2025年01月22日

ジャクソン・T・スティーブンス(Jackson T. Stephens)ティーブンス社のCEO

ジャクソン・トーマス・スティーブンス・シニア
           (Jackson Thomas Stephens Sr)
   1923年8月9日 - 2005年7月23日
 米国の石油業者、投資銀行家
 アーカンソー州リトルロックに本拠を置く民間金融サービス会社
   スティーブンス社
のCEOを務めた。
 スティーブンスは、南アーカンソー州グラント郡プラッツビル近郊の農場で6人兄弟の末っ子として生まれた。
 大恐慌の時代に育った。
 スティーブンスはアメリカ海軍兵学校に入学し、そこでジョージア州出身の士官候補生で後に1977年から1981年まで第39代アメリカ合衆国大統領を務めた
   ジミー・カーター
と知り合い、友人になった。
 卒業後はリトルロックの投資会社
   スティーブンス社
に入社した。
 同社は、兄の
   WR「ウィット」スティーブンス
が1933年に設立したものである。
 1994年までに、スティーブンス社は、アーカンソー州に本拠を置く
   ウォーゼン銀行
   オールテル
など、30の大手多国籍企業の最大手機関投資家の1つに数えられていた。
 スティーブンスは、
   ジャクソン・トーマス・スティーブンス・ジュニア
   ウォーレン・スティーブンス
の父親である。
 
 1962年に-毎年マスターズトーナメントを開催するオーガスタナショナルゴルフクラブの会員になった。
 その後、1991年から1998年まで同クラブの会長を務めた。
 1968年に スティーブンス夫妻がデータ処理会社
   Systematics, Inc
を設立した。
 1990年に Systematics はAlltelに売却され、
   Alltel Information Services
となった。
 その後 Fidelity Information Systems に売却された。
 
 1970年にウォルマート・ストアーズの新規株式公開を引き受けた。
 1976年 にモクター・リアディとともに香港で
   スティーブンス・ファイナンス社
を設立した。
 
 スティーブンスと妻のメアリー・アンは共和党、特に
   ロナルド・レーガン大統領
公然と支持していた。
 このため、1980年代初頭には「アーカンソー州の共和党員夫妻」として知られていた。
 1980年代初頭の珍しいインタビューで、ジャクソンはレーガン大統領が国に「まさに我々が必要としているもの」を与えていると宣言した。「我々の中にはそれを厳しい愛と呼ぶ人もいる」。
 スティーブンスと彼の会社は1988年と1991年の両年、全国共和党に10万ドルを寄付した。
 スティーブンスと妻は1990年の共和党知事候補指名争いでアーカンソー州第2選挙区の
   トミー・F・ロビンソン下院議員
の主要支援者だったが、彼の選挙戦は失敗に終わった。

 スティーブンス家は、
   スティーブンス社
と、スティーブンスが少数株主となっている
   ウォーゼン銀行
を通じて、1992年の大統領選挙の際、ビル・クリントンと民主党の主要な資金提供者および資金調達者であった。
  
 スティーブンス氏は、ジャクソン・T・スティーブンス脊椎・神経科学研究所を設立するため、アーカンソー大学医学部に4,800万ドルを寄付した。
 スティーブンスは2004年にリトルロックの
   エピスコパル・カレッジ・スクール
の基金に3000万ドル以上を寄付した。
 スティーブンスは、特別イベントセンターと、後にジャック・スティーブンス・センターと名付けられるバスケットボールアリーナの建設のために、アーカンソー大学リトルロック校に2,040万ドルを寄付した。
 
 アメリカ海軍兵学校のフットボール競技場は、スティーブンスと改修のための資金提供を称えて
   ジャック・スティーブンス・フィールド
と名付けられた。
 アーカンソー州ノース・リトル・ロックにある
   ディッキー・スティーブンス・パーク(AAアーカンソー・トラベラーズの本拠地)
は、スティーブンスとその兄弟「ウィット」、そして元メジャーリーガーのディッキー兄弟、ビルとスキーツにちなんで名付けられた。
 スティーブンス氏は故郷のアーカンソー州プラッツビルに
   プラッツビル・コミュニティ・センターを
建設するために約300万ドルを寄付した。
 アーカンソー航空歴史協会は1994年にスティーブンスをアーカンソー航空殿堂入りさせた。 
 
    
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2025年01月20日

アンジェロ・モジロ(Angelo Mozilo) イタリア系アメリカ人の住宅ローン業界の銀行家

アンジェロ・ロバート・モジロ
        (Angelo Robert Mozilo)
   1938年12月16日 - 2023年7月16日
 イタリア系アメリカ人の住宅ローン業界の銀行家
 2008年7月1日まで住宅ローン大手
   カントリーワイド・ファイナンシャル
の共同創設者、取締役会長、最高経営責任者を務めた。
 モジロは、バンク・オブ・アメリカに総額41億ドルの株式で売却された直後に引退した。
 同社はサブプライム住宅ローンの大手貸し手としての地位にあった。
 このため、その後の住宅ローン危機の中心人物となり、業界を崩壊させ、2000年代を通じて蓄積された住宅バブルを崩壊させ、大不況に大きく貢献した。
 モジロは後に、同社での行為に関連する一連の連邦告発を解決するために6,700万ドル以上の罰金を支払った。
 モジロは2008年の住宅危機との関連でよく言及されるが、多くの住宅ローンおよび住宅業界のリーダーや関係者の間では依然として高く評価されている。 

 アンジェロ・ロバート・モジロは1938年12月16日にブロンクスで生まれた。
 祖父母はイタリアからの移民で、父親は肉屋であった。
 子供の頃はカトリックの学校に通い、12歳から父親の商売を手伝った。
 14歳のとき、住宅ローンブローカーのメッセンジャーとして働き始め、フォーダム大学を卒業した。
 
 1969年、モズィロはかつての指導者で、すでに住宅ローン会社を立ち上げていた
とともに、ニューヨークで
   カントリーワイド・クレジット・インダストリーズ
を設立した。
 その後、本社をカリフォルニア州パサデナに移転し、さらにロサンゼルス郡のカラバサスに移転した。
 モズィロとローブはインディマック・バンクを共同設立した。

 この銀行はもともとカントリーワイド・モーゲージ・インベストメントとして知られ、1997年に独立した銀行となった。
 インディマックは破綻し、2008年7月11日に連邦規制当局に差し押さえられた。
 モズィロはこの出来事に至るまで、いかなる時点でも管理職、役員、会長の地位に就いていなかった。

 カントリーワイドが1984年にニューヨーク証券取引所に上場した後、モジロは主にストックオプション付与を通じて取得した4億600万ドル(2023年には約10億1000万ドル)相当の株式を売却した。
 このうち1億2900万ドル(2023年には約1億8300万ドル)は2007年8月までの12か月間に実現した。
  
 当初、カントリーワイドは全国的なノンバンク住宅ローン業界の先駆者であり、米国最大の住宅ローン貸付会社の一つに成長した。
 モジロは、借り手の信用の質とローンの質に非常に関心があった。
 1980年代後半(ガーディアンS&L)と1990年代(マネーストア)にサブプライムローンが登場したとき、彼の会社は関与しなかった。
 彼は個人的に、1990年代のサブプライムローンの異端者を「詐欺師」と呼んだ。
 しかし、彼の会社はサブプライム貸し手にビジネスを奪われ始めた。

 彼は彼らと競争しなければ、市場シェアを失い続けるしかなかった。
 そのため、2000年代初頭までに、カントリーワイドはサブプライムローンを使い始めた。

 おそらく、モジロは誰よりもサブプライム住宅ローン危機の象徴となり、その責任を負わされている。
 2008年10月20日のニューヨークタイムズの特集記事で、元HUD長官でカントリーワイドの取締役である
   ヘンリー・G・シスネロス
は、モジロを「ストレスで病んでいる。彼の人生の最後の章は、彼にもたらされた、あるいは彼自身が招いた悪名だ」と評した。

 CNNは、 2008年の米国金融崩壊の「最重要指名手配犯10人」の1人にモジロを挙げた。
 この理論は、アカデミー賞を受賞した世界金融危機に関するドキュメンタリー『インサイド・ジョブ』でもさらに裏付けられている。
 その後何年もの間、モジロはサブプライム住宅ローン業界がこの危機にいかなる責任も負っていないと否定し、信用収縮のせいにした。
 
 2001年から2006年にかけての米国住宅バブル期のモジロ氏の報酬は、後に精査された。
 その期間の彼の総報酬(給与、ボーナス、オプション、制限付き株式を含む)は4億7000万ドルに近かった。

 彼の報酬には、カリフォルニア州サウザンドオークスのシャーウッドカントリークラブ、カリフォルニア州ラキンタのザ・クアリー・アット・ラキンタゴルフクラブ、バージニア州ゲインズビルのロバート・トレント・ジョーンズゴルフクラブの株式会員権と年会費も含まれていた。
 モジロ氏は2008年3月7日に米国下院監視・政府改革委員会で証言し、彼の報酬に関する報告はいくつかの点で「著しく誇張されている」と述べ、彼自身も数百万ドルを失ったと指摘した。
 彼は報酬を擁護した。
 報酬は住宅ローン危機前の会社の業績によるものだった。
 
 モジロは長年にわたり、株式を公に宣伝し、株主の資金を使って自社株を買い戻すことで株価を支えながら、数億ドル相当の株式を売却した。
 2009年6月4日、米国証券取引委員会は彼をインサイダー取引と証券詐欺で告発した。
 
 2010年10月15日、モジロは証券詐欺とインサイダー取引の容疑で証券取引委員会と和解した。
 モジロは6,750万ドルの罰金を支払うことに同意し、上場企業の役員または取締役としての職務を永久に禁止された。
 これは2008年の住宅崩壊に関係する個人または幹部による最大の和解である。

 SECの執行部門のディレクターである
   ロバート・クザミ
は声明で、「モジロに対する記録的な罰金は、役員室から見たことを隠蔽することで投資家に対する義務を故意に無視した企業幹部にふさわしい結果である」と述べた。
 SECの容疑を和解させることで、モジロは将来の刑事告発につながる可能性のある裁判を回避した。

 和解条件により、モジロは不正行為の認定を免れた。
 カントリーワイドは、モジロの雇用契約の一部である補償契約に基づき、6,750万ドルの罰金のうち2,000万ドルを支払うことになっていた。

 2011年2月、米国は民事和解の背景にある事実についての刑事捜査を中止した。
 
 2008年6月、コンデナスト・ポートフォリオは、上院銀行委員会委員長の
   クリストファー・ドッド
上院予算委員会委員長の
   ケント・コンラッド
元ファニーメイCEOの
   ジム・ジョンソン
など、影響力のある議員や政治家数名が「アンジェロの友人」であるという理由でカントリーワイドから有利な住宅ローン融資を受けていたと報じた。

 民主党のドッド上院議員は、ワシントンDCとコネチカット州の自宅の住宅ローンの支払いを、市場金利よりも低いとされる金利でカントリーワイドから7万5000ドル減額された。
 それでもドッド議員は住宅ローン貸し手に対するより厳しい規制を求め、略奪的な貸し手は刑事告発されるべきだと提案した。

 下院金融サービス委員会の住宅・コミュニティ機会小委員会の上級顧問で、「金融サービス業界に利益をもたらし、カントリーワイドにとって重要な立法を担当する共和党の有力議員の顧問」であるクリントン・ジョーンズ3世は特別待遇を受けた。
 ジョーンズは現在、連邦住宅ローンバンドラーのフレディ・マックの州ディレクターを務めている。

 当時HUD長官代行で、ブッシュ大統領の長年の友人でありテキサスの隣人であった
   アルフォンソ・ジャクソン
は、自分自身のために割引住宅ローンを受け、娘のためにも割引住宅ローンを申請した。
 「2003年、 1999年から2004年までファニー・メイの会長兼CEOを務めたフランクリン・レインズは、1回あたり約100万ドルのVIPローンを利用して、プールと映画館を備えた7ベッドルームの自宅を2回借り換えた。」

 モジロはクリントン政権時代に両党に多額の寄付をしたが、自身は共和党員として登録されていたと伝えられている。
 下院議長ナンシー・ペロシの息子
   ポール・ペロシ・ジュニア
もカントリーワイドから融資を受けた。
 バーバラ・ボクサー、アダム・H・パトナム、リチャード・C・ホルブルック、ジェームズ・E・クライバーン、ドナ・シャララらはカントリーワイドから住宅ローンを組んだ人々である。

