2017年07月08日

李 如柏(り じょはく) 明末期の武将で李如松の弟



李 如柏(り じょはく)
    1553年 - 1620年


 明末期の武将で李成梁の息子で李如松の弟。

 碧蹄館の戦いでは劣勢ながらも緒戦で日本軍と渡り合うなど、文禄・慶長の役で活躍したとされる。

 1619年、満州族の出身であるヌルハチ(清朝 初代)率いる後金軍の討伐のため明・朝鮮連合軍の将として
   サルフの戦い
に参加した。

 兵力・装備で優勢であったにもかかわらず明の諸将を討ち取られ、さらに朝鮮軍が捕虜になるなどの惨敗を喫したため、自決した。



 

   
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2017年07月06日

李 如松(り じょしょう) 明代の武将


李 如松(り じょしょう)
    1549年(嘉靖28年) - 1598年(万暦26年)

 明代の武将で遼東鉄嶺衛の出身で朝鮮からの帰化人。

 明の武将として遼東安定に多大な功のあった李成梁の長子にあたる。
 
 万暦2年(1574年)に鉄嶺衛都指揮同知を父より世襲した。
 万暦8年(1580年)には寧遠伯を一ヶ月遅れで世襲した。
 万暦12年(1584年)に山西総兵、翌万暦13年(1575年)に京城巡捕都督僉事、万暦16年(1578年)に宣府総兵を歴任した。

 万暦20年(1592年)寧夏で起きた、副総兵の
   ボハイ(哱拜)による反乱
の鎮圧でも戦功を認められた。

 その直後に始まった文禄・慶長の役では防海禦倭総兵官として、朝鮮への援軍を率いた。

 朝鮮に入ると、万暦21年(1593年、文禄2年)1月に平壌城に拠る
   小西行長
の軍勢を急襲して落城寸前まで追い込み、包囲を一部解いて自主撤退を勧告して平壌の支配権を回復した。

 更に李如松は撤退する小西軍を約束を破って追撃したものの漢城へ進撃する途上での
   碧蹄館の戦い
で小早川隆景、立花宗茂らの軍勢に迎撃されて大敗し、平壌に撤退した。

 その後は、軍事的な劣勢を悟ったのか積極的な攻勢に出ることはなく、和議による事態収拾を図った。

 9月には朝鮮軍務経略の宋応昌と共に李如松も帰国した。
 後の「慶長の役」には参戦していない。

 万暦25年(1597年)に東西虜10万により
   遼東静遠堡
などが一週間に渡って侵略を受けた。

 鎮守遼東総兵官として王保の後任として着任し、太子太保を加えられた。

 ただ、翌万暦26年(1598年)4月に李如松は城外で伏兵に遭って戦死した。

 
 李氏朝鮮時代の支配層は、李如松の功績に対して頌徳碑を建て、生祠堂を作ろうとまでした。
 このほかに、平壌に武列祠を作り、肖像画を掲げて春秋には祭祀を執り行い、1599年には宣武祠を建て、宣祖は「再造之恩」という額を掲げて、滅んだ国を蘇らせた恩人として崇めた。

 李如松を救国の恩人と美化しているのは官製の記録に限られ、大衆の説話ではあくどい面が浮き彫りにされている。

 大衆の説話では李如松のあくどい面が浮き彫りにされている。
 李如松は平壌城の戦闘で李如松が指揮した明軍の戦果とする日本軍将兵として切り落とされた頭の半数は、朝鮮の民衆であった。
 李如松が平壌城を攻撃した際に、日本軍に協力した朝鮮の民衆の頭を切り落とし処刑した後、前髪を刈り取り日本軍の頭に偽装して戦果をごまかした。

 この行為は明軍でも問題視され、山東都御使周維翰は、調査官を送り、網目の帯状頭巾の跡がある朝鮮人の頭と前髪を刈り取った日本軍の頭を識別する作業を行い、責任を追及した。

 ただ、当時の李氏朝鮮は高麗王朝を亡ぼした女真族の将軍李成形の王朝では
   両班(ヤンパン)
を最上位とする強固な身分制社会で、全人口の五割は奴婢身分だったと言われている。

 「宣祖実録」によると、日本軍が侵攻してきたのを好機と捉え、朝鮮の民衆は抑圧し搾取する李氏朝鮮王朝を見限り、日本軍に協力する者が続出した。

 「宣祖実録」は宣祖帝の時代の出来事の李氏朝鮮国の公式記録だ。
 このなかで、宣祖帝が漢城を脱出するところの記述で日本軍が漢城に進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかった。
 また、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたという。

