2017年02月07日

アントン・ドレクスラー(Anton Drexler) ドイツ労働者党の共同設立者のひとり


アントン・ドレクスラー
     (Anton Drexler)
   
      1884年6月13日−
            1942年2月24日

 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の前身である
   ドイツ労働者党
の共同設立者のひとり。
 
 鉄道労働者の息子としてミュンヘンに生まれ、国民学校卒業後、1901年にベルリンに上京したものの、失業して帰郷している。
 1902年から機械工として働き始め、この頃には既に反ユダヤ主義、反マルクス主義的な思想を持つようになっていた。

 第一次世界大戦(1914年(大正3年)から1918年(大正7年))中にはドイツ主戦派の大衆組織
   ドイツ祖国党
に参加した。

 1918年3月には職場だったバイエルン王国王立鉄道中央工場の同僚と共に
   「良き和平のための自由労働者委員会」
を組織した。

 また、ヴァイマル共和政ドイツのジャーナリストで政治活動家の
   カール・ハラー
と共に保守系右派民族主義団体「政治的労働者のサークル」を設立。

 ドレクスラーの思想的指導者は、「全ドイツ人同盟」の指導者
   パウル・ターフェル
でニュルンベルク・アウクスブルク機械工場経営者・バイエルン産業家連盟の代表役員だ。
 
 敗戦後の1919年1月5日
   「ターフェルの慫慂」
によりディートリヒ・エッカート、ゴットフリート・フェーダー、ハラーと共にドイツ労働者党(DAP)を設立。

 同月に国際プロレタリアの挫折と兄弟思想の失敗」と題する論文を発表いた。
 続けて「我が政治的目覚め」と題するパンフレットを発表した。

 なお、このパンフレットが当時復員してミュンヘンにいた
   アドルフ・ヒトラー
に影響を与えたという。

 1919年9月にミュンヘンで集会を開催した。
 その際に演説したバウマン教授を論破したヒトラーを見て興味を抱いた。

 ドレクスラーはヒトラーに党のパンフレットを渡し、入党を促した。
 ヒトラーはドレクスラーの求めに応じて同月12日に入党した。

 1920年2月24日、ドレクスラーはヒトラーをホフブロイハウスで開催する党大会に参加させた。
 大会においてヒトラー主導の下で25カ条綱領が発表され、党名を
   国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)
と改名した。
 
 党名改称後、党内ではヒトラーが頭角を現し、1921年に入るとヒトラーの勢力は盤石になった。

 これに危機感を覚えたドレクスラーは、6月にヒトラーがベルリンに出かけている間に無断で他の右翼政党との共闘や合併を協議し始めた。

 ドレクスラーの裏切り行為を知ったヒトラーは7月11日に離党を宣言した。
 ただ、党幹部は党の顔であるヒトラーの離党が党消滅に繋がることを危惧し、引き留めに躍起となった。

 3日後、ヒトラーは党への復帰の条件として自分に独裁権を与えるように書面で要求した。
 党幹部はこの要求を認めたため、ヒトラーは復党した。


 ドレクスラーは7月25日にミュンヘン警察にヒトラーを危険人物であると密告した。
 しかし、取り合ってもらえず7月29日、554票中553票を得てヒトラーは新党首に選出された。
 ドレクスラーは名誉党首に祭り上げられ、党での実権を失った。

 1923年11月の
   ミュンヘン一揆
の際、自宅にいたドレクスラーはヒトラーに呼び出されて計画を聞いたが、恐れて参加しなかった。
 しかし、一揆の失敗後に警察に逮捕された。

 この事件によりナチ党が一時解散を強いられた。
 ドレクスラーは党を離れて
   「民族ブロック」
に参加し、1924年から1928年にかけてにバイエルン州議会議員を務めた。

 なお、この間の1925年には民族社会主義人民同盟を設立した。

 同年ナチ党が再建されたがドレクスラーは加わらず、復党したのはヒトラー内閣成立後の1933年になる。

 1934年には党創設者としてヒトラーから1923年11月9日記念メダルを授与された。

 しかし、以後も政治権力は与えられず、彼の存在は1937年まで党の宣伝のために利用された。

 ドレクスラー自身は、この勲章授与に感激し、以後熱烈なヒトラー支持者となった。
 その後、彼はミュンヘンに隠棲し、第二次世界大戦中の1942年に同地で死去した


 
 

   
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2017年01月25日

李 子春(り ししゅん/イ・ジャチュン) 李氏朝鮮を創建した李成桂の父親


李 子春(り ししゅん/イ・ジャチュン)
    
      1315年 - 1360年

 高麗末期の女真族の武臣でモンゴル名は
   吾魯思不花(ウルスブハ)
という。

 李氏朝鮮を創建した李成桂の父親
 
 高麗を東北方面からおさえる元朝の拠点の咸鏡道の
   双城総管府
において千戸(千人隊長)の役職についていた。

 高麗王朝第31代の
   恭愍王
が反元政策のもと、総管府を攻略した。

 このとき、李子春はただちに高麗に投降した。

 正室の懿恵王后は、中国山東半島登州人の崔氏で、咸鏡道に移住して暮らしていた。
 もともとの姓は趙であり、懿恵王后の父の名前は趙祚(조조)だった。

 ただ、元朝の役職千戸(千人隊長)任命されたことから
   崔閑奇
に改名して、その崔閑奇の娘が懿恵王后となる。

 そして、李子春と懿恵王后崔氏のあいだに生まれた子が李氏朝鮮の初代王李成桂。

 祖母の本貫は登州[であり、登州で戸長を務めていた
   崔基烈
の娘貞淑王后崔氏である。

 死後、王として即位した李成桂によって桓王、孫の3代国王朝鮮王によって桓祖淵武聖桓大王と追尊された。
 
   
 
 

    
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2017年01月22日

ジェームズ・N・マティス(James N. Mattis) 異名は「戦う修道士」「狂犬」


ジェームズ・N・マティス
      (James N. Mattis)

     1950年9月8日−


 米国海兵隊の軍人で最終階級は大将。
  
 2017年1月に発足した
   ドナルド・トランプ政権
で第26代国防長官に就任した。

 異名は「戦う修道士」「狂犬」

 
 ワシントン州プルマン生まれ、セントラル・ワシントン大学を卒業後、1972年1月1日付で
   海兵隊少尉
に任官、その後中尉に昇任し、第3海兵師団のライフル小隊長、武器小隊長を務めた。

 大尉に昇任後は第1海兵大隊(第1海兵師団・第7海兵連隊隷下)でライフル中隊長、武器中隊長を務めた。

 少佐に昇任した後は、オレゴン州ポートランドにある新兵募集基地で新兵募集任務に従事した。

 中佐に昇任して、第1海兵大隊長に就任した。
 湾岸戦争において、同大隊は
   「砂漠の盾作戦」
の決行にあたって任務遂行にための組織(タスクフォース)の1つ
   「リッパー」(Task Force Ripper)
の構成部隊の1つとなり、大隊長の1人としてタスクフォース・リッパーの指揮に関わった。

 その後、大佐に昇任し、第7海兵連隊長となった。

 海兵隊准将に昇進後、南アフガンで展開中の
   「不朽の自由作戦」
において、第1海兵遠征旅団と海軍隷下のタスクフォース58号を指揮した。

 同作戦で、マティスは海兵隊員としては初めて海軍のタスクフォースを指揮した人物となった。

 少将へ昇任後は、2003年のイラク侵攻では第1海兵師団を率いた。
 それに続くイラク戦争でも変わらず指揮をとった。

 2004年4月のファルージャでの
   ヴィジラント・リゾルヴ作戦
では、市内の暴徒たちの指導者との交渉で重要な役割を担った。

 またマティスは、11月の
   ファントム・フューリー作戦
の立案でも大きな役割を果たした。

 その後は中将へと昇進し、マティスは海兵隊戦闘開発コマンドの指揮をとった。
  
 そして2005年2月1日、マティスはサンディエゴの討論会で、「アフガニスタンへ行けば、ヴェールをつけていないからと5年間も女性たちを殴りつけてきた連中がいる。男の風上にもおけない奴らでしょう?そういう人間を的にするのは死ぬほど愉快でしたね。実際、戦うというのはとにかく楽しいものです。いや、面白すぎるといってもいい。誰かを銃の的にするというのは楽しい。はっきり言えば、私は喧嘩が好きなんだな。」とアドリブの発言が波紋を呼んだ。


