2017年09月14日

黎利(れい り Lê Lợi(レ・ロイ) 後黎朝大越国の初代皇帝


黎利(れい り Lê Lợi(レ・ロイ) 
   1385年9月10日(昌符9年8月6日)−
            1433年9月5日(順天6年8月22日)
  
 ベトナムの後黎朝大越国の初代皇帝(在位: 1428年 - 1433年)でレ・タイ・ト(Lê Thái Tổ、黎太祖)の廟号でも知られる。
 諡号 高皇帝。

 ベトナム中部タインホアのラムソン(藍山)の豪族であったが1406年の明の
   永楽帝
によるベトナム侵攻とその後の支配に抵抗した。

 1416年、にグエン・チャイ(阮廌)らとともに、ラムソンで挙兵した(藍山起義)。
 1418年にはビンディン・ウォン(平定王)と称するようになり、以後、10年に及ぶ明への抵抗運動を続けた。

 ゲリラ戦を勝ち抜き、明をベトナムから撤退させることに成功した。

 1428年、正式に明から独立し、ドンドー(東都、現ハノイ)で帝位に就き黎朝を創始しあ。
 国号を「大越」とし宰相のグエン・チャイらの補佐のもと、国家制度の整備を行った。

 また、均田制・科挙制なども導入したうえ、諸法典の整備に取り組んだ。
  

 明との関係修復を図ったものの、名目上で陳氏の末裔として担いだ陳ロを殺害したことや
   「反乱軍の首魁」
を冊封することへ抵抗感などからの明宮廷では反対論が大勢を占めたため
   「権署安南国事」
への任命に留まり、在世中は安南国王に封ぜられることはなかった。
  

 1433年に死去し、次男の黎元龍が継ぎ太宗となったが朝廷内の権力争いが激化した。
 太宗の扶育係でもあった阮廌は
   建国の功臣
としてその権力を危ぶまれたため故郷に隠居したが、太宗が閲兵式の帰りに阮廌邸に立ち寄った際に急死したため、太宗暗殺犯の罪を着せられ、1442年に三族ともども処刑された。


 
  

   
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2017年09月12日

陳朝(チャンちょう  Nhà Trần) ベトナムの王朝で国名は大越


陳朝(チャンちょう  Nhà Trần)

 現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝で国号は大越。
 首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)にあった。

 陳氏の祖先は福建、もしくは桂林からの移住民で、現在のナムディン省とタイビン省一帯を根拠地とした。
 一族は漁業と水運業で生計を立て、また、漁業と水運業の傍らで海賊業を行っていたとも言われている。

 前黎朝の将軍
   李公蘊(リ・コン・ウァン、李太祖)
が建国した李朝支配下のベトナムの北部地域では12世紀末より政権の腐敗が甚だしくなっており、天災による飢饉によって民衆は窮乏し、治安は悪化していた。

 飢えに苦しみ暴徒化した民衆の反乱が乂安(ゲアン)、清化(タインホア)、寧平(ニンビン)で起こった。

 各地の豪族の中にも政府に反逆する者が現れ1208年には
   乂安の反乱
を鎮圧するために招集した軍隊が昇龍で反乱を起こし皇帝・高宗ら李朝の王族は昇龍から放逐された。

 李朝は反乱の鎮圧に外戚の陳氏の力を借りた。

 1209年、陳氏の頭領
   陳李
は李朝の王族たちを保護するが翌年盗賊に討たれてしまった。
 代わって次男の
   陳嗣慶(チャン・トウ・カイン)
が主導権を握った陳氏は高宗を擁して昇龍に入城し、これ以降宮廷で陳氏の勢力が台頭した。

 乱を鎮圧していく中に陳李によって擁立された皇子
   李旵(恵宗)
が即位すると、陳李の娘・仲女を恵宗の妻に、恵宗の母である譚氏を太后として、陳氏と譚太后の共同統治が行われた。