 CBSニュースは、カントリーワイドからVIP融資を受けたとして捜査官に名前が引き渡された当時のファニーメイ従業員のリストを入手した。

 モジロは1961年にフィリス・アルデースと結婚した。
 二人の間には5人の子供がおり、彼女が2017年に亡くなるまで一緒に暮らしていた。

 モジロはカリフォルニア州モンテシトの住民であり、2023年7月16日に84歳で自然死した。
 
 ドキュメンタリー映画『インサイド・ジョブ』では、モジロは2008年の経済崩壊の責任者の一人として挙げられており、タイム誌では「金融危機の責任を負う25人」の一人に挙げられている。
 コンデナスト・ポートフォリオは、モジロを「史上最悪のアメリカ人CEO」のリストで2番目にランク付けした。
 2011年の4部構成の調査シリーズ「メルトダウン」で、アルジャジーラはモジロ氏を信用履歴の悪い借り手にサブプライムローンを提供する傾向の責任者の一人として名指しした。

    
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2025年01月19日

ジョシュア・ライオネル・コーウェン(Joshua Lionel Cowen)鉄道模型やおもちゃの列車の製造会社ライオネル・コーポレーションの共同創設者

ジョシュア・ライオネル・コーウェン(Joshua Lionel Cowen)
   1877年8月25日 - 1965年9月8日
 ジョシュア・ライオネル・コーエン(Joshua Lionel Cohen)として生まれた米国人の発明家であり、第二次世界大戦前後に市場で名声を博した鉄道模型やおもちゃの列車の製造会社
   ライオネル・コーポレーション(Lionel Corporation
の共同創設者である。

 ジョシュア・ライオネルは1877年8月25日にニューヨーク市クイーンズ区で、ドイツからのユダヤ人移民
   ハイマン・ネイサン・コーエン
   レベッカ(旧姓カントロウィッツ)コーエン
を両親にし8人の兄弟の一人としてて生まれた。

 コーエンは7歳の時に、自分で彫った木製の機関車に小さな蒸気機関を取り付けて、初めてのおもちゃの列車を作った。
 エンジンが爆発し、両親の台所を壊した。
 その後、コロンビア大学とニューヨーク市立大学で学んだ。
 コーエンは1899年に写真家の
   フラッシュを点火する装置
で最初の特許を取得した。
 同年、彼はアメリカ海軍から地雷の導火線を製造する
   防衛契約
を獲得し、1万2000ドルを稼いだ。
   
 コーエンと仲間の
   ハリー・グラント
は1900年にニューヨークで
   ライオネル社
を設立した。
 ニューヨーク・タイムズ紙によると、彼は自分の店のために
   電池式の扇風機
を考案し、その扇風機のモーターを小さな模型列車に接続したという。
 レコード紙(ニュージャージー州ハッケンサック)によると、コーエンはデパートのショーウィンドウで動かない模型列車を見て模型列車を設計したという。
 マンハッタンの店主が1901年にコーエンの最初の電気列車を購入し、店頭ディスプレイとして使用した。
 顧客がディスプレイを購入したいと申し出たため、店主はさらに6台の列車を購入した。

 おもちゃの列車の生産を拡大し、事業を築いた後、1910年にコーエン(Cohen)は理由は不明だが、法的に姓を「コーエン(Cowen)」に変更した。
 ドイツや東ヨーロッパからアメリカへのユダヤ人移民の波があり、他の多くの人々も英語風の名前を採用した。
 コーエンは生年月日を1880年としていることが多いが、記録によると彼の出生は3年前のものである。

 第一次世界大戦後、ライオネルは米国で電車製造のトップ3社の一つとなり
   アメリカンフライヤー社
   ルイス・マルクス・アンド・カンパニー社
と競合した。
 1950年代初頭までに、ライオネルは他のラインにも拡大し、世界最大の玩具メーカーとなった。
 しかし、戦後の旅客輸送の減少、自動車の台頭、宇宙計画の発展により、鉄道模型への関心は低下した。
 努力にもかかわらず、同社は赤字が続いた

 コーウェンは1959年に引退し、保有していたライオネル株55,000株を甥の
   ロイ・コーエン
に売却した。
 彼は1965年9月8日にフロリダ州パームビーチで亡くなった。
 彼の遺体はニューヨークに返還され、クイーンズ区リッジウッドのユニオンフィールド墓地に埋葬された。
  
 1905 年に彼は「ミミア」として知られる
   セシリア・リーバーマン
と結婚し、2 人の子供をもうけた。
 1946 年に彼女が亡くなった後、彼は 1949 年に
   リリアン (アペル) ハーマン
と再婚した。
   
    
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ロイ・コーン(Roy Cohn) マッカーシーの捜査を支援したことで知られる検察官 非倫理的で非専門的な行為を理由にコーンを弁護士資格剥奪されている。

ロイ・マーカス・コーン(Roy Marcus Cohn)
   1927年2月20日 - 1986年8月2日
 米国の弁護士、検察官
 1954年の陸軍・マッカーシー聴聞会で
   ジョセフ・マッカーシー上院議員
の主任弁護士を務め、共産主義者容疑者に関する
   マッカーシーの捜査を支援
したことで知られる。
 1970年代から1980年代にかけて、ニューヨーク市で
   著名な政治フィクサー
となった。
 ドナルド・トランプの初期のビジネスキャリアでは、彼の代理人を務め、指導した。 

 コーン氏はニューヨーク市ブロンクス区で生まれ、コロンビア大学で教育を受けた。
 彼は米国司法省の検察官として
   ジュリアス・ローゼンバーグ
   エセル・ローゼンバーグ
のスパイ裁判でして名声を博し、ローゼンバーグ夫妻を起訴して1953年に有罪判決と死刑に導いた。
 マッカーシー裁判で検察側の主任弁護士を務めた後、マッカーシーの失脚後、1950年代後半から1970年代後半にかけて彼の評判は低下した。

 1986年、コーンはニューヨーク州最高裁判所の控訴部から、死にゆく依頼人に財産を残す遺言の修正に署名するよう強要し、詐欺を働こうとしたとして
   非倫理的行為
を理由に弁護士資格を剥奪された。
 彼は5週間後にエイズ関連の合併症で死亡したが、 HIV陽性であることを強く否定していた。
   アルバート・C・コーン判事(1885年 - 1959年)
と、裕福なユダヤ人の一人娘
   ドーラ・マーカス・コーン(1892年 - 1967年)
として、ニューヨーク市ブロンクスの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。

 コーンの父は当時ブロンクス郡の地方検事補で、後にニューヨーク州最高裁判所の控訴部の判事に任命された。
 母方の大叔父は、おもちゃの列車を製造する
   ライオネル社
の創設者で長年の所有者である
である。
 コーンと母親は仲が良く、1967年に母親が亡くなるまで一緒に暮らし、母親は息子の成績、容姿、人間関係に常に気を配っていたと伝わっている。
 コーンの父親が息子をサマーキャンプに送ることを主張したとき、母親はキャンプの近くに家を借りた。
 ただ、彼女の存在は息子の経験に暗い影を落とした。
 個人的な交流では、コーンは公の人物像にはない優しさを見せたが、彼は虚栄心が強く、非常に不安だった。

 コーンの母方の祖父
   ジョセフ・S・マーカス
は1913年に
   合衆国銀行(Bank of United States)
を設立した。
 この銀行は大恐慌の最中の1931年に破綻し、コーンの叔父である当時の頭取
   バーニー・マーカス
は詐欺罪で有罪となった。
 なお、バーニー・マーカスはシンシン刑務所に収監されており、若き日のコーンは頻繁に彼を訪ねている。

 コーン氏はフィールズトンスクールとホレス・マンスクールに通い、 1946年にコロンビア大学で学業を修了した。
 その後、20歳でコロンビア大学法科大学院を卒業した。
  
 コーンはロースクール卒業後、ニューヨーク南部地区連邦検事局の事務官として2年間勤務した。
 1948年5月、21歳で州弁護士会に登録できる年齢となり、同月後半に連邦検事補となった。
 同年、コーンはアメリカ反共産主義ユダヤ人連盟の理事にもなった。

 コーンは米国連邦検事補として、ソ連のスパイ容疑 者の多くの有名な裁判で有罪判決を得るのに貢献した。
 最初の裁判の一つは1950年12月、元商務省職員で戦時生産委員会委員の
   ウィリアム・レミントン
に対する起訴で始まった。
 レミントン氏は元KGBの担当者
   エリザベス・ベントレー
の亡命に伴いスパイ容疑で起訴されていた。
 スパイ容疑での起訴は成立しなかったが、レミントンは2度にわたり宣誓の下で長年の米国共産党員であることを否認した。
 その後2度の裁判で偽証罪で有罪判決を受けた。 

 ニューヨーク南部地区のアーヴィング・H・セイポル事務所に勤務していたとき、コーンは
   スミス法
に基づき、アメリカ連邦政府の
   暴力的転覆
を主張したとしてアメリカ共産党の幹部11人に対する検察側の訴訟を支援した。
 
 コーンは、1951年の
   ジュリアス・ローゼンバーグ
   エセル・ローゼンバーグ
のスパイ裁判で重要な役割を果たした。
 コーンがエセルの兄、
   デイビッド・グリーングラス
を直接尋問した結果、ローゼンバーグ夫妻の有罪判決とその後の処刑の中心となる証言が得られた。

 グリーングラスは、
   マンハッタン計画
からドイツの理論物理学者、原子力スパイ
   クラウス・フックス
が盗んだ機密文書の運び屋として、義理の兄のスパイ活動を手助けしたと証言した。
 グリーングラスは後に供述を変えた。
 裁判で偽証したのは「自分と妻のルースを守るためであり、検察側からそうするように唆された」からだと主張した。

 コーンはローゼンバーグの判決を常に誇りに思っており、公的な役割よりもさらに大きな役割を果たしたと主張した。
 彼は自伝の中で、自分の影響力で検事長のセイポルと判事のアーヴィング・カウフマンが事件に任命されたと述べた。
 さらにコーンは、カウフマンが死刑を宣告したのは自分の個人的な推薦によるものだと述べた。

 しかしコーンは、違法な一方的協議への参加を否定した。
 ジュリアス・ローゼンバーグは米国に対するNKVDの スパイ隊長として歴史家からは高く評価されていた。
 しかし、彼の裁判は主にコーンによる
   検察の不正行為
によって損なわれ、ローゼンバーグ夫妻は処刑されるべきではなかったというのがコンセンサスとなっている。
 このコンセンサスを要約すると、ハーバード大学法学部の
   アラン・ダーショウィッツ教授
は、ローゼンバーグ夫妻は「有罪であり、罪を着せられた」と書いている。
 
 ローゼンバーグ裁判により、24歳のコーンは連邦捜査局(FBI)長官
   J・エドガー・フーバー
の目に留まった。
 フーバーとスペルマン枢機卿の支援を得て、ハーストのコラムニスト
   ジョージ・ソコルスキー
はジョセフ・マッカーシーを説得して
   ロバート・F・ケネディ
ではなくコーンを主任弁護士として雇うよう選んだ。

 コーンは上院 常設調査小委員会でのマッカーシーの仕事に協力し、共産主義者の疑いのある人々への積極的な尋問で知られるようになった。
 コーンは公の場で公聴会を開くことを好まなかった。
 これはマッカーシーが「エグゼクティブ・セッション」や「オフレコ」セッションを国会議事堂の外で開催し、
   国民の監視を
最小限に抑え、比較的罰を受けずに証人に尋問することを好んだことと合致していた。
 コーンは多くの調査を自由に行うことができ、マッカーシーはより注目を集めるセッションにのみ参加した。

 コーンはマッカーシーの反共産主義公聴会で重要な役割を果たした。
 ラベンダー騒動の間、コーンとマッカーシーは、ソ連圏の 諜報機関が複数の米国連邦政府職員を脅迫し、同性愛者で あることを暴露しない見返りにスパイ活動に従事させたと主張した。
 これを受けて、ドワイト・アイゼンハワー大統領は1953年4月27日に大統領令10450号に署名し、国家安全保障上のリスクとみなした同性愛者の連邦政府への雇用を禁止した。
 コーンのいとこであるデイビッド・L・マーカスによると、コーンとマッカーシーによって同性愛者であることを暴露されたワシントンDCの多くの連邦職員が自殺した。時が経つにつれ、コーン自身が同性愛者であることが明らかになったが、彼は常にそれを否定していた。[ 32 ]マッカーシーとコーンは、多くのゲイ男性を政府職員から解雇した。
 また、同性愛の噂を使って反対派を黙らせることに関与していた。

