2018年03月22日

ジョン・ロバート・ボルトン 元米国国連大使


ジョン・ロバート・ボルトン
     (John Robert Bolton)

    1948年11月20日 生まれ

 米国の政治家で外交官。
 元米国国連大使。

 メリーランド州ボルチモア生まれ。1970年にイェール大学を最優等(summa cum laude)で卒業した。
 1974年同大学イェール・ロー・スクール修了(法務博士 J.D.)。

 タカ派で、アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)などへの関与から
   ネオコン
の代表的な人物とみなされることが多い。

 ただ、ボルトン自身は高校時代からユダヤ系の
   バリー・ゴールドウォーター
の選挙運動に参加するなど生粋の保守派で、左翼からの転向者を意味する「ネオコン」と呼ばれることを嫌っている。


   
  

 また、ワシントンにおいてボルトンの後ろ盾となってきたのも、キッシンジャーなど、いわゆる共和党保守本流に属する人物が多い。
 親イスラエル派、また「ブルーチーム」と呼ばれる親中華民国(親台派)の代表的人物と見なされている。


  
 
 

   
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2018年02月12日

屈原(くつげん) 戦国時代に存在した楚の政治家


屈原(くつげん)
   紀元前343年1月21日頃 -
             紀元前278年5月5日頃

 中国古代、戦国時代に存在した楚の政治家であり詩人。
 姓は羋、氏は屈、諱は平または正則という。
 字が原。

 秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする
   懐王
を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。
  
 蘇秦と共に縦横家の代表的人物とされる秦の宰相
   張儀
は蘇秦が唱える合従策を連衡策で打ち破り、秦の統一に貢献した。  


 春秋戦国時代を代表する詩人としても有名である。
 
 屈原は楚の武王の
   公子瑕(屈瑕)
を祖とする公族の1人で。

 父は屈伯庸、弟は屈遙、子の名は不詳。

 屈氏は景氏・昭氏と共に楚の公族系でも最高の名門の1つであった。
 家柄に加えて博聞強記で詩文にも非常に優れていた。

 このために懐王の信任が厚く、賓客を応接する左徒となった。

 当時の楚は、西の秦といかに向き合っていくかが主要な外交問題であった。楚

 の外交方針について、臣下は二分しており、一つは、西にある秦と同盟することで安泰を得ようとする親秦派(楚における連衡説)であり、もう一つは、東の斉と同盟することで秦に対抗しようとする親斉派(楚における合従説)であった。

 屈原は親斉派の筆頭であった。


 当時の楚では屈原の政治能力は群を抜いていたが非常に剛直な性格のために同僚からは嫉妬されていた。

 讒言を受けたため、王の傍から遠ざけられると同時に国内世論は親秦派に傾いた。

 屈原は秦は信用ならないと必死で王に説いたが、受け入れられない。


 屈原の心配どおり秦の謀略家張儀の罠に懐王が引っかかり、楚軍は大敗した。

 丹陽、藍田の大敗後、一層疎んぜられて公族子弟の教育役である三閭大夫へ左遷され、政権から遠ざけられた。
 
   
 秦は懐王に婚姻を結ぼうと持ちかけて秦に来るように申し入れた。

 屈原は秦は信用がならない、先年騙されたことを忘れたのかと諫めた。
 懐王は聞く耳を持たずに親秦派の公子子蘭に勧められて秦に行き、秦に監禁されてしまった。

 王を捕らえられた楚では頃襄王を立てた。

 頃襄王の令尹(丞相)として屈原が嫌っていた子蘭が着任した。

 このため、更に追われて江南へ左遷された。

 その後、秦により楚の首都郢が陥落したことで楚の将来に絶望して、石を抱いて汨羅江(べきらこう)に入水自殺した。

 後に屈原の無念を鎮めるため、また亡骸を魚が食らわないよう魚のえさとしても人々が笹の葉に米の飯を入れて川に投げ込むようになったと言われtえいる。
 これがちまきの由来とされる。