 やがて陳氏と譚太后の間に権力をめぐる対立が起きるが、陳氏は恵宗の支持を得て、譚太后一派を追い落とした。
 宮廷内での地位を確立したのち、内乱の鎮圧にあたって陳嗣慶は兄の陳承(チャン・トウア)、従兄弟の陳守度(チャン・トゥー・ド)ら一族と連携して統治し、陳嗣慶が没した後は殿前指揮使の高位に就いていた陳守度が陳氏の中心人物となり政治を主導した。

 1224年に陳守度は7歳の王女である
   仏金(パット・キム、昭皇、昭聖皇后)
を皇帝に擁立した。

 仏金の父である恵宗を退位させたうえで寺院に隠棲させた。

 陳守度は8歳の甥
   陳煚(チャン・カイン、後の太宗)
を昭皇の遊び相手としたうえ、その後、陳煚と昭皇を結婚させた。

 1225年には昭皇から陳煚への譲位が行われ、陳煚を皇帝、陳煚の父である陳承を上皇とする陳氏の王朝が成立した。

 陳朝成立後には不用となった恵宗を隠棲先の寺で自害させた。

 さらに、陳守度は禍根を残さないよう
   李朝再興の芽
を摘むために恵宗の葬儀に集まった李朝の宗族を皆殺しにした。
 また、李朝の王女たちは生口同様の扱いで紅河デルタ周辺の部族勢力に嫁がせる措置を講じて、彼らとの修好を図った。

 太宗の治世の初期では陳守度が皇帝を補佐して王朝の基礎を固めた。
 また、李朝末期より発生していた反乱もほぼ鎮圧された。


 1237年に太宗は陳守度の進言によって、子の無い昭聖皇后に代えて、兄の陳柳の妻である順天を妊娠中にもかかわらず奪って妻とした。

 妻を奪われた陳柳は反乱を起こし、一時は太宗が安子山に隠遁する大事に至った。
 結局騒動は陳守度によって収拾され、太宗と陳守度との抗争に敗れた陳柳は安生王として紅河デルタの東端(現在のクアンニン省)に封じられた。

 太宗の親政が始まった1240年代より官、軍、法の各種制度の制定が実施された。

 1242年に国内を12の路に分けての行政区画と戸籍の整備が行われた。

 1248年には治水に携わる新たな官職として河堤使が設置され、総延長は200キロメートルにも及ぶ「水源から海に至る」と言われた鼎耳防と呼ばれる大堤防の建設令が出され、治水と交易ルートの安定確保が図られ経済が活発化し国力を増した。

 太宗の治世の末期である1257年から、雲南を占領したモンゴル軍によるベトナム侵攻が始まっている。

 1257年の末にモンゴルの軍人
   ウリヤンカダイ
の率いる軍隊が北方の国境地帯に突然現れ、太宗にモンゴルへの従属を求める使者を送った。

 3度送られたモンゴルの使者はいずれも太宗の命令で投獄された。
 ベトナムではモンゴルの侵入に備えて軍備が整えられた。

 同年末にに送り込んだ使者が帰還しないことに業を煮やしたウリヤンカダイの攻撃が開始された。

 モンゴル軍は紅河を渡河して昇龍を略奪したため、太宗は昇龍を放棄して陳守度と共に南方の天幕(ティエンマク、現在のハナム省ズイティエン)に遷都した。

 モンゴル軍が北方に引き返すと太宗は次子の陳晃(聖宗)に譲位し、使節をウリヤンカダイの軍隊に同行させてモンケの宮廷に派遣した。

 モンケの没後に
   クビライ
がハーンに即位して元朝が成立した。

 その後も、聖宗はモンゴルへの臣従政策を維持している。

 1262年に聖宗は元に一定額の金銀宝石、医薬品、象牙、犀角を3年に1度貢納すること(三年一貢)を約した。

 1267年に陳朝に
    国王自身の来朝
    人質として王子を差し出す
    戸籍簿の提出
    兵力の提供
    租税の納付
    元から派遣された代官(ダルガチ)の駐屯
など元朝が新たな要求が行われた。