 女真族の王朝である李氏朝鮮の支配階級を追撃する日本軍は解放軍であり、支援する高麗王朝ゆかりのものも多く含まれ、朝鮮の民衆が半分近くの勢力があったという。

 韓国の教科書にこの時の日本軍侵略の為に文化財の被害も大きかったとの記述がある。
 景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した」と書かれているが、史実は朝鮮の民が景福宮等に火をつけたものであり、秀吉の軍隊が漢城に入る前には既にそれらの建物は焼け落ちていた。

 多くの朝鮮の民衆が国王に対し、国民のことを顧みずもっぱら後宮を富ませたと罵声をとばし、石を投げたという記録もある。

 日本軍は、朝鮮軍からの抵抗を全く受けることなく北進を続け、6月15日には平壌が陥落した。

 日本軍より先に漢城から平壌に逃亡した宣祖王は、平壌に日本軍が迫ると再び逃亡した。
 生口を朝貢して支援を受ける下地を作ってきた冊封に基づいて明国に救援を要請。

 小西行長らの一番隊は進撃速度が計画より大幅に早く、兵站線が維持できない状況にあったことから、和平交渉を模索して平壌で北進を停止した。  

 李如の平壌城攻撃では日本軍に協力的な朝鮮人1万人を焼死・水死させ虐殺したという記録が『宣祖実録』に出ており、1950年7月に起きた駐留米軍による韓国民間人500人の虐殺事件「老斤里事件」を大きく凌ぐ虐殺を李如松は行った。

 歴史を歪曲して真実を伝えない国の体制は問題だろう。



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2017年07月01日

李 成梁 明朝時代後期の武官


李 成梁(り せいりょう)
     1526年 - 1615年

 中国明朝時代後期の武官で遼東総兵として遼東一帯を統括し、女真族の反乱や暴動などを起こさないように治安を維持する任にあたった

 モンゴル帝国の支配時代から明王朝の成立にかけて、朝鮮から移民した
   李英
の子孫である。

 李成梁の一族は遼東鉄嶺衛(遼寧省鉄嶺)の指揮僉事の職を代々世襲していた。
 隆慶4年(1570年)に遼東総兵となり、満洲の松花江一帯から外興安嶺以南の外満州にかけて居住していた女真族が侵攻し略奪するなど行為に対する防御に当たることとなった。

 女真族が建州女直・海西女直などに分かれ明との交易権を巡って争うようになっていた。
 李成梁は軍備を拡充しつつ、こうした反目に付け込み、内部分裂を図ることで抵抗勢力の軍事力を低下させ、遼東の安定に多大な功績を上げた。

 なお、この時期、李成梁の後援を得て女真族のなかで勢力の拡大に成功したのが、後の清の太祖ヌルハチである。

 李成梁は、長年にわたって遼東を統括し、地方の実力者として私兵を養い割拠した。
 一方で明朝の役人としては軍費の流用などの汚職や専断が多く、万暦19年(1591年)に弾劾されて失職した。

 ただ、当時能力が優れていたため、治安情勢の悪化により一旦は復職したものの、万暦36年(1608年)に再度罷免されている。

 息子に文禄・慶長の役で日本軍と戦った李如松、サルフの戦いに参加した李如柏らがいる。


 
 

   
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2017年05月23日

マイケル・トーマス・フリン トランプ政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官

   
マイケル・トーマス・フリン
   (Michael Thomas Flynn)
              1958年12月 ―

 米国陸軍の元中将でイラク戦争やアフガニスタン戦争に従軍している。
 軍事分野の外交アドバイザー
 2012年から2014年までオバマ政権内において国防情報局長官を務めた。
  

   
  

 ロードアイランド州ミドルタウンで、銀行家の
   チャールズ・フランシス・フリン
と不動産業の
   ヘレン・フランシス
の子として生まれ、1981年にロードアイランド大学経営学部で理学士を取得した。
 予備役将校訓練課程(ROTC)を修了、1981年にアメリカ陸軍に入隊した。