 また、伝統的な競艇競技であるドラゴンボート(龍船)は入水した屈原を救出しようと民衆が、先を争って船を出したという故事が由来であると伝えられている。


 

    
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2018年02月08日

王建(ワン・ゴン) 高麗王朝の初代太祖


王建(ワン・ゴン 高麗王朝の初代太祖)
   新羅憲康王3年1月14日(877年1月31日) ―
                  天授26年5月29日(943年7月4日)

 初代高麗王として918年に即位し、943年に他界した。

 王建の記録のある最初の先祖は中国の陝西省京兆郡出身の衛の君主
   康叔
の子孫で高句麗に渡った康虎景の孫で
   損乎述
といわれており、その後、宝育と改名した。

 宝育は兄の娘
   徳周
を娶り、娘の辰義をもうけた。

 この辰義は中国唐の皇族宣宗が新羅に来たときに、王帝建を生んだとされる。

 王帝建は、父を探しに行く旅の途上で、西海の龍王の娘の
   龍女(後の元昌王后)
と結婚し、息子の王隆をえた。

 王隆は松岳(現在の開城)を拠点に半島西南の海岸部で貿易で財をなす豪族となる。
 なお、王建は新羅憲康王3年(877年)1月31日に王隆と威粛王后とのあいだに生まれた。

 唐の力を借りて高句麗、百済を滅ぼした新羅は9世紀末になると国力が衰退し、各地で反乱が起きていた。

 新羅への反乱軍の指導者で
   後高句麗
を建国した泰封王
   弓裔
の幕閣の一員として王建は従い、松岳城主、鉄原太守を歴任し、西南海域の水軍を統率して活躍した。

 後高句麗は、新羅や後百済に対して優勢に戦った。

 弓裔は自らを弥勒菩薩と自称し仏教の神秘性を利用して権威を高めようとした。
 しかし、弓裔が部下に対しては傲慢で乱暴になるなど暴君になった。

 このため、918年に弓裔の部下である
   洪儒、裴玄慶、申崇謙、卜智謙
らは、弓裔を追放し「易姓革命」を起こして王位を奪ったのち、後継として王建を新たな指導者として擁立した。

 王建は松岳郡に918年に遷都し、郡を開州に昇格させた。

 後高句麗の後継者を自称して国号を高麗と定めた。
 また、年号を天授と定めた。

 920年になると後百済に圧迫されていた新羅の
   景明王
に信書を送り同盟を結ぶことにした。

 926年10月、後百済は新羅の首都である金城(慶州市)を占領したため景哀王は自殺した。
 ただ、後百済は手強く、一進一退の攻防を繰り広げていた。

 930年から高麗は反撃に転じ、古昌郡において後百済を大敗させた。

 933年、後唐に朝貢し、王建は高麗国王に任じられた。

 934年、後百済は休戦を申し入れ、王建もその気になった。
 しかし、老将の痩黔弼一人が反対した。

 王建は痩黔弼の意見を採用し、後百済軍を打ち破り、熊津(公州市)以北の地を手に入れた。

 
 935年になると後百済で王位継承による内紛が発生し翌936年に初代王である
   甄萱
が高麗に投降した。

 また、新羅最後の王
   敬順王(金傅)
が高麗に帰順した。

 後百済の内紛に巧みに介入した王建は、936年、遂に朝鮮半島の統一を成し遂げることに成功した。

 統一後は、国内の基盤固めに尽力した。


 王建は、前王朝・新羅の貴族や豪族の多くを家臣として加えた。
 地位と所領の安堵で国内の混乱を最小限に抑え、それらを府・州・郡・県に分けて地方をそれぞれ治めさせた。 

 中央は三省六官、九寺にして中央集権化を確立した。

 対外的には、遼に滅ぼされた渤海の遺民受け入れや植民に尽力した。

 国内の復興と発展に努めた。


 また、中国の王朝に対してはこの頃、五代の王朝に相次いで朝貢を行なって冊封されることで友好関係を保った。

 日本の朝廷に対しても2度にわたって使者を送り、友好と通商を求めたものの、藤原氏による官職の独占が広がり、メリットが少なく、これは日本側に拒絶された。
   
    
    

   
   
    
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2017年09月14日

黎利(れい り Lê Lợi(レ・ロイ) 後黎朝大越国の初代皇帝


黎利(れい り Lê Lợi(レ・ロイ) 
   1385年9月10日(昌符9年8月6日)−
            1433年9月5日(順天6年8月22日)
  
 ベトナムの後黎朝大越国の初代皇帝(在位: 1428年 - 1433年)でレ・タイ・ト(Lê Thái Tổ、黎太祖)の廟号でも知られる。
 諡号 高皇帝。

 ベトナム中部タインホアのラムソン(藍山)の豪族であったが1406年の明の
   永楽帝
によるベトナム侵攻とその後の支配に抵抗した。

 1416年、にグエン・チャイ(阮廌)らとともに、ラムソンで挙兵した(藍山起義)。
 1418年にはビンディン・ウォン(平定王)と称するようになり、以後、10年に及ぶ明への抵抗運動を続けた。

 ゲリラ戦を勝ち抜き、明をベトナムから撤退させることに成功した。

 1428年、正式に明から独立し、ドンドー(東都、現ハノイ)で帝位に就き黎朝を創始しあ。
 国号を「大越」とし宰相のグエン・チャイらの補佐のもと、国家制度の整備を行った。

 また、均田制・科挙制なども導入したうえ、諸法典の整備に取り組んだ。
  

 明との関係修復を図ったものの、名目上で陳氏の末裔として担いだ陳ロを殺害したことや
   「反乱軍の首魁」
を冊封することへ抵抗感などからの明宮廷では反対論が大勢を占めたため
   「権署安南国事」
への任命に留まり、在世中は安南国王に封ぜられることはなかった。
  

 1433年に死去し、次男の黎元龍が継ぎ太宗となったが朝廷内の権力争いが激化した。
 太宗の扶育係でもあった阮廌は
   建国の功臣
としてその権力を危ぶまれたため故郷に隠居したが、太宗が閲兵式の帰りに阮廌邸に立ち寄った際に急死したため、太宗暗殺犯の罪を着せられ、1442年に三族ともども処刑された。


 
  

   
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2017年09月12日

陳朝(チャンちょう  Nhà Trần) ベトナムの王朝で国名は大越


陳朝(チャンちょう  Nhà Trần)

 現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝で国号は大越。
 首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)にあった。

 陳氏の祖先は福建、もしくは桂林からの移住民で、現在のナムディン省とタイビン省一帯を根拠地とした。
 一族は漁業と水運業で生計を立て、また、漁業と水運業の傍らで海賊業を行っていたとも言われている。

 前黎朝の将軍
   李公蘊(リ・コン・ウァン、李太祖)
が建国した李朝支配下のベトナムの北部地域では12世紀末より政権の腐敗が甚だしくなっており、天災による飢饉によって民衆は窮乏し、治安は悪化していた。

 飢えに苦しみ暴徒化した民衆の反乱が乂安(ゲアン)、清化(タインホア)、寧平(ニンビン)で起こった。

 各地の豪族の中にも政府に反逆する者が現れ1208年には
   乂安の反乱
を鎮圧するために招集した軍隊が昇龍で反乱を起こし皇帝・高宗ら李朝の王族は昇龍から放逐された。

 李朝は反乱の鎮圧に外戚の陳氏の力を借りた。

 1209年、陳氏の頭領
   陳李
は李朝の王族たちを保護するが翌年盗賊に討たれてしまった。
 代わって次男の
   陳嗣慶(チャン・トウ・カイン)
が主導権を握った陳氏は高宗を擁して昇龍に入城し、これ以降宮廷で陳氏の勢力が台頭した。

 乱を鎮圧していく中に陳李によって擁立された皇子
   李旵(恵宗)
が即位すると、陳李の娘・仲女を恵宗の妻に、恵宗の母である譚氏を太后として、陳氏と譚太后の共同統治が行われた。

 やがて陳氏と譚太后の間に権力をめぐる対立が起きるが、陳氏は恵宗の支持を得て、譚太后一派を追い落とした。
 宮廷内での地位を確立したのち、内乱の鎮圧にあたって陳嗣慶は兄の陳承(チャン・トウア)、従兄弟の陳守度(チャン・トゥー・ド)ら一族と連携して統治し、陳嗣慶が没した後は殿前指揮使の高位に就いていた陳守度が陳氏の中心人物となり政治を主導した。

 1224年に陳守度は7歳の王女である
   仏金(パット・キム、昭皇、昭聖皇后)
を皇帝に擁立した。

 仏金の父である恵宗を退位させたうえで寺院に隠棲させた。

 陳守度は8歳の甥
   陳煚(チャン・カイン、後の太宗)
を昭皇の遊び相手としたうえ、その後、陳煚と昭皇を結婚させた。

 1225年には昭皇から陳煚への譲位が行われ、陳煚を皇帝、陳煚の父である陳承を上皇とする陳氏の王朝が成立した。

 陳朝成立後には不用となった恵宗を隠棲先の寺で自害させた。

 さらに、陳守度は禍根を残さないよう
   李朝再興の芽
を摘むために恵宗の葬儀に集まった李朝の宗族を皆殺しにした。
 また、李朝の王女たちは生口同様の扱いで紅河デルタ周辺の部族勢力に嫁がせる措置を講じて、彼らとの修好を図った。

 太宗の治世の初期では陳守度が皇帝を補佐して王朝の基礎を固めた。
 また、李朝末期より発生していた反乱もほぼ鎮圧された。


 1237年に太宗は陳守度の進言によって、子の無い昭聖皇后に代えて、兄の陳柳の妻である順天を妊娠中にもかかわらず奪って妻とした。

 妻を奪われた陳柳は反乱を起こし、一時は太宗が安子山に隠遁する大事に至った。
 結局騒動は陳守度によって収拾され、太宗と陳守度との抗争に敗れた陳柳は安生王として紅河デルタの東端(現在のクアンニン省)に封じられた。

 太宗の親政が始まった1240年代より官、軍、法の各種制度の制定が実施された。

 1242年に国内を12の路に分けての行政区画と戸籍の整備が行われた。

 1248年には治水に携わる新たな官職として河堤使が設置され、総延長は200キロメートルにも及ぶ「水源から海に至る」と言われた鼎耳防と呼ばれる大堤防の建設令が出され、治水と交易ルートの安定確保が図られ経済が活発化し国力を増した。

 太宗の治世の末期である1257年から、雲南を占領したモンゴル軍によるベトナム侵攻が始まっている。

 1257年の末にモンゴルの軍人
   ウリヤンカダイ
の率いる軍隊が北方の国境地帯に突然現れ、太宗にモンゴルへの従属を求める使者を送った。

 3度送られたモンゴルの使者はいずれも太宗の命令で投獄された。
 ベトナムではモンゴルの侵入に備えて軍備が整えられた。

 同年末にに送り込んだ使者が帰還しないことに業を煮やしたウリヤンカダイの攻撃が開始された。

 モンゴル軍は紅河を渡河して昇龍を略奪したため、太宗は昇龍を放棄して陳守度と共に南方の天幕(ティエンマク、現在のハナム省ズイティエン)に遷都した。

 モンゴル軍が北方に引き返すと太宗は次子の陳晃(聖宗)に譲位し、使節をウリヤンカダイの軍隊に同行させてモンケの宮廷に派遣した。

 モンケの没後に
   クビライ
がハーンに即位して元朝が成立した。

 その後も、聖宗はモンゴルへの臣従政策を維持している。

 1262年に聖宗は元に一定額の金銀宝石、医薬品、象牙、犀角を3年に1度貢納すること(三年一貢)を約した。

 1267年に陳朝に
    国王自身の来朝
    人質として王子を差し出す
    戸籍簿の提出
    兵力の提供
    租税の納付
    元から派遣された代官(ダルガチ)の駐屯
など元朝が新たな要求が行われた。

 これは過大な貢物と国王の入朝が要求された反面、元朝の軍事作戦が成功すればその恩恵に与ることができるというアメが用意されていた。

 中央アジアなどのベトナム外の国家に課せられていたものと同じ内容であったが、陳朝は元朝からの要求に抵抗を示したため、興亡戦が起きた。

 
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2017年09月11日

ユリア・ドムナ(Julia Domna) カラカラ帝の母親


ユリア・ドムナ(Julia Domna 170年 - 217年)

 ローマ帝国のセウェルス朝の開祖である軍人皇帝
   セプティミウス・セウェルス
の妻でカラカラ、プブリウス・セプティミウス・ゲタの母親。

 セウェルス死後の皇帝家の陰の実力者として君臨した。
 
 ユリアの家系はシリア古来のものといわれており、エメサ(現在のホムス)にあった
   太陽神エル・ガバル(ヘリオガバルス)
の神職を代々預かっており、エメサの町も支配する祭祀王の家系だった。

 父親はエル・ガバルの神官
   ユリウス・バッシアヌス
で、姉にはユリア・マエサ、甥にはのちにローマ皇帝となるヘリオガバルスがいた。

 ガリア・ルグドゥネンシス属州総督だったセウェルスと180年代後半に結婚した。


 セウェルスはユリアの性格なども知らず、また、彼女の家系がどのようなものかも興味を持たず、ただ占星術で彼女が王になる人物と結婚するということを聞いてこの結婚を決めたという。
 ユリアは186年にはカラカラを、189年にはゲタを生んだ。
  

 193年にセウェルスはいち早くローマに入り、皇帝として認定されたがものの
   ペスケンニウス・ニゲル
   クロディウス・アルビヌス
などの敵対するライバルがおり、セウェルスは帝位を固めるためにこれらの敵を殲滅する必要があった。

 ローマに留まり夫の帰りを待つのが普通だった当時の女性とはユリアは違い、この一連の軍事行動を夫とともに同伴した。
 こうして皇帝である夫の陰での実力者となったユリアは絶対的な政治力を持つようになった。

 皇帝就任後もセウェルスは外征が多く、ローマで影響力を振るうユリアの存在を元老院には歓迎しなかった。

 そのため、ユリアはさしたる理由もなく
   不義・国家反逆罪の咎
で告発されたため、皇妃として政敵と対峙したものの、セウェルスは妻に対する態度を少しも変えることはなかった。
 

 211年に夫のセウェルスが没すると、ユリアは共同皇帝となった2人の息子・カラカラとゲタの調停者としての役割を担った。

 カラカラとゲタは仲が非常に悪く、絶えず何かしら対立していた。そして同年12月にカラカラはゲタを暗殺した。

 しかし、その後もユリアは息子カラカラ帝を支援し続けた。
 217年にパルティア遠征にカラカラとともに出征したが、この遠征中にカラカラはプラエフェクトゥス・プラエトリオ(近衛軍団長)であった側近の
   マクリヌス
によって暗殺され、ユリアも息子の後を追って自死した。




 

   
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2017年09月10日

霍 去病(かく きょへい) 前漢の武帝時代の武将で大司馬大将軍


霍 去病(かく きょへい)
   紀元前140年 - 紀元前117年

 前漢の武帝時代の武将で、父は、霍仲孺である。
 異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光がいる。
 
 前漢の武帝に仕えた武将である衛青の姉
   衛少児
の子になる。

 同じく衛青の姉であり、霍去病の伯母にあたる
   衛子夫
は武帝の皇后として戻太子を生んだため、親族にあたる霍去病も武帝の覚えが良く栄進した。
 また、漢王朝創立時からの功臣である陳平の玄孫の
   陳掌
は霍去病の母と密通して霍去病の義父となった。

 霍去病は騎射に優れており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いた。
 その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、3万の首を上げたともいわれ、紀元前121年に
   驃騎将軍
に昇進した。さらに、紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬の地位を得た。

 こうした戦歴による大功と武帝の寵愛により権勢並ぶ物が無くなった霍去病も病には勝てずに紀元前117年、わずか24歳で病死した。

 霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事からよく比較されている。

 衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。

 その一方で、霍去病は物心付いた時には既に一族は皇帝の外戚であり、叔父の衛青が匈奴討伐に大功を上げていた。
 その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分たちは豪華な幕舎の下で宴会を開くような事をしていた。

 ただ、宮廷でも兵士の間でも、霍去病のほうが人気は上であった。

 衛青はへりくだりが度を過ぎていたため、媚を売るような所があったとされ将として信頼を寄せる者がすくなかった。
 なお、霍去病の傲慢も見方を変えれば
   頼もしい勇壮
と見られており、武帝も自身の性格に似ていた、積極果敢な霍去病をより好んでいたという。
  

 
 

     
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黎朝(レちょう Nhà Lê ) 黎桓(レ・ホアン)が建国した王朝


黎朝(レちょう Nhà Lê )

 ベトナム北部を支配した王朝(980年 - 1009年)で首都は華閭(ホアルウ、現在のニンビン省に位置する)にあった。
 15世紀に
   黎利
が建国した黎朝と区別して、前黎朝と呼ばれている。
 
 王朝の創始者である
   黎桓(レ・ホアン)
は、丁朝の建国者である
   丁部領(ディン・ボ・リン)
に仕え十道将軍として軍事を司っていた。


   
   

 丁部領が979年に亡くなった後、黎桓は摂政として国政を執る中で
   楊(ズォン)皇后
との仲が親密になり、敵対する勢力を討伐した。

 同年に呉権の子孫である
   呉日慶(ゴー・ニャッ・カイン)
が南部のチャンパ王国と同盟し、王位を要求して北ベトナムに侵入した。

 ここ侵攻にたいし黎桓は呉日慶を撃破した。

 丁部領の死を知った中国の宋は領土拡大のためベトナムへの出兵を決定した。
 なお、宋の攻撃を前にしてベトナムの将兵は黎桓を新たな君主に推した。
 楊皇后は子の
   丁璿
では王著具合字で気ないことを悟り、黎桓と再婚した。
 新たに黎桓が王位に就いた

 981年に
   白藤(バクダン)江の戦い
で黎桓の軍は海路から侵入した宋軍に勝利したうえ、諒山(ランソン)でも陸路から侵入した宋軍を破った。

 982年にはチャンパ王国に親征を行ってチャンパの首都インドラプラを攻略した。
  

   


 チャンパ王
   インドラヴァルマン4世
は都を放棄して、南方に逃れた。

 黎桓は983年に宋への朝貢を再開し、この時にチャンパ遠征の戦利品である乳香や犀角を納めた。

 黎桓の軍がチャンパから撤退した後、黎桓の配下である
   劉継宗(ルー・ケ・トン)
がチャンパに残って占城王を称した。

 南ベトナムにはインドラヴァルマン4世と劉継宗の政権が並立した。

 インドラヴァルマンは宋に助けを求めたため、宋は黎桓にチャンパへの侵入を禁じた。
 しかし、黎桓は宋の禁令には従わず、989年と992年の2度にわたってチャンパに侵入した。

 993年、黎桓は宋より交趾郡王に封じられた。

 1005年の黎桓の死後、各地に分配した王子たちが互いに領土を求めて争いを始めたことで国力は低下した。

 黎桓の第3子の
   黎龍鉞
が国王に即位したものの軍事力などの背景がなかったことなどもあり、わずか3日で廃位されている。

 代わって黎龍鉞を殺害した黎桓の第5子の
   黎龍鋌(レ・ロン・ディン)
が国王に即位した。

 黎龍鋌は残忍な性格でも知られており、罪人に過酷な刑罰を下すことを好んだという。

 黎龍鋌が没した後、1009年末に僧侶と廷臣の支持を受けた禁軍の指揮官
   李公蘊
が王位に就いた。


 
 

   
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