2017年09月08日

ゼノビア パルミラ王国の「戦士女王(Warrior Queen)」


ゼノビア(Zenobia)

 パルミラ王国の「女王」と呼ばれた人物で、最も傑出した敬虔なる女王
   「セプティミア=バト=ザッバイ」
とパルミラにあるギリシア語・パルミラ語合璧碑文に記されている。
 
 アラビアの遊牧民の集団であるベニサマヤド部族の長
   ザッバイ(Zabaii ben Selim)
を父、「Al-Zabba」(長い美しい髪を持つ娘)と称されたギリシア系エジプト人の母の間の娘として240年頃に生まれた。

 父親のザッバイの祖先は2世紀後半にローマ市民権を取得したとされている。

 アフリカ生まれの
   セプティミウス・セウェルス帝(146年4月11日 - 211年2月4日)
の皇后として知られる
   ユリア・ドムナ
とも近い関係であった。

 ザッバイは229年頃にはシリアの部族長であったものの記録としてのゼノビアの前半生・出生には不明点が多い。
  
 ゼノビアはエジプト語以外にもラテン語・ギリシア語・シリア語・アラビア語に堪能で学問にも秀でていた。 
 側近で哲学者でもあった
   カッシウス・ロンギヌス
の指導を受けてホメロスとプラトンの比較論や歴史書を著したとされている。

   


 ゼノビアの名前が初めて史料に出るのは258年に通商都市パルミラを根拠地としてローマ帝国の東方属州を統括していた有力者
   セプティミウス・オダエナトゥス
の後妻として入った時である。

 その後、ゼノビアにとって初子となるルキウス・ユリウス・アウレリウス・セプティミウス・ウァバッラトゥス・アテノドラス(以下ウァバッラトゥス)が生まれた。

 オダエナトゥスはウァレリアヌスの子であった
   ガッリエヌス帝
に叛旗を翻して、皇帝を僭称した
   ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス
の討伐やサーサーン朝の首都クテシフォンへ2度も攻め入る等の功績を挙げ、ガッリエヌスの信頼を勝ち得た。

 それら遠征にゼノビアはパルミラ軍に同行しただけでなく、軍装を纏い、その智謀でオダエナトゥスを支えた。

 267年にオダエナトゥスが甥の
   マエオニウス  (Maeonius) 
によって暗殺され、長子のヘロデスも同時に殺害された。

 パルミラは統治者及び後継者を一度に失う混乱状態に陥った。

 ゼノビアはウァバッラトゥスをオダエナトゥスの後継者に据えると共に自らはその共同統治者となり、一連の事態を収拾することに成功した。
 
 ガッリエヌス帝(在位253年 - 268年)の治世下からのパルミラの統治者の功績などからオダエナトゥスはパルミラを根拠地とした半独立国「パルミラ王国」を統治する状態であった。

西方属州にはガリア帝国が割拠、北方属州へはゴート族等の北方異民族の侵入が相次ぐ中、268年にはガッリエヌスがクラウディウス・ゴティクスにより暗殺された。
 
 
 ゼノビアはローマの迷走に乗じる格好で
   「サーサーン朝の侵略」
からローマ東部属州を護るという名目で皇帝直轄領
   アエギュプトゥス(エジプト)
   カッパドキア
やパレスティナ、カルケドン等のローマ東部属州・都市に軍を派遣して次々と「領土」を拡大していった。

 この時期、ゼノビアは自らを「エジプトの女王」と称した。
 また、これらの軍事的な野望から「戦士女王(Warrior Queen)」とも呼ばれた。

 ゼノビアは騎馬術にも優れた才能を示し、カルタゴの女王ディードーやアッシリアの女王セミラミス、プトレマイオス朝のクレオパトラ7世の後継者を自称したともいわれる。

 270年にローマ皇帝となった
   ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス
は北方異民族の侵入を撃退した。

 その後、軍事的にも余裕が出来たアウレリアヌス帝はローマから分離・割拠した西のガリア帝国、東のパルミラ王国に目を向けた。

 アウレリアヌスはパルミラに降伏を勧告した。
 しかし、272年にゼノビアはローマ帝国皇妃の称号である「アウグスタ」を自称したうえ、ウァバッラトゥスには「アウグストゥス」を名乗らせると共にこれを記念した貨幣を発行し、ローマに対抗する姿勢を見せた。

 272年、アウレリアヌスはパルミラへ親征し、この進軍に抵抗したビザンティオン等を陥落させた。

 ゼノビアはウァバッラトゥスと共に軍を率いてローマ軍を迎え撃った。
 ゼノビア自らが陣頭に立って士気を鼓舞し、戦闘指揮はアエギュプトゥス攻略で活躍した
   ザブダス  (Zabdas) 
に委任したもののアンティオキア近郊及びエメサにおける2度の戦いで大敗を喫し、ウァバッラトゥスは戦死した。

 ゼノビアはパルミラへと逃れて、籠城準備を整えた。


   


 パルミラを包囲したローマ軍は、兵站線が延びきっており物資を狙うアラブ人による攻撃で包囲戦の維持が困難となった。

 ゼノビアはサーサーン朝からの支援も期待していたが、エジプトを攻略した
   プロブス
が軍を率いてパルミラへ到着して兵站線が確保できたこと及び軍勢が飛躍的に増加したことで、ゼノビアは敗色を悟りペルシアへ逃亡を図った。

 ユーフラテス川を越える前にローマ軍に捕縛され、その後パルミラ市も抵抗を止めローマに降伏して273年にパルミラ王国は瓦解した。

 ゼノビアはローマへ連行され、274年にガリア帝国もローマへ統合した
   アウレリアヌス帝
の凱旋式(274年)でローマ市内を戦利品扱いに引き回され見せものとなった。

 その際にゼノビアは黄金の鎖で自らを縛り、その美貌と威厳をローマ市民に示した。

 ただ、錬金術師として著名であった同時期に活躍した
   ゾシモス
はローマへの連行中にゼノビアが死亡したと伝えており、真実は不明。
 
 
 凱旋式の後はゼノビアにはローマ国内のティブル(現:ティヴォリ)のウィッラ・ハドリアナの近郊に高級な別荘(ヴィラ)を与えられた。
 社交界でも活躍する等、贅沢に暮らしたとも伝わっている。

 また、ゼノビアはローマの元老院議員と再婚し、数人の娘にも恵まれ、その娘もローマの高貴な身分の人間と結婚したと伝えられ、ゼノビアに勝利したアウレリアヌス(275年に暗殺)よりも長く生きたようだ。


 
 


   
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2017年09月06日

胡朝(こちょう  Nhà Hồ) ベトナムを支配した王朝(1400年 - 1407年)


胡朝(こちょう  Nhà Hồ)

 ベトナムを支配した王朝(1400年 - 1407年)で首都はタインホア。

 1225年に成立した陳朝は徹底的な
   血縁重視体制(上皇体制)
を採ることで中央集権化を進め13世紀までは有能な皇帝や一族(陳興道)らが多数現れて有効に機能した。

 しかし、14世紀になると有能な皇帝・血族が現れずに国内は皇族や重臣の離反・腐敗などで乱れるようになった。

 五代十国時代に現在の中国浙江省から南下して移住した祖先を持つ
   胡季犛
が勢力を拡大していった。

 胡季犛は陳朝で採用されていた科挙で選抜された
   官僚
と手を組んで陳朝内部で巧みに勢力を侵食して拡張させた。

 第9代皇帝・芸宗の外戚となってその寵愛を受けるようになり、第10代皇帝・睿宗が
   対チャンパ戦争
で戦死して皇帝の威信が衰えると、1388年には第11代皇帝・陳晛を殺害したうえ胡季犛の娘婿である順宗を擁立し、宰相として実権を握った。

 1394年、上皇としてかろうじて陳朝を支えていた芸宗が死去しあ。

 胡季犛は直ちに有力皇族と重臣の粛清を開始し権力の簒奪に動いた。

 1398年には成長した順宗を廃したうえで暗殺し、幼少の少帝を擁立させた。

 1400年には遂に少帝をも廃したうえ、譲位させて自らが皇帝として即位した。
 国号を大虞と改め、姓を黎から胡とし胡朝が誕生した。
 

 胡季犛は粛清と簒奪を繰り返し、周囲からの恨みと反感を買った。
 このため陳朝の血を引く息子の胡漢蒼に皇位を譲って上皇となった。
 ただ、実権は依然として胡季犛が掌握していた。

 胡季犛は陳朝と同じく血族重視制度を採用しながらも、一方で旧体制の弊害だった
   貴族制度
を廃止うえ、科挙制度を改革したうえで有能な人材の登用、軍事力の強化、文芸奨励、戸籍制度の導入など様々な進歩的改革を進めた。

 中国南部への勢力拡大を目論む明の永楽帝は、陳朝の復権とその皇族の即位を要求した。

 胡季犛はこれを拒絶して永楽帝と対立関係となったことから明のベトナム侵攻の口実を与えた。

 1407年に明の大軍の侵攻を受けた首都タインホアは陥落し、胡季犛と胡漢蒼の父子は明軍によって南京に護送された。
 その後、永楽帝によって父子ともども処刑されており、わずか2代7年の短命王朝となった。

   
 
 
    
   
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2017年09月05日

季 布(き ふ) 前漢初期にかけての武将


季 布(き ふ) 

 中国の秦末から前漢初期にかけての武将で、楚の下相県(現・江蘇省宿遷市南西部)の出身。
 同郷の項羽の配下で能力を発揮したが、のちに漢王朝を建国した劉邦に仕えた。
 
 若い時から弱者を助けて
   任侠者
としても名高かった。
 項羽からの信頼も厚く、「楚漢戦争」では劉邦を幾度も窮地に立たせたという。

しかし、項羽が敗死し終結に至るきっかけともいえる「垓下の戦い」あたりで、劉邦陣営に鞍替えし軍師として活躍していた
   陳平
の計略により、范増とともに項羽に疎んじられるようになった
   鍾離眜
とともに一兵卒に変装して項羽の陣営から離脱した。

 項羽亡き後は、漢軍の追手から逃れるために各地を逃亡した。
 濮陽の町の周氏の家に潜伏していた。

 劉邦は季布に
   千金の賞金
をつけて探させ、匿う者は三族共死刑と布告した。

 周氏の主人は季布に勧めて、游侠として知られていた魯国の
   朱家
の下で過ごすことになったものの、漢の追及が激しく人相等の手配書が市中に配布されていたため季布は、頭を剃り、首枷をつけ、奴隷のなりをして魯の朱家の家へ向かい朱家の客分となった。

 朱家は漢の都・洛陽へ向かい、劉邦の配下のうち義人として名高い
   夏侯嬰
を訪ね、劉邦への仲介を依頼した。

 劉邦と直接対面した結果、季布は郎中(警護役)に取り立てられ、恵帝の時代には中郎将となった。

 匈奴の軍を率いた
   冒頓単于
が南下して、漢に対し遠征する際に漢朝の実力者の
   呂雉(呂后)
を侮辱する手紙を送った。

 侮辱された呂雉は激怒し諸将を集めて軍議を開いた。

 呂雉の義弟である上将軍の
   樊噲
は「この私めに十万の軍勢をお授けください。野蛮な匈奴を蹴散らしましょうぞ」と述べた。

 他の将軍たちも呂雉に媚び諂って賛成した。

 季布はこの席で「樊噲将軍の発言は死刑に値します。そもそも、高祖の時代にも御自ら四十万を率いて遠征に向かいながら平城で惨敗されました。それがどうでしょう。樊噲将軍が十万を率いてもかえって惨敗するでしょう。それこそ陛下の御前で嘘をつくようなものです。かつて秦は匈奴対策に気取られたために、陳勝の反乱に対応することができませんでした。それ以降は戦乱が続き、今日まで癒えておりません。樊噲将軍が陛下の御前で諂う行為は、再び乱世の時代になるようなものです」と直言した。

 季布の直言を聞いた漢の大臣と諸将は呂雉を畏れ憚った。

 呂雉は季布の直言を採用し、軍議をここで打ち切り、以降から匈奴遠征を持ち出すことはなかったという。
 季布は文帝の時代には河東郡の太守にまで出世した。

 子供の頃から季布は義理堅い人物として評判であった。
 その物事を直言する人柄とで次第に宮廷でも重みをますようになり
   黄金百斤
を得るは、季布の一諾を得るに如かず」とまで言われるようになった。

  
   
 

   
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2017年09月01日

陳 平(ちん ぺい) 前漢初期の軍師


陳 平(ちん ぺい)
    ? - 紀元前178年)

 中国秦末から前漢初期にかけての軍師

 当初は魏咎や項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には漢王朝を打ち立てることになる
   劉邦
に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。

 その後、劉邦の遺言により丞相となり、呂雉亡き後の呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守るという功績を立てた。
  
 
 

     
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劉 拠(りゅう きょ) 武帝時代の皇太子


劉 拠(りゅう きょ)
 紀元前128年 - 紀元前91年)

 前漢の武帝の長男で皇太子だった。
 母は武帝の皇后で大司馬大将軍
   霍 去病
の叔母にあたる衛子夫である。

 悼皇考(史皇孫)劉進は子で9代皇帝の宣帝は孫にあたる。
 戻太子(戾太子、れいたいし)と呼称されることも多い。
 

 第7代皇帝である武帝の長男として生まれ、元狩元年(紀元前122年)に皇太子に立てられた。

 母が父の寵愛を失った後も皇太子としての地位を保っていた。
 
 武帝は晩年に
   江充
という者を信任し
   監察官
の役目を命じた。
 江充は権勢家や皇族であっても弾劾し、皇太子のことも弾劾したため、劉拠と江充は対立するようになった。

 江充は「巫蠱の獄」の取り調べに当たり、皇后や皇太子の宮殿からも証拠を発見した。
 このことを知った皇太子の劉拠は、このままでは誅殺されるしかないと考え、長安で挙兵し、江充を逮捕し切り捨てた。