 陸軍では情報畑を歩んだという。

 フリン氏はイスラム教について
   「悪性のガンである」
などと発言するなど米国メディアから「宗教差別」であると非難されてきた。

 2016年より大統領選挙に立候補していた
   ドナルド・トランプ氏
の軍事顧問として雇われ、選挙戦でトランプ氏に助言してきた。

 一方、世界中の顧客を相手にしたコンサルティング業も行っており、トルコの
   レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領
とも強いつながりを持つ人物も顧客に含まれている。

 2016年7月にはネオコンの
   マイケル・リーディン
と「The Field of Fight: How We Can Win the Global War Against Radical Islam and Its Allies」という本を出版した。

 イスラム過激派とイランや北朝鮮など反米反イスラエル国家への強硬姿勢を示した。

 2016年10月11日に来日し、自民党本部で講演、菅義偉官房長官など日本政府要人と会談を行った。


 トランプの選挙勝利後、国防長官や大統領補佐官などに起用されることが検討されていると報道がされたものの、最終的には国家安全保障問題担当大統領補佐官に指名された。

 2017年2月13日、ロシア政府による大統領選挙への介入疑惑が発覚し、トランプ政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官を辞任した。

 補佐官に就任前のフリンがセルゲイ・キスリャク・ロシア連邦駐米大使とロシア制裁問題を話し合ったとされる疑惑は、許可を受けない
   民間人が外交交渉に介入すること
を禁じる法律であるローガン法(Logan Act)に抵触するおそれがあった。 

 米国議会上院情報委員会から関連書類の提出を求められているが提出せず、拒否権行使という名目で召喚も拒否している。


 

    
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2017年05月19日

ロバート・スワン・ミュラー三世  第6代連邦捜査局(FBI)長官


ロバート・スワン・ミュラー三世
     (Robert Swan Mueller III)
       1944年8月7日 -

 米国の法律家、司法官僚

 第6代連邦捜査局(FBI)長官を2001年9月4日-2013年9月4日務めた。

 2017年5月17日に2016年の米国大統領選挙におけるロシアの干渉の捜査のため司法省から
   特別検察官
に任命された。

   
 
 ニューヨークで
   アリス・C(旧姓 トゥルースデール)
   ロバート・スワン・ミュラー
夫妻の間に生まれ、ペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外で育った。

 母方の曾祖父はデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道の社長を務めた
   ウィリアム・トゥルースデール
である。

 祖先はドイツ系、スコットランド系、イングランド系が含まれている。


 ミュラーは1962年にセント・ポールズ・スクールを卒業し、プリンストン大学に進学した。
 その後、ニューヨーク大学で国際関係学を専攻し、1973年にバージニア大学法学大学院で法学博士の学位を取得した。
   

 アメリカ海兵隊に入隊し、3年間にわたり士官を務めた。
 ベトナム戦争では第3海兵師団のライフル小隊を指揮し、ブロンズスターメダル、2つの海軍称揚メダル、パープルハート章、武勇十字章を受章した。
   
 米海軍を退役後はバージニア大学法学大学院で学んだ。
 最終的に法律審査に従事している。

 法学博士の学位を取得した後、ミュラーは1976年までサンフランシスコで弁護士として働いた。


   


   

    
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2017年04月29日

マシュー・バンカー・リッジウェイ 


マシュー・バンカー・リッジウェイ
    (Matthew Bunker Ridgway)

          1895年3月3日−
                 1993年7月26日


 米国陸軍の軍人で
   ダグラス・マッカーサー元帥
の後任として1951年4月より1952年4月まで第2代連合国軍最高司令官 として日本の占領統治に当たった。

 また、朝鮮戦争で窮地に陥った国連軍を救い出したことで有名。
 
 バージニア州フォート・モンローで生まれ、1917年に米陸軍士官学校(ウェストポイント)を卒業し、少尉に任官した。

 卒業後、スペイン語教官として陸軍士官学校に戻った。
 その後、ジョージア州フォート・ベニングの歩兵学校で士官養成課程を修了し、第15歩兵連隊の指揮官となりてニカラグアへ配属された。
 ニカラグアでは1927年の自由選挙の監督を支援した。

 1930年にはフィリピン総督の軍事技術顧問となった。
 その数年後、カンザス州フォート・レヴンワースの指揮幕僚大学に学び、同時期(1930年代中頃)に第6軍団の副参謀長となった。

 その後、第2軍の副参謀長、第4軍の副参謀長を歴任した。

 ジョージ・マーシャル参謀総長はその功績を認め、第二次世界大戦が勃発するとリッジウェイを戦争計画局に配属した。
 

 1942年8月に准将に昇任したのち
   オマー・ブラッドレー
が第28歩兵師団長へ転任したのをうけ、第82空挺師団の師団長となった。

 同師団は軍の二つの空挺師団構想の内の一つとして選ばれた。
 当時空挺師団構想はアメリカ陸軍にとって実験的試みであった。

 リッジウェイは1943年のハスキー作戦を支援した。
 2ヶ月後のジャイアント作戦計画時には副官のマクスウェル・D・テイラーにスパイ活動を行わせ、イタリア軍の無力とドイツ軍が降下地点に展開している事を暴き作戦中止を決断した。

 この情報分析力に基づく判断で師団壊滅の危機を救ったことが、後の出世に繋がったといわれる。

 
 1944年にはオーバーロード作戦での空挺降下計画を支援した。

 ドイツ軍の防衛ラインを突破するノルマンディー上陸作戦時、部下と共にドイツ軍の後方へパラシュート降下し、サン=ソーヴァー=ル=ヴィコントへの進出を目指して33日間の戦闘を経験した。


 1944年9月には上級の第18空挺軍団の指揮を任され、ドイツへの侵攻を指揮した。
 この、一年後彼は中将に昇進している。

 1945年、暫くの間ルソン島で指揮を行い、続いて地中海での連合軍副最高司令官に就任した。
 1940年代末にはカリブ海での米軍の指揮を行い、後に陸軍参謀総長
   J・ロートン・コリンズ
の下で副参謀長に就任した。

 朝鮮戦争中の1950年12月、中華人民共和国の参戦で国連軍が敗走する中、第8軍である米軍の司令官ウォルトン・ウォーカー中将が交通事故死した。

 ウォーカーの後任として第8軍司令官に就任した。

 国連軍総司令官であった
   ダグラス・マッカーサー元帥
は、リッジウェイに、ウォーカーには与えなかった第10軍団(司令官 アーモンド陸軍少将)の指揮権を与えた。

 リッジウェイは第8軍を立て直し、中国人民志願軍の攻勢を押し止め、1951年春から反転攻撃に出た。

 圧倒的多数の中国人民志願軍が南侵を停止し、韓国から38度線の向こうに撃退することができたのはリッジウェイが第8軍を立て直すことができたからだとする意見が多い。

 この期間に、リッジウェイ個人のリーダーシップの例は、基本的な軍事活動における原則について、米陸軍史上でほとんど一致することができなかったリーダーシップの標準として定められることとなった。

 韓国軍には米軍から最新鋭の兵器が供与されていたが、韓国軍がそれらの
   高価な装備品
を中国軍の攻撃において、安易に放棄して後方に逃亡してしまうことがたびたび見られた。

 こうした韓国軍の腰抜けぶりに対しては、リッジウェイが立案する戦略をことごとく潰し続けるものとなり、相当悩ませたようで繰り返し著書「THE KOREAN WAR」においても言及されている。

 韓国軍の信頼性のなさに対して米国軍の占領下にあった日本の領土である竹島を一方的に占領した韓国軍の
   李承晩
は、韓国人兵士を米軍の装備で武装させることが効率的だと繰り返し主張した。

 高性能の武装を与えても敵前逃亡を繰り返した韓国軍はリッジウェイを不快にした。

 なお、リッジウェイは、第一線から全ての韓国師団を引き上げ、訓練する時間が必要であると著書で結論付けている。

 1951年4月にマッカーサー元帥は朝鮮戦争の終結のために原爆を使用すべきだと主張した。
 この作戦がトルーマン大統領と対立したため、最高司令官を解任された。

 リッジウェイがマッカーサーの後任となり、大将に昇進し、朝鮮半島での国連軍の指揮をとった。
 また、連合国軍最高司令官として占領下日本で占領行政を行った。


 重要な任務のひとつとしては、連合国軍最高司令官として、連合国の占領下にあった日本を独立させて西側陣営の一員に加えることであった。

 吉田茂首相との協調によってこの課題を達成し、1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効して日本の占領が解除された。
 
 
 リッジウェイは1952年5月に、
   ドワイト・D・アイゼンハワー
の後任としてNATO軍最高司令官に就任したが、周りのスタッフを自らの部下で固めようとしたため他ヨーロッパ諸国の軍指揮官の反発を受けた。