 これは過大な貢物と国王の入朝が要求された反面、元朝の軍事作戦が成功すればその恩恵に与ることができるというアメが用意されていた。

 中央アジアなどのベトナム外の国家に課せられていたものと同じ内容であったが、陳朝は元朝からの要求に抵抗を示したため、興亡戦が起きた。

 
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2017年09月11日

ユリア・ドムナ(Julia Domna) カラカラ帝の母親


ユリア・ドムナ(Julia Domna 170年 - 217年)

 ローマ帝国のセウェルス朝の開祖である軍人皇帝
   セプティミウス・セウェルス
の妻でカラカラ、プブリウス・セプティミウス・ゲタの母親。

 セウェルス死後の皇帝家の陰の実力者として君臨した。
 
 ユリアの家系はシリア古来のものといわれており、エメサ(現在のホムス)にあった
   太陽神エル・ガバル(ヘリオガバルス)
の神職を代々預かっており、エメサの町も支配する祭祀王の家系だった。

 父親はエル・ガバルの神官
   ユリウス・バッシアヌス
で、姉にはユリア・マエサ、甥にはのちにローマ皇帝となるヘリオガバルスがいた。

 ガリア・ルグドゥネンシス属州総督だったセウェルスと180年代後半に結婚した。


 セウェルスはユリアの性格なども知らず、また、彼女の家系がどのようなものかも興味を持たず、ただ占星術で彼女が王になる人物と結婚するということを聞いてこの結婚を決めたという。
 ユリアは186年にはカラカラを、189年にはゲタを生んだ。
  

 193年にセウェルスはいち早くローマに入り、皇帝として認定されたがものの
   ペスケンニウス・ニゲル
   クロディウス・アルビヌス
などの敵対するライバルがおり、セウェルスは帝位を固めるためにこれらの敵を殲滅する必要があった。

 ローマに留まり夫の帰りを待つのが普通だった当時の女性とはユリアは違い、この一連の軍事行動を夫とともに同伴した。
 こうして皇帝である夫の陰での実力者となったユリアは絶対的な政治力を持つようになった。

 皇帝就任後もセウェルスは外征が多く、ローマで影響力を振るうユリアの存在を元老院には歓迎しなかった。

 そのため、ユリアはさしたる理由もなく
   不義・国家反逆罪の咎
で告発されたため、皇妃として政敵と対峙したものの、セウェルスは妻に対する態度を少しも変えることはなかった。
 

 211年に夫のセウェルスが没すると、ユリアは共同皇帝となった2人の息子・カラカラとゲタの調停者としての役割を担った。

 カラカラとゲタは仲が非常に悪く、絶えず何かしら対立していた。そして同年12月にカラカラはゲタを暗殺した。

 しかし、その後もユリアは息子カラカラ帝を支援し続けた。
 217年にパルティア遠征にカラカラとともに出征したが、この遠征中にカラカラはプラエフェクトゥス・プラエトリオ(近衛軍団長)であった側近の
   マクリヌス
によって暗殺され、ユリアも息子の後を追って自死した。




 

   
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2017年09月10日

霍 去病(かく きょへい) 前漢の武帝時代の武将で大司馬大将軍


霍 去病(かく きょへい)
   紀元前140年 - 紀元前117年

 前漢の武帝時代の武将で、父は、霍仲孺である。
 異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光がいる。
 
 前漢の武帝に仕えた武将である衛青の姉
   衛少児
の子になる。

 同じく衛青の姉であり、霍去病の伯母にあたる
   衛子夫
は武帝の皇后として戻太子を生んだため、親族にあたる霍去病も武帝の覚えが良く栄進した。
 また、漢王朝創立時からの功臣である陳平の玄孫の
   陳掌
は霍去病の母と密通して霍去病の義父となった。

 霍去病は騎射に優れており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いた。
 その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、3万の首を上げたともいわれ、紀元前121年に
   驃騎将軍
に昇進した。さらに、紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬の地位を得た。

 こうした戦歴による大功と武帝の寵愛により権勢並ぶ物が無くなった霍去病も病には勝てずに紀元前117年、わずか24歳で病死した。

 霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事からよく比較されている。

 衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。

 その一方で、霍去病は物心付いた時には既に一族は皇帝の外戚であり、叔父の衛青が匈奴討伐に大功を上げていた。
 その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分たちは豪華な幕舎の下で宴会を開くような事をしていた。

