2025年01月16日

カリ・ツナ(Cari Tuna)Open PhilanthropyやGood Venturesの共同設立者

カリ・ツナ(Cari Tuna)
   1985年10月4日生まれ
 米国の非営利ビジネスパーソンであり、かつてはウォール・ストリート・ジャーナルの記者であった。
 現在は
   Open Philanthropy
   Good Ventures
の共同設立者であり、これらの団体で働いている。

 カリ・ツナはミネソタ州で生まれ、2人の医師の3人兄弟の長女として、インディアナ州エバンズビルで育ち、シグネチャー・スクールに通った。
 そこで彼女は生徒会長を務め、
   アムネスティ・インターナショナル支部
を設立し、共同卒業生代表を務めた。
 ツナはイェール大学で政治学を学び、学生新聞のイェール・デイリー・ニュースに寄稿した。
 在学中、地元の新聞であるエバンズビル・クーリエ・アンド・プレスに記事を寄稿し
   ミネアポリス・スター・トリビューン
でインターンシップを行った。
 アラビア語とトルコ語の基礎知識を持っていた彼女は、外国特派員としてのキャリアを検討した。
 ツナはBAを取得して卒業した。
   
 卒業後、ツナはウォール・ストリート・ジャーナルの記者となり、シリコンバレーとハイテク業界について約3年間取材した。
 ツナは現在、夫と共同設立した民間財団
   グッドベンチャーズ
でフルタイムで働くかたわら、夫とホールデン・カルノフスキーと共同設立したグッドベンチャーズと
   ギブウェル
のコラボレーションから生まれたスピンオフである
   オープンフィランソロピー
の社長も務めている。
 ツナは、オープンフィランソロピーの社長としての役割が評価され、タイム誌の「2024年AI界で最も影響力のある100人」に選ばれた。

 ツナはブラインドデートでインターネット起業家のダスティン・モスコヴィッツと出会い、2013年に結婚した。
 彼女と夫は
のギビング・プレッジに署名している。
 ツナは効果的利他主義コミュニティの著名なメンバーでもある。

    
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2025年01月15日

ラリー・サンガー(Larry Sanger Lawrence Mark Sanger) ウィキペディアの共同設立者

ローレンス・マーク・サンガー
      (Larry Sanger Lawrence Mark Sanger) 
 1968年7月16日生まれ
 アメリカ合衆国の哲学者。専門家が参加するフリー百科事典プロジェクト
   シチズンジアム(Citizendium)の創始者。
哲学者としては認識論(epistemology, theory of knowledge)に関心をもつ。
 多くのオンライン百科事典のプロジェクトに関わっており、
   Nupedia
の編集主幹、および
   チーフ・オーガナイザー
を務め(2001年 - 2002年)、その後身
   ウィキペディア
の共同設立者でもあった。
 Nupediaでは記事の編集プロセスのとりまとめをおこない、ウィキペディアの初期にはコミュニティ・リーダーとして基本的な運営方針の大部分を形にした。
 こうした活動と平行してオハイオ州立大学で哲学の教壇に立った。
 また専門家の執筆・編集によるEncyclopedia of Earthの初期構想にも参加した。
 2006年9月15日にウィキペディアのフォークとしてCitizendiumの構想を発表した。
 現在編集主幹を務めている。
 このプロジェクトは2007年3月25日にサービスを開始した。

 ワシントン州ベルヴュー生まれ、7歳のときに一家がアラスカ州アンカレッジに移った。
 サンガーは初等教育のほとんどをアンカレッジで受け、優秀な生徒として知られることになった。
 少年時代から哲学に関心をもった。
 高校生時代に「哲学でいったい何をやるのか」と聞かれたサンガーは「たとえばみんなの考え方をかえること」と答えたという。
 1986年に高校を卒業し、リード大学の哲学専攻へ進学した。
 大学時代には悟性(understanding)や認識の起源(sources of knowledge)について研究した。
 またインターネットとその情報発信能力に関心をもった。
 後年にwikiをオンライン百科事典として使うことの有益性に思い至ったのは、こうした関心が反映されているという。

 インターネットを用いた最初の試みはリストサーバ(listserver, メーリングリストを発行する技術のひとつ)を用いて学生と講師が交流できる場をつくるもので、「専門性の高い指導」を可能にし、「チュートリアルおよびその方法論を討議し、ボランタリーで自由な講師と学生が従来の大学機関を介さずに互いを見つけ出し、そのことのメリットと可能性を追求するためのインターネット上のフォーラムとして機能する」ことを試みるものであった。
 サンガーは哲学をディスカッションするメーリング・リストを作り、調停役として参加した。その「体系的哲学協会」(Association for Systematic Philosophy)は会報も刊行した。
 1994年3月22日付の投稿では、サンガーはマニフェストを起草している。
 サンガーは1991年にリード・カレッジで哲学の学士を、2000年にオハイオ州立大学で哲学のPh.D.を取得した。
 学士論文は『デカルトの方法論とその理論的背景』("Descartes' methods and their theoretical background")と題されたものである。
 博士論文は『認識論的循環:メタ正当化問題についての試論』("Epistemic Circularity: An Essay on the Problem of Meta-Justification")である。
 1998年から2000年にかけては「サンガーのY2Kニュース・レヴュー」(Sanger's Review of Y2K News Report, 以前はsangersreviw.comに設置されていた)というウェブサイトを運営している。
 これはいわゆる2000年問題に関心をもつ者のためのリソースサイトであった。

 2007年から、サンガーはオンライン教育の可能性を検討し始め、「一方的な伝達行為ではなく、脱中心的で、自己決定的で、非同時的で、完全にデジタルで、遠隔的にオーガナイズされる教育について考えてみた」と述べ、「いくつかの基本的なルールの他には強制力をもつ官僚的機構がなく、意思決定は完全に教師と学生の手によって行われるものになるだろう」と語った。

 Nupediaはウェブ・ベースの百科事典で、専門家によって執筆された記事をフリーなコンテンツとして提供するものだった。
 ジミー・ウェールズによって設立され、ドット・コム企業
   Bomis
の賛助を得た。
 編集主幹として雇用されたサンガーは、他の編集者を募り、記事のレビューのプロセスを考案した。
 Nupediaの遅々とした進行に疑問を抱いたサンガーは、2001年1月にウィキを用いて執筆編集作業を効率化することを提案した。
 この提案を形にしたものが2001年1月15日に公式発足した英語版ウィキペディアである。

 サンガーはNupediaの活動の中心的存在であったため、ウィキペディア立ち上げの際には先頭にたってプロジェクトを進行し、名付け親となり、基本的な方針の大部分の構想を行った。こ
 の中には「あらゆるルールを無視せよ」および「中立的観点」というポリシーも含まれている。
 サンガーは2001年1月15日から2002年3月1日までの期間、ウィキペディアで唯一の報酬を受け取る編集者だった。

 2002年2月にBomis社がサンガーの給与支払いを停止するまでNupediaとウィキペディア双方で働くとともに宣伝活動も行った。
 なお、3月1日にNupediaの編集主幹およびウィキペディアのチーフ・オーガナイザーの職を辞した。
 サンガーは両プロジェクトでボランティアとして参加することをやめた理由として、パートタイムのボランティアでは満足に参加することができないからだと語っている。
 Nupediaはその翌年閉鎖した。

 2004年12月、サンガーはウェブサイトKuro5hinにおいて、「プロジェクト内部に社会的・政治的に有害な雰囲気が存在」しており、そのことも彼の離脱の原因となっていると述べた批判記事を発表した「
 ウィキペディアのメリットは十分に評価する」として「その使命と基本的なポリシー」はよく理解しており支持する、としながらも、このプロジェクトには深刻な問題があると述べている。

 現在、ウィキペディアの事実上のリーダーを務めている
   ジミー・ウェールズ
は、2004年以来、サンガーがウィキペディアの創設に参加したことを積極的に認めない言説を行っている。
 サンガーは一職員であり、ウィキペディアの共同設立に関しては「当初、同僚の中で(設立を)笑い話以外のものとして考えた者は一人もいなかった」とウェールズは述べている。
 一方、少なくとも2001年9月時点ではサンガーは共同設立人と認知されていた。

 サンガーは哲学の教授としてオハイオ州立大学の講師職に就き、2005年6月まで教壇に立った。
 専門は認識論で、とりわけ初期近代の哲学および倫理学を扱った。
 余暇にはオハイオ州コロンバスやデイトンでフィドルを用いたアイルランドの伝統音楽の演奏や指導を行っている。
 また、伝統的なフィドルについてのウェブサイトも運営している。

 2005年12月、ディジタル・ユニヴァース財団(Digital Univers Foundation)はサンガーが「分散コンテンツプログラム」(Distributed Content Programs)のディレクターとして雇用されていると発表した。
 その後、2006年初頭に立ち上がったDigital Universe Encyclopediaのウェブ・プロジェクトの中心的なまとめ役となった。
 Digital Universe Encyclopediaは、項目執筆およびユーザーの投稿記事の正確さをチェックする専門家を雇用する予定であり、この企画の最初のステップが、地球についての電子レファレンスであるEncyclopedia of Earthであった。
  
   
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アレクサンドル・ケレンスキー(Aleksandr Fyodorovich Kerenskii)ロシア革命(2月革命)の指導者のひとり。

アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー
   (Aleksandr Fyodorovich Kerenskii Алекса́ндр Фёдорович Ке́ренский )
   1881年4月22日ー1970年6月11日
 ロシアの弁護士、政治家。社会革命党党員で、ロシア革命(2月革命)の指導者のひとり。
 ペトログラード・ソビエト副議長、臨時政府法務大臣、陸軍・海軍大臣、大臣会議議長(1917年)などの役職を歴任した。
 1917年の2月革命後、新たに成立した臨時政府に入閣し、最初は法務大臣、次いで陸軍大臣を務めた。
 7月以降は臨時政府の首班(首相)を務めた。
 彼は社会革命党の社会民主主義
   トルドヴィキ派の指導者
でもあり、ペトログラード・ソビエトの副議長を務め、大きな権力を握っていた。
 臨時政府の首相に就任したケレンスキーは、その任期中に第一次世界大戦を継続させ、1917年頃からは
   反戦感情や反対意見の取り締まり
を強化したが、政権は不安定な状態であった。

 ケレンスキーは10月革命まで権力の座にあったが、この革命により、ボリシェヴィキは
   ウラジーミル・レーニン
が率いるソビエト政権を樹立し、ケレンスキー政権に取って代わった。
 ケレンスキーはロシアを脱出し、亡命生活を送った。
 彼はパリ、ニューヨークを行き来し、後年はスタンフォード大学のフーヴァー研究所で働いていた。
 
 ロシア帝国のシンビルスク(現在のウリヤノフスク)に一家の長男として生まれた。
 父フョードルはシンビルスク古典中高等学校の校長であった。
 なお、教師になる前はモスクワで商人をしていた。

 この学校の生徒の中には、
   ウラジーミル・ウリヤノフ(後のウラジーミル・レーニン)
がおり、ケレンスキー家とウリヤノフ家は互いに親しかった。
 1887年にレーニンの兄
   アレクサンドル・ウリヤノフ
がアレクサンドル3世暗殺計画の首謀者として処刑された際も、フョードルはレーニンを擁護していた。
 母ナジェーダはカザン軍管区地形局長の父と元農奴の母との間に生まれた娘だった。

 1889年に父が公立学校の監査官に任命され、ケレンスキーは父に連れられ任地のタシュケントに移った。
 1899年にサンクトペテルブルク大学に入学し、歴史学と言語学を学び、翌1900年からは法学を専攻した。
 1904年に法学の学位を取得し、同時期にロシア帝国軍将軍の娘
   オリガ・ルヴォヴナ・バラノフスカヤ
と結婚した。
 大学卒業後は弁護士となり、ロシア第一革命の犠牲者遺族の法律顧問を務め、
   ナロードニキ運動
に参加し、1904年末に武装組織の一員の嫌疑で投獄された。
 しかし、ケレンスキーは弁護士として、彼らの弁護を通して世間から高い評判を得ていた。

 1912年にトルドヴィキから出馬して第4回ドゥーマに当選した。
 また、ロシアの民主的変革を求める反君主制勢力の
   フリーメイソン方式の結社
にも参加を果たした。

