陳朝(チャンちょう Nhà Trần)
現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝で国号は大越。
首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)にあった。
陳氏の祖先は福建、もしくは桂林からの移住民で、現在のナムディン省とタイビン省一帯を根拠地とした。
一族は漁業と水運業で生計を立て、また、漁業と水運業の傍らで海賊業を行っていたとも言われている。
前黎朝の将軍
李公蘊(リ・コン・ウァン、李太祖)
が建国した李朝支配下のベトナムの北部地域では12世紀末より政権の腐敗が甚だしくなっており、天災による飢饉によって民衆は窮乏し、治安は悪化していた。
飢えに苦しみ暴徒化した民衆の反乱が乂安(ゲアン)、清化(タインホア)、寧平(ニンビン)で起こった。
各地の豪族の中にも政府に反逆する者が現れ1208年には
乂安の反乱
を鎮圧するために招集した軍隊が昇龍で反乱を起こし皇帝・高宗ら李朝の王族は昇龍から放逐された。
李朝は反乱の鎮圧に外戚の陳氏の力を借りた。
1209年、陳氏の頭領
陳李
は李朝の王族たちを保護するが翌年盗賊に討たれてしまった。
代わって次男の
陳嗣慶(チャン・トウ・カイン)
が主導権を握った陳氏は高宗を擁して昇龍に入城し、これ以降宮廷で陳氏の勢力が台頭した。
乱を鎮圧していく中に陳李によって擁立された皇子
李旵(恵宗)
が即位すると、陳李の娘・仲女を恵宗の妻に、恵宗の母である譚氏を太后として、陳氏と譚太后の共同統治が行われた。
やがて陳氏と譚太后の間に権力をめぐる対立が起きるが、陳氏は恵宗の支持を得て、譚太后一派を追い落とした。
宮廷内での地位を確立したのち、内乱の鎮圧にあたって陳嗣慶は兄の陳承(チャン・トウア)、従兄弟の陳守度(チャン・トゥー・ド)ら一族と連携して統治し、陳嗣慶が没した後は殿前指揮使の高位に就いていた陳守度が陳氏の中心人物となり政治を主導した。
1224年に陳守度は7歳の王女である
仏金(パット・キム、昭皇、昭聖皇后)
を皇帝に擁立した。
仏金の父である恵宗を退位させたうえで寺院に隠棲させた。
陳守度は8歳の甥
陳煚(チャン・カイン、後の太宗)
を昭皇の遊び相手としたうえ、その後、陳煚と昭皇を結婚させた。
1225年には昭皇から陳煚への譲位が行われ、陳煚を皇帝、陳煚の父である陳承を上皇とする陳氏の王朝が成立した。
陳朝成立後には不用となった恵宗を隠棲先の寺で自害させた。
さらに、陳守度は禍根を残さないよう
李朝再興の芽
を摘むために恵宗の葬儀に集まった李朝の宗族を皆殺しにした。
また、李朝の王女たちは生口同様の扱いで紅河デルタ周辺の部族勢力に嫁がせる措置を講じて、彼らとの修好を図った。
太宗の治世の初期では陳守度が皇帝を補佐して王朝の基礎を固めた。
また、李朝末期より発生していた反乱もほぼ鎮圧された。
1237年に太宗は陳守度の進言によって、子の無い昭聖皇后に代えて、兄の陳柳の妻である順天を妊娠中にもかかわらず奪って妻とした。
妻を奪われた陳柳は反乱を起こし、一時は太宗が安子山に隠遁する大事に至った。
結局騒動は陳守度によって収拾され、太宗と陳守度との抗争に敗れた陳柳は安生王として紅河デルタの東端(現在のクアンニン省)に封じられた。
太宗の親政が始まった1240年代より官、軍、法の各種制度の制定が実施された。
1242年に国内を12の路に分けての行政区画と戸籍の整備が行われた。
1248年には治水に携わる新たな官職として河堤使が設置され、総延長は200キロメートルにも及ぶ「水源から海に至る」と言われた鼎耳防と呼ばれる大堤防の建設令が出され、治水と交易ルートの安定確保が図られ経済が活発化し国力を増した。
太宗の治世の末期である1257年から、雲南を占領したモンゴル軍によるベトナム侵攻が始まっている。
1257年の末にモンゴルの軍人
ウリヤンカダイ
の率いる軍隊が北方の国境地帯に突然現れ、太宗にモンゴルへの従属を求める使者を送った。
3度送られたモンゴルの使者はいずれも太宗の命令で投獄された。
ベトナムではモンゴルの侵入に備えて軍備が整えられた。
同年末にに送り込んだ使者が帰還しないことに業を煮やしたウリヤンカダイの攻撃が開始された。
モンゴル軍は紅河を渡河して昇龍を略奪したため、太宗は昇龍を放棄して陳守度と共に南方の天幕(ティエンマク、現在のハナム省ズイティエン)に遷都した。
モンゴル軍が北方に引き返すと太宗は次子の陳晃(聖宗)に譲位し、使節をウリヤンカダイの軍隊に同行させてモンケの宮廷に派遣した。
モンケの没後に
クビライ
がハーンに即位して元朝が成立した。
その後も、聖宗はモンゴルへの臣従政策を維持している。
1262年に聖宗は元に一定額の金銀宝石、医薬品、象牙、犀角を3年に1度貢納すること(三年一貢)を約した。
1267年に陳朝に
国王自身の来朝
人質として王子を差し出す
戸籍簿の提出
兵力の提供
租税の納付
元から派遣された代官(ダルガチ)の駐屯
など元朝が新たな要求が行われた。
これは過大な貢物と国王の入朝が要求された反面、元朝の軍事作戦が成功すればその恩恵に与ることができるというアメが用意されていた。
中央アジアなどのベトナム外の国家に課せられていたものと同じ内容であったが、陳朝は元朝からの要求に抵抗を示したため、興亡戦が起きた。