 ただ、宮廷でも兵士の間でも、霍去病のほうが人気は上であった。

 衛青はへりくだりが度を過ぎていたため、媚を売るような所があったとされ将として信頼を寄せる者がすくなかった。
 なお、霍去病の傲慢も見方を変えれば
   頼もしい勇壮
と見られており、武帝も自身の性格に似ていた、積極果敢な霍去病をより好んでいたという。
  

 
 

     
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黎朝(レちょう Nhà Lê ) 黎桓(レ・ホアン)が建国した王朝


黎朝(レちょう Nhà Lê )

 ベトナム北部を支配した王朝(980年 - 1009年)で首都は華閭(ホアルウ、現在のニンビン省に位置する)にあった。
 15世紀に
   黎利
が建国した黎朝と区別して、前黎朝と呼ばれている。
 
 王朝の創始者である
   黎桓(レ・ホアン)
は、丁朝の建国者である
   丁部領(ディン・ボ・リン)
に仕え十道将軍として軍事を司っていた。

 丁部領が979年に亡くなった後、黎桓は摂政として国政を執る中で
   楊(ズォン)皇后
との仲が親密になり、敵対する勢力を討伐した。

 同年に呉権の子孫である
   呉日慶(ゴー・ニャッ・カイン)
が南部のチャンパ王国と同盟し、王位を要求して北ベトナムに侵入した。

 ここ侵攻にたいし黎桓は呉日慶を撃破した。

 丁部領の死を知った中国の宋は領土拡大のためベトナムへの出兵を決定した。
 なお、宋の攻撃を前にしてベトナムの将兵は黎桓を新たな君主に推した。
 楊皇后は子の
   丁璿
では王著具合字で気ないことを悟り、黎桓と再婚した。
 新たに黎桓が王位に就いた

 981年に
   白藤(バクダン)江の戦い
で黎桓の軍は海路から侵入した宋軍に勝利したうえ、諒山(ランソン)でも陸路から侵入した宋軍を破った。

 982年にはチャンパ王国に親征を行ってチャンパの首都インドラプラを攻略した。

 チャンパ王
   インドラヴァルマン4世
は都を放棄して、南方に逃れた。

 黎桓は983年に宋への朝貢を再開し、この時にチャンパ遠征の戦利品である乳香や犀角を納めた。

 黎桓の軍がチャンパから撤退した後、黎桓の配下である
   劉継宗(ルー・ケ・トン)
がチャンパに残って占城王を称した。

 南ベトナムにはインドラヴァルマン4世と劉継宗の政権が並立した。

 インドラヴァルマンは宋に助けを求めたため、宋は黎桓にチャンパへの侵入を禁じた。
 しかし、黎桓は宋の禁令には従わず、989年と992年の2度にわたってチャンパに侵入した。

 993年、黎桓は宋より交趾郡王に封じられた。

 1005年の黎桓の死後、各地に分配した王子たちが互いに領土を求めて争いを始めたことで国力は低下した。

 黎桓の第3子の
   黎龍鉞
が国王に即位したものの軍事力などの背景がなかったことなどもあり、わずか3日で廃位されている。

 代わって黎龍鉞を殺害した黎桓の第5子の
   黎龍鋌(レ・ロン・ディン)
が国王に即位した。

 黎龍鋌は残忍な性格でも知られており、罪人に過酷な刑罰を下すことを好んだという。

 黎龍鋌が没した後、1009年末に僧侶と廷臣の支持を受けた禁軍の指揮官
   李公蘊
が王位に就いた。


 
 

   
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2017年09月08日

ゼノビア パルミラ王国の「戦士女王(Warrior Queen)」


ゼノビア(Zenobia)

 パルミラ王国の「女王」と呼ばれた人物で、最も傑出した敬虔なる女王
   「セプティミア=バト=ザッバイ」
とパルミラにあるギリシア語・パルミラ語合璧碑文に記されている。
 
