ウィルフレッド作戦(Operation Wilfred)
第二次世界大戦中のイギリス海軍の作戦のこと。
ノルウェーとその沖合の島々の間の水路に機雷を敷設し、スウェーデンの鉄鉱石がノルウェーの中立海域を通過するのを阻止することを目的としていた。
連合国はウィルフレッド作戦がノルウェーにおける
ドイツ軍の反撃を誘発
させると想定して
ナルヴィク
スタヴァンゲル
ベルゲン
トロンハイム
を占領するR4計画を策定した。
1940年4月8日、作戦は部分的に実行されたが、ドイツ軍が4月9日に
ヴェーザー演習作戦
を開始し、ノルウェーとデンマークへの侵攻を開始したことで、事態は急転した。
この作戦はノルウェー戦役の幕開けとなった。
イギリス戦時内閣は、1939年から1940年の冬季におけるスカンジナビアにおける地上作戦の計画に多大な労力を費やした。
ソ連とフィンランドの間で勃発した冬戦争(1939年11月30日〜1940年3月13日)は、その口実として利用される可能性があった。
外務省次官補の
オーム・サージェント
は「…フィンランドを支援したいという我々の意向は、スウェーデン北部の占領を正当化するための口実に過ぎない。スカンジナビア遠征の当初の目的は、ドイツによるイェリヴァレ鉄鉱石の入手を阻止することであった。我々は、この鉄鉱石を奪うことで、数ヶ月以内にドイツを屈服させることができると考えていたからである。」と記述している。
そして、フィンランドの敗北とドイツによるスウェーデン支配を防ぐため、
ラップランド鉄鉱石地帯の占領
を主張した。
1938年におけるドイツのスウェーデンからの鉄鉱石輸入量は約2000万ロングトン(2000万t)であった。
1939年以降、連合国による封鎖により、ドイツは約900万ロングトン(910万t)の輸入を拒否されていた。
夏季にはボスニア湾のルレオから鉄鉱石が輸送されていた。
ただ、冬季には氷でこの航路が閉ざされたため、鉄鉱石は鉄道でナルヴィクに輸送され、そこからドイツに輸送された。
海軍省では、ウィンストン・チャーチル海軍大臣が攻勢的な政策を志向し、特に
アルトマルク事件(1940年2月16〜17日)
以降、その傾向が強まった。
イギリス艦隊は、重巡洋艦
アドミラル・グラーフ・シュペー
によって沈没させられた商船員をアルトマルクで捕らえ、ドイツへ連行するためにノルウェー領海に侵入した。
1940年2月20日、チャーチルは海軍本部に対し、
機雷敷設計画
を緊急に作成するよう命じた。
その計画は「軽微で無害なのでウィルフレッドと呼べる」ものであった。
チャーチルは、ノルウェーの同意なしにノルウェーに上陸することは、たとえノルウェー軍との
軽微な銃撃戦
に過ぎなかったとしても、誤りだと考えていた。
チャーチルは、ノルウェー領海内のインドレレッド(インナー・リード)への機雷敷設は、ノルウェー王立海軍(Sjøforsvaret)との衝突なしに実行できると主張した。
戦時内閣と経済戦争省は、ノルウェーとスウェーデンからのイギリスの輸入品への影響を懸念した。
ノルウェー領海での戦闘を支持することを躊躇した。2月29日、ネヴィル・チェンバレン首相は様子見を決定した。
不確実性にもかかわらず、連合軍最高司令部はスカンジナビアにおける陸上作戦の計画を策定していた。
エイボンマウス作戦では、アルペン猟兵3個大隊とイギリス歩兵旅団1個旅団(スキー中隊3個を配属)がナルヴィクに上陸させ、鉄道に沿って進軍してラップランド地方の鉄鉱石地帯を占領することになっていた。
フランスの猟兵と外国人部隊はフィンランド方面へ東進しつつもソ連赤軍から距離を置き、ボスニア湾の氷が解けた際にドイツ軍に包囲される危険を冒すことになっていた。
ストラトフォード作戦は、イギリス歩兵5個大隊がスタヴァンゲル、ベルゲン、トロンハイムに駐屯し、ドイツ軍の橋頭保を奪取する作戦だった。
プリマス作戦では、スウェーデン政府の要請があれば、3個師団がトロンハイムへ渡河し、スウェーデンを支援する準備を整えていた。
フランスの艦船と部隊は、フランス海峡の港とブレストに集結していた。
イギリス軍最大10万人、フランス軍最大5万人が、航空・海軍の多大な支援を受けて参加する可能性があった。
主戦場はノルウェーで、1万人から1万5千人の部隊がフィンランドへ進軍することになる。
ドイツ軍はノルウェー南部からスタヴァンゲルに至るまで上陸作戦を仕掛けると予想されていた。
ボスニア湾が凍結状態を維持できるのは4月3日までと予想されていた。
フランス側の見解は、スカンジナビアでの作戦には多くの利点があるというものだった。
ドイツ軍をマジノ線から逸らし、ドイツへの鉄鉱石の供給を阻止できれば、
ドイツの戦時経済に深刻な影響
を与えただろう。
ただ、イギリスは海軍の負担を担う必要があり、数千人のフランス外人部隊はフランス政府の戦闘への決意を示すことになる。
海軍参謀副総長(Sous-chef d'état-major des force maritimes)のガブリエル・オーファン提督は後に「…こう言うのは少々皮肉だが、ソ連軍を阻止し、フィンランドを救えると本気で期待していた者は誰もいなかった。作戦を口実にスウェーデンの鉄鉱石を奪い、ドイツに供給させないというのが狙いだった。」と記述している。
そして、首相のエドゥアール・ダラディエは迅速な行動を求めた。
ノルウェーは1月に警告を受けており、「ノルウェーの主要港の迅速な占領と遠征軍の上陸」の間は無視できるとされていた。
イギリスは待機を決定し、3月1日にノルウェーとスウェーデンから、ナルヴィク、キルナ、イェリヴァレ経由でフィンランドへの軍隊の通過許可を得ようと決意した。
しかし、ノルウェー首相は3月4日にこの要請を拒否し、スウェーデン首相も前日にこの要請を拒否していた。
3月11日、フランスは戦時内閣に対し、何らかの措置を取らない限り、ダラディエはフィンランド問題を理由に辞任に追い込まれると通告した。
イギリスは、ノルウェーの同意の有無にかかわらず、ナルヴィクへの部隊派遣に同意した。
R3計画では、第49歩兵師団(ウェスト・ライディング)の指揮官であるピアス・マクシー少将が陸軍司令官、エドワード・エヴァンス提督が海軍司令官に、オーデがフランス・スカンジナビア遠征軍団の指揮官に任命された。
3月12日、イギリス軍司令官たちは、ナルヴィクに部隊を上陸させ、フィンランドを支援し、ロシアとドイツによるスウェーデンの鉄鉱石地帯への侵攻を可能な限り阻止するという指示を受けた。
部隊は、ノルウェー軍が形ばかりの抵抗を見せた場合のみ上陸を試みる
。自衛目的以外では武力行使は禁止されていた。
この計画は、訓練段階の整ったイギリス軍師団をノルウェーとスウェーデンに押し付けるという内容だった。
このため、戦時内閣に混乱を招いた。
フィンランドへの到達は困難であり、ノルウェー軍が抵抗した場合は部隊は再上陸を余儀なくされる可能性もあった。
3月12日、戦時内閣はナルヴィク上陸作戦の実施と鉄道ターミナルの占拠のみを決定した。
3月13日に乗船が開始されたが、
フィンランドがソ連に降伏
したとの知らせを受け、同日中に中止された。
チャーチル首相と帝国参謀総長エドマンド・アイアンサイド将軍はナルヴィク上陸許可を得ようとしたが拒否された。
エイヴォンマウス作戦に投入されていた部隊の大半はフランスに送られた。
また、アルピン猟兵連隊は基地に送られた。
フランス艦艇は通常任務を再開し、イギリス艦艇は北方哨戒任務に戻った。
1940年3月下旬、ダラディエ首相の辞任とポール・レイノー首相の就任後、チェンバレンは最高軍事会議において、ライン川に浮遊機雷を敷設し、ラインラント下流の河川交通を混乱させる計画であるロイヤル・マリーン作戦を提示した。
フランスは、ノルウェー領リード諸島における機雷敷設作戦と連携することを条件に、この計画に同意した。
4月1日までに、連合国はドイツの鉄鉱石船の航行を停止するという警告をノルウェー政府とスウェーデン政府に送る予定だった。
数日後、リード諸島に機雷が敷設され、ライン川をはじめとするドイツの河川に浮遊機雷が敷設されるとともに、ドイツ船舶に対する作戦が開始される予定だった。
チャーチルとアイアンサイドは、イギリス軍とフランス軍がナルヴィクに進軍し、スウェーデンとの国境まで進軍するという決定を取り付けた。フランスのダルラン提督は、この上陸計画がドイツ艦隊を追い出すきっかけになると見て、解散したばかりのフランス軍を再集結させる命令を出した。
陸軍省はストラトフォード作戦とエイボンマウス作戦の中止後に分散していた部隊の集結を開始した。
4月3日、イギリス軍はバルト海沿岸のドイツ港、ロストック、シュテッティン、シュヴィネミュンデに船舶と兵員が集結しているという報告を受け始めた。
これはスカンジナビア半島への連合軍の動きに対抗するために派遣された部隊の一部であると推定された(ドイツ軍は独自の情報収集によって連合軍の計画をある程度把握していた)。
そこでイギリス軍は同日、
ロイヤル・マリーン作戦
とは別に鉄鉱石ルートの機雷敷設を進めることを決定した。
なお、海軍本部が4月8日にその実行を決定した。
機雷敷設計画はウィルフレッド作戦となり、新たな上陸作戦計画R4が発足した。
駆逐艦機雷敷設艦4隻と護衛駆逐艦4隻からなる
フォースWV
は、ナルヴィクに通じる海峡内のロフォーテン諸島南方、ヴェストフィヨルド(北緯67度24分、東経14度36分)に機雷を敷設することになっていた。
WS部隊、補助機雷敷設艦HMSテヴィオット・バンク、そして駆逐艦4隻は、シュタットランデット(北緯62度、東経5度)沖に機雷を敷設することになっていた。
WB部隊は駆逐艦2隻と共に、クリスチャンスン南方のバッド岬沖(北緯62度54分、東経6度55分)に模擬機雷原を敷設することになっていた。
ノルウェー軍が機雷を掃海した場合、機雷敷設艦が交代することになっていた。
イギリスはウィルフレッド作戦がドイツ軍の反撃を促すと予想し、R4計画はドイツ軍が上陸の意図を明らかにし次第、スタヴァンゲル、ベルゲン、トロンハイム、ナルヴィクを占領することでドイツ軍の上陸を阻止する計画だった。
ベルゲン方面のC・G・フィリップス准将と歩兵2個大隊、スタヴァンゲル方面の2個大隊は、4月7日にロサイスから巡洋艦ベリック、ヨーク、デヴォンシャー、グラスゴーの各艦に乗艦した。
ナルヴィク方面の部隊はクライド川に集結し、4月8日の朝に乗艦を開始、同日遅くに6隻の駆逐艦に分乗して出発した。
護衛は巡洋艦ペネロープとオーロラ、オーロラにはエヴァンス提督とマッケシー少将が乗艦していた。
ドイツ軍が主導権を握るのを待つ間、ドイツ軍は優勢に立たされたが、16隻の潜水艦がドイツ軍の接近経路と思われる地点を警戒し、警告を発するために派遣された。
トロンハイム行きの歩兵大隊は4月9日に続く予定だった。
R4計画では、イギリス軍は増援が到着するまで陣地を維持できると予想されていた。
4月3日、巡洋艦バーウィック、ヨーク、デヴォンシャー、グラスゴーは駆逐艦アフリディ、コサック、グルカ、モホーク、シーク、ズールーと共にロサイスで部隊を乗艦させ、計画R4のためにノルウェーへ輸送した。
追加の部隊は他の部隊と共にクライド川で輸送船に乗船し、ドイツ軍の意図を示す証拠によりノルウェーへ送る口実が得られるまで待機していた。
4月5日、ウィルフレッド作戦と計画R4の部隊から成る大艦隊が巡洋戦艦レナウンと巡洋艦バーミンガムに護衛され、スカパ・フローのイギリス海軍主要基地をノルウェー海岸に向けて出発した。
4月7日、部隊は分かれ、1隻はナルヴィクへ、他の1隻はウィルフレッドを南へ運ぶこととなった。
ノルウェー軍がイギリス艦隊に挑発的な行動をとった場合、イギリス艦隊は商船を守るためにここにいると告げた。
これに対し、イギリス艦隊は撤退し、ノルウェー軍にその地域の警備を委ねることになっていた。
4月7日、WS部隊がシュタットランデットに向けて出航中、ノルウェーへ航行中のドイツ艦艇がヘルゴラント湾で発見された。
このため、機雷敷設は中止された。
翌4月8日早朝、ウィルフレッドへの出航予定日、イギリス政府はノルウェー当局に対し、ノルウェー領海への機雷敷設の意向を通告した。
その後まもなく、WB部隊はバッド岬沖で石油ドラム缶を用いて機雷敷設の模擬演習を行い、当該海域を巡回して船舶に危険を「警告」した。
WV部隊はヴェストフィヨルド湾口に機雷原を敷設した。
同日午前5時15分、連合国は自らの行動を正当化し、機雷敷設海域を明示する声明を世界に向けて発信した。
ノルウェー政府は強く抗議し、機雷の即時撤去を要求した。
ドイツ艦隊はすでにノルウェー沿岸を北進していた。
その日遅く、北ドイツのシュテッティンを出航していた鉱石運搬船
リオ・デ・ジャネイロ号
が、スカゲラク海峡でポーランドの潜水艦オルツェル号の攻撃を受け沈没した。
この船は、ヴェーザー演習作戦の一環としてドイツ軍によるノルウェー侵攻に備え、兵士、馬、戦車を積んでいた。
乗船していた300人のうち約半数が溺死し、生存者は救助に駆けつけたノルウェー漁船の乗組員に対し、イギリス軍からベルゲンを守るため向かっていると伝えた。
ウィルフレッド作戦が完了し、WS部隊とWB部隊の南方艦艇は本国艦隊に復帰した。
ドイツ軍のノルウェー侵攻に対するイギリス軍の作戦である
ルパート作戦
に参加した。
北方のWV部隊はドイツ軍の上陸作戦に対峙した。
4月9日、ノルウェー軍はドイツ軍の侵攻に不意を突かれた。
侵攻はノルウェーの都市スタヴァンゲル、オスロ、トロンハイム、ナルヴィク、ベルゲンへの上陸から始まった。
イギリス軍とフランス軍は4月14日にノルウェー軍を支援するためナルヴィクに上陸し、ドイツ軍を町から追い出し、降伏に追い込んだ。
4月18日から23日までの連合軍の上陸作戦にもかかわらず、ノルウェーは1940年6月9日に降伏した。
ウィルフレッド作戦はドイツへの鉄鉱石輸送を遮断することには失敗したが、戦争の残りの期間、イギリスの艦船と航空機はノルウェー領海に侵入し、ドイツ艦船を自由に攻撃することができた。
4月6日、英国海軍グロウワーム(ジェラルド・ループ少佐)は、海中に沈没した兵士を捜索するため主力部隊から離脱した。
ドイツの重巡洋艦アドミラル・ヒッパーと遭遇した。
グロウワームは魚雷攻撃を仕掛け、反撃を受けて深刻な損傷を受けた。
その後、アドミラル・ヒッパーに体当たりし、まもなく沈没、111名の犠牲者を出した。
ループ少佐は死後ヴィクトリア十字章を授与された。
グロウワームの支援に転じていたレナウンは、ドイツの戦艦シャルンホルストとグナイゼナウと共に、海岸から80海里(150km)沖合でロフォーテン諸島沖合の海戦に臨んだ。
ドイツ軍は戦闘から離脱し、レナウンとその護衛艦をナルヴィク上陸作戦から引き離した。
ヴェストフィヨルドの機雷敷設に参加していた第2駆逐艦隊は、第一次ナルヴィク海戦(4月10日)に参加した。
イカロスはアルスターを占領し(4月11日)、第二次ナルヴィク海戦(1940年4月13日)にも参加した。