 議会ではリベラル・反帝政的立場からニコライ2世と彼の内閣と対峙し、雄弁家として知られていた。
 同年4月、東シベリアのレナ川流域の金鉱で労働者ら軍隊に射殺された
   レナ虐殺事件
が起こると、ケレンスキーは事件調査委員会の委員長となり、改革派議員としてその名を知られるようになった。

 8月、彼はボリシェヴィキを除く、メンシェヴィキ、自由党、その他いくつかの社会主義政党を含む進歩ブロックのあたメンバーとなった。
 また、ニコライ2世に対する社会主義反対派の熟練した議会指導者としての地位を確立した。

 ケレンスキーは、フランスのグランド・オリエントから派生したフリーメーソンのロシア人民グランド・オリエントのメンバーであった。
 その後ケレンスキーはロシア人民
   グランド・オリエント
の事務総長の地位に就き、1917年7月に臨時政府に入閣するまでその地位を維持した。
 また、彼の後任はメンシェヴィキのアレクサンドル・ハルパーンであった。
 
 1916年11月2日開会のドゥーマでは、第一次世界大戦における東部戦線での相次ぐ敗退と、皇帝夫妻に取り入る怪僧
   グリゴリー・ラスプーチン
への批判を展開したうえ、閣僚を「雇われの暗殺者」「臆病者」「卑劣なラスプーチンの言いなり」と弾劾した。

 ケレンスキーはニコライ・ミハイロヴィチ大公、ゲオルギー・リヴォフ公爵、ミハイル・アレクセーエフ将軍と共に、ラスプーチンを重用するアレクサンドラ皇后をイギリス又はヤルタのリヴァディア宮殿に追放するようにニコライ2世に求めた。
 また、ミハイル・ロジャンコ、エリザヴェータ・フョードロヴナ大公妃、マリア・フョードロヴナ皇太后、ヴィクトリア大公妃もラスプーチンの影響力を排除するように皇帝夫妻に圧力をかけたが、どちらの動きにも皇帝夫妻は応じなかった。

 1916年12月にラスプーチンは
   フェリックス・ユスポフ
によって暗殺された。
 後にロシア臨時政府の司法大臣となったケレンスキーは、兵士たちに、
   ツァールスコエ・セロー
の遺体を田舎の名もない場所に埋葬するよう命じた。
 しかし、トラックはサンクトペテルブルク郊外のレスノエ街道で雪のために故障したため停止を余儀なくされた。
 最終的に遺体はサンクトペテルブルク国立工芸大学の近くのボイラー工場の大釜で朝の3時から7時の間に棺も含めて焼却された。
 ケレンスキーは回顧録の中で、「ラスプーチンは『故郷のポクロフスコエ村に帰る』と脅して、アレクサンドラをコントロールしていた」と主張している。

 1917年3月8日(ユリウス暦2月23日)、ペトログラード(サンクトペテルブルク)におけるデモをきっかけに二月革命が勃発した。
 パーヴェル・ミリュコーフとともに、改革派議員の有力者と目されていたケレンスキーは帝政に反対する最も有名な演説者の一人として、また、弁護士として、多くの革命家の擁護者として、ロシア国会臨時委員会の委員に選出された。

 ペトログラード・ソヴィエトの副議長に任命されたが、ドゥーマとペトログラード・ソビエトの対立構造は解消されなかった。
 ペトログラード・ソビエトは、3000人から4000人の議員を擁するまでに成長した。
 1917年3月12日(ユリウス暦 2月27日)から3月13日(ユリウス暦2月28日)にかけての会議で、
   ペトログラード・ソビエト執行委員会(イスポルコム)
は、ソビエトに代表される各党から最終的に3名の委員を選出する自任委員会を結成した。
 ケレンスキーは社会革命党を代表する委員の一人となった。

 1917年3月14日(ユリウス暦3月1日)、ソビエトのイスポルコムは、政府との協議なしに16万人の
   ペトログラード守備隊
だけを対象とした悪名高い「指令第1号」を出した。
 これは「将校の権限剥奪」につながり、さらに「指令第3号」により、政治的において軍はソビエトに従属すると規定された。
 この指令は、将校たちが最も反革命分子であると考えた社会主義者のグループからの発案で、将校の権限を軍事専門家としての立場に限定することを目的としていた。

 これらの指令におけるケレンスキーの役割は不明だが、彼は一連の決定に参加した。
 しかし、革命前に反帝政派の多くを擁護したように、今度は暴徒にリンチされそうになっていた旧政府の官僚の多くの命を救ったという。
 さらに、ドゥーマは執行委員会を組織し、これが最終的にロシア臨時政府となった。

 イスポルコムとこの政府との間にはほとんど信頼関係がなかった。
 このため、ケレンスキーはイスポルコムだけでなくペトログラード・ソビエト全体に向けて熱弁を行った。
 そして、大臣として民主主義の価値観を決して侵さないと誓い、演説の最後を「私は人民なしには生きられない」と締めくくり、労働者と兵士の大多数は彼に大きな拍手を送り、ケレンスキーは臨時政府とイスポルコムの両方に参加した最初で唯一の人物となった。

 3月16日(ユリウス暦3月3日)に臨時政府が樹立されると司法大臣として入閣した。
 ケレンスキーは軍服姿で公の場に現れたが、彼自身は軍隊に所属したことはなかった。
 このため、彼の軍服には肩章やその他の装飾・勲章等は付いていなかった。

 ケレンスキーは政治犯の恩赦、ポーランドの独立承認、フィンランドの独立など臨時政府の決定を主導した。
 彼の命令により、すべての革命家が亡命先から帰還した。
 だが彼のもとで、かつての司法制度の破壊が始まった。
 3月3日には、すでに治安判事協会が改組され、判事1名と判事2名の計3名で構成されるようになった。

 3月4日、最高刑事裁判所、政府上院の特別法廷、司法会議所、階級代表の参加する地方裁判所が廃止された。
 4月には、英仏に戦争継続を確約したことが発覚して批判を受けた
   外務大臣 パーヴェル・ミリュコーフ
   陸海軍大臣 アレクサンドル・グチコフ
が辞任に追い込まれ、
 ケレンスキーはグチコフの後任の陸海軍相に就任した。
 ケレンスキーは彼がソヴィエト出身であったことが功を奏し、兵士と労働者の支持を背景に政府の実権を握ることに成功した。

 陸海軍大臣となったケレンスキーは自己の側近の将軍や将校をたちを陸軍の様々な要職に任命した。
 彼の義弟のウラジーミル・バラノフスキー中佐は陸軍大臣官房長に任命され、大佐に昇進し、1ヵ月後には少将に昇進した。
 参謀将校のグリゴリー・ヤクボヴィチ大佐とゲオルギー・トゥマノフ大佐は陸軍大臣補佐官に任命された。

 5月23日(ユリウス暦5月10日)には戦争継続を主張し各地を遊説した。
 彼の演説はその場においては印象的で説得力があったが、永続的な効果はほとんどなく、兵士からは「説得司令官」と揶揄された。
 陸海軍最高司令官をアレクセーエフ将軍をアレクセイ・ブルシーロフ将軍に代え、ドイツに対する大規模な攻勢を命令した。
 当初この攻勢は成功を収めたが、すぐに強力な抵抗に遭い、中央同盟国は強力な反撃に出た。

 ロシア軍は後退を余儀なくされ、多大な損害を被り、脱走、サボタージュ、反乱なども多発し、もはや攻勢は失敗したことは誰の目にも明らかであった。
 また、軍部からの支持も曖昧であり、ケレンスキーの将校の職務権限を剥奪し、代わりに革命に傾倒した「兵士委員会」(солдатские комитеты)に
   管理を委ねること、
   死刑を廃止すること
   革命扇動者の前線への同席を認めること
などの一連、軍制改革は軍部の反感を買い、彼の自由主義的な政策は激しく批判された。
 
 7月16日(ユリウス暦7月3日)にはペトログラードでボリシェヴィキが蜂起する七月蜂起が発生した。
 リヴォフは首相を辞任に追い込まれ、ケレンスキーは陸軍大臣と海軍大臣のポストを維持したまま、後任の首相に就任した。

 8月には陸海軍最高司令官ラーヴル・コルニーロフ将軍がボリシェヴィキ排除を目指しペトログラードに進軍した。
 9月9日にケレンスキーはコルニーロフを更迭したが、コルニーロフはコサック部隊を首都へと向かわせて進軍を続けた。
 ケレンスキーは事態に対処すべく、ボリシェヴィキの準軍事組織である赤軍に助力を要請した。

 最終的にコルニーロフは逮捕され、ケレンスキーは自ら陸軍最高司令官に就任するが、臨時政府内での影響力は低下し、クーデターの鎮圧に活躍したボリシェヴィキが勢力を拡大することになった。

 9月15日(ユリウス暦9月1日)、ケレンスキーは国号を「ロシア共和国」に変更した。
 彼は憲法制定議会が設立されるまで権力を維持しようと努めたが、社会革命党の理念である社会主義に反する共和制宣言により、党内からも彼に対する批判が生じた。

 共和制宣言後、ケレンスキーは自らを委員長に、外相ミハイル・テレシチェンコ、陸相アレクサンドル・ヴェルホフスキー、海相ドミトリー・ヴェルデレフスキー、郵政電信相アレクセイ・ニキーチンを委員に任命して最高会議委員会を組織した。
 以後、ケレンスキー政権はこの5人によって指導されることになる。

 当初は兵士からの人気があったケレンスキーだったが、戦争継続を訴え続ける彼に対し、「ロマノフ朝が崩壊すれば戦争は終わる」と考えていた兵士たちは次第に「平和、土地、パン」を主張して講和を掲げるボリシェヴィキを支持するようになった。
 兵士たちは次々に脱走し、1917年秋には兵力は200万人まで減少していた。
 一方、ケレンスキーや閣僚は、戦争から離脱した場合に英仏からの食糧供給が絶たれ、国内が混乱することを恐れたため、戦争を継続する以外に選択肢がなかった。
 また、反ボリシェヴィキで共闘する立場だった軍司令官コルニーロフを逮捕してしまったことで、ボリシェヴィキに対抗する戦力も失っていた。

 コルニーロフ事件の際、ケレンスキーはペトログラードの労働者に武器を配布していた。
 11月までにこれらの武装した労働者のほとんどはボリシェヴィキに移った。
 10月上旬にフィンランドから帰還したレーニンは、ボリシェヴィキに臨時政府打倒を呼びかけた。

 これを聞いたケレンスキーは11月5日(ユリウス暦10月24日)早朝に、士官学校生などを動員してボリシェヴィキの機関誌印刷所などを襲撃させた。
 しかし、レフ・トロツキー率いる赤軍はこれに直ちに反攻に出、印刷所を回復させ、郵便局、発電所、銀行等の公共機関の占領に成功した。
 これに続き、ボリシェヴィキは11月6日(ユリウス暦10月25日)にペトログラードで全面的な蜂起を行った(十月革命)。

 ケレンスキーが動員できる戦力は「死の大隊」と呼ばれる2個女性大隊のみだった。
 女性大隊は反ボリシェヴィキのために勇んで戦闘に参加したが、戦力差で圧倒する赤軍に敗北し、全員が捕虜となった。

 情勢の不利を悟ったケレンスキーは冬宮殿を脱出し、彼を除く臨時政府の閣僚は全員逮捕・監禁された。
 1918年6月、ケレンスキーはソビエト政権の国境警備隊にセルビア人将校名義の書類(送還委員会の責任者コムネノヴィッチ大佐から提供されたもの)を見せ、イギリスのスパイ、シドニー・ライリーを伴ってムルマンスクから亡命した。
 スペインの新聞『El Imparcial』によると、ケレンスキーは1920年2月にバクーで短期間逮捕されたという。
 その後、イギリス船でカフカース地方に渡ったが、またもや逮捕された。

 プスコフに逃れたケレンスキーは、同地の騎兵部隊を率いてペトログラードを奪還しようと試みた。
 ケレンスキーの部隊はツァールスコエ・セローを占領した。
 しかし、翌日にはプルコヴォで赤軍との戦闘に敗れ、数週間を隠れ家で過ごした後、フランスに亡命した。

 1920年8月、パリ滞在中のケレンスキーは、ロマノフ家逮捕の経緯と臨時政府の戦争中の活動に関する調査について詳細に説明した。
 ロシア内戦が勃発するとケレンスキーは白軍を「反革命右派」、ボリシェヴィキを「反革命左派」と非難し、両者とも支持しなかった。

 パリでもケレンスキーは活発な政治活動を続けた。
 1922年から1932年にかけて、彼は新聞『デイズ』を編集し、鋭い反ソ講演を行い、西ヨーロッパに対ソ連戦を呼びかけた。
 しかし1941年の独ソ戦開始後にはヨシフ・スターリンに支援を申し出ている。

 ケレンスキーは亡命後も政治活動を続け、1939年、パリに居を構えて間もなくオルガと離婚した。
 同1939年訪米中にオーストラリア人の元ジャーナリストであるリディア・エレン・"ネル"・トリットン(1899-1946)と出会い、極秘裏に再婚した。
 IMDbによれば、ケレンスキーの孫オレグは1981年の映画『レッズ』で祖父の役を演じた。

 1940年にナチス・ドイツのフランス侵攻が開始すると、ケレンスキーはアメリカ合衆国に脱出した。
 1945年からはオーストラリアのブリスベンに移住し、彼女の家族と共に生活していた。
 1946年2月にリディアは脳卒中を起こし、4月10日に彼女と死別した。

 リディアとの死別後、ケレンスキーは再びアメリカに戻りニューヨークに居住するが、多くの時間をカリフォルニア州で過ごし、スタンフォード大学の講師やフーヴァー戦争・革命・平和研究所の研究員としてロシアの歴史や政治史に関する記録を残した。

 また、革命政権時代に反ユダヤ感情渦巻くロシアにおいてユダヤ人の人権保護を訴えたことから、ユダヤ系の人間から資金援助や支援を受けていた。
 その間、KGBは「ピエロ」のコードネームを付けてケレンスキーを監視し、一時は「無力化すべし」とまで報告したが、結局彼は何も危害を受けることはなかった。

 1970年4月24日に転倒で肘と骨盤を骨折していたためニューヨークにある聖ルカ病院に入院していた。
 その後、6月11日に動脈硬化性心疾患により亡くなった。
 十月革命の当事者としては最後の生き残りの一人であった。
 ロシア皇帝を打倒したケレンスキーはロシア正教会から憎まれており、正教会はケレンスキーの葬儀と埋葬を拒否した。
 最終的には息子オレグとグレブの意向により、遺体はロンドンにある無宗派の墓地に埋葬された。
  
    
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リチャード・ツァイ(Richard Tsai) 富邦金融ホールディングスの経営者

リチャード・ツァイ(Richard Tsai 蔡明興)
 1957年または1958年生まれ
 台湾の実業家で彼と彼の兄弟
   ダニエル・ツァイ
は、父の
   蔡万ツァイ
が設立した
を経営している。
 フォーブスの2016年の世界長者番付では、リチャード・ツァイは純資産24億ドルで722位にランクされた。  
 蔡氏は台湾の台北市に居住しており、結婚しており、2人の子供がいる。

   
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2025年01月14日

ロン・コンウェイ(Ron Conway)米国のベンチャーキャピタリスト 

ロナルド・クロフォード・コンウェイ
        (Ronald Crawford Conway)
   1951年3月9日生まれ
 米国のベンチャーキャピタリスト、慈善家である。
 彼はシリコンバレーの「スーパーエンジェル」の一人と評されている。 
 コンウェイは1973年から1979年まで
   ナショナル セミコンダクター コーポレーション
でマーケティングの職に就いた。
 1988年から1990年まで
   アルトス コンピュータ システムズ
で社長兼CEOを務めた。
 1991年から1995年まで
   パーソナル トレーニング システムズ (PTS)
のCEOを務めた。
 PTSは
   スマートフォース/スキルソフト
に買収された。

 アイルランド系カトリックの家庭で育った。
 
 コンウェイは1990年代半ばに
   マリンバ・システムズ
   レッド・ヘリング誌
などへの投資でエンジェル投資を始めた。
 1997年に最初のベンチャーキャピタルファンドである
   アダム・ベンチャーズ
に400万ドルを調達した。
 1998年12月にはベンチャーキャピタル会社
   エンジェル・インベスターズLP
を設立した。
 2か月以内に最初のファンドであるエンジェル・インベスターズIに3000万ドルを調達した。
 エンジェル・インベスターズは1999年末に2番目のファンドであるエンジェル・インベスターズIIをクローズし、1億5000万ドルを調達した。
 エンジェル・インベスターズLPは
   グーグル
   アスク・ジーブス
   ラウドクラウド
   ナップスター
   ペイパル
への初期投資者だった。
 コンウェイはエンジェル・インベスターズLPでの成功が認められ、2006年のフォーブス誌の
   ミダス・トップディールメーカーリスト
に選ばれた。
  
 コンウェイ氏は2006年から2009年まで
の特別パートナーを務めた。
 2009年にコンウェイ氏は自身の個人投資会社
をベンチャーキャピタル会社に転換し、外部投資家から1000万ドルを調達した。
 SVエンジェルは2018年までに6つのファンドを調達した。

 2018年にコンウェイ氏はSVエンジェルが投資戦略を一時的に見直し、新しいファンドを調達するのではなく、個人エンジェルとしての「原点回帰」の役割に戻ると発表した。
 2022年3月、コンウェイ氏はSVエンジェルが初のグロース・エクイティ・ファンドのために2億6900万ドルを調達したと発表した。
 新ファンドは、以前
を共同設立した
   アシュビン・バチレディ氏
が率いた。
 SVエンジェルのマネージング・コディレクターの
   トファー・コンウェイ氏
は「このファンドの目標は、シードファンドのDNAを引き継ぎ、成長段階に持ち込むことです」 「私たちはラウンドをリードするのではなく、協力し、誰かを排除したくないのです。」と述べた。
 SVエンジェルはまた、
   ベス・ターナー
をシードファンドのリーダーに昇進させ、ロンとトファー・コンウェイがマネージング・コ・ディレクターとして両ファンドを監督した。 

 コンウェイはコミュニティ活動や慈善活動に積極的で、サンフランシスコの
   UCSF医療財団
の副会長を務め、また
   「Fight for Mike」ホーマー
   クロイツフェルト・ヤコブ病
の共同会長も務めている。
 彼はUCLA、セントフランシス高校、セイクリッドハートスクール、サンフランシスコのUCSF医療センター、パッカード小児病院、レガシーベンチャー、スタンフォードのロナルドマクドナルドハウスの開発委員会に所属している。
 彼はタイガー・ウッズ財団の慈善委員会に所属している。
 
 2021年、コンウェイは
が設立したキャンペーン「ザ・ギビング・プレッジ」に参加した。
 このキャンペーンは、超富裕層の人々を説得し、勧誘して、彼らの富の大部分を慈善事業に寄付してもらうことを目的としている。

 2022年、コンウェイは
   ミラ・クニス
   アシュトン・カッチャー
の「Stand with Ukraine」GoFundMeに250万ドルを寄付したほか、
   アリアナ・グランデ
の「Protect & Defend Trans Youth Fund」に2万5000ドルを寄付した。
 
 コンウェイ氏はサンディフック小学校銃乱射事件の犠牲者の両親が設立し​​た非営利団体
   サンディフック・プロミス
の諮問委員会のメンバーである。

 コンウェイ氏は、テクノロジーとイノベーションを通じて銃器の安全性を促進することを使命として設立した非営利団体
   スマートテックチャレンジ財団
の銃器チャレンジに100万ドルを寄付した。
 
 コンウェイは、2011年11月にサンフランシスコ市長選挙で
   エド・リー
が勝利した際に、単独の最大の献金者であり、独立支出委員会を通じてリーのために60万ドルを集めた。
 それ以来、リーがコンウェイが投資している企業に利益をもたらす行動をとったかどうかについて疑問が提起されている。

 2012年、コンウェイは
   サンフランシスコ市民技術革新イニシアチブ(sf.citi)
を設立した。
 これはテクノロジーコミュニティを擁護し、数多くの公共イニシアチブや、サンフランシスコ保健局、緊急事態管理局、警察署、学区などの公的機関と提携したテクノロジー企業を含む官民パートナーシップに関与する501(c)組織である。

 2013年4月、 FWD.usと呼ばれるロビー団体(移民改革と教育の改善のためのロビー活動を目的とした)が立ち上げられ、ロン・コンウェイが支持者の一人として挙げられた。

 2014年、コンウェイはAirbnbの投資家仲間である
   リード・ホフマン
とともに、サンフランシスコの現監督官であり2015年の提案Fの支持者である
   デイビッド・カンポス
と激しい戦いを繰り広げた
   デイビッド・チウ
の議会選挙運動を支援するため、合計68万5000ドルをデイビッド・チウに寄付した。

 コンウェイ氏は、特に銃規制と移民問題に関して
   ドナルド・トランプ大統領
を厳しく批判してきた。
 2018年に民主党が米国下院の支配権を獲得するための取り組みを支援するために、100万ドル以上を費やし、さらに数百万ドルを調達したと報じられている。
 Recodeは、2018年11月の中間選挙に向けたシリコンバレーの10大寄付者および資金調達者の1人に彼を選出した。

 コンウェイ氏はロンドン・ブリード市長の初期の支持者でもあった。
 2018年にはサンフランシスコの地方選挙よりも国内の問題に焦点を当て続けた。
 しかし、彼の妻ゲイルはブリード氏の対立候補ジェーン・キム氏を攻撃した政治活動委員会に20万500ドルを寄付した。

 コンウェイ氏は、 COVID-19パンデミックへの対応と回復のために協力するために2020年3月に設立されたテクノロジー業界の連合であるCOVID-19テクノロジータスクフォースの共同議長を務めている。

 2022年8月、コンウェイはリベラルな政治活動委員会(PAC)である
   The Next 50
に5万ドルを寄付した。
 2024年第1四半期に、コンウェイ氏とその息子たちは、オークランド・ユナイテッド・トゥ・リコール・シェン・タオ(OUST)政治委員会に現金寄付の半分を寄付した。
 2024年、コンウェイ氏は、第三者が民主党候補を弱体化させることを阻止することを目的とするリベラルな政治活動委員会(PAC)である
   クリア・チョイス
に25万ドルを寄付した。
 
 2010 年 9 月、ロンはAngelgateに関与していました。
 
 コンウェイは現在サンフランシスコに住んでいる。
 彼には妻と3人の子供がいる。

    
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ゲオルク・ヴェルトハイム(Georg Wertheim)ドイツのデパートチェーン ヴェルトハイムの創設者

ゲオルク・ヴェルトハイム(Georg Wertheim)
   1857年2月11日 ー1939年12月31日
 ドイツの商人で、人気のデパートチェーン
   ヴェルトハイム(Wertheim)
の創設者である。
 ヴェルトハイムは
   アブラハム
   イダ・ヴェルトハイム
の次男として生まれ、シュトラールズントで育った。
 ヴォルフとアポラントで見習いをした後、ヴェルトハイムは兄のヒューゴとともに、1875年に両親が創業した小間物店を1876年に引き継いだ。
 2人の兄弟はすぐに店に新しいアイデアを持ち込んだ。
 顧客は商品の交換が可能になり、商品の価格設定が顧客に信頼できるものとなり、購入は現金のみで行われるようになった。
 このコンセプトは成功し、ロストックに別の支店を開設した後、1885年にベルリンのローゼンターラー通りに最初の支店が設立された。

 ヴェルトハイムは、産業化の時代に成長する「都市の需要の変化」をすぐに認識するようになり、1890 年にベルリン クロイツベルクのモーリッツ広場/オラーニエン通りに最初の本格的な百貨店をオープンさせた。
 店舗のフロアはより広くなり、販売する製品をより精巧に展示できるようにして製品が展示された。
 在庫期間が長くなったため価格も下がった。
 ただ、店舗が古い住宅内に位置していることから生じる制限が次第に明らかとなり、部屋は特に広くなく、それ以上の拡張はほとんど不可能であった。

 ゲオルク・ヴェルトハイムはベルリン芸術アカデミー・ゾンタークスクルゼン校でさらに学び、それまで無名だった建築家
   アルフレッド・メッセル
とともに、商品販売専用の建物の構想を練り始めた。
 1892年にライプツィヒ通りに店舗をオープンし、1894年にはオラーニエン通りに初めて計画・建設されたデパートで商品の販売を開始した。

 1896年にオープンしたライプツィヒ広場の有名な
   ヴェルトハイム カウフハウス
は、さらに一歩先を進んでいた。
 ヴェルトハイムは、それまで彼の百貨店を敬遠していた高級顧客が、一軒の店ですべてのニーズを満たせるようにしたいと考えた。
 このため、街で最もにぎやかな広場に新しい建物をすぐにオープンさせた。
 その後数年間、メッセルは建物を絶えず拡張する必要が生じた。
 ライプツィヒ広場のヴェルトハイム店は、ロンドンの
   ハロッズ
やパリの
   ギャラリー・ラファイエット
と比較されるようになった。
 その後、ローゼンターラー通り(1903年)、ケーニヒ通り(1911年)、そして再びモーリッツ広場(1913年)にショッピングセンターがオープンした。
 モーリッツ広場ヴェルトハイム店は、顧客が地下のプラットフォームから入り口まで直接行けるように、Uバーン(地下鉄)の路線変更(競争相手のルドルフ・カールシュタットのモデルを模倣)の資金調達に協力した。

 1913 年、ヴェルトハイム帝国は、その種の企業としてはドイツ最大となった。
 その成功はすぐに嫉妬を呼び起こし、ヴェルトハイムのようなショッピング センターのほとんどが
   ユダヤ人の家族経営の会社
だったため、ショッピング センターに対するさまざまなキャンペーンが展開された。
 彼らは、虚偽の重量で作業し、粗悪な商品を提供し、従業員を搾取し、顧客の士気を低下させているとほのめかされていた。
 ヴェルトハイム家は、従業員に
   特別な品質と安全対策
を提供することで、こうした批判に対抗し、対抗しようとした。
 
 1933年、ユダヤ人のヴェルトハイム家は会社を「アーリア化」することを強制された。
 これは会社を「アーリア人」に明け渡すことを強制されたということ。
 1937年1月1日、ゲオルク・ヴェルトハイムは会社を去った。

 ヴェルトハイム家は、ナチスの法律では「アーリア人」とみなされていたゲオルクの妻
   ウルスラ
を主要株主にすることで、会社の支配権を失うことを避けようとした。
 この対応で会社はドイツ企業であると宣言され、「Allgemeine Warenhandels-Gesellschaft」(一般商品貿易会社)、またはAWAGに改名された。
 ゲオルク・ヴェルトハイムは1939年12月31日にベルリンで亡くなった。
 
 第二次世界大戦後、ヴェルトハイムは1949年に東ドイツから追放された。
 1951年に西ドイツで
   ヘルティ・コンツェルン
が株式の大半を購入し、ヴェルトハイムの名で事業を継続した。
 家族の親族は少額の補償金を受け取り、ヘルティが購入した会社の株式に対するすべての権利を放棄させられた。
 1984年、ヘルティはヴェルトハイムの残りの株式を取得した。
 長い間、シュテグリッツァー シュロス通りとトライシュケ通りの角にある店は、最も重要な存在として活動した。
 1960 年代には、この店は大幅に拡張され、住宅街全体の再編につながった。
 その後の数十年間で、シュロス通りとボルン通りの角、カウフハウス ヴェルトハイムの隣に大きなカールシュタット ショッピング センターやその他のショッピング センターが建設された。
 この場所には、すでに長い間ケッテ ヘルド、後にヘルティの店が建っていた。
 1994 年、クルフュルステンダムに唯一残っていたヴェルトハイム店とヘルティ事業が、
   カールシュタット社
の所有となった。
 ヴェルトハイム家の子孫は現在ドイツとアメリカに居住している。
 彼らはナチス政権下で奪われた財産の一部の返還を求めて訴訟を起こした。
 2007年にカルシュタットクヴェレはホロコースト関連の賠償金として1億1,750万ドル(8,800万ユーロ)を支払うことに同意し、この大規模な訴訟が解決した。
    
     
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2025年01月13日

ホールデン・カーノフスキー(Holden Karnofsky)慈善団体評価機関のギブウェルを共同設立

ホールデン・カーノフスキー
       (Holden Karnofsky)
   1981年7月生まれ
 米国の非営利団体の幹部で、研究および助成金提供組織である
の共同設立者であり、AI戦略担当ディレクターを務めている。
 カルノフスキーは2007年に
とともに慈善団体評価機関の
を共同設立し、同社の取締役会副会長を務めていた。
 
 ユダヤ系米国人のカルノフスキーは2003年にハーバード大学を卒業し、社会学の学位を取得した。
   ハーバード・ランプーン
のメンバーだった。
 卒業後はコネチカット州ウェストポートに拠点を置く投資運用ファンド
に勤務した。
   
 ブリッジウォーターで、カルノフスキー氏は後にギブウェルの共同設立者となるエリー・ハッセンフェルド氏と出会った。
 2006年、カルノフスキー氏とハッセンフェルド氏は
   チャリティークラブ
を設立し、ブリッジウォーターの他の従業員と資金を出し合い、寄付するのに最適な慈善団体を調べた。

 2007年半ば、同僚からの寄付でカルノフスキー氏とハッセンフェルド氏は「クリア・ファンド」と呼ばれる基金を設立し、仕事を辞めてギブウェルにフルタイムで取り組むようになった。
 ギブウェルの目標は、クリア・ファンドの資金を最適な慈善団体に配分することだった。

 2007年12月、カルノフスキーは、別の個人の名前を使って
   MetaFilter
に組織に関する質問を投稿し、その後、GiveWellとの提携関係を明かさずに、自分の名前を使ってGiveWellに関する回答を投稿していたことが発覚した。
 この悪評により、カルノフスキーは事務局長の職を辞したが、後に復職した。
 理事会は、彼が受講する必要のある専門能力開発コースの費用を賄うために、彼の給与から5000ドルを削減した。
 この事件は、GiveWellの評判に悪影響を及ぼした。
 カルノフスキーは、この事件は
   睡眠不足が原因
だと主張し、MetaFilterに寄付を申し出たが、サイトのユーザーから嘲笑された。

 2012年6月、ギブウェルは、フェイスブックの共同創設者
   ダスティン・モスコヴィッツ
の財産を寄付する慈善財団
   グッドベンチャーズ
との緊密な提携を発表した。
 グッドベンチャーズはそれ以来、ギブウェルの主要資金提供者の1つであり、ギブウェルが推奨する慈善団体への主要寄付者でもある。

 カルノフスキー氏のリーダーシップの下、ギブウェルが推奨する慈善団体に寄付される年間資金は、2010年の160万ドルから2015年には1億1000万ドルに増加した。
 2020年現在、彼は同団体の取締役会の副会長を務めている 。

 2014年8月、ウィリアム・アンド・フローラ・ヒューレット財団が非営利マーケットプレイス・イニシアチブ(GiveWellの初期の主要な資金提供者の1つ)の終了を発表した。
 その後、カルノフスキー氏はGiveWellのブログに、同財団からの多額の資金提供を受けた経験から得た同プログラムについての考えを投稿した。
 ヒューレット財団は投稿にコメントで反応し、ジェイコブ・ハロルド氏はガイドスターのブログで反応した。
 カルノフスキー氏は、 80,000 Hoursポッドキャストやその他の場所でロバート・ウィブリン氏とのインタビューで、利他的なキャリア選択についての考えを共有し、オープン・フィランソロピーの優先課題へのアプローチについて詳しく述べている。

 2017年8月、カルノフスキー氏は、元OpenAI従業員で、兄の
   ダリオ・アモデイ氏
とともに
   Anthropic
というAI企業を共同設立した
と結婚した。
 Anthropicは、 ChatGPTの代替となるチャットボットClaudeを開発した。
 カルノフスキー氏とダリオ氏は元ルームメイトだった。
 カルノフスキーは効果的利他主義の考えに共感し、効果的利他主義者のコミュニティを代表し、活​​動してきた。
 キャリアの初期に、カルノフスキーは「人々に自分の望む人生を生きる力を与える」ことを願う結果主義の道徳的枠組みに賛同していたと述べた。
 近年、彼は道徳的配慮に値するすべての存在に共感を示すことの重要性について、たとえそれが普通でなかったり奇妙に思える場合でも、書いている。
 彼は、ギブウェルが従業員の人種的および性別の多様性を高めることが重要であると信じており、組織はそれに向けて措置を講じている。
 彼は他の非営利団体のリーダーたちと現地訪問の重要性について議論しており、現地訪問は慈善プログラムの有効性を評価する上で重要だが十分ではないと考えている。

 カルノフスキー氏は、カリ・ツナ氏とダスティン・モスコビッツ氏が主な資金提供者である研究・助成財団
   オープン・フィランソロピー
のCEO、その後共同CEOを務めた。
 オープン・フィランソロピーは、投機的な寄付のためにギブウェルとグッド・ベンチャーズが協力した
   ギブウェル・ラボ
から派生したものである。
 2019年8月現在、オープン・フィランソロピーは370を超える団体に約650件の助成金を支給し、総額8億5,700万ドルを支出している。
  2023年、カルノフスキー氏はまず共同CEOの職を退き、その後AIの安全性に注力するAI戦略ディレクターに就任した。
 カルノフスキー氏は2017年から2021年まで
   OpenAI
の取締役を務めた。
    
   
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2025年01月12日

ライマン・スチュワート(Lyman Stewart)ユニオン石油会社の共同創設者

ライマン・スチュワート(Lyman Stewart)
   1840年7月22日 - 1923年9月28日
 米国の実業家で、カリフォルニアの
の共同創設者である。
 スチュワートは、キリスト教の 慈善家としても有名で、現在はバイオラ大学として知られる
   ロサンゼルス聖書学院
の共同創設者でもある。
 彼と弟のミルトンは、キリスト教原理主義の基礎文書である
   『The Fundamentals 』
の出版に匿名で資金提供した。
 スチュワートは、ロサンゼルスのユニオン救出ミッションの設立にも尽力した。 

 スチュワートは1840年にペンシルベニア州ベナンゴ郡チェリーツリーで
   ウィリアム・レイノルズ・スチュワート
   ジェーン・ミラー・アーウィン
の子として生まれ、皮なめし職人であった父親の下で働いた。
 エドウィン・ドレイクが1859年にペンシルベニア州タイタスビル近郊で石油を発見した。
 このとき、スチュワートは同じ地域で井戸を掘ろうとした。
 2度の失敗の後、彼は南北戦争中に第16ペンシルベニア騎兵隊に3年間入隊した。
 
 南北戦争後、スチュワートは再び石油掘削を試みたが、やはり失敗に終わった。
 1877年、スチュワートは友人の親戚である
   ウォレス・ハーディソン
を紹介され、ハーディソンはスチュワートを経済的に支援することに合意し、2人は石油が見つかると期待した土地を購入した。2人はそこそこの成功を収めた。
 ジョン・D・ロックフェラーが米国東部の石油保有を統合し始めたとき、ハーディソンとスチュワートは
に権益を売却し、カリフォルニアに移った。

 スチュワートと彼のパートナーは、カリフォルニアで彼らが求めていた成功を手に入れた。
 1886年までに、
   ハーディソン・アンド・スチュワート石油会社
は、カリフォルニアの全石油生産量の15%を占めていた。
 1890年、彼らは
   トーマス・バード
   ポール・カロニコ
の利益と合併して、ユニオン石油会社を設立した。
 ユニオン石油の社長として、スチュワートは新しい油井に多額の投資を行い、会社の時価総額を1900年の1,000万ドルから1908年には5,000万ドル以上に拡大した。
 
 スチュワートは1891年に
   パシフィック・ゴスペル・ミッション(現在のユニオン・レスキュー・ミッション)
を設立した。1908年にスチュワートは著名なキリスト教作家の
   TC・ホートン
とともにロサンゼルス聖書学院(現在のバイオラ大学)を設立した。

 1917年、彼はトコアフォールズ大学のスチュワートホールの建設資金として4,500ドルを寄付した。
 ライマンと弟のミルトンは、12巻からなる「キリスト教原理」の出版費用として30万ドルを寄付した。
 これらの巻はキリスト教原理主義の教えを確立した。
 スチュワート兄弟はまた、中国での宣教活動に財政的支援を行った。
 
 ライマン・スチュワートは1867年5月2日、ペンシルベニア州エンタープライズで
   サラ・アダレイド・バローズ
と結婚した。
 2人の間にはウィリアム・L、メイ、アルフレッド・Cの3人の子供が生まれた。
 ライマンの息子たちは石油ビジネスに積極的に関わっていた。
 子供時代は学校に通うよりも父親を手伝っていた。
 ウィリアムはユニオン石油に関わり続け、あらゆる役職に就き、最終的には父親に代わってユニオン石油の社長となった。

 アルフレッドはユニオン石油にいる間に機械の才能を伸ばした。
 彼は数多くの掘削機器を発明した。
 アルフレッドはユニオン石油に留まらず、自動車機械工場を経営し、最も有名なキャブレターの発明を続けた。
 サラは1912年2月5日、ロサンゼルスで亡くなった。

 1916年8月26日、ライマンはルーラ・メイ・クロウェルと結婚した。
 彼女はそれまで11年間彼の個人秘書を務めていた。
 彼女はビオラの卒業生であり、その使命の熱烈な支持者だった。

   
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2025年01月09日

ディーン・G・ウィッター(Dean G. Witter) 米国の実業家で証券会社ディーン・ウィッター・アンド・カンパニーの共同設立者

 ディーン・グッディング・ウィッター(Dean Gooding Witter)
   1887年8月2日 - 1969年5月25日
 米国の実業家、株式仲買人、投資家
 ディーン・ウィッターは、兄のガイ・ウィッターと従弟のジーン・ウィッターとともに、 1924年に
   ディーン・ウィッター・アンド・カンパニー
を共同設立し、同社は西海岸最大の投資会社となった。 

 ウィッターの家族はウィスコンシン州ウォーソーから北カリフォルニアに移住し、 1891年にカリフォルニア州サンカルロスに定住した。
 ウィッターは1909年にカリフォルニア大学バークレー校を卒業した。
 バークレーでは
   ゼータサイ友愛会
の会員であり、優秀なボート漕ぎの選手でもあった。
 大学卒業後は
   ルイス・スロス・アンド・カンパニー
でセールスマンとして働いた。

 1914年、ウィッターは
   チャールズ・R・ブライス
とパートナーを組み、サンフランシスコを拠点とする証券会社
   ブライス・ウィッター社
を設立した。
 ウィッターは1924年にパートナーシップを離れ、自身の会社
   ディーン・ウィッター社
を設立した。
 カリフォルニア州サンフランシスコのモンゴメリー通り45番地に最初のオフィスを構えたディーン・ウィッター社は、米国西海岸最大の証券会社の1つとなった。
 ウィッターの最初のパートナーには、弟のガイと、彼らのいとこであるジーン・C・ウィッターとエド・ウィッター、そしてフリッツ・ジャニーがいた。
 ディーン・ウィッターは、創業当初は地方債や社債の取引に注力していた。
 同社は最初の 5 年間で大きな成功を収め、 1928 年にサンフランシスコ証券取引所の株式を取得した。
 これに続いてニューヨークに事務所を開設し、 1929 年にニューヨーク証券取引所の株式を取得した。
 設立後間がない比較的若い会社であったが、ディーン・ウィッターは1929 年の
   ウォール街大暴落
と世界恐慌を乗り越え、1930 年代から 1940 年代にかけて毎年利益を上げた。
 ディーン・ウィッターは 1969 年に亡くなるまで会社を率いた。

    
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J. G. カーライル(John Griffin Carlisle)ケンタッキー州出身の民主党政治家 ノースアメリカントラストカンパニーの取締役

ジョン・グリフィン・カーライル(John Griffin Carlisle)
   1834年9月5日 - 1910年7月31日
 米国の弁護士で、ケンタッキー州出身の民主党政治家である。
 1877年から1890年までケンタッキー州選出のアメリカ合衆国下院議員を務め、1883年から1889年まで第31代下院議長、 1890年から1893年までアメリカ合衆国上院議員を務めた。
 1893年から1897年まで、グロバー・クリーブランド大統領の第2次政権で第41代財務長官を務めた。
 この期間には1893年恐慌も含まれていた。
 バーボン民主党員として、クリーブランドとともに党の保守的かつ企業寄りの派閥の指導者であった。

 カーライルは、現在のケンタッキー州ケントン郡に生まれ、十分な教育を受け、ケンタッキー州コビントンで教師の職を得た。
 1853年に父親が亡くなり、家族を養うことになった。
 ジョン・W・スティーブンソンのもとで法律を学び、23歳でコビントンの
   ウィリアム・キンカード法律事務所
に入所した。
 1857年1月15日に
   メアリー・ジェーン・グッドソン
と結婚し、5人の子供をもうけたが、全員カーライルより先に亡くなった。

 南北戦争中に中立の立場を取ったことで政治的困難に直面した。
 カーライルは1860年代のほとんどをケンタッキー州議会で過ごし、ケンタッキー州下院議員とケンタッキー州上院議員を2期務めた。
 1871年にはかつての法律顧問
   スティーブンソン
の後任としてケンタッキー州副知事に選出された。
 
 カーライルは1875年に副知事の任期を終えると、ケンタッキー州第6選挙区からアメリカ合衆国下院議員選挙に立候補し当選した。
 当時の主要問題に関して、カーライルは
   銀貨の鋳造
には賛成だったが、
   貨幣の自由鋳造
には反対で、関税の引き下げを支持していた。

 彼は民主党の低関税派の指導者となり、1883年に民主党下院議員によって、同党の保護主義派の指導者
   サミュエル・J・ランドール
を抑えて議長に選出された。
議長としてのカーライルは、その公平さと人当たりの良さで称賛されると同時に、その欠点も抱えていた。
 彼の名前は偉大な議長の短いリストにふさわしい。彼の意見は著名な裁判官の判決のように読めるものであった。
 彼の公平さと優しい態度は、少数派議員が愛情の証として彼に愛の杯を贈ったほどだった。
 しかし、動議の遅延、定足数の消失、そして下院の議席を数えて定足数を確認することを拒否したことで、彼は
   議事妨害の奴隷
となっていた。

 共和党のライバルで後継者のトーマス・ブラケット・リードは「彼は下院のその側で最も有能な人物だ」と語った。
 また、「しかし、我々が従っている規則に縛られた議長で、彼より優れた仕事をすることはできないだろう」と続けた。

 カーライルは保守的なバーボン民主党の指導者となり、大統領候補として名前が挙がった。
 しかし、民主党は1880年の
   ウィンフィールド・S・ハンコック
1884年のグロバー・クリーブランドの党大会で彼を見送った。
 南北戦争後に南部人を指名することに抵抗を感じたため、カーライルはどちらの指名も得られなかった。
 1892年、カーライルは民主党大会で再び大統領候補として提案された。
 しかし、今度はカーライルは候補に挙がらないよう求めた。
 当時、カーライルはクリーブランドが再選されれば内閣に任命されるという条件で辞退したと報じられた。
 
 1890 年 5 月、ケンタッキー州議会は、故ジェームズ・B・ベック上院議員の任期の残り約 4 年を埋めるため、カーライルを米国上院議員に選出した。
 カーライルは 1893 年 2 月まで務め、その後辞任して、1892 年 11 月に大統領に選出されたクリーブランドの下で財務長官に就任した。

 カーライルの国務長官としての任期は、 1893年恐慌によって台無しになった。
 これは金融と経済の惨事であり、カーライルの政治家としての経歴を終わらせるほどの深刻なものだった。

 アメリカの金供給への駆け込み需要に対応して、カーライルは
   銀貨の廃止
を余儀なくされた。
 また、1894年のウィルソン・ゴーマン関税法案にも反対せざるを得ないと感じた。
 これら2つの立場は、農業民主党員の間で広く不評だった。

 1896年、カーライルは民主党の大統領候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンに激しく反対した。
 この代わりに金本位制民主党の分裂候補で元イリノイ州知事のパーマーを支持した。

 1896年までに、かつては絶大な人気を誇っていたカーライルは、通貨管理のせいで嫌われ、故郷のコビントンでの演説中に罵声を浴びて途中で退場を余儀なくされた。
 拒絶されたと感じたカーライルは公職から引退し、コビントンの家を売却した。
 
 1899年5月までに、ノースアメリカントラストカンパニーには
   ジョン・G・カーライル
   アドレー・E・スティーブンソン
   ウェイガー・スウェイン
などの取締役が就任した。

 彼はニューヨーク市に移り、そこで弁護士として働き、1910年7月31日に75歳で亡くなった。
 ケンタッキー州カーライル郡は1886年に設立されました。

    
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2025年01月08日

ウィリアム・J・ルアン(William J. Ruane) ルアン・カニフ・アンド・ゴールドファーブの創業者

ウィリアム・J・ルアン(William J. Ruane)
   1925年10月24日 - 2005年10月4日
 米国の実業家、投資家、慈善家
 ルアンは1945年にミネソタ大学で電気工学の学位を取得した。
 1949年にハーバード・ビジネス・スクールを卒業した。
 ルアンはアメリカ海軍に入隊し、第二次世界大戦が終わったときに日本に向かう途中だった。
 彼はバリュー投資の第一人者
の投資セミナーで
と出会い、バフェットとは生涯の友人となった。

 バフェットは1969年に投資グループを閉鎖したとき、2人ともグレアムのバリュー投資手法を採用していた。
 このため、仲間にルアンとの投資を検討するよう勧めた。
 ルアンは1970年にパートナーの
   リック・カニフ
とともに自身の投資会社
   ルアン・カニフ
を設立し、同年に主力ファンドの
   セコイア・ファンド
を立ち上げた。
 2004年、ロバート・ゴールドファーブが社長に就任すると、ルアンの会社は
に改名された。
 2008年、セコイア・ファンドは1982年以来初めて新規投資家にファンドを公開すると発表した。

 1992年、彼はニューヨーク市のハーレム地区の一区画を引き取り、建物の改修、診療所や地域奉仕プログラムの設立など、この地区をより良い場所にすることを約束した。
 ルアンは、その区画の子供全員にカトリック学校の奨学金を与えた。
 彼はまた、公立学校やインディアン居留地の学校のプログラムに資金を提供し、精神衛生活動にも貢献した。 

 ウィリアム・J・ルアンは、マンハッタンとコネチカット州ワシントンに住んでいた。
 彼は2度結婚し、最初の妻は彼より先に亡くなった。
 彼が亡くなったときに結婚していた2番目の妻はジョイでした。彼には4人の子供がいた。
 息子はマサチューセッツ州ケンブリッジに住むウィリアム・ジュニアとコネチカット州ワシントンに住むトーマス、娘はバーモント州バーリントンに住むエリザベス・「リリ」・ルアンとニューヨーク市に住むペイジ・ルアンです。
 彼にはハワイ州マウイ島キヘイに住むパトリシア・ローリーという兄弟がいた。

    
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2025年01月07日

J. ハワード マーシャル(J. Howard Marshall)米国の実業家

ジェームズ・ハワード・マーシャル2世
        (James Howard Marshall II )
   1905年1月24日 - 1995年8月4日
 米国の実業家、政府高官、弁護士、法学者。学問、政府、商業活動を通じて、米国の石油産業に関わり、投資した。
 コーク・インダストリーズの株式16%を所有し、人生の最後の14か月間は米国人モデルの
   アンナ・ニコル・スミス
と結婚していた。
 彼の遺産は長期にわたる訴訟の対象となり、最高裁判所はマーシャル対マーシャルおよびスターン対マーシャルで審理した。
 裁判所は遺言書をそのまま保持し、マーシャルの遺産のほぼすべての資産は、義理の娘である
   エレイン・テッテマー・マーシャル
とその家族のために信託された。

 フィラデルフィアのジャーマンタウン地区に生まれた。
 クエーカー教徒として育ったJ・ハワード・マーシャル2世は、ペンシルベニア州ニュータウンの私立高校ジョージ・スクールに通い、その後クエーカー教徒の学校であるハバーフォード大学で教養を学び、1926年に卒業した。
 ジョージ・スクールとハバーフォード大学在学中、彼は校内新聞の編集、ディベートチームのキャプテン、全米代表サッカー選手、プロのビル・ティルデンの指導の下で競技テニスをしていた。
 彼は1931年にイェール大学ロースクールを卒業した。
 イェール大学ではイェール大学ロージャーナルの事件編集者を務め、法と経済学の先駆者である
   ウォルトン・ヘイル・ハミルトン
に師事した。
 
 卒業後、1931年から1933年までイェール大学ロースクールの副学部長を務めた。
 ビジネス、財務、手続きの講座を指導する一方で、影響力のあった法的リアリズム学派の一員として論文を発表した。
 彼は、後の最高裁判事
   ウィリアム・O・ダグラス
とともに、「破産行政の事実研究といくつかの提案」と題する論文を執筆し、1932年に出版した。

 ノーマン・マイヤーズとともに、「石油生産の法的計画」と題する2つの論文を1931年に出版した。
 これらの研究は、石油産業で当時主流だった、劇的な好況と不況のサイクルを引き起こしていた管理生産の慣行に代わるものを提示した。 
 ニューディール政策の支持者の多くが法的リアリズムの支持者であった。
 このため、これらの研究は政府の関心を引いた。

 1933年、マーシャルはイェール大学を離れ
   ハロルド・L・アイケス
の下で内務省の法務次官補となった。
 彼は石油産業公正競争規約(1933年)と、最高裁が国家産業復興法を無効とした判決を受けて1935年に制定したコナリー高温石油法を起草した。
 この法律は、下落する価格を安定させるために、州間の石油の流れを規制し、業界を「密輸石油」から守る法律を復活させた。
 アイケスは当初、政府に石油価格の下限を設定させることを考えていた。
 なお、マーシャルは州際通商で輸送される合法的に生産された石油には通関証明書を要求する計画にアイケスを承認させた。

 1935年、彼は政府を離れ、サンフランシスコで
   スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(現シェブロン社)
の社長ケネス・R・キングスベリーの特別顧問となった。
 1937年、彼は同社の社外顧問である現ピルズベリー・ウィンスロップ・ショー・ピットマンとなる
   ピルズベリー・マディソン・スートロ
のパートナーとなった。
 1941年、彼は第二次世界大戦中にワシントンD.C.に呼び戻された。
 石油戦争管理局の弁護士として、 1941年の
   コール・パイプライン法
を含む戦時中の米国のエネルギー政策の策定に携わり、後に賠償委員会およびアメリカ石油協会の委員となった。

 1944年、ポール・G・ブレイザーとの関係を築いた後、ケンタッキー州アッシュランドに移り
   アッシュランド石油精製会社(現アッシュランド社)
の副会長兼社長に就任した。

 1946年、彼は全米石油協議会を設立する大統領令を起草した。
 1952年、サミュエル・B・モッシャーの下で
   シグナル・オイル&ガス
の副社長に就任した。
 1961年、ユニオン・テキサス・ペトロリアムの社長に就任し、ヒューストンに移転した。
 1967年、アライド・ケミカル(現ハネウェル)の副社長に就任した。
 また、コースタル・コーポレーションの取締役も務めた。

 1984年、コーク・インダストリーズにおける彼の持株会社として主に
   マーシャル・ペトロリアム
を設立した。
 
 1952年、マーシャルは
   グレート・ノーザン・オイル
を共同設立した。
 同社は1955年にミネソタ州ローズマウントに石油精製所を建設し、重質で酸性のカナダ産原油を精製できるようにした。
 1959年、フレッド・コックは
   グレート・ノーザン・オイル
の35%の株式を500万ドルで取得した。
 ユニオン・オイルはグレート・ノーザンの過半数の株式を取得し、同社を買収しようとした。
 しかし、資産を民間の手に残しておきたいマーシャルとコックは買収を阻止した。
 1969年、ユニオン・オイルを買収した後、マーシャルと同様のビジネス哲学を共有していた
   チャールズ・コック
は、コック・インダストリーズの株式とマーシャルが保有するグレート・ノーザン・オイルの残りの株式を交換した。
 
 マーシャルは1931年に
   エレノア・ピアース
と結婚したが、1961年に離婚した。
 2人の間にはJ・ハワード・マーシャル3世(1936年2月6日生まれ)とE・ピアース・マーシャル(1939年1月12日 - 2006年6月20日)の2人の息子がいた。
 2度目の結婚はベティ・ボハノンとのもので、1961年から1991年に彼女がアルツハイマー病で亡くなるまで続いた。

 1982年、マーシャルはストリップクラブで「レディ」ダイアン・ウォーカーと出会い、アルツハイマー病を患っていた妻ベティが亡くなったら結婚すると申し出た。
 数年にわたり、マーシャルはウォーカーに1500万ドル相当の宝石やその他の贈り物を贈った。
 ウォーカーは1995年、美容整形手術の合併症で51歳で亡くなった。
 贈与税が支払われなかったため、贈与は国税庁の調査対象となった。
 しかし、マーシャルは贈与は「コンサルティング料」だと主張した。

 1994年、89歳のとき、彼は26歳のモデル
   アンナ・ニコル・スミス
と結婚した。
 これは彼にとって3度目の結婚であり、彼女にとっては2度目の結婚だった。
 彼らの結婚生活は、彼が14か月後に亡くなるまで続いた。
 
 1980年、マーシャルの長男J・ハワード・マーシャル3世が、
   ビル・コッホ
   フレデリック・R・コッホ
その他傍系の親族と、コーク・インダストリーズを公開会社にして配当を支払うことに関して
   チャールズ・コッホ
   デイビッド・H・コッホ
と争った際、マーシャルは息子から以前贈与されていた会社の株式を割高とされる800万ドルで買い戻し、長男を遺言から外した。
 逆に、同じ争いの間、末息子のE・ピアース・マーシャルは父の側につき、その息子はマーシャルの死去時に16億ドルと評価された遺産のほぼすべてを相続した。
 
 1995年8月4日、マーシャルはテキサス州ヒューストンで肺炎のため90歳で亡くなった。
 マーシャルの死後、アンナ・ニコル・スミス(2007年2月8日死去)は、元義理の息子である 
   E・ピアース・マーシャル(2006年6月20日死去)
との法廷闘争に巻き込まれた。

 J・ハワードの遺言と信託には、アンナ・ニコルやJ・ハワードのもう一人の息子、J・ハワード・マーシャル3世は含まれていなかった。
 アンナ・ニコルとJ・ハワード3世は、両者とも遺言と信託の破棄を求めた。
 2001年、テキサス州裁判所の陪審員による6か月にわたる裁判で、両者とも敗訴した。

 遺言検認手続き中、スミスはカリフォルニア州で破産を宣告し、E・ピアース・マーシャルの証拠開示手続きにおける不正行為の疑いで4億7,400万ドルの制裁金を受け取った。
 2002年、カリフォルニア州の連邦地方裁判所で破産判決が取り消され、スミスの賠償金は8,800万ドルに減額された。
 2004年12月、第9巡回区控訴裁判所の3人の判事からなる審理部は、連邦裁判所には州の遺言検認事項に関する管轄権がないとの判決を下し、遺言検認例外に基づく地方裁判所の判決を無効とした。

 第9巡回区控訴裁判所の判決では、不正行為は行われておらず、スミスはJ・ハワード・マーシャルの相続人ではないとのテキサス州遺言検認裁判所の判決の優位性も確認された。
 しかし、2006年5月1日、米国最高裁判所はマーシャル対マーシャル事件で、遺言検認例外に関する第9巡回区控訴裁判所の判決を覆し、スミスに連邦裁判所で請求を追求する別の機会を与えた。
 この事件は、残りの控訴問題の審理のために第9巡回区控訴裁判所に差し戻された。

 2009年6月25日、米国第9巡回区控訴裁判所の同じ3人の裁判官による審理部会は、残りの控訴問題に関する口頭弁論を行った。
 2010年3月19日、米国第9巡回区控訴裁判所は、差し戻しに関する2番目の意見を発表し、E・ピアース・マーシャルに有利な判決を下し、カリフォルニア州破産裁判所には管轄権がなく、カリフォルニア州連邦地方裁判所はテキサス州遺言検認裁判所ですでに判決が下された問題を審査することはできないとした。

 2010年9月28日、米国最高裁判所は再びこの事件を審理することに同意した。
 2011年6月23日、米国最高裁判所は5対4の判決でマーシャル家に有利な判決を下した(現在はスターン対マーシャル10-179と称される)。
 裁判所の多数派は、請求自体の解決に必要ではない、州法に基づく請求証明に対する反訴について、連邦議会が憲法第3条に規定されていない破産裁判官の最終命令管轄権を認めることはできないと決定した。

 マーシャルの長男、J. ハワード マーシャル 3 世は、テキサス州の遺言検認裁判所で敗訴し、悪意による詐欺に対する反訴でも敗訴した。
 陪審は当初、E. ピアース マーシャルに 3,500 万ドルの損害賠償を命じたが、遺言検認裁判所はその額を 1,000 万ドルに減額した。その後、J. ハワード マーシャル 3 世はカリフォルニア州で破産を申請し、スミスの破産を管轄した同じ破産裁判官によって免責された。この判決は、米国第 9 巡回控訴裁判所によって支持された。
 
 1976年、マーシャルは母校であるハバーフォード大学に400万ドルを寄付することを約束した。
 しかし、1995年に死去するまでにマーシャルが寄付したのは200万ドルだけだった。
 ハバーフォードはヒューストンの遺言検認裁判所に遺産相続人を訴えた。
 しかし、2003年4月、陪審員はハバーフォードがマーシャルの寄付に頼っていなかったため損害はなかったとの判決を下した。

   
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ポール・F・ウォーバーグ(Paul F. Warburg)JSバチェ&カンパニーの共同経営者

ポール・フェリックス・ウォーバーグ(Paul Felix Warburg)
   1904年10月6日 - 1965年10月8日
 ニューヨーク出身のユダヤ系アメリカ人の銀行家であった。
 ウォーバーグは1904年10月6日、ニューヨーク州ニューヨーク市で、銀行家の
   フェリックス・M・ウォーバーグ
と慈善家
   フリーダ・シフ
の息子として生まれた。
 ウォーバーグ家の一員で、祖父はジェイコブ・シフである。

 ウォーバーグはリンカーン教員養成学校、コロンビア大学、マサチューセッツ州コンコードのミドルセックス校に通った。
 ミドルセックス校を1921年に卒業した。
 1921年から1922年までポキプシーの
   セントラル・ハドソン・ガス&エレクトリック
1922年から1925年までメリーランド州ボルチモアの
   ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道
1925年から1926年まで
   ノース・アメリカン社
に勤務した。
 1929年には
   インターナショナル・アクセプタンス・トラスト・カンパニー
の副社長補佐に就任した。
 同社は後にニューヨーク市のマンハッタン銀行と合併した。
 1931年、マンハッタン銀行の副社長に就任した。
 それから数年間、父親の慈善活動を引き継ぎ、さまざまな慈善団体や社会福祉団体の役員を務めた。
 1940年に
   JSバチェ&カンパニー
の共同経営者となった。
  
 ウォーバーグは1942年にバッシュ社での活動を停止し、1944年に同社を去った。
 1942年、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍に入隊し、陸軍専門部隊の大尉に任命された。
 後に中佐に昇進した。

 1942年にジョージ・S・パットン指揮下の機動部隊の一員としてモロッコのカサブランカに上陸した。
 G-2(諜報)部門の行政官を務めた後、アルジェリアのアルジェにある連合国軍司令部への配属を命じられた。
 そこで司令部と政治問題部門の連絡将校を務めた。

 1944年、国務省の書類を携えてフランスのパリに転勤した。
 その後、1946年にアメリカに帰国し名誉除隊となるまで、大使館の武官事務所の行政官としてパリ​​に留まった。
 フランス政府は彼の軍務に対してクロワ・ド・ゲール勲章とレジオンドヌール勲章を授与した。
 除隊後、彼はイギリスのロンドンにあるアメリカ大使館で働き始め、そこでW・アヴェレル・ハリマン大使とルイス・W・ダグラス大使の特別補佐官を務めた。
 彼は1950年まで特別補佐官として働いた。
 彼は1952年から亡くなるまで投資銀行の
   ローブ・ローズ・アンド・カンパニー
に勤務し、一族の慈善団体である
   ポール・フェリックス・ウォーバーグ夫妻基金
やその他の慈善事業を管理した。

 ウォーバーグは、ニューヨーク連盟雇用サービスの創設者、社長、理事であった。
 ホワイトプレーンズの
   カウンティ・トラスト・カンパニー
   スタテンアイランド・ラピッド・トランジット・カンパニー
   ウエストチェスター郡保全委員会
の理事でもあった。

 1930年にユダヤ人保護委員会の書記、1932年にニューヨーク盲人協会の評議員会会長、コロラド州デンバーの国立ユダヤ人病院のニューヨーク委員会の副会長兼委員長、1934年にユダヤ人慈善団体支援連盟のビジネスマン評議会の副会長(1937年に会長)、 1935年にドイツ系ユダヤ人児童援助およびドイツからの難民と移民の援助のための全国調整委員会の会計係、およびボーイスカウトアメリカ連盟の全国評議会の一般会員となった。

 第二次世界大戦前、彼はドイツ系ユダヤ人児童支援団体や米国ヨーロッパ児童保護委員会を通じて難民の子供たちをアメリカに連れてくる活動を行っていた。
 数年間にわたり、プロジェクトHOPEの全国理事会副会長およびニューヨーク委員会の書記を務めた。
 また、グレーター・ニューヨーク基金および全米難民サービスの創設者、アメリカ国際民主主義促進評議会の理事および副会長、アメリカ・ユダヤ人委員会のビジネスおよび産業諮問委員会の委員長および全国諮問委員会委員、ニューヨーク市商工会議所、ハーモニー・クラブ、マディソン・スクエア・ガーデン・クラブ、リセス・クラブ、ウォール・ストリート・クラブ、ホワイトプレーンズ・センチュリー・クラブ、コネチカット州グリニッジのスタンウィッチ・クラブ、マサチューセッツ州ビニヤード・ヘブンのビニヤード・ヘブン・ヨット・クラブの会員でもあった。
 彼はニューヨークのエマヌエル会衆に所属していた。
 共和党員である彼は、数年間共和党連合財務委員会の理事を務め、
   ジョン・V・リンゼイ
の下院選挙運動の財務委員長を務めた。
 1952年にはアイゼンハワー・ニクソンを支持するニューヨーク州市民の代表を務めた。
 また、アメリカ仲裁協会の執行委員や英語圏連合の副会長も務めた。

 1926年、ウォーバーグはカリフォルニア州サンフランシスコ出身の
   ジーン・ステッテイマー
と彼女の家族の田舎の邸宅であるアサートンで結婚した。
 ラビのジョナ・B・ワイズが式を執り行い、ジーンの妹
   バーバラ・オックス・アドラー
が花嫁に付き添った。
 二人は1934年に離婚した。

 1939年、ウォーバーグはニューヨーク市にある従兄弟の
   ジョン・M・シフ
の自宅でミュリエル・コンスタンス・ウッドワース・ハート夫人と結婚した。
 ニューヨーク州最高裁判所判事の
   サミュエル・I・ローゼンマン
が式を執り行った。

 1949年、ウォーバーグは3番目の妻であるイリノイ州シカゴ出身の
   バーバラ・タッパー男爵夫人
とイギリス・ロンドンのキャクストン・ホールにあるウェストミンスター市登記所で結婚した。

 アメリカ大使館の一等書記官
   ヘンリー・E・ステビンズ
が花婿介添人を務め、ジョン・J・マクロイが花嫁を差し出した。

 結婚披露宴には、
   ミルフォード・ヘイブン侯爵
   ブランドフォード侯爵
   カーナヴォン伯爵
   デンマーク王子ゲオルグ
   外交団のメンバー
を始めロンドン社交界の著名人など250人が出席した。
 彼には最初の結婚で2人の娘がいた。
 フェリシア・S(ロバート・W・サーノフと結婚)とジル(ハーバート・W・マース・ジュニアと結婚)である。
 ウォーバーグは1965年10月8日にニューヨーク病院で心臓発作で亡くなった。
 彼の葬儀はエマヌエル寺院で行われた。

  
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ジェイコブ・シフ(Jacob Schiff)米国の銀行家 

ジェイコブ・ヘンリー・シフ(Jacob Henry Schiff)
   出生名:ヤコブ・ハインリヒ・シフ Jakob Heinrich Schiff
   1847年1月10日 - 1920年9月25日
 米国の銀行家、実業家、慈善家
 米国の鉄道の拡張と日露戦争におけるロシア帝国に対する日本軍の軍事活動の資金調達(軍事国債の販売)に尽力した。

 シフはドイツのフランクフルトで生まれ、南北戦争後に米国に移住し、1867年に
とその義理の兄弟
によって設立された米国の多国籍投資銀行
に入社した。

 ウォール街を拠点に、彼は1880年から1920年にかけて、後に「シフ時代」として知られるようになる時代に、ユダヤ人の第一人者として活躍した。
 ロシア系ユダヤ人の窮状、米国および国際的な反ユダヤ主義、困窮するユダヤ人移民の支援、シオニズムの台頭など、当時のあらゆる主要なユダヤ人問題や課題に取り組んだ。
 彼はまた、
   ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行
   エクイタブル生命保険協会
   ウェルズ・ファーゴ・アンド・カンパニー
   ユニオン・パシフィック鉄道
など、多くの重要企業の取締役にもなった。

 彼は多くの関心事において、銀行家で鉄道経営者の
   エドワード・ヘンリー・ハリマン(1848年2月20日 - 1909年9月9日)
と関わりがあった。
 1847年、ドイツのフランクフルト・アム・マインのユダヤ人街で、
   モーゼス・シフ
   クララ(旧姓ニーダーホーフハイム)
の息子として生まれた。
 2人はフランクフルトで1370年まで遡る由緒ある
   アシュケナージ系ユダヤ人ラビの家系
に属していた。
 先祖の一人である
   デイヴィッド・テヴェレ・シフ
はイギリスで主任ラビとなり、1765年から死ぬまでロンドンのシナゴーグの代行長を務めた。
 もう一人の親戚である
   メイア・ベン・ヤコブ・シフは
14世紀にタルムードの学者および解説者として有名になった。

 ヤコブの父モーゼス・シフは
   ロスチャイルド家のブローカー
として働いていた。
 シフはフランクフルトの学校で教育を受け、1861年に銀行および証券会社に徒弟として初めて就職した。
 1865年4月に南北戦争が終結した後、シフは米国に渡り、 8月6日にニューヨーク市に到着した。
 1866年11月21日にブローカーとなり、1867年に
   バッジ・シフ・アンド・カンパニー
に入社した。
 1870年9月にアメリカの市民権を取得した。
 (しかし、シフの現代の伝記作家コーエンは、これは1年後のことだと言う。)
 1872年にバッジ・シフ商会が解散すると、シフはドイツに戻ることを決意した。

 1873年、ロンドン・ハンザ銀行のハンブルク支店長となった。
 しかし、その年の後半に父親が亡くなったため、フランクフルトに戻った。

が、ニューヨークに戻って会社に入社するようシフを誘った。
 クーン・ローブ商会に入社して間もなく、シフは実質的にその会社を経営するようになった。
 
 1870年8月にジェイコブ・ヘンリー・シフはニューヨーク・コンチネンタル銀行を
   HBクラフリン
   マーセラス・ハートリー
   ロバート・L・カッティング
   ジョセフ・セリグマン
と共同設立した。

 シフは1875年1月にクーンの招待を受け入れ、ロンドンの
   サー・アーネスト・カッセル
ダンディー(後にロンドン)の
   ロバート・フレミング
パリ・ネーデルラント銀行(パリ・ネーデルラント銀行、またはパリバ銀行)の
   エドゥアール・ノエツリン
とのつながりを
に持ち込んだ。

 1875年5月6日、彼はソロモン・ローブの娘
   テレーズ・ローブ
と結婚した。
 夫婦には息子モーティマー・L・シフと娘フリーダが生まれた。

 1885年、シフはクーン・ローブ・アンド・カンパニーの社長に就任、
   ペンシルバニア鉄道
   ルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道
などの東部鉄道への資金提供のほか、1896年から1899年にかけて
   ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道
の再編に携わった。
 また、
   アメリカン・スメルティング・アンド・リファイニング・カンパニー( ASARCO)
   ウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニー
   ウェスタン・ユニオン・テレグラフ・カンパニー
を度々支援した。

 1902年のニューヨーク・メトロポリタン・ストリート鉄道の再編には参加したが、これはあまり幸運ではなかった。
 彼はEHハリマンと提携して
   ジェームズ・J・ヒル
JPモルガンが経営する
   JPモルガン・アンド・カンパニー
と西部の鉄道の支配権をめぐる有名な争いに関わった。
 シフは
   エクイタブル生命保険協会
   ナショナル・シティ銀行
   セントラル・トラスト・カンパニー
   ウェスタン・ユニオン・テレグラフ・カンパニー
   ユニオン・パシフィック鉄道
   ボンド・アンド・モーゲージ・ギャランティ・カンパニー
の取締役を務めた。
 1914年9月、連邦準備制度理事会への任命を受けるために辞任した義理の兄弟
の後任として
   ウェルズ・ファーゴ・アンド・カンパニー
の取締役に選出された。
 
 シフの最も有名な金融活動としては
   日露戦争(1904-1905)
の中で起こった。
 シフは1904年4月にパリで日本銀行副総裁の
   高橋是清
と会談した。
 シフはクーン・ローブ商会を通じて大日本帝国に
   2億ドル(2023年には53億ドルに相当)の融資
を行うことに同意した。
 これらの融資はウォール街での日本国債の初の大規模な発行であり、日本がロシア帝国との間の戦争遂行に必要な軍事資金の約半分を賄った。
 シフがこの融資を行ったのは、金よりも国家の努力と戦争に勝つ意欲の方が重要だと信じていたことと、当時の日本の明らかな弱小国の立場(ヨーロッパの帝国が、近代的な全面戦争で非西洋諸国に敗北したことがまだなかった)が表向きの理由の一つとして伝わっている。
 (本来であれば、イギリスに拠点を置く、当時最大の資産家ロスチャイルドからの融資交渉が優先されるが、ロスチャイルドはロシア帝国内でのバクー油田の開発などロシアへ莫大な資金の貸付を行っており、高橋是清へから融資の依頼が最初にあったがこれを断ったうえ、フランスにいたシフを紹介している。)

 シフ氏はまた、この融資を、ロシア帝国の
   反ユダヤ主義行為
特に1903年に起きた
   キシナウの虐殺
に対してユダヤ人を代表して回答する手段とみなしていた可能性もある。
 この借款は世界中の注目を集め、大きな結果をもたらした。

 日本国内の経済がまだ発展途上だったため、日本軍は大英帝国を中心としたき軍需産業から軍艦や大砲、火器弾薬類など
   大量の軍需品の輸入
に依存していた。
 シフの借款によって、イギリス等からそれらの購入が可能となった。
 ただ、日本が軍事大国のロシアに活見込みが低かったことから、戦費国債の割引率は高く、ロシアの経済破綻によりロスチャイルドが大きく損g内を受ける可能性もあったこともあり、日本は戦勝国となっても賠償金の支払いはごくわずかとなり、戦勝後の償還では莫大な負債が日本経済にのしかかった。逆にシフらは莫大な利益が懐に転がり込んだ。

 1905年、日本はシフに瑞宝章を授与し、1907年には8等級のうち2番目に高い勲章である旭日重光章を授与した。
 シフは皇居で明治天皇から直接勲章を受け取った初の外国人となった。
 シフは1904年にイギリス国王エドワード7世とも私的に謁見している。

 日本への有名な融資に加えて、シフは他の多くの国への融資も行った。
 その中には後に中央同盟国を構成する国々も含まれていた。
 第一次世界大戦中、シフは米国の
   ウッドロウ・ウィルソン大統領
と他の連合国の政治家に対し、連合国が勝利しなくても戦争をできるだけ早く終わらせるよう促した。
 彼はドイツにいる家族の命だけでなく、移住先の国の将来も心配していたという。
 彼はフランスやその他の国への人道的目的での融資を手配し、兵站線でもある商船を徴用した輸送船への潜水艦戦争には反対を唱えた。

 シフは、ロシア帝国によるユダヤ人の抑圧を理由に、融資資金がロシア帝国に渡ることを禁じた。
 1917年にロシア皇帝がロシア革命により倒されると、シフはロシアのユダヤ人の抑圧は終わると信じた。
 その後、ロシアへの融資に対する社内の妨害を正式に撤廃した。
 しかし、ボルシェビキが権力を掌握すると、シフの立場は再び変化した。

 シフがロシアに対して抱いていた不満は、反ユダヤ主義だったが、国内では、社会主義に同情を示したことは一度もなかった。
 より穏健なモリス・ヒルクイットの社会主義でさえも同じだ。
 1917年3月にロシア皇帝が倒され、新臨時政府を代表する
   アレクサンドル・ケレンスキー
がユダヤ人を平等な市民であると宣言した後、シフはロシアでの目的が達成されたと宣言した。
 公の場で繰り返し支持を表明したほか、彼は個人資産とクーン・ローブの資金の両方を使ってケレンスキー政権に多額の融資を行った。