 元米国上院議員アラン・K・シンプソンは「いわゆる『赤狩り』は、その時代に関するほとんどの歴史家の主な焦点であった。あまり知られていない要素であり、はるかに多くの人々に害を与えたのは、マッカーシーらが同性愛者に対して行った魔女狩りであった。」と書いている。

 ソコルスキーは反共産主義の宣伝家である
   G・デイヴィッド・シャイン
をコーンに紹介し、コーンは彼を無給のコンサルタントとしてマッカーシーのスタッフに加わるよう誘った。
 シャインが1953年にアメリカ陸軍に徴兵されると、コーンは彼の特別待遇を確保するために多大な努力を払った。
 コーンは要求が満たされなければ「陸軍を壊滅させる」とさえ脅した。

 この対立と、国防総省に共産主義者がいるというマッカーシーの主張が相まって、 1954年の陸軍・マッカーシー公聴会に発展した。
 この公聴会で陸軍はコーンとマッカーシーがシャインのために不適切な圧力をかけたと告発した。
 マッカーシーとコーンは陸軍がシャインを「人質」にして陸軍内の共産主義者に関するマッカーシーの調査を封じ込めようとしていると反論した。
 陸軍・マッカーシー公聴会は最終的にその年の後半に上院がマッカーシーを非難する一因となった。
 マッカーシーのスタッフを辞職した後、コーンはニューヨークに戻り、弁護士として開業した。
 
 マッカーシーのスタッフを辞めた後、コーンはニューヨーク市で弁護士として30年のキャリアを積んだ。
 彼の顧客には、
   ドナルド・トランプ
やニューヨーク・ヤンキース球団オーナーの
   ジョージ・スタインブレナー
のほか
やマフィアの人物
   トニー・サレルノ
   マリオ・ジガンテ
スタジオ54のオーナーの
   スティーブ・ルーベル
   イアン・シュレーガー
ニューヨークのローマカトリック大司教区、テキサスの金融家で慈善家の
   シアー・ムーディ・ジュニア
ビジネスオーナーの
   リチャード・デュポン
などがいた。

 当時48歳だったデュポンは、マンハッタンのグリニッジ・ストリート644番地の実際の所有者に対する訴訟で、コーンに
   偽の財産所有権
の主張を強要しようとしたとして、嫌がらせと窃盗未遂の罪で有罪判決を受けている。
 この地はデュポンが
   ビッグ・ジム
を経営していた場所で、デュポンは1979年1月にそこから立ち退かされていた。

 コーンの他の顧客には、ハーバード大学ロースクールの元教授
   アラン・ダーショウィッツ
がおり、彼はコーンを「典型的なフィクサー」と呼んでいる。

 コーンが弁護士として働いていた1970年代から1980年代にかけて連邦捜査が行われ、コーンは偽証や証人買収などの職務上の不正行為で3度起訴され、ニューヨークでは市の契約や民間投資に関連する金銭上の不正行為で告発された。彼はすべての容疑で無罪となった。
 
 1979年、コーンはウェスタン・ゴールズ財団の会員となり、
   エドワード・テラー
とともに理事を務めた。
 民主党員として登録されていたが、コーンは当時の共和党大統領のほとんどとニューヨーク州内の主要役職の共和党員を支持した。
 保守派の政治界と密接な関係を保ち
   リチャード・ニクソン
   ロナルド・レーガン
の非公式顧問を務めた。

 また、共和党と連携しながらも、ニューヨーク市長の
   エド・コッチ
国務長官の
   カーマイン・デサピオ
ブルックリンの党首
   ミード・エスポジート
など民主党員とも密接な関係を築いた。

 1972年、彼はジョージ・マクガヴァンの副大統領候補
   トーマス・イーグルトン
の医療記録をマスコミに漏らし、ニクソンの信用を失墜させた。
 イーグルトンの医療記録には、彼がうつ病の治療を受けていたことが明らかにされていた。

 ニューヨーク州初の同性愛者の権利法案の可決をめぐる議論の年月の間、コーンはニューヨーク大司教区と連携し、「同性愛者の教師は子供たちにとって重大な脅威である」という信念を表明した。

 レーガン大統領は1983年にホワイトハウスで
   ロイ・コーン
   トーマス・ボラン
と会談した。
 コーンは1980年のレーガン選挙運動に携わり、そこで
   ロジャー・ストーン
と親しくなった。
 コーンは1979年から1980年にかけてのロナルド・レーガンの大統領選挙運動でロジャー・ストーンを支援し
   ジョン・B・アンダーソン
がニューヨーク自由党の指名を獲得できるようストーンが手配するのを助けた。

 この動きは州内でのレーガンに対する反対派を分裂させるのに役立った。
 ストーンによると、コーンはストーンにスーツケースを渡し、ストーンはそれを開けるのを避け、コーンの指示に従って自由党界で影響力のある弁護士の事務所にそれを置いたという。
 レーガンは46%の票を獲得して州を制し、カーターは44%の票を獲得した。
 しかし、アンダーソンは7%以上の票を獲得した。
 贈賄罪の時効が切れた後、ストーンは「私は彼の法律事務所に弁護士費用を支払った。彼がそのお金で何をしたのかは知らないが、それが何であれ、自由党は原則として正しい結論に達した」と述べた。

 ルパート・マードックは顧客であり、コーンはマードックの利益を増進するようロナルド・レーガン大統領に繰り返し圧力をかけた。
 1970年代半ばにトランプとマードックを紹介し、2人の長い関係の始まりとなったとされている
 
 1971年、ドナルド・トランプはマンハッタンで初めて大規模な建設プロジェクトに着手した。
 1973年、司法省はトランプが所有する39の物件で
   公正住宅法に違反
したと告発した。
 政府は、トランプの会社がブルックリン、クイーンズ、スタテン島で管理するアパートについて、アフリカ系アメリカ人に対して異なる賃貸条件を提示し、「空室なし」という虚偽の通知をしたと主張した。

 トランプの代理人であるコーンは、
   政府に対して1億ドルの反訴
を起こし、告発は「無責任で根拠がない」と主張した。
 だが、この反訴は失敗した。

 トランプは1975年に法廷外で和解し、合意は「トランプ組織に、他の入居者と同等の資格がない限り、生活保護受給者を入居者として受け入れることを強制するものではない」と満足していると述べた。
 同社は、公民権団体であるニューヨーク・アーバン・リーグに2週間ごとに空きポストのリストを送り、特定の場所ではリーグに優先権を与えることが義務付けられていた。

 1978年、トランプ・オーガニゼーションは1975年の和解条件に違反したとして再び法廷に立たされた。
 コーンは新たな告発を「仕掛けられた数人の不満分子による苦情の焼き直しに過ぎない」と呼んだ。
 なお、トランプは告発を否認した。
 コーンは過去にカーマイン・ガランテアンソニー・サレルノのようなマフィアの弁護をしたことがある。
 当時サレルノとポール・カステラーノはマンハッタンのコンクリート組合を支配していた。

 ドナルド・トランプがコンクリートを必要とすると、マフィアのボスである
とつながりのある組合長ジョン・コーディからそれを受け取っていたという。
 
 コーンは、ライオネル鉄道模型会社の創設者である
   ジョシュア・ライオネル・コーエン
の甥の息子にあたる。
 1959年までに、コーエンと息子のローレンスは、会社の経営権をめぐる家族間の争いに巻き込まれていた。
 1959年10月、コーンと投資家グループが介入し、会社の経営権を獲得した。
 コーンは、買収前の3か月間に、コーエン家から、また公開市場で、同社の70万株のうち20万株を彼のシンジケート団が購入した。

 コーンが3年半率いた経営下で、ライオネルは売上の低下、品質管理の問題、巨額の財務損失に悩まされた。
 1963年、コーンは委任状争奪戦に敗れ、会社を辞任せざるを得なくなった。
 
 1986年、ニューヨーク州最高裁判所の控訴部 の5人の判事からなる審理部は、
   顧客の資金の横領
   弁護士資格申請書の虚偽記載
   遺言書の変更の偽造 など
非倫理的で非専門的な行為を理由にコーンを弁護士資格剥奪した。
 最後の容疑は1975年の事件に端を発しており、コーンは瀕死で意識不明の
   ルイス・ローゼンスティール
の病室に入り、無理やりペンを握らせ、自分とローゼンスティールの孫娘キャシー・フランクを遺言執行者に任命する書類にそれを向けた。
 その結果できた印は判読不能であり、決して有効な署名ではないと法廷で判断された。
 弁護士資格剥奪にもかかわらず、
   バーバラ・ウォルターズ
ファイアリング・ラインの司会者
   ウィリアム・F・バックリー・ジュニア
など多くの有名人が
   人格証人
として出廷した。

 1984年、コーン氏はエイズと診断され、実験的な薬物治療を受けながら病状を秘密にしようとした。
 彼はAZTの臨床試験に参加した。
 AZTは当初は癌の治療のために合成されたが、後にエイズ患者のための最初の抗HIV剤として開発された薬である。
 彼は死ぬまで自分の病気は肝臓癌であると主張し続けた。
 彼は1986年8月2日、メリーランド州ベセスダでエイズの合併症のため59歳で亡くなった。 

    
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2025年01月18日

エドゥアルド・ルイス・サベリン(Eduardo Luiz Saverin)ブラジルの億万長者の起業家

エドゥアルド・ルイス・サベリン
        (Eduardo Luiz Saverin)
   1982年3月19日生まれ
 ブラジルの億万長者の起業家、エンジェル投資家
 Facebookの共同創設者として知られている。
 2012年には、Facebookの株式の約2%を所有しており、 当時の評価額は約20億ドルであった。
 シンガポールを拠点とし、 ベンチャーキャピタル会社
   B Capital
の共同創設者兼共同CEOであり
   Qwiki
   Jumio
などの初期段階のスタートアップにも投資している。
 ブルームバーグ億万長者指数によると、推定純資産が304億ドル、 世界で55番目に裕福な個人という。

 エドゥアルド・ルイス・サベリンはサンパウロの裕福なユダヤ系ブラジル人家庭に生まれ、後にリオデジャネイロに移住した。
 サベリンの父ロベルト・サベリンは、衣料品、海運、エネルギー、不動産業を営むビジネスマンだった。
 母サンドラは心理学者だった。
 サベリンには2人の兄弟がいる。

 ルーマニア生まれの祖父
   エウジェニオ・サベリン(旧姓エウ​​ジェニオ・サベリン)
は子供服チェーン店ティップトップの創業者であった。
 1993年、家族は米国に移住し、フロリダ州マイアミに定住した。

 サベリンはマイアミのガリバー予備校に通った。その後ハーバード大学に進学し、エリオット・ハウスに住み、フェニックスSKクラブの会員で、ハーバード投資協会の会長を務めた。
 ハーバード大学在学中、サベリンは気象学への関心を生かしてハリケーンのパターンを予測し、原油先物への投資で30万ドルを稼いだ。
  2006年、サベリンはハーバード大学を優秀な成績で卒業し、経済学の学士号を取得した。

 彼はアルファ・イプシロン・パイ・フラタニティ(ハーバード大学イータ・プサイ支部)のメンバーである。
 ハーバード大学3年生の時、サベリンは同大2年生の
   マーク・ザッカーバーグ
と出会った。ハーバード大学の学生専用のソーシャルネットワーキングサイトがないことに気づいた2人は、2004年に協力してFacebookを立ち上げた。
 2人はそれぞれ1,000ドルをサイトに投資することに合意した後、ザッカーバーグとサベリンはそれぞれ18,000ドルを運営に投資することに合意した。
 共同設立者として、サベリンは最高財務責任者と事業マネージャーを務めた。
 2012年5月15日、Business Insiderはザッカーバーグから独占メールを入手し、彼がどのようにしてサベリンをFacebookから外し、持ち株比率を下げたかを詳述した。
 ザッカーバーグは当時非公式にこう述べた。「エドゥアルドは協力を一切拒否している...基本的に我々は知的財産を新しい会社に譲渡し、訴訟を引き受ける必要がある...彼を排除して和解するつもりだ。そうすれば彼は何かを得るだろうが、彼にはそれに値する ...彼は投資のために何かに署名しなければならないが遅れており、私はその遅れに耐えられない」。ザッカーバーグの弁護士はザッカーバーグに対し、株式希薄化により信託義務違反で訴訟を起こされる可能性があると警告した。

 フェイスブックはサベリンに対して訴訟を起こし、サベリンが2005年10月に署名した株式購入契約は無効だと主張した。
 サベリンはその後ザッカーバーグに対して訴訟を起こし、ザッカーバーグが夏の間フェイスブックの金(サベリンの金)を個人的な出費に使ったと主張した。
 2009年、両方の訴訟は法廷外で和解した。
 ただ、和解条件は明らかにされていないが、同社はサベリン氏がフェイスブックの共同創設者であるという肩書きを認めた。
 サベリン氏は和解後、秘密保持契約に署名した。 

 2010年、サベリンは慈善団体向けオンラインポータルである
   Aporta
を共同設立した。
 2015年、サベリンはベンチャーキャピタル会社
   B Capital
を設立し、東南アジアとインドに投資した。
 2016年、サベリンのファンドは、東南アジアでラストマイルの小包配達を行っているシンガポールの物流会社
   Ninja Van
を含む、アジアで1億4000万ドルを超える初期取引を完了した。

 Bキャピタルを設立したことに加えて、2020年初頭には、サベリンは友人でありハーバード大学の同級生でもある
   マグナス・グリムランド
が設立した初期段階のVCファンド兼スタートアップアクセラレーターである
   アントラー
に投資した。

 サベリン役は、ベン・メズリックの『The Accidental Billionaires』を原作とした映画『ソーシャル・ネットワーク』でアンドリュー・ガーフィールドが演じている。

 サベリンは2009年にシンガポールに移住した。
 サベリンと、中国系で一部オランダ人の血を引くインドネシア人の
   エレイン・アンドリーヤンセン
は、2014年3月27日に婚約し、2015年6月25日に結婚した。
 2人は、サベリンがハーバード大学、アンドリーヤンセンがタフツ大学で、それぞれ米国マサチューセッツ州の大学に在学中に出会った。
 金融業界で働くアンドリーヤンセンは、インドネシアでいくつかのビジネスを経営する裕福な家庭の出身である。
 サベリンは純資産が160億ドルで、シンガポールで最も裕福な人物と伝えられている。

 サベリンは2011年9月に米国市民権を放棄し、推定7億ドルのキャピタルゲイン税を回避した。
 これはメディアの注目と論争を呼んだ。
 サベリンは「シンガポールで働き、生活することに興味があった」ために市民権を放棄したと主張し、税金を払うのを避けるために米国を離れたことを否定した。

 2023年、彼はフランスのスキーリゾート、クールシュヴェルにある2つのシャレーを9,500万ドルで購入した。
 2つのシャレーは地下室でつながっており、総面積は32,000平方フィートを超えている。

    
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2025年01月17日

ミシェル・ペベロー(Michel Pébereau)フランスの実業家。パリ国立銀行(BNP)の会長 

ミシェル・ペベロー(Michel Pébereau)
   1942年1月23日生まれ
 フランスの実業家。パリ国立銀行(BNP)の会長であり、元CEO。
 1965年にエコール・ポリテクニークを、1967年にフランス国立行政学院を卒業している。
 ペベローは、1967年にフランスの省庁間監査・監督機関である財務総監察庁(IGF )で
   財務総監
としてビジネス キャリアをスタートし、3年後にはフランス財務省に入省し、さまざまな高官職を歴任した。

 財務監察長官として BNPの民営化を主導し、1993年にCEOに就任した。
 2000年に投資銀行パリバと合併して
   BNP パリバ
を設立し、2003年まで取締役会の会長を務めた。
 彼は2014年10月から2018年4月までARC がん研究財団の会長であった。
 彼は現在、金融専門職センターの会長を務めている。

 抵当権登録官
   アレクサンドル・ペベロロー
の息子として生まれた。
 また、フランスのエンジニア、上級公務員、実業家、アートコレクター として知られる
   ジョルジュ・ペベロロー
の弟である。

 1970年からは、ヴァレリー ジスカール デスタン経済財務大臣のプロジェクト マネージャーおよび技術顧問を4年間務めた。
 彼は1982年まで財務省に留まり、特に財務省に勤務した。
 彼はまた、 1978年から1980年まで
   ルネ・モノリー
の事務所を率いた。
 この期間中、彼は特にパリ株式市場の近代化 (バウムガルトナー報告書) と「モノリー・シツァフ」の創設に貢献した。
 
 ミシェル・ペベローは1982年に政権を離れ、
   フランス・コマーシャル・ド・フランス
に入社した。
 この最新の作戦では、10 日間で 280万件の購読を獲得し、その中には 160万人以上の銀行顧客が含まれている。
 彼は自身が CEO を務めた 2 つの銀行の民営化を成功裏に完了した。
 1986年から1993 年まではCCF、その後パリ国立銀行(1993年)、2000 年にBNPパリバとなり、 1993年から2003年まで会長を務めた。
 1993 年から1999 年にかけて、大規模な近代化作業が行われ。
 BNP はその持続可能性を確保し、ユーロ創設によって生まれた発展の機会をつかむことができるようになった。
 グループの従業員数は1993 年の 56,000 人から、 2003 年には 90,000 人近くに増加した。
 ヨーロッパを拠点として国際的な側面を強めている。

 1999年8月、ミシェル ペベローは、ソシエテ ジェネラルとパリバの証券に対する二重公開買付けを開始した。
 最初の提案は失敗したものの、2番目の提案の成功により、 BNP パリバの設立が許可された。

 2000年から2003年まで同氏はそのCEOを務めた。
 企業文化の異なる両銀行の合併により、
   4つの価値観(対応力、創造性、コミットメント、野心)
に基づく一貫した文化を持つ新会社の誕生が可能となった。
 2003年にBNP パリバ社内で社長と CEO の職を分離することが決定されたのは、彼の主導によるものである。
 その後、ミシェル・ペベローは
   ボードアン・プロ
をゼネラルマネージャーに任命した。
 それ以来、彼は現在 187,900 人以上の従業員を擁する BNP パリバ グループの取締役会長を務めている。

 当日の株主総会では、2011年5月11日、彼はこの機能をオンのままにすることを発表した。
 総会での発表では、彼の後継者に対して、フランスと外国のメディアから数多くの賛辞が寄せられた。
 2015年5月13日以降、彼は引き続き BNP パリバおよび BNP パリバ財団の名誉会長を務めている。
 
 銀行家としての活動と並行して、 1968年から1981年までパリ政治学院で講師として教鞭をとった。
 1980年から1997年までフランス経済政策コースの担当教授として教鞭を執った。
 また、パリ政治学院の理事に選出された。
 この組織は、1988年から 2013年まで彼が自発的に会長を務めた。
 その使命は学生、研究を組織し、研究所の内部規則を確立するため、学生の入学条件を設定することであった。

 2005年、彼はティエリー ブルトン財務大臣から、フランスの債務を調査する委員会の設立を命じられた。
 彼は金融政策に関してニコラ・サルコジ大統領の最も影響力のある顧問とみなされていた。
 ニコラ・サルコジ大統領にジャック・レイノーの後任として選出され、2014年10月30日に就任した。
 彼の任期は に2018年4月終了し、クロード・タンディルが彼の後継者となった。
 彼は、ベルナルダン大学 の後援委員会のメンバーでもある。

 2014年6月エドモン・アルファンデリーの後任として金融専門職センター理事長に就任した。
  
    
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ジャスティン・ローゼンスタイン(Justin Rosenstein)コラボレーションソフトウェア会社Asanaの共同設立者

ジャスティン・マイケル・ローゼンスタイン
         (Justin Michael Rosenstein)
   1983年5月13日生まれ
 米国のソフトウェアプログラマー、起業家
 彼は2008年にコラボレーションソフトウェア会社Asanaを共同設立した。
 ローゼンスタインはサンフランシスコ湾岸地域で育ち、カリフォルニア州オークランドのカレッジ・プレパラトリー・スクールに通った。
 彼はユダヤ人の家系に生まれ、高校でリンカーン・ダグラス討論会で優秀な成績を収めた。
 彼はスタンフォード大学に入学し、20歳で数学の理学士号を取得して卒業した。
 学部生として、彼はメイフィールド・フェロー・プログラムのメンバーを務めた。
   
 ローゼンスタインは2004年にスタンフォード大学のコンピュータサイエンスの大学院プログラムを中退した。
 プロダクトマネージャーとして
   Google
に入社した。
 Googleでは、ローゼンスタインはGoogleのコミュニケーションおよびコラボレーション部門のプロジェクトを率いた。
 彼が最初に手がけたプロジェクトには、Google Sitesの前身であるGoogle Page Creatorや、後にGoogle Driveとなる社内コード名「Platypus」のプロジェクトが含まれていた。
 彼はまた、Gmail Chatのオリジナルのプロトタイプや、Googleのリッチテキストエディタの多くの機能を開発・記述した。
 2007年5月、ローゼンスタインはGoogleを離れ、Facebookのエンジニアリングリーダーとなり、
   マーク・ザッカーバーグ
   ダスティン・モスコビッツ
と緊密に協力した。
 彼はFacebookのページ、Facebookの「いいね!」ボタン、およびFacebookビーコンを担当するテクニカルリーダーであった。

 2008年10月、ローゼンスタインはフェイスブックを退社し、モスコヴィッツとともにコラボレーションソフトウェア会社
   アサナ
を共同設立した。
 アサナのウェブサイトでは、同社の使命は「すべてのチームが楽に協力できるようにすることで人類の繁栄を支援する」ことだと述べている。
 彼はビジネスとテクノロジーの問題について頻繁に講演している。
 彼はWiredで効果的なコラボレーションソフトウェアの構築に関する意見を発表している。
 Fast Companyではリーダーシップ戦略とエンタープライズソフトウェア設計について、TechCrunchでは起業家精神について、TIMEでは生産性について発表している。
   
 ローゼンスタインは、One Projectと呼ばれる非営利団体の創設者である。
 2014年にニューヨークで開催されたTechCrunch Disruptカンファレンスで基調講演を行い、「地球の繁栄のための一つの人間プロジェクト」の一環として、テクノロジーを社会の利益のために使うことについて語った。
 
 ローゼンスタインは、ソーシャルネットワーキングプラットフォームに費やす時間の延長が及ぼす影響を調査し、依存症、フェイクニュース、地球温暖化などの問題に取り組むことの重要性について警鐘を鳴らすドキュメンタリードラマ「ソーシャル・ジレンマ」に主演した。

 2013年現在、ローゼンスタインはサンフランシスコのミッション地区にあるアガペと呼ばれる共同生活スペースに住んでいた。
 彼はビーガンである。
 フェイスブックで働いていた間、ローゼンスタイン氏は約486万3000株のクラスB株を報酬として受け取った。
 これは1株620ドルで約30億ドル相当である。
 さらに、彼はアサナの約16.2%を所有しており、同社の時価総額40億ドルに基づくと、その価値は約6億8000万ドルである。
 ローゼンスタイン氏は、ザ・ギビング・プレッジに触発され、生涯を通じて財産のほとんどを慈善事業に寄付することを約束している。

     
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2025年01月16日

カール・フレデリック・ティートゲン(Carl Frederik Tietgen)デンマークの工業化において、数多くの著名なデンマーク企業の創設者

カール・フレデリック・ティートゲン
          (Carl Frederik Tietgen)
   1829年3月19日 - 1901年10月19日
 デンマークの金融家、実業家。彼はデンマークの工業化において、数多くの著名なデンマーク企業の創設者として重要な役割を果たした。
 それらの企業の多くは現在も存続している。
 ティートゲンはコングロマリットを形成したことで有名であり、ティートゲンの企業のいくつかは独占のような地位を獲得し、その永続性を確固たるものにした。 

 ティートゲンは1829年3月19日、オーデンセで、地元のブルジョワ階級向けの社交クラブの経営者の息子として生まれた。
 彼は幼少時代からクラブで一家を手伝っていた。
 商業の見習いを終えた後、彼は5年間イギリスで働き、イギリスのマンチェスターに定住した。
 その間、彼は北ドイツ、ノルウェー、スウェーデンにも旅行した。
 イギリスにおいてティートゲンは、当時のデンマークではまだ初期段階にあった
   プライベートバンキング
の経験を積んだ。 
  
