2025年10月26日

ルニオーネ・イタリアーナ(L'Unione Italiana)主にイタリア移民を対象としてイタリア人会員のための相互扶助団体

    別名 イタリアン・クラブ(The Italian Club)
 タンパのイボー・シティ地区にある歴史ある社交団体である。
 団体の建物は、タンパの建築家
   M・レオ・エリオット
によって設計され、所在地はイースト・セブンス・アベニュー1731にある。
 1894年に主にイタリア移民を対象としてイタリア人会員のための
   相互扶助団体
として設立された。
 イタリアン・クラブの会員数は、設立時の107人から1935年には3,000人を超えました。
 初代会長はバルトロメオ・フィロガモ()であった。
 1911年に建てられた最初の建物は1914年に焼失した。
 タンパのイボー・シティのイースト・セブンス・アベニューに全く新しい建物が建設され、1918年に完成し、現在も残っている。
 クラブの会員には、健康保険(会員向けの疾病給付および死亡給付を含む)の加入資格があった。
 クラブは墓地を所有し、シチリアの埋葬習慣を導入し、糸杉を輸入し、写真やイタリア語とシチリア語の文字が刻まれた墓石を設置した。
 クラブの建物は会員のコミュニティと社交の場としても機能し、会員たちはそこでゲームをしたり、お酒を飲んだり、読書をしたり、ライブパフォーマンスを観たりしていた。
 1930年代から1940年代にかけて、イタリアン・クラブにはブロードウェイ・シアターと呼ばれる映画館も併設された。
 サント・トラフィカンテ・シニアはル・ウニオーネ・イタリアーナの会員であり、1894年の設立時にイタリアン・クラブが購入し献納した
   ル・ウニオーネ・イタリアーナ墓地
に埋葬されている。
 2018年12月9日、イタリアン・クラブは建物の100周年を祝った。
 2022年11月5日、元イタリアン・クラブ会長の
   ジェイミー・グラネル
がパロ・ロンゴ賞を受賞した。
 この賞は、イタリアの伝統と遺産を永続させ、未来の世代に伝えることに生涯を捧げる個人の貢献を称えるものである。
 現在、この建物はプライベートイベントのために貸し出されている。
   
   
    
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2025年10月17日

ショットガン・マン(Shotgun Man)1910年代にシカゴで活動していたとされる暗殺者の呼び名

ショットガン・マン(Shotgun Man)は、1910年代にアメリカ合衆国イリノイ州シカゴで活動していたとされる暗殺者の呼び名で連続殺人犯であり、イタリア系犯罪組織ブラックハンドの恐喝犯により、依頼された殺人事件の犯人とされている。
 最も有名なのは、ショットガン・マンが1910年1月1日から1911年3月26日までの間に、当時シカゴのリトル・シシリーと呼ばれていたオーク・ストリートとミルトン・アベニュー(現在のクリーブランド・アベニュー)の交差点に位置する、イタリア系移民の悪名高い暴力地区「デス・コーナー」で15人のイタリア系移民を殺害した事件がある。
 この地域は、イタリア系移民やイタリア系アメリカ人による暴力行為で悪名高い。
 それらは単独で犯されることもあれば、イタリア系ギャング・アウトフィット、マフィア、ブラックハンドの抗争や復讐の結果として犯されることもあった。
 1911年3月、いわゆるショットガン・マンは72時間以内に4人を殺害したと伝えられている。

    
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2025年09月29日

ベテランズ・フォー・フリーダム(Vets For Freedom 自由のための退役軍人) 共和党指導者とのつながりがある政治擁護団体

ベテランズ・フォー・フリーダム(Vets For Freedom 自由のための退役軍人)は、2006年にイラク戦争とアフガニスタン戦争の退役軍人、特に
   ウェイド・ザークル
   デイビッド・ベラビア
   オーウェン・ウェスト
らによって設立されたアメリカの政治擁護団体で、共和党指導者とのつながりがある。
 この団体は当初、 527団体として設立された。
2006年の選挙では、このグループは民主党の指名を失った後、無所属で再選を目指した
   ジョセフ・リーバーマン上院議員
を支援した。
 このグループは2008年の選挙で約410万ドルを選挙広告に費やした。
 主に2007年のイラク戦争への米軍の「増派」を宣伝する広告に費やした。 
 2006年8月9日、当時「Vets for Freedom Action Fund」と呼ばれていた団体は、
   ウェイド・ザークル
からの勧誘状を送りつけ、組織を
   ジョージ・W・ブッシュ政権
と直接結びつけることに成功した。
 退役軍人自由協会は、2006年8月14日、ハートフォード・クーラント紙に民主党上院議員
   ジョー・リーバーマン
を支持する全面政治広告を掲載した。
 コネチカット州で彼の再選を支持するテレビ広告キャンペーンを展開した。
 さらに、同協会は2006年に苦境に立たされていた民主党下院議員
   ジム・マーシャル
を支持するため、ジョージア州で広告キャンペーンに資金を提供した。
 マーシャルはその年の民主党下院議員の中で最小の差で勝利した。
 2007年、ピート・ヘグゼスがVets For Freedomの会長に就任した。
 ただ、財政難に陥ったため、寄付者らが合併して経営を引き継ぎ、ヘグゼスは2012年に退任した。
 2008年10月、Vets for Freedomは、
   バラク・オバマ上院議員
の大統領候補としての立場を批判する数百万ドル規模の広告キャンペーンに資金を提供した。
 同団体は、民主党の大統領候補であるオバマ氏が、
   イラクとアフガニスタン駐留部隊
よりも自身の選挙活動を重視していると非難した。
 Vets for Freedomは以前にも、イラク戦争に関するオバマ上院議員の立場を批判する広告を放映していた。
 2008年10月10日、Vets for Freedomは上院分析スコアカードを発表した。
 VFFスコアカードでは、民主党上院議員全員に最低の評価であるFが与えられた。
 共和党上院議員は3人がF、38人がA+の評価を受けた。
 VFFはオバマ上院議員に0.5%、つまり2番目に低い評価を与えた。
 また、副大統領候補のジョー・バイデン上院議員には0.0%を与えた。
 これはマサチューセッツ州選出のテッド・ケネディ上院議員と並んで最下位となった。
 ジョン・マケイン上院議員は93.5%のスコアでA-の評価を受けた。
 「10-in-10作戦」と呼ばれるキャンペーンで、Vets for Freedomは2010年議会選挙で
   共和党の下院議員候補10人
を支援した。
 イラクとアフガニスタンの退役軍人で立候補したのは、
   アレン・ウェスト(フロリダ州第22選挙区)
   スティーブ・スティヴァーズ(オハイオ州第15選挙区)
   ジョナサン・パトン(アリゾナ州第8選挙区)
   イラリオ・パンターノ(ノースカロライナ州第7選挙区)
   アダム・キンジンガー(イリノイ州第11選挙区)
   ジョー・ヘック(ネバダ州第3選挙区)
   クリス・ギブソン(ニューヨーク州第20選挙区)
   ブライアン・ルーニー(ミシガン州第7選挙区)
   ケビン・カルビー(オクラホマ州第5選挙区)
   ティム・グリフィン(アーカンソー州第2選挙区)
である。
 2006 年、Vets for Freedom は、
   ジョー・リーバーマン上院議員(コネチカット州無所属)
   ジム・マーシャル下院議員(ジョージア州民主党)
   ジム・タレント上院議員(ミズーリ州共和党)
の 3 人の候補者を支持した。
 2008年5月現在、Vets for Freedomは下院議員選挙で5人の候補者を支援した。
 なお、全員が軍隊に勤務した経験のある共和党員である。
 ザークルは、2005年に共和党の
   ジェリー・キルゴア
がバージニア州知事選で落選した際に地域担当ディレクターを務めた。
 「自由のための退役軍人会の主要顧問は、民主党員で、コネチカット州の苦境に立たされている
   ジョセフ・I・リーバーマン上院議員
の元首席補佐官であるビル・アンドレセンである。」
 「自由のための退役軍人」の顧問には、ウィークリー・スタンダード編集長の
   ビル・クリストル氏
や元イラク連合暫定報道官の
   ダン・セノール氏
がいる。
 VFFは非課税の非営利団体としての地位を申請した。
 2006年6月時点では承認されていない。
 ジルクル氏は「当初の資金は家族や友人から提供された」と述べている。
 現在は501(c)4非営利団体となっている。
 ナショナル・ジャーナルは、アメリカで3番目に裕福なカジノ王
   シェルドン・アデルソン
がVets For Freedomに多額の寄付をしたと報じた。

    
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2025年09月01日

ルパラ(Lupara)ブレイクアクション式の短銃身散弾銃(SBS ソーンオフショットガン)を指すイタリア語

ルパラ(Lupara)は、ブレイクアクション式の短銃身散弾銃(SBS ソーンオフショットガン)を指すイタリア語。
 伝統的にシチリアマフィアと関連付けられており、復讐、防衛、狩猟に使用されていた。
 ルパラの短縮された銃身は、森林地帯での取り扱いを容易にし、都市部では隠蔽や屋内での運用を容易にした。
 チョークがないことと銃身が短いため、チョーク付きのフルレングスガンよりも散弾の拡散範囲が広くなった。
 ルパラという言葉は文字通り「オオカミのための」を意味し、オオカミ狩りにおける伝統的な使用を反映している。
 この言葉は、
   マリオ・プーゾ
のベストセラー小説『ゴッドファーザー』によって広く知られるようになった。
 この作品では、シチリアのマフィア、特にマイケル・コルレオーネのボディガードであるカロとファブリツィオがルパラを頻繁に使用した。
 ルパラという言葉は、イタリア語で「lupara bianca(白いルパラ)」という表現に由来している。
 これは特にジャーナリストの間で、犠牲者の遺体を故意に破壊したり隠したりするマフィア的な殺害を指すのに用いられている。
 米国におけるこの武器の犯罪的使用の初期の例は、1890年10月に起きたニューオーリンズの警察署長デイビッド・ヘネシーの暗殺である。
 ヘネシー署長が待ち伏せ攻撃で射殺された後、殺害現場で4つのルパラが発見された。
 この殺人事件は、地元の港湾労働者組合の管轄外の契約を結んでいたシチリアの果物会社の港湾労働者グループ間の抗争に終止符を打つものでした。
 殺人事件の後、切断された散弾銃の山が晒された。
 中には、折りたたみ式の鉄製ストックを備えた手製の銃や、片手で発砲する際に腕を支えられるようストックにフックが取り付けられた銃もあった。
 容疑者集団の起訴が失敗に終わったことを受け、反イタリアの挑発行為が起こった。
 ニューオーリンズ教区刑務所が群衆がヒートアップした暴徒に襲撃され、11人のイタリア人囚人がリンチされた。

    
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2025年08月21日

ウィルフレッド作戦(Operation Wilfred)第二次世界大戦中にスウェーデンの鉄鉱石がノルウェーの中立海域を通過するのを阻止することを目的としたイギリス海軍の軍事作戦

ウィルフレッド作戦(Operation Wilfred)
 第二次世界大戦中のイギリス海軍の作戦のこと。
 ノルウェーとその沖合の島々の間の水路に機雷を敷設し、スウェーデンの鉄鉱石がノルウェーの中立海域を通過するのを阻止することを目的としていた。
 連合国はウィルフレッド作戦がノルウェーにおける
   ドイツ軍の反撃を誘発
させると想定して
   ナルヴィク
   スタヴァンゲル
   ベルゲン
   トロンハイム
を占領するR4計画を策定した。
 1940年4月8日、作戦は部分的に実行されたが、ドイツ軍が4月9日に
   ヴェーザー演習作戦
を開始し、ノルウェーとデンマークへの侵攻を開始したことで、事態は急転した。
 この作戦はノルウェー戦役の幕開けとなった。
 イギリス戦時内閣は、1939年から1940年の冬季におけるスカンジナビアにおける地上作戦の計画に多大な労力を費やした。
 ソ連とフィンランドの間で勃発した冬戦争(1939年11月30日〜1940年3月13日)は、その口実として利用される可能性があった。
 外務省次官補の
   オーム・サージェント
は「…フィンランドを支援したいという我々の意向は、スウェーデン北部の占領を正当化するための口実に過ぎない。スカンジナビア遠征の当初の目的は、ドイツによるイェリヴァレ鉄鉱石の入手を阻止することであった。我々は、この鉄鉱石を奪うことで、数ヶ月以内にドイツを屈服させることができると考えていたからである。」と記述している。
 そして、フィンランドの敗北とドイツによるスウェーデン支配を防ぐため、
   ラップランド鉄鉱石地帯の占領
を主張した。
 1938年におけるドイツのスウェーデンからの鉄鉱石輸入量は約2000万ロングトン(2000万t)であった。
 1939年以降、連合国による封鎖により、ドイツは約900万ロングトン(910万t)の輸入を拒否されていた。
 夏季にはボスニア湾のルレオから鉄鉱石が輸送されていた。
 ただ、冬季には氷でこの航路が閉ざされたため、鉄鉱石は鉄道でナルヴィクに輸送され、そこからドイツに輸送された。
 海軍省では、ウィンストン・チャーチル海軍大臣が攻勢的な政策を志向し、特に
   アルトマルク事件(1940年2月16〜17日)
以降、その傾向が強まった。
 イギリス艦隊は、重巡洋艦
   アドミラル・グラーフ・シュペー
によって沈没させられた商船員をアルトマルクで捕らえ、ドイツへ連行するためにノルウェー領海に侵入した。
 1940年2月20日、チャーチルは海軍本部に対し、
   機雷敷設計画
を緊急に作成するよう命じた。
 その計画は「軽微で無害なのでウィルフレッドと呼べる」ものであった。
 チャーチルは、ノルウェーの同意なしにノルウェーに上陸することは、たとえノルウェー軍との
   軽微な銃撃戦
に過ぎなかったとしても、誤りだと考えていた。
 チャーチルは、ノルウェー領海内のインドレレッド(インナー・リード)への機雷敷設は、ノルウェー王立海軍(Sjøforsvaret)との衝突なしに実行できると主張した。
 戦時内閣と経済戦争省は、ノルウェーとスウェーデンからのイギリスの輸入品への影響を懸念した。
 ノルウェー領海での戦闘を支持することを躊躇した。2月29日、ネヴィル・チェンバレン首相は様子見を決定した。
 不確実性にもかかわらず、連合軍最高司令部はスカンジナビアにおける陸上作戦の計画を策定していた。
 エイボンマウス作戦では、アルペン猟兵3個大隊とイギリス歩兵旅団1個旅団(スキー中隊3個を配属)がナルヴィクに上陸させ、鉄道に沿って進軍してラップランド地方の鉄鉱石地帯を占領することになっていた。
 フランスの猟兵と外国人部隊はフィンランド方面へ東進しつつもソ連赤軍から距離を置き、ボスニア湾の氷が解けた際にドイツ軍に包囲される危険を冒すことになっていた。
 ストラトフォード作戦は、イギリス歩兵5個大隊がスタヴァンゲル、ベルゲン、トロンハイムに駐屯し、ドイツ軍の橋頭保を奪取する作戦だった。
 プリマス作戦では、スウェーデン政府の要請があれば、3個師団がトロンハイムへ渡河し、スウェーデンを支援する準備を整えていた。
 フランスの艦船と部隊は、フランス海峡の港とブレストに集結していた。
 イギリス軍最大10万人、フランス軍最大5万人が、航空・海軍の多大な支援を受けて参加する可能性があった。
 主戦場はノルウェーで、1万人から1万5千人の部隊がフィンランドへ進軍することになる。
 ドイツ軍はノルウェー南部からスタヴァンゲルに至るまで上陸作戦を仕掛けると予想されていた。
 ボスニア湾が凍結状態を維持できるのは4月3日までと予想されていた。
 フランス側の見解は、スカンジナビアでの作戦には多くの利点があるというものだった。
 ドイツ軍をマジノ線から逸らし、ドイツへの鉄鉱石の供給を阻止できれば、
   ドイツの戦時経済に深刻な影響
を与えただろう。
 ただ、イギリスは海軍の負担を担う必要があり、数千人のフランス外人部隊はフランス政府の戦闘への決意を示すことになる。
 海軍参謀副総長(Sous-chef d'état-major des force maritimes)のガブリエル・オーファン提督は後に「…こう言うのは少々皮肉だが、ソ連軍を阻止し、フィンランドを救えると本気で期待していた者は誰もいなかった。作戦を口実にスウェーデンの鉄鉱石を奪い、ドイツに供給させないというのが狙いだった。」と記述している。
 そして、首相のエドゥアール・ダラディエは迅速な行動を求めた。
 ノルウェーは1月に警告を受けており、「ノルウェーの主要港の迅速な占領と遠征軍の上陸」の間は無視できるとされていた。
 イギリスは待機を決定し、3月1日にノルウェーとスウェーデンから、ナルヴィク、キルナ、イェリヴァレ経由でフィンランドへの軍隊の通過許可を得ようと決意した。
 しかし、ノルウェー首相は3月4日にこの要請を拒否し、スウェーデン首相も前日にこの要請を拒否していた。
 3月11日、フランスは戦時内閣に対し、何らかの措置を取らない限り、ダラディエはフィンランド問題を理由に辞任に追い込まれると通告した。
 イギリスは、ノルウェーの同意の有無にかかわらず、ナルヴィクへの部隊派遣に同意した。
 R3計画では、第49歩兵師団(ウェスト・ライディング)の指揮官であるピアス・マクシー少将が陸軍司令官、エドワード・エヴァンス提督が海軍司令官に、オーデがフランス・スカンジナビア遠征軍団の指揮官に任命された。
 3月12日、イギリス軍司令官たちは、ナルヴィクに部隊を上陸させ、フィンランドを支援し、ロシアとドイツによるスウェーデンの鉄鉱石地帯への侵攻を可能な限り阻止するという指示を受けた。
 部隊は、ノルウェー軍が形ばかりの抵抗を見せた場合のみ上陸を試みる
 。自衛目的以外では武力行使は禁止されていた。
 この計画は、訓練段階の整ったイギリス軍師団をノルウェーとスウェーデンに押し付けるという内容だった。
 このため、戦時内閣に混乱を招いた。
 フィンランドへの到達は困難であり、ノルウェー軍が抵抗した場合は部隊は再上陸を余儀なくされる可能性もあった。
 3月12日、戦時内閣はナルヴィク上陸作戦の実施と鉄道ターミナルの占拠のみを決定した。
 3月13日に乗船が開始されたが、
   フィンランドがソ連に降伏
したとの知らせを受け、同日中に中止された。
 チャーチル首相と帝国参謀総長エドマンド・アイアンサイド将軍はナルヴィク上陸許可を得ようとしたが拒否された。
 エイヴォンマウス作戦に投入されていた部隊の大半はフランスに送られた。
 また、アルピン猟兵連隊は基地に送られた。
 フランス艦艇は通常任務を再開し、イギリス艦艇は北方哨戒任務に戻った。
 1940年3月下旬、ダラディエ首相の辞任とポール・レイノー首相の就任後、チェンバレンは最高軍事会議において、ライン川に浮遊機雷を敷設し、ラインラント下流の河川交通を混乱させる計画であるロイヤル・マリーン作戦を提示した。
 フランスは、ノルウェー領リード諸島における機雷敷設作戦と連携することを条件に、この計画に同意した。
 4月1日までに、連合国はドイツの鉄鉱石船の航行を停止するという警告をノルウェー政府とスウェーデン政府に送る予定だった。
 数日後、リード諸島に機雷が敷設され、ライン川をはじめとするドイツの河川に浮遊機雷が敷設されるとともに、ドイツ船舶に対する作戦が開始される予定だった。
 チャーチルとアイアンサイドは、イギリス軍とフランス軍がナルヴィクに進軍し、スウェーデンとの国境まで進軍するという決定を取り付けた。フランスのダルラン提督は、この上陸計画がドイツ艦隊を追い出すきっかけになると見て、解散したばかりのフランス軍を再集結させる命令を出した。
 陸軍省はストラトフォード作戦とエイボンマウス作戦の中止後に分散していた部隊の集結を開始した。
 4月3日、イギリス軍はバルト海沿岸のドイツ港、ロストック、シュテッティン、シュヴィネミュンデに船舶と兵員が集結しているという報告を受け始めた。
 これはスカンジナビア半島への連合軍の動きに対抗するために派遣された部隊の一部であると推定された(ドイツ軍は独自の情報収集によって連合軍の計画をある程度把握していた)。
 そこでイギリス軍は同日、
   ロイヤル・マリーン作戦
とは別に鉄鉱石ルートの機雷敷設を進めることを決定した。
 なお、海軍本部が4月8日にその実行を決定した。
 機雷敷設計画はウィルフレッド作戦となり、新たな上陸作戦計画R4が発足した。
 駆逐艦機雷敷設艦4隻と護衛駆逐艦4隻からなる
   フォースWV
は、ナルヴィクに通じる海峡内のロフォーテン諸島南方、ヴェストフィヨルド(北緯67度24分、東経14度36分)に機雷を敷設することになっていた。
 WS部隊、補助機雷敷設艦HMSテヴィオット・バンク、そして駆逐艦4隻は、シュタットランデット(北緯62度、東経5度)沖に機雷を敷設することになっていた。
 WB部隊は駆逐艦2隻と共に、クリスチャンスン南方のバッド岬沖(北緯62度54分、東経6度55分)に模擬機雷原を敷設することになっていた。
 ノルウェー軍が機雷を掃海した場合、機雷敷設艦が交代することになっていた。
 イギリスはウィルフレッド作戦がドイツ軍の反撃を促すと予想し、R4計画はドイツ軍が上陸の意図を明らかにし次第、スタヴァンゲル、ベルゲン、トロンハイム、ナルヴィクを占領することでドイツ軍の上陸を阻止する計画だった。
 ベルゲン方面のC・G・フィリップス准将と歩兵2個大隊、スタヴァンゲル方面の2個大隊は、4月7日にロサイスから巡洋艦ベリック、ヨーク、デヴォンシャー、グラスゴーの各艦に乗艦した。
 ナルヴィク方面の部隊はクライド川に集結し、4月8日の朝に乗艦を開始、同日遅くに6隻の駆逐艦に分乗して出発した。
 護衛は巡洋艦ペネロープとオーロラ、オーロラにはエヴァンス提督とマッケシー少将が乗艦していた。
 ドイツ軍が主導権を握るのを待つ間、ドイツ軍は優勢に立たされたが、16隻の潜水艦がドイツ軍の接近経路と思われる地点を警戒し、警告を発するために派遣された。
 トロンハイム行きの歩兵大隊は4月9日に続く予定だった。
 R4計画では、イギリス軍は増援が到着するまで陣地を維持できると予想されていた。
 4月3日、巡洋艦バーウィック、ヨーク、デヴォンシャー、グラスゴーは駆逐艦アフリディ、コサック、グルカ、モホーク、シーク、ズールーと共にロサイスで部隊を乗艦させ、計画R4のためにノルウェーへ輸送した。
 追加の部隊は他の部隊と共にクライド川で輸送船に乗船し、ドイツ軍の意図を示す証拠によりノルウェーへ送る口実が得られるまで待機していた。
 4月5日、ウィルフレッド作戦と計画R4の部隊から成る大艦隊が巡洋戦艦レナウンと巡洋艦バーミンガムに護衛され、スカパ・フローのイギリス海軍主要基地をノルウェー海岸に向けて出発した。
 4月7日、部隊は分かれ、1隻はナルヴィクへ、他の1隻はウィルフレッドを南へ運ぶこととなった。
 ノルウェー軍がイギリス艦隊に挑発的な行動をとった場合、イギリス艦隊は商船を守るためにここにいると告げた。
 これに対し、イギリス艦隊は撤退し、ノルウェー軍にその地域の警備を委ねることになっていた。
 4月7日、WS部隊がシュタットランデットに向けて出航中、ノルウェーへ航行中のドイツ艦艇がヘルゴラント湾で発見された。
 このため、機雷敷設は中止された。
 翌4月8日早朝、ウィルフレッドへの出航予定日、イギリス政府はノルウェー当局に対し、ノルウェー領海への機雷敷設の意向を通告した。
 その後まもなく、WB部隊はバッド岬沖で石油ドラム缶を用いて機雷敷設の模擬演習を行い、当該海域を巡回して船舶に危険を「警告」した。
 WV部隊はヴェストフィヨルド湾口に機雷原を敷設した。
 同日午前5時15分、連合国は自らの行動を正当化し、機雷敷設海域を明示する声明を世界に向けて発信した。
 ノルウェー政府は強く抗議し、機雷の即時撤去を要求した。
 ドイツ艦隊はすでにノルウェー沿岸を北進していた。
 その日遅く、北ドイツのシュテッティンを出航していた鉱石運搬船
   リオ・デ・ジャネイロ号
が、スカゲラク海峡でポーランドの潜水艦オルツェル号の攻撃を受け沈没した。
 この船は、ヴェーザー演習作戦の一環としてドイツ軍によるノルウェー侵攻に備え、兵士、馬、戦車を積んでいた。
 乗船していた300人のうち約半数が溺死し、生存者は救助に駆けつけたノルウェー漁船の乗組員に対し、イギリス軍からベルゲンを守るため向かっていると伝えた。
 ウィルフレッド作戦が完了し、WS部隊とWB部隊の南方艦艇は本国艦隊に復帰した。
 ドイツ軍のノルウェー侵攻に対するイギリス軍の作戦である
   ルパート作戦
に参加した。
 北方のWV部隊はドイツ軍の上陸作戦に対峙した。
 4月9日、ノルウェー軍はドイツ軍の侵攻に不意を突かれた。
 侵攻はノルウェーの都市スタヴァンゲル、オスロ、トロンハイム、ナルヴィク、ベルゲンへの上陸から始まった。
 イギリス軍とフランス軍は4月14日にノルウェー軍を支援するためナルヴィクに上陸し、ドイツ軍を町から追い出し、降伏に追い込んだ。
 4月18日から23日までの連合軍の上陸作戦にもかかわらず、ノルウェーは1940年6月9日に降伏した。
 ウィルフレッド作戦はドイツへの鉄鉱石輸送を遮断することには失敗したが、戦争の残りの期間、イギリスの艦船と航空機はノルウェー領海に侵入し、ドイツ艦船を自由に攻撃することができた。
 4月6日、英国海軍グロウワーム(ジェラルド・ループ少佐)は、海中に沈没した兵士を捜索するため主力部隊から離脱した。
 ドイツの重巡洋艦アドミラル・ヒッパーと遭遇した。
 グロウワームは魚雷攻撃を仕掛け、反撃を受けて深刻な損傷を受けた。
 その後、アドミラル・ヒッパーに体当たりし、まもなく沈没、111名の犠牲者を出した。
 ループ少佐は死後ヴィクトリア十字章を授与された。
 グロウワームの支援に転じていたレナウンは、ドイツの戦艦シャルンホルストとグナイゼナウと共に、海岸から80海里(150km)沖合でロフォーテン諸島沖合の海戦に臨んだ。
 ドイツ軍は戦闘から離脱し、レナウンとその護衛艦をナルヴィク上陸作戦から引き離した。
 ヴェストフィヨルドの機雷敷設に参加していた第2駆逐艦隊は、第一次ナルヴィク海戦(4月10日)に参加した。
 イカロスはアルスターを占領し(4月11日)、第二次ナルヴィク海戦(1940年4月13日)にも参加した。

    
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2025年08月12日

カステッランマーレ・デル・ゴルフォ(Castellammare del Golfo)

カステッランマーレ・デル・ゴルフォ(Castellammare del Golfo Emporium Segestanorum  Emporium Aegestensium)
 シチリア島トラパニ県にある町および自治体。
 この名称は「湾岸の海上要塞」と訳され、港に築かれた中世の要塞に由来している。
 また、近くの水域も町の名前にちなんでカステッランマーレ湾として知られている。 
 カステラマーレ・デル・ゴルフォは、近隣都市セジェスタの港町、エンポリアム・セゲスタノルムとして誕生した。
 セジェスタも陥落するまで、同じ苦難を経験した。
 アラブ人は827年に
   カステラマーレ・デル・ゴルフォ
に軍事侵攻し、「アル・マダリグ」(「階段」を意味する)と名付けた。
 これは、港から要塞のある地域へと続く急な坂道に由来すると考えられる。
 この要塞を最初に築いたのはアラブ人で、後にノルマン人によって拡張された。
 建物は海に近い岩場の上に建てられ、木製の跳ね橋で本土と結ばれていた。
 カステラマーレ・デル・ゴルフォでは、古くから漁業が重要な産業であった。
 今日でも、町の経済は漁業と観光業によって支えられている。
 この小さな町は
   セバスティアーノ・ディガエターノ
   ジョン・タルタメラ
など、多くのシチリア系アメリカ人マフィアの出身地としても知られている。
 これが、ニューヨーク市の裏社会の支配権をめぐってマッセリア一族とマランツァーノ一族が争った
の起源でもある。
 アメリカ合衆国への
   イタリア移民
が最盛期を迎えた頃、
   カステラマーレ・デル・ゴルフォ
からも多くの住民がニューヨーク市へ移住した。
 リトルイタリーのエリザベス通り、イタリアンハーレム、そしてブルックリンのブッシュウィック、キャロルガーデンズ、イーストニューヨーク地区に定住した。
 第二次世界大戦後、カステッランマーレ・デル・ゴルフォの住民の多くはニューヨーク市への移住を続けた。
 今度はブルックリンのグレーブゼンド、ベンソンハースト、ダイカー・ハイツ地区、クイーンズのリッジウッドおよびミドル・ビレッジ地区、ブロンクスのモリス・パーク地区、そしてスタテンアイランド全域に定住した。
 現在、ニューヨーク市はカステッランマーレ・デル・ゴルフォで生まれた人々、あるいはその血統を辿ることができる人々が最も多く居住する都市となっている。
 カステッランマーレ・デル・ゴルフォはパレルモとトラーパニの間という便利な場所にあり、過去数十年間にわたり重要な観光地となっている。
 ◯著名な出身者
 ・ジョセフ・ボナンノ(Joseph Bonanno)
   犯罪組織のボス、ボナンノ一家の歴代ボス
 ・ジョヴァンニ・ボンヴェントレ(Giovanni Bonventre)
   ボナンノ一家の副ボス
 ・ヴィト・ボンヴェントレ(Vito Bonventre)
   後にボナンノ一家となるブルックリンギャングの主要メンバーだったギャングのボス
 ・ステファノ・マガディーノ(Stefano Magaddino)
   バッファロー一家のボス
 ・サルヴァトーレ・マランツァーノ(Salvatore Maranzano)
   ギャングのボス、ボナンノ一家の創設者
 ・セルジオ・マッタレッラ(Sergio Mattarella politician)
   政治家、イタリア共和国第12代大統領(現職)
 ・ピエルサンティ・マッタレッラ(Piersanti Mattarella)
   政治家、シチリア島第12代大統領(1978〜1980年)
 ・ベルナルド・マッタレッラ(Bernardo Mattarella)
   政治家、キリスト教民主主義の創設者
 ・ジョセフ・バルバラ(Joseph Barbara)
   イタリア系アメリカ人ギャングのボス、バッファロー一家のカポレ政権
 ・セバスティアーノ・ディガエターノ(Sebastiano DiGaetano)
   後にボナンノ一家として知られるようになる組織のボス
 ・サルヴァトーレ・サベラ(Salvatore Sabella)
   犯罪組織のボスであり、フィラデルフィア・ファミリーの創設者。
 ・ジョーイ・ギャロ(Joey Gallo)
   アメリカの野球選手。母親はカステラマーレ・デル・ゴルフォ生まれ。
 ・ジョン・ヴィンティミリア(John Ventimiglia)
   アメリカの俳優。両親はカステラマーレ・デル・ゴルフォ生まれ。
   
    
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2025年08月02日

XTBs オーストラリア証券取引所(ASX)で取引される幅広い証券のこと。

XTB(上場投資信託)
 オーストラリア証券取引所(ASX)で取引される幅広い証券である。
 XTBは、社債から得られるインカムと財務資本の安定性と、ASXの透明性と流動性を組み合わせることを目指している。
 XTBは、2015年5月にオーストラリア企業債券会社(ACC)によって初めて導入された。
 2023年には、XTBシリーズの社債ETFを運用していた2社が破綻した。
 各XTBは、オーストラリアのホールセール店頭市場で発行される特定の個別社債へのエクスポージャーを投資家に提供している。
 上場投資信託(ETF)と同様に、XTBは信託のユニットである。
 各XTBクラスは、それぞれ異なる個別債券を反映している。
 投資家は、様々な業界の発行体が発行する幅広いXTBの中から、エクスポージャーを得たい個別の債券を選択できる。
 発行体はオーストラリアの銀行や非金融企業
   ウールワース(Woolworths Group)
   テルストラ(Telstra)
   A-REIT
のいずれかである。
 発行体は上場企業の完全子会社である場合もある。
 クーポン(債券)利率は固定または変動である。
 投資家は流動性に応じて、オーストラリア証券取引所(ASX)でXTBを売買できる。
 各XTBは、それぞれの裏付け債券の満期日とクーポン支払日を反映している。
 各XTBの利回りと価格は、手数料と経費を差し引いた後の裏付け債券の利回りと価格を反映すると予想される。
 XTBが導入される前は、オーストラリアの社債は事実上機関投資家のみがアクセス可能であり、ASXを通じて入手することはほとんど不可能であった。

    
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2025年07月25日

アメリカ自動車政策評議会(American Automotive Policy Council)

アメリカ自動車政策評議会(American Automotive Policy Council)
 2009年にクライスラー(現 ステランティス)、フォード・モーターゼネラルモーターズによって設立されたアメリカの業界団体である。
 同評議会は、加盟3社の
   共通の公共政策上の利益
を代表して活動している。
 元ミズーリ州知事の
   マット・ブラント
が、2011年からアメリカ自動車政策評議会の会長を務めている。

   
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2025年07月12日

九一式魚雷

九一式魚雷(きゅういちしきぎょらい)
 大日本帝国海軍が航空機からの投下用に開発・使用した航空魚雷のこと。
 第二次世界大戦における艦船攻撃に使用され、九一式航空魚雷とも呼ばれる。
 1923年ころ、
   成瀬正二技術大尉(当時、終戦時は少将)
は英国の工廠を見学して報告し、日本の航空魚雷開発を最初から担当することになった。
 1930年には、九一式航空魚雷は
   成瀬少佐(当時)
が開発を開始し、1931年に兵器として制式採用された。
 ただし、九一式航空魚雷の初期型には、本体構造に脆弱性があった。
 愛甲文雄大尉(当時、終戦時は大佐)は1931年以降、兵科将校として九一式航空魚雷の開発チームを推進する責任者に指名された。
 愛甲大尉は航空魚雷を開発するための人的資源を集め、主にハード面の実験を指揮し、原因は解明するように命令し、安定器(ロール安定制御システム)が必要と判明した時には是非なく開発するよう命令した。
 彼は、九一式航空魚雷を自分が開発した偉大な業績として誇っていた。
 また、成瀬少佐からの兵科将校の追加をという強い要望をうけて、愛甲少佐は同期の片岡政市少佐(当時、のち大佐)を招き、制御機構面の指揮担当として追加した。
 成瀬正二少将の指揮下で、かつて海軍空技廠で一連の九一式航空魚雷を開発した人々は、後に「九一会」として親交を保った。
 広田晴男 元少佐、小平(松縄)信 元少佐、家田 元工長、野間 元技師、前田盛敏 元技師、市川英彦 元大尉、川田輝幸 元海軍技術学生などである。
九一式魚雷は1932年(皇紀2592年)12月1日付内令兵第七十二号により兵器採用された。
 ただ、この時から真に実用可能な航空魚雷にたどり着くまでの試行錯誤が続いた。
 改2型以前の九一式航空魚雷は
    脱落式の空中姿勢安定木製尾翼「框板」
を備えてはいたものの、
   射出速度 130 ノット (240 km/h) 以下
   高度 30 m 以下
という制限があり、実際に飛行速度が遅ければ遅いほど、魚雷の走行結果は良くなるなどの特徴から発射に慎重さを要する魚雷だった。
 複葉機や固定脚(三菱九七式艦上攻撃機)の飛行機でも雷撃実用性がある、と見なされたこともあった。
 機動部隊の第一航空戦隊に所属する九七艦攻隊は、その当時世界各国の海軍航空部隊(実質的にはアメリカ海軍航空隊および大英帝国海軍航空隊)が行っていた伝統的雷撃法で訓練していた。
 航空廠の開発チームは、航空魚雷の最大射程は 2,000 m (1.8 海里) 以内なら可能と結論付けた。
 雷速が 40 ノットで、目標艦船が速度 30 ノットで急激な回避行動を行うとすると、命中させるためには
   目標にできるだけ接近
しなければならないという弱点もあった。
 「第2射法」と呼ばれた方法は、浅い軍港において、予想される猛烈な対空砲火の中を、速度 100 ノット (185 km/h)、高度 10 m で行う雷撃だった。
 当時最新型の中島九七式艦上攻撃機(通称ゼロ戦)では、この速度で飛行するのは難しく、脚とフラップを下ろして空気抵抗を増やして飛行しなければならなかった。
 1936年ごろ、空中姿勢安定用の脱落式木製尾翼(框板)が開発された。
 空技廠雷撃科嘱託、村上少将により、複葉機の一〇式艦上雷撃機を使って直径 45 cm の旧型四四式二号魚雷で雷撃成功を確認し、九一式航空魚雷では 120 ノットでも安定して雷撃が成功することを確認した。
 航空魚雷開発チーム・メンバーたちは1936年に九一式航空魚雷を改めて改1とし、「框板」に対応させた。
 九一式魚雷(改2)には
 ・水中突入時に飛散する木製の空中姿勢安定板を尾部に装着した(1936年)。
 ・ローリングを安定制御する角加速度制御システム(PID制御)を備えた(1941年)
という二つの特徴があった。
 これは「航空魚雷」にとって最大のブレークスルーだった。
 これらによって九一式航空魚雷は、高度 20 m、速度 180 ノット (333 km/h) で、しかも真珠湾など
   浅い軍港
においても発射できるようになった。
 さらに、九七式艦上攻撃機の水平最高速度 204 ノット (378 km/h) を超える加速降下雷撃で、荒れた海でも発射できるようになった。
 直径は、450 mm (17-3/4 in) であった。
 兵器として制式採用された九一式魚雷に実際に使用されたのは、本体設計が5形式、頭部が5形式ある。
 頭部重量 213.5〜526.0 kg、搭載炸薬量 149.5〜420.0 kg、水中走行速度 42 ノット (77.8 km/h) で、射程は 2,000〜1,500 m だった。
 九一式魚雷は大日本帝国におけるほぼ唯一の航空魚雷だった。
 したがって、単に航空魚雷といえば九一式魚雷のことを指した。
 他の型式の魚雷である九三式魚雷と九五式魚雷は水上艦艇および潜水艦で使用され、九七式魚雷は甲標的で使用された。
 チームは翌1937年に、高度 500 m と 1,000 m で「緩衝器」付きの航空魚雷の投下テストをデモンストレーションした。
 航空魚雷開発チームは、中止されていた九一式航空魚雷の開発を再開した。
 1938年には、九一式航空魚雷は脆弱な本体を強化対応した改2になった。
 1940年秋には、雷撃隊は海軍大演習に参加して戦技を示し、海軍首脳に深い印象を与えた。
 雷撃隊の搭乗員たちは、水深 10 m という浅い鹿児島湾で1941年8月終盤まで、この射法の訓練をした。
 ただ訓練を繰り返して、この射法では雷撃成功には確信がもてなかったという。
 「第1射法」と呼ばれた方法は、1941年8月に、安定器を備えた九一式魚雷改2の最初の10本のプロトタイプが航空母艦「赤城」の雷撃隊に供与され、極めて良好な結果を示したので、直ちに全雷撃隊は「第1射法」に切り替えた。
 脚とフラップを収納した状態で、より高速である 160 ノット (約 300 km/h)、高度 20 m で雷撃するようになった。
 目標艦船の 800 m 手前で、速度 300 km/h, 高度 60 m で発射された魚雷は、3.5 秒後に速度 324 km/h で 290 m 先の水面に角度 22° で突入する。
 その後、水中を 500 m 駛走して、21秒後に目標に命中する。
 目標艦船の 620 m 手前で、速度 300 km/h, 高度 10 m で発射された魚雷は、1.4 秒後に速度 304 km/h で 120 m 先の水面に角度 9.5° で突入する。
 その後、水中を 500 m 駛走して、21秒後に目標に命中する。
 1942年5月8日朝の珊瑚海海戦において、第五航空戦隊の九七式艦上攻撃機隊は、アメリカ軍の防御陣を突破して、
   USS「レキシントン」(CV-2) 
   USS「ヨークタウン」(CV-5)
に全速降下した。
 なお、小型のヨークタウンには、飛行隊長の
   島崎少佐
が率いる4機1隊が雷撃したが、4本の魚雷がすべて回避された。
 巨大なレキシントンには、航空母艦「瑞鶴」から1隊、「翔鶴」から2隊の合わせて3隊、14機の九七式艦上攻撃機が集中攻撃し、最後の2本が左舷に命中した。
 これらの九七式艦上攻撃機は、従来の雷撃機ではできなかった最高速度 204 ノット (378 km/h) を超える全速で接近してきた。
 レキシントンの艦橋にいた
   F. C. シャーマン艦長
は、魚雷を抱いたまま船の近くに撃墜された九七式艦上攻撃機を観察し、その尾部がなにか箱型のもので覆われているのを見た。
 彼はこれが高速度で雷撃できる理由だと報告した。
 速度 300 ノット (556 km/h) の高速度での雷撃では、投下高度は最高 300〜350 m に制限された。
 この高度制限は、水面入射時の二重反転スクリューの
   プロペラ翼の強度限界
による制限だった。
 これは横須賀空でテスト中に、陸上爆撃機「銀河」(P1Y1) から高速かつ高度 100 m で射出された魚雷が、
   スクリュー翼のひび割れ
によって進路を曲げて駛走したことによる。
 高速度雷撃では、最低高度制限も設定され、40 m に設定された。
 高度 30 m 未満で投下されると、水面上を飛び跳ねる可能性があった。
 1944年3月に横須賀海軍基地において、高機動性を陸軍操縦士搭乗のキ-67(四式重爆撃機)を用いた 300 回のテストから射出諸元を導出し「高速雷撃射法」を確立した。
 海軍はこれを制式射法として承認した。
 電波高度計 タキ13 を装備した キ-67 は1トン魚雷を抱いて高度 1,500 m から水面レベルまで急降下し、2種類の形式で射出する。
 雷撃隊搭乗員の戦死率は非常に高く、第二次大戦初期で 30〜50 %、太平洋戦争の終盤においては昼間攻撃作戦では 90〜100 % の戦死率に達したので、熟練搭乗員達は生き残りのために戦術を工夫した。
 左右に「横滑り」(機体の進行方向に対して機首の向きを左右に傾けること)して飛行経路を欺瞞し、航空魚雷の射点に到達するまで射弾を回避したのもその一つである。

   
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2025年07月09日

債券通(ボンドコネクト)

債券通(ボンドコネクト)
 中国本土と香港間の債券相互取引のこと。
 2017年7月、香港から中国本土への取引「北向通」が先行開始され、これにより、海外の機関投資家が
   香港の決済システム
を使って中国本土の債券を売買できるようになった。
 なお、投資額には上限がなく、中国内に口座がなくても、香港の金融機関に口座があれば投資が可能となる。
 中国本土の投資家による香港市場での取引「南向通」も将来的に実施される予定ではあるが、資金の流出で人民元の価値の低下など中国経済への逆風ともなりかねず、解除されても上限は低いだろう。


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2025年07月01日

七年戦争(1756年から1763年) 主にヨーロッパで戦われた列強間の紛争

 七年戦争は、1756年から1763年にかけて主にヨーロッパで戦われた列強間の紛争であり、北米と南アジアでも重要な軍事作戦が展開された。
 主な交戦国となったのはイギリスとプロイセンで、フランスとオーストリアはそれぞれポルトガル、スペイン、ザクセン、スウェーデン、ロシアなどの国々から支援を受けていた。
 関連する紛争には、
   第三次シュレージエン戦争
   フレンチ・インディアン戦争
   第三次カルナータカ戦争
   英西戦争(1762〜1763年)
   スペイン・ポルトガル戦争
などがある。
 オーストリア継承戦争は1748年の
   アーヘン条約
で終結したが、調印国はいずれもその条件に満足しておらず、一時的な休戦とみなされていた。
 この戦争は外交革命と呼ばれる戦略的再編につながり、オーストリアとフランスの長期続いた対立関係に終止符を打った。
 両者はヴェルサイユ条約(1756年)に調印した後イギリスに宣戦布告し、1757年の2度目の協定でプロイセンが参戦した。
 1762年、スペインはフランスと同盟を結び、ポルトガル侵攻に失敗して、ハバナとマニラをイギリスに奪われた。
 これらはパリ条約(1763年)によって返還されたが、フランスは北アメリカの領土を失った。
 また、イギリスはインドにおける商業的優位を確立した。
 ヨーロッパにおける紛争は、オーストリア帝国により、プロイセン領となっていたシュレージエン地方の奪還の試みを中心とし、1763年のフーベルトゥスブルク条約で終結した。
 この条約により、プロイセンが18世紀初頭において人口が多く、経済も繁栄した地域になっていたシュレージエン占領とその大国としての地位を確立した。
 ドイツ国内におけるオーストリアの支配権が脅かされ、ヨーロッパの勢力均衡が変わった。

      
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2025年06月07日

トーリー党 (イギリス)

トーリー党(Tory Party)
 かつて存在したイギリスの政党で現在の保守党の前身にあたる。
 チャールズ2世の治世である1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであったチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の即位を認める立場をとった人達をさして「Tory」(アイルランドにおけるイングランド人やプロテスタントを狙った強盗)と言ったのが始まり。
 1660年に清教徒革命後の
   王政復古
を受けて即位したイングランド王チャールズ2世には嫡子がおらず、次のイングランド王にはチャールズ2世の弟、ヨーク公ジェームズが目されていた。
 ただ、ジェームズはカトリックであり、プロテスタントのイングランド国教会を国教としているイングランドではカトリックの王を頂くことに対して強い抵抗感があった。
 この後継問題はイングランド議会においてもジェームズの即位を認めるグループと認めないグループの間で激しい論争となった。
 ここで反対派が賛成派を指してToryと呼んだのがトーリーの始まりである。
 論争以前にチャールズ2世の側近であった
   ダンビー伯トマス・オズボーン
が議会内部に宮廷党と呼ばれる与党勢力を築いたのが起源。
 かつてチャールズ2世の側近で王位継承問題で野党に転じた
   シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパー
が結成したグループが後のホイッグ党に転じた。
 トーリー党は王権神授説と国教会支持から王権を尊重、ホイッグ党は議会と非国教徒への寛容を重要視していた。
 こうした背景からトーリー党は王位継承に口を出すことに抵抗を感じた。
 一方のホイッグ党は議会による王権の制限を目論んでいた。
 ただ、この時点で両者ともまとまっていたグループとは言えず、複数の派閥で形成されていた。
 1678年にほら話から始まった
   集団ヒステリー
のカトリック陰謀事件で無実のカトリック教徒が多数処刑された。
 カトリックに対する恐怖からジェームズもフランス王ルイ14世との関与を疑われた。
 シャフツベリ伯ら野党の非難にさらされた。
 ダンビー伯もフランスとの秘密交渉が発覚して窮地に立たされた。
 チャールズ2世は弟と側近を守るため翌1679年に議会を解散した。
 しかし、野党の非難は止まずジェームズはイングランドから出国し、ダンビー伯はロンドン塔へ投獄された。
 シャフツベリ伯らホイッグ党が総選挙に大勝して新たに開かれた議会で与党となったホイッグ党が
   王位排除法案
を提出した。
 この法律でジェームズの王位継承を阻止、合わせてチャールズ2世の庶子である
   モンマス公ジェームズ・スコット
を嫡子に格上げさせて次の王とするのが狙いであった。
 ただ、チャールズ2世は法案を拒絶してまたもや議会を解散、以後も法案提出と解散が繰り返された。
 最終的に1681年の解散以降チャールズ2世は議会を開かなかった。
 チャールズ2世は解散後に反撃に打って出た。
 ルイ14世から資金援助を受けたことと、自分の資金源である
   貿易の関税・物品税
からの収入が増えたため議会から課税の同意を取り付ける必要がなくなり、開会することなく政権運営が出来た。
 加えて、ホイッグ党の支持基盤が都市である点に目を付け、都市の権利を認める特許状の剥奪と再交付でトーリー党に転じさせた。
 地方に準拠する治安判事もトーリー派に交替させてトーリー党の勢力拡大に成功した。
 シャフツベリ伯はロンドン塔へ投獄された(同年に釈放)。
 1682年の地方選挙でトーリー党優勢となり、ジェームズも帰国を許された。
 同年の武装蜂起未遂でシャフツベリ伯はオランダへ亡命した。
 翌1683年に死去した。
 ライハウス陰謀事件でホイッグ党の他の指導者層も処刑され没落した。
 モンマスは関与を疑われオランダへ亡命したため、チャールズ2世の政権は安泰となった。
 1685年の死後にジェームズが王位を継承した。
 「トーリー(Tory)」はアイルランド語の「toraidhe」から来ており、その意味は「ならず者」や「盗賊」と言う意味である。
 歴史的にイングランドの支配に対抗して、イングランド人やプロテスタントの定住者を襲っていたという側面を持ち、アイルランドの視点では義賊扱いされることもあった。
 このため、イングランドやプロテスタントの視点から見て、カトリックの王を立てようとする相手を侮蔑してトーリー(すなわち、アイルランドあるいはカトリックの盗賊共の意味になる)と呼んだ。
 一方即位を認める者達は、即位を認めない者達を指して「Whig」スコットランド語で「謀反人」、「馬泥棒」と言うあだ名を付けた。
 この呼び方もホイッグ党の始まりになった。
 なお、この時点でホイッグ、トーリーとも現在のような綱領を採択して党として一致した政策の実現を目指す政党(Party)ではなく、あくまでもジェームズの即位問題にのみ特化されたグループであった。
 トーリーがジェームズの即位を認めたのは、彼らが王党派であったこと以上に、ジェームズにも嫡子がおらず、カトリックの彼が即位したとしても、それはジェームズの1代限りで終わるという諦めが在ったからだ。
 当初ジェームズ2世は現状維持を約束したためトーリー党が過半数の議会は安堵、
   モンマスの反乱
もすぐさま鎮圧され平穏な治世となるはずだった。
 ところが、カトリックの王ジェームズ2世は反乱後も常備軍を解散せず、カトリック保護政策を打ち出して1687年と翌年の信仰自由宣言で非国教徒とカトリック教徒の保護を宣言、腹心のカトリック教徒を要職に取り立て、兄と同じく地方への選挙工作を行い、既にイングランドでは時代遅れになりつつあった絶対王政的な態度をとり始めた。
 しかし、これにもトーリー、ホイッグともにジェームズ2世の1代限りと諦めるしかなかった。
 1688年、ジェームズ2世の王妃メアリーに王子ジェームズが生まれると事態は一変した。
 ジェームズ2世の後もカトリックの王が即位する可能性が出てきてしまった。
 ここにジェームズ2世の即位に応じたトーリーも反対派のホイッグと協力してジェームズ2世をイングランドから追い出す画策をはじめた。
 オランダからジェームズ2世の娘メアリーと夫でジェームズ2世の甥でもあるオランダ総督ウィレム3世を招き寄せメアリー2世、ウィリアム3世として即位させた。
 ジェームズ2世とその家族は抵抗を諦めてフランスに亡命させられた。これが名誉革命である。
 1689年で議会が開かれるとウィリアム3世とメアリー2世の王位が認められた。
 トーリー党はジェームズ2世に反対していたが、王位尊重の立場からジェームズ2世の後の王位変更にためらっていた。
 なお、その後結局は妥協してウィリアム3世・メアリー2世を新国王として認めた。
 また、ウィリアム3世によって両派から革命の功労者である政治家が要職に取り立てられ、バランスを取った形となった。
 しかし、大同盟戦争を通じて戦時体制を整える必要が出来ると、この期待に応えたのがホイッグ党の政治家達であった。
 議会でホイッグ党が逆転して多数派になったことから、トーリー党員は政権から排除されジャントーと呼ばれるホイッグ党の幹部が取り立てられた。
 1694年にホイッグ党政権が出来上がった。
 終戦後はトーリー党の巻き返しでホイッグ党政権は倒れた。
 1700年に新たにトーリー党政権が成立した。
 大同盟戦争を通して戦争に対する方針も出来上がり、ホイッグ党は積極的に大陸政策を支持するようになった。
 トーリー党は反戦的で海上制覇を重視するようになっていった。
 1694年にメアリー2世が、1702年にウィリアム3世が死去、メアリー2世の妹アンが即位した。
 アンは熱心な国教徒でホイッグ党を嫌っていたことから治世中の殆どはトーリー党中心の政権だった。
 スペイン継承戦争勃発時に大蔵卿として政権の中心に立っていた
   シドニー・ゴドルフィン
は穏健派でアンとの繋がりが深く、友人の
   マールバラ公ジョン・チャーチル
はトーリー党寄りながら大陸政策を支持していた。
 また、妻のサラ・ジェニングスがアンの親友だったことから政権は政党よりアンとの個人関係に依る所が大きく、党派色が薄い中道派であった。
 なお、議会でホイッグ党が再び多数派となるとゴドルフィンは政権運営と1707年のスコットランド王国との合同及びグレートブリテン王国誕生のためホイッグ党員を閣僚に迎えた。
 これがアンとの関係悪化に繋がり、戦争の長期化に伴い和平派のトーリー党が巻き返したうえ、和平に傾いたアンがトーリー党を信任するようになると更に孤立した、
 1710年にゴドルフィンは更迭、総選挙でトーリー党が大勝して新政権が樹立した。
 ゴドルフィンに代わって1711年に就任したのはトーリー党の指導者であった
   ロバート・ハーレー
で、他に有力者の
   ヘンリー・シンジョン
が国務大臣となった。
 ハーレーはホイッグ党の攻撃及びフランスとの和平に動き、同年末にマールバラ公を司令官の座から追放した。
 翌1712年に同盟国を見捨ててまで単独でフランスと休戦を約束した。
 1713年にユトレヒト条約を締結し、商業権の利権拡大を盛り込んだことで後の大英帝国成立に繋がった。
 ハーレーはオックスフォード=モーティマー伯、シンジョンはボリングブルック子爵に叙任された。
 この時がトーリー党の絶頂期だった。
 トーリー党は早くも内部分裂の兆しを見せはじめ、オックスフォードとボリングブルックは主導権を巡って争った。
 なお、1711年のケベック遠征でボリングブルックは提案・推進派だった。
 しかし、オックスフォードは反対していて、オックスフォードが病気になった隙にボリングブルックが決行したという事情があった。
 ユトレヒト条約についても互いに協力しながら細部で対立した。
 また、王位継承問題でアンの後継者は又従兄に当たる
   ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ
に決まっていたが、党内部には大陸へ亡命したジェームズ2世の同名の息子ジェームズを支持する
   ジャコバイト
も含まれていた。
 オックスフォードは将来を考えて前者を選んでいた。
 ただ、ボリングブルックは後者で内部分裂は避けられなくなっていった。
 おまけにゲオルク・ルートヴィヒはマールバラ公と共に大陸で戦っていた。
 マールバラ公の免職及び単独講和でトーリー党に不信感を抱いていたため、トーリー党の優勢は望めなくなった。
 1714年、アンが子供の無いまま死去してステュアート朝は断絶した。
 ドイツからゲオルク・ルートヴィヒが迎えられジョージ1世として即位し
   ハノーヴァー朝
が成立した。
 この新国王ジョージ1世はホイッグ党支持を表明し閣僚にホイッグ党員を起用した。
 1715年の総選挙でホイッグ党は大勝してトーリー党に対する報復人事及び弾劾を決行した。
 晩年のアンの信用を失い大蔵卿を罷免されたオックスフォードをロンドン塔へ投獄した。
 ジャコバイトに走ったボリングブルックらに対しては私権剥奪を行い、反乱鎮圧後はトーリー派の治安判事の交代や議会解散を7年後に延ばす法律を可決させて与党として優位を確立した。
 オックスフォードとボリングブルックはその後釈放・帰国した。
 しかし、2度と政界へ復帰出来なかった。
 かくしてトーリー党は野党に転落、ホイッグ党は政権を磐石にしていった。
 ジョージ1世の下で大蔵卿に任命された
   ロバート・ウォルポール
の下で議院内閣制が発達する。
 ウォルポールはホイッグの所属であり、初期の近代的なイギリス議会はホイッグ優勢で進められた。
 また、トーリーが政党としてのトーリー党と言えるような体裁を整えたのもこの時期である。
 トーリー党から初めて首相が選出されたのは1762年の
   第3代ビュート伯ジョン・ステュアート
の時でウォルポールが選出された40年以上後のことである。
 その後の政権交代はトーリー党、ホイッグ党のいずれかが20年から40年のロングスパンで政権を担当する形になり、現在のように定期的な政権交代と言えるようになるのはトーリー党が
   初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー
ホイッグ党が第2代グレイ伯チャールズ・グレイを輩出した1830年代になってからである。
 トーリー党は大地主層を政権の支持基盤とし、大地主層の利権を保護する政策を取った。
 大地主層の利権を保証する政策として
   当時穀物法
があったがこれはホイッグ党の支持基盤である自由主義貿易を信仰する
   ブルジョワジー
の反対運動によって廃止された。
 この時の首相はトーリー党の
   ロバート・ピール
で、これは政権野党にあっても政権に大きな影響力を与えうるという好例になった。
 Toryは現在では「保守主義」(Conservatism)、もしくは「保守主義者」(Conservative)と言う意味ももっている。
 元々そのような意味は持っていなかった。
 トーリー党が保守主義をとるためToryにも保守主義という意味が付加された。
 トーリー党とホイッグ党が定期的な政権交代を行えるようになった1830年代以降はイギリス議会政治における政界再編期に重なった。
 都市における工場労働者が選挙権の拡大、秘密選挙、平等選挙の徹底、生活待遇の改善を求めて
   チャーティスト運動を
展開したことは、議会政治の場にも大きな影響をもたらした。
 トーリー党、ホイッグ党はともに政党としての組織変革を求められるようになった。
 1830年代、ロバート・ピールの下で党は「保守党」に改められ、新しくスタートすることになった。
 ただし、現在でも新聞の見出しなどでトーリーと呼ばれることはある。

    
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2025年06月05日

保守統一党(Conservative Party (UK) 一般的には保守党、口語ではトーリー党と呼ばれる)

保守統一党(Conservative Party (UK) 一般的には保守党、口語ではトーリー党と呼ばれる)
 労働党と共に英国の二大政党の一つである。
 この党は、左右の政治的スペクトルの中で中道右派から右派に位置する。
 2024年の総選挙で労働党に敗れた後、現在は投票数と庶民院での議席数で第二党であり、国会における正式な役割を担っている。
 この党には、ワンネーション保守派、サッチャー派、伝統主義保守派など、様々なイデオロギー派閥が含まれている。
 これまで20人の保守党首相が誕生した。
 党は伝統的に、党大会の時期には毎年保守党大会を開催し、幹部が党の政策を推進している。
 保守党は1834年に
   トーリー党
から分離して設立したもので、19世紀には自由党と並んで二大政党の一つであった。
 ベンジャミン・ディズレーリ政権下で、大英帝国の最盛期には政治において卓越した役割を果たした。
 1912年には自由統一党が保守党と合併し、保守統一党が結成された。
 労働党との対立は、過去1世紀にわたる現代イギリス政治を形作ってきた。
 2005年の党首選出後、
   デービッド・キャメロン
は党の近代化を目指し、2010年から2024年まで、5人の首相(後にリシ・スナック首相)の下で政権を握った。
 同党は1980年代以降、一般的に自由市場を重視する自由主義的な経済政策を採用してきた。
 ただ、歴史的には保護主義を主張している。
 同党は英国統一主義者であり、
   アイルランド統一
のほか、イングランド、北アイルランド、スコットランド、ウェールズの独立に反対し、権限委譲にも批判的である。
 歴史的には大英帝国の存続と維持を支持してきた。
 同党は欧州連合(EU)に対して様々なアプローチを取っており、EU内には欧州懐疑派と、その数は減少しているものの親欧州派が存在している。
 歴史的には社会的に保守的なアプローチを取ってきた。
 防衛政策においては、
   独立した核兵器計画
とNATO加盟へのコミットメントを支持している。
 イギリスの近代政治史の大部分において、都市部と農村部の間には大きな政治的格差が存在した。
 党の投票基盤および資金基盤は歴史的に見て、特にイングランドの農村部や郊外部の住宅所有者、事業主、農民、不動産開発業者、中流階級の有権者が中心であった。
 2016年のEU加盟国民投票以降、保守党は伝統的な労働党の支持基盤である労働者階級の有権者をターゲットにしてきた。
 20世紀を通じてイギリス政治を支配した党は、西側諸国および人類史上最も選挙で成功した政党の1つとなった。
 直近の保守党政権は、並外れた政治的混乱が特徴であった。
 一般的な歴史家は保守統一党の起源をトーリー党にとしており、トーリー党はすぐに保守統一党に取って代わった。
 また、18世紀のホイッグ党に端を発し、1780年代に
   ウィリアム・ピット(小ピット)
を中心に結成された一派を指摘する歴史家もいる。
 彼らは「独立ホイッグ党員」「ピット氏の友人」「ピット派」などと呼ばれ、「トーリー」や「保守派」といった用語は用いなかった。
 歴史家
   ロバート・ブレイク
によれば1812年頃から、「トーリー」という名称は、「保守主義の祖先」である新しい政党を指すのに一般的に用いられるようになった。
 さらに、1812年以降のピットの後継者たちは「いかなる意味でも『真のトーリー主義』の旗手ではなかった」と付け加えている。
 トーリーという用語は、1678年から1681年にかけての排斥法案危機の際にイギリス政治に入り込んだ侮辱語と見られており、中期アイルランド語の「tóraidhe」(現代アイルランド語: tóraí)から派生した「無法者」または「強盗」を意味している。
 さらに「tóir」はアイルランド語で「追跡」を意味し、無法者は「追われる男」であった。
 「保守党(Conservative)」という用語が、1830年に
   J・ウィルソン・クローカー
がクォータリー・レビュー誌に掲載した記事の中で、党の名称として提案された。
 この名称はすぐに広まり、1834年頃にロバート・ピールの指導の下、正式に採用された。
 ピールはタムワース宣言を発表して保守党を創設した人物として知られている。
 1845年までに、「トーリー党(Tory)」ではなく「保守党(Conservative Party)」という用語が主流になっている。
 19世紀における選挙権拡大により、保守党は
   第14代ダービー伯エドワード・スミス=スタンリー
   ベンジャミン・ディズレーリ
の指導の下、そのアプローチを普及せざるを得なくなった。
 ディズレーリは1867年改革法を制定し、選挙権拡大を実現した。
 保守党は当初、選挙権のさらなる拡大に反対していた。
 なお、最終的にはグラッドストンの1884年人民代表法の成立を認めた。
 1886年、保守党は
   スペンサー・キャベンディッシュ
   ジョセフ・チェンバレン
が率いる新生自由統一党と連携し
   ロバート・ガスコイン=セシル
   アーサー・バルフォア
の指導の下、その後20年間のうち3年間を除く全期間政権を掌握した。
 ただ、1906年に自由貿易をめぐる党の分裂により大敗を喫した。
 若きウィンストン・チャーチルは
   チェンバレン
の自由貿易攻撃を非難してユニオニスト/保守党内の反対勢力の組織化を支援した。
 しかし、党首バルフォアは保護主義的な法案を提出した。
 チャーチルは党を離脱して正式に自由党に入党したが1925年に保守党には復帰した。
 12月、離党者が急増したため、バルフォアは党の統制力を失った。
 後任には自由党の
   ヘンリー・キャンベル=バナーマン首相
が就任した。
 1906年1月に総選挙が実施され、自由党が大勝した。
 自由党のH・H・アスキス首相は多くの改革法案を成立させた。
 ユニオニストは草の根組織化に尽力した。
 1910年には1月と12月の2回の総選挙が実施された。
 二大政党の議席数はほぼ互角となったが、自由党はアイルランド議会党との連立政権で政権を維持した。
 1912年、自由統一主義者は保守党と合併した。
 アイルランドでは、1891年にアイルランド自治に反対する統一主義者を一つの政治運動に統合した
   アイルランド統一主義者同盟
が結成されていた。
 同盟の議員はウェストミンスターで保守党の院内幹事を務めた。
 1922年までには実質的に党のアイルランド支部を形成していた。
 イギリスでは、保守党は自治に反対していたため、
   統一主義者党
として知られていた。
 1911年から1914年にかけて
   ボナー・ロー
が指導した際、党の士気は向上し、「急進右派」は抑制され、党機構は強化された。
 建設的な社会政策の策定に向けて一定の進展が見られた。
 ベルギー侵攻までは自由党は概ね戦争に反対していた。
 保守党の指導者たちはフランスを支援し、ドイツを阻止することに強く賛成していた。
 自由党は、シェル危機における戦争遂行の失策が評判を大きく傷つけるまで、政府を完全に掌握していた。
 1915年5月には超党派連立政権が成立した。
 1916年後半、自由党の
   デイヴィッド・ロイド・ジョージ
が首相に就任した。
 ただ、自由党はすぐに分裂し、特に1918年の選挙で保守党が圧勝した後は、保守党が政権を掌握した。
 自由党はその後も勢力を回復することはなかったが、1920年以降は労働党が勢力を伸ばした。
 ナイジェル・キーヘインは、保守党は1914年以前には激しく分裂していた。
 しかし、戦争によって党が結束し、新たな指導部が誕生し、アイルランド問題、社会主義、選挙制度改革、そして経済介入問題に関する立場を固める中で愛国心を強調するようになったと指摘している。
 反社会主義への新たな重点化は、労働党の勢力拡大への対応策であった。
 選挙制度改革が問題となった際には、保守党はイングランドの農村部における支持基盤の維持に努めた。
 1920年代には、愛国的なテーマを掲げ、積極的に女性有権者の獲得に努めた。

     
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2025年03月31日

パックマン・ディフェンス(Pac-Man defense)

パックマン・ディフェンス(Pac-Man defense)
 敵対的買収を阻止するために使われる
   防御的なビジネス戦略
のこと。
 敵対的買収の脅威にさらされた企業が、買収を企てる企業を買収することで「形勢を逆転」させる取り組みである。
 この名前は、主人公が最初、4人のゴーストにドットの迷路で追いかけられるビデオ ゲーム、パックマンに由来する。
 しかし、「パワー ペレット」ドットを食べると、主人公はゴーストを追いかけて食べられるようになり逆転する。
 この用語 は、買収の第一人者である
によって造られた。
 1981年に
のメサ ペトロリアムが
   シティーズ サービス
の株式公開買い付けを計画したとき、
   フリーポート マクモラン
   ルイジアナ ランド & エクスプロレーション
が彼を支援することに同意した。
 1981年8月、シティーズ サービスに勤務する投資銀行家がフリーポートとルイジアナ ランドに対し、ピケンズとの提携を解消しなければ
シティーズ サービスが買収すると警告し、その脅しが成功した。
 ピケンズが
   サウスランド コーポレーション
を含む新しいパートナーを見つけると、シティーズ サービスは 1982年5月にメサに対する独自の株式公開買い付けを発表した。
 また、サウスランドの買収もちかけた。
 米国企業の歴史における大きな例として、1982年に
   ベンディックス コーポレーション
がマーティン マリエッタを敵対的買収しようとした事件がある。
 これに対し、マーティン マリエッタはベンディックスの株を買い始め、同社の支配権を握ろうとした。
 ベンディックスは
   アライド コーポレーション
にホワイト ナイトとして行動するよう説得し、同社は同年アライドに売却された。
 1984年、米国証券取引委員会の委員はパックマンの弁護は
   「深刻な懸念」の原因
であると述べた。
 ただし、この戦術に対する連邦の禁止を支持することには難色を示した。
 委員らは、パックマン防御が
   特定の状況下では株主に利益をもたらす可能性があること
を認めたが、経営陣がこの戦術に頼る場合、単に政権にとどまりたいという願望から行動しているのではないことを証明する責任を負わなければならないことを強調した。
 1つの懸念は、侵入した会社の支配権を獲得するために費やされた資金(この防御に必要な弁護士やその他の専門家へのサービス料を含む)は、会社の事業改善や利益増加に使用できたはずの多額の資金に相当するということである。
 次の「パックマン防御」は1988年に発生し、
   E-IIホールディングス
による敵対的買収の試みに対抗していた
   アメリカン・ブランズ
が、E-IIに対する現金による株式公開買い付けを発表した。
 2007年、英国の鉱業大手
は、オーストラリアのライバル
による1,315億7,000万ドルの買収提案に対抗した。
 ライバルに形勢を逆転させてBHPに対する対抗入札を開始することを検討した。
 2009年、キャドバリー
   クラフトフーズ
の敵対的買収提案に対抗する入札が行われなかった場合、パックマン防御を試みる可能性を検討した。
 国際的に最もよく知られているケースは、おそらく
   ポルシェ
のケースがある。
 このケースでは、
   ヴェンデリン ヴィーデキング
の指揮の下、ポルシェははるかに規模の大きいフォルクスワーゲン グループの敵対的買収を主導した。
 徐々にフォルクスワーゲンの株式を大量に取得していき、最終的には 2008年に同社の 75% を超える株式を所有するに至り、ドイツの「フォルクスワーゲン法」を発動させる可能性もあった。
 2008年10月までに、記録的な収益を享受していたポルシェは、2007年から 2008年にかけての金融危機で突然資金が底をつき、銀行はポルシェへの融資を躊躇し、実際、銀行は融資の即時返済を求めた。
 フォルクスワーゲンの会長でありポルシェの取締役でもあった
   フェルディナント・ピエヒ
は、ポルシェの負債を返済するのに十分な資金を貸し付け、ポルシェが買収しようとしていたフォルクスワーゲンがホワイトナイトとなり、フォルクスワーゲンが事実上ポルシェを買収した。
 この特異な状況は、フォルクスワーゲングループとポルシェの歴史的近さ、そしてポルシェ家とピエヒ家(どちらもフェルディナント・ポルシェの子孫)の間でポルシェの支配権をめぐる争いがあったことと大きく関係している。
 ただ、両家ともこの取引を支持していた。
 しかし、その年の後半に両社が正式に合併を発表したとき、フォルクスワーゲンが存続パートナーとして発表された。
   
   
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2025年03月25日

クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan KKK)米国のプロテスタント主導のキリスト教過激派で白人至上主義、極右憎悪グループ

クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan KKK)
 一般的にKKKまたはKlanと略され米国のプロテスタント主導のキリスト教過激派で白人至上主義、極右憎悪グループをいう。
 南北戦争により荒廃した南部で1865年の復興期に設立された。
 様々な歴史家は、KKKをアメリカ初の
   テロ集団
と位置づけており、この集団には秘密結社として組織化された複数の組織が含まれている。
 頻繁にテロ、暴力、脅迫行為に訴えて「自らの基準」を押し付け、犠牲者、特にアフリカ系アメリカ人、ユダヤ人、カトリック教徒を抑圧してきた。
 これらの組織のリーダーは
   グランド・ウィザード
と呼ばれ、時間と場所に応じてさまざまな他のターゲットを伴う3つの異なる反復があった。
 最初のKKKは1865年12月24日にテネシー州プラスキーで、南北戦争の復興期に
   急進的な復興に反対
する男性のために、南部で政治的に活動的な黒人とその白人の政治的同盟者を襲撃し殺害した
   フランク・マッコード
   リチャード・リード
   ジョン・レスター
   ジョン・ケネディ
   J・カルビン・ジョーンズ
   ジェームズ・クロウ
の6人の元南軍将校によって設立された。
 当初は、当時ほとんど解散していた「マルタの息子たち」に少なくとも部分的に触発された友愛的な社交クラブであった。
 1907 年のアルバート スティーブンスによると、入会式の一部をそのグループから借り、同じ目的を持っていた。
 「滑稽な入会式、大衆の好奇心をかき乱すこと、そしてメンバーを楽しませることが KKK の唯一の目的だった」
 儀式のマニュアルは、プラスキの
   ラプス D. マコード
によって印刷された。
 なお、顔を隠すフードの起源は不明だが、スペインのカピロテ フードから流用した可能性や、南部のマルディグラのお祝いのユニフォームに由来している可能性があるという。
 KKKには支部レベル以上の組織構造は存在しないものの、南部各地に同様の目標を掲げた同様のグループが作られた。
 KKK支部は白人至上主義を推進し、南部全体に復興に抵抗する反乱運動として広がった。
 南軍退役軍人の
   ジョン・W・モートン
は、テネシー州ナッシュビルにKKK支部を設立した。
 秘密の自警団として、KKKは解放奴隷とその同盟者を標的にした。
 彼らは「北部の白人指導者、南部の同調者、そして政治的に活動的な黒人を標的にした。」殺人を含む脅迫と暴力によって白人至上主義を復活させようとした。

 KKKの暴力は黒人の投票を抑圧し、選挙運動の季節は死者を出した。
 1868 年 11 月の大統領選挙の数週間前までに、ルイジアナ州では 2,000 人以上が殺害、負傷、その他の被害に遭った。
 セントランドリー教区は登録有権者数が 1,071 人で共和党が多数派であった。
 しかし、殺人事件の後、秋の選挙では共和党員は投票しなかった。
 白人民主党員は教区の票をすべてグラント大統領の対立候補に投じた。
 KKK は黒人共和党員 200 人以上を殺害、負傷させ、森の中で彼らを狩り、追い回した。
 13 人の捕虜が刑務所から連れ出され、射殺された。
 森の中で 25 人の遺体が半分埋まった状態で発見された。
 KKK は人々に民主党に投票するよう強制し、その事実を証明する証明書を渡した。
 1868 年 4 月のジョージア州知事選挙では、コロンビア郡は共和党員の
   ルーファス・ブロック
に 1,222 票を投じた。
 11月の大統領選挙までに、KKKの脅迫により共和党の投票が抑制され、
   ユリシーズ・S・グラント
に投票したのは1人だけだった。
 KKKのメンバーはフロリダ州ジャクソン郡で150人以上のアフリカ系アメリカ人を殺害し、マディソン、アラチュア、コロンビア、ハミルトンなどの他の郡でも数百人を殺害した。
 フロリダ解放奴隷局の記録には、KKKのメンバーによる解放奴隷とその白人同盟者への暴行と殺害の詳細が記されている。
 アラバマ州ブラント郡の山岳地帯に住む北軍の退役軍人が「反クー・クラックス」を組織した。
 彼らは、北軍支持者への鞭打ちや黒人教会や学校の放火をやめなければ報復するとクランメンバーを脅して暴力を終わらせた。
 武装した黒人はサウスカロライナ州ベネットズビルで自衛隊を組織し、自宅を守るために街をパトロールした。
 全国レベルでは、一部の民主党員がKKKが本当に存在するのか、あるいは神経質な南部の共和党知事が作ったものだと信じているにもかかわらず、国民の感情はKKKを取り締まる方向に傾いた。
 多くの南部の州が反KKK法案を可決し始めた。

 クランのリーダー、ネイサン・ベッドフォード・フォレストは、クランは全国規模の組織で55万人の男性で構成されており、5日間の通知で4万人のクランメンバーを召集できると自慢していた。
 ただ、クランにはメンバー名簿も支部も地方役員もなかったため、観察者がそのメンバーを判断するのは困難だった。
 覆面をかぶった襲撃の劇的な性質と多くの殺人により、クランはセンセーションを巻き起こした。
 1870年、連邦大陪審はKKKを「テロ組織」と認定し、暴力とテロ行為の罪で数百件の起訴状を発行した。
 KKKのメンバーは起訴され、その多くは連邦政府の管轄下にある地域、特にサウスカロライナから逃亡した。
 正式にKKKに加入していない多くの人々は、独自の暴力行為を行う際に身元を隠すためにKKKの衣装を使用していた。
 フォレストは1869年にKKKの解散を要求し、「KKKは本来の名誉ある愛国的な目的から逸脱し、公共の平和に従属するのではなく有害になっている」と主張した。
 