 1917年の10月革命が成功し、11月にボリシェヴィキを率いる
   レーニン
   トロツキー
が権力を掌握すると、シフは即座に彼らを拒否し、それ以上の融資を打ち切った。
 その後、反ボルシェビキ団体に資金提供を開始し、ケレンスキーに貸した金の一部をボルシェビキに返済するよう要求した。
 シフはまた、イギリスの支援を受けたロシアのユダヤ人にドイツとの戦いを続けるよう訴える運動にも参加した。
  
 ラビの家系に生まれ育ったシフはユダヤ教の慈善の原則である
   ゼダカ
を信じていた。
 彼は幼少の頃から「親切は家庭の基調だった...古いユダヤの伝統に従って、10分の1を慈善のために取っておくことが私たちの義務とされていた」と回想している。

 シフは常にユダヤ人とのつながりを強く感じており、慈善活動を通じてそれを実証した。
 彼は、ニューヨークのユダヤ人移民を米国西部に移住させるユダヤ人産業移転事務所を設立した。
 また、テキサス州ガルベストンを経由して米国への移民入国地点も追加で設立した。

 彼は、ロシアの
   ポグロムの犠牲者
のための救済活動を支援し、
   ヘブライ・ユニオン・カレッジ
   ユダヤ神学校
   ニューヨーク公共図書館のユダヤ人部門
およびアメリカユダヤ人委員会の設立と発展に尽力した。
 シフはアメリカのユダヤ人のトップ慈善家および指導者の一人となった。
 なお、ほぼすべての主要なユダヤ人の活動に寄付を行った。
 ニューヨークを例とすれは、彼が会長を務めた
   モンテフィオーレ慢性障害者ホーム
   ユダヤ人青年協会ビル
   ユダヤ神学校
などがある。
 また、アメリカの世俗的な活動にも数多く関わっており
   ニューヨーク動物学会
の理事を務めたほか、
   ボーイスカウトアメリカ連盟
   ハーバード大学セム語博物館
   アメリカ自然史博物館
   メトロポリタン美術館
   アメリカ美術協会
   アメリカ地理学会
   バーナード大学
などの団体に寄付をした。
 さらに、
   アメリカ赤十字
   ニューヨーク訪問看護サービス
   ヘンリー・ストリート・セトルメント(ニューヨーク)
   タスキーギ大学
など公民権や恵まれない人々のための団体にも寄付をした。

 シフはニューヨーク市の社会状況の改善に積極的に取り組んでいた。
 彼はニューヨーク商工会議所の副会頭であり、ツイード・リングの打倒につながった70人委員会のメンバーでもあった。
 彼は70歳の誕生日に、様々な慈善団体や公的機関に70万ドルを寄付した。

 シフはタルムードの「秘密に寄付する者は二度祝福される」という原則を信じていた。
 彼は、モンテフィオーレ病院の
   シフ・パビリオン
を除いて、自分がスポンサーとなった建物に自分の名前を付けることを許可せず、寄付の額についても決して語らなかったという。
 彼の秘密主義のため、慈善寄付の正確な額を計算することは不可能だが、5千万ドルから1億ドルの間と推定されている。
  
 アクション・フランセーズ運動とその指導者
   シャルル・モーラス
は、シフは徹底した
   親ドイツ派
であり、第一次世界大戦への
   アメリカの参戦を阻止するために活動
したと主張した。

 モーラスは、シフと他の著名なアメリカのユダヤ人指導者からの電報がウィルソン大統領を説得し
   戦後の和平交渉
でドイツの主張に屈服させたとさえ示唆した。
 その主張には、上シレジアをポーランドに割譲するのではなく住民投票を認めることも含まれていた。
 ただ、この電報が実際に存在したかどうかは不明である。

 さらに、シフは1914年時点でドイツや中央同盟国のための取引に資金を提供するのをやめた。
 公の場でドイツ語を話すのをやめ、連合国への道徳的、財政的関与を示すことに熱心だったと主張されている。

 改革派ユダヤ教の信者であったシフは、
   政治的で世俗的なシオニズム
を支持した。

 テオドール・ヘルツルの考えに全面的に賛同していたわけではない。
 実際、シオニズムはアメリカ人にシフの忠誠心を疑わせるだろうと考えていたにもかかわらず、彼は
   ハイファ工科大学
を含むイスラエルの多くの
   ユダヤ人プロジェクト
に寄付をした。

 裏で、特定のユダヤ人が主体として暗躍して成功した
   ロシア革命
とそれに続く、予想外の両派によるロシアの内戦、そしてウクライナでのポグロムにより
   東欧系ユダヤ人
の状況がさらに悲惨になると、シフはシオニスト活動にさらに多大な貢献をした。
 彼は、準備した声明を発表することを条件に、
   シオニスト組織への参加
を申し出た。
 しかし、この申し出は拒否され、彼が正式にシオニスト陣営に参加することはなかった。

 ジャーナリストの
   ジョージ・ケナン
は、シフが日露戦争と1905年の革命の間、
   ロシア自由友の会
を通じて
   革命宣伝の資金援助
をしたと指摘した。
 ニューヨーク市のユダヤ人共同登録簿では、「シフ氏は常にその富と影響力を国民の利益のために使ってきた。彼は独裁ロシアの敵に資金を提供し、その経済的影響力を使ってロシアを米国の金融市場から遠ざけた」と述べている。

 シフは1920年9月25日にニューヨーク市マンハッタンの5番街の自宅で亡くなった。
 彼の遺産は約5000万ドル(現在の価値で約7億6000万ドル)と推定されている。
 彼は135万ドルを様々な団体に遺贈したが、そのほとんどは彼が生前に寄付を受けた団体だった。
 最大の遺贈はニューヨーク市のユダヤ人慈善団体への支援のための連盟への50万ドルとモンテフィオーレホームへの30万ドルだった。
 
 彼の後を継いでクーン・ローブ・アンド・カンパニーのトップに就任したのは息子の
   モーティマー・レオ・シフ(1877年 - 1931年)
である。[ 5 ]
シフは1982年にジュニア・アチーブメント米国ビジネスの殿堂入りを果たした。[ 31 ]
ジェイコブ・シフ・センターは、彼の名を冠したユダヤ文化センターであり、1930年代から少なくとも1960年代にかけてはユダヤ教のシナゴーグとして有名だった。ブロンクス区フォーダム地区のフォーダム・ロードとグランド・コンコースの交差点近くのバレンタイン・アベニューに位置していた。 

シフの家族は死亡当時
 妻: テレーズ (旧姓ローブ)
 子供:モーティマー・シフ、フリーダ・ウォーバーグ(旧姓シフ)。
 父: モーゼス・シフ
 母: クララ・シフ(旧姓ニーダーホフハイム)
 孫娘:ドロシー・シフ
 孫:ジョン・M・シフ
 孫:ヘンリー・シフ
 曾孫: デイビッド・T・シフ
 曾孫: ヒューバート・ジェイコブ・ヘンリー・シフ
 義理の息子:フェリックス・ウォーバーグ
 義理の兄弟:ポール・ウォーバーグ
が残された。

 デビッド・T・シフ氏の息子ア
   ンドリュー・ニーマン・シフ氏
は、米国の元副大統領
   アル・ゴア氏
の娘カレンナ氏と以前結婚していた。
 2人は2010年に離婚するまで3人の子供をもうけた。
  
   
posted by manekineco at 06:29| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月06日

フェリックス・M・ウォーバーグ(Felix M. Warburg) ドイツ生まれの米国人銀行家

フェリックス・モーリッツ・ウォーバーグ(Felix Moritz Warburg) 
   1871年1月14日 - 1937年10月20日
 ドイツ生まれの米国人銀行家。
 ドイツのハンブルクのウォーバーグ銀行家一族の一員である。

 ウォーバーグは1871年1月14日、ドイツのハンブルクでユダヤ人の家庭に生まれた。
 MMウォーバーグ銀行(1798年)の創設者の一人である
   モーゼス・マーカス・ウォーバーグ
の孫で
   モーリッツ
   シャルロッテ・エステル・オッペンハイム・ウォーバーグ
の息子として生まれた。
 フェリックスは16歳の時にドイツのハンブルクにある
   NMオッペンハイム&カンパニー
で最初の仕事に就いた。
 フェリックス・ウォーバーグは
の共同経営者であった。
   
 ウォーバーグは1908年のアメリカ大統領選挙で大統領選挙人であった。
 ウォーバーグは、大恐慌に至る時期、特に大恐慌の最中にヨーロッパのユダヤ人を支援するために設立された
   アメリカユダヤ人合同配給委員会
の重要なリーダーである。
 ウォーバーグは、第一次世界大戦後に飢餓に直面したヨーロッパのユダヤ人のために、米国で積極的に資金を集めた。
 1919年には早くも、ニューヨークタイムズ紙で、戦争で苦しむユダヤ人の悲惨な状況について語った彼の言葉が引用されている。

 ウォーバーグは1925年にパレスチナ委任統治領エルサレムにある
   エルサレム・ヘブライ大学
を支援する
   アメリカ・ヘブライ大学友の会
の創設者および初代会長を務めた。

 ウォーバーグと共同分配委員会は、 1929年のニューヨーク証券取引所の暴落に続く世界恐慌後の1930年代にも重要な役割を果たした。
 銀行業よりも慈善事業に興味があったウォーバーグは、ヒトラーが権力を握った後、ドイツから逃れるユダヤ人を助けるために寄付をした。

 死ぬ前にウォーバーグは世界中のユダヤ人のために1000万ドルを寄付した。
 ジョン・L・スピヴァックは、米国海兵隊
   スメドレー・バトラー将軍
がビジネス陰謀の一環として議会でウォーバーグを指名したと主張した。 

 彼は1895年3月19日にニューヨークで
   ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847年 - 1920年)
   テレーズ・ローブ・シフ
の娘である
   フリーダ・シフ(1876年 - 1958年)
と結婚し、2人の間には4人の息子と1人の娘がいた。
 ・フレデリック・マーカス・ウォーバーグ(1897年 - 1973年)
   ウィルマ・L・シャノンと結婚した。
 ・ジェラルド・フェリックス・ウォーバーグ(1902年頃 - 1971年)
   最初にマリオン・バブと結婚し、その後コンデ・モントローズ・ナストの娘
      ナティカ・ナスト
   と結婚した。
 ・ポール・フェリックス・ウォーバーグ
 ・エドワード・モーティマー・モリス・ウォーバーグ(1908年 - 1992年)
   メアリー・ウォーバーグと結婚した。
 ・キャロラ・ウォーバーグ・ロスチャイルド(1896年 - 1987年)
   アブラハム・アンド・ストラウス社の取締役会長
   フェデレーテッド・デパートメント・ストアーズの創設者である
     サイモン・F・ロスチャイルド
   の息子である
     ウォルター・N・ロスチャイルド
   と結婚した。
   彼女の娘のキャロル・ウォーバーグ・ロスチャイルドは、
     ピーター・A・ブラッドフォード
   の母親であり、アーサー・ブラッドフォードの祖母にあたる。
 
 彼らの子供たちは全員、社会奉仕活動に熱心だった。
 1927年、ウォーバーグはストラディヴァリウス4台の楽器を購入し、ミュージカル・アート研究所(現在のジュリアード音楽院出身で新しく結成された
   ミュージカル・アート・カルテットのメンバーである
   サッシャ・ヤコブセン
   バーナード・オッコ
   ルイス・カウフマン
   マリー・ルーマエト・ロザノフ
に寄贈した。
 彼は1937年10月20日にニューヨーク市で亡くなった。
 
 彼の慈善活動の結果、1939年に委任統治領パレスチナに設立された新しいユダヤ人村
   クファル・ワールバーグ
は彼の名にちなんで名付けられた。
 彼はニューヨークのユダヤ神学校の理事でもあった。
 ワールバーグは1908年から1916年まで、当時はユダヤ人青年協会であった92丁目Yの会長も務めた。
 会長在任中、ワールバーグは92丁目のハインシャイマー記念別館を寄贈し、92丁目Y初の住宅を創設した。
 ニューヨークのアッパー・イースト・サイドにある
   フェリックス・M・ウォーバーグ・ハウス
はウォーバーグの未亡人によって寄贈され、現在はユダヤ博物館となっている。

   
posted by manekineco at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | バイオグラフィー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする