2017年05月23日

マイケル・トーマス・フリン トランプ政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官

   
マイケル・トーマス・フリン
   (Michael Thomas Flynn)
              1958年12月 ―

 米国陸軍の元中将でイラク戦争やアフガニスタン戦争に従軍している。
 軍事分野の外交アドバイザー
 2012年から2014年までオバマ政権内において国防情報局長官を務めた。
  

   
  

 ロードアイランド州ミドルタウンで、銀行家の
   チャールズ・フランシス・フリン
と不動産業の
   ヘレン・フランシス
の子として生まれ、1981年にロードアイランド大学経営学部で理学士を取得した。
 予備役将校訓練課程(ROTC)を修了、1981年にアメリカ陸軍に入隊した。

 陸軍では情報畑を歩んだという。

 フリン氏はイスラム教について
   「悪性のガンである」
などと発言するなど米国メディアから「宗教差別」であると非難されてきた。

 2016年より大統領選挙に立候補していた
   ドナルド・トランプ氏
の軍事顧問として雇われ、選挙戦でトランプ氏に助言してきた。

 一方、世界中の顧客を相手にしたコンサルティング業も行っており、トルコの
   レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領
とも強いつながりを持つ人物も顧客に含まれている。

 2016年7月にはネオコンの
   マイケル・リーディン
と「The Field of Fight: How We Can Win the Global War Against Radical Islam and Its Allies」という本を出版した。

 イスラム過激派とイランや北朝鮮など反米反イスラエル国家への強硬姿勢を示した。

 2016年10月11日に来日し、自民党本部で講演、菅義偉官房長官など日本政府要人と会談を行った。


 トランプの選挙勝利後、国防長官や大統領補佐官などに起用されることが検討されていると報道がされたものの、最終的には国家安全保障問題担当大統領補佐官に指名された。

 2017年2月13日、ロシア政府による大統領選挙への介入疑惑が発覚し、トランプ政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官を辞任した。

 補佐官に就任前のフリンがセルゲイ・キスリャク・ロシア連邦駐米大使とロシア制裁問題を話し合ったとされる疑惑は、許可を受けない
   民間人が外交交渉に介入すること
を禁じる法律であるローガン法(Logan Act)に抵触するおそれがあった。 

 米国議会上院情報委員会から関連書類の提出を求められているが提出せず、拒否権行使という名目で召喚も拒否している。


 

    
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2017年05月19日

ロバート・スワン・ミュラー三世  第6代連邦捜査局(FBI)長官


ロバート・スワン・ミュラー三世
     (Robert Swan Mueller III)
       1944年8月7日 -

 米国の法律家、司法官僚

 第6代連邦捜査局(FBI)長官を2001年9月4日-2013年9月4日務めた。

 2017年5月17日に2016年の米国大統領選挙におけるロシアの干渉の捜査のため司法省から
   特別検察官
に任命された。

   
 
 ニューヨークで
   アリス・C(旧姓 トゥルースデール)
   ロバート・スワン・ミュラー
夫妻の間に生まれ、ペンシルベニア州フィラデルフィアの郊外で育った。

 母方の曾祖父はデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道の社長を務めた
   ウィリアム・トゥルースデール
である。

 祖先はドイツ系、スコットランド系、イングランド系が含まれている。


 ミュラーは1962年にセント・ポールズ・スクールを卒業し、プリンストン大学に進学した。
 その後、ニューヨーク大学で国際関係学を専攻し、1973年にバージニア大学法学大学院で法学博士の学位を取得した。
   

 アメリカ海兵隊に入隊し、3年間にわたり士官を務めた。
 ベトナム戦争では第3海兵師団のライフル小隊を指揮し、ブロンズスターメダル、2つの海軍称揚メダル、パープルハート章、武勇十字章を受章した。
   
 米海軍を退役後はバージニア大学法学大学院で学んだ。
 最終的に法律審査に従事している。

 法学博士の学位を取得した後、ミュラーは1976年までサンフランシスコで弁護士として働いた。


   


   

    
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2017年04月29日

マシュー・バンカー・リッジウェイ 


マシュー・バンカー・リッジウェイ
    (Matthew Bunker Ridgway)

          1895年3月3日−
                 1993年7月26日


 米国陸軍の軍人で
   ダグラス・マッカーサー元帥
の後任として1951年4月より1952年4月まで第2代連合国軍最高司令官 として日本の占領統治に当たった。

 また、朝鮮戦争で窮地に陥った国連軍を救い出したことで有名。
 
 バージニア州フォート・モンローで生まれ、1917年に米陸軍士官学校(ウェストポイント)を卒業し、少尉に任官した。

 卒業後、スペイン語教官として陸軍士官学校に戻った。
 その後、ジョージア州フォート・ベニングの歩兵学校で士官養成課程を修了し、第15歩兵連隊の指揮官となりてニカラグアへ配属された。
 ニカラグアでは1927年の自由選挙の監督を支援した。

 1930年にはフィリピン総督の軍事技術顧問となった。
 その数年後、カンザス州フォート・レヴンワースの指揮幕僚大学に学び、同時期(1930年代中頃)に第6軍団の副参謀長となった。

 その後、第2軍の副参謀長、第4軍の副参謀長を歴任した。

 ジョージ・マーシャル参謀総長はその功績を認め、第二次世界大戦が勃発するとリッジウェイを戦争計画局に配属した。
 

 1942年8月に准将に昇任したのち
   オマー・ブラッドレー
が第28歩兵師団長へ転任したのをうけ、第82空挺師団の師団長となった。

 同師団は軍の二つの空挺師団構想の内の一つとして選ばれた。
 当時空挺師団構想はアメリカ陸軍にとって実験的試みであった。

 リッジウェイは1943年のハスキー作戦を支援した。
 2ヶ月後のジャイアント作戦計画時には副官のマクスウェル・D・テイラーにスパイ活動を行わせ、イタリア軍の無力とドイツ軍が降下地点に展開している事を暴き作戦中止を決断した。

 この情報分析力に基づく判断で師団壊滅の危機を救ったことが、後の出世に繋がったといわれる。

 
 1944年にはオーバーロード作戦での空挺降下計画を支援した。

 ドイツ軍の防衛ラインを突破するノルマンディー上陸作戦時、部下と共にドイツ軍の後方へパラシュート降下し、サン=ソーヴァー=ル=ヴィコントへの進出を目指して33日間の戦闘を経験した。


 1944年9月には上級の第18空挺軍団の指揮を任され、ドイツへの侵攻を指揮した。
 この、一年後彼は中将に昇進している。

 1945年、暫くの間ルソン島で指揮を行い、続いて地中海での連合軍副最高司令官に就任した。
 1940年代末にはカリブ海での米軍の指揮を行い、後に陸軍参謀総長
   J・ロートン・コリンズ
の下で副参謀長に就任した。

 朝鮮戦争中の1950年12月、中華人民共和国の参戦で国連軍が敗走する中、第8軍である米軍の司令官ウォルトン・ウォーカー中将が交通事故死した。

 ウォーカーの後任として第8軍司令官に就任した。

 国連軍総司令官であった
   ダグラス・マッカーサー元帥
は、リッジウェイに、ウォーカーには与えなかった第10軍団(司令官 アーモンド陸軍少将)の指揮権を与えた。

 リッジウェイは第8軍を立て直し、中国人民志願軍の攻勢を押し止め、1951年春から反転攻撃に出た。

 圧倒的多数の中国人民志願軍が南侵を停止し、韓国から38度線の向こうに撃退することができたのはリッジウェイが第8軍を立て直すことができたからだとする意見が多い。

 この期間に、リッジウェイ個人のリーダーシップの例は、基本的な軍事活動における原則について、米陸軍史上でほとんど一致することができなかったリーダーシップの標準として定められることとなった。

 韓国軍には米軍から最新鋭の兵器が供与されていたが、韓国軍がそれらの
   高価な装備品
を中国軍の攻撃において、安易に放棄して後方に逃亡してしまうことがたびたび見られた。

 こうした韓国軍の腰抜けぶりに対しては、リッジウェイが立案する戦略をことごとく潰し続けるものとなり、相当悩ませたようで繰り返し著書「THE KOREAN WAR」においても言及されている。

 韓国軍の信頼性のなさに対して米国軍の占領下にあった日本の領土である竹島を一方的に占領した韓国軍の
   李承晩
は、韓国人兵士を米軍の装備で武装させることが効率的だと繰り返し主張した。

 高性能の武装を与えても敵前逃亡を繰り返した韓国軍はリッジウェイを不快にした。

 なお、リッジウェイは、第一線から全ての韓国師団を引き上げ、訓練する時間が必要であると著書で結論付けている。

 1951年4月にマッカーサー元帥は朝鮮戦争の終結のために原爆を使用すべきだと主張した。
 この作戦がトルーマン大統領と対立したため、最高司令官を解任された。

 リッジウェイがマッカーサーの後任となり、大将に昇進し、朝鮮半島での国連軍の指揮をとった。
 また、連合国軍最高司令官として占領下日本で占領行政を行った。


 重要な任務のひとつとしては、連合国軍最高司令官として、連合国の占領下にあった日本を独立させて西側陣営の一員に加えることであった。

 吉田茂首相との協調によってこの課題を達成し、1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効して日本の占領が解除された。
 
 
 リッジウェイは1952年5月に、
   ドワイト・D・アイゼンハワー
の後任としてNATO軍最高司令官に就任したが、周りのスタッフを自らの部下で固めようとしたため他ヨーロッパ諸国の軍指揮官の反発を受けた。

 そのためコリンズ将軍の後任としてアメリカ陸軍参謀総長に就任するため、1953年に米国に戻った。



 リッジウェイは2年間、陸軍参謀総長の職にあった事で、ベトナム戦争への米軍の介入を遅らせた。

 なお、当時のアイゼンハワー大統領は米軍がフランス軍と合同で介入することに関して(賛成するような)判断を求めたところリッジウェイは介入を行わないよう大統領に述べた。

 リッジウェイがアイゼンハワーと異なっため、第二次世界大戦中に保った良好な関係が壊れる事となり1955年に陸軍を退役した。

 リッジウェイは軍を退いた後はペンシルベニア州ピッツバーグのメロン産業調査研究所の取締役会長を1960年まで務めた。


 
 

   
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2017年04月01日

ラファエル・カレーラ(José Rafael Carrera Turcios) グアテマラの初代大統領


ラファエル・カレーラ(José Rafael Carrera Turcios)
    1814年10月24日 -
            1865年4月14日

 南米グアテマラの政治家で軍人

 1823年から1839年まで中央アメリカに存在した国家中央アメリカ連邦共和国の
   自由主義派
に反発したグアテマラの教会、保守派、農民のリーダーとなり
   フランシスコ・モラサン
が率いたエル・サルバドル派と戦い1838年に勝利した。

 内戦の間にグアテマラにおける独裁体制を築き1839年に独立国となった。
 グアテマラの初代大統領に就任し強力な保守統治を行うとともに1854年には終身大統領になった。

 インディヘナに対しては共有地の保護などの優れた政策を行った。
 また、1856年のウィリアム・ウォーカーとの戦争の際には他国と同調して中米連合軍の一員に加えた。1865年に病死し以後、グアテマラでの保守派の支配が終焉にむかった。


 
 

    

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2017年03月01日

末代(まつだい) 富士信仰に深く関わる人物


末代(まつだい)
   1103年(康和5年)〜?


 富士信仰に深く関わる人物として知られる平安時代の僧で
   村山修験の祖
で富士上人とも呼ばれ、名は有鑑。

 駿河国の出身。

 鎌倉中期以前に記述された「浅間大菩薩縁起」では、垂髪(稚児)の時代から走湯山(伊豆山神社の前身)に入って苦行を重ね、各地の霊山を巡歴したとの記録がある。

 また、1268年(文永5年8月)「実相寺衆徒愁状」では、実相寺開山の
   智印(阿弥陀上人)
の弟子とされている。
    
 富士開山以前は伊豆山・箱根山を本拠とし、温泉の噴出によって地獄の景観を呈していた
   熱海の亡霊
を救うために山岳信仰の行場として松葉仙人が開基したと伝わる真言宗の古寺日金山の地蔵堂を開いた。

 「浅間大菩薩縁起」によると、1132年(長承元年4月19日)同志の
   頼然
とともに富士山の登頂に成功した。

 頂上で過去に登頂した金時上人・覧薩上人・日代上人らの遺品を発見した。
 4度目の登頂の際には仏具と不動明王を刻んだ鏡を山頂に奉納した。

 「本朝世紀」によれば、1149年(久安5年4月16日)末代上人が富士山頂に大日寺を建立したとある。

 富士山に数百度と登った修行僧との記録がある。


 末代上人の勧進によって、白山の宝殿に鰐口や錫杖を奉納し、白山信仰と積極的に関わったという。

 1149年(久安5年5月13日)には、鳥羽上皇以下の朝廷貴顕に大般若経の書写を勧め、富士山頂に奉納したとされ、その名は中央まで達していた。
  

 1399年(応永6年6月25日)の寺領知行地注文」によると、村山の地は中世には走湯山領であった。
 伊豆と富士の修験が一体となって村山口登山道を管理していたことが示されている。

 末代が富士登頂の際にベースキャンプとした富士山中腹の木立堺(森林限界)には滝本往生寺(中宮大日)が建立された。

 また、末代が浅間大菩薩の示現を受けた岩屋不動という霊地があった。

 末代の登頂を記録した『浅間大菩薩縁起』は、滝本往生寺に伝えられていたもの。

 1930年(昭和5年)富士山頂コノシロ池付近の岩陰から多量の埋納経の残骸が発見された。
 その中に「末代聖人」と記された紙片が発見されている。


   
  
  


     
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2017年02月28日

法道(ほうどう) インドの仙人


法道(ほうどう)

 インドの仙人で鉄の宝鉢を持っていたことから
   空鉢(くはつ)
   空鉢仙人(からはちせんにん)
とも呼ばれる。

 6-7世紀頃、中国・朝鮮半島を経由して、日本へきたとされている。
  
 播磨国一帯の山岳などに開山・開基として名を遺しており、数多くの勅願寺を含む所縁の寺がみられる。

 また、日本に渡るときに
   牛頭天王
と共に渡ったとされる。

 その牛頭天王は姫路市にある
   広峰神社
に祭られ、その後現在は八坂神社中の座に祭られた。

 法道仙人が六甲山雲ヶ岩(紫雲賀岩)で修業中、紫雲に乗って出現した
   毘沙門天
を感得している。

 雲ヶ岩、六甲比命大善神、心経岩を奥ノ院とする吉祥院多聞寺(神戸市北区唐櫃)を創建した。
 関東でも鉢山町や神泉町など地名が法道の由来とされている。


 

    
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2017年02月07日

アントン・ドレクスラー(Anton Drexler) ドイツ労働者党の共同設立者のひとり


アントン・ドレクスラー
     (Anton Drexler)
   
      1884年6月13日−
            1942年2月24日

 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の前身である
   ドイツ労働者党
の共同設立者のひとり。
 
 鉄道労働者の息子としてミュンヘンに生まれ、国民学校卒業後、1901年にベルリンに上京したものの、失業して帰郷している。
 1902年から機械工として働き始め、この頃には既に反ユダヤ主義、反マルクス主義的な思想を持つようになっていた。

 第一次世界大戦(1914年(大正3年)から1918年(大正7年))中にはドイツ主戦派の大衆組織
   ドイツ祖国党
に参加した。

 1918年3月には職場だったバイエルン王国王立鉄道中央工場の同僚と共に
   「良き和平のための自由労働者委員会」
を組織した。

 また、ヴァイマル共和政ドイツのジャーナリストで政治活動家の
   カール・ハラー
と共に保守系右派民族主義団体「政治的労働者のサークル」を設立。

 ドレクスラーの思想的指導者は、「全ドイツ人同盟」の指導者
   パウル・ターフェル
でニュルンベルク・アウクスブルク機械工場経営者・バイエルン産業家連盟の代表役員だ。
 
 敗戦後の1919年1月5日
   「ターフェルの慫慂」
によりディートリヒ・エッカート、ゴットフリート・フェーダー、ハラーと共にドイツ労働者党(DAP)を設立。

 同月に国際プロレタリアの挫折と兄弟思想の失敗」と題する論文を発表いた。
 続けて「我が政治的目覚め」と題するパンフレットを発表した。

 なお、このパンフレットが当時復員してミュンヘンにいた
   アドルフ・ヒトラー
に影響を与えたという。

 1919年9月にミュンヘンで集会を開催した。
 その際に演説したバウマン教授を論破したヒトラーを見て興味を抱いた。

 ドレクスラーはヒトラーに党のパンフレットを渡し、入党を促した。
 ヒトラーはドレクスラーの求めに応じて同月12日に入党した。

 1920年2月24日、ドレクスラーはヒトラーをホフブロイハウスで開催する党大会に参加させた。
 大会においてヒトラー主導の下で25カ条綱領が発表され、党名を
   国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)
と改名した。
 
 党名改称後、党内ではヒトラーが頭角を現し、1921年に入るとヒトラーの勢力は盤石になった。

 これに危機感を覚えたドレクスラーは、6月にヒトラーがベルリンに出かけている間に無断で他の右翼政党との共闘や合併を協議し始めた。

 ドレクスラーの裏切り行為を知ったヒトラーは7月11日に離党を宣言した。
 ただ、党幹部は党の顔であるヒトラーの離党が党消滅に繋がることを危惧し、引き留めに躍起となった。

 3日後、ヒトラーは党への復帰の条件として自分に独裁権を与えるように書面で要求した。
 党幹部はこの要求を認めたため、ヒトラーは復党した。


 ドレクスラーは7月25日にミュンヘン警察にヒトラーを危険人物であると密告した。
 しかし、取り合ってもらえず7月29日、554票中553票を得てヒトラーは新党首に選出された。
 ドレクスラーは名誉党首に祭り上げられ、党での実権を失った。

 1923年11月の
   ミュンヘン一揆
の際、自宅にいたドレクスラーはヒトラーに呼び出されて計画を聞いたが、恐れて参加しなかった。
 しかし、一揆の失敗後に警察に逮捕された。

 この事件によりナチ党が一時解散を強いられた。
 ドレクスラーは党を離れて
   「民族ブロック」
に参加し、1924年から1928年にかけてにバイエルン州議会議員を務めた。

 なお、この間の1925年には民族社会主義人民同盟を設立した。

 同年ナチ党が再建されたがドレクスラーは加わらず、復党したのはヒトラー内閣成立後の1933年になる。

 1934年には党創設者としてヒトラーから1923年11月9日記念メダルを授与された。

 しかし、以後も政治権力は与えられず、彼の存在は1937年まで党の宣伝のために利用された。

 ドレクスラー自身は、この勲章授与に感激し、以後熱烈なヒトラー支持者となった。
 その後、彼はミュンヘンに隠棲し、第二次世界大戦中の1942年に同地で死去した


 
 

   
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2017年01月25日

李 子春(り ししゅん/イ・ジャチュン) 李氏朝鮮を創建した李成桂の父親


李 子春(り ししゅん/イ・ジャチュン)
    
      1315年 - 1360年

 高麗末期の女真族の武臣でモンゴル名は
   吾魯思不花(ウルスブハ)
という。

 李氏朝鮮を創建した李成桂の父親
 
 高麗を東北方面からおさえる元朝の拠点の咸鏡道の
   双城総管府
において千戸(千人隊長)の役職についていた。

 高麗王朝第31代の
   恭愍王
が反元政策のもと、総管府を攻略した。

 このとき、李子春はただちに高麗に投降した。

 正室の懿恵王后は、中国山東半島登州人の崔氏で、咸鏡道に移住して暮らしていた。
 もともとの姓は趙であり、懿恵王后の父の名前は趙祚(조조)だった。

 ただ、元朝の役職千戸(千人隊長)任命されたことから
   崔閑奇
に改名して、その崔閑奇の娘が懿恵王后となる。

 そして、李子春と懿恵王后崔氏のあいだに生まれた子が李氏朝鮮の初代王李成桂。

 祖母の本貫は登州[であり、登州で戸長を務めていた
   崔基烈
の娘貞淑王后崔氏である。

 死後、王として即位した李成桂によって桓王、孫の3代国王朝鮮王によって桓祖淵武聖桓大王と追尊された。
 
   
 
 

    
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