 海兵隊の当時のトップ
   マイケル・ヘギー大将(海兵隊総司令官)
もこのスピーチを問題視した。

 しかし、マティスは言葉をもっと慎むべきであるが、懲戒処分には当たらないと述べた。

 従軍している
   兵士の多くが市民を虐待
していると仲間に告げていたことを示す米国国防総省の調査を受けて、マティスは2007年の5月に
   「市民に腹がたったりむかつくようなとき」
こそ
   「アルカイダやその他の反乱分子への勝利だ」
と海兵隊員たちに語った。

 暴徒を抑えるためには戦場での休息こそが鍵になるという考えに対し
   「イラク市民」
を揺さぶるたびに
   「アルカイダも墓場に転がっていく」
と答えた。


 大将としてのマティスは
   「偽りの友よりあからさまな敵の方がまし」
というローマ人スッラの言葉を使ったスローガンを指針として浸透させた。

 この言葉は、彼のもとで小隊を指揮していた
   イラリオ・パンターノ少尉
が自己防衛だとして非武装のイラク人を射殺した行為などが問題となった行為の査問中に有名になった。


 2007年から2010年まで、アメリカ統合戦力軍(USJFCOM)司令官。2008年からNATO改革連合軍司令官を兼任した。
 その後、2010年から2013年まで
   デヴィッド・ペトレイアス
の後任としてアメリカ中央軍司令官を務め、、2013年に海兵隊を退役した。



 2010年7月、マティスは国際治安支援部隊(ISAF)司令官兼アフガニスタン駐留アメリカ軍(USFOR-A)司令官に転出した
   デヴィッド・ペトレイアス陸軍大将
の後任として、ロバート・ゲーツ国防長官の推薦により、バラク・オバマ大統領よりCENTCOM司令官に指名された。

 この人事は、きわめて緊急性が高い人事だったこともあり速やかに上院軍事委員会による承認プロセスがとられた。

 これにより、2011年7月にアレン中将が大将昇任・補職に伴って退任するまでの1年近くにわたり、同じ統合軍の正副司令官ポストを共に海兵隊出身の将官が務めるという状況が生まれた。

 その後にオバマ政権と対イラン政策をめぐって対立して解任された。
 イランとの核合意に反対しイランをISIL以上の脅威と看做すマティスの姿勢が原因とされる。

 2013年に中央軍司令官を退任し、同年、海兵隊を退役した。

 2016年11月20日、ドナルド・トランプ次期大統領は2016年12月1日、オハイオ州シンシナティで行われた凱旋集会において、マティスを次期政権の国防長官に起用する方針を発表した。

 2017年1月20日、アメリカ合衆国連邦議会がマティスの国防長官就任を承認した。
 なお、これによりマティスはジョージ・マーシャルに次ぎ史上二番目の退役から7年未満の国防長官となる。  


 

  
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2017年01月19日

李 克用(り こくよう) 独眼龍の異名を持つ猛将


李 克用(り こくよう)

      856年 - 908年 

 中国の唐末期の軍閥指導者で後唐の始祖

 独眼龍の異名を持つ猛将で突厥沙陀部出身

 李存勗(荘宗)の父で、李嗣源(明宗)の仮父にあたる唐末期に全て黒い衣装で統一して
   鴉軍(あぐん)
と呼ばれる精鋭兵を率いて、大規模な農民の反乱
   黄巣の乱
の鎮定に功績を挙げた。

 鴉軍来たるの報告を聞いただけで黄巣軍は崩れ立つほどその軍は精強だったと伝わっている。


 軍略には非常に秀でていた李克用であるが、政略や謀略では常に朱全忠や他の群雄に遅れをとっており朱全忠と激しい権力争いを繰り広げていたが、中途で病死した。
  
 
 耶律阿保機と和約を結んだ際、家臣が
   耶律阿保機
を虜にしてしまいましょうと進言するのを退けた。

 耶律阿保機は契丹に帰国すると心変わりして朱全忠に誼を通じて李克用を討とうとしたため、李克用は耶律阿保機を捕縛しなかった事を深く後悔し、恨んだと伝わっている。


 

     
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2017年01月18日

張 世傑(ちょう せいけつ) 南宋の三忠臣(亡宋の三傑)