 デンマークに戻ったティートゲンは、1855年にコペンハーゲンのアマートーヴに卸売業
   CFティートゲン&Co.
を設立した後にガメルトーヴ市場に移転した。
 オフィスは印象的な場所にあったものの、その事業は小規模な個人経営で、主にマンチェスターとコペンハーゲンのビジネス関係の仲介人として取引していた。
 1857年、破産管財人として関与し、経済と戦略的思考に対する並外れた洞察力を示した。
 その後、彼はプライベート銀行の経営に参加するよう招かれた。
 彼の下で同銀行はデンマーク初の投資銀行に成長した。

 ティートゲン氏は、私営銀行のトップとして40年間にわたり、多数の企業を設立、統合した。
 また、いくつかの産業分野の大手企業を支配下に置いた。

 運輸業界では、ティートゲンはいくつかの鉄道を開発し、1872年に
   バーマイスター&ウェイン
   スヴィッツァー
を資本化した。
 彼はいくつかの小規模な鉄道会社を合併して
   デット・フォレネデ・ダンプスキブス・セルスカブ
を設立した。
 また、1880年にシンクヴァッラ線を設立した。

 ティートゲンは電信および電気通信分野でいくつかの会社を設立した。
 1868年に
   Det Store Nordiske Telegraf-Selskab
を設立し、電話の登場とともに1880 年に
   KTAS
を設立した。
 1872 年、ティートゲンはいくつかの製糖所を合併して
   De Danske Sukkerfabrikker
を設立した。
 1873 年にツボルグ醸造所が共同設立され、いくつかの
   小規模なコーヒー代替品会社
を統合して
   デ ダンスケ チコリエファブリッカー
を設立した。
 1881 年にいくつかの小規模な蒸留所が合併して
   De Danske Spritfabrikker
を設立した。
 また、1891 年にいくつかの独立した醸造所を合併して
   De Forenede Bryggerier
を設立した。

 1869年、ティートゲンはヨーロッパの銀行家グループと共同で
   パリ銀行
を設立した。
 その後、1872年に合併して
が設立されました。

 ティートゲンは、産業統合における主要な勢力であり、ヨーロッパの先駆者でもあった。
 ティートゲンは、特定の産業における競合企業数社を合併し、大規模な株式公開会社を設立した。
 プライベート銀行は、ビジネス仲間やティートゲン自身と同様に、新会社の主要株主となった。
 彼は1894年にパリで脳卒中を患い、1896年に私営銀行を退職した。
 
◯ティートゲン が設立または共同設立した企業
 ・Det Store Nordiske Telegraf-Selskab (1868年)
 ・De Danske Sukkerfabrikker (1872年)、現在はダニスコの一部
 ・B&W(1872)
 ・Thingvalla Line(1879年)
 ・De Danske Spritfabrikker (1881年)、現在はダニスコの一部
 ・KTAS(1882年)
 ・Det Forenede Dampskibs-Selskab(1866年)
 ・Tuborg Brewery(1873 年)

 ティートゲンは慈善家としても知られ、特に大理石教会の完成費用を負担した。
 また、コペンハーゲン北部のエーレスンド海岸にタールベック教会を建てた。
 
 ティートゲンは1855年8月8日にフュン島のヴァイストラップで19歳の
   ローラ・シャーロット・ヨルゲンセン
と結婚した。
 ティートゲンは1894年に軽い脳出血を起こし、部分的な麻痺に悩まされた。
 晩年は衰弱し、ほとんどの役職から退いた。
 ティートゲンは1901年10月19日の夕方に亡くなり、10月23日に大理石教会で追悼式が行われた。
 1901年10月29日にリュンビーに埋葬された。
   
   
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カリ・ツナ(Cari Tuna)Open PhilanthropyやGood Venturesの共同設立者

カリ・ツナ(Cari Tuna)
   1985年10月4日生まれ
 米国の非営利ビジネスパーソンであり、かつてはウォール・ストリート・ジャーナルの記者であった。
 現在は
   Open Philanthropy
   Good Ventures
の共同設立者であり、これらの団体で働いている。

 カリ・ツナはミネソタ州で生まれ、2人の医師の3人兄弟の長女として、インディアナ州エバンズビルで育ち、シグネチャー・スクールに通った。
 そこで彼女は生徒会長を務め、
   アムネスティ・インターナショナル支部
を設立し、共同卒業生代表を務めた。
 ツナはイェール大学で政治学を学び、学生新聞のイェール・デイリー・ニュースに寄稿した。
 在学中、地元の新聞であるエバンズビル・クーリエ・アンド・プレスに記事を寄稿し
   ミネアポリス・スター・トリビューン
でインターンシップを行った。
 アラビア語とトルコ語の基礎知識を持っていた彼女は、外国特派員としてのキャリアを検討した。
 ツナはBAを取得して卒業した。
   
 卒業後、ツナはウォール・ストリート・ジャーナルの記者となり、シリコンバレーとハイテク業界について約3年間取材した。
 ツナは現在、夫と共同設立した民間財団
   グッドベンチャーズ
でフルタイムで働くかたわら、夫とホールデン・カルノフスキーと共同設立したグッドベンチャーズと
   ギブウェル
のコラボレーションから生まれたスピンオフである
   オープンフィランソロピー
の社長も務めている。
 ツナは、オープンフィランソロピーの社長としての役割が評価され、タイム誌の「2024年AI界で最も影響力のある100人」に選ばれた。

 ツナはブラインドデートでインターネット起業家のダスティン・モスコヴィッツと出会い、2013年に結婚した。
 彼女と夫は
のギビング・プレッジに署名している。
 ツナは効果的利他主義コミュニティの著名なメンバーでもある。

    
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2025年01月15日

ラリー・サンガー(Larry Sanger Lawrence Mark Sanger) ウィキペディアの共同設立者

ローレンス・マーク・サンガー
      (Larry Sanger Lawrence Mark Sanger) 
 1968年7月16日生まれ
 アメリカ合衆国の哲学者。専門家が参加するフリー百科事典プロジェクト
   シチズンジアム(Citizendium)の創始者。
哲学者としては認識論(epistemology, theory of knowledge)に関心をもつ。
 多くのオンライン百科事典のプロジェクトに関わっており、
   Nupedia
の編集主幹、および
   チーフ・オーガナイザー
を務め(2001年 - 2002年)、その後身
   ウィキペディア
の共同設立者でもあった。
 Nupediaでは記事の編集プロセスのとりまとめをおこない、ウィキペディアの初期にはコミュニティ・リーダーとして基本的な運営方針の大部分を形にした。
 こうした活動と平行してオハイオ州立大学で哲学の教壇に立った。
 また専門家の執筆・編集によるEncyclopedia of Earthの初期構想にも参加した。
 2006年9月15日にウィキペディアのフォークとしてCitizendiumの構想を発表した。
 現在編集主幹を務めている。
 このプロジェクトは2007年3月25日にサービスを開始した。

 ワシントン州ベルヴュー生まれ、7歳のときに一家がアラスカ州アンカレッジに移った。
 サンガーは初等教育のほとんどをアンカレッジで受け、優秀な生徒として知られることになった。
 少年時代から哲学に関心をもった。
 高校生時代に「哲学でいったい何をやるのか」と聞かれたサンガーは「たとえばみんなの考え方をかえること」と答えたという。
 1986年に高校を卒業し、リード大学の哲学専攻へ進学した。
 大学時代には悟性(understanding)や認識の起源(sources of knowledge)について研究した。
 またインターネットとその情報発信能力に関心をもった。
 後年にwikiをオンライン百科事典として使うことの有益性に思い至ったのは、こうした関心が反映されているという。

 インターネットを用いた最初の試みはリストサーバ(listserver, メーリングリストを発行する技術のひとつ)を用いて学生と講師が交流できる場をつくるもので、「専門性の高い指導」を可能にし、「チュートリアルおよびその方法論を討議し、ボランタリーで自由な講師と学生が従来の大学機関を介さずに互いを見つけ出し、そのことのメリットと可能性を追求するためのインターネット上のフォーラムとして機能する」ことを試みるものであった。
 サンガーは哲学をディスカッションするメーリング・リストを作り、調停役として参加した。その「体系的哲学協会」(Association for Systematic Philosophy)は会報も刊行した。
 1994年3月22日付の投稿では、サンガーはマニフェストを起草している。
 サンガーは1991年にリード・カレッジで哲学の学士を、2000年にオハイオ州立大学で哲学のPh.D.を取得した。
 学士論文は『デカルトの方法論とその理論的背景』("Descartes' methods and their theoretical background")と題されたものである。
 博士論文は『認識論的循環:メタ正当化問題についての試論』("Epistemic Circularity: An Essay on the Problem of Meta-Justification")である。
 1998年から2000年にかけては「サンガーのY2Kニュース・レヴュー」(Sanger's Review of Y2K News Report, 以前はsangersreviw.comに設置されていた)というウェブサイトを運営している。
 これはいわゆる2000年問題に関心をもつ者のためのリソースサイトであった。

 2007年から、サンガーはオンライン教育の可能性を検討し始め、「一方的な伝達行為ではなく、脱中心的で、自己決定的で、非同時的で、完全にデジタルで、遠隔的にオーガナイズされる教育について考えてみた」と述べ、「いくつかの基本的なルールの他には強制力をもつ官僚的機構がなく、意思決定は完全に教師と学生の手によって行われるものになるだろう」と語った。

 Nupediaはウェブ・ベースの百科事典で、専門家によって執筆された記事をフリーなコンテンツとして提供するものだった。
 ジミー・ウェールズによって設立され、ドット・コム企業
   Bomis
の賛助を得た。
 編集主幹として雇用されたサンガーは、他の編集者を募り、記事のレビューのプロセスを考案した。
 Nupediaの遅々とした進行に疑問を抱いたサンガーは、2001年1月にウィキを用いて執筆編集作業を効率化することを提案した。
 この提案を形にしたものが2001年1月15日に公式発足した英語版ウィキペディアである。

 サンガーはNupediaの活動の中心的存在であったため、ウィキペディア立ち上げの際には先頭にたってプロジェクトを進行し、名付け親となり、基本的な方針の大部分の構想を行った。こ
 の中には「あらゆるルールを無視せよ」および「中立的観点」というポリシーも含まれている。
 サンガーは2001年1月15日から2002年3月1日までの期間、ウィキペディアで唯一の報酬を受け取る編集者だった。

 2002年2月にBomis社がサンガーの給与支払いを停止するまでNupediaとウィキペディア双方で働くとともに宣伝活動も行った。
 なお、3月1日にNupediaの編集主幹およびウィキペディアのチーフ・オーガナイザーの職を辞した。
 サンガーは両プロジェクトでボランティアとして参加することをやめた理由として、パートタイムのボランティアでは満足に参加することができないからだと語っている。
 Nupediaはその翌年閉鎖した。

 2004年12月、サンガーはウェブサイトKuro5hinにおいて、「プロジェクト内部に社会的・政治的に有害な雰囲気が存在」しており、そのことも彼の離脱の原因となっていると述べた批判記事を発表した「
 ウィキペディアのメリットは十分に評価する」として「その使命と基本的なポリシー」はよく理解しており支持する、としながらも、このプロジェクトには深刻な問題があると述べている。

 現在、ウィキペディアの事実上のリーダーを務めている
   ジミー・ウェールズ
は、2004年以来、サンガーがウィキペディアの創設に参加したことを積極的に認めない言説を行っている。
 サンガーは一職員であり、ウィキペディアの共同設立に関しては「当初、同僚の中で(設立を)笑い話以外のものとして考えた者は一人もいなかった」とウェールズは述べている。
 一方、少なくとも2001年9月時点ではサンガーは共同設立人と認知されていた。

 サンガーは哲学の教授としてオハイオ州立大学の講師職に就き、2005年6月まで教壇に立った。
 専門は認識論で、とりわけ初期近代の哲学および倫理学を扱った。
 余暇にはオハイオ州コロンバスやデイトンでフィドルを用いたアイルランドの伝統音楽の演奏や指導を行っている。
 また、伝統的なフィドルについてのウェブサイトも運営している。

 2005年12月、ディジタル・ユニヴァース財団(Digital Univers Foundation)はサンガーが「分散コンテンツプログラム」(Distributed Content Programs)のディレクターとして雇用されていると発表した。
 その後、2006年初頭に立ち上がったDigital Universe Encyclopediaのウェブ・プロジェクトの中心的なまとめ役となった。
 Digital Universe Encyclopediaは、項目執筆およびユーザーの投稿記事の正確さをチェックする専門家を雇用する予定であり、この企画の最初のステップが、地球についての電子レファレンスであるEncyclopedia of Earthであった。
  
   
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アレクサンドル・ケレンスキー(Aleksandr Fyodorovich Kerenskii)ロシア革命(2月革命)の指導者のひとり。

アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー
   (Aleksandr Fyodorovich Kerenskii Алекса́ндр Фёдорович Ке́ренский )
   1881年4月22日ー1970年6月11日
 ロシアの弁護士、政治家。社会革命党党員で、ロシア革命(2月革命)の指導者のひとり。
 ペトログラード・ソビエト副議長、臨時政府法務大臣、陸軍・海軍大臣、大臣会議議長(1917年)などの役職を歴任した。
 1917年の2月革命後、新たに成立した臨時政府に入閣し、最初は法務大臣、次いで陸軍大臣を務めた。
 7月以降は臨時政府の首班(首相)を務めた。
 彼は社会革命党の社会民主主義
   トルドヴィキ派の指導者
でもあり、ペトログラード・ソビエトの副議長を務め、大きな権力を握っていた。
 臨時政府の首相に就任したケレンスキーは、その任期中に第一次世界大戦を継続させ、1917年頃からは
   反戦感情や反対意見の取り締まり
を強化したが、政権は不安定な状態であった。

 ケレンスキーは10月革命まで権力の座にあったが、この革命により、ボリシェヴィキは
   ウラジーミル・レーニン
が率いるソビエト政権を樹立し、ケレンスキー政権に取って代わった。
 ケレンスキーはロシアを脱出し、亡命生活を送った。
 彼はパリ、ニューヨークを行き来し、後年はスタンフォード大学のフーヴァー研究所で働いていた。
 
 ロシア帝国のシンビルスク(現在のウリヤノフスク)に一家の長男として生まれた。
 父フョードルはシンビルスク古典中高等学校の校長であった。
 なお、教師になる前はモスクワで商人をしていた。

 この学校の生徒の中には、
   ウラジーミル・ウリヤノフ(後のウラジーミル・レーニン)
がおり、ケレンスキー家とウリヤノフ家は互いに親しかった。
 1887年にレーニンの兄
   アレクサンドル・ウリヤノフ
がアレクサンドル3世暗殺計画の首謀者として処刑された際も、フョードルはレーニンを擁護していた。
 母ナジェーダはカザン軍管区地形局長の父と元農奴の母との間に生まれた娘だった。

 1889年に父が公立学校の監査官に任命され、ケレンスキーは父に連れられ任地のタシュケントに移った。
 1899年にサンクトペテルブルク大学に入学し、歴史学と言語学を学び、翌1900年からは法学を専攻した。
 1904年に法学の学位を取得し、同時期にロシア帝国軍将軍の娘
   オリガ・ルヴォヴナ・バラノフスカヤ
と結婚した。
 大学卒業後は弁護士となり、ロシア第一革命の犠牲者遺族の法律顧問を務め、
   ナロードニキ運動
に参加し、1904年末に武装組織の一員の嫌疑で投獄された。
 しかし、ケレンスキーは弁護士として、彼らの弁護を通して世間から高い評判を得ていた。

 1912年にトルドヴィキから出馬して第4回ドゥーマに当選した。
 また、ロシアの民主的変革を求める反君主制勢力の
   フリーメイソン方式の結社
にも参加を果たした。

 議会ではリベラル・反帝政的立場からニコライ2世と彼の内閣と対峙し、雄弁家として知られていた。
 同年4月、東シベリアのレナ川流域の金鉱で労働者ら軍隊に射殺された
   レナ虐殺事件
が起こると、ケレンスキーは事件調査委員会の委員長となり、改革派議員としてその名を知られるようになった。

 8月、彼はボリシェヴィキを除く、メンシェヴィキ、自由党、その他いくつかの社会主義政党を含む進歩ブロックのあたメンバーとなった。
 また、ニコライ2世に対する社会主義反対派の熟練した議会指導者としての地位を確立した。

 ケレンスキーは、フランスのグランド・オリエントから派生したフリーメーソンのロシア人民グランド・オリエントのメンバーであった。
 その後ケレンスキーはロシア人民
   グランド・オリエント
の事務総長の地位に就き、1917年7月に臨時政府に入閣するまでその地位を維持した。
 また、彼の後任はメンシェヴィキのアレクサンドル・ハルパーンであった。
 
 1916年11月2日開会のドゥーマでは、第一次世界大戦における東部戦線での相次ぐ敗退と、皇帝夫妻に取り入る怪僧
   グリゴリー・ラスプーチン
への批判を展開したうえ、閣僚を「雇われの暗殺者」「臆病者」「卑劣なラスプーチンの言いなり」と弾劾した。

 ケレンスキーはニコライ・ミハイロヴィチ大公、ゲオルギー・リヴォフ公爵、ミハイル・アレクセーエフ将軍と共に、ラスプーチンを重用するアレクサンドラ皇后をイギリス又はヤルタのリヴァディア宮殿に追放するようにニコライ2世に求めた。
 また、ミハイル・ロジャンコ、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃、マリア・フョードロヴナ皇太后、ヴィクトリア大公妃もラスプーチンの影響力を排除するように皇帝夫妻に圧力をかけたが、どちらの動きにも皇帝夫妻は応じなかった。

 1916年12月にラスプーチンは
   フェリックス・ユスポフ
によって暗殺された。
 後にロシア臨時政府の司法大臣となったケレンスキーは、兵士たちに、
   ツァールスコエ・セロー
の遺体を田舎の名もない場所に埋葬するよう命じた。
 しかし、トラックはサンクトペテルブルク郊外のレスノエ街道で雪のために故障したため停止を余儀なくされた。
 最終的に遺体はサンクトペテルブルク国立工芸大学の近くのボイラー工場の大釜で朝の3時から7時の間に棺も含めて焼却された。
 ケレンスキーは回顧録の中で、「ラスプーチンは『故郷のポクロフスコエ村に帰る』と脅して、アレクサンドラをコントロールしていた」と主張している。

 1917年3月8日(ユリウス暦2月23日)、ペトログラード(サンクトペテルブルク)におけるデモをきっかけに二月革命が勃発した。
 パーヴェル・ミリュコーフとともに、改革派議員の有力者と目されていたケレンスキーは帝政に反対する最も有名な演説者の一人として、また、弁護士として、多くの革命家の擁護者として、ロシア国会臨時委員会の委員に選出された。

 ペトログラード・ソヴィエトの副議長に任命されたが、ドゥーマとペトログラード・ソビエトの対立構造は解消されなかった。
 ペトログラード・ソビエトは、3000人から4000人の議員を擁するまでに成長した。
 1917年3月12日(ユリウス暦 2月27日)から3月13日(ユリウス暦2月28日)にかけての会議で、
   ペトログラード・ソビエト執行委員会(イスポルコム)
は、ソビエトに代表される各党から最終的に3名の委員を選出する自任委員会を結成した。
 ケレンスキーは社会革命党を代表する委員の一人となった。

 1917年3月14日(ユリウス暦3月1日)、ソビエトのイスポルコムは、政府との協議なしに16万人の
   ペトログラード守備隊
だけを対象とした悪名高い「指令第1号」を出した。
 これは「将校の権限剥奪」につながり、さらに「指令第3号」により、政治的において軍はソビエトに従属すると規定された。
 この指令は、将校たちが最も反革命分子であると考えた社会主義者のグループからの発案で、将校の権限を軍事専門家としての立場に限定することを目的としていた。

 これらの指令におけるケレンスキーの役割は不明だが、彼は一連の決定に参加した。
 しかし、革命前に反帝政派の多くを擁護したように、今度は暴徒にリンチされそうになっていた旧政府の官僚の多くの命を救ったという。
 さらに、ドゥーマは執行委員会を組織し、これが最終的にロシア臨時政府となった。

 イスポルコムとこの政府との間にはほとんど信頼関係がなかった。
 このため、ケレンスキーはイスポルコムだけでなくペトログラード・ソビエト全体に向けて熱弁を行った。
 そして、大臣として民主主義の価値観を決して侵さないと誓い、演説の最後を「私は人民なしには生きられない」と締めくくり、労働者と兵士の大多数は彼に大きな拍手を送り、ケレンスキーは臨時政府とイスポルコムの両方に参加した最初で唯一の人物となった。

 3月16日(ユリウス暦3月3日)に臨時政府が樹立されると司法大臣として入閣した。
 ケレンスキーは軍服姿で公の場に現れたが、彼自身は軍隊に所属したことはなかった。
 このため、彼の軍服には肩章やその他の装飾・勲章等は付いていなかった。

 ケレンスキーは政治犯の恩赦、ポーランドの独立承認、フィンランドの独立など臨時政府の決定を主導した。
 彼の命令により、すべての革命家が亡命先から帰還した。
 だが彼のもとで、かつての司法制度の破壊が始まった。
 3月3日には、すでに治安判事協会が改組され、判事1名と判事2名の計3名で構成されるようになった。

 3月4日、最高刑事裁判所、政府上院の特別法廷、司法会議所、階級代表の参加する地方裁判所が廃止された。
 4月には、英仏に戦争継続を確約したことが発覚して批判を受けた
   外務大臣 パーヴェル・ミリュコーフ
   陸海軍大臣 アレクサンドル・グチコフ
が辞任に追い込まれ、
 ケレンスキーはグチコフの後任の陸海軍相に就任した。
 ケレンスキーは彼がソヴィエト出身であったことが功を奏し、兵士と労働者の支持を背景に政府の実権を握ることに成功した。

 陸海軍大臣となったケレンスキーは自己の側近の将軍や将校をたちを陸軍の様々な要職に任命した。
 彼の義弟のウラジーミル・バラノフスキー中佐は陸軍大臣官房長に任命され、大佐に昇進し、1ヵ月後には少将に昇進した。
 参謀将校のグリゴリー・ヤクボヴィチ大佐とゲオルギー・トゥマノフ大佐は陸軍大臣補佐官に任命された。

 5月23日(ユリウス暦5月10日)には戦争継続を主張し各地を遊説した。
 彼の演説はその場においては印象的で説得力があったが、永続的な効果はほとんどなく、兵士からは「説得司令官」と揶揄された。
 陸海軍最高司令官をアレクセーエフ将軍をアレクセイ・ブルシーロフ将軍に代え、ドイツに対する大規模な攻勢を命令した。
 当初この攻勢は成功を収めたが、すぐに強力な抵抗に遭い、中央同盟国は強力な反撃に出た。

 ロシア軍は後退を余儀なくされ、多大な損害を被り、脱走、サボタージュ、反乱なども多発し、もはや攻勢は失敗したことは誰の目にも明らかであった。
 また、軍部からの支持も曖昧であり、ケレンスキーの将校の職務権限を剥奪し、代わりに革命に傾倒した「兵士委員会」(солдатские комитеты)に
   管理を委ねること、
   死刑を廃止すること
   革命扇動者の前線への同席を認めること
などの一連、軍制改革は軍部の反感を買い、彼の自由主義的な政策は激しく批判された。
 
 7月16日(ユリウス暦7月3日)にはペトログラードでボリシェヴィキが蜂起する七月蜂起が発生した。
 リヴォフは首相を辞任に追い込まれ、ケレンスキーは陸軍大臣と海軍大臣のポストを維持したまま、後任の首相に就任した。

 8月には陸海軍最高司令官ラーヴル・コルニーロフ将軍がボリシェヴィキ排除を目指しペトログラードに進軍した。
 9月9日にケレンスキーはコルニーロフを更迭したが、コルニーロフはコサック部隊を首都へと向かわせて進軍を続けた。
 ケレンスキーは事態に対処すべく、ボリシェヴィキの準軍事組織である赤軍に助力を要請した。

 最終的にコルニーロフは逮捕され、ケレンスキーは自ら陸軍最高司令官に就任するが、臨時政府内での影響力は低下し、クーデターの鎮圧に活躍したボリシェヴィキが勢力を拡大することになった。

 9月15日(ユリウス暦9月1日)、ケレンスキーは国号を「ロシア共和国」に変更した。
 彼は憲法制定議会が設立されるまで権力を維持しようと努めたが、社会革命党の理念である社会主義に反する共和制宣言により、党内からも彼に対する批判が生じた。

