2017年04月01日

ラファエル・カレーラ(José Rafael Carrera Turcios) グアテマラの初代大統領


ラファエル・カレーラ(José Rafael Carrera Turcios)
    1814年10月24日 -
            1865年4月14日

 南米グアテマラの政治家で軍人

 1823年から1839年まで中央アメリカに存在した国家中央アメリカ連邦共和国の
   自由主義派
に反発したグアテマラの教会、保守派、農民のリーダーとなり
   フランシスコ・モラサン
が率いたエル・サルバドル派と戦い1838年に勝利した。

 内戦の間にグアテマラにおける独裁体制を築き1839年に独立国となった。
 グアテマラの初代大統領に就任し強力な保守統治を行うとともに1854年には終身大統領になった。

 インディヘナに対しては共有地の保護などの優れた政策を行った。
 また、1856年のウィリアム・ウォーカーとの戦争の際には他国と同調して中米連合軍の一員に加えた。1865年に病死し以後、グアテマラでの保守派の支配が終焉にむかった。


 
 

    

  
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2017年03月01日

末代(まつだい) 末代(まつだい)


末代(まつだい)
   1103年(康和5年)〜?


 富士信仰に深く関わる人物として知られる平安時代の僧で
   村山修験の祖
で富士上人とも呼ばれ、名は有鑑。

 駿河国の出身。

 鎌倉中期以前に記述された「浅間大菩薩縁起」では、垂髪(稚児)の時代から走湯山(伊豆山神社の前身)に入って苦行を重ね、各地の霊山を巡歴したとの記録がある。

 また、1268年(文永5年8月)「実相寺衆徒愁状」では、実相寺開山の
   智印(阿弥陀上人)
の弟子とされている。
    
 富士開山以前は伊豆山・箱根山を本拠とし、温泉の噴出によって地獄の景観を呈していた
   熱海の亡霊
を救うために山岳信仰の行場として松葉仙人が開基したと伝わる真言宗の古寺日金山の地蔵堂を開いた。

 「浅間大菩薩縁起」によると、1132年(長承元年4月19日)同志の
   頼然
とともに富士山の登頂に成功した。

 頂上で過去に登頂した金時上人・覧薩上人・日代上人らの遺品を発見した。
 4度目の登頂の際には仏具と不動明王を刻んだ鏡を山頂に奉納した。

 「本朝世紀」によれば、1149年(久安5年4月16日)末代上人が富士山頂に大日寺を建立したとある。

 富士山に数百度と登った修行僧との記録がある。


 末代上人の勧進によって、白山の宝殿に鰐口や錫杖を奉納し、白山信仰と積極的に関わったという。

 1149年(久安5年5月13日)には、鳥羽上皇以下の朝廷貴顕に大般若経の書写を勧め、富士山頂に奉納したとされ、その名は中央まで達していた。
  

 1399年(応永6年6月25日)の寺領知行地注文」によると、村山の地は中世には走湯山領であった。
 伊豆と富士の修験が一体となって村山口登山道を管理していたことが示されている。

 末代が富士登頂の際にベースキャンプとした富士山中腹の木立堺(森林限界)には滝本往生寺(中宮大日)が建立された。

 また、末代が浅間大菩薩の示現を受けた岩屋不動という霊地があった。

 末代の登頂を記録した『浅間大菩薩縁起』は、滝本往生寺に伝えられていたもの。

 1930年(昭和5年)富士山頂コノシロ池付近の岩陰から多量の埋納経の残骸が発見された。
 その中に「末代聖人」と記された紙片が発見されている。


   
  
  


     
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2017年02月28日

法道(ほうどう) インドの仙人


法道(ほうどう)

 インドの仙人で鉄の宝鉢を持っていたことから
   空鉢(くはつ)
   空鉢仙人(からはちせんにん)
とも呼ばれる。

 6-7世紀頃、中国・朝鮮半島を経由して、日本へきたとされている。
  
 播磨国一帯の山岳などに開山・開基として名を遺しており、数多くの勅願寺を含む所縁の寺がみられる。

 また、日本に渡るときに
   牛頭天王
と共に渡ったとされる。

 その牛頭天王は姫路市にある
   広峰神社
に祭られ、その後現在は八坂神社中の座に祭られた。

 法道仙人が六甲山雲ヶ岩(紫雲賀岩)で修業中、紫雲に乗って出現した
   毘沙門天
を感得している。

 雲ヶ岩、六甲比命大善神、心経岩を奥ノ院とする吉祥院多聞寺(神戸市北区唐櫃)を創建した。
 関東でも鉢山町や神泉町など地名が法道の由来とされている。


 

    
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2017年02月07日

アントン・ドレクスラー(Anton Drexler) ドイツ労働者党の共同設立者のひとり


アントン・ドレクスラー
     (Anton Drexler)
   