張 世傑(ちょう せいけつ)

     生年不詳 - 1279年

 南宋末期の軍人
 文天祥や陸秀夫と共に南宋の三忠臣(亡宋の三傑)のひとり

 涿州范陽(現在の河北省涿州市)の人で、最初はモンゴルの武将である
   張柔
の家臣だったが、罪を得て南宋に逃亡したもの。 


 南宋の長江で大勢力を誇った軍閥のひとりで、名将
   呂文徳
にその優秀な軍事的才能を見出されて将軍となった。

 1275年には元軍の侵攻を一度は撃退したが、1276年に首都・臨安が陥落すると
   陸秀夫
と共に前皇帝であった度宗の遺児を引き連れて脱出し、亡命政権を形成した。

 その後、南宋の将軍として失地回復を図ったが果たせなかった。

 元軍の張柔の9男である武将
   張弘範
は張世傑の甥を派遣して、元に帰順させようと試みたが失敗に終わっている。

 祥興2年(1279年)、張弘範将軍による崖山攻撃が開始され宋軍水師は張世傑の指揮の下に抵抗を続けた。

 この戦いは「崖山の戦い」と称される海戦だが宋軍は猛攻で壊滅
   祥興帝(しょうこうてい)
   陸秀夫
など要人は次々入水自殺して南宋が滅亡した。

 なお、張世傑は
   陳朝大越国(現在のベトナム北部)
に向かって再起を果たそうとしたが、逃走中に嵐で船が沈没して死亡した。
  
 
 

    
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2017年01月14日

文 天祥(ぶん てんしょう) 南宋末期の軍人


文 天祥(ぶん てんしょう)

   端平3年(1236年)
       - 至元19年12月8日(1283年1月9日)


 中国南宋末期の軍人で政治家。

 滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。

 張世傑、陸秀夫と並ぶ南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。

 妻は欧陽氏、子は文道生(1260年 - 1278年)らがいる。
 社会学者の文俊は直系の子孫にあたる。
 

 現在の江西省吉安市にあたる吉州廬陵の出身で1256年、20歳の時に科挙を状元(首席の事)で合格した。


 当時の状況は北の金は既にモンゴル帝国によって滅ぼされ、南宋は強力なモンゴル軍の侵攻に耐えていた。
 1259年にモンゴル軍が四川に侵攻してきた際に遷都が決定された。

 文天祥はこれに反対して任官まもなくして免官されている。
 その後、復職するが当時の宰相・賈似道との折り合いが悪く辞職する。

 文天祥だがモンゴルの攻撃が激しくなると復職して元との戦いに転戦し1276年には右丞相兼枢密使となった。
 そして元との和約交渉の使者とされるが、元側の伯顔との談判の後で捕らえられた。

 文天祥が捕らえられている間に首都・臨安(杭州)が陥落た。

 張世傑・陸秀夫などは幼帝を奉じて抵抗を続けていた。

 文天祥も元の軍中より脱出して各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けたが1278年に遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行されている。

 克Rに追い詰められた宋の残党軍への降伏勧告文書を書くことを元軍から求められるが『過零丁洋』の詩を送って断った。
 この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ」と言うような内容である。

 元の猛攻で宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんで
   クビライ
から何度も勧誘を受けている。
 この時に文天祥は有名な『正気の歌』(せいきのうた)を詠んだ。

 クビライは文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めた。



 
 