 アラビアの遊牧民の集団であるベニサマヤド部族の長
   ザッバイ(Zabaii ben Selim)
を父、「Al-Zabba」(長い美しい髪を持つ娘)と称されたギリシア系エジプト人の母の間の娘として240年頃に生まれた。

 父親のザッバイの祖先は2世紀後半にローマ市民権を取得したとされている。

 アフリカ生まれの
   セプティミウス・セウェルス帝(146年4月11日 - 211年2月4日)
の皇后として知られる
   ユリア・ドムナ
とも近い関係であった。

 ザッバイは229年頃にはシリアの部族長であったものの記録としてのゼノビアの前半生・出生には不明点が多い。
  
 ゼノビアはエジプト語以外にもラテン語・ギリシア語・シリア語・アラビア語に堪能で学問にも秀でていた。 
 側近で哲学者でもあった
   カッシウス・ロンギヌス
の指導を受けてホメロスとプラトンの比較論や歴史書を著したとされている。

 ゼノビアの名前が初めて史料に出るのは258年に通商都市パルミラを根拠地としてローマ帝国の東方属州を統括していた有力者
   セプティミウス・オダエナトゥス
の後妻として入った時である。

 その後、ゼノビアにとって初子となるルキウス・ユリウス・アウレリウス・セプティミウス・ウァバッラトゥス・アテノドラス(以下ウァバッラトゥス)が生まれた。

 オダエナトゥスはウァレリアヌスの子であった
   ガッリエヌス帝
に叛旗を翻して、皇帝を僭称した
   ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス
の討伐やサーサーン朝の首都クテシフォンへ2度も攻め入る等の功績を挙げ、ガッリエヌスの信頼を勝ち得た。

 それら遠征にゼノビアはパルミラ軍に同行しただけでなく、軍装を纏い、その智謀でオダエナトゥスを支えた。

 267年にオダエナトゥスが甥の
   マエオニウス  (Maeonius) 
によって暗殺され、長子のヘロデスも同時に殺害された。

 パルミラは統治者及び後継者を一度に失う混乱状態に陥った。

 ゼノビアはウァバッラトゥスをオダエナトゥスの後継者に据えると共に自らはその共同統治者となり、一連の事態を収拾することに成功した。
 
 ガッリエヌス帝(在位253年 - 268年)の治世下からのパルミラの統治者の功績などからオダエナトゥスはパルミラを根拠地とした半独立国「パルミラ王国」を統治する状態であった。

西方属州にはガリア帝国が割拠、北方属州へはゴート族等の北方異民族の侵入が相次ぐ中、268年にはガッリエヌスがクラウディウス・ゴティクスにより暗殺された。
 
 
 ゼノビアはローマの迷走に乗じる格好で
   「サーサーン朝の侵略」
からローマ東部属州を護るという名目で皇帝直轄領
   アエギュプトゥス(エジプト)
   カッパドキア
やパレスティナ、カルケドン等のローマ東部属州・都市に軍を派遣して次々と「領土」を拡大していった。

 この時期、ゼノビアは自らを「エジプトの女王」と称した。
 また、これらの軍事的な野望から「戦士女王(Warrior Queen)」とも呼ばれた。

 ゼノビアは騎馬術にも優れた才能を示し、カルタゴの女王ディードーやアッシリアの女王セミラミス、プトレマイオス朝のクレオパトラ7世の後継者を自称したともいわれる。

 270年にローマ皇帝となった
   ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス
は北方異民族の侵入を撃退した。

 その後、軍事的にも余裕が出来たアウレリアヌス帝はローマから分離・割拠した西のガリア帝国、東のパルミラ王国に目を向けた。

 アウレリアヌスはパルミラに降伏を勧告した。
 しかし、272年にゼノビアはローマ帝国皇妃の称号である「アウグスタ」を自称したうえ、ウァバッラトゥスには「アウグストゥス」を名乗らせると共にこれを記念した貨幣を発行し、ローマに対抗する姿勢を見せた。