 そのためコリンズ将軍の後任としてアメリカ陸軍参謀総長に就任するため、1953年に米国に戻った。



 リッジウェイは2年間、陸軍参謀総長の職にあった事で、ベトナム戦争への米軍の介入を遅らせた。

 なお、当時のアイゼンハワー大統領は米軍がフランス軍と合同で介入することに関して(賛成するような)判断を求めたところリッジウェイは介入を行わないよう大統領に述べた。

 リッジウェイがアイゼンハワーと異なっため、第二次世界大戦中に保った良好な関係が壊れる事となり1955年に陸軍を退役した。

 リッジウェイは軍を退いた後はペンシルベニア州ピッツバーグのメロン産業調査研究所の取締役会長を1960年まで務めた。


 
 

   
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2017年04月01日

ラファエル・カレーラ(José Rafael Carrera Turcios) グアテマラの初代大統領


ラファエル・カレーラ(José Rafael Carrera Turcios)
    1814年10月24日 -
            1865年4月14日

 南米グアテマラの政治家で軍人

 1823年から1839年まで中央アメリカに存在した国家中央アメリカ連邦共和国の
   自由主義派
に反発したグアテマラの教会、保守派、農民のリーダーとなり
   フランシスコ・モラサン
が率いたエル・サルバドル派と戦い1838年に勝利した。

 内戦の間にグアテマラにおける独裁体制を築き1839年に独立国となった。
 グアテマラの初代大統領に就任し強力な保守統治を行うとともに1854年には終身大統領になった。

 インディヘナに対しては共有地の保護などの優れた政策を行った。
 また、1856年のウィリアム・ウォーカーとの戦争の際には他国と同調して中米連合軍の一員に加えた。1865年に病死し以後、グアテマラでの保守派の支配が終焉にむかった。


 
 

    

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2017年03月01日

末代(まつだい) 富士信仰に深く関わる人物


末代(まつだい)
   1103年(康和5年)〜?


 富士信仰に深く関わる人物として知られる平安時代の僧で
   村山修験の祖
で富士上人とも呼ばれ、名は有鑑。

 駿河国の出身。

 鎌倉中期以前に記述された「浅間大菩薩縁起」では、垂髪(稚児)の時代から走湯山(伊豆山神社の前身)に入って苦行を重ね、各地の霊山を巡歴したとの記録がある。

 また、1268年(文永5年8月)「実相寺衆徒愁状」では、実相寺開山の
   智印(阿弥陀上人)
の弟子とされている。
    
 富士開山以前は伊豆山・箱根山を本拠とし、温泉の噴出によって地獄の景観を呈していた
   熱海の亡霊
を救うために山岳信仰の行場として松葉仙人が開基したと伝わる真言宗の古寺日金山の地蔵堂を開いた。

 「浅間大菩薩縁起」によると、1132年(長承元年4月19日)同志の
   頼然
とともに富士山の登頂に成功した。

 頂上で過去に登頂した金時上人・覧薩上人・日代上人らの遺品を発見した。
 4度目の登頂の際には仏具と不動明王を刻んだ鏡を山頂に奉納した。

 「本朝世紀」によれば、1149年(久安5年4月16日)末代上人が富士山頂に大日寺を建立したとある。

 富士山に数百度と登った修行僧との記録がある。


 末代上人の勧進によって、白山の宝殿に鰐口や錫杖を奉納し、白山信仰と積極的に関わったという。

 1149年(久安5年5月13日)には、鳥羽上皇以下の朝廷貴顕に大般若経の書写を勧め、富士山頂に奉納したとされ、その名は中央まで達していた。
  

 1399年(応永6年6月25日)の寺領知行地注文」によると、村山の地は中世には走湯山領であった。
 伊豆と富士の修験が一体となって村山口登山道を管理していたことが示されている。

 末代が富士登頂の際にベースキャンプとした富士山中腹の木立堺(森林限界)には滝本往生寺(中宮大日)が建立された。

 また、末代が浅間大菩薩の示現を受けた岩屋不動という霊地があった。

 末代の登頂を記録した『浅間大菩薩縁起』は、滝本往生寺に伝えられていたもの。

 1930年(昭和5年)富士山頂コノシロ池付近の岩陰から多量の埋納経の残骸が発見された。
 その中に「末代聖人」と記された紙片が発見されている。


   
  
  


     
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