2018年01月04日

延命水掛地蔵尊(知多市大草 地蔵寺)


延命水掛地蔵尊

 知多市大草字の「大草 地蔵寺」のご本尊

 天平年間に行基が開山したと伝えられる真言宗智山派の古刹で一般的には
   大草地蔵寺
と呼ばれています。
 正式名称は「摩尼山 地蔵寺」です。

 愛知県知多市大草字東屋敷43‐1にあり、知多四国七十番札所となっている。

 本堂(客殿・大師堂)の中央には真言密教の開祖
   弘法大師
が祀られてい。
 ご本尊は地蔵菩薩で、太子堂の西隣にこじんまりした大日堂がある。
 此処に祀られている大日如来坐像は、説に鎌倉時代の作で知多市指定文化財とのこと。

 なお、この寺には、享保年間(1716〜1736)の云われから井戸から上がった
   延命水掛地蔵尊
と呼ばれる地蔵さまが祀られている。

 

 
延命水掛地蔵尊縁起
                             
 本堂の裏には顔がつるつるの石のお地蔵さんがみえます。
 このお地蔵さまは昔から眼病または様々な病を治すと言われ多くの崇敬を集めています。
このお地蔵さまは「江戸の中期に久米村(今の愛知県常滑市の久米)に住んでいた盲目のお竹さんという女の人がおり、ある日お竹さんの夢のなかにお地蔵さまが現れました。

 お地蔵さまは「我は竹林の井戸におちている地蔵である。汝、我を助け出して井戸を改修するならば盲眼必ず開かん」と夢枕でお告げがありました。
 
 早速お竹さんは井戸からお地蔵さんを拾い上げ、朽ちかけた井戸を改修し地蔵を清水で洗い七日七夜参籠したところ。翌朝、目が開いたとの伝承があります。この評判はただちに広まり近郷からのお参りが絶えなくなったとのことです。
 
 今でもその信仰が残っており、お地蔵さんに水を掛けて自分の痛いところと同じところをなでると治ると広まり「延命水掛地蔵」と言われるようになりました。

 なお、本堂裏には、赤いよだれかけに風車を持った2350体もの子安水子地蔵が祀られている。


お寺の隣は大草公園があり、幻の城とも呼ばれる大草城の跡地です。
 この大草城は天正2年(1574年)、尾張国知多郡を与えられた織田信秀の十一男
   織田 長益(おだ ながます)
が築城を途中で中止した幻の城跡となっています。

 以降、長益は信長の長男・織田信忠の旗下にあったとされ、甲州征伐などに従軍している。

 天正9年(1581年)の京都御馬揃えでは信忠・信雄・信包・信孝・津田信澄の後に続いている。
 また、天正10年(1582年)の左義長での順は信忠・信雄・長益・信包となっている。

 長益は有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人として知られる。
 長益系織田家嫡流初代でもある。

 千利休に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられ、後には自ら茶道有楽流を創始した。
 また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。



 
  

   
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2017年12月13日

浅井古墳群


浅井古墳群

 尾張平野の北部、木曽川の南岸に近接した位置にある古墳群のひとつで、浅井北古墳群は、浅井町の河田・黒岩・大野・尾関の四つの地域に集中しており、破壊された古墳をふくめて円墳や前方後円墳などが50基あったと伝わっている。

 明治以降、道路工事高度経済成長期の開発などによりで破壊され土地利用が進んだ結果、現在では20余基を残すのみとなっている。

 古墳からの出土品が相継ぎ地元で保管されている。

 昭和33年(1958)〜35年(1960)にかけて、一宮市史編さんのため名古屋大学考古学研究室による発掘調査も行われた。
 調査の結果、主要な古墳5基
   毛無塚古墳、岩塚古墳、愛宕塚古墳、桃塚古墳、小塞神社古墳
を保存することとなった。

 古墳群からの出土品は現在一宮市博物館に保存・展示されている。

 隣接する黒岩地区には、奈良時代の古瓦類が出土する
   黒岩廃寺
があり、この地が木曽川に沿った尾張の古代史を解明する重要な場所であることを表している。




 



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2017年12月10日

青塚古墳(あおつかこふん) 愛知県内の古墳としては第2位の規模の


青塚古墳(あおつかこふん)

 愛知県犬山市青塚にある前方後円墳で青塚古墳群を構成する古墳の1つで国の史跡に指定されている。

 愛知県内の古墳としては第2位の規模の古墳で、犬山扇状地を形成する洪積台地の南西端に築造された4世紀中頃(古墳時代前期)の築造と推定される。
 
 大型前方後円墳の周辺にはかつて10数基の古墳が分布し、青塚古墳群としてお確認があるが、現在までにほとんどが消滅している。

 これまでに古墳域は大縣神社(犬山市宮山、尾張国二宮)の社地として推移した。
 1979年(昭和54年)以後には発掘調査が実施されている。

 墳形としては前方部を南西方に向け、墳丘は前方後円形の基壇の上に構築され、後円部が3段築成、前方部が2段築成となている。

 墳丘長は約123メートルを測り、愛知県では
   断夫山古墳(名古屋市熱田区旗屋町、151メートル)
に次ぐ第2位の規模となっている。


 墳丘表面では全面に河原石の葺石が、各段に壺形埴輪列が認められ、前方部上に方形壇状遺構を有するという特色がある。
 同遺構周囲には円筒埴輪列が確認されている。

 墳丘周囲では、やや不定形な盾形の周濠・外堤が巡らされている。
 出土品としては、前述の埴輪片のほかに鏃形石製品がある。
 
   
 青塚古墳は、出土埴輪・土器より古墳時代前期の4世紀中頃の築造と推定されている。
 なお、被葬者は明らかでないが、大縣神社の言い伝えでは
   邇波県君(にわのあがたのきみ)
の祖の大荒田命(おおあらたのみこと)の墓という。

 古墳域は1983年(昭和58年)に国の史跡に指定され、現在は史跡整備の上で青塚古墳史跡公園として公開されている。
  

 
 


  
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2017年03月01日

伽耶院(がやいん) 山伏の寺


伽耶院(がやいん)

 兵庫県三木市にある天台系修験道の寺院で孝徳天皇の勅願寺として、645年に
   法道仙人
が開基したとされ、本尊は毘沙門天。山伏の寺として知られる。

 山号は大谷山(おおたにさん)。

 宗派は本山修験宗
 
 寺伝では大谿寺(だいけいじ)と開基以降称していたが、1681年に後西上皇の勅により仏陀伽耶に因む寺号、伽耶院と改めた。


   
   (出典:https://www.youtube.com/watch?v=CG8uKgmGb5A

  
 法道仙人は天竺(インド)から雲に乗って日本に飛来したとされる伝説的な人物。
 現在の兵庫県南部を中心に法道開基伝承をもつ寺院が点在する。
 なお、法道開基伝承をもつ他の寺院と同様、伽耶院についても草創の正確な時期や経緯については明確ではない。

 平安時代中期には数十の堂宇と百三十余の坊舎をもち、花山法皇の行幸もあり、隆盛を極めた。

 安土桃山時代の羽柴秀吉の三木城攻めにおいて、当山に別所長治方の陣が置かれたため兵火により伽藍を焼失。
 また1609年には失火により、城塞のような石垣を残して全山が灰燼に帰した。

 現存する堂塔は1610年以降の諸国大名の寄進によるもの。


 
   

   
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2017年02月27日

千光寺(せんこうじ) 越中真言の古刹


千光寺(せんこうじ)

 富山県砺波市にある真言宗の寺院で山号は芹谷山。

 大宝3年(703年)の開基で、安居寺(南砺市)とともに砺波地方でもっとも古い寺。
 越中真言の古刹として著名で多くの寺宝を保持、閻魔像を安置する寺としてもよく知られる。
 
 大宝3年(703年)天竺(インド)の僧
   法道円徳上人
の開基とされ、桓武朝以後7代に亘り皇室勅願所であった。

 上杉謙信侵攻の際に兵火にあい焼失したが豊臣秀吉の越中平定のとき、復興を命じ禁制朱印状(現存)を下した。
 その後、加賀藩の祈祷所となり寺領安堵された。

 元和4年(1618年)の火事で再度被災した。

 法道仙人は天竺(インド)の霊鷲山に住む五百時妙仙の一人。
 日本に中国から朝鮮半島経由で渡来したという伝説上の人物。

 法道開基の寺は北陸では能登の石動山や越後の米山、越中では砺波市の千光寺(真言宗)のほか、氷見市の大栄寺(浄土真宗)、上日寺(真言宗)、小矢部市の観音寺(真言宗)など。

 

    

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2017年02月19日

勝軍地蔵


 愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号
   愛宕権現
の本地仏であり、イザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏としている。

 飛鳥時代から奈良時代の呪術者で修験道の開祖
   役小角
が大宝年間に白山修験の開祖とされる
   泰澄
と山城国愛宕山に登ったとき、天下万民の救済を誓った地蔵菩薩が、龍樹菩薩、富楼那尊者、毘沙門天、愛染明王を伴い大雷鳴とともに現れ、勝軍地蔵であったという伝承が残っている。

 また、敏達天皇の御代に百済王
   威徳王
から極めて高い
   二位達率(だっそつ)
という官位を与えられた倭系百済官僚の
   日羅
が勝軍地蔵を護持したとされる。

 さらに、平安時代前期の法相宗の僧で清水寺の
   延鎮
が勝軍地蔵と勝敵毘沙門天の両尊に
   坂上田村麻呂
の戦勝祈願を行ったことが記されている。

 ただ、延鎮が行ったとされる修法を初め、固有の尊容も明確ではない。
 密教での儀式の規則である
   儀軌
などは現存しておらず、『地蔵本願経』『十輪経』『陀羅尼集経』にある「煩悩の賊、天魔の軍に勝つ」、「軍陣闘戦に際して、難を免れる」などの記述が、この尊を感得する依拠とされたと考えらる。

 幡(軍旗)や剣などを持ち、甲冑姿であることは共通しているが、踏割蓮華に立つ立像と、神馬にまたがる騎馬像とが存在している。

  
 

  
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2017年02月18日

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)

  
地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
   
 仏教の信仰で菩薩の一尊。

 サンスクリット語ではクシティガルバと呼ばれる。
 クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味から「地蔵」としなった。
  
 大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられた。
 日本における民間信仰で
   道祖神
としての性格を持る「子供の守り神」として信じられている。
 そのため、よく子供が喜ぶ菓子が供えられることが多い。

一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれる。
  
  
 菩薩の居所は空居天である「兜率天」とされる。

 地蔵菩薩は地居天である忉利天で
   釈迦仏
の付属を受け、毎朝禅定に入りて
   衆生の機根(性格や教えを聞ける器)
を感じ、釈迦の入滅後、56億7000万年後に
   弥勒菩薩
が出現するまでの間、現世に仏が不在となるため、その間
   六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)
を輪廻する衆生を救うのが菩薩であるとされている。

 虚空蔵菩薩と地蔵菩薩が一対で安置される例は京都・広隆寺(講堂)などにある。
  
 
 地蔵さんは剃髪した声聞・比丘形(僧侶の姿)で白毫があり、袈裟を身にまとっている。
 装身具は身に着けないか、着けていても瓔珞(ネックレス)程度、左手に如意宝珠、右手に錫杖を持つ形、または左手に如意宝珠を持ち、右手は与願印(掌をこちらに向け、下へ垂らす)の印相をとる像が多い。

 なお、密教では
   胎蔵曼荼羅地蔵院
の主尊として、髪を高く結い上げ装身具を身に着けた通常の菩薩形に表されている。

 右手は右胸の前で日輪を持ち、左手は左腰に当てて幢幡を乗せた蓮華を持っている。


 
 

   
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2017年02月02日

菩薩(ぼさつ)


菩薩(ぼさつ)

 梵名ボーディ・サットヴァ(बोधिसत्त्व [bodhisattva])

 仏教において一般的に成仏を求める修行者のことを指す。
 菩提薩埵ともいわれる。

 菩薩は、悟りを求めて、修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くということで、庶民の信仰の対象ともなっていった。
 
 sattvaとは「生きている者」の意味で衆生や有情と意訳された。

 菩薩という用語は仏教成立以前から存在したか否かについての定説はない。

 仏教成立以前から存在したとされる
   声聞や縁覚
とともに、修行段階を指し示すものとして用いられている。

 菩薩の意味は時代が下るにつれ
   波羅蜜行
に至らない修行者や、ついには在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ拡大していった。


 
     
   
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2017年02月01日

六地蔵(ろくじぞう)


六地蔵(ろくじぞう)

 地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られる 
 全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとされる
   仏教の六道輪廻
の思想に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとすることから生まれたもの。

 なお、六地蔵の個々の名称については一定していない。
  
   
 六地蔵像は墓地の入口などに祀られ、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の順で
   檀陀(だんだ)地蔵
   宝珠地蔵
   宝印地蔵
   持地地蔵
   除蓋障(じょがいしょう)地蔵
   日光地蔵
と称する場合と、それぞれを
   金剛願地蔵
   金剛宝地蔵
   金剛悲地蔵
   金剛幢地蔵
   放光王地蔵
   預天賀地蔵
と称する場合が多い。

 像容は合掌のほか、蓮華、錫杖、香炉、幢、数珠、宝珠などを持物とするが、持物と呼称は必ずしも統一されていない。

  中尊寺金色堂では、藤原清衡・基衡・秀衡の遺骸を納めた3つの仏壇のそれぞれに6体の地蔵像が安置されている。


 

   
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