 272年、アウレリアヌスはパルミラへ親征し、この進軍に抵抗したビザンティオン等を陥落させた。

 ゼノビアはウァバッラトゥスと共に軍を率いてローマ軍を迎え撃った。
 ゼノビア自らが陣頭に立って士気を鼓舞し、戦闘指揮はアエギュプトゥス攻略で活躍した
   ザブダス  (Zabdas) 
に委任したもののアンティオキア近郊及びエメサにおける2度の戦いで大敗を喫し、ウァバッラトゥスは戦死した。

 ゼノビアはパルミラへと逃れて、籠城準備を整えた。

 パルミラを包囲したローマ軍は、兵站線が延びきっており物資を狙うアラブ人による攻撃で包囲戦の維持が困難となった。

 ゼノビアはサーサーン朝からの支援も期待していたが、エジプトを攻略した
   プロブス
が軍を率いてパルミラへ到着して兵站線が確保できたこと及び軍勢が飛躍的に増加したことで、ゼノビアは敗色を悟りペルシアへ逃亡を図った。

 ユーフラテス川を越える前にローマ軍に捕縛され、その後パルミラ市も抵抗を止めローマに降伏して273年にパルミラ王国は瓦解した。

 ゼノビアはローマへ連行され、274年にガリア帝国もローマへ統合した
   アウレリアヌス帝
の凱旋式(274年)でローマ市内を戦利品扱いに引き回され見せものとなった。

 その際にゼノビアは黄金の鎖で自らを縛り、その美貌と威厳をローマ市民に示した。

 ただ、錬金術師として著名であった同時期に活躍した
   ゾシモス
はローマへの連行中にゼノビアが死亡したと伝えており、真実は不明。

 凱旋式の後はゼノビアにはローマ国内のティブル(現:ティヴォリ)のウィッラ・ハドリアナの近郊に高級な別荘(ヴィラ)を与えられた。
 社交界でも活躍する等、贅沢に暮らしたとも伝わっている。

 また、ゼノビアはローマの元老院議員と再婚し、数人の娘にも恵まれ、その娘もローマの高貴な身分の人間と結婚したと伝えられ、ゼノビアに勝利したアウレリアヌス(275年に暗殺)よりも長く生きたようだ。


 
 


   
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2017年09月06日

胡朝(こちょう  Nhà Hồ) ベトナムを支配した王朝(1400年 - 1407年)


胡朝(こちょう  Nhà Hồ)

 ベトナムを支配した王朝(1400年 - 1407年)で首都はタインホア。

 1225年に成立した陳朝は徹底的な
   血縁重視体制(上皇体制)
を採ることで中央集権化を進め13世紀までは有能な皇帝や一族(陳興道)らが多数現れて有効に機能した。

 しかし、14世紀になると有能な皇帝・血族が現れずに国内は皇族や重臣の離反・腐敗などで乱れるようになった。

 五代十国時代に現在の中国浙江省から南下して移住した祖先を持つ
   胡季犛
が勢力を拡大していった。

 胡季犛は陳朝で採用されていた科挙で選抜された
   官僚
と手を組んで陳朝内部で巧みに勢力を侵食して拡張させた。

 第9代皇帝・芸宗の外戚となってその寵愛を受けるようになり、第10代皇帝・睿宗が
   対チャンパ戦争
で戦死して皇帝の威信が衰えると、1388年には第11代皇帝・陳晛を殺害したうえ胡季犛の娘婿である順宗を擁立し、宰相として実権を握った。

 1394年、上皇としてかろうじて陳朝を支えていた芸宗が死去しあ。

 胡季犛は直ちに有力皇族と重臣の粛清を開始し権力の簒奪に動いた。

 1398年には成長した順宗を廃したうえで暗殺し、幼少の少帝を擁立させた。

 1400年には遂に少帝をも廃したうえ、譲位させて自らが皇帝として即位した。
 国号を大虞と改め、姓を黎から胡とし胡朝が誕生した。
 

 胡季犛は粛清と簒奪を繰り返し、周囲からの恨みと反感を買った。
 このため陳朝の血を引く息子の胡漢蒼に皇位を譲って上皇となった。
 ただ、実権は依然として胡季犛が掌握していた。

 胡季犛は陳朝と同じく血族重視制度を採用しながらも、一方で旧体制の弊害だった
   貴族制度
を廃止うえ、科挙制度を改革したうえで有能な人材の登用、軍事力の強化、文芸奨励、戸籍制度の導入など様々な進歩的改革を進めた。

 中国南部への勢力拡大を目論む明の永楽帝は、陳朝の復権とその皇族の即位を要求した。

 胡季犛はこれを拒絶して永楽帝と対立関係となったことから明のベトナム侵攻の口実を与えた。

 1407年に明の大軍の侵攻を受けた首都タインホアは陥落し、胡季犛と胡漢蒼の父子は明軍によって南京に護送された。
 その後、永楽帝によって父子ともども処刑されており、わずか2代7年の短命王朝となった。

   
 
 
    
   
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2017年09月05日

季 布(き ふ) 前漢初期にかけての武将


季 布(き ふ) 

 中国の秦末から前漢初期にかけての武将で、楚の下相県(現・江蘇省宿遷市南西部)の出身。
 同郷の項羽の配下で能力を発揮したが、のちに漢王朝を建国した劉邦に仕えた。
 
 若い時から弱者を助けて
   任侠者
としても名高かった。
 項羽からの信頼も厚く、「楚漢戦争」では劉邦を幾度も窮地に立たせたという。

しかし、項羽が敗死し終結に至るきっかけともいえる「垓下の戦い」あたりで、劉邦陣営に鞍替えし軍師として活躍していた
   陳平
の計略により、范増とともに項羽に疎んじられるようになった
   鍾離眜
とともに一兵卒に変装して項羽の陣営から離脱した。

 項羽亡き後は、漢軍の追手から逃れるために各地を逃亡した。
 濮陽の町の周氏の家に潜伏していた。

 劉邦は季布に
   千金の賞金
をつけて探させ、匿う者は三族共死刑と布告した。

 周氏の主人は季布に勧めて、游侠として知られていた魯国の
   朱家
の下で過ごすことになったものの、漢の追及が激しく人相等の手配書が市中に配布されていたため季布は、頭を剃り、首枷をつけ、奴隷のなりをして魯の朱家の家へ向かい朱家の客分となった。

 朱家は漢の都・洛陽へ向かい、劉邦の配下のうち義人として名高い
   夏侯嬰
を訪ね、劉邦への仲介を依頼した。

 劉邦と直接対面した結果、季布は郎中(警護役)に取り立てられ、恵帝の時代には中郎将となった。

 匈奴の軍を率いた
   冒頓単于
が南下して、漢に対し遠征する際に漢朝の実力者の
   呂雉(呂后)
を侮辱する手紙を送った。

 侮辱された呂雉は激怒し諸将を集めて軍議を開いた。

 呂雉の義弟である上将軍の
   樊噲
は「この私めに十万の軍勢をお授けください。野蛮な匈奴を蹴散らしましょうぞ」と述べた。

 他の将軍たちも呂雉に媚び諂って賛成した。

 季布はこの席で「樊噲将軍の発言は死刑に値します。そもそも、高祖の時代にも御自ら四十万を率いて遠征に向かいながら平城で惨敗されました。それがどうでしょう。樊噲将軍が十万を率いてもかえって惨敗するでしょう。それこそ陛下の御前で嘘をつくようなものです。かつて秦は匈奴対策に気取られたために、陳勝の反乱に対応することができませんでした。それ以降は戦乱が続き、今日まで癒えておりません。樊噲将軍が陛下の御前で諂う行為は、再び乱世の時代になるようなものです」と直言した。

 季布の直言を聞いた漢の大臣と諸将は呂雉を畏れ憚った。

 呂雉は季布の直言を採用し、軍議をここで打ち切り、以降から匈奴遠征を持ち出すことはなかったという。
 季布は文帝の時代には河東郡の太守にまで出世した。

 子供の頃から季布は義理堅い人物として評判であった。
 その物事を直言する人柄とで次第に宮廷でも重みをますようになり
   黄金百斤
を得るは、季布の一諾を得るに如かず」とまで言われるようになった。

  
   
 

   
posted by manekineco at 21:53| Comment(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする