で本名は劉嬰

 摂皇帝
   王莽
の傀儡として皇太子の位のままで、帝位には即けなかった。
 ただ、一般には「前漢最後の皇帝」として歴代に名を連ねる。
 

 元始5年(5年)12月に平帝が崩御すると、翌居摂元年(6年)3月に「摂皇帝」となっていた王莽により劉嬰が数え2つで皇太子に立てられ「孺子(意味 こども)」と号し、表向きには成人後に即位することが予定されていた。

  
 ただ、王莽がまだ幼児の皇太子に変わる
   「摂皇帝」
の地位を確保し、朝政の万機を総覧するための方便でもあった。

 居摂3年(8年)、王莽は劉嬰の摂政としての役割である「摂皇帝」の号を「仮皇帝」と改めた。
 同年、王莽は
   高祖(劉邦)の霊
により禅譲を受けたとして皇帝に即位、「新」を建国とすると、劉嬰を新の諸侯として定安侯に封じた。

 ただ、その新も経済政策の失敗や遠征軍の敗退などで国民の不満が爆発しあっけなく反乱が広がり崩壊し、新末後漢初の内乱時代に入った。こ

 の時期、隴右に割拠していた隗囂の軍師である
   方望
は、常日頃から漢朝復興を目指して活動していた。

 更始3年(25年)1月、方望は弓林という人物を同志として誘った上で、定安侯劉嬰を長安から探し出し皇帝の地位につけた。

 劉嬰、方望らは兵卒数千人を率いて安定郡臨(現在の甘粛省鎮原県)に入城した。
 ここで劉嬰は方望を丞相、弓林を大司馬にそれぞれ任命した。

 こうして地方政権ながらも、劉嬰はついに皇帝となった。
  

 王莽を滅ぼして長安を拠点としていた
   更始帝(劉玄)
は、同様に漢の皇帝を称する劉嬰の存在を許さなかった。

 更始帝は配下の将軍である李松・蘇茂・劉祉らに劉嬰討伐を命じ、この戦いに敗れ僅かの期間の内に劉嬰・方望・弓林は戦死した。
 劉嬰、享年21だった。
  



 
  
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2018年08月01日

前漢 劉邦が建国


 前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)

 中国の古代王朝で始皇帝が建国した秦が滅亡した後
   楚漢戦争(項羽との争い)
に勝利した劉邦によって長安を都と定め、建国した。
 
 楚漢戦争(そかんせんそう)は、中国で紀元前206年から紀元前202年にわたり、秦王朝滅亡後の政権をめぐり、西楚の覇王項羽と漢王劉邦との間で繰り広げられた戦争のこと。

 秦滅亡後、項羽は根拠地である彭城(現在の江蘇省徐州市)に戻った。
 自ら西楚の覇王を名乗ったうえ、圧倒的な軍事力を背景に政治上の主導権を握った。
 項羽は、紀元前207年、諸侯を対象に大規模な封建を行い権力を固めた。

   
 
 

     
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2018年07月08日

ダニエル・パイプス(Daniel Pipes) 中東イスラーム研究者でネオコン



ダニエル・パイプス(Daniel Pipes)
        (1949年9月9日 - )

 米国マサチューセッツ州ボストンでユダヤ系ポーランド人の家庭に生まれた。
 中東イスラーム研究者、政治評論家。

 中東フォーラム(en:Middle East Forum)およびキャンパス・ウォッチの創設者
 雑誌『ミドル・イースト・クォータリー』編集委員


   
   

 父親はロシア研究者のリチャード・パイプス。

 ハーバード大学に進学し、当初数学を専攻していたが、歴史学に関心を移してアラビア語と中東史を学んだ。
 大学卒業後、2年間カイロに渡り、コーランの研究を進めた。

 帰国後、ハーバード大学大学院に進学し、1978年に中世イスラム史の研究で博士号を取得した後、エジプトなどで在外研究を行う間に、研究対象を現代の中東研究に移した。

 シカゴ大学(1978年-1982年)、ハーバード大学(1983年-1984年)、アメリカ海軍大学(1984年-1986年)で教鞭をとった。

 1983年には米国務省政策企画室スタッフとして勤務した。

 1986年からアカデミズムの世界を離れて、1993年まで
   外交政策研究所(Foreign Policy Research Institute)
の所長を務めた。

 その後、1990年に中東フォーラム、2002年にはキャンパス・ウォッチを設立した。
 しばしばネオコンであると指摘され、本人も「他人が自分をそう見るのであれば自分もその一人なのだろう」とそれを認めている。


 
  


     
    
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2018年03月22日

ジョン・ロバート・ボルトン 元米国国連大使


ジョン・ロバート・ボルトン
     (John Robert Bolton)

    1948年11月20日 生まれ

 米国の政治家で外交官。
 元米国国連大使。

 メリーランド州ボルチモア生まれ。1970年にイェール大学を最優等(summa cum laude)で卒業した。
 1974年同大学イェール・ロー・スクール修了(法務博士 J.D.)。

 タカ派で、アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)などへの関与から
   ネオコン
の代表的な人物とみなされることが多い。

 ただ、ボルトン自身は高校時代からユダヤ系の
   バリー・ゴールドウォーター
の選挙運動に参加するなど生粋の保守派で、左翼からの転向者を意味する「ネオコン」と呼ばれることを嫌っている。


   
  

 また、ワシントンにおいてボルトンの後ろ盾となってきたのも、キッシンジャーなど、いわゆる共和党保守本流に属する人物が多い。
 親イスラエル派、また「ブルーチーム」と呼ばれる親中華民国(親台派)の代表的人物と見なされている。


  
 
 

   
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