 しかしこのことが、当時長安を離れて甘泉宮に出かけていた武帝に伝わると、皇太子が謀反を起こしたことに摩り替り、丞相劉屈氂に討伐を命じた。

 劉拠は丞相と交戦して長安を戦火に巻き込んだものの衆寡敵せず、長安から東方にある湖県の泉鳩里のある靴屋の下に逃れて潜伏した。 
 途中で新安県の属吏・李寿・張富昌らの追っ手に取り囲まれて自殺した。

 劉拠の挙兵と失敗により、嗣子の劉進(史皇孫)を初めとした彼の妻子は謀反人の家族として、当時乳飲み子だった劉病已(劉進の子、後の宣帝)を除いて処刑された。

 また、生母・衛子夫も皇后の地位を剥奪され、自殺させられ、劉拠を逃がした田叔の末子の田仁が任安とともに腰斬に処され、その一族も処刑された。

 その後、事件の背景が明らかとなり、江充の悪事の数々が暴露されると、武帝はこれを悔やんで劉拠たちの名誉は回復され、逆に江充の一族が皆殺しにされた。

 また、巫蠱取り調べに同行した宦官・蘇文も渭水の橋の上に束縛されて、火あぶりに処された。

 孫にあたる宣帝が即位した後、劉拠は、名誉を回復し戾太子と呼ばれるようになった。
  
 
 

     
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2017年08月06日

李 信(り しん、生没年不詳) 中国戦国時代から秦代にかけての秦の武将


李 信(り しん、生没年不詳)

 中国戦国時代から秦代にかけての秦の武将。 
 
 紀元前229年〜紀元前228年、秦王政(後の始皇帝)に仕え戦国時代末期を代表する名将
   王翦
が数十万の軍を率いて趙と対峙している時、李信は趙の太原、雲中に出征していた。
 (王翦は、趙、楚を滅ぼすなど秦の天下統一に貢献)
 
  
 紀元前226年、王翦と王賁は、前年の燕の太子丹が主導した荊軻による
   秦王政(後の始皇帝)暗殺未遂事件
の報復として、燕都・薊を攻略した。
 燕王喜と太子丹は遼東に敗走し燕は事実上の滅亡した。
 この際、李信は、約1000の兵を率いて燕軍を追撃して、太子丹を討ち取った。

 紀元前225年、秦王政は、楚の征服を計画し対楚戦にどれだけの部隊が必要かを諮問した。
 李信は、「20万」が必要だと語った一方で王翦は、「60万」が必要だと語った。

 秦王は、王翦が耄碌したものと捉え、李信の案を採用して侵攻を命じた。
 李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿で、蒙恬は寝丘で楚軍に大勝した。

 さらに、李信と蒙恬は、郢周辺を攻め、再び楚軍を破った。

 城父で李信と蒙恬が合流した所を、三日三晩追跡して来た
   項燕
が率いる楚軍に奇襲され、2カ所の塁壁を破られ7人の将校を失う大敗を喫した。
 そのため、王翦と交代させられた。

 なお、翌年には王翦と蒙武が60万の兵を率いて楚を攻め、楚王負芻を捕虜にして楚が滅亡した。
 
   
 紀元前222年、王賁と共に燕の遼東を攻めた。
 燕王喜を捕虜とし、これを滅ぼした。
 さらに、代(趙の滅亡後に趙の王族が代に逃れて樹立した政権)を攻めて代王嘉を捕え、代を滅ぼした。

 紀元前221年、王賁と蒙恬と共に斉を攻め、これを滅ぼしている。




 

    
 

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2017年08月04日

趙 高(ちょう こう) 秦の宦官で権力を握り秦を滅亡に導いた。


趙 高(ちょう こう)
    ? - 紀元前207年

 中国統一王朝である秦の宦官で権力を握り秦を滅亡に導いた。

 戦国時代に存在し戦国七雄の一つに数えられ趙国(紀元前403年 - 紀元前228年)の公族として生まれた。

 幼少時に母親が罪を犯し、これに連座して宮刑に処せられたというがあるが疑わしい点が多い。
 実際、閻楽という女婿がいるため、秦に官吏として仕える途中で罪を犯したか、連座により宮刑に処せられたと見られる。

 趙高が始皇帝にいつから仕えたのかは記録もなく不明。
  



 

   
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2017年08月01日

李 斯(り し) 秦の始皇帝の側近で宰相


李 斯(り し)
   ? - 紀元前208年)

 中国秦朝時代の宰相で字は通古。
 法家を思想的基盤に置き、度量衡の統一、焚書坑儒などを行い、秦帝国の成立に貢献した。
 始皇帝の死後、宦官趙高との権力争いに敗れて処刑された。
 
 楚の北部にある上蔡(現在 河南省駐馬店市上蔡県)の出身。

  


 
  
     

  
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