 共和制宣言後、ケレンスキーは自らを委員長に、外相ミハイル・テレシチェンコ、陸相アレクサンドル・ヴェルホフスキー、海相ドミトリー・ヴェルデレフスキー、郵政電信相アレクセイ・ニキーチンを委員に任命して最高会議委員会を組織した。
 以後、ケレンスキー政権はこの5人によって指導されることになる。

 当初は兵士からの人気があったケレンスキーだったが、戦争継続を訴え続ける彼に対し、「ロマノフ朝が崩壊すれば戦争は終わる」と考えていた兵士たちは次第に「平和、土地、パン」を主張して講和を掲げるボリシェヴィキを支持するようになった。
 兵士たちは次々に脱走し、1917年秋には兵力は200万人まで減少していた。
 一方、ケレンスキーや閣僚は、戦争から離脱した場合に英仏からの食糧供給が絶たれ、国内が混乱することを恐れたため、戦争を継続する以外に選択肢がなかった。
 また、反ボリシェヴィキで共闘する立場だった軍司令官コルニーロフを逮捕してしまったことで、ボリシェヴィキに対抗する戦力も失っていた。

 コルニーロフ事件の際、ケレンスキーはペトログラードの労働者に武器を配布していた。
 11月までにこれらの武装した労働者のほとんどはボリシェヴィキに移った。
 10月上旬にフィンランドから帰還したレーニンは、ボリシェヴィキに臨時政府打倒を呼びかけた。

 これを聞いたケレンスキーは11月5日(ユリウス暦10月24日)早朝に、士官学校生などを動員してボリシェヴィキの機関誌印刷所などを襲撃させた。
 しかし、レフ・トロツキー率いる赤軍はこれに直ちに反攻に出、印刷所を回復させ、郵便局、発電所、銀行等の公共機関の占領に成功した。
 これに続き、ボリシェヴィキは11月6日(ユリウス暦10月25日)にペトログラードで全面的な蜂起を行った(十月革命)。

 ケレンスキーが動員できる戦力は「死の大隊」と呼ばれる2個女性大隊のみだった。
 女性大隊は反ボリシェヴィキのために勇んで戦闘に参加したが、戦力差で圧倒する赤軍に敗北し、全員が捕虜となった。

 情勢の不利を悟ったケレンスキーは冬宮殿を脱出し、彼を除く臨時政府の閣僚は全員逮捕・監禁された。
 1918年6月、ケレンスキーはソビエト政権の国境警備隊にセルビア人将校名義の書類(送還委員会の責任者コムネノヴィッチ大佐から提供されたもの)を見せ、イギリスのスパイ、シドニー・ライリーを伴ってムルマンスクから亡命した。
 スペインの新聞『El Imparcial』によると、ケレンスキーは1920年2月にバクーで短期間逮捕されたという。
 その後、イギリス船でカフカース地方に渡ったが、またもや逮捕された。

 プスコフに逃れたケレンスキーは、同地の騎兵部隊を率いてペトログラードを奪還しようと試みた。
 ケレンスキーの部隊はツァールスコエ・セローを占領した。
 しかし、翌日にはプルコヴォで赤軍との戦闘に敗れ、数週間を隠れ家で過ごした後、フランスに亡命した。

 1920年8月、パリ滞在中のケレンスキーは、ロマノフ家逮捕の経緯と臨時政府の戦争中の活動に関する調査について詳細に説明した。
 ロシア内戦が勃発するとケレンスキーは白軍を「反革命右派」、ボリシェヴィキを「反革命左派」と非難し、両者とも支持しなかった。

 パリでもケレンスキーは活発な政治活動を続けた。
 1922年から1932年にかけて、彼は新聞『デイズ』を編集し、鋭い反ソ講演を行い、西ヨーロッパに対ソ連戦を呼びかけた。
 しかし1941年の独ソ戦開始後にはヨシフ・スターリンに支援を申し出ている。

 ケレンスキーは亡命後も政治活動を続け、1939年、パリに居を構えて間もなくオルガと離婚した。
 同1939年訪米中にオーストラリア人の元ジャーナリストであるリディア・エレン・"ネル"・トリットン(1899-1946)と出会い、極秘裏に再婚した。
 IMDbによれば、ケレンスキーの孫オレグは1981年の映画『レッズ』で祖父の役を演じた。

 1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻が開始すると、ケレンスキーはアメリカ合衆国に脱出した。
 1945年からはオーストラリアのブリスベンに移住し、彼女の家族と共に生活していた。
 1946年2月にリディアは脳卒中を起こし、4月10日に彼女と死別した。

 リディアとの死別後、ケレンスキーは再びアメリカに戻りニューヨークに居住するが、多くの時間をカリフォルニア州で過ごし、スタンフォード大学の講師やフーヴァー戦争・革命・平和研究所の研究員としてロシアの歴史や政治史に関する記録を残した。

 また、革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいてユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。
 その間、KGBは「ピエロ」のコードネームを付けてケレンスキーを監視し、一時は「無力化すべし」とまで報告したが、結局彼は何も危害を受けることはなかった。

 1970年4月24日に転倒で肘と骨盤を骨折していたためニューヨークにある聖ルカ病院に入院していた。
 その後、6月11日に動脈硬化性心疾患により亡くなった。
 十月革命の当事者としては最後の生き残りの一人であった。
 ロシア皇帝を打倒したケレンスキーはロシア正教会から憎まれており、正教会はケレンスキーの葬儀と埋葬を拒否した。
 最終的には息子オレグとグレブの意向により、遺体はロンドンにある無宗派の墓地に埋葬された。
  
    
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リチャード・ツァイ(Richard Tsai) 富邦金融ホールディングスの経営者

リチャード・ツァイ(Richard Tsai 蔡明興)
 1957年または1958年生まれ
 台湾の実業家で彼と彼の兄弟
   ダニエル・ツァイ
は、父の
   蔡万ツァイ
が設立した
を経営している。
 フォーブスの2016年の世界長者番付では、リチャード・ツァイは純資産24億ドルで722位にランクされた。  
 蔡氏は台湾の台北市に居住しており、結婚しており、2人の子供がいる。

   
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2025年01月14日

ロン・コンウェイ(Ron Conway)米国のベンチャーキャピタリスト 

ロナルド・クロフォード・コンウェイ
        (Ronald Crawford Conway)
   1951年3月9日生まれ
 米国のベンチャーキャピタリスト、慈善家である。
 彼はシリコンバレーの「スーパーエンジェル」の一人と評されている。 
 コンウェイは1973年から1979年まで
   ナショナル セミコンダクター コーポレーション
でマーケティングの職に就いた。
 1988年から1990年まで
   アルトス コンピュータ システムズ
で社長兼CEOを務めた。
 1991年から1995年まで
   パーソナル トレーニング システムズ (PTS)
のCEOを務めた。
 PTSは
   スマートフォース/スキルソフト
に買収された。

 アイルランド系カトリックの家庭で育った。
 
 コンウェイは1990年代半ばに
   マリンバ・システムズ
   レッド・ヘリング誌
などへの投資でエンジェル投資を始めた。
 1997年に最初のベンチャーキャピタルファンドである
   アダム・ベンチャーズ
に400万ドルを調達した。
 1998年12月にはベンチャーキャピタル会社
   エンジェル・インベスターズLP
を設立した。
 2か月以内に最初のファンドであるエンジェル・インベスターズIに3000万ドルを調達した。
 エンジェル・インベスターズは1999年末に2番目のファンドであるエンジェル・インベスターズIIをクローズし、1億5000万ドルを調達した。
 エンジェル・インベスターズLPは
   グーグル
   アスク・ジーブス
   ラウドクラウド
   ナップスター
   ペイパル
への初期投資者だった。
 コンウェイはエンジェル・インベスターズLPでの成功が認められ、2006年のフォーブス誌の
   ミダス・トップディールメーカーリスト
に選ばれた。
  
 コンウェイ氏は2006年から2009年まで
の特別パートナーを務めた。
 2009年にコンウェイ氏は自身の個人投資会社
をベンチャーキャピタル会社に転換し、外部投資家から1000万ドルを調達した。
 SVエンジェルは2018年までに6つのファンドを調達した。

 2018年にコンウェイ氏はSVエンジェルが投資戦略を一時的に見直し、新しいファンドを調達するのではなく、個人エンジェルとしての「原点回帰」の役割に戻ると発表した。
 2022年3月、コンウェイ氏はSVエンジェルが初のグロース・エクイティ・ファンドのために2億6900万ドルを調達したと発表した。
 新ファンドは、以前
を共同設立した
   アシュビン・バチレディ氏
が率いた。
 SVエンジェルのマネージング・コディレクターの
   トファー・コンウェイ氏
は「このファンドの目標は、シードファンドのDNAを引き継ぎ、成長段階に持ち込むことです」 「私たちはラウンドをリードするのではなく、協力し、誰かを排除したくないのです。」と述べた。
 SVエンジェルはまた、
   ベス・ターナー
をシードファンドのリーダーに昇進させ、ロンとトファー・コンウェイがマネージング・コ・ディレクターとして両ファンドを監督した。 

 コンウェイはコミュニティ活動や慈善活動に積極的で、サンフランシスコの
   UCSF医療財団
の副会長を務め、また
   「Fight for Mike」ホーマー
   クロイツフェルト・ヤコブ病
の共同会長も務めている。
 彼はUCLA、セントフランシス高校、セイクリッドハートスクール、サンフランシスコのUCSF医療センター、パッカード小児病院、レガシーベンチャー、スタンフォードのロナルドマクドナルドハウスの開発委員会に所属している。
 彼はタイガー・ウッズ財団の慈善委員会に所属している。
 
 2021年、コンウェイは
が設立したキャンペーン「ザ・ギビング・プレッジ」に参加した。
 このキャンペーンは、超富裕層の人々を説得し、勧誘して、彼らの富の大部分を慈善事業に寄付してもらうことを目的としている。

 2022年、コンウェイは
   ミラ・クニス
   アシュトン・カッチャー
の「Stand with Ukraine」GoFundMeに250万ドルを寄付したほか、
   アリアナ・グランデ
の「Protect & Defend Trans Youth Fund」に2万5000ドルを寄付した。
 
 コンウェイ氏はサンディフック小学校銃乱射事件の犠牲者の両親が設立し​​た非営利団体
   サンディフック・プロミス
の諮問委員会のメンバーである。

 コンウェイ氏は、テクノロジーとイノベーションを通じて銃器の安全性を促進することを使命として設立した非営利団体
   スマートテックチャレンジ財団
の銃器チャレンジに100万ドルを寄付した。
 
 コンウェイは、2011年11月にサンフランシスコ市長選挙で
   エド・リー
が勝利した際に、単独の最大の献金者であり、独立支出委員会を通じてリーのために60万ドルを集めた。
 それ以来、リーがコンウェイが投資している企業に利益をもたらす行動をとったかどうかについて疑問が提起されている。

 2012年、コンウェイは
   サンフランシスコ市民技術革新イニシアチブ(sf.citi)
を設立した。
 これはテクノロジーコミュニティを擁護し、数多くの公共イニシアチブや、サンフランシスコ保健局、緊急事態管理局、警察署、学区などの公的機関と提携したテクノロジー企業を含む官民パートナーシップに関与する501(c)組織である。

 2013年4月、 FWD.usと呼ばれるロビー団体(移民改革と教育の改善のためのロビー活動を目的とした)が立ち上げられ、ロン・コンウェイが支持者の一人として挙げられた。

 2014年、コンウェイはAirbnbの投資家仲間である
   リード・ホフマン
とともに、サンフランシスコの現監督官であり2015年の提案Fの支持者である
   デイビッド・カンポス
と激しい戦いを繰り広げた
   デイビッド・チウ
の議会選挙運動を支援するため、合計68万5000ドルをデイビッド・チウに寄付した。

 コンウェイ氏は、特に銃規制と移民問題に関して
   ドナルド・トランプ大統領
を厳しく批判してきた。
 2018年に民主党が米国下院の支配権を獲得するための取り組みを支援するために、100万ドル以上を費やし、さらに数百万ドルを調達したと報じられている。
 Recodeは、2018年11月の中間選挙に向けたシリコンバレーの10大寄付者および資金調達者の1人に彼を選出した。