      1884年6月13日−
            1942年2月24日

 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の前身である
   ドイツ労働者党
の共同設立者のひとり。
 
 鉄道労働者の息子としてミュンヘンに生まれ、国民学校卒業後、1901年にベルリンに上京したものの、失業して帰郷している。
 1902年から機械工として働き始め、この頃には既に反ユダヤ主義、反マルクス主義的な思想を持つようになっていた。

 第一次世界大戦(1914年(大正3年)から1918年(大正7年))中にはドイツ主戦派の大衆組織
   ドイツ祖国党
に参加した。

 1918年3月には職場だったバイエルン王国王立鉄道中央工場の同僚と共に
   「良き和平のための自由労働者委員会」
を組織した。

 また、ヴァイマル共和政ドイツのジャーナリストで政治活動家の
   カール・ハラー
と共に保守系右派民族主義団体「政治的労働者のサークル」を設立。

 ドレクスラーの思想的指導者は、「全ドイツ人同盟」の指導者
   パウル・ターフェル
でニュルンベルク・アウクスブルク機械工場経営者・バイエルン産業家連盟の代表役員だ。
 
 敗戦後の1919年1月5日
   「ターフェルの慫慂」
によりディートリヒ・エッカート、ゴットフリート・フェーダー、ハラーと共にドイツ労働者党(DAP)を設立。

 同月に国際プロレタリアの挫折と兄弟思想の失敗」と題する論文を発表いた。
 続けて「我が政治的目覚め」と題するパンフレットを発表した。

 なお、このパンフレットが当時復員してミュンヘンにいた
   アドルフ・ヒトラー
に影響を与えたという。

 1919年9月にミュンヘンで集会を開催した。
 その際に演説したバウマン教授を論破したヒトラーを見て興味を抱いた。

 ドレクスラーはヒトラーに党のパンフレットを渡し、入党を促した。
 ヒトラーはドレクスラーの求めに応じて同月12日に入党した。

 1920年2月24日、ドレクスラーはヒトラーをホフブロイハウスで開催する党大会に参加させた。
 大会においてヒトラー主導の下で25カ条綱領が発表され、党名を
   国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)
と改名した。
 
 党名改称後、党内ではヒトラーが頭角を現し、1921年に入るとヒトラーの勢力は盤石になった。

 これに危機感を覚えたドレクスラーは、6月にヒトラーがベルリンに出かけている間に無断で他の右翼政党との共闘や合併を協議し始めた。

 ドレクスラーの裏切り行為を知ったヒトラーは7月11日に離党を宣言した。
 ただ、党幹部は党の顔であるヒトラーの離党が党消滅に繋がることを危惧し、引き留めに躍起となった。

 3日後、ヒトラーは党への復帰の条件として自分に独裁権を与えるように書面で要求した。
 党幹部はこの要求を認めたため、ヒトラーは復党した。


 ドレクスラーは7月25日にミュンヘン警察にヒトラーを危険人物であると密告した。
 しかし、取り合ってもらえず7月29日、554票中553票を得てヒトラーは新党首に選出された。
 ドレクスラーは名誉党首に祭り上げられ、党での実権を失った。

 1923年11月の
   ミュンヘン一揆
の際、自宅にいたドレクスラーはヒトラーに呼び出されて計画を聞いたが、恐れて参加しなかった。
 しかし、一揆の失敗後に警察に逮捕された。

 この事件によりナチ党が一時解散を強いられた。
 ドレクスラーは党を離れて
   「民族ブロック」
に参加し、1924年から1928年にかけてにバイエルン州議会議員を務めた。

 なお、この間の1925年には民族社会主義人民同盟を設立した。

 同年ナチ党が再建されたがドレクスラーは加わらず、復党したのはヒトラー内閣成立後の1933年になる。

 1934年には党創設者としてヒトラーから1923年11月9日記念メダルを授与された。

 しかし、以後も政治権力は与えられず、彼の存在は1937年まで党の宣伝のために利用された。

 ドレクスラー自身は、この勲章授与に感激し、以後熱烈なヒトラー支持者となった。
 その後、彼はミュンヘンに隠棲し、第二次世界大戦中の1942年に同地で死去した


 
 

   
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2017年01月25日

李 子春(り ししゅん/イ・ジャチュン) 李氏朝鮮を創建した李成桂の父親


李 子春(り ししゅん/イ・ジャチュン)
    
      1315年 - 1360年

 高麗末期の女真族の武臣でモンゴル名は
   吾魯思不花(ウルスブハ)
という。

 李氏朝鮮を創建した李成桂の父親
 
 高麗を東北方面からおさえる元朝の拠点の咸鏡道の
   双城総管府
において千戸(千人隊長)の役職についていた。

 高麗王朝第31代の
   恭愍王
が反元政策のもと、総管府を攻略した。

 このとき、李子春はただちに高麗に投降した。

 正室の懿恵王后は、中国山東半島登州人の崔氏で、咸鏡道に移住して暮らしていた。
 もともとの姓は趙であり、懿恵王后の父の名前は趙祚(조조)だった。

 ただ、元朝の役職千戸(千人隊長)任命されたことから
   崔閑奇
に改名して、その崔閑奇の娘が懿恵王后となる。

 そして、李子春と懿恵王后崔氏のあいだに生まれた子が李氏朝鮮の初代王李成桂。

 祖母の本貫は登州[であり、登州で戸長を務めていた
   崔基烈
の娘貞淑王后崔氏である。

 死後、王として即位した李成桂によって桓王、孫の3代国王朝鮮王によって桓祖淵武聖桓大王と追尊された。
 
   
 
 

    
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2017年01月22日

ジェームズ・N・マティス(James N. Mattis) 異名は「戦う修道士」「狂犬」


ジェームズ・N・マティス
      (James N. Mattis)

     1950年9月8日−


 米国海兵隊の軍人で最終階級は大将。
  
 2017年1月に発足した
   ドナルド・トランプ政権
で第26代国防長官に就任した。

 異名は「戦う修道士」「狂犬」

 
 ワシントン州プルマン生まれ、セントラル・ワシントン大学を卒業後、1972年1月1日付で
   海兵隊少尉
に任官、その後中尉に昇任し、第3海兵師団のライフル小隊長、武器小隊長を務めた。

 大尉に昇任後は第1海兵大隊(第1海兵師団・第7海兵連隊隷下)でライフル中隊長、武器中隊長を務めた。

 少佐に昇任した後は、オレゴン州ポートランドにある新兵募集基地で新兵募集任務に従事した。

 中佐に昇任して、第1海兵大隊長に就任した。
 湾岸戦争において、同大隊は
   「砂漠の盾作戦」
の決行にあたって任務遂行にための組織(タスクフォース)の1つ
   「リッパー」(Task Force Ripper)
の構成部隊の1つとなり、大隊長の1人としてタスクフォース・リッパーの指揮に関わった。

 その後、大佐に昇任し、第7海兵連隊長となった。

 海兵隊准将に昇進後、南アフガンで展開中の
   「不朽の自由作戦」
において、第1海兵遠征旅団と海軍隷下のタスクフォース58号を指揮した。

 同作戦で、マティスは海兵隊員としては初めて海軍のタスクフォースを指揮した人物となった。

 少将へ昇任後は、2003年のイラク侵攻では第1海兵師団を率いた。
 それに続くイラク戦争でも変わらず指揮をとった。

 2004年4月のファルージャでの
   ヴィジラント・リゾルヴ作戦
では、市内の暴徒たちの指導者との交渉で重要な役割を担った。

 またマティスは、11月の
   ファントム・フューリー作戦
の立案でも大きな役割を果たした。

 その後は中将へと昇進し、マティスは海兵隊戦闘開発コマンドの指揮をとった。
  
 そして2005年2月1日、マティスはサンディエゴの討論会で、「アフガニスタンへ行けば、ヴェールをつけていないからと5年間も女性たちを殴りつけてきた連中がいる。男の風上にもおけない奴らでしょう?そういう人間を的にするのは死ぬほど愉快でしたね。実際、戦うというのはとにかく楽しいものです。いや、面白すぎるといってもいい。誰かを銃の的にするというのは楽しい。はっきり言えば、私は喧嘩が好きなんだな。」とアドリブの発言が波紋を呼んだ。


 海兵隊の当時のトップ
   マイケル・ヘギー大将(海兵隊総司令官)
もこのスピーチを問題視した。

 しかし、マティスは言葉をもっと慎むべきであるが、懲戒処分には当たらないと述べた。

 従軍している
   兵士の多くが市民を虐待
していると仲間に告げていたことを示す米国国防総省の調査を受けて、マティスは2007年の5月に
   「市民に腹がたったりむかつくようなとき」
こそ
   「アルカイダやその他の反乱分子への勝利だ」
と海兵隊員たちに語った。

 暴徒を抑えるためには戦場での休息こそが鍵になるという考えに対し
   「イラク市民」
を揺さぶるたびに
   「アルカイダも墓場に転がっていく」
と答えた。


 大将としてのマティスは
   「偽りの友よりあからさまな敵の方がまし」
というローマ人スッラの言葉を使ったスローガンを指針として浸透させた。

 この言葉は、彼のもとで小隊を指揮していた
   イラリオ・パンターノ少尉
が自己防衛だとして非武装のイラク人を射殺した行為などが問題となった行為の査問中に有名になった。


 2007年から2010年まで、アメリカ統合戦力軍(USJFCOM)司令官。2008年からNATO改革連合軍司令官を兼任した。
 その後、2010年から2013年まで
   デヴィッド・ペトレイアス
の後任としてアメリカ中央軍司令官を務め、、2013年に海兵隊を退役した。



 2010年7月、マティスは国際治安支援部隊(ISAF)司令官兼アフガニスタン駐留アメリカ軍(USFOR-A)司令官に転出した
   デヴィッド・ペトレイアス陸軍大将
の後任として、ロバート・ゲーツ国防長官の推薦により、バラク・オバマ大統領よりCENTCOM司令官に指名された。

 この人事は、きわめて緊急性が高い人事だったこともあり速やかに上院軍事委員会による承認プロセスがとられた。

 これにより、2011年7月にアレン中将が大将昇任・補職に伴って退任するまでの1年近くにわたり、同じ統合軍の正副司令官ポストを共に海兵隊出身の将官が務めるという状況が生まれた。

 その後にオバマ政権と対イラン政策をめぐって対立して解任された。
 イランとの核合意に反対しイランをISIL以上の脅威と看做すマティスの姿勢が原因とされる。

 2013年に中央軍司令官を退任し、同年、海兵隊を退役した。

 2016年11月20日、ドナルド・トランプ次期大統領は2016年12月1日、オハイオ州シンシナティで行われた凱旋集会において、マティスを次期政権の国防長官に起用する方針を発表した。

 2017年1月20日、アメリカ合衆国連邦議会がマティスの国防長官就任を承認した。
 なお、これによりマティスはジョージ・マーシャルに次ぎ史上二番目の退役から7年未満の国防長官となる。  


 

  
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2017年01月19日

李 克用(り こくよう) 独眼龍の異名を持つ猛将


李 克用(り こくよう)

      856年 - 908年 

 中国の唐末期の軍閥指導者で後唐の始祖

 独眼龍の異名を持つ猛将で突厥沙陀部出身

 李存勗(荘宗)の父で、李嗣源(明宗)の仮父にあたる唐末期に全て黒い衣装で統一して
   鴉軍(あぐん)
と呼ばれる精鋭兵を率いて、大規模な農民の反乱
   黄巣の乱
の鎮定に功績を挙げた。

 鴉軍来たるの報告を聞いただけで黄巣軍は崩れ立つほどその軍は精強だったと伝わっている。


 軍略には非常に秀でていた李克用であるが、政略や謀略では常に朱全忠や他の群雄に遅れをとっており朱全忠と激しい権力争いを繰り広げていたが、中途で病死した。
  
 
 耶律阿保機と和約を結んだ際、家臣が
   耶律阿保機
を虜にしてしまいましょうと進言するのを退けた。

 耶律阿保機は契丹に帰国すると心変わりして朱全忠に誼を通じて李克用を討とうとしたため、李克用は耶律阿保機を捕縛しなかった事を深く後悔し、恨んだと伝わっている。


 

     
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2017年01月18日

張 世傑(ちょう せいけつ) 南宋の三忠臣(亡宋の三傑)


張 世傑(ちょう せいけつ)

     生年不詳 - 1279年

 南宋末期の軍人
 文天祥や陸秀夫と共に南宋の三忠臣(亡宋の三傑)のひとり

 涿州范陽(現在の河北省涿州市)の人で、最初はモンゴルの武将である
   張柔
の家臣だったが、罪を得て南宋に逃亡したもの。 


 南宋の長江で大勢力を誇った軍閥のひとりで、名将
   呂文徳
にその優秀な軍事的才能を見出されて将軍となった。

 1275年には元軍の侵攻を一度は撃退したが、1276年に首都・臨安が陥落すると
   陸秀夫
と共に前皇帝であった度宗の遺児を引き連れて脱出し、亡命政権を形成した。

 その後、南宋の将軍として失地回復を図ったが果たせなかった。

 元軍の張柔の9男である武将
   張弘範
は張世傑の甥を派遣して、元に帰順させようと試みたが失敗に終わっている。

 祥興2年(1279年)、張弘範将軍による崖山攻撃が開始され宋軍水師は張世傑の指揮の下に抵抗を続けた。

 この戦いは「崖山の戦い」と称される海戦だが宋軍は猛攻で壊滅
   祥興帝(しょうこうてい)
   陸秀夫
など要人は次々入水自殺して南宋が滅亡した。

 なお、張世傑は
   陳朝大越国(現在のベトナム北部)
に向かって再起を果たそうとしたが、逃走中に嵐で船が沈没して死亡した。
  
 
 

    
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