   
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2017年01月08日

施琅(しろう) 水軍の運用に優れた清初期の提督


施琅(しろう、施琅)
    1621年 - 1696年

 明末期から清初期の軍人で特に台湾の
   鄭氏政権の攻略
など、水軍の運用に優れた提督として知られている。
 
 福建晋江に生まれ、交易商人
   鄭芝龍
の部下であったが、1646年(順治3年)鄭芝龍が黄道周との対立などで南明政権から離れ清朝軍に投降すると、それに従った。
  
 鄭芝龍の息子
   鄭成功
が指揮する南明の抵抗軍への誘いをこの時断ったため家族が捕らわれ、鄭成功の兄弟やその家族同様に皆殺しにされている。

 1656年(順治13年)定遠大将軍
   済度
の麾下に入り鄭成功の北伐を迎撃し撃退した。

 この貢献で同安副将となった。

 その3年後には台湾に拠った鄭成功に対する同安総兵の地位に就いている。


 1662年(康熙元年)水師提督となり、鄭経に相対し、海澄をうかがう鄭経の軍を破り、耿精忠の蜂起(三藩の乱)にあっては、厦門にて戦闘を行った。

 この戦いでは、台湾南部から追放されたオランダ人水兵を募ってこれに勝利したうえ反攻して金門島を含む2島を奪った。

 この功績で右都督となり、2年後には靖海将軍の地位が加えられている。

 1668年(康熙7年)には台湾侵攻を提案したものの通らず、内大臣となり鑲黄旗に属した。

 1681年(康熙20年)鄭経が死亡すると台湾侵攻の責任者として推薦され
   福建水師提督
と太子少保の地位を得た。

 翌年の侵攻が決定すると1683年には鄭経の子鄭克爽を降して靖海侯となった。
 また、鄭一族の毒殺を進言された事もあったが、これを退けた。

 

 
 


    
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2017年01月07日

狐偃(こえん) 春秋時代の晋の政治家


狐偃(こえん)

 中国春秋時代の晋の政治家

 字は子犯。舅犯、または咎犯(どちらもきゅうはんと読む)と呼ばれる。
 
 狐偃の父の
   狐突
は中原の周辺で活動していた遊牧民族
   狄
の出身から、先見の明があり晋の武公に仕えかえたとされている。

 武公の子の献公の時代になると、献公の公子の中から生母が狄の出身である
   重耳(のちの文公)
に覇者たる器があると目をつけ、兄の狐毛とともに狐偃を重耳に仕えさせるなどした。

 やがて「驪姫の乱」によって晋朝が混乱すると、重耳を君主にしようとする声が高まった。

 ただ、狐偃は君主である奚斉を殺した家臣たちの要望を受け入れて
   君主の座につくのは不吉
であると言って重耳を押しとどめた。

 重耳はこの忠告を聞き入れて晋を出国し、以降19年に渡って国外を放浪した。

 途中、重耳一行が飢えて五鹿の地を通ったとき、土地の農民に食物を乞うたが農民は土を差し出した。
 この行為に対し、重耳は怒って農民を殺そうとしたが、狐偃は押しとどめたうえ「民が土を献じたのです。公子はのちに必ずこの地を手に入れるでしょう」と諭したうえ喜んだ。

 斉に入国した重耳一行は覇者桓公に手厚くもてなされた。

 斉の大臣として桓公の死後も斉を助けてくれるように頼んだので重耳は大いに喜んだ。
 しかし、狐偃は「わたしたちは覇者の家臣になるために公子についてきたのであって、斉の陪臣になりにきたのではない」と主張した。

 ある日重耳の妻の斉姜と趙衰と諮って酔った重耳を馬車に乗せたうえ無理やり斉を出国した。

 この行為に目覚めた重耳は怒って狐偃を殺そうとした。

 ただ、狐偃は「わたしが殺されても公子が成功すれば本望です言い放った。

 重耳はなおも怒りがおさまらず「もし成功しなかったら汝の肉を食ろうてやる」と言った。
 ただ、狐偃は「もし公子が成功しなかったら私は飢えてのたれ死ぬでしょうから、その肉は食べられたものではないでしょう」と言って動じなかったという。

 なお、重耳は家臣たちの意思の固さを知り、これ以後自ら晋に帰国し覇者となるべく益々研鑽を積むようになった。
 

 斉の桓公、宋の襄公、楚の成王、秦の穆公など中原における春秋時代を代表するような名君たちの支援を受けた重耳は、ついに晋に帰国して文公となった。

 狐偃は帰国したのちも文公の覇業を支援した。

 なお、周の襄王が
   叔帯の乱
が鎮圧できず、鄭に亡命した。

 諸侯にたすけを求めたものの権威の低下してしまった周王室を軍費を自前で負担してまで助けようとする諸侯はいなかった。

 狐偃は「君は王をたすけて民に義を示すべきです」と文公に進言したため、文公は兵を率いて王室の乱を平定した。

 この功により晋は王室から温・原などの中央に近い地を賜った。
 これがのちの晋の大発展の礎となった。

 諸侯に先駆けて王室をたすけて義を示したことでも晋の文公の名は天下に轟いた。

 

    
    
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