 コンウェイ氏はロンドン・ブリード市長の初期の支持者でもあった。
 2018年にはサンフランシスコの地方選挙よりも国内の問題に焦点を当て続けた。
 しかし、彼の妻ゲイルはブリード氏の対立候補ジェーン・キム氏を攻撃した政治活動委員会に20万500ドルを寄付した。

 コンウェイ氏は、 COVID-19パンデミックへの対応と回復のために協力するために2020年3月に設立されたテクノロジー業界の連合であるCOVID-19テクノロジータスクフォースの共同議長を務めている。

 2022年8月、コンウェイはリベラルな政治活動委員会(PAC)である
   The Next 50
に5万ドルを寄付した。
 2024年第1四半期に、コンウェイ氏とその息子たちは、オークランド・ユナイテッド・トゥ・リコール・シェン・タオ(OUST)政治委員会に現金寄付の半分を寄付した。
 2024年、コンウェイ氏は、第三者が民主党候補を弱体化させることを阻止することを目的とするリベラルな政治活動委員会(PAC)である
   クリア・チョイス
に25万ドルを寄付した。
 
 2010 年 9 月、ロンはAngelgateに関与していました。
 
 コンウェイは現在サンフランシスコに住んでいる。
 彼には妻と3人の子供がいる。

    
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ゲオルク・ヴェルトハイム(Georg Wertheim)ドイツのデパートチェーン ヴェルトハイムの創設者

ゲオルク・ヴェルトハイム(Georg Wertheim)
   1857年2月11日 ー1939年12月31日
 ドイツの商人で、人気のデパートチェーン
   ヴェルトハイム(Wertheim)
の創設者である。
 ヴェルトハイムは
   アブラハム
   イダ・ヴェルトハイム
の次男として生まれ、シュトラールズントで育った。
 ヴォルフとアポラントで見習いをした後、ヴェルトハイムは兄のヒューゴとともに、1875年に両親が創業した小間物店を1876年に引き継いだ。
 2人の兄弟はすぐに店に新しいアイデアを持ち込んだ。
 顧客は商品の交換が可能になり、商品の価格設定が顧客に信頼できるものとなり、購入は現金のみで行われるようになった。
 このコンセプトは成功し、ロストックに別の支店を開設した後、1885年にベルリンのローゼンターラー通りに最初の支店が設立された。

 ヴェルトハイムは、産業化の時代に成長する「都市の需要の変化」をすぐに認識するようになり、1890 年にベルリン クロイツベルクのモーリッツ広場/オラーニエン通りに最初の本格的な百貨店をオープンさせた。
 店舗のフロアはより広くなり、販売する製品をより精巧に展示できるようにして製品が展示された。
 在庫期間が長くなったため価格も下がった。
 ただ、店舗が古い住宅内に位置していることから生じる制限が次第に明らかとなり、部屋は特に広くなく、それ以上の拡張はほとんど不可能であった。

 ゲオルク・ヴェルトハイムはベルリン芸術アカデミー・ゾンタークスクルゼン校でさらに学び、それまで無名だった建築家
   アルフレッド・メッセル
とともに、商品販売専用の建物の構想を練り始めた。
 1892年にライプツィヒ通りに店舗をオープンし、1894年にはオラーニエン通りに初めて計画・建設されたデパートで商品の販売を開始した。

 1896年にオープンしたライプツィヒ広場の有名な
   ヴェルトハイム カウフハウス
は、さらに一歩先を進んでいた。
 ヴェルトハイムは、それまで彼の百貨店を敬遠していた高級顧客が、一軒の店ですべてのニーズを満たせるようにしたいと考えた。
 このため、街で最もにぎやかな広場に新しい建物をすぐにオープンさせた。
 その後数年間、メッセルは建物を絶えず拡張する必要が生じた。
 ライプツィヒ広場のヴェルトハイム店は、ロンドンの
   ハロッズ
やパリの
   ギャラリー・ラファイエット
と比較されるようになった。
 その後、ローゼンターラー通り(1903年)、ケーニヒ通り(1911年)、そして再びモーリッツ広場(1913年)にショッピングセンターがオープンした。
 モーリッツ広場ヴェルトハイム店は、顧客が地下のプラットフォームから入り口まで直接行けるように、Uバーン(地下鉄)の路線変更(競争相手のルドルフ・カールシュタットのモデルを模倣)の資金調達に協力した。

 1913 年、ヴェルトハイム帝国は、その種の企業としてはドイツ最大となった。
 その成功はすぐに嫉妬を呼び起こし、ヴェルトハイムのようなショッピング センターのほとんどが
   ユダヤ人の家族経営の会社
だったため、ショッピング センターに対するさまざまなキャンペーンが展開された。
 彼らは、虚偽の重量で作業し、粗悪な商品を提供し、従業員を搾取し、顧客の士気を低下させているとほのめかされていた。
 ヴェルトハイム家は、従業員に
   特別な品質と安全対策
を提供することで、こうした批判に対抗し、対抗しようとした。
 
 1933年、ユダヤ人のヴェルトハイム家は会社を「アーリア化」することを強制された。
 これは会社を「アーリア人」に明け渡すことを強制されたということ。
 1937年1月1日、ゲオルク・ヴェルトハイムは会社を去った。

 ヴェルトハイム家は、ナチスの法律では「アーリア人」とみなされていたゲオルクの妻
   ウルスラ
を主要株主にすることで、会社の支配権を失うことを避けようとした。
 この対応で会社はドイツ企業であると宣言され、「Allgemeine Warenhandels-Gesellschaft」(一般商品貿易会社)、またはAWAGに改名された。
 ゲオルク・ヴェルトハイムは1939年12月31日にベルリンで亡くなった。
 
 第二次世界大戦後、ヴェルトハイムは1949年に東ドイツから追放された。
 1951年に西ドイツで
   ヘルティ・コンツェルン
が株式の大半を購入し、ヴェルトハイムの名で事業を継続した。
 家族の親族は少額の補償金を受け取り、ヘルティが購入した会社の株式に対するすべての権利を放棄させられた。
 1984年、ヘルティはヴェルトハイムの残りの株式を取得した。
 長い間、シュテグリッツァー シュロス通りとトライシュケ通りの角にある店は、最も重要な存在として活動した。
 1960 年代には、この店は大幅に拡張され、住宅街全体の再編につながった。
 その後の数十年間で、シュロス通りとボルン通りの角、カウフハウス ヴェルトハイムの隣に大きなカールシュタット ショッピング センターやその他のショッピング センターが建設された。
 この場所には、すでに長い間ケッテ ヘルド、後にヘルティの店が建っていた。
 1994 年、クルフュルステンダムに唯一残っていたヴェルトハイム店とヘルティ事業が、
   カールシュタット社
の所有となった。
 ヴェルトハイム家の子孫は現在ドイツとアメリカに居住している。
 彼らはナチス政権下で奪われた財産の一部の返還を求めて訴訟を起こした。
 2007年にカルシュタットクヴェレはホロコースト関連の賠償金として1億1,750万ドル(8,800万ユーロ)を支払うことに同意し、この大規模な訴訟が解決した。
    
     
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2025年01月13日

ホールデン・カーノフスキー(Holden Karnofsky)慈善団体評価機関のギブウェルを共同設立

ホールデン・カーノフスキー
       (Holden Karnofsky)
   1981年7月生まれ
 米国の非営利団体の幹部で、研究および助成金提供組織である
の共同設立者であり、AI戦略担当ディレクターを務めている。
 カルノフスキーは2007年に
とともに慈善団体評価機関の
を共同設立し、同社の取締役会副会長を務めていた。
 
 ユダヤ系米国人のカルノフスキーは2003年にハーバード大学を卒業し、社会学の学位を取得した。
   ハーバード・ランプーン
のメンバーだった。
 卒業後はコネチカット州ウェストポートに拠点を置く投資運用ファンド
に勤務した。
   
 ブリッジウォーターで、カルノフスキー氏は後にギブウェルの共同設立者となるエリー・ハッセンフェルド氏と出会った。
 2006年、カルノフスキー氏とハッセンフェルド氏は
   チャリティークラブ
を設立し、ブリッジウォーターの他の従業員と資金を出し合い、寄付するのに最適な慈善団体を調べた。

 2007年半ば、同僚からの寄付でカルノフスキー氏とハッセンフェルド氏は「クリア・ファンド」と呼ばれる基金を設立し、仕事を辞めてギブウェルにフルタイムで取り組むようになった。
 ギブウェルの目標は、クリア・ファンドの資金を最適な慈善団体に配分することだった。

 2007年12月、カルノフスキーは、別の個人の名前を使って
   MetaFilter
に組織に関する質問を投稿し、その後、GiveWellとの提携関係を明かさずに、自分の名前を使ってGiveWellに関する回答を投稿していたことが発覚した。
 この悪評により、カルノフスキーは事務局長の職を辞したが、後に復職した。
 理事会は、彼が受講する必要のある専門能力開発コースの費用を賄うために、彼の給与から5000ドルを削減した。
 この事件は、GiveWellの評判に悪影響を及ぼした。
 カルノフスキーは、この事件は
   睡眠不足が原因
だと主張し、MetaFilterに寄付を申し出たが、サイトのユーザーから嘲笑された。

 2012年6月、ギブウェルは、フェイスブックの共同創設者
   ダスティン・モスコヴィッツ
の財産を寄付する慈善財団
   グッドベンチャーズ
との緊密な提携を発表した。
 グッドベンチャーズはそれ以来、ギブウェルの主要資金提供者の1つであり、ギブウェルが推奨する慈善団体への主要寄付者でもある。

 カルノフスキー氏のリーダーシップの下、ギブウェルが推奨する慈善団体に寄付される年間資金は、2010年の160万ドルから2015年には1億1000万ドルに増加した。
 2020年現在、彼は同団体の取締役会の副会長を務めている 。

 2014年8月、ウィリアム・アンド・フローラ・ヒューレット財団が非営利マーケットプレイス・イニシアチブ(GiveWellの初期の主要な資金提供者の1つ)の終了を発表した。
 その後、カルノフスキー氏はGiveWellのブログに、同財団からの多額の資金提供を受けた経験から得た同プログラムについての考えを投稿した。
 ヒューレット財団は投稿にコメントで反応し、ジェイコブ・ハロルド氏はガイドスターのブログで反応した。
 カルノフスキー氏は、 80,000 Hoursポッドキャストやその他の場所でロバート・ウィブリン氏とのインタビューで、利他的なキャリア選択についての考えを共有し、オープン・フィランソロピーの優先課題へのアプローチについて詳しく述べている。

 2017年8月、カルノフスキー氏は、元OpenAI従業員で、兄の
   ダリオ・アモデイ氏
とともに
   Anthropic
というAI企業を共同設立した
   ダニエラ・アモデイ氏
と結婚した。
 Anthropicは、 ChatGPTの代替となるチャットボットClaudeを開発した。
 カルノフスキー氏とダリオ氏は元ルームメイトだった。
 カルノフスキーは効果的利他主義の考えに共感し、効果的利他主義者のコミュニティを代表し、活​​動してきた。
 キャリアの初期に、カルノフスキーは「人々に自分の望む人生を生きる力を与える」ことを願う結果主義の道徳的枠組みに賛同していたと述べた。
 近年、彼は道徳的配慮に値するすべての存在に共感を示すことの重要性について、たとえそれが普通でなかったり奇妙に思える場合でも、書いている。
 彼は、ギブウェルが従業員の人種的および性別の多様性を高めることが重要であると信じており、組織はそれに向けて措置を講じている。
 彼は他の非営利団体のリーダーたちと現地訪問の重要性について議論しており、現地訪問は慈善プログラムの有効性を評価する上で重要だが十分ではないと考えている。

 カルノフスキー氏は、カリ・ツナ氏とダスティン・モスコビッツ氏が主な資金提供者である研究・助成財団
   オープン・フィランソロピー
のCEO、その後共同CEOを務めた。
 オープン・フィランソロピーは、投機的な寄付のためにギブウェルとグッド・ベンチャーズが協力した
   ギブウェル・ラボ
から派生したものである。
 2019年8月現在、オープン・フィランソロピーは370を超える団体に約650件の助成金を支給し、総額8億5,700万ドルを支出している。
  2023年、カルノフスキー氏はまず共同CEOの職を退き、その後AIの安全性に注力するAI戦略ディレクターに就任した。
 カルノフスキー氏は2017年から2021年まで
   OpenAI
の取締役を務めた。
    
   
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