(1870年と1871年に連邦政府はKKKの犯罪を起訴し抑圧することを目的とした執行法を可決した。)
 1871年1月、ペンシルバニア州の共和党上院議員ジョン・スコットは議会委員会を招集し、KKKの残虐行為について52人の証人から証言を集め、12巻にまとめた。
 2月、元北軍将軍でマサチューセッツ州の下院議員
   ベンジャミン・バトラー
は1871年公民権法(KKK法)を提出した。
 これは南部の白人民主党員がバトラーに対して抱く敵意をさらに強めた。
 この法案が検討されている間、南部でさらなる暴力が起こり、法案可決への支持が揺らいだ。
 サウスカロライナ州知事は、州を支配し続けるための努力を支援するため連邦軍を要請した。
 ミシシッピ州メリディアンの裁判所で暴動と虐殺が発生し、黒人の州議会議員が森に逃げ込んだ。
 1871年の公民権法は大統領に人身保護令状を停止する権限を与えた。
 1871年、ユリシーズ・グラント大統領はバトラーの法案に署名した。
 連邦政府は、憲法の下で個人の公民権条項を施行するために、クー・クラックス・クラン法と1870年の施行法を使用した。
 1871年のクー・クラックス・クラン法の後も、クランは自主解散を拒否したため、グラント大統領は人身保護令状の停止を命じた。
 1807年の反乱法を発動してサウスカロライナ州の9つの郡に連邦軍を駐留させた。
 クランのメンバーは逮捕され、連邦裁判所で起訴された。
 ヒュー・レノックス・ボンド判事とジョージ・S・ブライアン判事は、1871年12月にサウスカロライナ州コロンビアで行われたサウスカロライナ州クー・クラックス・クラン裁判の裁判長を務めた。
 被告は3ヶ月から5年の禁固刑と罰金刑を受けた。
 連邦裁判所の陪審員には、地方や州の陪審員よりも黒人が多く、裁判に参加する機会があった。
 取り締まりの際、何百人ものクランメンバーが罰金を科せられたり投獄されたりした。「連邦政府が軍事介入の方針を固めると、州の弱い「急進派」政府の権威を偵察していた全住民が従順になった」

 連邦法執行機関はKKKが、特に
   有権者への脅迫
とアフリカ系アメリカ人の指導者に対する
   標的型暴力
を利用して、南部の共和党州政府を転覆させようとしたことから、1871年頃からKKKに対して行動を起こし始めた。
 KKKは、米国南部全域で多数の独立した支部として組織されている。
 各支部は自治権を持ち、メンバーや計画については極秘にして活動していた。
 メンバーはローブ、マスク、尖った帽子など、恐ろしく身元を隠すために、独自の、しばしば色鮮やかな衣装を作って威圧し示威行動を繰り返した。
 最初の KKK は、目的達成という点ではさまざまな成果をあげた。
 暗殺や暴力の脅しによって
   黒人の政治指導者
を著しく弱体化させ、一部の人々を政治から追い出した。
 その一方で、激しい反発を引き起こし、連邦法の可決は、歴史家のエリック・フォナーが「秩序の回復、南部共和党員の士気の回復、黒人が市民としての権利を行使できるようにする」という点で成功だったと述べている。
 また、歴史家のジョージ・C・ラブルは、KKK は政治的に失敗であり、そのため
   南部の民主党指導者によって見捨てられた
と主張している。
 また、「KKK が衰退したのは、一部には内部の弱点、つまり中央組織の欠如と、犯罪者やサディストを統制できなかった指導者たちの失敗による。より根本的には、KKK が衰退したのは、南部の共和党州政府の打倒という中心目的を達成できなかったためである」と指摘している。
 KKKが鎮圧された後、共和党の投票を抑制し、共和党を公職から追い出すことを明確な目的とした同様の
   反乱準軍事組織
が出現した。
 1874年にルイジアナ州で始まった
   ホワイト・リーグ
と、ミシシッピ州で始まり、カロライナ州に支部を作ったレッド・シャツである。たとえば、レッド・シャツはサウスカロライナ州でウェイド・ハンプトンを知事に選出するのを助けたとされている。
 KKKは民主党の軍事部門として活動しているとされ、南部全域で
   白人民主党
が州議会の支配権を取り戻すのを助けたとされている。
 2 代目の KKK は 1910 年代後半に始まり、十字架を燃やし、標準化された白いフード付きのローブを使用した最初の組織である。
 1920 年代の KKK は全国で数百万人の会員を擁した。
 米国生まれの白人プロテスタント人口のさまざまな層を反映した。
 1915年、第2次KKKはジョージア州ストーンマウンテンの頂上で
   ウィリアム・ジョセフ・シモンズ
によって設立された。
 シモンズは元のKKKの文書と生き残った長老たちの記憶に頼っていた。
 ただ、復活したKKKは、大人気映画『国民の創生』に大きく基づいていた。
 以前のKKKは白い衣装を着ておらず、十字架を燃やすこともなかった。
 その年の12月にアトランタで映画が上映されたとき、シモンズと彼の新しいKKKのメンバーは、映画と同じようにローブと尖ったフードを身にまとい、多くはローブを着た馬に乗って劇場に行進した。
 これらの大規模な行進は、第1KKKにはなかった、新しいKKKのもう1つの特徴となった。
 1921年以降、第2KKKはフルタイムの有給リクルーターを使用する現代的なビジネスシステムを採用し、当時多くの例が繁栄していた友愛組織として新メンバーにアピールした。
 全国本部は
   コスチューム販売の独占
で利益を上げ、主催者は入会金で報酬を得ていた。
 繁栄の時代に全国規模で急速に成長した。
 アメリカの都市部と田舎の社会的緊張を反映して、全州に広がり、多くの都市で目立つ存在となった。
 作家のW・J・キャッシュは、1941年の著書『南部の精神』で、第2次KKKを「反黒人、反外国人、反赤、反カトリック、反ユダヤ、反ダーウィン、反近代、反自由主義、原理主義、極めて道徳的、戦闘的なプロテスタント」と特徴づけた。
 彼らは「100パーセントのアメリカ主義」を説き、
   政治の浄化
を要求し、厳格な道徳と禁酒法のより徹底した施行を求めた。
 その公式のレトリックは、反カトリック主義と土着主義を用いて、カトリック教会の脅威に焦点を当てていた。
 その訴えは白人プロテスタントにのみ向けられていた。
 ユダヤ人、黒人、カトリック教徒、そして新たに到着した南欧および東欧からの移民(そのほとんどはユダヤ人またはカトリック教徒)に反対した。
 一部の地元グループは、ラム酒密輸人や「悪名高い罪人」とみなした人々に対して暴力を振るうと脅した。
 第二次KKKが主導した比較的少数の暴力事件は、ほぼすべて南部で発生した。
 レッドナイツはKKKに対抗するために組織された過激派グループであり、何度かKKKの挑発に暴力的に反応した。
 セカンド・KKKは正式な友愛団体で、全国および州レベルで組織化されていた。
 最盛期には、その広報は南部広報協会によって行われた。
 協会の全国的な勧誘活動の最初の6か月間で、KKKの会員数は85,000人増加した。
 1920年代半ばのピーク時には、組織の会員数は300万から800万人と推定された。
 なお、1923年、シモンズは
   ハイラム・ウェズリー・エバンズ
によってKKKのリーダーの座を追われた。
 1923年9月から、2つのクー・クラックス・クラン全国組織が存在した。
 1つはシモンズによって設立され、エバンズが率いる組織で、主に米国南部で勢力を持ち、もう1つは
   グランド・ドラゴン・D・C・スティーブンソン
が率いる分派グループで、インディアナ州エバンズビルを拠点とし、主に中西部で勢力を持っていた。
 内部分裂、指導者の犯罪行為、特にスティーブンソンがマージ・オーバーホルツァーの誘拐、強姦、殺人で有罪判決を受けたこと、そして外部からの反対により、両国のKKKグループの会員数は激減した。
 主要グループの会員数は1930年までに約3万人にまで減少し、1940年代についに消滅した。
 なお、KKKの組織者はカナダでも活動し、特に1926年から1928年にかけてサスカチュワン州で活動した。
 そこでKKKのメンバーは東ヨーロッパからの移民をカナダの「アングロサクソン」の伝統に対する脅威として非難した。
 20 世紀半ばに結成された 3 代目、現在の KKK は、主に拡大する
   公民権運動への反応
で勢力を拡大した。
 また、目的を達成するために殺人や爆破事件を利用し、すべて、アメリカ社会の「浄化」を訴えている。
 各時代において、会員は秘密にされ、総数の推定は味方と敵の両方によって大幅に誇張された規模を作り出した。
 KKK の各代目は、重複しない期間によって定義されている。
 中央の指揮がほとんどまたはまったくない地方支部で構成されており、統率されていない場合が多い。
 それぞれが、白人至上主義、反移民、そして特に後期の反復では、北欧主義、反ユダヤ主義、反カトリック主義、右翼ポピュリズム、反共産主義、同性愛嫌悪、反無神論、イスラム嫌悪などの反動的な立場を主張してきた。
 「KKK」という名前は、特に1950年代と1960年代に、公民権運動と人種差別撤廃に反対する多数の独立した地元の秘密組織によって使用された。
 彼らは、アラバマ州バーミンガムのように南部の警察署や、アラバマ州のジョージ・ウォレスのように知事室と非公式な同盟を結ぶこともあった。
 サード・クランの活動家数名は、1964年にミシシッピ州で公民権運動活動家が死亡した事件や、1963年にバーミンガムの16番街バプテ​​スト教会で起きた爆破事件で子供たちが死亡した事件で、殺人罪で有罪判決を受けた。
 米国政府はサード・クランを「破壊的テロ組織」とみなしている。
 1997年4月、FBI捜査官はダラスでクー・クラックス・クランの真の騎士団のメンバー4人を強盗共謀と天然ガス処理工場爆破共謀の疑いで逮捕した。
 1999年、サウスカロライナ州チャールストン市議会は、クランをテロ組織と宣言する決議を可決した。
 サード・クランのグループは一貫して衰退状態にある。
 これは、さまざまな要因が関係しており、グループのイメージ、綱領、歴史に対する国民の否定的な嫌悪、法執行機関による浸透と訴追、民事訴訟による金銭没収、そして極右派によるクランは時代遅れで流行遅れであるという認識などが背景にある。
 南部貧困法律センターは、2016年から2019年の間に、アメリカのクランのグループの数は130からわずか51に減少したと報告した。
 反名誉毀損連盟による2016年の報告書では、サード・クランのグループは現在も30強が活動していると推定されている。
 総メンバー数は約3,000人から8,000人と推定されている。
 サード・クランには、活動的なメンバーに加えて、「不明な数の仲間と支持者」がいる。
   
   
posted by manekineco at 15:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 語彙・語句・ことわざ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする