2017年09月12日

制裁強化決議が採択された場合は報復すると警告


 北朝鮮は11日、米国が提出した
   制裁強化決議
が採択された場合は報復すると警告してきた。
 
 北朝鮮外務省の当局者が米国の元当局者とスイスで非公式に会談している戸の情報が流れ、両者が外交的解決を模索している兆しがある。
 
 
 フィナンシャル・タイムズ(英紙)は、中国の大手銀行が北朝鮮の新口座開設や既存口座への新たな預金を禁止し始めていると報じた。 


ひとこと

 自らの発言する言葉に酔っている感じにも見える。 
  

    
 

    
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陳朝(チャンちょう  Nhà Trần) ベトナムの王朝で国名は大越


陳朝(チャンちょう  Nhà Trần)

 現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝で国号は大越。
 首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)にあった。

 陳氏の祖先は福建、もしくは桂林からの移住民で、現在のナムディン省とタイビン省一帯を根拠地とした。
 一族は漁業と水運業で生計を立て、また、漁業と水運業の傍らで海賊業を行っていたとも言われている。

 前黎朝の将軍
   李公蘊(リ・コン・ウァン、李太祖)
が建国した李朝支配下のベトナムの北部地域では12世紀末より政権の腐敗が甚だしくなっており、天災による飢饉によって民衆は窮乏し、治安は悪化していた。

 飢えに苦しみ暴徒化した民衆の反乱が乂安(ゲアン)、清化(タインホア)、寧平(ニンビン)で起こった。

 各地の豪族の中にも政府に反逆する者が現れ1208年には
   乂安の反乱
を鎮圧するために招集した軍隊が昇龍で反乱を起こし皇帝・高宗ら李朝の王族は昇龍から放逐された。

 李朝は反乱の鎮圧に外戚の陳氏の力を借りた。

 1209年、陳氏の頭領
   陳李
は李朝の王族たちを保護するが翌年盗賊に討たれてしまった。
 代わって次男の
   陳嗣慶(チャン・トウ・カイン)
が主導権を握った陳氏は高宗を擁して昇龍に入城し、これ以降宮廷で陳氏の勢力が台頭した。

 乱を鎮圧していく中に陳李によって擁立された皇子
   李旵(恵宗)
が即位すると、陳李の娘・仲女を恵宗の妻に、恵宗の母である譚氏を太后として、陳氏と譚太后の共同統治が行われた。

 やがて陳氏と譚太后の間に権力をめぐる対立が起きるが、陳氏は恵宗の支持を得て、譚太后一派を追い落とした。
 宮廷内での地位を確立したのち、内乱の鎮圧にあたって陳嗣慶は兄の陳承(チャン・トウア)、従兄弟の陳守度(チャン・トゥー・ド)ら一族と連携して統治し、陳嗣慶が没した後は殿前指揮使の高位に就いていた陳守度が陳氏の中心人物となり政治を主導した。

 1224年に陳守度は7歳の王女である
   仏金(パット・キム、昭皇、昭聖皇后)
を皇帝に擁立した。

 仏金の父である恵宗を退位させたうえで寺院に隠棲させた。

 陳守度は8歳の甥
   陳煚(チャン・カイン、後の太宗)
を昭皇の遊び相手としたうえ、その後、陳煚と昭皇を結婚させた。

 1225年には昭皇から陳煚への譲位が行われ、陳煚を皇帝、陳煚の父である陳承を上皇とする陳氏の王朝が成立した。

 陳朝成立後には不用となった恵宗を隠棲先の寺で自害させた。

 さらに、陳守度は禍根を残さないよう
   李朝再興の芽
を摘むために恵宗の葬儀に集まった李朝の宗族を皆殺しにした。
 また、李朝の王女たちは生口同様の扱いで紅河デルタ周辺の部族勢力に嫁がせる措置を講じて、彼らとの修好を図った。

 太宗の治世の初期では陳守度が皇帝を補佐して王朝の基礎を固めた。
 また、李朝末期より発生していた反乱もほぼ鎮圧された。


 1237年に太宗は陳守度の進言によって、子の無い昭聖皇后に代えて、兄の陳柳の妻である順天を妊娠中にもかかわらず奪って妻とした。

 妻を奪われた陳柳は反乱を起こし、一時は太宗が安子山に隠遁する大事に至った。
 結局騒動は陳守度によって収拾され、太宗と陳守度との抗争に敗れた陳柳は安生王として紅河デルタの東端(現在のクアンニン省)に封じられた。

 太宗の親政が始まった1240年代より官、軍、法の各種制度の制定が実施された。

 1242年に国内を12の路に分けての行政区画と戸籍の整備が行われた。

 1248年には治水に携わる新たな官職として河堤使が設置され、総延長は200キロメートルにも及ぶ「水源から海に至る」と言われた鼎耳防と呼ばれる大堤防の建設令が出され、治水と交易ルートの安定確保が図られ経済が活発化し国力を増した。

 太宗の治世の末期である1257年から、雲南を占領したモンゴル軍によるベトナム侵攻が始まっている。

 1257年の末にモンゴルの軍人
   ウリヤンカダイ
の率いる軍隊が北方の国境地帯に突然現れ、太宗にモンゴルへの従属を求める使者を送った。

 3度送られたモンゴルの使者はいずれも太宗の命令で投獄された。
 ベトナムではモンゴルの侵入に備えて軍備が整えられた。

 同年末にに送り込んだ使者が帰還しないことに業を煮やしたウリヤンカダイの攻撃が開始された。

 モンゴル軍は紅河を渡河して昇龍を略奪したため、太宗は昇龍を放棄して陳守度と共に南方の天幕(ティエンマク、現在のハナム省ズイティエン)に遷都した。

 モンゴル軍が北方に引き返すと太宗は次子の陳晃(聖宗)に譲位し、使節をウリヤンカダイの軍隊に同行させてモンケの宮廷に派遣した。

 モンケの没後に
   クビライ
がハーンに即位して元朝が成立した。

 その後も、聖宗はモンゴルへの臣従政策を維持している。

 1262年に聖宗は元に一定額の金銀宝石、医薬品、象牙、犀角を3年に1度貢納すること(三年一貢)を約した。

 1267年に陳朝に
    国王自身の来朝
    人質として王子を差し出す
    戸籍簿の提出
    兵力の提供
    租税の納付
    元から派遣された代官(ダルガチ)の駐屯
など元朝が新たな要求が行われた。

 これは過大な貢物と国王の入朝が要求された反面、元朝の軍事作戦が成功すればその恩恵に与ることができるというアメが用意されていた。

 中央アジアなどのベトナム外の国家に課せられていたものと同じ内容であったが、陳朝は元朝からの要求に抵抗を示したため、興亡戦が起きた。

 
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国連による北朝鮮への制裁があっても北朝鮮産海産物を仕入れるルートがあるから大丈夫?



 中国遼寧省丹東市は、鴨緑江を挟んで北朝鮮と国境を接する都市だが
   国連安保理
の制裁決議で本来は輸入できないはずの
   北朝鮮産海産物
が大量に出回り、制裁が骨抜きになっているという。
 
 一方、核実験を受けた新たな制裁で焦点になっている北朝鮮向け原油の貯蔵所では、軍の兵士が厳戒態勢を敷いている。
 

 北朝鮮の大陸間弾道ミサイル(ICBM)発射に対する
   国連制裁
を履行するため、中国は8月15日から北朝鮮産海産物の輸入を停止したことにはなっている。
 
 この影響で、対北朝鮮国境の吉林省琿春市では、北朝鮮産の海産物を積んだトラックが中国側に通関を拒否され、立ち往生する騒ぎも起きたとのニュースも流れた。
 
 しかし、今月10日、丹東市内に点在する生鮮市場の一つをメディアが調査したところによると、40代の男性店員が「今も北朝鮮の貝とカニを売っている。この1週間で品薄になり値段が上がったので、制裁の影響は多少ある」と打ち明けたとのこと。
 
 商品は鴨緑江河口の町、東港から買い付けているという。
 また、このほかに少なくとも3店が、北朝鮮産の貝などを売っていることを認めた。

 また、同市内の土産物店では、1個ずつパックされた
   北朝鮮産冷凍ナマコ
が山積みで販売されていた。
 この店の女性店員の話では、約1カ月前に仕入れ、1個50元(約830円)で売る高級品とのこと。
 
 店員は1人で数十個も買う客がいる売れ筋商品であり、国連による制裁があっても仕入れるルートがあるから大丈夫と話したという。



ひとこと

 国連の経済制裁を受けても、北朝鮮の海産物が中国に輸入されており、まったく、効果がないという事例の一つだろう。
 大規模なモノは目立つため、中国公安当局の取り締まりの目につくが、目につかない部分や公安当局自体への賄賂などでも骨抜きになっているのかもしれない。


  
 

    
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1万8000冊余りの旅券盗難 不法入国を目的に利用


  ドイツメディアのビルト日曜版(Bild am Sonntag)は10日、ドイツ連邦警察と内務省の
   機密文書
によれば、捜査関係者らがまとめた未使用の旅券の番号、さらには発給機関の一覧が記されており、
   イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」
が1万1100冊もの未使用の
   シリア旅券(パスポート)
を保持しているとみていると報じた。
  
  
 この旅券はシリア国内で盗まれたもので
   個人情報
を記載して身分の偽装に利用される恐れがあるという。

 治安当局は、IS以外の武装勢力が保持している数千冊を含め、1万8000冊余りの旅券がシリア各地の政府関係機関から盗まれたと認識している。
 
 
 ドイツ連邦刑事庁(BKA)の報道官はビルト紙に対し、テロ組織は
   難民問題の進展
をドイツをはじめとする欧州各地に
   戦闘員や支持者
らを秘密裏に送りこむための好機と捉えていると述べている。

 ただ、この報道官によると偽造パスポートのほとんどは
   不法入国
を目的に利用されており、テロ攻撃を実行するというような動機はないとも指摘した。

 ビルト紙によると、昨年には8625冊のパスポートがドイツの移民当局により偽造と判断された。 


ひとこと

 システムで情報の紹介と突合が短時間で出来るようであれば五臓はしても利用は出来ない。
  

    

 


   
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2017年09月11日

ユリア・ドムナ(Julia Domna) カラカラ帝の母親


ユリア・ドムナ(Julia Domna 170年 - 217年)

 ローマ帝国のセウェルス朝の開祖である軍人皇帝
   セプティミウス・セウェルス
の妻でカラカラ、プブリウス・セプティミウス・ゲタの母親。

 セウェルス死後の皇帝家の陰の実力者として君臨した。
 
 ユリアの家系はシリア古来のものといわれており、エメサ(現在のホムス)にあった
   太陽神エル・ガバル(ヘリオガバルス)
の神職を代々預かっており、エメサの町も支配する祭祀王の家系だった。

 父親はエル・ガバルの神官
   ユリウス・バッシアヌス
で、姉にはユリア・マエサ、甥にはのちにローマ皇帝となるヘリオガバルスがいた。

 ガリア・ルグドゥネンシス属州総督だったセウェルスと180年代後半に結婚した。


 セウェルスはユリアの性格なども知らず、また、彼女の家系がどのようなものかも興味を持たず、ただ占星術で彼女が王になる人物と結婚するということを聞いてこの結婚を決めたという。
 ユリアは186年にはカラカラを、189年にはゲタを生んだ。
  

 193年にセウェルスはいち早くローマに入り、皇帝として認定されたがものの
   ペスケンニウス・ニゲル
   クロディウス・アルビヌス
などの敵対するライバルがおり、セウェルスは帝位を固めるためにこれらの敵を殲滅する必要があった。

 ローマに留まり夫の帰りを待つのが普通だった当時の女性とはユリアは違い、この一連の軍事行動を夫とともに同伴した。
 こうして皇帝である夫の陰での実力者となったユリアは絶対的な政治力を持つようになった。

 皇帝就任後もセウェルスは外征が多く、ローマで影響力を振るうユリアの存在を元老院には歓迎しなかった。

 そのため、ユリアはさしたる理由もなく
   不義・国家反逆罪の咎
で告発されたため、皇妃として政敵と対峙したものの、セウェルスは妻に対する態度を少しも変えることはなかった。
 

 211年に夫のセウェルスが没すると、ユリアは共同皇帝となった2人の息子・カラカラとゲタの調停者としての役割を担った。

 カラカラとゲタは仲が非常に悪く、絶えず何かしら対立していた。そして同年12月にカラカラはゲタを暗殺した。

 しかし、その後もユリアは息子カラカラ帝を支援し続けた。
 217年にパルティア遠征にカラカラとともに出征したが、この遠征中にカラカラはプラエフェクトゥス・プラエトリオ(近衛軍団長)であった側近の
   マクリヌス
によって暗殺され、ユリアも息子の後を追って自死した。




 

   
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武装組織「アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)」が一方的な停戦を宣言


 ミャンマーのイスラム系少数民族ロヒンギャの
   武装組織「アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)」
は10日、先月25日に西部ラカイン州でロヒンギャの武装集団が
   ミャンマーの治安施設
を襲撃したことで始まった戦闘について
   一方的な即時停戦を宣言
した。

 この停戦期間は10月9日までの1か月としているが、支援者からの援助が不足し始めている見られる武装集団は弾薬や兵士の補充を行い攻撃態勢を構築する狙いがあるのだろう。

 戦闘のあおりで、隣国バングラデシュには30万人近いロヒンギャの難民が流入した。
 ここ2週間コックスバザールには、服がぼろぼろで疲れ切った様子のロヒンギャの難民が相次いで到着している。


   
 
 
 また、ラカイン州内を移動しているロヒンギャ族の集団も数万人おり、大半は2週間以上安全な避難場所がなく、食料や水もない切羽詰まった状態とみられている。
 さらに、同州北部のARSAによる武力闘争で治安が極度に悪化し、無政府的な情勢悪化の拡大を受けて、2万7000人の仏教徒やヒンズー教徒も避難を余儀なくされている。

 ARSAはツイッター(Twitter)を用いて「攻撃の一時停止をここに宣言する」と投稿し、戦闘で破壊された地域に
   人道支援
が入れるようにするのが狙いだと説明した。

 また、「あらゆる人道支援活動の関係者」に、停戦期間中に「民族や宗教の背景に関係なく、人道危機の被害者全員に対する」支援の再開を促した。

 さらに、ミャンマー政府に向けて「この人道的停戦に応じるよう」呼び掛けた。
 当然のことだが、こうした事態を発生させたARSAの身勝手な発言に対するミャンマー軍の反応は今のところないという。

 支援集団の移動が起きたのだろう。
 ARSAが兵站線を維持できなくなった可能性が高く、戦闘で疲弊したため、攻撃態勢の立て直しを目論み兵士や弾薬、重火器の補充が必要となったのかもしれない。
 一般的には、何度かの交渉が前段階にあるため、人道主義的な対応という表面的な主張を掲げた可能性も背景にあるだろう。


   


 もともと、大英帝国がビルマ王朝を植民地化して手に入れる目論見から、ビルマ人の農地を強制的に接収したうえ、バングラディッシュからロヒンギャ族を投入して民族分断を目録んだものだ。

 当然、土地を追われたビルマ人の農民は飢えに苦しみ、反乱を起こしたが虐殺されたりし人口が激減していった。

 こうした恨みは子々孫々受け継がれているため、ある時点での判断で考えることは出来ない。


   



ひとこと
  
 旧日本軍は大英帝国との戦闘で軍事力を徹底的に破壊したことで日本の敗戦後、ビルマやインド、マレーシア、シンガポールなどでは西欧の植民地政策における鎮圧するための軍事力が低下し支配力が弱くなってしまい、独立戦争を勝ち抜くことが出来た。
 独立戦争では旧日本軍の軍人が加わったことで大きな成果が達成で来たともいわれる。

 ロヒンギャ族の問題は英国がこれまでにビルマから得た莫大な利益を吐きだして支援することが必要だろう。




  

    
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2017年09月10日

霍 去病(かく きょへい) 前漢の武帝時代の武将で大司馬大将軍


霍 去病(かく きょへい)
   紀元前140年 - 紀元前117年

 前漢の武帝時代の武将で、父は、霍仲孺である。
 異母弟は、大司馬大将軍になり、武帝後の政治を取り仕切った霍光がいる。
 
 前漢の武帝に仕えた武将である衛青の姉
   衛少児
の子になる。

 同じく衛青の姉であり、霍去病の伯母にあたる
   衛子夫
は武帝の皇后として戻太子を生んだため、親族にあたる霍去病も武帝の覚えが良く栄進した。
 また、漢王朝創立時からの功臣である陳平の玄孫の
   陳掌
は霍去病の母と密通して霍去病の義父となった。

 霍去病は騎射に優れており、18歳で衛青に従って匈奴征伐に赴いた。
 その後も何度も匈奴征伐に功績を挙げ、3万の首を上げたともいわれ、紀元前121年に
   驃騎将軍
に昇進した。さらに、紀元前119年には匈奴の本拠地を撃破し、衛青と並んで大司馬の地位を得た。

 こうした戦歴による大功と武帝の寵愛により権勢並ぶ物が無くなった霍去病も病には勝てずに紀元前117年、わずか24歳で病死した。

 霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事からよく比較されている。

 衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。

 その一方で、霍去病は物心付いた時には既に一族は皇帝の外戚であり、叔父の衛青が匈奴討伐に大功を上げていた。
 その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分たちは豪華な幕舎の下で宴会を開くような事をしていた。

 ただ、宮廷でも兵士の間でも、霍去病のほうが人気は上であった。

 衛青はへりくだりが度を過ぎていたため、媚を売るような所があったとされ将として信頼を寄せる者がすくなかった。
 なお、霍去病の傲慢も見方を変えれば
   頼もしい勇壮
と見られており、武帝も自身の性格に似ていた、積極果敢な霍去病をより好んでいたという。
  

 
 

     
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黎朝(レちょう Nhà Lê ) 黎桓(レ・ホアン)が建国した王朝


黎朝(レちょう Nhà Lê )

 ベトナム北部を支配した王朝(980年 - 1009年)で首都は華閭(ホアルウ、現在のニンビン省に位置する)にあった。
 15世紀に
   黎利
が建国した黎朝と区別して、前黎朝と呼ばれている。
 
 王朝の創始者である
   黎桓(レ・ホアン)
は、丁朝の建国者である
   丁部領(ディン・ボ・リン)
に仕え十道将軍として軍事を司っていた。

 丁部領が979年に亡くなった後、黎桓は摂政として国政を執る中で
   楊(ズォン)皇后
との仲が親密になり、敵対する勢力を討伐した。

 同年に呉権の子孫である
   呉日慶(ゴー・ニャッ・カイン)
が南部のチャンパ王国と同盟し、王位を要求して北ベトナムに侵入した。

 ここ侵攻にたいし黎桓は呉日慶を撃破した。

 丁部領の死を知った中国の宋は領土拡大のためベトナムへの出兵を決定した。
 なお、宋の攻撃を前にしてベトナムの将兵は黎桓を新たな君主に推した。
 楊皇后は子の
   丁璿
では王著具合字で気ないことを悟り、黎桓と再婚した。
 新たに黎桓が王位に就いた

 981年に
   白藤(バクダン)江の戦い
で黎桓の軍は海路から侵入した宋軍に勝利したうえ、諒山(ランソン)でも陸路から侵入した宋軍を破った。

 982年にはチャンパ王国に親征を行ってチャンパの首都インドラプラを攻略した。

 チャンパ王
   インドラヴァルマン4世
は都を放棄して、南方に逃れた。

 黎桓は983年に宋への朝貢を再開し、この時にチャンパ遠征の戦利品である乳香や犀角を納めた。

 黎桓の軍がチャンパから撤退した後、黎桓の配下である
   劉継宗(ルー・ケ・トン)
がチャンパに残って占城王を称した。

 南ベトナムにはインドラヴァルマン4世と劉継宗の政権が並立した。

 インドラヴァルマンは宋に助けを求めたため、宋は黎桓にチャンパへの侵入を禁じた。
 しかし、黎桓は宋の禁令には従わず、989年と992年の2度にわたってチャンパに侵入した。

 993年、黎桓は宋より交趾郡王に封じられた。

 1005年の黎桓の死後、各地に分配した王子たちが互いに領土を求めて争いを始めたことで国力は低下した。

 黎桓の第3子の
   黎龍鉞
が国王に即位したものの軍事力などの背景がなかったことなどもあり、わずか3日で廃位されている。

 代わって黎龍鉞を殺害した黎桓の第5子の
   黎龍鋌(レ・ロン・ディン)
が国王に即位した。

 黎龍鋌は残忍な性格でも知られており、罪人に過酷な刑罰を下すことを好んだという。

 黎龍鋌が没した後、1009年末に僧侶と廷臣の支持を受けた禁軍の指揮官
   李公蘊
が王位に就いた。


 
 

   
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