2024年12月04日

オッペンハイマー家(Oppenheimer Familie) ドイツ系ユダヤ人の 銀行家一族

オッペンハイマー家(Oppenheimer Familie)
 オッペンハイム家は、ヨーロッパ最大の民間銀行であった
   サル・オッペンハイム
を創設したドイツ系ユダヤ人の 銀行家一族であり、一族からは貴族の
   「フォン・オッペンハイム(von Oppenheim)」
   「フォン・オッペンハイマー(von Oppenheimer)」
   「フォン・オッペンフェルト(von Oppenfeld)」
   「リヒテンシュタイン(Lichtenstein)」
が生まれた。
 この一族はヴェルトハイマー家、コーエン家、ゴンペルツ家、グッゲンハイム家、アウスピッツ家、リーベン家、トデスコ家との間で親戚関係も作られた。

 この一族はライン川上流のオッペンハイム(ラインヘッセン、マインツとヴォルムスの間) に起源を持っており、当時、ユダヤ人の名前に形容詞として地名を追加するのが一般的であった。
 ユダヤ人コミュニティは、 10 世紀から 11 世紀にかけてヴォルムス、マインツ、シュパイヤーの都市ですでに確認できた。
 オッペンハイムでは、1241 年の王税登録簿に小さなコミュニティが記載されている。
 16 世紀以降、それらの多くにはそれらを区別するための家の名前が付けられた。

 たとえば、「黄金の剣(Goldenes  Schwert)」がある。
 この家は 1538 年頃にフランクフルト アム マインのヴェストガッセに建てられ、1700 年までオッペンハイマー家が住んでいた。
 1573 年頃にヨーゼフ オッペンハイムによって建てられ、1707 年にジェイコブ オッペンハイムの家としてユーデンガッセに建てられた家
 「ツア ヴァイセン ガンス」と同様に、1760 年までオッペンハイマー家が住んでいた。
 1285年、オッペンハイムにユダヤ人住民が定住しなければならなかったユーデンガッセがあった。
 1300 年から 1353 年の間にこの市がマインツ大司教区に寄託されたとき、オッペンハイムではユダヤ人に対するポグロムが起こった。
 1349 年に住民がペストの原因はユダヤ人であると信じてシナゴーグを破壊した。

 ヴォルムザー ユーデンガッセの家々のほとんどは市壁の上に建てられている。
 1689 年にフランスが街を征服した際にヴォルムスが瓦礫と化したとき、これらの家の住民が最初にフランスの侵略の影響を受けた。

 彼らはシュパイヤーとオッペンハイム(その町も攻撃された)の住民とともに周辺の村々、特にフランクフルト・アム・マインに逃げた。
 プファルツ継承戦争の終結に伴い、返還を可能にするためにヴォルムス市との交渉が始まった。
 1697年以降、ユダヤ人は家を再建できるよう、10年間家賃の支払いを免除されることが合意された。
 1699年6月7日、封印された書類により返還が可能となった。

 サロモン・オッペンハイムは18世紀後半に銀行会社
   サル・オッペンハイム
を設立した。
 2009年に売却されるまで、サル・オッペンハイムは3,480億ユーロの資産を有するヨーロッパ最大の民間投資銀行であった。

 オッペンハイム家は
   ドイツ・コロニア保険
の共同設立者でもあり、1989年にその過半数の株式を30億ドイツマルクで売却した。
 8億2000万ドイツマルクは銀行の資本増強に使われ、残り(20億ドイツマルク以上)は一族に支払われた。
 1867年、この一族はオーストリアで男爵の称号を得て貴族となり、1年後の1868年にはプロイセン貴族にも認められた。 
 やはりフライヘルの称号を得た。

 著名な一族メンバー  
 ・サミュエル・ウルフ・オッペンハイマー(1630–1703)
 ・デヴィッド・ベン・アブラハム・オッペンハイム(1664–1736)
 ・サロモン・オッペンハイム(1772–1828)
 ・グスタフ・フェルディナンド・ヘルツ(1827–1914)
 ・ハインリヒ・ヘルツ(1857–1894)
 ・グスタフ・ヘルツ(1887–1975)
    
    
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2024年11月29日

スカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones  Order Order 322  Brotherhood of Death)イェール大学の学部4年生の秘密結社

スカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones  Order Order 322  Brotherhood of Death)
 コネチカット州ニューヘイブンにあるイェール大学の学部4年生の秘密結社。
 米国の大学最古の4年生の結社であるスカル・アンド・ボーンズは、影響力のある卒業生と陰謀説で知られる文化的機関としても知られている。

 メンバー 2,800人以上
 
 スカル・アンド・ボーンズは、イェール大学の「三大」団体の一つで、他の団体は
   スクロール・アンド・キー
   ウルフズ・ヘッド
である。
 この団体は非公式には「ボーンズ」と呼ばれ、メンバーは「ボーンズマン」、「オーダーのメンバー」、または「オーダーの入会者」として知られている。
 
 1832年にイェール大学の討論会団体
   リノニア
   ブラザーズ・イン・ユニティ
   カリオピアン・ソサエティ
の間でそのシーズンの
   ファイ・ベータ・カッパ賞
をめぐる論争の後に
   ウィリアム・ハンティントン・ラッセル
   アルフォンソ・タフト
が「スカル・アンド・ボーンズ騎士団」を共同設立した。

 最初の上級会員にはラッセル、タフト、その他13名が含まれていた。
 スカル・アンド・ボーンズの別名は、ザ・オーダー、オーダー322、ザ・ブラザーフッド・オブ・デスである。

 ライマン・バッグが1871年、著書『Four Years at Yale』で発表したスカル・アンド・ボーンズに関する最初の詳細な説明では、「現在その存在に付随する謎は、大学の噂話で飽きることなく語られる一つの大きな謎を形成している」と記した。

 ブルックス・マザー・ケリーは1974年の著書で、イェール大学のシニアサークルへの関心の高まりは、当時の1年生、2年生、3年生サークルの下級生メンバーが翌年キャンパスに戻り、サークルの儀式に関する情報を共有できた一方で、卒業するシニアたちはそうした儀式を知っていたとしても、キャンパスライフから少なくとも一歩離れていたという事実によるものだと述べている。

 スカル・アンド・ボーンズは創設以来
   毎年3年生から15名を選抜
して協会に加入させている。
 スカル・アンド・ボーンズは毎年春、イェール大学の
   「タップ・デー」
の一環として学生の中から新会員を選抜し、1879年以来これを続けており、キャンパスのリーダーやその他著名人とみなされる人物を会員として選抜している。
 
 1960年代になると、秘密結社はエリート主義と差別に対する批判に応えて適応し、スカル・アンド・ボーンズは1965年に最初の黒人メンバーを受け入れ、1975年にはイェール大学のゲイ学生組織の会長を受け入れている。

 イェール大学は1969年に男女共学となり、コロンビア大学の友愛会
   セント・アンソニー・ホール
などの他の秘密結社も男女共学に移行したが、スカル・アンド・ボーンズは1992年まで完全に男性のみの組織のままであった。
 1971年のボーンズクラスが女性を会員に迎え入れようとしたが、ボーンズ卒業生はこれに反対した。
 彼らを「悪いクラブ」と呼んでその試みを却下した。
 ボーンズマンたちが「問題」と呼ぶようになったこの問題は、何十年も議論された。

 1991年度生は翌年度生に7人の女性会員を選出した。
 これが同窓会との対立を引き起こし、信託団体は墓の鍵を変更し、ボーンズマンは代わりにイエール大学のシニア協会である
   マニュスクリプト協会
の建物で会合を持った。
 会員による郵送投票の結果、賛成368、反対320で同協会への女性の参加を認める決定が下された。
 あだ、ウィリアム・F・バックリー率いる同窓会グループは、正式な規約変更が必要だと主張して、この動きを阻止する一時的な差し止め命令を獲得した。
 なお、ジョン・ケリーやR・インスリー・クラーク・ジュニアなど他の同窓生は、女性の参加に賛成した。
 この論争はニューヨーク・タイムズの社説面で取り上げられ、1991年10月に行われた2度目の同窓会投票では、1992年度生の受け入れに合意し、訴訟は取り下げられた。

 アトランティック誌によると、近年、スカル・アンド・ボーンズは、他のイェール大学のエリート校と同様に「完全に変貌した」ということが明らかにされた。
 同協会は2020年に初めて非白人のクラスを結成した。
 ただ、卒業生の子孫はほとんど入会せず、進歩的な活動家は資産となると主張した。
 そのため、2021年のクラスには保守派は入学しなかった。
 
 この協会のバッジは金色で、交差した骨で支えられた頭蓋骨で構成され、下顎には322という数字が刻まれている。
 会員は架空の雄弁の女神であるエウロギアを崇拝していた。

 スカル・アンド・ボーンズの記章に見られる「322」という数字は、紀元前4世紀の古代ギリシアの政治と文化への洞察を提供しているギリシャの弁論家
   デモステネス
の死の年として重要な意味を持つと広く伝えられている。
 イェール大学のアーカイブにある初期の協会メンバー間の手紙では、322は紀元前322年を指し、メンバーは西暦ではなくこの年から日付を測っているという。
 紀元前322年、ラミア戦争はデモステネスの死で終わり、アテネ人は政府を解散させられた。 
 その代わりに
   金権政治制度
を確立したが、これにより、2,000ドラクマ以上を所有する者だけが市民権を維持できた。
 墓からは「デモステニ紀元」の文書が発見されたとされている。

 また、この数字は「1832年に設立された第2軍団」を表しており、無名のドイツの大学の第1軍団を指している。
 322のもう一つの関連例としては、英国サフォークにある
   フリーメーソン
の美徳と沈黙の
   ロッジ322号
が挙げられ、沈黙が美徳とされる2つの「秘密結社」組織間の兄弟的だが
   暗黙の支援関係
を示しているともいわれている。
 ロッジ322は1811年に設立された。
 これは1832年にスカル・アンド・ボーンズ協会が設立される21年前の出来事である。
 
 協会は、セントローレンス川沿いの島、ディア島(北緯44.359063度、西経75.909345度)を所有し、管理している。
 イェール大学の秘密結社に関する本の著者であるアレクサンドラ・ロビンズは「40 エーカーのこの隠れ家は、ボーンズマンたちが「集まり、古い友情を再び燃え上がらせるためのものだ。1 世紀前、この島にはテニス コートがあり、ソフトボール競技場はルバーブやグーズベリーの茂みに囲まれていた。湖にはキャットボートが停泊し、給仕が豪華な食事を用意していた。」と書いている。

 ラッセル信託協会はスカル・アンド・ボーンズ協会の商号である。
 1856年にウィリアム・ハンティントン・ラッセルが会長、ダニエル・コイト・ギルマンが会計係として法人化された。
 協会は協会の基金や財産を含む資産を保有し、財産の維持管理を監督している。
 2016年にIRSに提出された書類によると、ラッセル・トラスト・アソシエーション(RTA Incorporated)は、ディア・アイランドやスカル・アンド・ボーンズ・ホールを含め、3,906,458ドルの資産を保有している。 
 なお、2024年時点で、この組織の基金は1,700万ドルとなっている。

   
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2024年11月11日

ユダヤ人植民協会 ( Jewish Colonisation Association JCAまたはICA ייִק"אַ )  ロシアやその他の東欧諸国からのユダヤ人の大量移住を促進する目的で設立された組織

ユダヤ人植民協会 ( Jewish Colonisation Association JCAまたはICA ייִק"אַ )
 1891 年 9 月 11 日に
   モーリス・ド・ヒルシュ男爵に
よって、協会が北米(カナダとアメリカ合衆国)、南米(アルゼンチンとブラジル)、オスマン帝国領パレスチナで購入した土地に農業集落を建設し、ロシアやその他の東欧諸国からのユダヤ人の大量移住を促進する目的で設立された組織。
 今日でも ICA はイスラエルで
   ユダヤ人慈善協会( ICA )
の名称で特定の開発プロジェクトを支援している。

 1891 年に JCA が設立される前に、フランスの首席ラビ
   ザドック カーン
がドイツのユダヤ人慈善家
   モーリスデ ヒルシュ男爵
にアルゼンチンにユダヤ人入植地を設立する計画を提案した。
 オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ人政治活動家
   テオドール ヘルツル
は、この提案について、費用がかかり非現実的だと考えた。

 1896 年にヒルシュが亡くなったとき、協会は国内に 1,000 平方キロメートルの土地を所有し、1,000 世帯の
   「ユダヤ人ガウチョ(農業移民)」
がそこに住んでいた。
 協会は、東ヨーロッパのユダヤ人がアルゼンチンへの移住を禁じられるまで、アルゼンチンの農業入植地に重点を置いて活動していた。
 1920年、アルゼンチンでは15万人のユダヤ人が居住していた。

 1896年、JCAはオスマン帝国領パレスチナに
   新たに設立されたユダヤ人農業コミュニティ
への支援を開始した。
 1899年、ロスチャイルド家
   エドモンド・ジェームズ・ド・ロスチャイルド男爵
は、パレスチナの入植地(モシャボット)の所有権を1500万フランとともにJCAに譲渡した。
 1900年1月1日から、JCAは入植地が財政的および経営的支援を受ける方法を再編成し、入植地の収益性と独立性を高めた。
 1900年から1903年の間に、クファル・タボール、ヤブニエル、メラハミア(メナハミア)、ベイト・ベガンの4つの新しい
   モシャボット
を設立した。
 さらに、セジェラに農業研修農場を設立した。

 パレスチナでの活動は1924年にロスチャイルド男爵によって
   パレスチナ・ユダヤ人植民協会(PICA)
として再編され、その息子
   ジェームズ・アルマン・ロスチャイルド
が終身会長に任命された。
 PICAは1957年と1958年にその資産のほとんどをイギリスから独立した
   イスラエル国
に譲渡した。
 ICAは1933年にパレスチナでの活動を再開し、最初は別の基金と提携し、1955年以降は「イスラエルのICA」として単独で活動した。

 21世紀、この組織はガリラヤ(北)とネゲブ(南)の周辺地域の発展促進に力を注いでいる。
 ユダヤ人慈善協会という名前で活動する同団体は、「農村地域における教育、農業、経済開発、コミュニティ間の機会(アラブ人とユダヤ人の両方にとって)の分野で革新的なプロジェクトを推進する」と自らを称している。

 米国内ではニュージャージー州南部、コネチカット州エリントン(コングレゲーション・クネセト・イスラエル)などに入植地が設立された。

 JCA はまた、20 世紀の最初の 20 年間に、現在のトルコに 2 つの農業入植地を設立した。
 1891 年、JCA はトルコのイズミルにあるカラタシュ近郊に土地を購入した。
 1902 年までに総面積 30 km2 の農業研修センター、通称イェフダを設立した。
 このセンターは多くの困難のため 1926 年に閉鎖された。
 20 世紀初頭、アナトリアの
   ルーマニア系ユダヤ人のグループ
は JCA の支援を受けて、1910 年にイスタンブールに移民局を設立した。
 JCA はまた、イスタンブールのアジア地域の土地を購入し、数百世帯のための
   メシラ・ハダッサ農業入植地
を設立した。
 なお、1928 年に入植地の大部分は解体され、パレスチナへの移住を支援する移民局だけが残った。
 
 JCA のカナダ委員会は、ロシアから逃れてきた何千人ものユダヤ人難民の定住を支援した。
 カナダ国内のすべての JCA 入植地の発展を監督するために、1906 年 11 月に設立された。
 経済的な要因、特に大恐慌により、第二次世界大戦の終わりまでにカナダ西部のすべての入植地が解体された。
 その後、JCA のカナダ支部は東部での活動に集中し、オンタリオ州とケベック州の農場を購入し、農家に融資を行った。

 JCA カナダ委員会は 1970 年以降融資を行わず、1978 年に法的存在をすべて停止した。
 JCA は 1978 年にその文書の大部分を
   カナダユダヤ人会議の国立公文書館
に寄贈し、残りの部分 (「S」コレクション) を 1989 年に同館に寄贈した。

   
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2024年11月10日

ハットン調査(Hutton Inquiry)

ハットン調査
 2003年に英国で行われた司法調査であり、ハットン卿が議長を務めた。
 ハットン卿は、イラクにおける
   生物兵器専門家
で元国連兵器査察官である
   デイビッド・ケリー
の死亡をめぐる物議を醸す状況を調査するために労働党政権によって任命された。

 2003年7月18日、国防省職員のケリー氏が、 BBC記者
   アンドリュー・ギリガン氏
の引用元として名前が挙がった後、遺体で発見された。
 これらの引用は、イラクと大量破壊兵器に関する報告書「9月文書」を政府が故意に「セクシーに改変」したというメディア報道の根拠となっていた。
 調査は2003年8月に開始され、2004年1月28日に報告された。

 ハットン報告書は政府の不正行為を晴らしたが、BBCは強く批判され、BBCの
   ギャビン・デイビス会長
とグレッグ・ダイク局長が辞任した。
 この報告書は英国国民から懐疑的な見方をされ、ガーディアン紙、インディペンデント紙、デイリー・メール紙などの英国の新聞からは批判されたが、BBCの重大な欠陥を暴露したと指摘する者もいた。

 ケリー氏は、政府、特にトニー・ブレア首相の広報室が、イラクの軍事力について誤解を招くような誇張した内容、具体的には、イラクが45分以内に「大量破壊兵器」を使った攻撃を行う能力を持っているという主張で、故意に文書を美化したという3人のBBC記者の報道の情報源だった。

 これらの報告は、2003年5月29日にアンドリュー・ギリガンがBBCラジオ4のトゥデイ番組で、同日にギャビン・ヒューイットがテン・オクロック・ニュースで、そして6月2日にスーザン・ワッツがBBC Twoのニュースナイトで放送した。

 6月1日、ギリガンはメール・オン・サンデーに書いた記事で自身の主張を繰り返した。
 政府報道官アラステア・キャンベルを文書改ざんの原動力として名指しした。
 政府はこの報道を非難し、BBC の報道の質の悪さを非難した。

 その後、数週間、BBC は信頼できる情報源があるとして報道を擁護した。
 メディアの激しい憶測の後、7 月 9 日、ギリガンの記事の情報源としてケリーの名前がようやくマスコミに公表された。
 ケリー氏は7月17日、自宅近くの野原で自殺した。
 翌日、英国政府は調査を開始すると発表した。

 この調査は「ケリー博士の死を取り巻く状況」を調査するためだった。
 調査は8月1日に開始された。
 公聴会は8月11日に始まった。
 調査の結論として、ハットンが実施した調査プロセスは広く承認された。

 調査は英国政府とBBCの内部事情に例外的にアクセスできる機会を提供した。
 調査に提供された文書は事実上すべて、調査のウェブサイトですぐに一般に公開された。

 英国大使デイビッド・ブラウチャーは、2003年2月にジュネーブで行われた会議でケリー博士と交わした会話を報告した。
 彼はこれを「非常に深い記憶の穴から」と表現した。
 ブラウチャーによると、ケリーはイラクの情報源に対し、彼らが協力すれば戦争は起こらないと保証した。
 ブラウチャーはケリーに、イラクが侵略されたらどうなるかと尋ね、ケリーは「私はおそらく森の中で死体となって発見されるだろう」と答えた。その後、ブラウチャーはケリーの死後すぐに送った電子メールを引用した。
 「当時は、イラク人が彼に対して復讐しようとするかもしれないというヒントだと考えて、これについてあまり深く考えなかった。当時はまったく空想的なこととは思えなかった。今では、彼はむしろ別の方向で考えていたのかもしれないと分かる。」
 
 ハットンは当初、11月下旬か12月上旬に報告書を提出できると発表していた。
 報告書は最終的に2004年1月28日に公表された。
 報告書は13章と18の付録で750ページに及んだが、主に調査中に公表された数百の文書(手紙、電子メール、会話の記録など)からの抜粋で構成されていた。主な結論は以下の通りであった。

 ギリガン氏の当初の告発は「根拠がない」ものであり、BBCの編集および管理プロセスは「欠陥があった」
 書類は「性的」に加工されておらず、入手可能な情報と一致していたが、ジョン・スカーレットが議長を務める合同情報委員会は政府から「無意識のうちに影響」を受けていた可能性がある。
 国防省(MOD)は、ケリー博士に彼の名前を公表する戦略を知らせなかったことで責任を負っている。
 この報告書は、発表前に多くの観察者が予想していたよりも、はるかに完全に政府を免罪した。調査に提出された証拠は、次のことを示唆していた。
 報告書の文言は、入手可能な情報の範囲内で可能な限り
   強力な戦争の根拠
を示すために変更された。
 これらの変更のいくつかはアラスター・キャンベルによって提案されたものである
 情報機関の専門家らは、文書の文言について懸念を表明していた。
 
 デビッド・ケリーは国防情報部内の反対派と直接接触し、彼らの懸念(および自身の懸念)を数人のジャーナリストに伝えていた。
 ケリー博士がギリガンの連絡先の一人として名乗り出たのを受けて
   アラステア・キャンベル
   ジェフ・フーン
は彼の身元を公表したいと考えていた。
 首相自らが議長を務めた会議で、記者からケリー博士の名前が提示された場合、国防省がそれを確認すると決定された。
 ケリー博士の名前は、ジャーナリストが国防省の報道室に何度も提案した後に確認された。
 この証拠にもかかわらず、ハットンの報告書は政府の不正行為をほぼ否定した。
 これは主に、政府は
   諜報機関の懸念
を知らなかったとハットンが判断したためである。

 上級情報評価官(統合情報委員会)はそれを軽視していたようで、したがって、政府が「おそらく」情報に欠陥があることを知っていたとするギリガンの主張自体が根拠のないものである。
 さらに、調査委員会は、これはギリガンの情報源が使った言葉ではなく、ギリガン自身の推論であると聞いた。
 しかし、10番が諜報機関の懸念を知らなかったという判断は、報告書に含まれる他の証拠、たとえばデビッド・ケリーがBBCジャーナリストのスーザン・ワッツに与えたインタビューの記録によって裏付けられていなかった。
 政府を無罪にしたのに加えて、ハットンは諜報評価のいかなる失敗も自分の権限外であると判断し、諜報機関も非難を免れた。
 その代わりに、報告書はギリガンとBBCの失敗の証拠に重点を置いたが、その多くは調査の過程で明確に認められていた。

 メディアでは、この報告書は政府を免責するためにわざと書かれたのではないかという憶測が飛び交った。
 ハットン卿はその後の記者会見でこの主張に異議を唱えた。
 多くの人々は、これが事実であると確信している。

 隠蔽工作の示唆は、報告書の特定の箇所でハットン卿が慎重に言葉を選んだことで裏付けられた。

 報告書でデイヴィスの行動が批判されたため、ギャヴィン・デイヴィスは報告書が発表された2004年1月28日に辞任した。
 ライバルの報道機関ITNの記者たちは、報告書が発表された日を「BBC史上最悪の日」と評した。
 グレッグ・ダイク局長は報告書が発表された2日後に辞任した。
 BBCの理事会では、ダイクは理事会の3分の1の支持しか得られなかったと報じられている。
  
   
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2024年11月01日

ラ・カグール(頭巾党 La Cagoule)ファシスト志向で反共産主義の過激派グループ

ラ・カグール(頭巾党 La Cagoule)
 フランスの左翼の人民戦線第三共和制の末期からヴィシー政権にかけて、
   ラ・カグールウジェーヌ・ドロンクル
によって設立され、ロレアルの創設者ウジェーヌ・シュレールの支援を受けていたファシスト志向で反共産主義の過激派グループ。

 ラ・カグールは暗殺、爆破、兵器破壊、その他の暴力行為を行った。
 その一部は偽旗作戦で共産主義者に疑いをかけ、政情不安を増大させることを意図していた。
 ラ・カグールは1937年11月に
   フランス政府転覆
を計画して警察に潜入したため、政府は約70人を逮捕・投獄した。
 第二次世界大戦が勃発すると(1939年9月)、政府は彼らをフランス軍で戦うことを目論見んで解放した。
 一部は他の右翼組織を支援し、 1940年から1944年のフィリップ・ペタン元帥が率いたフランスの残党国家
   ヴィシー政権
に参加した。
 また、シャルル・ド・ゴールの自由フランスに加わった者もいた。
 フランス政府が1937年の容疑で生き残ったメンバーを裁判にかけたのは1948年になってからだった。
 元々は革命的国家行動秘密組織 (Osarn または OSAR、Organization secrete d'action révolutionnaire Nationale ) としていたが、後にこのグループの名前は正式に革命行動秘密委員会 (CSAR、Comité Secret d'action révolutionnaire ) に変更された。

 このグループはフランスの産業界(全国納税者連盟、ルシュール、ロレアルなど)内で
   特権的な関係
を築いていた。
 重要なメンバーの一人は、後にヴィシー政権の協力的準軍事組織ミリスの前身となる軍団サービス(SOL)を設立した
で、彼の甥のアンリ・シャルボノーもメンバーであった。
 もう一人の会員はリモージュのミリス長官に任命された
   ジャン・フィリオル
である。
 フィリオルは第二次世界大戦の終わりにスペインに逃れ、ロレアルのスペイン支社で働いた。
 ガブリエル・ジャンテはフランソワ・ミッテランの妹の愛人で、後にフランシスコ勲章に推薦された。
 アンリ・マルタン医師は
   パクト・シナルキー
を偽造した疑いのある医師で、第二次世界大戦後は秘密軍事機構(OAS)で働いていた。

 フランス領アルジェリアのラ・カグール紙の代表だった
   モハメド・エル・マーディ
は、反ユダヤ主義の新聞「エル・ラシッド」を創刊し、 1944年にSSモハメッドとして知られる北アフリカ旅団を組織した。

 このグループのメンバーのほとんどは、
   シャルル・モーラス
が設立した
   アクション・フランセーズ
の活動不足に失望したオルレアン市民から構成されていた。
 このグループは左翼グループの連合から作られた人民戦線政府に反対した。
 歴史家は、このグループが共産党による政権奪取に対抗することを目的とした自衛組織であると信じて、多くの下級メンバーが採用されたと考えている。

 ニースでは、新会員は正式な儀式で入会した。
 赤い服を着た総長と、顔を覆った黒い服を着た補佐官たちの前で、新会員はフランス国旗が掛けられたテーブルの前に立った。
 テーブルの上には剣と松明が置かれた。
 各自が右腕を上げて、「フランスのさらなる栄光のために」という宣誓をした。

 この宣誓は、イエズス会のモットーである「神のさらなる栄光のために」という宣誓を反響させた。
 不忠は死刑に処せられた。
 例えば、武器供給者の
   レオン・ジャン=バティスト
   モーリス・ジュイフ
は、武器の代金を偽って私腹を肥やそうとしたため、それぞれ1936年10月と1937年2月にカグールによって殺害された。
 準軍事組織は地方で活動していた。
 パリでは民兵組織やデモを組織し、武器を蓄積した。フランス首相
   レオン・ブルム
の暗殺を企て、テロリズムの訓練を行い、地下監獄を建設し、ベルギー、スイス、イタリアで銃を密輸した 。

 ラ・カグールはメンバーに様々な行動を指示し、共産主義者の疑いを抱かせてフランス共和国を不安定化させ破壊しようとした。
 1937年1月26日、ブローニュの森でジャン・フィリオルがソ連国籍でソ連国立銀行パリ支店の尊敬される支店長を数年間務めていた
   ディミトリ・ナヴァシーン
を刺殺したと主張する者もいる。
 ただ、ソ連で大粛清が進行中だったため
   ヨシフ・スターリン
の秘密諜報機関であるNKVDによって殺害されたと信じる者もいる。

 ファシスト政権下のイタリアから武器を入手しやすくするため、1937年6月9日、このグループはフランスに亡命していたイタリア人反ファシスト
   ロッセリ兄弟
を暗殺した。
 1937年9月11日、カゴールは共産主義者の陰謀という印象を与えるために、鉄工組合所有の建物 2 棟を爆破した。
 当時は共産主義者が爆弾を仕掛けたと広く信じられていた。
 政府はフランス共産党に対して公式な措置を取らず、同党員の失望を招いた。
 カゴールは同じ目的で国際旅団に潜入しようとした

 軍の路線に沿って組織されたカグールは、武器を入手する手段として
   ジョルジュ・ルスタノー=ラコー
のコルヴィニョールを通じてフランス軍の一部に潜入した。
 1937年11月、カグールは人民戦線政府を打倒し、ファシスト政府を樹立する準備をしていた。

 同グループは当初、フィリップ・ペタンを国家元首にするつもりだった。
 しかし、ペタンは提案を拒否した。
 カグールは、ルイ・フランシェ・デスペレ元帥を将来の国家元首に選んだ。
 この組織にはフランス警察が潜入していた。

 1937年11月15日、内務大臣で最高法執行官の
   マルクス・ドルモワ
が組織を告発し、メンバーの広範な逮捕を命じた。
 フランス警察は2トンの高性能爆薬、対戦車砲または対空砲数丁、機関銃500丁、サブマシンガン65丁、ライフル134丁、ソードオフショットガン17丁を押収した。
 押収した武器の中にはドイツ製またはイタリア製のものもあり、約70人が逮捕された。
 ドロンクルはパリに1万2千人、地方に12万人の部下がいると自慢していた。
 ただ、組織とその構造をよく知っていたのは200人以下で、グループとより緩いつながりを持っていた者はさらに数百人だった。

 この陰謀とフランス政府によるカゴール事件の暴露に対する国際メディアの反応は様々だった。
 米国では、ニューヨーク・タイムズの編集者が当初この報道に疑念を抱いていた。

 タイム誌の記者たちは、ラ・カグールをアメリカの
   クー・クラックス・クラン(KKK)
に例えた。
 KKKは1915年から広範囲に再興し、1925年に影響力のピークに達し、メンバーは中西部の都市や州、そして南部で公職に選出された右翼団体である。
  
 第二次世界大戦が勃発すると、フランス政府は捕虜となっていたカグラール人を釈放し、フランス軍で戦わせた。
 ジャック・ド・ベルノンヴィルなど、一部はミリスに入隊した。

 1940年のフランス占領中、ヴィシー政府はペタンの全権委任に投票することを拒否したため
   マルクス・ドルモワ
を逮捕し、最終的にモンテリマールに自宅軟禁した。
 1941年7月26日、彼は自宅で仕掛けられた仕掛け爆弾によって暗殺された。

 これは、1937年のドルモワの逮捕と組織鎮圧の試みに対する報復としてカグールのテロリストによって行われたと考えられている。
 カグールのメンバーは分裂した。
 彼らのうちの何人かは様々なファシスト運動に参加した。
 シュエラーとドロンクルは社会革命運動を創設し、占領下のフランスでナチスドイツのために様々な活動を行った。
 この運動は1941年10月にパリのシナゴーグ7か所を爆破した。

 他のメンバーはフィリップ・ペタンのヴィシー政権の有力メンバーとなった。
 ジョゼフ・ダルナンはフランスレジスタンスと戦い、反ユダヤ政策を実施したヴィシー準軍事組織ミリスのリーダーであった。
 彼は武装親衛隊の階級を受け入れた後、アドルフ・ヒトラーに忠誠を誓った。

 その他のカグーラール派は、レジスタンス運動のメンバー(マリー=マドレーヌ・フルカード、ピエール・ギラン・ド・ベヌーヴィル、ジョルジュ・ルスタノー=ラコーなど)として、またはアンリ・ジロー将軍やパッシー大佐などシャルル・ド・ゴールの自由フランス軍のメンバーとして、ドイツに反対した。

 戦後、政治家で作家の
   アンリ・ド・ケリリス
は、ド・ゴールがラ・カグーラール派のメンバーだったと非難した。
 連合国が彼をフランスの国家元首に任命すれば、ド・ゴールはファシスト政府を樹立する用意があると述べた。
  
 ガブリエル・ジャンテと他の元カグールは1948年に行われた裁判で起訴された。
 1937年の陰謀で逮捕されたカグラールたちは、フランス解放後の1948年までその罪で裁判にかけられることはなかった。
 その頃までに、多くがヴィシー政府やレジスタンスに所属しており、裁判にかけられた者はほとんどいなかった。

   
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オリガルヒ(Russian oligarchs) ロシアの新興財閥

ロシアのオリガルヒ
     (Russian oligarchs олигархи oligarkhi)
 旧ソビエト連邦構成国のビジネス界の政治的影響力を有する新興財閥
 少人数での支配、寡頭制を意味するギリシャ語 ὀλιγάρχης (oligárkhēs Oligarchy) にちなむものあり、ソビエト連邦の崩壊後に行われたロシアの民営化を通じて、1990年代に急速に富を蓄積した。
 ソビエト国家の崩壊により国有資産の所有権が争われ、国有財産を取得する手段として旧ソ連当局者(主にロシアとウクライナ)との非公式な取引が可能になった。
 主なオルガルヒ
 ・ロマン・アブラモビッチ
 ・アリシェル・ウスマノフ
 ・ウラジミール・ポタニン
 ・ミハイル・プロホロフ
 ・ゲンナジー・ティムチェンコ
 ・ヴァギト・アレクペロフ
 ・ペトル・アヴェン
 ・アルカディ・ロテンベルグ
 
 ロシアのオリガルヒは
   ミハイル・ゴルバチョフ(書記長、1985-1991)
の市場自由化時代に起業家として登場した。
 数学者で元研究者の
   ボリス・ベレゾフスキー
は、ロシアで最初の著名なビジネスオリガルヒとなった。
 オリガルヒはボリス・エリツィン大統領の任期中(1991〜1999年)にロシア政治でますます影響力を強めた。
 1996年のエリツィン再選の資金援助も行った。
 ロマン・アブラモビッチ、ミハイル・ホドルコフスキー、ボリス・ベレゾフスキー、ウラジミール・ポターニンといった人脈の広いオリガルヒは、選挙直前に行われた株式担保融資制度のオークションで、主要資産をわずかな金額で買収し、ロシアの国家財産を簒奪した。

 失脚したオリガルヒの擁護者は、買収した企業は依然として
   ソビエト原理
に基づいて運営されており、株式管理は存在せず、給与総額は膨大で、財務報告はなく、利益に対する配慮も薄いため当時あまり評価されていなかったと主張している。
  
 2014年以来、何百人ものロシアのオリガルヒとその企業が「ロシア政府の世界各地での悪意ある活動」を支援したとして米国の制裁を受けてきた。
 2022年には、ロシアのウクライナ戦争への非難として、多くのロシアのオリガルヒとその近親者が世界各国の標的となり、制裁を受けた。

 ミハイル・ゴルバチョフのペレストロイカ( 1985年頃〜 1991年)の間、ロシアの多くのビジネスマンがパソコンやジーンズなどの商品を国内に輸入し、販売して多額の利益を上げた。
 1991年7月にボリス・エリツィンがロシア大統領に就任すると、市場経済への移行期に腐敗した選挙で選ばれたロシア政府とのつながりを通じて市場に参加し、ほぼゼロからスタートして富を築いた、
 幅広いコネを持つ起業家としてオリガルヒが台頭した。

 1992年から1994年にかけてのいわゆる
   バウチャー民営化プログラム
により、少数の若者が億万長者になることができた。
 具体的には、ロシア国内の商品(天然ガスや石油など)の旧国内価格と世界市場の価格の
   大幅な差を裁定取引すること
でそうできた。
 これらのオリガルヒはロシア国民に不評を買っており、 1991年のソ連崩壊後にロシア連邦を悩ませた混乱の原因としてしばしば非難されている。
 
 経済学者のセルゲイ・グリエフとアンドレイ・ラチンスキーは
   ノメンクラトゥーラ
とのつながりを持つ古いオリガルヒと、ゴルバチョフの改革が「規制価格と準市場価格の共存によって裁定取引の大きな機会が生まれた」時代に影響を与えたためにゼロから富を築いた
   カハ・ベンドゥキゼの
ような若い世代の起業家を対比している。

 オリガルヒの大多数は(少なくとも当初は)ソ連の官僚によって昇進した。
 ソ連の権力構造と強いつながりを持ち、共産党の資金にアクセスしていた。

 ボリス・ベレゾフスキー自身は科学アカデミーの別の研究センターのシステム設計部門の責任者だった。
 彼の私企業は研究所によって合弁企業として設立された。
 ミハイル・ホドルコフスキーは1986年にコムソモール公認の青年科学技術創造センターの後援の下でコンピュータの輸入事業を開始した。
 1987年にはモスクワのある地区でコムソモールの副書記として短期間務めた。
 2年後の銀行業への転身は、モスクワ市政府で働くコムソモールの卒業生の支援を受けて資金提供された。
 後に彼は事業を営みながら、ロシア政府で首相顧問や燃料電力副大臣を務めた。

 ウラジミール・ヴィノグラドフは、ソ連に存在した6つの銀行のうちの1つである
   プロムストロイ銀行
の主任エコノミストであり、それ以前はアトムマッシュ工場コムソモール組織の書記を務めていた。
 
 経済学者のエゴール・ガイダーは、RANDをモデルにしたソ連科学アカデミーのシンクタンクで働いていた。
 ガイダーは後に、ソ連共産党中央委員会の公式理論機関紙である
   コムニスト誌
の経済編集者となった。
 また、1991年から1992年にかけてはロシア政府で首相を務めるなど、さまざまな役職を歴任した。

 アナトリー・チュバイスとともに、この2人の「若き改革者」は、1990年代初頭の民営化に主として関与した。
 デビッド・サッターによると、「このプロセスを推進したのは、普遍的価値に基づくシステムを構築するという決意ではなく、むしろ私有制を導入するという意志であり、法律がない中で、金と権力の犯罪的追求への道を開いた」という。

 1998年のロシアの金融危機はほとんどのオリガルヒに大きな打撃を与え、銀行を主な資産としていた者は財産の多くを失った。
 エリツィン時代の最も影響力のあるオリガルヒには、ロマン・アブラモビッチ、ボリス・ベレゾフスキー、ウラジーミル・グシンスキー、ミハイル・ホドルコフスキー、ウラジーミル・ポターニン、アレクサンダー・スモレンスキー、ウラジーミル・ヴィノグラードフがいる。

 彼らは、ボリス・エリツィンとその政治環境に多大な影響を与えた実業家のグループである
   セミバンキルシチナ
を結成した。
 彼らは1996年から2000年の間にロシア全土の財政の50%から70%を支配した。

 歴史家エドワード・L・キーナンはこれらのオリガルヒを中世後期のモスクワで出現した強力な貴族制度に例えた。
 ガーディアン紙は2008年に「ボリス・エリツィン元大統領時代の『オリガルヒ』がクレムリンによって粛清された」と報じた。

 ウラジーミル・プーチンがクレムリンで台頭するにつれ、エリツィン派のオリガルヒの影響力は薄れた。
 ミハイル・ホドルコフスキーやミハイル・ミリラシヴィリのように投獄された者もいれば、ウラジーミル・ヴィノグラドフやボリス・ベレゾフスキーのように国外へ移住したり、資産を売却したり、不審な状況下で死亡した者もいた。

 エリツィン派のオリガルヒの多くは、最初、脱税の疑いで非難された。
 メディアモスのウラジーミル・グシンスキーとボリス・ベレゾフスキーは、両者ともロシアを出国することで法的措置を回避した。
 最も著名なユコス石油の
   ミハイル・ホドルコフスキー
は、2003年10月に逮捕され、9年の刑を宣告された。
 その後、刑期は14年に延長され、プーチン大統領が恩赦を与えた後、2013年12月20日に釈放された。

 2000年代には、プーチン大統領の友人や元同僚であるサンクトペテルブルク市政時代やドレスデンKGB在職時代のオリガルヒの第二波が登場した。
 例としては、プーチンが1996年に学位を取得した研究所の所長
   ウラジーミル・リトビネンコ
やプーチンの幼なじみで柔道の先生である
   アルカディ・ロテンベルグ
が挙げられる。
 ゲンナジー・ティムチェンコは、 1980年代初頭からロシアの指導者ウラジーミル・プーチンと親しい友人であった。
 1991年、プーチンはティムチェンコに石油輸出ライセンスを与えた。
 これらの寡頭政治家たちは政府と緊密に協力し、縁故資本主義のシステムを国家資本主義のシステムに置き換え、新しい寡頭政治家たちは国有銀行からの融資や公共調達プロジェクトへのアクセスから利益を得た。
 
 経済研究では、2003年時点で21の寡頭政治グループが特定されている。
 2000年から2004年にかけて、プーチンは明らかに一部の寡頭政治グループと権力闘争を繰り広げ、彼らと「大取引」を交わした。
 この取引により、寡頭政治グループは権力を維持することができた。
 ただ、その代わりにプーチン政権への明確な支持と連携を約束した。

 しかし、他のアナリストは、寡頭政治構造はプーチン政権下でもそのままであり、プーチンはライバルの寡頭政治グループ間の権力争いの調停に多くの時間を費やしていると主張した。
 
 プーチン政権初期の最も著名なオリガルヒ10人には、ロマン・アブラモビッチ、オレグ・デリパスカ、ミハイル・プロホロフ、アリシェル・ウスマノフ、ヴィクトル・ヴェクセリベルグ、レオニード・ミヘルソン、アルカディ・ロテンベルグ、ゲンナジー・ティムチェンコ、アンドレイ・グリエフ、ヴィタリー・マルキンが含まれていた。

 プーチンが権力を握ってから5年後の2004年、フォーブスはロシア国籍の億万長者36人をリストし、「このリストには、政府要職に就かずに富の大部分を個人的に獲得したロシア国籍のビジネスマンが含まれている」という注記を付けた。
 2005年には、主にユコス事件が原因で億万長者の数は30人に減少し、ホドルコフスキーは第1位(152億ドル)から第21位(20億ドル)に落ちた。クレディ・スイスの2013年の報告書によると、ロシアの富の35%は最も裕福な110人の個人によって所有されていた。

 ダニエル・トレイスマンは、ロシア軍と諜報機関の経歴を持つ新しいロシアのオリガルヒの階級を「シロヴァルキ」(シロヴィクとオリガルヒ)と呼ぶことを提案した。
 億万長者で元KGBエージェントの
   アレクサンダー・レベデフ
は、これらの新しいオリガルヒを批判し、「彼らにとって物質的な富は非常に感情的かつ精神的なものだと私は思う。彼らは個人的な消費に多額のお金を費やしている」と述べた。
 レベデフはまた、彼らを「教養のない無知な集団」と表現し、「彼らは本を読まない。彼らには時間がない。彼らは[美術]展覧会にも行かない。彼らは誰かを感心させる唯一の方法はヨットを買うことだと思っている」と述べた。

 2018年1月30日、米国財務省はCAATSA法の要件に基づいて作成された「プーチンリスト」として知られる文書の一部として「オリガルヒリスト」を公表した。
 文書自体によると、その掲載基準は単に純資産が10億ドルを超えるロシア国民であることだった。
 このリストは無差別であり、プーチン批判者も含まれていると批判された。
 
 金融ニュース会社ブルームバーグによると、ロシアの富豪25人は2008年7月以来、総額2300億ドル(1460億ポンド)を失った。
 オリガルヒの資産減少はロシアの株式市場の暴落と密接に関係しており、2008年8月のロシア・グルジア戦争後の資本逃避により、 RTS指数は2008年までに71%の価値を失っていた。 

 ロシアの億万長者は、自らのバランスシートを強化するためにバルーンローンの返済を求める貸し手から特に大きな打撃を受けた。多くのオリガルヒはロシアの銀行から多額の融資を受け、株式を購入し、その後これらの株式の価値を担保に西側諸国の銀行からさらに融資を受けた。
 世界的不況で最初に打撃を受けた人の1人は、当時ロシアで最も裕福だった
   オレグ・デリパスカ
で、2008年3月の純資産は280億ドルだった。
 デリパスカは西側諸国の銀行から自社の株式を担保に借り入れていたため、株価の暴落によりマージンコールに応じるために持ち株を売却せざるを得なかった。
 
 2022年のロシアによるウクライナ侵攻後、カナダ、米国、欧州の首脳陣は日本を加えて、プーチン大統領とオリガルヒに直接制裁を課すという前例のない措置を講じた。
 この制裁を受けて、標的となったオリガルヒたちは西側諸国による資産凍結を阻止しようと、富を隠し始めた。
 これらの制裁は、ウクライナとの戦争へのロシアの貢献と黙認に対する反応として、ロシアの支配階級に直接影響を与えることを意図している。
 制裁は最も裕福なオリガルヒの一部には適用されないが、制裁対象者に対するプーチン大統領の権力のため、戦争への影響は不明である。
 侵攻が始まって以来、ロシアのオリガルヒのヨット9隻は、捜索や押収の可能性が低い港に向けて航行する際に、航行トランスポンダーをオフにしている。

 2022年3月2日、米国は「タスクフォース・クレプトキャプチャー」と名付けられた
   特別タスクフォース
を発表した。
 このチームは特にオリガルヒをターゲットにするために結成された。
 FBI 、連邦保安官局、IRS、郵便検査局、国土安全保障捜査局、シークレットサービスの職員で構成されている。

 タスクフォースの主な目標は、これらの個人に対して設定された制裁を課し、米国政府がロシア政府への違法な関与とウクライナ侵攻の収益であると主張する資産を凍結および押収することである。
 2022年3月21日、組織犯罪および汚職報告プロジェクトは、複数のロシアのオリガルヒのプロフィールと資産を紹介する
   ロシア資産トラッカー
を立ち上げた。

 プーチン大統領の次女
   カテリーナ・チホノワ
は、自身の投資ファンドを通じて国営エネルギー企業から数多くの大型契約を獲得している。
 彼女の元夫キリル・シャマロフは、ロシア最大の石油化学会社
   シブール
と自身の投資ファンドを経営している。

 セルゲイ・ラブロフ外相の義理の息子は、資産60億ドルを超える投資ファンドを運営している。
 プーチン大統領のウクライナにおけるかつての最も近い同盟者である
   ヴィクトル・メドヴェドチュク
の義理の息子である
   アンドレイ・リューミン
は、輸入代替のための国家補助金の受領者となった大規模な農産物保有地で別の投資ファンドを運営している。
 元首相でロシア対外情報機関長官の息子
   ペトル・フラトコフ
や元大統領府長官セルゲイ・イワノフの息子である
   セルゲイ・セルゲーエヴィチ・イワノフ
現ロシア安全保障会議議長ニコライ・パトルシェフの息子である
   アンドレイ・パトルシェフ
は、いずれもオリガルヒの仲間入りをしている。

 ロシアのウクライナ侵攻後に著名になり、制裁を受けたオリガルヒや企業幹部のリスト
 ・ペトル・フラトコフ(プロムストロイバンクのCEO 
   2004年から2007年までロシアの首相を務めたミハイル・フラトコフの息子
   ミハイル・フラトコフは2007年から2016年までロシア対外情報局で最長の在任期間を誇る長官
   2017年1月4日以降、フラトコフはロシア戦略研究所の所長を務めている。
 ・アンドレイ・グリエフ
   世界第4位のリン酸肥料生産者であるフォスアグロ社の元社長
 ・ミハイル・グツェリエフ
   ロシア最大の石油会社の一つ、ルスネフチの元オーナー
 ・サイード・グツェリエフ
   ロシア系イギリス人実業家、ロシアのオリガルヒ、 ミハイル・グツェリエフの息子
   2018年以来、フォーブス誌の世界で最も裕福な実業家のリストに掲載されている。
   2021年の時点で、彼の資産は17億ドルと推定されている。
 ・カテリーナ・チホノワ
   プーチン大統領の次女、ロシア産業家・企業家連合副議長
 ・キリル・シャマロフ
   ロシアの石油化学会社シブールの取締役兼共同所有者
 ・アンドレイ・ヴァレリエヴィチ・リューミン
   ロスセティPJSC(2014年8月まではロシアン・グリッドとして知られていた)の取締役
   取締役会長、ヴィクトル・メドヴェドチュクの義理の息子
   メドヴェドチュクは親クレムリン派のウクライナ政治家
   ロシアのプーチン大統領の友人である。
 ・アンドレイ・パトルシェフ
   ロシア安全保障会議 書記ニコライ・パトルシェフの息子
   ニコライ・パトルシェフは1999年から2008年まで連邦保安庁(FSB)長官を務めた。
   ウラジーミル・プーチン大統領の側近であるシロヴィキ派に属している。
   パトルシェフはプーチン大統領に最も近い顧問の一人
   ロシアの国家安全保障問題の立役者の一人で
   パトルシェフは一部のオブザーバーからプーチン大統領の後継者として最も有力な候補者の一人と見られている。
 ・セルゲイ・セルゲーエヴィチ・イワノフ
   ガスプロムバンク取締役
   ダイヤモンド鉱山会社アルロサ社長。
   2001年3月から2007年2月までロシア国防大臣
   2005年11月から2007年2月まで副首相
   2007年2月から2008年5月まで第一副首相を務めたセルゲイ・イワノフの息子
   ソ連のKGBとその後継組織である連邦保安庁に勤務したセルゲイ・イワノフは大将の階級を保持
 ・ルーベン・ヴァルダニャン
   元ロシア安全保障会議議長
   元ウラジーミル・プーチン大統領の顧問
   元トロイカ・ランドリーマットの中核であった投資銀行
      トロイカ・ダイアログ
   の最高経営責任者および株主。
   ウラジーミル・プーチン大統領と親密な関係にあり
      「プーチン大統領の財布」
   というあだ名がつけられた。
   ロシアのウクライナ侵攻後、ヴァルダニャンはロシア軍の航空輸送で主要な役割を果たすロシアの航空貨物会社
      ヴォルガ・ドニエプル
   の取締役を務めていたため、ウクライナ政府の制裁対象者リストに載せられた。
 ・ユーリ・スリュサール
   ユナイテッド・エアクラフト・コーポレーション取締役
   アエロフロート、ロシア航空、ユナイテッド・エアクラフト取締役
 ・アレクサンダー・ヴィノクロフ
   非公開投資会社マラソングループ(ロシア企業)のオーナー
   小売業者マグニットの筆頭株主
   ヴィノクロフは、ロシア連邦外務大臣セルゲイ・ラブロフの娘で1982年ニューヨーク市生まれた
    エカテリーナ・ヴィノクロワ(旧姓ラブロワ)
   と結婚している。
   ヴィノクロフは、ロシア・ウクライナ戦争中にロシア連邦政府に
      多額の収入源
   を提供したとして、2022年3月9日にEU制裁リストに追加された。 

 ロシアのオリガルヒの多くが、英国ロンドンの高級住宅街に住宅を購入しており、同地域は「テムズ川沿いのモスクワ」や「ロンドングラード」とも呼ばれている。
 ユージン・シュヴィドラー、アレクサンダー・ナスター、コンスタンチン・カガロフスキー、デイヴィッド・ウィルコウスキー、アブラム・レズニコフなど、中にはロンドンに永住権を取得した外国人もいる。
 ロマン・アブラモビッチはロンドンのケンジントン・パレス・ガーデンズ16番地、寝室15室の邸宅を1億2000万ポンドで購入した。
 ミハイル・フリドマンは2016年にロンドンのアスローン・ハウスを主な住居として改修した。

 ロマン・アブラモビッチは2003年にイングランドのサッカークラブ、チェルシーFCを買収し、選手の給与に記録的な額を費やした。
 アレクサンダー・マムートは2011年にウォーターストーンズ書店チェーンを5300万ポンドで買収した。
 その後、1億ポンドを投資した。
 同社のマネージングディレクター、ジェームズ・ドーントによると、この介入によりウォーターストーンズは救われ、2016年には2008年以来初の年間利益を上げることができた。
 彼は、ロシアの所有権が継続していたら、2022年にチェーンにとって「壊滅的」だっただろうと述べた。

    
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2024年10月20日

恐怖指数(きょうふしすう)

 シカゴ・オプション取引所(CBOE)が算出・公表しているS&P500を対象とするオプション取引の
   ボラティリティー・インデックス(VIX指数:Volatility Index)
のこと。
 相場に対する先行きの警戒感といった投資家の心理を反映するため、通称「恐怖指数」と呼ばれている。
 通常は10〜20の間で推移し、20を超えると強い警戒感を示すとされている。
 日本の「日経平均ボラティリティー・インデックス(VI)」、ドイツの「ドイツDAXボラティリティー指数(VDAX)」などの指数もVIX指数同様に恐怖指数といわれています。

     
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2024年10月15日

ルシュトゥニ家(Rshtuni) ルシュトゥニク地方を統治した古いアルメニア貴族の家系

ルシュトゥニ家(Rshtuni Rashduni, Rshdouni, Reshdouni, Rashdouni, Rachdouni, Rachdoni, Rshduni, and Rushdoony)
 アルメニア高原を中心とする鉄器時代のウラルトゥ王国の
   ルサス1世(在位:紀元前735年 - 紀元前714年)
の子孫とされる、ルシュトゥニク地方を統治した古いアルメニア貴族の家系である。
 この家系で最初の人物として記録があるのは、およそ330年ごろのマナジール・ルシュトゥニで、ゾラの兄弟である。
 335年と350年にアルメニア王 ティランに対して、
   ヴァチェ・アルツルニ王子
とともにゾラは反乱を起こした。
 王は2つの家族の絶滅を命じたが
   サヴァスプ・アルツルニ
   タジャト・ルシュトゥニ
が生き残った。
 後者のタジャトは、370年から380年の間に記録されているガレギン・ルシュトゥニの父親にあたる。

 アルタク・ルシュトゥニは445年に記録されており、この一族は、ルシュトゥニクの地域と、ペルシアに対するアルメニアの反乱でブズヌニ一族の絶滅後にアルシャクニスから得たブズヌニクを統治している。
 ルシュトゥニ族は主にビザンチン帝国に対してササン朝ペルシア人を支援した。

 7世紀初頭のこの一族の最も有名な人物であり指導者は、ビザンチン帝国とアラブの野望の間でアルメニアの存続を確保するという困難な任務を担い 638年から655年までアルメニアのマルズバン(軍司令官)
   テオドロス・ルシュトゥニ
である。
 ササン朝の崩壊後、642年にイスラム教徒によるアルメニアへの侵攻が始まった。
 テオドロスは最終的にカリフによってダマスカスに追放された。
 テオドロスの追放後、この一族は次第に重要性を失い、アルツルニ家の家臣となった。
 656年にマミコニアン家にブズヌニクの世襲領地を奪われ経済基盤が喪失した。
 ヴァルト・ルシュトゥニは705年に確認されたこの一族の最後の一族となった。

    
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ブレークイーブンレート(Break Even Inflation rate BEI) 

ブレークイーブンレート(Break Even Inflation rate BEI)
 市場が推測する期待インフレ率を示す指標のこと。
 物価連動国債の売買参加者が予測する今後最大10年間(物価連動国債の残存期間次第で10年未満になる場合がある)における
   年平均物価上昇率
を示す。

 ここでの物価変動はコアCPIと呼ばれる「全国消費者物価指数(生鮮食品を除く総合指数)」を基準としている。
 物価連動国債の利回りを実質金利と呼び
   実質金利と長期金利(長期固定利付国債利回り)
の間には理論的に「期待インフレ率≒長期金利−実質金利」という関係が成立する。実質金利は物価連動国債の市場価格から計算できるので、同年限の長期金利と対比することにより、期待インフレ率を逆算推計することが可能となっている。

 ただし、実質金利に対応する物価連動国債の市場価格は、期待インフレ率以外の要因として
   需給関係や流動性
などのリスクプレミアムの影響を少なからず受けるとの考え方が通説となっている。
 各国の中央銀行は、ブレークイーブンインフレ率の変動を把握し、予想インフレ率の目標値を定めて金融政策を行うことが多い。
 
・ブレークイーブンポイント(BEP)は企業が損益分岐点とも呼ばれ、総収入と総費用が一致する販売量や販売価格を指す。
・ブレークイーブンデフォルト率はデフォルト損失と獲得スプレッドが等しくなるデフォルト率として算出される。




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2024年09月25日

清仏戦争(中法战争 中法戰爭 Chiến tranh Pháp-Thanh  Guerre franco-chinoise)

清仏戦争(中法战争 中法戰爭 Chiến tranh Pháp-Thanh  Guerre franco-chinoise)
 1884年8月と1885年4月にかけて起きた
   ベトナム(越南)
の領有を巡るフランスと清との間の戦争のこと。
 フランスがベトナムの領土領有を達成し植民地としたためフランスの勝利と考えられている。
 ただ、士気旺盛なチワン族中心の軍閥「黒旗軍」との戦いでは軽視できない損害を被った。

 ベトナム(阮朝)に対するフランスの領土的野心は1840年代から始まった。
 コーチシナ戦争1858年-1862年)で、フランスは阮朝が南部に設置していた幾つかの行政区を武力併合した。
 それらを統合して仏領コーチシナを形成、東南アジア進出の拠点としていた。
 その後、フランス政府の探検団は雲南からベトナム北部を結ぶ紅河沿いの陸路を開拓して
   コーチシナ(仏)−トンキン(阮朝)−清国南部
の間の通商路整備を計画したが、北ベトナムと清国南部の国境地帯には清帝国と対立する
   劉永福
の軍閥・黒旗軍が法外な通行料を要求、フランス政府の計画は頓挫した。

 フランスが北ベトナム侵略に突入したのは、1881年末、現地のフランス商人に対するベトナムの反発を調査するように命じられた海軍士官
   アンリ・リビエール
は、小規模の軍勢を連れてハノイ(河内)に進み、そこで上官命令を無視して独断で阮朝軍のハノイ砦を占領したことに始まる。
 ハノイ砦は程無く阮朝軍に返還されたが、リビエールの占領行為は阮朝とその庇護者である清朝に警戒感を与えた。
 しかし、阮朝は弱体であり、フランス軍を押しのける力はなかった。

 崩壊しつつあった阮朝軍に代わってフランスに黒旗軍が対峙した。
 1873年、黒旗軍はコーチシナ駐屯軍の士官
   フランシス・ガルニエ
はリビエールと同じ様に上官命令を無視して北ベトナムに兵を向け、ハノイ砦で黒旗軍の部隊に襲撃され壊滅した。
 この戦いでガルニエも戦死し、フランスはベトナムでの敗北を隠蔽しよう情報工作した。

 阮朝は宗主国である清朝に支援を要請しため、庇護国に進出するフランスに不快感を抱いていた清朝は表面上敵対していた黒旗軍に武器や資金を援助した。
 黒旗軍によるトンキン(東京)での反フランスの戦いを後援し、フランスのベトナム進出に対して警告した。
 1882年、雲南省など南部で主に動員された清帝国の遠征軍がベトナムに入り、ランソン(諒山)などトンキンの重要拠点に次々と駐屯を開始した。

 フランス政府の代表として清国に滞在していた駐在公使
   フレデリック・ブレー
は、1882年11月と12月に阮朝には無断で
   李鴻章
と交渉してトンキンを仏清で二分する協定を結ぼうと奔走した。
 一方のリビエールはブレーの交渉を弱腰と考え、1883年に黒旗軍・清軍・阮朝軍との決戦を行うべく520人の兵士を連れて進撃を再開した。
 3月、「ナムディン砦の戦い」で200人の敵兵を倒して勝利したことで、リビエールは装備差によるフランス軍の戦力優位を確信した。
 この勝利に続いて敵軍の攻勢によってハノイ砦近郊で発生した
   Gia Cucの戦い
にも勝利した。
 リビエールの行動のタイミングは完璧で、ナムディン(南定)砦占領という懲罰を覚悟した行為を行った直後、フランス本国で
   植民地拡大を新たな外交政策
に据える
   ジュール・フェリー政権
が成立した。
 フェリー政権はブレーの講和案を強く批判、ブレーを公使から解任した。
 また、リビエールの軍事的独断を英雄的行為として賞賛した。

 1883年4月、清朝軍の
   唐景ッ将軍
は士気の低い阮朝軍では不利と主張して、劉永福を説得して黒旗軍による攻勢を計画した。
 1883年5月10日、3,000名の黒旗軍がフランス軍を攻撃した。
 5月19日に両軍はハノイ近郊のコウザイ地区で衝突(コウザイの戦い)した。
 550人のフランス兵はコウザイ地区に掛かる橋に陣地を築いていた黒旗軍に反撃を受け、指揮官リビエールが戦死して敗走した。
 リビエールの独断的な軍事行動はジュール・フェリー政権の支持を得ていたため、直ちにフランス軍の大規模増派が開始された。
 その後、直接清帝国を巻き込む全面戦争に発展した。
 
 1883年8月20日、フランス軍の遠征隊指揮官となった
   アメデ・クールベ提督
の遠征軍がベトナムに上陸したうえ、戦火を交えて阮朝軍に多大な損害を与えた。
 フランス軍の本格侵攻を前に、嗣徳帝の死で混乱していた阮朝は
   癸未条約
の締結を了承、事実上フランスに降伏した(トゥアンエンの戦い)。

 軍事的勝利の勢いに乗ったフランス軍はダイ川に展開する劉永福の黒旗軍に攻勢を仕掛けて
   フーホアイの戦い
   パランの戦い
であ一定の損害を与えたが、激しい抵抗を受けていた。
 二度の大攻勢でもダイ川から黒旗軍を後退させることができなかった。
 欧州諸国では「フランス軍苦戦」との悪評が広がった。

 こうした醜聞の広がりに焦ったフランス政府は1883年9月に攻勢失敗を理由に陸戦司令官を解任した。
 結局、黒旗軍も天候の悪化でダイ川が氾濫したため、ソンタイ(山西)川付近の陣地へ後退した。

 フランスは年末に黒旗軍を壊滅させるべく大攻勢を計画し、黒旗軍の後ろ盾である清国に対して
   単独講和
を打診し始めた。
 その一方で他の欧州主要国にもイギリスが工作したアヘン戦争時と同様に参戦を促して回った。
 しかし、清朝政府は駐仏公使の
   曾紀澤
から「フランスは全面戦争に踏み切る勇気がない」との報告を受けた。
 直後、フランスの駐清公使と李鴻章が行っていた交渉を打ち切った。
 フランス政府は打開策を構築するべくパリの曾紀澤公使と
   ポール=アルマン・シャルメル=ラクール外務大臣
の会談を行わせたものの外交的進展はなかった。
 
 フランス政府が戦況悪化に焦る中、清朝は前線から撤兵を拒否した。
 清では攘夷運動が各地で発生した。
 アヘン戦争時に焦土化が著しかっった広東省では特に攘夷運が激しくなり広州などでフランスのみならず
   欧州商人全体への襲撃
が発生したこともあり、各国が自国住民保護という名目で将兵と軍艦を派遣した。

 清帝国との直接戦争を予期したフランスはドイツ政府に清帝国から依頼されていた軍艦
   鎮遠・定遠
の建造を遅らせるように要請した。
 また、前線ではトンキンデルタで幾つかの新たな拠点を確保して勢力を拡大させた。
 黒旗軍との戦闘がいずれ清朝とも戦うことになると予想した。
 また、早期にトンキン全土を併合すれば既成事実的に相手方が領有を認めるだろうと判断した。

 トンキンでの新たな攻勢では
   クールベ提督
を総司令官に据えた。
 1883年12月に1万を越す大軍を揃えて、ソンタイ(山西)川に向かって攻撃を開始した。
 ソンタイ川の戦いはそれまでの戦いで最大の激戦となった。
 清軍やベトナム人兵士は余り戦いの趨勢に関与することはなく、黒旗軍の3,000人が主力として戦った。

 12月14日にフランス軍の攻勢を一旦は撃退したものの黒旗軍がクールベ軍の追撃して壊滅させるのに失敗した。
 途中踏みとどまり、配送軍の体勢を立て直したクールベは、大砲による援護を行いながら12月16日にソンタイ川へ二度目の突撃を敢行した。
 同日午後5時、フランス軍外人部隊と海兵部隊の一部がソンタイ川の防衛線を突破して市内に突入した。
 黒旗軍を率いる劉永福は残存軍を収容しながらソンタイ川後方へと撤退した。

 フランス軍が数百人の死傷者を出したが、一方の黒旗軍は半数近い兵士を失った。
 清軍とベトナム軍が加わればフランス軍を上回る数であったが戦いに加わらなかった事から劉永福は
   両国の捨駒
にされたと憤慨し、以降の戦いには距離をおいて積極的に関わらなくなった。

 1884年3月、フランス軍は総戦力を2個旅団に増強し
   シャルル・テオドール・ミロー将軍
をアメデ・クールベに代わる新たな総司令官にして事態の好転を図った。
 第1旅団はセネガル総督の
   ルイ・ブリエール・ド・リール少将
第2旅団はアルジェリアのイスラム教徒の反乱を鎮圧した
   オスカル・ド・ネグリエ少将
が旅団長を務めた。
 フランス軍は作戦目標を清国広西軍が守備するバクニン(北寧)に定めて攻撃を再開した(バクニンの戦い)。
 今回の攻撃目標は清軍が主体だったが、士気の低い広西軍(黒旗軍が主体)は形だけの抵抗で撤退した。
 両軍合わせて3万人(フランス軍1万、清軍2万)の大会戦であったが、両者の被害は僅かに100人程度に終わった。
 黒旗軍が積極的に参加せず、戦力を温存していたためフランス軍のバクニン占領を容易にした。
 ミロー将軍はバクニンに残された幾つかのドイツ・クルップ製の大砲を接収した。

 清軍がフランス軍との戦闘で成果を出さなかったため対外強硬派の
   張之洞
らの力が落ちた。
 フランス軍によってフンホア(興化)とタイグエン(太原)が攻め落とされ、李鴻章ら和平派が力を持ち始めた。
 清の西太后は天津で李鴻章に
   司令官代理フルニエ
との交渉を再開する様に命じた。
 1884年5月11日、清軍の撤退・トンキン分割・貿易路の確定などを取り決めた
   天津停戦協定(李・フルニエ協定)
が結ばれた。
 清国はフランスによるコーチシナ・トンキンの植民地化も追認したうえ、各地にフランス軍が駐屯することを黙認した。
 しかし、この停戦協定には不備があり、清軍の撤退時期が明確には記載されていなかった。

 フランスは植民地化を加速すべく、清軍の即時撤退を要求したものの、清は条約の履行次第であると拒絶した。
 撤兵問題で両国が対立、清朝では戦争再開を主張する強硬派政治家達だけでなく、安徽巡撫であった長兄の翁同書が曽国藩・李鴻章ららに弾劾された私怨を持つ
   翁同龢
らが加わって李鴻章の解任を要求し、更に密かに軍勢を前線に移動させた。
 6月6日、フランス公使ユール・パトノートルが阮朝ベトナム代表グエン・ヴァン・トゥオン(阮文祥)と甲申条約(英語版)(パトノートル条約、Patenôtre Treaty)を新たに締結した。

 同時期の6月、フランス軍は清軍がランソンから撤退すると考え、駐屯部隊を差し向けた。
 6月23日、バクレ地方を通過していたフランス軍は通行を妨害する広西軍の分遣部隊と遭遇した。
 フランス軍は清国軍側に最後通牒を突きつけて攻撃を開始した(バクレの戦い、バクレ伏兵事件)。
 反撃を受けてフランス軍は敗走した。
 この事件後、フランス本国では開戦論が高まった。

 フィリー政権は清国に謝罪と賠償金を要求した。
 清国は交渉には同意したものの賠償や謝罪は拒否した。
 両国の対立は深まり交渉は決裂したいため、フランス軍は
   クールベ提督
の艦隊を福州に移動させて、清国海軍の福州船政局への攻撃に備える様に命令した。
 1884年8月5日、フランス海軍は台湾の基隆湾にある石浦湾へ砲撃を行い
   3台の沿岸砲台を破壊
して基隆に海兵部隊を上陸させた。
 その後、劉銘傳指揮の清国軍が来援したために撤退した。
 これにより両国は事実上の戦争状態に突入して清仏戦争が勃発した。

 フランス軍の宣戦布告がないまま武力行使が行われたことで、8月中旬、両国間で続けられていた和平交渉は決裂した。
 22日にフランス軍は
   アメデ・クールベ提督の極東艦隊
に対して福州に集結していた
   清国福建艦隊(張佩綸提督)
との決戦を命令した。
 1884年8月23日、馬江海戦が起きた。
 福建艦隊22隻の内、旗艦の一等巡洋艦「揚武」を含む11隻は西洋式の最新艦艇であった。
 しかし、操船や砲撃術が未熟な清国福建艦隊はフランス海軍13隻の砲撃に晒され約1時間でほとんどが撃沈か大破し、水兵死者数も3,000人を越した。
 一方のフランス側は軽微な損害しか受けなかった。
 戦いの一部始終は中立を宣言していたアメリカ・イギリス両国海軍によって見届けられていた。

 勝ったクールベは福州の海軍工廠に大被害を与えた。
 なお、海軍工廠はフランス海軍人プロスペ・ジケルの技術協力で建設されたもの。
 幾つかの沿岸砲台を破壊した後、戦域を離脱した。
 福建艦隊敗北に対して清朝内では反仏感情が広がった。

 イギリス・ドイツ・アメリカは、対フランスの観点から
   軍事顧問団
を清朝に派遣した。
 
 反仏感情はアヘン戦争で手に入れたイギリス領香港に飛び火した。
 1884年9月、馬江海戦で損傷を受けたフランス艦艇の修理を拒絶する大ストライキが発生した。
 修理工達のストライキは月末には解散させられたが、湾内労働を補助するさまざまな業種がストライキを継続した。
 そのため、正常に修理を行える状況にはなかった。

 英政府が武力鎮圧を行う中、労働者が警官に射殺された。
 このため。10月3日に深刻な大暴動へと発展した。
 英政府は広東省の役人達が背後で暴動を指揮したのではないかと疑った。
 
 馬江海戦の後、勝利の勢いがあったフランス軍は8月5日に清軍に撃退されて失敗した台湾北部の要衝・基隆市占領を再び計画した。
 フランス軍は馬江海戦の勝利と合わせて北部台湾を占領する事で早期に講和を実現しようと考えていた。
 10月1日にフランス海軍の海兵隊1,800名が上陸したため、現地守備隊は基隆市から後方の防衛拠点に撤退した。

 上陸したフランス軍の戦力では住民の反発を抑える軍民統制が弱く、基隆市より先に進むには不安があり、補給面でも兵站線を維持することが出来なかった。
 10月2日、フランス海軍の
   レスペス提督
は戦略的には意味もない沿岸砲撃を経て、水兵600名を基隆市後方の淡水へと差し向けた(淡水の戦い)。
 孫開華将軍の清軍約1,000名が待ち構える中で反撃を受け、戦闘は膠着した。

 1884年末、フランス海軍は、高雄・台南など幾つかの重要な港からの物資陸揚げを阻止すべく海上封鎖した。
 加えて1885年1月に陸上戦力を4,000名に増強させた。
 ただ清国側も兵力を2万5,000名に増強しており、数の優位性を確保した。
 1885年1月から始まったフランス軍の攻勢は基隆市周辺の幾つかの小村を占領したのみに終わった。
 大雨の影響で2月には攻勢は中止された(基隆の戦い)。
 
 台湾戦線が膠着する中、クールベ艦隊は強化を続け、1884年10月時点よりも強大な戦力となっていた。
 1885年2月11日、クールベ艦隊の分隊が台湾封鎖に対抗する清国海軍の
   南洋水師
と交戦(石浦湾海戦)した。
 2月14日の夜にフランス海軍の小型艦艇の奇襲でフリゲート艦「馭遠」1隻を撃沈した。
 この戦果に続いてクールベ艦隊本隊も清国海軍を捕捉したうえ、寧波に近い鎮海港へ逃げ込んだ清国海軍の封鎖を行った。
 後に装甲艦2隻を基幹とした部隊で鎮海港への砲撃を行った(鎮海海戦)が、双方とも損失は僅かで戦果はなかった。

 1885年2月、清の要請を受け、英政府は極東でのフランス海軍入港の拒否を決定した。
 補給港を失ったクールベ艦隊は報復として、地域的な食糧難から社会的混乱を発生させ、飢餓を誘発させるべく揚子江で行われる米輸送を妨害した。
 食糧難を引き起こして講和を促そうとの戦術的な試みたが、米輸送を手数のかかる陸路のみに限らせただけで、効果は薄かった。

 海戦が続く中、フランス陸軍がトンキン戦線で清国軍と黒旗軍への攻撃を繰り返していた。
 トンキン遠征部隊の総司令官
   シャルル・テオドール・ミロー将軍
が病に倒れたため、1884年9月に副官の
   ブリエール・ド・リール将軍
に交代した。
 紅河デルタ付近への大規模な清国軍の攻撃に対処した。

 1884年9月、広西軍の遠征隊がランソンを越えフランス軍の砲艦2隻を奇襲した。
 フランス軍は敵が本格的に集合する前に3,000人の兵士を集め反撃した(ケップ攻勢)。
 白兵戦を含む激しい戦いの末、三派に分けられたフランス軍は各所で広西軍を撃破した。
 敗れた広西軍は、後方のドンソン(東山)に撤退した。

 対するフランス軍もケップ攻勢で得た拠点(ドンソンから2,3マイル)に陣地を築いて広西軍と戦闘を続けた。
 11月19日に黒旗軍2,000名が移動中のフランス軍700名を攻撃した(Yu Ocの戦い)が撃退された。
 更に広東省に拠点を持つ清国の民兵部隊を紅河デルタから追い払うことにも成功し、デルタ東方の掌握を達成した。
 平行してアンナン(安南)のベトナム人民兵部隊の掃討も完了したため、フランス軍は紅河デルタ占領へと駒を進めた。

 1884年12月、フランス議会はトンキンでの陸軍作戦を巡って紛糾した。
 陸相は紅河デルタの確保を主張したが、強硬派はトンキン全土での総攻撃を主張した。
 議論は強硬派の押す陸相が新たに着任したことで決着し、トンキン最大の都市ランソンに向けて総攻撃を開始した。

 前線基地を出撃したフランス軍は1885年1月3日から4日にかけての攻撃でNui Bopの広西軍守備隊を破った。
 また、ランソン攻撃の前哨戦に勝利を収めた(Nui Bopの戦い)。

 ランソンに対する攻撃は1ヶ月の準備を要した。
 1885年2月3日、フランス軍は7,200人の正規軍と4,500人の現地兵を引き連れて攻撃を再開した。
 清国軍20,000人が迎え撃った。
 ただ、フランス軍は装備運搬に難渋、またタイホア(西和)やドンソンでの激しい抵抗をうけた。
 しかし、10日にはランソン周辺部に到達した。
 12日にランソン北部へ進出したため、清国軍はランソンを放棄して撤退した(第一次ランソン攻勢)。
 
 ランソン占領後、フランス軍は、1884年11月に雲南軍と黒旗軍に包囲されたトゥエンクアン(宣光)で苦戦中の守備隊の救援に向かった。
 雲南軍と黒旗軍の包囲攻撃により、守備隊はトンキン人の動員兵と共に防戦した。
 ただ、ランソン占領時点で兵員の3分の1が死傷し戦闘力は大きく低下していた。

 フランス軍第1旅団はトゥエンクアンに進撃を始めた。
 ホアモクに築かれた包囲側の防衛陣地を攻撃した(ホアモクの戦い)。
 1885年3月2日、反撃にあって数百人の死傷者を出したが、やがてトゥエンクアンへの進路を開き、包囲下の友軍を救う戦いを開始した。
 程なくして雲南軍と黒旗軍は包囲を諦めて撤退した(トゥエンクアン包囲戦)。

 苦戦の末に友軍を救ったこの戦いでフランス軍の士気を大いに高めた。
 ブリエール将軍は「フランスを救った」と国内で賞賛された。

 トゥエンクアンに向かう前、ブリエールはランソンから更に北進した。
 ランソン攻勢で致命的な損害を受けていた広西軍に追撃を行う様に前線司令官へ命令した。
 フランス軍第2旅団は食料と弾薬を補給した後に命令に従って進撃を再開した。
 2月23日にドンダンで広西軍を破って遂にトンキンから清国本土へ押し退けた(ドンダンの戦い)。
 加えて清国側の国境拠点の幾つかを攻撃した。
 しかし、火器弾薬類を消耗し、兵站線が維持できていなかったため、これ以上戦果を拡大する力は第2旅団には存在せず、ランソンに帰還した。

 ランソン攻勢以来、戦勝が続いていたフランス軍もここで一旦手詰まりとなった。
 第2旅団はランソンで広西軍の反撃に対処する事に忙殺された。
 同じ時に第1旅団は雲南軍の攻撃にあたっていた。

 広西軍と雲南軍は数週間に亘って攻勢に転じられる状態に無かった。
 しかし、フランス軍の2個旅団も広西軍と雲南軍に決定的な敗北を強いれる可能性をそれぞれ持たなかった。
 戦争の膠着に苛立ったフェリー首相は講和を引き出す為にブリエールに第2旅団を清国南部の国境地帯に再突入させるように厳命した。
 ブリエーレは広西省国境から80キロ辺りにまで軍を突出させる作戦計画について状況から結果を推測した。
 しかし、3月17日にパリへ打電された結論は「戦力不足で不可能」というものだった。

 フェリー政権は更に大規模な増援をトンキンへ送り込む決断を下した。
 これで取りあえず手詰まりの状態からは脱する事ができると見られていた。
 なお、増援の殆どは第1旅団に向けられ、第2旅団がランソンを守備する間に前線に立ちふさがる雲南軍の拠点へ攻撃を敢行した(バンボーの戦い)。
 3月23日にフランス軍はバンボーの幾つかの拠点を占領した。
 しかし、翌日に始まった雲南軍の猛攻に晒され、損害を出したフランス軍はバンボー占領を諦めて退却した。
 フランス軍は戦線が破綻して薄くなった防衛ラインを突破されないため、穴を開けない様に撤退できた。
 後方で再編成を受けたフランス兵達は長引く戦いに怯えつつあった。
 敗北したフランス兵は士気を低下させており、これは後に起こる失態への予兆であった。

 第1旅団が後退したランソンは雲南軍と歩調を合わせた広西軍の包囲攻撃を受けた。
 第2旅団は少ない手勢で攻撃に耐え、広西軍に反撃してランソン奪還を諦めさせた。
 雲南軍の勝利に広西軍が乗じる事を防いだ第2旅団は広西軍を追撃して国境攻撃を再開しようとした。
 しかし、その途中で前線司令官ネグリエが負傷したことで指揮系統が乱れて麻痺してしまった。
 指揮権を引き継いだ副官ポール=ギュスターヴ・エルバンジェ将軍は普仏戦争で名をあげた人物だった。
 しかし、前線司令官としては能力を発揮できなかった。

 第1旅団は追撃を行わず、第2旅団の敗北を埋め合わせて余りある勝利の機会を取り逃した。
 そればかりかバンボーの戦いでの敗北による兵士の士気低下や、広西軍や雲南軍の反撃などで
   平静な判断力
を失ったフランス軍はランソンを自ら捨てて敗走した(第二次ランソン攻勢)。
 エルバンジェも戦死した。
 ただ、実際には広西軍は反撃を行える状態になく、雲南軍もランソンの戦いに参戦する可能性は無かった。

 フランス軍内でも反対意見は存在したが、現実に反映されることはなかった。
 一向に始まる気配のない追撃の恐怖に、フランス軍部隊は最低限の物資しか持ち出さず、我先に逃げ出した。
 その為、体制を立て直した広西軍の
   潘鼎新
が「フランス軍敗走」という思いがけない報告にランソンを再占領した。
 そこにはフランス製の膨大な物資や武器が残されたままであった。
 命からがら後方へ逃げ去ったフランス兵達は恐怖や疲労から極度に士気を落とした。
 広西軍もまた大きな損害を蒙っていたので追撃は行われなかった。

 その代わりに追い討ちを掛けるように黒旗軍と雲南軍が西方でフランス軍の守備隊を撃破して敗走させ(フー・ラム・タオの戦い)、フランス軍の恐慌状態に拍車を掛けた。

 第二次ランソン攻勢でのフランス軍の醜態は戦いの結果ではなく、存在しない追撃に自ら怯えた結果であった。
 従って敗走の後ですら依然としてフランス軍は一定の優位を保っていた。
 ただ、平静さを失った前線からの報告はブリエール将軍ら後方司令部にも恐怖を伝染させた。

 3月28日、フランス軍司令部は本国に敗戦の可能性を通達し、軍の電報にパリのフランス政府は大きな衝撃を受けた。報告を受けたフェリー首相が速やかに反撃に転じる様に命令した。
 ブリエールも「状況が安定化する可能性もある」と報告を修正した。
 しかし前線と同じく厭戦感情が沸き始めたフランス本国で、この電報の内容は余りにも衝撃的だった。

 最初の電報が公に公開されると直ぐに議会で戦争継続の是非を問う議論が紛糾した。
 戦争の泥沼化に対してフェリー政権への不信任案が提出される事態に発展した。
 3月30日にジュール・フェリーは首相を解任された。

 その後、彼は二度と同職に復帰することはなく、政界でも閑職へと回された。
 トンキン騒動と呼ばれるこの政治問題はフェリーの政治家としての前途を完全に終わらせた。
 
 新たに首相となった
   シャルル・ド・フレシネ
は清国との講和を打診し、穏健派が力を取り戻していた清国側も了承した。清
 国側は開戦前に結ばれた天津休戦条約を履行し、フランス側はバクレ伏兵事件の賠償請求を取り下げるなど戦後の関係改善を約束した。

 停戦合意に至る直前、フランスは台湾戦線では優勢だった。
 3月、台湾ではフランス軍の駐屯部隊が基隆の包囲を破り台北に退却させた(基隆の戦い)。
 もう一つは海軍の攻勢で、澎湖諸島を占領下においていた(澎湖諸島海戦)。

 ただ、台湾全土を制圧するには至らなかった。
 戦争は両者手詰まりの状態でなし崩し的に終戦を迎える事になった。

 4月4日に停戦合意が結ばれると速やかに清国軍は条約を履行して軍を撤退させた。
 また、黒旗軍も清国本土へ撤収した。

 フランス軍も台湾島や周辺の島々などベトナム以外の地域から撤退して、海軍を引き上げさせた。
 6月11日、フランス側の総司令官であったクールベ提督は終戦の直後に病死した。

 1885年6月9日に締結された講和条約である
   天津条約(李・パトノール条約)
では、フランスが北ベトナムを獲得、黒旗軍の解散により通商路を確保した。
 終戦から暫くはベトナム系の叛乱鎮圧を要したものの、1887年にはカンボジアやと南北ベトナムを合わせて仏領インドシナが成立。後にラオスなど他の植民地を取り込んでいった(仏泰戦争)。
 清仏戦争でのフランス軍の失態は大いにフランス共和国の帝国主義に水を差し、国民に失望感を蔓延させた。

 「ランソンからの敗走」によって既に政治家としての権威を剥奪されたフェリーだけでなく、側近として彼の後任となったアンリ・ブリッソンも1885年12月に行われた「トンキン論争」で辛辣な批判を浴び、短期間で辞任に追い込まれた。
 「トンキン論争」でクレマンソーら植民地拡大に反対する政治家達はトンキンからの完全撤退すら要求して、議会で行われた撤兵案の議決は反対273票、賛成270票という僅差で退けられた。
 もう数人が賛成票に投じていたら、ベトナムは独立を恢復していた可能性があった。

 清仏戦争の苦戦はフランス国内で植民地拡大を主張する勢力の信用を失わせた。
 マダガスカル島など幾つかの占領計画が先延ばしにされた。フランスが戦争を再開するのは1890年頃に入ってからになる。

 清国では清仏戦争は、旧態依然の君主制を取る清朝の歴史的な役割を終わらせる切っ掛けとなった。
 戦後、西太后と官僚達は海軍の近代化と指揮権の統合を進めたが、清朝内の腐敗によって改革は進まなかった。
 また、日清戦争にも敗れるに至った。
天 
 津条約により清朝はフランスに賠償金を支払わなくても済んだが、戦時に10億両以上を戦費で消耗しており、約2億両の債務を抱えた。
 馬江海戦に際して福建艦隊の敗北は清朝の進めてきた近代化政策(洋務運動)を後退させた。

 清仏戦争の教訓の全てが清帝国の前近代的な指揮系統や装備を示していた。
 主要艦隊の一部は戦いに加わらなかった。
 これを日本に対する備えにしたという帝国上層部の弁明は全く説得力を持たなかった。
 虎の子の海軍部隊を出し惜しんだことが、フランス軍を有利にした。
  
 フランスと清の衝突が高まりつつあった1883年12月に、フランスの台湾進出を看過できない
日本政府はフランス語に堪能な外交官
   原敬
を天津に派遣した。
 原はフランス領事リヒテル・リューベルと連絡を取りつつ事態を探り、『清仏事件略誌』を記して日本政府に基隆攻略やフランスの海上封鎖など事件の動静を報告した。

 1884年10月には駐清公使
   榎本武揚
が天津で総理衙門総裁の慶郡王と会談した。
 日本は調停役として和平介入を試みたが清国側の条件が折り合わず成功しなかった。

 清国軍や黒旗軍の攻撃が深まるにつれ、フランス政府は不平等条約の改定などの条件を出して提携の打診を行った。
 しかし、日本側は参戦には後ろ向きだった。

 戦争後半の1884年12月4日に起こった
   甲申政変
をきっかけに日本国内で対中感情が悪化して参戦論が高まるが、逆にフランスの方はランソン攻勢の辺りになると日本の参戦に興味を失い、立ち消えになった。
 なお、時の外務卿井上馨は参戦に意欲を示したが、伊藤博文や西郷従道らが反対していた。

  
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2024年09月09日

シャヘド136(HESA Shahed 136) 

シャヘド136(HESA Shahed 136) 
 イランのシャヘド航空産業が設計及び製造を行っている徘徊型で自律式のスウォーム(群れ)行動する推進式ドローンである。
 基本的に、遠距離から地上の目標を攻撃するために設計された。
 この比較的安価なドローンは5機以上が格納できる
   発射ラック
から複数発射され、対空防御をすり抜けて、地上の標的を攻撃し、攻撃に対して相手側の
   防空機材を消費
させるように設計された。 
 この機体には、中央にブレンデッドウィング状に繋がる胴体と、翼端に
   安定板兼ラダー
を備えたクリップトデルタ翼を備えている。
 機首部分には推定30 - 50 kgの弾頭を搭載する事が可能と見られる。
 エンジンは胴体後部に搭載され、推進式に配置された2翔プロペラを駆動する方式のもの。
 全長3.5 m、翼幅2.5 mで、185 km/h以上で飛行し、重量は約200 kgとされる。
 航続距離は1,800から2,500 kmと推定されている。

 米陸軍の世界的な機材ガイドでは、シャヘド136の設計は
   空中偵察機能
のサポートが可能であることが記載されているものの、ロシアがゲラン2ドローンとして運用しているがカメラの記載はない。
  
 発射台とドローン全体の可搬性の良さから、ユニット全体は各種軍用及び民間用トラックの荷台に取り付けることができる[12]。
機体はやや上むきだがほぼ水平に発射される。
 発射時から直後の数秒は、
   ロケット補助推進離陸(RATO)
で初期の加速を行い、投棄されたあとはイランのMado社製
   MD-550 水平対向4気筒2ストロークガソリンエンジン
    (エンジンはドイツのリンバッハ・フルーグモトレーン社製L550E)
をコピーしたもので、HESA・アバビル3などのイラン製ドローンでも使用して飛行する。
 
 ウクライナの専門家は、シャヘド136には日米欧から30社以上の製品が使用されていると分析している。
 とりわけアメリカ企業のアルテラ製コンピュータープロセッサ
   アナログ・デバイセズ製無線モジュール
やマイクロチップ・テクノロジー製LDOチップが使用されているものと考えている。

 ウクライナ軍情報局が作成したリストによると、カメラや汎用リレー、サーボモーターなどに日本の電気機器メーカーの部品が使用されているとされる。
 2022年のロシアによるウクライナ侵攻で鹵獲されたドローンを調査した結果、シャヘド136の電子装備はen:Texas Instruments TMS320プロセッサーや、イギリス発祥の企業である
   TI Fluid Systems
の関連企業がポーランドで製造した燃料ポンプなどの米国およびEU製の部品が使用されていることが明らかになった。
シャヘド131との混同
 本機はより小型のシャヘド131とは外見が酷似している。
 主な違いはシャヘド131では上向きだけの翼端安定板が、シャヘド136では翼端から上下に伸びている。
 シャヘド131には、シャヘド136にも搭載されている
   単純な慣性航法装置(INS)
と、ある程度の電子防護が施されたGPSが搭載されている。
 
 ロシア軍ではゲラン2の名称で同機が使用されている。
 ワシントン・ポスト紙はCNA Strategy, Policy, Plans and Programs Centerのロシアの軍事システムの専門家が、標準的なイラン製シャヘド136に対してゲラン2では
   追加の操縦方法が使用されている可能性
を示唆していると報じた。
 タイムズ・オブ・イスラエル紙の特派員は、民生部品で作られたイラン製の航法システムが、
   ロシア製の飛行制御ユニットとマイクロプロセッサー
に置き換えられ、米国の民間グレードのGPSをロシアの
   GLONASS GNSSシステム
を使用することで徘徊兵器の能力を向上させている。

 また、ゲラン2は、イラン製弾薬ではなく、ロシアの軍需品に置き換えられている。
 ただ、カメラや近距離センサーには言及されていない。
 2022年11月19日に、ワシントン・ポスト紙は米国の情報機関が、ロシアとイランがロシアによる軍需品の製造に関して合意し、イランが主要部品を輸出しているとの概要説明を行っていると報じた。

 
シャヘド136
 種類 徘徊型兵器
 原開発国 イラン
 開発者 シャヘハド航空産業
 製造業者 HESA
 値段 不明、1機あたり$10,000から€50,000と推定
 製造数 不明

 構造能力等
  重量 200 kg
  全長 3.5 m
  炸薬量 30 - 50 kg
  エンジン MD-550 ピストンエンジン

  翼幅 2.5 m
  誘導方式 自律型
  GLONASS(改良されたロシア版)
 
 発射
  プラットフォーム
  ロケット補助推進離陸
 
  
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2024年08月29日

ジキル島クラブ(Jekyll Island Club)

ジキル島クラブ(Jekyll Island Club)
 ジョージア州の大西洋岸にあるジェキル島にあった私設クラブのこと。
 狩猟とレクリエーションを目的とする法人のクラブの会員が1886年に
   ジョン・ユージン・デュ・ビニョン
から島を12万5000ドル(2017年の価値で約310万ドル)で購入した際に
   ジキル島クラブ(Jekyll Island Club)
を設立した。
 特徴的な小塔のあるジェキル島クラブハウスのオリジナルデザインは、1888年1月に完成した。
 このクラブは20世紀初頭まで繁栄し、会員にはモルガン家、ロックフェラー家、ヴァンダービルト家など、世界有数の富豪一族が名を連ねた。 
 クラブは、第二次世界大戦の混乱により、1942年のシーズン末に閉鎖された。

 1947年、芝生とコテージの維持管理のためにスタッフに資金を提供した5年後、ジョージア州による収用手続き中に、島はクラブの残りの会員から67万5000ドル(2017年の価値で約740万ドル)で購入された。
 州はクラブをリゾートとして運営しようとしたが、これは経済的に成功せず、1971年までに施設全体が閉鎖された。
 この複合施設は1978年に歴史的建造物に指定された。
 1985年に改装され、高級リゾートホテルとして再オープンした。
 ジェキルアイランドクラブホテルは、全米歴史保存トラストの公式プログラムであるヒストリックホテルズオブアメリカの会員。

 ジキル島のプランテーション時代の終わりに
   ニュートン・フィニー
は義理の兄弟であるデュビニョンに、島を買収して冬のリゾート地として北部のビジネスマンに売ることを提案した。
 ニューヨークの銀行家が島全体の購入に協力した。
 1885 年までにデュビニョンがジキル島の唯一の所有者になりました。
1885年、フィニーとニューヨークの仲間オリバー・K・キングは一団の男たちを集め、グリン郡裁判所に請願し、1885年12月9日に「ジェキル島クラブ」として法人化された。彼らはジェキル島クラブの株100株を50人に1株600ドル(2017年の価値で約15,000ドル)で売ることに同意した。
 フィニーは株を売るのに苦労しなかった。
 最初の7株のうち6株は、憲章請願書に署名した
   フィニー、デュビニョン、キング、リチャード・L・オグデン、ウィリアム・B・ドウルフ、チャールズ・L・シュラッター
の手に渡った。
 フィニーは全部で53人をクラブに加入させることができたが、その中には
   マーシャル・フィールド
   ジョン・ピアポント・モーガン
   ジョセフ・ピューリッツァー
   ウィリアム・K・ヴァンダービルト
といった有名な実業家も含まれていた。
 1886 年 2 月 17 日、フィニーはデュビニョンと正式な契約を結び、デュビニョンがジェキル島をフィニーのジェキル島クラブに 125,000 ドルで売却した。
 1886 年 4 月 1 日、ニューヨークで会議が開催され、クラブの規約と細則が作成され、役員が指名された。
 初代会長はロイド・アスピンウォール、副会長はヘンリー・エリアス・ハウランド判事、会計はフランクリン・M・ケッチャム、書記はリチャード・L・オグデンであった。
 これらの人物は、未開発の土地をアメリカの裕福な上流階級の社交クラブに変えるという困難な課題に直面した。
 ロイド・アスピンウォールはクラブ会長をわずか 5 か月務めた後、突然亡くなった。
 その後、ヘンリー・ハウランドがクラブ会長の職を引き継いだ。

 クラブを軌道に乗せるために委員会が結成され、シカゴの
   チャールズ・A・アレクサンダー
がクラブハウスの設計に選ばれた。
 また、有名な造園家であるホレス・ウィリアム・シェイラー・クリーブランドが敷地の設計とレイアウトに選ばれた。
 クラブハウスの建設は 1886 年 8 月中旬に着工され、いくつかの障害を乗り越えて、クラブハウスは 11 月 1 日に完成した。
 1888 年シーズンの執行委員会が 1 月 21 日に到着し、クラブは正式にオープンした。
 クラブ時代、ジキル島では国家的に重要ないくつかの出来事があった。
 その中には、 1915年にAT&T社長のセオドア・N・ベイルがアレクサンダー・グラハム・ベル、トーマス・A・ワトソン、ウッドロウ・ウィルソン大統領に大陸横断電話をかけた事件や、1908年に国家通貨委員会のためのアルドリッチ・ヴリーランド法が策定された事件などがある。
 
 ジェキルアイランドクラブはユニオンクラブやシカゴクラブよりも家族向けのユニークなリゾートであった。
 エリート層の間で絶大な人気を誇り、60年間にわたって非常に排他的な雰囲気を保っていた。
 クラブが発足した当時、狩猟は主要なレクリエーション活動であった。
 島にキジ、七面鳥、ウズラ、シカが豊富に生息するよう、猟場管理人が雇われていましたた。

 会員は全員、毎日何を仕留めたかを報告し、クラブに引き渡すことになっていた。
 クラブハウスのメニューには、野生の獲物が頻繁に登場した。
 クラブの敷地内には、賞品の獲物を剥製にするための剥製屋もあった。

 クラブが成長するにつれ、他のレクリエーションも人気を博した。
 最終的に、ゴルフがクラブの主要スポーツとなった。
 最初のコースはクラブの敷地のすぐ北にあり、その後、1920 年代に海沿いのコースが建設された。
 この歴史的なゴルフ コースの一部は今でもそのまま残っており、プレーすることができる。
 その他の余暇活動としては、馬車の運転、テニス、サイクリングなどがある。
 
 1910 年 11 月、ジキル島で会議が開かれ
   米国の中央銀行制度
を創設するための法案が起草された。
 1907年恐慌の後、米国では銀行改革が大きな課題となっていた。
 国家通貨委員会の委員長であるネルソン アルドリッチ上院議員(共和党-ロードアイランド州) は、ヨーロッパ大陸の銀行制度を研究するために 2 年近く滞在した。
 帰国後、アルドリッチは国内の多くの有力な金融関係者をジキル島に集め、金融政策と銀行制度について議論した。
 この議会で「アルドリッチ プラン」として提出された法案を起草した。
 アルドリッチ プランのアイデアの一部は、後に連邦準備法に取り入れられた。

 1910 年 11 月 22 日の夕方、当時の世界の富の約 4 分の 1 を代表する
   アルドリッチ上院議員
   AP アンドリュース (米国財務省次官)
   ポール ウォーバーグ(クーン ロエブ商会を代表する帰化ドイツ人)
   フランク A. ヴァンダーリップ(ニューヨーク ナショナル シティ銀行頭取)
   ヘンリー P. デイヴィソン( JP モルガンカンパニーのシニア パートナー)
   チャールズ D. ノートン (モルガンが支配するニューヨーク ファースト ナショナル銀行頭取)
   ベンジャミン ストロング(JP モルガンを代表する)
が、ニュージャージー州ホーボーケンを極秘に列車で出発した。

 彼らは苗字ではなくファースト ネーム、つまりコード ネームを使っていたため、誰にも彼らが誰なのかバレることはなかった。
 彼らが米国の科学的な通貨制度を考案し、まとめるまで、彼らを外界から隔離してジキル島に閉じ込めておくと打ち明けた。
 この制度は、現在の連邦準備制度の本当の誕生であり、ポール、フランク、ヘンリーとのジキル島での会議で立てられた秘密計画であった。

 1929 年の大恐慌は、ジキル島に大きな変化をもたらしました。この恐慌は全国の富裕層にも影響を及ぼし、高級クラブの会員になることは贅沢なことになった。
 恐慌が続くにつれ、1930 年代を通して会員数は徐々に減少した。
 クラブの財政状況が悪化したため、執行委員会は 1933 年に新しいレベルのクラブ会員制度を設けることを決定した。
 より手頃なレベルの会員制度である準会員制度は、誰のニーズにも、また財布にも合うように設計された。
 これは、新しい若い人々を引き寄せ、より多くの会員をクラブハウスに呼び戻すための試みであった。
 この新しい会員制度は、短期間ではありましたが、クラブ会員名簿に活気をもたらした。
 第二次世界大戦は、ジェキル島クラブの存続に最後の打撃を与えました。
 クラブは 1942 年シーズンに通常通りオープンしたが、3 月初旬には、クラブの財政状況と戦争による労働状況への負担により、シーズンを早期に終了することが発表された。
 1942 年シーズンは、ジェキル島クラブにとって最後のシーズンとなった。
 1946年にジョージア州が介入し、同州の歳入委員メルビン・E・トンプソンは、ジョージア州の防波堤島の一つを購入し、州立公園として一般に公開したいと考えていた。
 最終的に、1947年6月2日、州は収用命令により、67万5000ドル(2003年のドル換算で約556万3416ドル)で島を購入した。

 クラブは州によって公共リゾートに転換されましたが、財政的に失敗し、1971年に閉鎖された。
 1978年に歴史的建造物に指定され、1985年にラディソン ジェキル アイランド クラブ ホテルとして修復され、再オープンした。
 数年後、ラディソンはホテルの経営を中止し、現在はジェキル アイランド クラブ リゾートとして運営されている。
  
   
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2024年08月24日

シカゴ大火(Great Chicago Fire)

シカゴ大火(Great Chicago Fire)
 1871年10月8日から10日にかけてアメリカのシカゴ市で発生した大火のこと。
 この火事で約300人が死亡し、 17,000以上の建物を含む市内のおよそ3.3平方マイル (9 km 2 )が焼失した。
 また、10万人以上の住民が家を失った。
 火事は市中心部の南西にある地区で発生し、長期間続いた高温、乾燥、強風と、市内で多くみられた木造建築が大火を引き起こした。
 火はシカゴ川の南支流を越えシカゴ中心部の大半を焼失し、その後シカゴ川の本流を越えてニアノースサイドを焼き尽くした。

 被害額 2億2,200万ドル(1,871米ドル)
     (2022年には約54億ドル) 
 この火災は10月8日午後8時30分頃、デコベン通り西137番地の裏の路地に面したオリアリー家の小さな納屋で発生したと言われている。
 納屋の隣の小屋が最初に焼け落ちた建物だった。 
 市当局は火災の原因を特定できなかった。
 ただ、その年の夏の長い干ばつ、南西からの強風、水ポンプシステムの急速な破壊により火災が急速に広がったことで、主に木造の市の建物が広範囲に被害を受けたことが説明できる。
 火災の出火原因については長年にわたりさまざまな憶測が飛び交っている。
 最も有力な説は、オリアリー夫人の牛がランタンを倒したというものだが、納屋の中でギャンブルをしていた男たちがランタンを倒したという説もある。
 さらに、その日中西部で発生した他の火災と関連があったとする憶測もある。
 この火災の拡大は、バルーンフレームと呼ばれる様式で、シカゴが木材を主な建築材料として使用していたことにより助長された。
 火災発生時のシカゴの建物の3分の2以上は完全に木造であり、ほとんどの家屋や建物は燃えやすいタールやシングルの屋根で覆われていた。
 また、市内の歩道や道路の多くも木造であった。
 この問題をさらに悪化させたのは、7月4日から10月9日までシカゴではわずか1インチ(25 mm)の雨しか降らず、火災前には深刻な干ばつ状態が引き起こされ、強い南西風が市の中心部に向かって燃えカスを運ぶのを助けたことがある。

 1871年、シカゴ消防局は185人の消防士とわずか17台の馬に引かせた蒸気ポンプ車で市全体を守っていた。
 消防局の初期対応は迅速だったが、当直員のマティアス・シャッファーのミスにより、消防士たちは当初間違った場所に派遣された。
 火は制御不能なままに拡大していた。
  火災現場付近から発信された警報も、消防当直員がいた裁判所には届かず、消防士たちは前の週に多数の小火災と1件の大規模火災との戦いで疲れきっていた。
 これらの要因が重なり、小さな納屋の火事が大火事に発展した。

 火事が終わった後も、くすぶっている残骸はまだ熱く、被害の調査が完了するまでに何日もかかった。
 最終的に市は、火災が長さ約4マイル(6 km)、平均幅3⁄4マイル(1 km)、2,000エーカー(809 ha)以上の地域を破壊したと判断した。

 フィリップ・H・シェリダン 将軍はシカゴを3度救った。
 1871年10月の大火の際には爆発物を使って火の広がりを食い止め、大火の後も街を守り、最後に1877年の「共産主義者の暴動」の際には1,000マイル(1,600キロ)離れたところから馬で駆けつけ、秩序を回復した。
 シェリダンの部隊は2週間にわたって通りを巡回し、救援物資倉庫を警備し、その他の規則を施行した。
 10月24日、部隊は任務から解かれ、志願兵は召集されて退役した。

 1871年当時のシカゴの人口は約324,000人だったが、そのうち90,000人(人口の約28%)が家を失った。
 120体の遺体が回収されたが、死者数は300人にも上った可能性がある。
 郡検死官は、犠牲者の中には溺死したか焼却されて遺体が残っていない者もいるため、正確な数を数えることは不可能だと推測した。

 大火から20年以上経った1893年の世界コロンビア博覧会は、新たに発明された電球と電力で明るく照らされたことから「白い街」として知られている。
 ガードン・ソルトンストール・ハバードのような事業主や土地投機家は、すぐに街の再建に着手した。
 再建のための最初の木材の積み荷は、最後の建物が消火された日に届けられた。
 22年後の万国博覧会までに、シカゴは2100万人以上の観光客を迎えた。
 パーマー・ハウス・ホテルは、グランドオープンから13日後に火災で全焼した。
 開発業者のポッター・パーマーは融資を受け、元の建物の向かい側にホテルをより高い基準で再建し、「世界初の耐火建築物」と称した。
  
   
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2024年08月16日

コチ家( Koç Family )

コチ家( Koç Family )
 トルコで最も裕福な自力で成功した人物の
   ヴェフビ・コチ
によって設立されたトルコの実業家一族。
 彼の孫であるコチ家の3代目は現在、トルコ最大の企業グループ
   コチ・ホールディング
を経営しており、同社はフォーチュン・グローバル500リストに載っている唯一のトルコ企業である。
 2016年、同家の資産は80億米ドルと推定され、トルコで最も裕福な一族としてランク付けされた。
 ムラト・バルダク​​チによると、彼らの家系は
   ハジュ・バイラム・イ・ヴェリ
にまで遡ることができるという。
  
 ヴェフビ・コチは1901年7月20日にアンカラで生まれ、1996年2月25日にイスタンブールで亡くなった。
 1926年に母方の従兄弟のサドベルクと結婚した。
 幼少の頃から商売を始め、幅広い企業網を築き上げ、 1963年に
   コチ・ホールディングス
を設立し、トルコで最も裕福な人物となった。

 息子のラフミ・ムスタファ・コチと3人の娘、セマハト、セヴギ、スナが跡を継いだ。
・セマハト・セヴィム・コチは1928年アンカラ生まれで、ヴェフビ・コチの長女である。
 イスタンブールのアメリカン・カレッジ・フォー・ガールズを卒業し、その後ドイツのゲーテ・インスティテュートで学んだ。
 1956年から2014年に彼が亡くなるまで
   ヌスレット・アルセル博士
と結婚していた。
 セマハトはコチ・ホールディングおよびコチ財団の取締役を務めていた。
 また、セマハト・アルセル看護教育研究センターの所長も務めていた。
 
・ラフミ・ムスタファ・コチ(1930年アンカラ生まれ)は、イスタンブールのロバート・カレッジを卒業後、米国のジョンズ・ホプキンス大学で学士号を取得した。
 グループ会社のさまざまな管理職を歴任し、1984年に父親が築いたビジネス帝国のリーダーシップを引き継いだ。
 ラフミは
   チグデム・メセレトチオール
と結婚したが、3人の息子が生まれた後に離婚した。
 2003年に長男のムスタファに会長職を譲り、コチ・ホールディングスの名誉会長に就任した。
 
・ムスタファ・ヴェフビ・コチは1960年にイスタンブールで生まれ、ラフミ・コチの長男である。
 彼は2016年1月21日に心臓発作で亡くなった。
 彼はスイスのリセウム・アルピナム・ツオズで教育を受け、1984年に米国のジョージ・ワシントン大学を卒業し、様々な役職を務めた後、この家族の3代目は2003年にコチ・ホールディングスの社長に任命された。
 彼はイズミルの有名なレヴァント家の娘であるキャロライン・ジローと結婚した。
 
・メフメット・オメル・コチは、 1962年3月24日、アンカラでラフミ・コチの次男として生まれた。
 イスタンブールのロバート・カレッジと英国サマセットのミルフィールド・スクールを卒業した。
 オメルはワシントンDCのジョージタウン大学で教育を受け、その後ニューヨークのコロンビア大学で学士号と修士号を取得した。
 コチ・グループ企業でいくつかの役職を務めた後、現在は2016年に亡くなった兄のムスタファの後任としてコチ・ホールディングスの会長を務めている。
 
・アリ・ユルドゥルム・コチ(1967年4月2日、イスタンブール生まれ)は、ラフミ・コチの末息子である。
 ロンドンのハロー校で高校を卒業後、1989年にテキサス州ヒューストンのライス大学で学士号を取得した。
 1997年にハーバード大学で修士号を取得した。
 米国のさまざまな企業やコチ・グループで働いた後、コチ・ホールディングスの情報技術グループの最高経営責任者に就任した。
 最近、ネバハル・デミラーグと結婚した。
 また、トルコのスポーツクラブ、フェネルバフチェSKの会長に選出されている。
 
・セヴギ・コチは1938年にヴェフビ・コチの3番目の子として生まれた。
 彼女はイスタンブールのアメリカン・カレッジ・フォー・ガールズを卒業し、コチ・ホールディングスの取締役
   エルドアン・ギョニュル
と結婚した。
 彼女はコチ・ホールディングスとヴェフビ・コチ財団の両方の取締役にもなった。
 セヴギはイスタンブールのサドベルク・ハニム博物館の執行委員会の議長を務めた。
 また、トルコの新聞ヒュリイェットのコラムニストでもあった。
 彼女は夫の死後まもなく、2003年9月12日にイスタンブールで癌のため亡くなった。
 
・スナ・コチは1941年に生まれ、2020年に亡くなった。
 彼女はヴェフビ・コチの4番目の子供だった。
 彼女はイスタンブールのアメリカン・カレッジ・フォー・ガールズを卒業し、その後イスタンブールのボアズィチ大学で教育を受けた。
 彼女はコチ・グループの高官である
   イナン・キラチ
と結婚した。
 彼らには1人の子供がいる。
 スナはホールディングスで様々な役職を務め、最も有名なのは副社長だった。
 また、様々な財団や教育機関の理事でもあった。
 トルコでの教育、健康、社会奉仕への貢献により、スナは1997年に国家大統領スレイマン・デミレルから最高功労勲章を授与された。
 1999年、ロンドン・ビジネス・スクールは、コチ・ホールディングスでのリーダーシップとトルコでの子供の教育分野への貢献により、彼女に名誉会員を授与した。
  
   
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2024年08月11日

金融安定理事会(Financial Stability Board、FSB)

金融安定理事会(Financial Stability Board、FSB)
 世界の金融システムを監視し、勧告を行う国際機関
 2009年のG20ピッツバーグサミットで
   金融安定フォーラム(FSF)
の後継として設立された。
 理事会には、G20主要経済国、FSFメンバー、欧州委員会がすべて参加している。

 国際決済銀行が主催し、資金提供している理事会は、スイスのバーゼルに拠点を置く。
 スイスの法律に基づいて非営利団体として設立されている。 

 FSBはG20首脳による最初の主要な国際機関の革新を象徴するもの。
 ティム・ガイトナー米財務 長官は、FSBを 国際通貨基金、世界銀行、世界貿易機関と並ぶ「事実上、世界経済ガバナンスの構造における第4の柱」と表現した。
 他の多国間金融機関とは異なり、FSBは条約上の根拠や正式な権限を持っていない。
 そのため、加盟国が採択した非公式かつ拘束力のない協力覚書に依存している。 

 FSBの前身組織である
   金融安定フォーラム(FSF)
は、 1999年にG7諸国の財務大臣と中央銀行総裁によって国際金融安定を促進するために設立された財務省、中央銀行、国際金融機関のグループから生まれた。
 FSFは金融機関、取引、イベントの監督と監視に関する議論と協力を促進した。
 FSFはスイスのバーゼルにある国際決済銀行に設置された小さな事務局によって運営されていた。
 FSFのメンバーは、米国、日本、ドイツ、英国、フランス、イタリア、カナダ、オーストラリア、オランダ、その他多くの先進国、およびいくつかの国際経済組織など、中央銀行、金融省庁、証券規制当局を通じて参加する約12か国が含まれていた。
 2008年11月15日のG20サミットでは、FSFのメンバーを
   中国などの新興経済国
を含むように拡大することが合意された。
 2009年のG20ロンドンサミットでは、 FSFのメンバーではなかったG20のメンバーを含むように、FSFの後継機関である金融安定理事会(FSB)を設立することを決定した。

 金融安定フォーラムは、国際決済銀行との協力により、2008年3月28〜29日にローマで会合を開催した。
 メンバーは金融市場の現在の課題と、今後それらの課題に対処するための様々な政策オプションについて議論し、この会合で、FSFは、 2008年4月にG7財務大臣・中央銀行総裁に提出される報告書について議論した。
 この報告書は、現在の金融混乱の根底にある主要な弱点を特定し、市場と制度の回復力を改善するための措置を勧告した。
 FSFは、国際通貨基金( IMF)と経済協力開発機構(OECD)で進行中の政府系ファンドに関する作業についても議論した。
 国際通貨基金(IMF)は、自主的なベストプラクティスガイドラインを特定するために政府系ファンドと緊密に協力しており、政府系ファンドのガバナンス、制度的取り決め、透明性に重点を置いている。
 2008年4月12日、FSFはG7財務大臣に報告書を提出し、その勧告の詳細を示した。
   ・資本、流動性、リスク管理の健全性監視を強化する
   ・透明性と評価を高める
   ・信用格付けの役割と用途の変更
   ・当局のリスク対応力を強化する
   ・金融システムのストレスに対処するための強固な体制を構築する
 
 FSBのガバナンスに関するハイレベルパネルは、ブルッキングス研究所の
   ドメニコ・ロンバルディ
が調整役を務め、コネクトUSファンドが資金提供した独立した取り組みだった。
 このパネルは、ウガンダの元財務大臣で中央銀行総裁のエズラ・スルマ、キルギスタンの元首相ジュマート・オトルバエフ、コロンビアの元財務大臣ホセ・アントニオ・オカンポ、フランスの経済分析評議会の元メンバーであるジャック・ミストラルを含む専門家のハイレベルパネルを編成した。
 ロンバルディは、2011年9月にブルッキングス・イシュー・ペーパーとしてパネルの最終報告書を発表し、FSBのガバナンスはその重要性に見合ったほど急速には進化していないと結論付けた。報告書はいくつかの勧告を行った。

 2011年のG20カンヌサミットで、G20はFSBを「永続的な組織基盤」の上に設立することにより、FSBの能力、資源、ガバナンスを強化することを求めた。
 2012年のG20ロスカボスサミットへの報告書で、FSBは組織の能力、資源、ガバナンスを強化し、永続的な組織基盤の上に設立するための具体的な措置を示した。G20はFSBの改訂・修正された憲章を承認した。
 2013年1月、FSBは定款がFSB総会で採択され、スイスの法律に基づく協会または「Verein」の形で独立した法人となった。

 FSBは、2013年1月に両者間で締結された5年間の協定に基づき、国際決済銀行によって運営され、資金提供を受けている。
 銀行はFSBの運営費用の大部分を負担しており、FSBには資産、負債、収入はない。

 2016年7月下旬、テロや英国の欧州連合離脱決定など、世界市場が数々の危機に直面した。
 その後、カーニー総裁はG20サミットに出席した財務大臣と中央銀行総裁に書簡を送り、FSBが実施した改革の概要を説明した。
 その中でカーニー総裁は、世界経済と金融システムが「引き続き効果的に機能し」、「不確実性とリスク回避の急増を乗り切った」と指摘した。
 また、「ストレスに直面してもこの回復力は、G20の危機後の改革の永続的な利益を示している」と確認した。

 カーニー総裁は、金融安定理事会が実施した特定の改革の価値を強調し、これらの改革は「[世界金融危機]の余波を増幅させるのではなく、和らげた」と述べた。
 カーニー総裁はFSBの戦略に自信を示し、「ストレスに直面しても回復力は、G20の危機後の改革の永続的な利益を示している」と述べた。

 FSBは、2016年7月下旬の時点で世界経済と金融システムが経験し
   「不確実性とリスク回避の2つの急上昇」
を踏まえ、G20サミット前の書簡を発表し、2016年の優先事項を概説した。
 資産管理に関連する構造的な脆弱性に対処することを含め、市場ベースの
   資金調達の強靭な源泉
を提供するための調整された改革プログラムを推進する。
 中央清算機関の回復力、回復力、破綻処理可能性に関する政策を評価し、必要な改善を勧告するなど、強固な金融市場インフラを開発する。
 国際通貨基金(IMF)や国際決済銀行(BIS)と連携し、マクロプルーデンス政策の枠組みやツールを適用した国々から教訓を得て、効果的なマクロプルーデンス体制を支援する。
 これらの優先事項に加えて、FSBは 
 重大な意図しない結果に対処しながら、危機後の改革の完全かつ一貫した実施を追求する
 金融システムにおける新たな脆弱性に対処する。これには、行為、コルレス銀行業務、気候変動に関連するものも含まれる。
 金融技術 革新がもたらす潜在的なシステムへの影響と、業務の混乱から生じるシステムリスクを監視する
ことを追加した。
 
 2016年11月、FSBと国際決済銀行の理事会は、協定を2018年1月から2023年までさらに5年間延長することに合意した。

 FSBには、25の管轄区域の財務省、中央銀行、監督・規制当局、13の国際機関および基準設定機関、および世界中の65の管轄区域にまたがる6つの地域諮問グループからなる71の加盟機関がある。

   
posted by manekineco at 00:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 語彙・語句・ことわざ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする