2018年08月23日

軍師とは


軍師

 西欧の軍制度における参謀などと異なり
   軍司令官的な存在
とも対等、あるいは上位の関係にあり、顧問的な立場であった。

 王朝成立間際の時代においては君主の師匠扱いもされ、君主より上位の存在の場合すらあった。


 軍師像としては、師匠は弟子よりも上位とする
   儒教道徳的な考え方
に基づくもので、実際に軍司令官的存在に対し、上位の立場で
   軍事にのみ助言
する軍師という存在は
   三国志演義
   水滸伝
や日本の戦国時代を基に作られた軍記物などの創作(フィクション)の世界によって創作された部分が大きい。

 軍師の代表例とも言えるのが三国志時代の諸葛亮(諸葛孔明)だが、政治・軍事の枠を超えて蜀のほとんどの分野に関わった人物としても知られる。

 軍政両面に権限を持った人物が、軍事に専従する人物よりも上位にあったことも多く、愚帝が譲位することも多く見られた。
   
   
   
   
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2018年08月08日

李 廷珪(り ていけい、生没年不詳) 10世紀前半の中国南唐の製墨家


李 廷珪(り ていけい、生没年不詳)

 10世紀前半の中国南唐の製墨家
 五代十国時代に南唐の後主と呼ばれた第3代(最後)の国主
   李U
に重用された廷珪の墨は
   李墨(りぼく)
と呼ばれ、卓越した品質で中国史上最高の墨と評されている。

 南唐では李m、李Uの2代にわたり
   文化・芸術
に熱心な君主が相次いだ。

 特に李Uの代には国内が安定し
   文化的産業
は国家的事業と言えるほどに発達した。

 文化が花開き中国史上最高と謳われる
   文房四宝(筆墨硯紙)
が作成された。

 この文房四宝のうち、墨を製造した廷珪は易水(現在の河北省保定市易県)の平民であった。
 本姓は奚といい、祖父は奚鼐(けいだい)、父は李超(りちょう、生没年不詳)という。

 唐末の混乱を逃れて父と共に易水の地を離れて歙州(現在の安徽省黄山市)に移り住んだ。

 歙州の松が製墨に良いとしてこの地で墨業を始め、徽墨(歙墨とも)の基礎を築いた。

 弟の李廷寛も製墨で名がある人物。


 廷珪が製造する墨の品質が卓越していたため李Uによって重用された。
 李Uは彼に「墨務官」という官位を新設して就任させた。

 また、国姓である「李」を授けた上、専用の工場を設立して最大限の援助を与えた。

 この後、廷珪の墨は「李墨」と称され、歴代の皇帝も非常に珍重した。
 このため「黄金は得やすく、李墨は求め難い」と言われるような貴重なものとなった。

 北宋の太宗(趙匡胤(ちょう きょういん) 初代皇帝)が翰林侍書の
   王著
に命じて内府所蔵の歴代の法帖の名蹟を編纂、上刻 (原本は木刻) させた「淳化閣帖」は廷珪の墨で拓したといわれている。

 時代は下り、清朝が安定しもっとも繁栄した時代、乾隆帝は李墨を入手した際非常に喜び、紫禁城内に「墨雲室」という専用の保管所を設置し最高級の至宝として蔵したという。


   
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古墨(こぼく)


 文房四宝における墨の中で、製造されてから長い年月を経ているものを
   古墨(こぼく)
といい、品質の良い墨とされている。

 通常、唐墨は清時代までに、和墨は江戸時代までにつくられたものを古墨と呼ぶ。
 ただし、古墨は使用されることで価値があるが、使用されれば数が少なくなるため、今ではほとんど入手不可能であり、100年以上前の墨は古渡りものにたよる以外ないともいわれる。 


 
  
   
  


   
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2018年08月04日

衛所(えいしょ) 


衛所(えいしょ)

 中国で朱元璋が元を北へ逐って建国した明朝(1368年 - 1644年)の軍事組織の制度。
 農民に自前で武器をもたせて任務につかせる
   兵農一致
の制度で唐の府兵制を範とする軍事編成で、明代軍事体制の中核を担っている。
 
 規模の大小により、十戸所・百戸所・千戸所、五つの千戸所を統括する衛などから成る。


 衛所の活動形態は、戌軍による守備活動としての
   守城(捕盗・辺防・海防を含む)
と、衛所の経済的基礎をなす
   屯田行為
とが基本であった。

 明朝は、女真・チベット・苗など、民族単位での統一政権を樹立していない諸民族に対して冊封を行う際、その規模の大小に応じ、衛所の指揮官の称号を授与した。

 なお、近隣諸民族の諸侯に対し名目的に称号を付与することによって成立した諸衛を「羈縻衛(きびえい)」と呼んだ。




    

   
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2018年05月01日

軍師(ぐんし)


軍師(ぐんし)

 軍中において、軍を指揮する君主や将軍の戦略指揮を助ける職務を務める者のこと。
 この職務を務める者は東アジアにおいては古代から軍中にみられた。

 ヨーロッパでは近代的な軍制において参謀制度が確立するまで制度としては存在していない。
 知将、策士などとも呼ばれる。
  
   
   

  
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2018年03月08日

ニューヨーク知識人(The New York Intellectuals)


ニューヨーク知識人(The New York Intellectuals)


 20世紀中期の米国ューヨーク市ブルックリンなどのユダヤ人の集団居住地域ゲットーで生まれた。
 米国文化の中核を占めるまで勢力を拡大していった作家と文芸評論家の知識人のユダヤ人知識人集団のこと。

 彼らは、左翼政治を主唱したが、反スターリン主義者でもあった。
 ソビエト共産主義を拒絶しながら、政治的モデルとして使用できるように
   マルクス主義と社会主義
を文学的セオリーに統合させた。

 多くのニューヨーク知識人は
   ユダヤ人労働者階級
の家庭の出身で経済的に豊かではなかった。

 このため、「プロレタリアのハーバード」("Harvard of the Proletariat") と称されたニューヨーク市立大学シティカレッジ (CCNY) に学び、卒業後にコロンビア大学で学問を修めているものが多い。

 また、彼らの多くは、後に新保守主義運動(ネオコン)に影響を与えた。

 作家ニコラス・リーマンは、ニューヨーク知識人を、アメリカ版の「ブルームズベリー・グループ」であると指摘した。
 ダニエル・ベル、フィリップ・ラーヴ、クレメント・グリーンバーグなどがいる。


    
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2017年09月07日

巫蠱の獄


 武帝は晩年に
   江充
という者を信任し
   監察官
の役目を命じた。
 江充は権勢家や皇族であっても弾劾し、皇太子のことも弾劾した。

 江充は大官として権勢を振るうようになったが老いた第7代皇帝の武帝が亡き後も権力を独占し続けることを望んだ。

 江充がその地位を獲得するなかで遺恨があった皇太子が次の帝位に就くことを恐れ、これを除こうとして有力者、敵対者を次々と
   巫蠱(呪殺を行った)の嫌疑
で抹殺していった。

 丞相公孫賀がお尋ね者だった「大侠」と呼ばれる
   朱安世
を捕らえた。

 朱安世が丞相公孫賀に獄中から公孫敬声と陽石公主の密通や巫蠱により皇帝を呪っている事を告発した。
 巫蠱が明るみに出ると、江充は当時武帝が病床にあり、代替わりしたら遺恨のある今の皇太子に殺されることになると考え、武帝の病は巫蠱の呪いであると上奏した。
  

 武帝は江充を使者として取調べさせたところ、江充は
   胡の呪い師
を連れて呪いの人形を掘り当てさせ、地上に酒を撒いて
   儀式の証拠
を捏造したうえ、拷問にかけて自白を強要した。

 民はお互いに巫蠱であると誣告しあうようになり、吏はそのたびに大逆罪としたため、死者は数万人にも及んだという。

 江充は武帝が自分の近くに巫蠱を行っている者がいると疑うよう仕組み洗脳し、宮中が怪しいと述べた言質を利用し、後宮の夫人、皇后を取り調べたうえ、皇太子の宮殿で呪いの人形を掘り当てて見せた。

 当然濡れ衣であったため、追い詰められた皇太子は江充を捕らえたうえ「趙の下郎よ、お前の故郷の国王親子の関係を乱すのみでは足りず、我ら親子まで乱そうとするのか」と江充を罵って斬り殺した。

 しかし、この時皇太子は蜂起の際「武帝の病気が悪化し崩御した可能性もあり、これに伴い江充が反乱を起こした」と布告してしまった。

 このため、帝の死を偽ったかどで大逆罪に問われ、皇太子の軍は壊滅し、皇太子は敗走して自害し、9族皆殺しのうえ一族郎党も全て処刑された。
 その後、武帝は江充の偽りと皇太子の無実を知ったことから江充の三族を皆殺しにしたという。
  
 
 

      
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2017年09月06日

夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか)


夏家店下層文化(かかてんかそうぶんか)

 中華人民共和国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃[1])に存在した新石器時代の
   紅山文化
から続く、紀元前2000年から紀元前1500年頃の現中国東北部、北西は内蒙古自治区東部のシラムレン川北岸から張家口にかけて、南東は河北省北部から遼寧省西部を中心とした文化のこと。


   
   

 内蒙古自治区赤峰市夏家店遺跡の下層を標式遺跡として、小河沿文化に続いていくもの。

 生活は農業を中心とした雑穀栽培で、他に牧畜、狩猟、漁労も行われた。

 遺跡からは豚、犬、羊、牛、鹿などが見つかった。

 多数の大規模集落が発見され、北東アジアの乾燥、寒冷化が進行した紀元前二千年紀後半以降から戦国時代や前後漢にかけての時期よりも人口密度が高かったと推定されている。

 石器、骨器、陶器も見出されており、他に少数の金、鉛、漆器、翡翠、銅器、青銅器も見つかっている。

 陶器は三足型、銅器・青銅器は耳輪型が多い。
 また、骨を使った卜占も行われていた。

 家は多くは円く、土と石で造られ集落は崖や急斜面近くに造られて攻撃への備えも考慮された防御施設も見られた。
 また、石壁が集落の周囲に立てられているものもある。

 土器・陶器や青銅器の様式などは殷(商)の物とよく似ているため、殷文化に属する人々が北東へ移住したか、逆に
   遼河文化
に属する人々が気候変動によって中原へ南下し殷文化を形成したと考えられている。

 同地域ではその後、乾燥化と寒冷化が進み牧畜を主な生産様式とする夏家店上層文化が広まった。

 研究者による内モンゴル自治区東部の
   渾善達克砂丘地帯
の堆積物の調査によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれ、深い湖沼群や森林が存在したことが明らかになっている。
 この肥沃な地域が約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化したという。

 このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性がある。
  
 
 

     
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